江城日誌・慶応4年15号

江城日誌 第十五号
慶応四戊辰年五月

五月三十日
○奥州出張長藩より届書之写
一、五月廿五日之戦状
前日より近辺賊兵屯集の由報知有之、地理研究巡邏旁三藩申合、二十人計宛、兵隊差出し、根田通り大田川ニ至り、敵兵百計屯集いたし居候ニ付、暫時ニ撃破り、村中焼払帰営す、三番隊は別に鹿島口より出、本沼口ニ向ふ、同所より五六町手前、叢樹の中ニ、敵兵五六十許潜伏いたし、不意ニ左右より撃出す、我兵直ちニ散開、当戦二時斗、敵兵追々繰出し、味方勿論巡邏之儀ニ付、二十人余而已にて突入、村中之賊を追払、村内賊屯集いたし居候民家焼払、鎗其外少々之武器分取帰営仕候、其節弊藩戦死一人、手負一人而已にて、賊兵手負死人十五六人ハ可有之、現ニ残し置候死骸五ツ御座候以上
戦死 北野武熊
手負 岡八十吉
一、同廿六日之戦状
五字三点頃、棚倉道、湯本道両道より賊兵襲来、此頃弊藩棚倉道、鹿島道両道を守る二番隊ハ棚倉口を守り、三番隊ハ鹿島口を守る、二番隊直様押出し棚倉口ニ戦ふ、同刻鹿島口へも敵兵二手ニ分れ襲来、三番隊是に当る、奥州道、金正寺道、原街道白坂へも両道より襲来る、八道共悉激戦、砲声地を轟し、万雷の急撃するが如し、此時棚倉口へも賊二タ手に分れ、一は本道より来り、一ハ大沼脇より来る、賊大砲三門を大沼脇ニ出し烈しく砲撃、我兵左手より大砲隊を目掛ケ、盛ニ進撃、薩二番隊、応援として右より出づ、賊支へ兼、大砲三門を置て走る、又進で小銃隊ニ当り激戦、終ニ一字三点頃賊兵遁走る、三番隊ハ、同刻より鹿島口の賊ニ当り、盛ニ奮戦、賊二大隊余来り、味方僅八九十人、衆寡不敵、余程苦戦ニ相成、二番隊ニ援兵を乞、此時二番隊も小勢を以大勢を引受、随分苦戦中の事故、差出す兵員無之、雖然実ニ苦戦ニ而、援兵を乞候事故、大炮隊を出し是を助く、十二字頃戦最烈しく、我兵最苦戦、此時幸ニ大雨降落、我兵本込銃ニ而、賊ハ口込、其外火縄銃抔の事故、銃多くは発せす我兵勢を得、盛ニ突入、賊兵追々浮足ニ相成、三字頃二番隊よりも少々兵具差出し、終ニ五字頃悉賊兵追払候、此時両道共、賊死人手負多人数可有之、弊藩即死一人、手負四人而已ニ御座候
即死 村田鹿之助
手負 草刈孫市
同 佐子九郎兵衛
同 吉井栄作
同 宮五郎
手負 夫卒 栄助
一、同廿七日之戦状
七字一点頃、棚倉口、鹿島口両道共賊兵襲来、二番隊ハ棚倉口ニ而当戦、三番隊ハ鹿島口ニ出、賊兵ニ当る、此時賊兵一大隊計二タ手ニ分れ襲来、土平一小隊余為応援来り戦ふ、十二字二三点頃賊兵を追払ふ、此日賊死人、手負等少々可有之、現ニ残し置候死骸三ツ、棚倉口へも一大隊計

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江城日誌15 明治文庫画像使用

襲来候得共暫時ニ追払候弊藩手負死人等無之候此日金正寺口一字頃より八字項迠頗る激戦薩土大垣当之
一同廿八日之戦状
六字四点頃棚倉鹿島両道共賊兵襲来此日棚倉口最烈しく前々日より連日之戦にて少々疲れ居本隊繰出すこと少く遅し斥候隊是に当
り頗る苦戦無間本隊操出し十一字二三点頃賊兵悉く追払ひ進で新合度村を焼賊死骸五ツを残し置き走る我兵帰営す一字頃又々敵兵

襲来暫時斥候隊を以て当之本隊操出し暫く戦ひ終ニ追払四字頃帰営す八字頃又々賊兵襲来本隊繰出し暫時ニ追払此日一昼夜にて棚倉口三戦いたし随分激戦鹿島口へも三度襲
来本隊三度繰出し戦争す棚倉口ニて比すれバ大ニ軽し
一忍藩二小隊弊藩兵隊同行初戦岩井以来幣藩人数同樣每戦出張戦争致し候
一同廿九日
夜十字頂斥候隊見張所へ賊兵少々突来り手

5お

負二人有之
手頁
矢野助七
佐々木正三郎
同晦日
夜中鹿島口見張所先へ少々賊兵来り篝火の番兵を襲ふ即時ニ追払ふ
六月朔日

前夜篝火の番兵を襲ひしを慍り三番隊二十人巡邏として根田村迠至る正ニ進んで泉田ニ至んとす賊往還左右ニ炮台を築き備へ居候

5う

斥候の者一両人を遣し候処賊小勢の様相見候故二十人申合せ進で炮台前ニ至り戦ふ賊不計大勢来り四方より迫る我兵頗る苦戦勿論
巡邏の事故正ニ引取んとする時薩土大垣の兵隊少々宛来り合せ又々替り合ひ戦候得
共賊兵大勢之事故引揚帰営仕候此日賊死人多分ニ有るべく弊藩死人一人手負二人ニ御座候
手負
山県省三
福島一松

6お

松田清蔵
右器械掛りの者故遅刻戦地ニ
出候処本隊と行違ひ決メ戦死
仕候哉今以帰営不仕候
手負 夫卒一人

一六月十二日之戦状
三字三点項棚倉口に当り一声の号炮を発す

勿論未明の事故斥候差出候処敵兵弥襲来の由報知す直様本隊繰り出す此項鹿島口ハ薩藩多勢の事故彼藩ニ譲り弊藩棚倉口一道を

6う

守る戦頗る烈しく須更ニして鹿島口奥州口金正寺口湯木口原口白坂合せて七道より賊大挙襲来棚倉口へハ賊二大隊余三手ニ分れ一ハ山上より一ハ本道一ハ大沼脇より来る
我兵忍潘申合せ五六手と分れ或ハ渓間或ハ
樵道或ハ本道或ハ叢樹の中を潜り一ハ前より炮撃し一ハ背面より炮撃す賊周章狼狽大炮
一門小銃十五六挺死骸八ツ手負一人を残し
置き敗走す我兵頻りニ勝たと呼び進で大炮
小銃を分取り手負一人を斬首し無疵の一賊

7お

を擒とし益進ミ戦ふ賊遁走恰も蜘子の散乱するが如し十二字四点凱陣す
手負 溝部千吉
右先月廿五日より今十二日迠之戦状御届上候
長藩
楢崎頼三
口羽兵部
梨羽戈吉
原田良八

太政官日誌・慶応4年65号

太政官日誌第六十五
慶応四年戊辰秋八月

【信濃川ヲ挟シデ烈戦ノ事】
八月廿三日三日月藩届書写
兵部卿宮御随従、越後表ヘ差出候対馬守人数七月廿三日与板ヘ着仕、同廿五日賊軍進撃仕付候ニ付、十二形村薩藩手ヘ応援可仕旨御達ニ付、夕方与板出立、夜五ッ時頃黒津渡場迄罷越候処、薩藩ヨリ十二形村引楊ケニ相成候間、不及進軍旨申来候ニ付、夜半過与板ヘ引取申候、同廿六日昼時川袋村台場相固メ候様御達ニ付、即刻同所ヘ罷出、同廿九日迄昼夜発砲守衛仕候、尤官軍長岡城御進撃ニ付テ、川向ノ賊塁モ動揺仕候ニ付、進撃ノ義相願候得共、台場固守仕候様、軍監 ヨリ厳敷御達ニ付守衛罷在候趣、八月朔日田尻村ヘ転陣仕候様御達ニ付、同六日迄同所滞在仕候、同七日足守藩同様、地蔵堂駅取締リ可致旨御達シ、同所ヘ罷越、御召捕人十人、両藩ヘ御預ケニ相成、同所巡邏守衛罷在候旨申越候間、此段投申上置候、以上
八月廿三日
森対馬守家来
平井代次郎

同日足守藩届書写
兵部卿宮様、越後表ヘ御出張ニ付、随従仕候備中守兵隊、同国柏崎迄罷越候処、三日月、小野、小松、弊藩共、与板表迄繰込候様被仰付、一同同所ヘ進軍、巡邏罷在候処、賊徒長岡ヨリ本与板辺ニ屯集、日々暴逆、既ニ七月廿四日早暁、長岡市中及放火、夫ヨリ戦争ニ相成、砲声無間断、一同奮激仕候処、同日午時過、与板ノ東中島ト申処ヘ、致進軍候様御差図ニ付、即刻繰出シ、信濃川ヲ隔テ滞陣罷在候処、同廿七日黄昏、越前隊ヨリ大砲打掛ケ申候処、賊ヨリモ大小砲打引出シ弊藩持場砲台ヘモ大小砲打込候ニ付、此方ヨリモ小銃数発打掛ケ及争戦候得共、何分夜中ノ事故賊死傷更ニ不分明、弊藩手負等無御座候得共、廿九日迄数度ノ戦争、兵隊大ニ労レ居候処、本月朔日午時、与板迄人数引揚、休戦候様御達ニ付、早速引揚候処、当中条ト申所ヘ進軍候様、御差図ニ付、未ノ刻過与板ヘ出兵黄昏川向ヒ中条ヘ到着、同所ニ一泊、翌 二一日暁川下西尾ト申処ヨリ乗船、笈ケ島ト申所ヘ進軍候様、御指図ニ付、卯ノ刻過十条出兵、漸ク昼過笈ケ島ヘ着、同所ニ宿陣罷在候様、御指差図ニ付、同村庄屋ニ滞在、同五日御中軍ヨリ御呼出ニ付罷出候処、去月廿九日長岡再度落城、賊大敗走仕、村上辺迄引退候趣ニ付御中軍事ヲ三条ヘ御移シニ相成候、然ル処ニ当所地蔵堂駅ノ儀者、賊徒ノ領地、殊ニ人心不居合ノ場所ニ有之候間、当地為鎮撫、暫時滞在、藩々ニテ生捕ニ相成候賊徒、当分御預ケ被仰付候間、厳重ニ相守リ居可申、尤御所置ノ儀ハ追テ御沙汰ノ節、取計候様、被仰付、直ニ同所ヘ繰込、生捕人受取、守衛罷在候処、昨七日三 条ヨリ御呼出シニテ、兼テ御預ケニ相成候両人ノ賊、致斬首候様被仰付、則取計申候
与板領走出村庄屋
松宮竜太郎
其方儀、平生村長ノ身ヲ以、観音寺村賊徒ニ組シ、官軍ニ抗シ、剰ヘ土人其外近傍諸民ヲ苦メ候、其罪始終言語同断、不届ノ至ニ候、仍仇テ処斬罪者也
辰八月七日

桑名 伊藤金八郎
其方儀、正月三日以来、数度抗官軍候始末其罪不可勝数候、実以不届ノ至ニ候、仍仇テ処厳科者也
辰八月七日
右之通相済、直様御中軍ヘ御届申上候段、地蔵堂駅出兵先ノ者ヨリ、本月八日付ニテ申越候ニ付、其侭不取敢奉申上候、以上
八月口廿三日
木下備中守家来
河原恰

同日高田藩届書写
弊藩竹田十左衛門持大黒村台場ヘ、去月廿四日黄昏ヨリ、賊徒烈敷発砲ニ付、相応シ大小砲打立、烈戦罷在候処、翌廿五日暁子刻頃ヨリ、賊兵長岡城近郷村々及放火、且城下ヘ討人、所々放火ノ上発砲、同所在陣ノ官軍苦戦、一ト先信濃川西南ヘ転陣ニ相成候ニ付、同日夕未刻頃本営ヨリ揚取之儀、達有之候得共、賊兵烈敷打掛ケ、揚取ノ機無之、弥奮戦候処、賊勢相弱候ニ付、一隊相纏メ、草生水村ヘ渡船、日暮関原ヘ揚取申候、同廿六日朝用達シニ付、大島村ヘ出張、同所川端ヘ砲台築立、遠撃罷在候、同廿七日数日ノ労兵ニ付、越前人数ト交代、新町村ヘ揚取、休息罷在候、同廿八日午後寺島村ヘ繰出シ候様達シ有之、同所ヘ出張、昼夜砲戦、同廿九日朝諸手長岡城ヘ進撃ノ旨達シ有之候ニ付、大島村ヨリ渡船、城下ヘ進入候処、賊徒敗潰散走ニ付宮下村迄及尾撃候処、浦瀬村辺ニ於テ御親兵並尾藩、長藩等烈戦中ノ趣、相聞ヘ候ニ付、直ニ同所ヘ繰込、倶ニ尽力及奮戦候処、賊等支不得、桂沢ノ方ヘ引退、聊聯守返シ発砲ニ及ト雖トモ、我兵弥激励進撃候処、終ニ亀ヶ崎ノ方ヘ散乱敗走イタシ候ニ付、尚一同追撃、同所放火ノ上、桂沢村ヘ揚取リ、本月朔日上田藩半小隊、十左衛門手半小隊繰出シ上田藩ハ浦瀬ヨリ山手ヘ登リ十左衛門隊ハ桂沢ヨリ相進ミ、所々探索、両手山上ニテ合兵候得共、賊既ニ遁走居合不申候ニ付、賊塁二ヶ所焼払、見附ヘ進軍、同所巡邏取締罷在候段申越候
一、榊原若狭隊ノ内、物頭安松勘四郎、原三郎兵衛、竹田十左衛門隊ノ内大砲一門、打方ノ者共、去月以来、桂沢、亀ヶ崎辺ヘ出張日夜遠撃砲戦罷在候処、七月廿五日暁、賊兵長岡ヘ進入ノ節、対陣ノ賊栃尾城山ノ方ニテ、狼煙三四度立ルヤ否哉、厳敷打掛リ、就中長州干城隊斥候台場ヘ賊兵多人数襲来候処、味方奮戦一時計リ、遂ニ賊徒散走ス、同廿六日辰刻頃、賊兵味方ノ裏ヲ取切ン為メ、栃久保村ヘ相迫候ニ付、長州干城隊、振武隊、大垣兵隊、弊藩大砲隊栃久保ノ賊ニ当リ、数刻及烈戦候得共、不利ニ付、一同桂峠ヘ楊取、此時賊兵烈敷尾撃ニ付、原三郎兵衛踏留リ、勇戦ニ及ヒ其場ヲ不去討死ス、安松勘四郎儀者、桂峠際ニテ守返シ、大垣勢ト一同防戦イタシ、諸手追々繰引、黄昏ノ頃半蔵金村迄揚取、同廿七日妙見迄繰引、同日小千谷迄揚取申候、同夜五ツ時頃高梨村ヘ繰込対陣、同廿九日大島村ヨリ渡船、長岡城ヘ進撃、本月朔日浄願寺村ヨリ森立峠ヘ繰押込、尚追々及進撃候旨申越候
一、榊原若狭儀者、去々月以来与板取口字峠山ニ張陣罷在候処、数日ノ労兵ニ付、会議所ヨリ達有之、七月十七日ヨリ与板城下ニ休兵罷在候処、同廿五日払暁同断達ニ付、原村台場ヘ出張、午刻頃大島台場ヘ転陣、同廿六日朝藤沢村ヘ移陣、同所台場固守、同廿九日長岡進撃ノ節、若狭及附属之兵隊、信濃川ヲ渡リ進入、落行ク賊ヲ尾撃シ、筒場村ニ至リ候処、賊兼テ設置候砲台ニ拠リ、稠ケ敷砲戦候ニ付、御親兵並若狭隊協力勇進及攻撃候得共、賊等尚巌ニ相支候ニ付、若狭儀衆ニ先立、賊塁間近ク奮進及指揮候処、味方弥勇進、賊勢大ニ相挫ケ遁走ノ色相見ヘ候折柄、賊兵頻発ノ弾丸、若狭臍傍打貫キ、卒ニ即死候ニ付、右手ノ戦士不堪憤怒、益激戦及追討候旨申越候、
一、若狭隊ノ内、番頭榊原左近、竹内造酒之丞、森三郎左衛門三手並大砲隊等、天神村台場
固守罷在候処、去月廿四日黄昏頃、俄ニ賊兵多勢襲来、発砲候ニ付、速ニ相応シ及烈戦候処、賊徒退散、同廿五日長岡城ヘ賊進入、官軍一旦引揚候ニ付、同廿六日寅ノ刻過、信濃川西ヘ揚取候上、尚又朝日村ヘ繰出シ、同廿九日黎明、隔岸賊塁ヘ烈敷及砲撃候処、賊追々敗潰ノ折柄、妙見山ノ官軍進撃ニ相成、長岡城下ヨリ敗走ノ賊等、向岸ヘ引退候ニ付、大小砲ヲ以烈敷及横撃候処、弥以致散乱候、此時長州干城隊ト万端示合、一同信濃川打渡リ、草生津口ヨリ進撃、賊兵ハ暫時ニ打崩シ、夫ヨリ右手ノ方、田畔ヨリ相進ミ、町家裏手ニ屯集ノ賊打破リ、直ニ進軍、長藩人数ニ続キ一ト先城内ニ乗入候上、尚又尾撃ノ処、福井村ニテ賊相支候ニ付、両藩半隊ツヽ分隊、同村裏手ヘ相廻リ及交爽撃候処、賊忽散走ニ付、弥尾撃ノ上、其夜福島村相固居、本月一日筒場村ヘ繰出、尚又見附宿迄繰詰罷在候段申越候
一、伊藤弥惣隊ハ、去々月以来与板表ニ在陣、同所台場ニ於テ日夜砲戦、小迫合ニ及ヒ居候処、去月廿四日夜、長岡表煙火トヒトシク、砲台間近ク賊等押来、厳敷打掛リ候得共、砲台ヲ厳備シ、烈戦ニ及候処、終ニ賊徒退散、其後廿九日迄日夜遠撃罷在候、同夜ニ至リ、我軍一同合図ヲ約シ、丑刻過一斉ニ大小砲烈敷打立候処、本月朔日朝賊兵陣屋ヲ自焼シ、窃ニ逃去候段申越候
一、村上主殿隊ノ儀、去々月以来出雲崎口山上ヘ繰上ケ、賊塁ニ対シ所々砲台ヲ設ケ、諸藩一、同日夜尽力砲戦罷在候処、去月廿六日藤巻、木ノ茅山台場ヨリ、賊巣ヘ烈敷砲撃、其勢ニ乗シ、弊藩銃卒五六人、賊塁ヘ攻登候処、賊等散走ニ付、追々進軍、島崎、山田辺マテ繰込候旨申越候、
右件々並討死、手負、生捕、分取等、別紙ノ通御座候趣、出先諸手ヨリ不取敢注進申越候間、此段御届可仕旨、在所表ヨリ申付越候、以上
八月廿三日
榊原式部大輔家来
柴田定右衛門
戦死
榊原若狭
榊原若狭隊物頭 原三郎兵衛
大砲方 田中金一郎
原三郎兵衛組足軽 堀田清吉
手負
深手揚取後死ス大砲方 津田文蔵
以下戦士死 竹内又四郎
長谷川文之介 河内金太郎
以下原三郎兵衛組足軽
江川大助 以下原三郎兵衛組足軽 川合仲蔵
牛木万作 竹内造酒之丞家来 竹下為三一郎
竹田十左衛門隊用人 小倉左市郎
大砲方 竹尾弥吉
深手揚取後戦死 伊藤弥惣隊徒目附 大谷吉蔵
銃隊足軽 清水左十郎
銃士 鈴木又七郎
即死
軍夫二人
分捕
榊原若狭隊戦士三人 中島清兵衛
賊兵一人 谷田旧太郎
山田忠太郎
右三人ニテ生捕之
米七十九俵
右同人手ニテ分捕、其余諸隊之内、分取品モ有之由ニ御座候、猶取調追テ御届可仕候
右之通御座候、以上
八月

太政官日誌・慶応4年64号

太政官日誌第六十四
慶応四年戊辰秋八月

【越後村上、石間陥ル】
八月廿二日越前藩届書写
先日越後表進撃之次第、不取敢御届仕候後、越前守先隊、与板口之諸隊五泉ト申所ヘ相会シ、夫ヨリ去ル十日、諸手津川口進撃ニ相成、弊藩本多門左衛門隊、笹原ト申所ヨリ馬下村ヘ相進ミ、佐取之賊ト烈敷及戦争候、翌十一日、小松村辺ニ相備候弊藩五番遊撃隊並大砲隊先陣ニ相進及奮戦、遂ニ賊塁ヲ乗取其節井原立二、一番ニ関門ヲ乗入候処、潜伏致居候賊徒、短兵ヲ以相向候ニ付、立二、永見数馬、中村禄禄三郎、梯彦之進等立合、賊両人討取リ首級引揚楊申候、馬下之方門左衛門隊モ其機ニ乗シ、速ニ進撃之処、賊徒烈敷相防候ニ付、同隊嚮導役柴山半蔵、敵中ヘ忍入、放火致シ候処、賊兵屯シ兼敗走、遂ニ佐取之要害ヲ乗取リ候、同時栃屋政之助隊ハ、敵之横合山上ヨリ砲撃致シ、阿賀川西之山ニ斥候ヲ兼相備居候、門左衛門分隊モ、同ク発砲応援致シ候趣、右遊撃隊猛進中、手負別紙之通ニ御座候、賊兵散々ニ敗走、石右間ト申所之関門内ヘ逃集候ニ付、尚軍議之上、別紙之通出張、追々進入之節ニ御座候由、且又出雲崎口之方ハ弥彦山ヲ打越シ進撃致シ、同十一日弊藩六番遊撃隊並堀十兵衛隊、岩舟ト申所ヘ相進、已ニ村上城ヘモ一番ニ乗入、黒川ト申所迄相進候由ニ御座候エヱ共、未タ委敷報告無御座候、右両口トモ討取、討捨、多分有之候、分捕モ相知レ候分、別紙之通御座候、右ハ今度越前守家来葛巻九馬罷帰、相達候概略、不取敢此段御届申上候、尚追々相分リ次第可申上候、以上
八月廿二日
松平越前守家来
永田儀平

赤坂口出張石間ノ敵ニ対ス 五番遊撃隊
同上 大砲隊
草水小松辺山上ヘ出張 栃屋政之介隊
馬下ヨリ川上山上ノ敵ニ対ス 本多門左衛門隊
五泉市中巡邏見張番 林藤五郎隊
沼越口大倉村ヨリ二里余山上ニ陣ヲ布
武曽権左衛門隊
五泉宿陣
本多与之輔隊
酒井孫四郎隊
但、興之輔手兵隊之内、二小隊ハ三条ニ罷在、西園寺殿御警衛並同所巡邏見張、残ル四小隊ハ五泉市中巡邏見張リ番
右之通御座候、以上

遊撃隊
深手 遊撃隊 高階幾次郎 戸田半蔵
三沢恒二郎
遊撃隊
手負 遊撃隊 樋口喜左衛門 永見数馬
井上剛二三郎
本多門左衛門隊
山本政右衛門
右之通御座候、以上
分捕覚
一、弓 一張 一、陣太鼓 二ツ
一、撃発銃 一挺 一、火縄筒 五挺
一、鎗 四筋 一、胴乱 二ツ
一、陣鍬 四挺 一、釜 <内圧内釜一ツ>三ツ
一、幕入箱 一ツ 一、大砲弾薬箱 八棹
一、長持 八棹 一、武力揮薬入 一ツ
一、筵包 六筒 一、大目篭 二荷
一、筵長持 四棹 一、筵葛篭 廿箇
一、米 三千俵余
内千俵余於出雲崎参謀中ヘ指出ス
右之外、味噌桶始メ雑物類、数多之事故、書載セ不申候、以上
越前守先隊ヨリ、出雲崎口本陣ヘ別紙之通御届ニ相成候間、家来粕谷外次郎罷帰相達候ニ付、此段御届申上候、且又同人報知ニハ已ニ葡萄ト申所迄進撃、羽州境ヘ押詰候、津川口ハ去ル十六日、石間之賊塁モ乗取候趣ニ御座候
八月廿二日
越前少将家来
永田儀平
昨十一日朝五字過.桃咲浜ヨリ致渡船、七字過岩舟駅迄致進軍候処、賊兵七十人計、明神橋詰、或山之手台場ヨリ、大小砲発放シ候ニ付、弊藩先手人数ニテ、暫時折合致進撃候処、賊兵悉ク敗走致シ候ニ付、直ニ斥候トシテ一小隊差出、村上城下ヘ相廻リ候処、賊兵二ノ丸ヲ自焼、庄内之方ヘ逃去候趣ニ付、直ニ村上ヲ乗取申候、此段不取敢御届申上候、右岩船、村上ニテ打留、生捕、別紙之通御座候、以上
八月
越前少将内
山県刑部
追而両分捕之儀ハ取調之上御達可仕候也
村上藩
討留 村上藩 青山豊松 兵卒一人
番頭
生捕 番頭 石田九蔵 平士 森田鎌蔵
平士 水野蒔時平 徒頭 渓野磯之丞
徒目付
降伏 松永文左衛門
足軽
生捕 中村勘九郎 中村新蔵
大滝源吾 上田末次郎
小池福太郎 佐藤定蔵手代 山崎専太夫
庄内藩
酒井庄太郎家来
以上

【御即位大礼ノ御事】
同廿三日御布告写二通
此度御即位之大礼、其式古礼ニ基キ、大旌始製作被為改、九等官ヲ以、是迄之参役ニ令並立、総テ大政之規模相立候様、被仰出候、中古ヨリ被為用候唐製之礼服、被止候事
八月
此度御即位御大礼之節、旧儀参役太政官九等之面々、一同紫宸殿階下ヨリ承明門内外ニ排列式ヲ以テ、奉拝宸儀候様、被仰出候事
但府県ハ、知事、判事、在京之者参朝可致、権官以下不及其儀事
一、衣帯之儀ハ、旧儀参役之面々束帯、太政官九等官之面々、有位ハ束帯、衣冠、単差貫無位ハ黄袍、衣冠着用之事
一、此度参役並太政官、当官ニ無之宮堂上、在京之諸侯為総詰参朝被仰出候事
但衣帯ハノ衣冠、差貫之事、尤無位之諸侯ハノ直垂着用之事
一、太政官等外之徴士、雇士並在京之中大夫、下大夫、上士等便宜便官之候所ヘ、相詰候様被仰出候事
但直垂着用之事
右之通ニ候間、旧儀参役並太政官当官排列之面々ハ、廿七日寅之刻参朝、其余之面々ハ卯之刻参朝被仰出候事
但重服者相除、軽服者ハ不苦事
八月

【耶蘇ノ徒教誨ノ事】
同日 御沙汰書写
各通
本願寺
東本願寺
各通
興正寺
仏光寺
専修寺
錦織寺
九州表、耶蘇之徒、教諭尽力致度願之趣、尤ニ候エ共、既ニ巨魁数人御取調之上、藩々ヘ御預相成、自余之輩、当分肥前藩ヘ屹度取締被仰付候間、於其宗旨教誨之儀、不被及御沙汰候事
八月

【上杉家来歎顧ノ事】
上杉駿河守
此度上杉弾正家来共、其藩ニ依頼候ニ付、歎願書取次、土藩ヲ以差出候処、元来於朝廷好生至仁之思召ニテ、干戈ヲ被為用候、御趣意無之ハ勿論ニ候処、去閏四月伊達陸奥、上杉弾正、添願書ヲ以会賊歎願書差出候ニ付テハ、容保儀、真実伏罪、奉仰天裁候エハ開城謹慎可罷居候処、厳ニ封境ヲ鎖シ、剰ヘ東北諸路ヲ掠奪シ、隣藩之居城ヘ人数ヲ分配シ、王師ニ抗衝シ其叛跡顕然ニ付、御許容可被為在道理更ニ無之、然ル処、陸奥、弾正等終ニ無窮之天恩ヲ忘失シ、祖先勤王之忠志ニ戻リ、逆賊ニ与党シ、近隣之小藩ヲ脅従シ、官軍ヲ拒ミ、地方之艱難ニ立至ラセ候エ共、尚海涵之 御主意ニテ、遠境偏土、情実不相通、国論一定セサル所ヨリ、方向ヲ誤リ居候儀モ可有之哉ト被為思食、爵禄如元被差置、重キ 御沙汰有之候エ共、爾後私ニ盟所約ヲ結ヒ、益狂暴ヲ逞シ候ニ付、終ニ不被為得止、先般位官被召揚、征伐被仰出候、尤恭順悔悟、実効相立候ハヽ、巨魁ト雖トモ必誅之思召ハ不被為在候処、悸戻盈貫、茲ニ到リ、最早典刑ニ於テ難被為捨置、前件被仰付候条、此段可申聞御沙汰候事
八月

【兵制一定ノ事】
同日諸府県ヘ御布告写
府県兵之規則、区々ニ相成候テハ、終ニ天下一般之御兵制モ難相立ニ付、於軍務官規則御一定相成、追テ可披仰出候条、其節速ニ改正可有之御沙汰候事
但府県ニ於テ、以来各々ニ規則相立、兵員取立候儀、被差止候事
八月

太政官日誌・慶応4年63号

太政官日誌第六十三
慶応四年戊辰秋八月

【天竜川普請ノ事】
八日廿二日浜松藩ヘ御達書写
井上河内守
天竜川水害普請ノ儀、其藩ヘ兼テ御委任被仰付置候得共、今般会計官権判事岡本健太郎営繕司役人召連令出張候間、万端申合不都合無之様可致旨、御沙汰候事

【外国人雇人ノ事】
外国人私ニ雇人ノ儀、兼テ御政体書ニモ被止置候ニ付、諸藩ニ於テ勝手ニ雇入人不相成儀ハ勿論ニ候、就テハ以来相雇度向ハ、願出ノ上外国官ヨリ差図可致候間、此旨可相心得事


【官位拝受被仰出】
各通
肥前前中将
同侍従
先般官位任叙宣下ノ処、暫御猶予出願罷在候得トモ、今度更ニ思食有之、拝受可致旨
被仰出候事

【五家ヘ御賜暇ノ事】
松平讃岐守
其方儀、是迄滞京罷在候処、今度御暇被賜候条帰邑致候上、先達而御誓約被為在候御趣意ヲ奉体認、家政向改正ハ勿論、未タ東北平定ニモ不立至候ニ付、愈以兵備ヲ厳ニシ在所表ニ於テ、御指揮可奉待旨御沙汰候事
右之通、小笠原中務大輔、酒井左京亮、内藤備後守、本庄伯耆守四家ヘモ被仰出

【越後長岡ノ賊軍優勢】
同日富山藩届書写
去月廿四日、弊藩持場福島村於台場及砲発、斥候差出固守罷在候処、翌廿五日暁八ッ時頃亀貝村宮下辺ニ当リ、鬨ノ声相聞、敵味方見極兼、斥候差出候得共、賊候多人数、不容易拳動相見得候ニ付、銃砲打立、大ニ進撃、尽紛骨候得共、両面ニ敵ヲ受、甚苦戦ニ陥リ、其内賊徒ヨリ亀貝村等之村落ニ火ヲ放チ、直ニ長岡城下一円ノ兵火ト相成、賊勢益熾、弊藩兵隊弾薬糧食等差支、兵士モ疲労シ終ニ難支ニ付、同夜不得已宮本駅ヘ引揚申候、其節手負、、姓名、左ノ通リ
深疵 松浦喜四郎
右等ノ趣御届申上候、以上
八月
前田稠松内
村井外守
奥羽征討越後口
御総督府
去月廿五日辰刻、前原村辺ヘ賊徒襲来候ニ付兼テ与板稲荷祠内ニ構置候弊藩大砲、参謀衆ノ指揮ニ任セ、直ニ繰出候処、賊徒五六十人計、已ニ原村ヘ乗入、固守ノ尾藩、松代藩ニテ及拒戦候得共、賊徒未致退散候故、大砲連発、奮戦ニ及ヒ候処、賊軍大ニ潰崩敗退イタシ候、依之大砲引取、稲荷祠内ニ固守罷在申候、此段御届申上候、以上
八月
前田稠松内
村井外守
奥羽征討越後口
御総督府

【長岡浪士斬棄ノ事】

長岡浪士 山本四兵衛
同大工 坂田与三八
右兼テ御預之処、去月廿五九日暁、長岡表引揚之節斬捨置申候
長岡浪士
平林貞治
右去月廿五日暁戦争之砌、斥候之者福島村持場辺ニ於テ、召捕候ニ付、糾問仕候処、栃尾町辺中ノ坊ノ荘屋、亀貝村ノ荘屋、長岡神田町作右衛門、四ノ町、五ノ町ニテ、両人賊徒共ヘ及内通居候由、申聞候、其余取留候儀ハ無之候、其内引揚ニ相成、無拠其場ニテ斬捨置申候、尤所持ノ品、左ニ申上候
大小 一腰 扁子 一本
蓑 一ッ
右之趣御届申上候、以上
八月
前田稠松内
村井外守

【信濃川近傍ノ戦】
浦村ヘ出張ノ弊藩兵隊、去月廿八日岩野村ヘ繰出シ、高梨等河辺ヘ見張差出、固守罷在候処、翌廿九日暁六ツ時、信濃川向六日市村辺ニ、賊徒襲来之体有之、参謀衆ノ指揮ニ任セ浦村本陣ヘ繰込、直ニ川流ヲ横絶イタシ、摂待村辺ヘ繰出、野崎村曁近傍之諸村落ヘ致放火、烈ク及掃撃、音吉村迄賊徒追伐仕、曲リ
方村祠内ヘ固守罷在、夫ヨリ亀貝村ヘ繰出、下条村ヨリ繰込、牧下村ヘ引取申候、右等ノ趣、御届申上候、以上
八月
前田稠松内
村井外守
奥羽征討越後口
御総督府

【越後城山ノ戦】
元与板於城山、薩長両藩ト相与ミシ、台場固守罷在候弊藩半小隊、相図次第各持口ニ於テ連発可及進戦旨、去月廿九日丑刻頃、参謀衆ヨリ申談有之、無程相図ニ任セ、諸隊烈ク及砲戦候処、賊徒ヨリ城山ノ台場ヘ向ケ、別而厳敷致発砲候ニ付、大ニ奮激連発及砲戦候、翌朔日天明ニ至リ、賊徒ノ砲声甚疎ニ相成、潰散ノ色相見得候ニ付、弊藩嚮導等薩長両藩ノ兵隊ニ与ミシ、根小屋村岩方辺迄及進撃候、賊徒地蔵堂ノ方ヘ致敗走候、尾州等諸藩ノ兵隊繰込候ニ付、申刻頃弊藩隊城山ノ台場ヘ引取、固守罷在候、此段御届申上候、以上
八月
前田稠松内
村井外守
奥羽御討越後口
御総督府

去月五日夜、元与板ヨリ原村ヘ台場持替之節大砲運転為指揮罷越候処、賊徒ヨリ及発砲候ニ付、直ニ応砲打立及拒戦、賊徒忽致退散候其節手負仕候
隊長金岡湊
夫卒一人
同月六日暁、原村持場見廻ノ節、賊徒ヨリ不意ニ及発砲、手負仕候
使役 藤堂庄介
同月十八日、元与板持場辺斥候ニ罷越候途中賊徒ヨリ不意ニ発砲、手負仕候
戦士 広田調十郎
弊藩持場福島村一ッ屋台場固守罷在候処、去月廿三日夜五ツ時頃、賊徒ヨリ発砲、手負仕候
戦士 宇野津半次郎
元与板於持場、去月廿五日賊徒ヨリ発砲、深手負仕候
戦士 島田調四郎
右等ノ趣、御届申上候、以上
八月
前田稠松内
村井外守

【富山藩各隊ノ配備】

三番隊
是迄李崎固守之処、当朔日ヨリ半隊ハ今町巡邏、又半隊ハ萩ノ村、牧ノ山村辺斥候罷在候
六番隊
是迄半隊ハ与板町稲荷社内固守、又半隊ハ与板城山ノ台場固守罷在候処、当朔日ヨリ一組ニ詰込、与板市中巡邏罷在候
四番隊
五番隊
去月廿八日浦村ヘ出張、岩ノ村ヘ繰出、翌廿九日信濃川向ヘ打越、セツタイ村辺ヨリ野崎村、音吉村迄追伐、曲リ方村ヨリ亀貝村ヘ繰出、下条村ヨリ牧下村ヘ引取、一ト先休兵当二日ヨリ大島村ニ屯集罷在候
右ノ通転陣仕候旨、戦地ヨリ申越候、其後転陣ノ儀ハ、追テ可申上候、此役御届申上候、以上
八月廿二日
前田稠松内
高沢覚馬
別紙ノ通、越後口御総督府ヘ御届申上候旨、申付越候、此段御届申上候、以上

【仁賀保氏白米献納ノ事】
仁賀保氏ヨリ届書写 <追録>
口上
此度庄庁内御征討ニ付、段々官軍御繰出ニ相成候故、出兵御奉公モ仕度奉存候得共、小家ノ事故、迚モ一隊ノ人数繰出シト申事ニモ及兼、如何共微力残念ノ至ニ奉存候、依之兼テ備置候三斗入白米千俵御出兵ノ官軍兵ヘ於在所表奉献納度、聊聯微忠ヲ表申度奉存候、何卒願ノ通被仰付被下度奉存候、此旨宜敷御沙汰被成下候様奉願候、以上
七月
仁賀保孫九郎
仁賀保兵庫
右御附紙ニ
願之通被聞届候間、差図次第可差出事

仁賀保孫九郎
仁賀保兵庫
其方共儀、方今奥羽列藩、名分大義ヲ失シ大藩ノ暴威ニ随従致盟約、更ニ方嚮 ヲモ不定抱二心、紛紜ノ折柄、断然勤王ノ忠志ヲ貫キ、不顧微領出兵先鋒、且献米迄モ願出、別テ奇特ノ至ニ候、就テハ微領ノ儀ニ付、出兵人数ノ儀ハ、一ート先引揚、領内尚厳重ニ相守候様、申付候事
七月十五日
奥羽鎮撫
総督府御印

太政官日誌・慶応4年62号

太政官日誌第六十二
慶応四年戊辰秋八月

【長崎風俗革易ノ事】
八月廿日 御沙汰書写
沢右衛門佐
長崎府之儀ハ御一新後御取立相成候エヘ共、従来旧幕府之筋ヨリ開出港地ト相成、人民相聚リ、一都会ヲモ為シ来候所柄ニ付、積習弊風モ不鮮、人民困窮之次第モ有之趣、自今府藩県一定之御政治相立候上ハ、風俗革易、窮民救助之筋相運ヒ、殊ニ外国交際之場所ニ付、愈以御趣意貫徹致候様、勉励可有之旨御沙汰候事
八月

【戦地ヘ洋医御差遣ノ事】
同日諸道官軍総督ヘ御沙汰書写
諸道官軍暴露ヲ不厭、失矢石ヲ冒シ、奮戦勇闘、追々奏捷効候段叡感不斜候、就テハ往々癘気ニ感シ、創傷ヲ被リ、相悩候者モ可有之ト深ク不便ニ被思召、今般洋医御雇、可被差遣候間、右病気等篤ト治療相加ヘ、精々調護行届候様、可取計御沙汰候事
八月

【公議人、公用人ノ事】
同日御布告写
過日被抑出候、公務人之儀、今般御改ニ相成、公議人ト相唱ヘ、其職ハ即議員ニシテ朝命ヲ奉承シ、藩情ヲ達スルコトヲ旨トス、更ニ公用人ヲ相設、従前留守居役之職務ヲ掌リ居候様可致旨、被仰出候事
八月

【讃岐藩兵東京ヘ出張ノ事】
同日御沙汰書写
松平讃岐守
其藩兵隊五百人、早々東京ヘ出張被仰付候事
八月

【奥州平城自焼ノ事】
同日薩摩藩届書写
江戸表ヨリ奥州平潟ヘ海路相廻候兵隊、先月七日致着岸候処、同国七本松ヘ賊徒台場ヲ築キ、致屯集候ニ付、同十日小名浜ヨリ兵隊繰出、正面又ハ後山手ヘ分隊、或ハ間道ヲ経、三方ヨリ致攻撃候処、賊徒同所左右之山半腹三ヶ所ノ台場ヨリ手繁ク致砲発候ヘ共、前後ノ攻撃ニ難守得、引色ニ相成候処ヲ益進撃イタシ候処、散々ニ致敗走候ニ付、四ヶ所ノ台場都テ取壊、兵隊引揚申候、其時弊藩宮地源太郎手負仕、戦死無御座候、打取候賊七人其余打捨有之候ヘ共、山中之事故死体取調出来兼申候、左候テ、同十三日岩城平攻撃之儀、各藩一同相決、弊藩大砲隊半隊、小銃三小隊十二日十二字頃ヨリ小名浜繰出、致進薄磯、沼之内境ヘ賊徒台場ヲ築居候ニ付、砲発致攻撃候処、賊徒散々ニ敗走、下高久村迄追討、打取一人、暮時分兵隊引揚、沼之内ヘ宿陣致シ申候
同十三日、下高久村宿陣之弊藩三小隊半、晩五字頃同所繰出、進軍致シ候処、下高久村又ハ中山村ヘ賊徒台場ヲ築キ致砲発候ニ付、手配ヲ以テ致攻撃、暫時ノ間ニ両所ノ台場乗取、賊徒悉追払、打取二人有之、直ニ進軍、八字頃平城ヘ押寄セ、且小名浜滞陣之弊藩五小隊ハ同日暁三字過ヨリ、同所繰出、空地山口進軍、クジ山ヘ屯集之賊徒、悉追払、打取二人、八字頃平城ヘ押寄、各藩モ同様、諸口大小砲ヲ以テ致攻撃、外郭ハ無難攻敗候エ共、城中ヨリモ厳敷防戦イタシ候ニ付、容易ニ難攻抜、夕五字頃ヨリ官軍一同、弥猛烈砲発致攻撃候得共、更ニ相弱リ候体モ無之、
且味方暁ヨリ、終日之戦ニテ、相労候間、諸隊先引揚候様命令有之候得共、今引揚候テ、敵又備ヲ立替候テハ、是迄攻詰侯功労皆水泡ト可相成候間、此機ヲ不失可攻抜ト致決策、各藩同意ニテ益烈敷攻詰候処、七字頃ヨリ城中砲撃モ漸々絶々ニ相成、当夜十二字頃自焼、終ニ及落城申候、翌十四日、平城涯ニテ相斃候賊徒、死骸取調候処、四十二人有之、各藩同様攻撃之事ニテ誰之手ニ打留候儀不相分、其他諸藩之掛口固場先ニテ打留候モ有之候エ共、右ハ其藩々ヨリ御届可申上儀ト奉存候
一、生捕六人
一、城内ヘ乗入候処、諸所ヘ死骸ヲ埋候跡有之候エ共、首級細詳取調出来兼申候
戦死手負並分捕
半隊長
戦死 末弘武輔
小隊長
深手 樺山十兵衛
戦兵 税所雄之助 永田彦兵衛
種子島吉兵衛 竹内筍七
松清喜之助 末野角二
末野正之助 末野男蔵
末野仲吾
監軍 半隊長
浅手 監軍 池田次左衛門
半隊長 志々目弥平次
小頭 土持直五郎 東藤太八衛門
戦兵 本多休助 床次勇四郎
江川覚兵衛 東郷勇助
有馬春斎 中村九之丞
志々目藤兵衛 瀬尾助五郎
財部与八 北郷作兵衛
肥田藤吉 岩崎静一
長井守介 今井四郎兵衛
肝付英助 従卒小助
一、大砲 一挺 一、火薬箪笥 拾五荷
一、銃丸 六箱 一、土蔵 但米蔵 五軒
一、四斤半砲 一挺 一、百目位車砲 一挺
一、携臼砲 二挺 一、小銃 拾五挺
一、水蔵 二軒
但一軒六拾五俵入
一軒四俵、其外糖俵数不相分
右之通、奥州岩城平出陣、島津伊勢、島津左衛門ヨリ申越候ニ付、此段不取敢御届申上候、以上
八月廿日
薩摩少将内
新納喜藤二

【越後椎谷、妙見附近ノ戦】
長府藩届書写<追録>
一、五月八日、椎谷家老ヨリ致内通候趣、有之候ニ付、暁官軍椎谷ヘ進撃、弊藩二番、四番小隊、賊兵二十余人討取、其他死傷不知数、薩長死傷一人モ無之官軍大ニ得勝利申候
一、同九日、小千谷、妙法寺両所ニテ戦闘、遂ニ両所ヲ乗取、尾州兵ハ信濃川ヲ渡リ、陣ヲ取申候
一、同十一日、大雨、信濃川満溢、賊兵尾兵ヲ襲撃、苦戦ノ体ニ付、薩長渡川救援ス、弊藩一番、三番小隊引続渡川戦争、妙見、榎峠ハ至テ険岨ノ地ニテ、官軍苦戦、是ヨリ昼夜ノ別チナク奮戦仕候
一、同十三日、長兵間道ヨリ進、余程激戦仕、死傷頗多御座候
一、同十四日、海岸進撃ノ官軍、石地ニテ大戦争、殊ニ得勝利、賊兵出雲崎ヘ引退、官軍続テ進撃、賊不戦シテ逃去申候、是日弊藩兵隊死傷左ノ通
二番小隊
死 所光蔵 傷 富田幾太郎
四番小隊
死 平尾磯之助 長岡勘助
傷 小群伊三郎 中川清吉
一、同十五日、夕刻迄ハ、妙見山ニテ、頻ニ戦争勝敗未決、尤 官軍台場二ヶ所乗取、賊兵会津、長岡、桑名、水府浪士、旧幕府出兵組、必死防戦仕、官軍モ余程苦戦、隊中死傷ノ者有之候得共、何分激戦付テ委細相分不申候、
右之段 、北越出先ノ者ヨリ遂注進候間、其侭不取敢御届申上候、猶委細ノ儀ハ取調、追テ可申上候、以上
六月十五日
毛利宗五郎内
時田少輔
【越後長岡城陥ル】
小浜藩届書写<追録>
去月廿六日、出雲崎御中軍府ヨリ、剣ケ峰、薬師嶺両所ヘ指出置候弊藩二小隊、長岡口応援トシテ出張可仕旨御達ニ付、同日亥刻頃関原宿ヘ着陣、西園国寺殿御本営ヘ御届仕候処、大島村ヘ繰出可申旨御達ニ付、同廿七日寅刻同村着陣、無間信濃川岸松代藩是迄之固場ヘ出張、交代可仕旨御指揮ニ付、同所堡塁持守仕候処、敵陣ヨリ頻リニ発砲ニ付、川ヲ隔テ銃戦ニ及ヒ、同日未刻剣ケ峰ヨリ繰出候人数モ着陣、同所川上元大島ト申処ヘ出張、銃戦仕居候、同廿九日早天、尚亦砲戦中討死等有之候処、長岡城進撃依御達、同所堡塁守衛兵隊川上ヲ渡リ、河原ニテ烈敷砲戦、草生津村ヘ進軍、益砲戦仕候内、川下塁守衛之兵隊モ渡リ、合併追々進撃、遂ニ長岡大手口ヘ攻入候処、賊兵散乱、已ニ本丸ハノ放火々勢盛ニ付、二之丸ヘ第三番乗入、別紙之通分取仕、本月朔日依御達城内引払、盛立峠ヘ押出、高田藩ト合守罷在候
去月廿一日ヨリ、乙茂口諏訪山台場ヘ弊藩兵隊出張後、日夜馬草山之敵ト対陣、砲戦罷在候内、兵隊二人手負有之、且賊砦間遠ニテ華々敷戦争モ無之処、本月朔日早天ニ至リ敵砦之後手ヨリ官軍進撃、賊兵動揺仕候旨、斥候共ヨリ注進ニ付、加越両藩並弊藩軍議シ持場ヘハ小人数残置、敵砦ヘ進撃仕候処、賊何地ヘ歟敗走ニ付、島崎村一泊、翌二日三藩共弥彦宿迄進軍仕候処、依御達同所巡邏、同三日寺泊ヘ転陣、要地ニ斥候等設置、守衛仕宿中巡邏等昼夜相勤罷在候旨、報知御座候、委細之儀ハ取調可申上候エ共、不取敢出雲崎御中軍ヘ御届申上候段、出先之者ヨリ申来候間御届可仕様、若狭守ヨリ申付越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十六日
酒井若狭守家来
藤井清二

太政官日誌・慶応4年61号

太政官日誌第六十一
慶応四年戊辰秋八月

【奥州庄内地官軍苦戦ノ事】
八月十九日久保田藩届書写
今般弊藩初岡敬治、遠藤弥生ト申者、当月十一日秋田土崎湊出帆、同十六日越前敦賀表ヘ着船、同処ヨリ上陸、昨十八日此表ヘ参着仕候処、国許戦争之大旨、兼テ御布告之旨モ有之候ニ付、直ニ同人罷出奉申上候通、仙米会庄之賊軍、逐々相増、頻ニ新手ヲ入替、攻撃仕候ニ付、院内口、新屋口共官軍並弊藩人数モ防戦手ヲ尽シ候得共、何分軍勢モ無之、無拠段々繰引ニ相成、既ニ院内境口ヨリ、領内湯沢ト申処迄賊軍進入、横手ト申処ニテ防戦仕居、又新屋口モ庄内領三崎峠、観音森等之難処モ相越、女鹿ト申処迄討入候得共是亦賊勢頗数多ニ相成候、抑先月十三日頃ヨリ院内新屋、双方共数度之戦争、屡苦戦ニ相成、沢三位様ニハ院内口ヘ御出馬、中将儀モ最初院内ヘ出馬途中迄罷出候処、新屋口モ難戦之趣、報知有之候ニ付引戻シ、新川ト申処迄出陣、自身軍配尽力指揮仕、素ヨリ一国挙拳テ防戦、且分家播摩守人数モ一小隊並大砲三門、引績出兵仕候ヘ共、賊軍次第ニ多勢ニ相成、同処ハ小川一筋有之候而己ニテ、平場ノ防禦故、益苦戦相及候間、急速御援兵御指下被成下候様、精々可奉願上旨申付越候、尚御三卿様南部ヨリ領内ヘ御転陣之御届書、其外出兵人数調、新屋口戦争之大略並手負、打死書共、都合別紙五通指越候ニ付、其侭御届奉申上候、乍併右ハ七月十六日迄之戦争ニテ、其後之合戦、打死手負等不少有之候趣ニ御座候エへ共、混雑中且切迫之形勢ニ立至、何分未調行届兼、追々申越次第、即御届可奉申上候エヘ共、至急之報告宜御亮察、速ニ大兵御指向被成下候様、偏ニ奉懇願候、以上
八月十九日
秋田中将家来
村瀬清
別紙
九条左府様、沢三位様、醍醐少将様、国許ヘ追々御転陣ニ被為成、七月朔日、久保田ヘ御纏ニ相成、同処学問所御本陣ニテ、当時被遊御在陣候故、此段可奉申上旨申越候間、御届申上候、以上
八月十九日
秋田中将内
村浦清
新屋口ヨリ
一手二小隊 遊軍頭 荒川久太郎
一手三小隊 同 佐藤日向
右ハ七月六日出兵
一手上下都合千二百八十四人
軍将 渋江内膳
一手上下都合二百七十一人
番頭 小野崎三郎
右ハ七月七日出兵 但シ大砲六門附
田代口ヨリ
一手上下都合五百九人
軍将 古内左惣治
一手上下都合二百九人
番頭 渋江武之助
右ハ七月七日出兵 但シ大砲壱門付
大沢口ヨリ
一手上下都合千四十九人
軍将 梅津小太郎
一手上下都合二百七十人
番頭 中安泰治
右ハ七月七日出兵 但シ大砲壱門附
北ノ目口ヨリ
一手上下都合百五十人
番頭 茂木秀之助
右ハ七月八日出兵
新屋口ヨリ
一手上下都合二百七十人
番頭 梅津千代吉
右ハ七月十六日出兵
右之通出兵仕候趣、申越候間、此段御届申上候、以上
八月十九日
秋田中将家来
村瀬清
手負注文、付討死事
薄手 岩谷鉄太 近藤武次
八代保吉 愛沢留治
飯村熊太郎 京野庫
安藤茂助 尽 昼間五郎
遠山松冶 中谷留治
茂内良吉 足軽 重右衛門
小人
寅三郎
三崎口ニテ
討死 豊間源之進 小人 佐藤喜三郎
女鹿ニテ
討死 関根甚八 芹田佐太郎
安達清太 高崎勝之進
右十九人也
未タ行衛不知
茂文季治

東京在勤官員
○鎮将府
鎮将 三条右大臣
○議政局
議定 阿波中納言
准議定 長岡左京亮
参与 大久保一蔵歳
史官 海江田彦之丞
同試補 塩谷甲介
雇士 蒲生精庵
筆生 石井左兵衛少尉
吉成忠作
○行政局
弁事
万里小路左少弁
清岡五位
新田三郎
権弁事 城内取締 山田一郎左衛門
伝達 岡田雄次大郎
社寺 北川亥之助
陸原慎太郎
諸侯 県勇記
住江甚兵衛
同試補 城内取締 平川和太郎
伝達 増野文蔵
史官 犬飼司馬太郎
同試補 南部静太郎
雇士 川上達三
記録調役 立岩甚五郎
浜村蔵六
官掌 遅美清介
尾方力之進
天野嘉左衛門
永田条之助
雇士 月形七郎
同 山内俊郎
筆生 鵜飼義雄
山下太一郎
家永又八
佃廉蔵
森本久吉
永田新次郎
村尾辺
兼弘安之助
○会計局
知事
判事 長谷川二右衛門
江藤新平
民政 島団右衛門
権判事 同 横川源蔵
同試補 肝付千早
○軍務局
○東京府
知府事 烏丸宰相
判府事 土方大一郎
西尾遠江介
権判府事 片桐省介

【二条家参内ヲ被免】
八月廿日御沙汰書写
二条前左大臣
在職中曖昧之処置、失政不少、屹度御沙汰ニ可被及之処、大政御一新、且先達テ御元服大礼被為行、旁格別之叡旨ヲ以、自今参内被免候事
八月

【箱館米穀欠乏ノ事】
加賀宰相中将
箱館府之儀、東北残賊末及鎮定、道路梗塞、米穀欠乏ノ趣ニ付、其藩ニテ穀物手繰致シ、早急運輸候様、被仰付候事
但代物之儀ハ、追テ御下渡可相成候間、穀数早々取調、可伺出事
八月

太政官日誌・慶応4年70号

太政官日誌第七十
慶応四年戊辰秋八月

【御東幸ニ付薩長土ヘ御沙汰】
八月二十八日御沙汰書写二通
長門宰相
薩摩少将
御東幸御留主中、機務商議之節、時トシテ大政ニ参シ候様、被仰出候事
八月

土佐中納言
東京行幸供奉被仰付、御用筋有之候間、海路先着候様御沙汰候事
八月

【越後赤間ノ戦】
同日芸州人言上書写
越後蒲原郡赤間ノ東エ、米沢ノ賊、大勢屯集候ニ付、八月十三日夜半頃、官軍進撃之途中賊卜大戦ニ及候、賊モ同夜同刻進撃ノ由ナリ、官軍ヨリ何州ノ兵ソト問フ、賊詐リテ或加州、或高田ト答フ、合詞ヲ掛ケ候処、賊応スルコト不能シテ直ニ戦フ、戦地一筋道ニテ五人宛計ノ戦ニテ、其余ハ戦フアタハズ、暗夜頻ニ発砲、死傷亦多シ、官軍本陣エ賊ヨリ放火ノ策アルヲ知リ、官軍尽ク山ニ登リ、本陣ヲ守ル、果シテ賊四人ヲ獲タリ、官兵又進テ大ニ戦フ、賊軍大ニ敗走スト云
芸州木本群介、越後戦争届書持参之節、去ル十三日ノ戦争、見聞ノ侭口上ニテ述フ
八月二十八日
軍防官

【奥州守山、須賀川ノ戦】
同日守山藩届書写
弊藩守山陣屋之儀者、兼テ申上置候通、奥羽列藩ヨリ不一方疑惑ヲ受ケ、種々難事ヲ申掛ケラレ候ヘ共、兼々心掛ケ居候勤王一途相貫度罷在候処、去月二十五日官兵追々三春表エ御進ニ相成候ニ付、兼テ御指図御座候通直ニ同所ヘ重臣出頭、参謀衆エ御打合セ仕、同二十七日柳河、大村両藩人数守山表ヘ繰リ込相成候ニ付、弊藩人数合併、同二十九日郡山、笹川、須加川三所ヘ出兵仕候処、賊徒退散致シ候ニ付、右最寄リ鎮撫致シ、守山表ヘ引揚ケ申候、大村藩人数ハ直様三春表ヘ引揚ニ相成候、然ル処、其後又々右三ケ所ヨリ残賊押来、須加川宿放火致シ候旨、注進有之候ニ付、弊藩人数分隊出兵巡邏仕候処、谷田川村ニ於テ少々砲戦、賊徒逃去、残賊生捕候ニ付、参謀渡辺清三衛門殿エ相届、御差図之上、湯ノ河原ニ於テ死刑ニ行ヒ申候、賊ノ姓名、別紙之通ニ候、右之趣守山陣屋ヨリ申越候ニ付、不取敢御届申上候、以上
八月
松平大学頭家来
鈴木梶右衛門


江戸山路金之丞手附
中西周助事 明石貫之丞<廿一才>
当四月二十日脱走仕、船橋、木下、大平山、栃木、日光人数引揚、栃木ヘ戻リ、石上ヨリ高林、板室ニテ一大隊ノ組、秋月登之助附属ニ相成候趣、白状
会津伝習隊
秋月登之助粗
佐久竹次郎<廿八才>
右之者、博奕ヲ好、処々致徘徊、悪徒ヲ引集メ、明石貫之丞卜心ヲ合シ、当四月二十五日須賀川辺ヘ来リ、伝集隊卜唱フ砲隊ヲ可組立ト心掛ケ、所々ニテ金策ヲ致シ、右両人ニテ守山表エ忍入リ、酒店ヘ来リ、種々難ヲ申掛候趣ニ付、七月二十八日朝召捕ヘ、糾問候処、白状ス
二本松藩物頭役平島孫右衛門手附
定吉<四十一才>
右当七月二十六日朝、新町ニテ合戦之節、出張候処、孫右衛門死生不相分、致散走、夫ヨリ所々ヘ忍入リ、悪行ヲ働候趣、白状
棚倉藩誠心隊
竹井喜一郎組
碓井藤助<丗一才>
小湊嘉市<廿三才>
大内松五郎<廿九才>
根本惣吉<十九才>
木村鉄之助<廿四才>
右五人之者共、須賀川ヘ潜居候棚倉藩隊長、竹井喜一郎申付候由ニテ、七月廿八日夕、谷田川辺迄為探索罷出候趣ニテ、守山領岩作村百姓馬之丞、湯ノ川新田兵吉ト申者両人ニ、右新田ニテ出会ヒ、此者官軍ノ廻シ者ニ可有之ト申掛ケ、取押ヘ縄ヲ掛、谷田川迄召連候由ヲ、岩作村ヨリ守山陣屋迄申出有之候ニ付、召捕之人数指出、不残生捕リ相糾候処、白状ス
無宿 清助
年齢不分
右之者、仙台之臣益田暦治手先ニ相成、所々戦争ニ罷出、博奕ヲ好ミ、大胆不敵之者
ニ候右九人之者共、生捕リ、糾明候処、朝敵ニ組シ、悪逆暴行ヲ働キ、重々不届ニ付、死刑ニ処シ候、此段御届申上候、以上
七月
松平大学頭家来
額賀加藤治
右之通、於東京鎮将府エ御届仕候旨、東京詰役人ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
八月廿八日
松平大学頭家来
岡田又吉

【奥州相馬附近ノ戦】
同日肥後藩届書写
東京表エ出張仕候兵隊之内、奥州エ進軍被仰付候ニ付、惣帥米田虎之助初メ、出張仕候段者、最前御届仕候通ニ御座候、然ル処、本月十一日於奥州相馬領海手原竃、因州兵隊一同相進、仙台勢ト砲戦之処、当手兵隊死傷モ不少、委細之儀ハ取調候上、追而可申遣段出先之者ヨリ、申越候、此段不取敢御届申上候.尤於東京御総督府茂右之趣御届仕候由ニ御座候、以上
八月廿八日
細州越中守家来
内山又助

【大鵬丸松ケ峰ヘ進撃】
同日高鍋藩届書写
弊藩兵隊兵部卿宮エ随従六月二日出京、北国街道洪水ニ付、中山道ニ転シ、二十六日越前敦賀ニ至リ候処、御軍艦無之滞陣、二十九日宮様練兵御一覚、於御前酒肴ヲ賜フ、其後僅帆前船二艘ヲ得ル、七月六日、宮様御親兵並徴兵一隊被召連、海路ヨリ被為進、弊藩兵隊並明石以下随従、六藩兵小浜兵ト共ニ陸路ヲ取リ、十三日越中東岩瀬エ着陣、御軍監之指揮ニ依テ、徴兵一隊並明石兵ト小船ニ乗リ、翌十四日当湊出帆候処、風波悪シク、纔十里ニシテ新浜ト申所エ碇泊、為雨滞留ス、十七日朝、上陸ヲ被命候、其夜明日ヨリ親不知、子不知ト唱フ険路ニ掛リ候故、病人ハ残置候様、被命候ニ付、弊藩病卒二人、看病一人残置、二十一日越後高田今町ヨリ十二番隊之徴兵並明石藩兵卜筑前大鵬丸エ乗船、即夕同国柏崎エ着、宮様ニハ去十七日御着之趣ニテ御在陣、即晩布令次第、薩長同様海路ニテ新潟出張ヲ被命、二十三日大鵬丸乗船被仰出宮様重臣武藤東四郎隊長鈴木来助ヲ被為召、御懇命之上、御軍令御渡相成、全軍感戴奮発仕候、此程出雲崎、弥彦山、寺泊辺、処々ヘ賊徒屯集、勢頗強盛ニ付、薩長兵各百人大砲三門並弊藩兵隊、松ケ崎エ進撃之積リニテ、同夜出船、翌二十四日討入之手筈之由、出張先ヨリ申越候、此段御届申上候、以上
八月廿八日
秋月長門守家来
黒水鷲郎

【奥羽官軍ノ種子兵】
羽州久保田表八月廿日仕出大山格之助来状節録追録
一、先月十一日ヨリ賊再発、連日之戦争、既ニ秋田モ持堪ヘ兼候程之勢ニ御座候処、過日来土州、島原、平戸之兵到着、引績一昨日ハ、越後表ヨリ島津登大隊長ニテ五小隊到着、又々同日肥州艦ヨリ七百人同断、即日ヨリ一同奮然戦地ヘ駆付申候
一、昨日ハ秋田之兵モ初テ勝利ヲ得、是ヨリハ一時ニ賊ヲ追返シ、九月ヲ不出シテ成功之目算ニ御座候、長兵モ両日中、一大隊半廻着之趣申来、一同競立居候心情、御推察可被下候
一、我一小隊八十余人之内、三十余人、長州隊二十余人、只今迄生残居.是ヲ奥羽官軍之種子兵ト唱ヘ申候、漸ク右之次第ニテ、当四月来之情状御遠察可被下候、一昨十八日夜ハ、当春以来始テ枕ヲ高シ、一睡仕候
一、西郷吉之助総督ニテ、三小隊春日丸ヘ乗付越後表ヨリ庄内坂田湊ヘ、突入相成候趣ニ御座候
一、奥羽之賊、専ラ秋田ヘ侵入之藩、左之通
一、仙台 米沢 過日引取候
山形 上山 殊ニ此両藩賊魁ナリ
天童 不得巳与力イタシ候
庄内 一之関 盛岡
南部美濃守ハ、仙台同腹ニテ、秋田北之境ヨリ十二日、十三日ヨリ侵入之処、秋田勢ヨリ散々ニ被打立、殊ニ津軽兵応接トシテ出張、横合ヨリ撃込候処、大敗走、秋田藩一門佐竹大和ト申者、殊ニ能ク戦ヒ候
一、津軽ハ弥正義、此節ハ秋田ヘモ致出兵候処南部ヨリ津軽ヘ相廻候ニ付、同藩ヨリ願ニヨリ、醍醐殿御出馬ニ相成候、殊ニ積年之怨国ニ有之、一手ヲ以テ盛岡征討イタシ度申出候
一、八戸モ本藩ニ被促候而、賊ニ党シ候哉ニ有之、昨日肥州藩両人ヘ、書面ヲ以テ其段申遣置候
一、右之賊藩、至急御手不相付候而ハ、弥勢焔ヲ増加イタシ可申候
一、追々当地戦争之御届可仕候得共、一向取調相付不申候
今目英艦ニテ沢殿御内帰京ニ付、別而乱毫荒増、羽州辺之形行申上候、宜御推覧可被下候、恐々不具
八月廿日朝
大山格之助
別紙
仙台之儀者、分捕致候書付之内ニモ、国元至急之趣ニ相見、迚モ当地出兵出来兼候模様ニ御座候処、過日来白川口ヘ出張之瀬上主膳、伊達安芸、同弾正二大隊、此口ヘ繰出シ、甚不審之次第ニ御座候、右ニ付評議仕候処、此度字和島候彼国ヘ御趣哉ニ相聞ヘ候ニ付、決而白川口平潟之官軍ヘハ悔悟等之奇計ヲ廻ラシ置、凡而此方ヘ裏ヨリ差向ケ候ナラント大ニ疑モ御座候、其辺之所御評議之上、両口ヘ御通シ相成候様、其筋ヘ御申立、御尽力奉願候

太政官日誌・慶応4年69号

太政官日誌第六十九
慶応四年戊辰秋八月

【御即位式仰出サル】
八月二十七日辛未
天皇御即位御大礼被為行候事
御即位式概略
前二日、習礼
前一日紫宸殿ヲ修飾ス
当日早旦、庭上中階以南、正面十有一丈四尺ニシテ、中央ニ大幣旗一旒、其左右日月両幣旗各一旒、其東西ニ御前幣旗各二旒ヲ列植ス中階以南、左右二方七丈八尺ニ、左右幣旗各五旒ヲ対称ス、東西相距ル七丈三尺、其次ニ各東西ニ退ク五尺五寸ノ地ヨリ、左右小幡各五旒ヲ対樹ス、地球象ヲ階南中央二丈二尺ニ設ケ<此日雨儀ヲ用ラル故ニ、地球象承明門内中央ニアリ>其南二丈二尺ニ奉幣案<此日階上ニアリ>又其南二丈二尺ニ宣命版、其南三丈ニシテ、東ニ折ル九尺外弁諸員ノ標ヲ設ク、当朝宣命文、天覧已ニ畢リ、コレヲ宣命使ニ下ス、諸衛各所部ヲ勒シ、前庭ニ立ツ、弁事御幣ヲ南殿ニ設ク、辰刻近衛府列陣鼓、進陣鼓、行陣鼓ヲ順次撃ツコト法ノ如シ、諸門鼓皆応ス、左右大将、近衛次将、中務省輔及内舎人、左右衛門及門部大舎人、内蔵、大蔵、掃部、主殿等官人、皆其位次ニ就キ、諸儀已ニ備ル、此時外弁以下幄座ニ就キ、典儀版位ニ就キ、九等官承明門外左右ニ列ス、外記諸儀備ルヲ内弁ニ告ク、内弁広幡内大臣源忠礼公東階ノ南幄中ニ就キ神祇知官事鷹司前右大臣藤原輔煕公、西階ノ西幄中ニ居ル、兵庫頭内弁ノ幄南ニ居ル、既ニシテ兵部丞、兵庫寮鼓師ニ命シテ、外弁ノ装篳鼓ヲ撃シム諸門鼓コレニ応ス、東西腋門ヲ開ク、少頃アツテウ寰帳命婦二人<一ハ有棲川穂宮一ハ上臘権典侍>威儀命婦二人<一ハ下臘伊予○一ノ采女属之、一ハ下臘阿波○於阿嘉々属之>高御座左右ノ座ニ就キ、左ハ中務卿幟仁親王<有棲川>右ハ常陸太守晃親王<山階>東西階ヨリ昇テ高御座ノ両側ニ立ツ、次ニ侍従富小路前中務大輔藤原敬直朝臣、左ヨリ、長谷美濃権介平信成朝臣右ヨリ進テ、殿上ニ立ッ、高辻少納言菅原修長朝臣ハ左リ五条少納言菅原為栄朝臣ハ右ニ、各簀子ニ対立ス、伴、佐伯二氏、承明門下ニ立ツ門開ク、兵庫頭鼓師ヲ召シ、鼓ヲ撃シム<以下鼓鉦兵庫頭皆コレヲ命ス>諸門鼓皆応ス、七等官以上、承明門ヨリ左右並進シテ位ニ就ク、輔相岩倉右兵衛督源具視卿、中階東南隅ノ東二丈五尺ノ地ニアツテ、西面ス、議定中山儀同藤原忠能卿正親町三条前大納言藤原実愛卿、徳大寺大納言藤原実則卿、中御門大納言藤原経之卿、越前権中納言源慶永卿、宇和島宰相藤原宗城朝臣、西南隅ノ西二丈五尺ニアツテ、東面ス、参与、知府事、弁事、判府事<今略其名>其南ニ列シ知官事、副知官事、議長、判官事、一等知県事<今略其名>輔相ノ南ニ列シテ相対ス、三等海陸軍将、左第一幣旗ノ北、一丈五尺、東ニ退ク一丈八尺ニシテ、西面ス、又東方ハ一等知県事ノ南三文、東ニ退ク一丈ニシテ権弁事、権判府事、史官、一等判県事、西方ハ判府事ノ南三丈六尺、西ニ退ク一丈ニシテ、権判官事、三等知県事、知司事等対立ス、夫ヨリ二等判県事、書記、判司事等、一等判県事ノ南一丈ヨリ、西ニ折ルヽ三尺ノ処ニ列シテ、北面シ二等訳官ハ、三等知県事ノ南一丈、東ニ折ルル一丈五尺ニアツテ、北面ス、八等、九等官ハ承明門外ニアツテ、官掌、筆生、左ニ列シテ西面シ、守辰ハ東面ス<此日雨儀ヲ以テ、七等官左右廻廊二列ス、八等、九等ハ承明門外廡ニ列ス>次ニ外弁、承明門ヨリ入テ標ニ就ク、又親王、公卿ハ南殿北廂東三箇間、有位ノ諸侯ハ東廂ニ候シ、無位ノ諸侯、狩衣直垂ノ徴士、雇士ハ月華門南側、中下大夫ハ日華門南側ニ候ス、是ニ於テ天皇清涼殿ヨリ御歩高御座ニ着御、内侍二人剣璽ヲ奉シテ前行玉座ノ左ニ置テ退ク、弁事御笏ヲ上ル、褰帳鉦ヲ拊ツ、褰帳命婦二名高御座後階ヨリ昇リ御帳ヲ褰ク、諸仗警ヲ称ス、群臣斉ク宸儀ヲ拝ス、弁事御幣ヲ御前ニ上ツテ退ク、神祇知官事西階ヨリ昇リ御幣ヲ受テ、コレヲ案ニ奉シ、再ヒ昇殿復奏ス、群臣再拝ス、宣命使版ニ就テ制ヲ宜フ<制後ニ記ス>群臣再拝ス、外弁上首三条西大納言藤原季知卿、進テ寿詞ヲ上ル<詞後ニ記ス>畢テ伶官楽ヲ奏ス<大歌>楽畢テ群臣再拝ス、左親王礼畢ルヲ奏ス、垂帳鉦ヲ拊ツ、褰帳命婦昇テ御帳ヲ垂ル、諸侯蹕ヲ称ス、天皇御本殿ヘ還御、退鼓ヲ撃ツ、諸門鼓皆応ス、九等官先退ク、次ニ外弁、侍従、褰帳、威儀、内弁及ヒ参役諸員、順次退出、伴、佐伯、承明門ヲ鎖ス、諸衛解陣鉦ヲ鳴シテ皆退ク、諸儀乃畢ル、是ヨリ先、連日霪雨、此晨俄霽、人皆聖端ノ致ス所トス、此日群臣ニ盛饌ヲ賜フ二次又四等官以下無位諸員、各黄袍一領ヲ賜フ

宣命文写
現神止大八州国所知須天皇我詔旨<良万止>宣布勅命乎、親王、諸臣、百官人等、天下公民、衆聞食止宜布、掛畏伎平安宮爾御宇須倭根子天皇我宣布、此天日嗣高座乃業乎、掛畏伎近江乃大津乃宮爾、御宇志天皇乃初賜比定賜<倍留>法随爾仕奉止、仰賜比授賜比、恐美受賜<倍留>御代御代乃御定可上爾、方今天下乃大政古爾復志賜<比弖>橿原乃宮爾御宇志、天皇御創業乃古爾基伎、大御世袁弥益々爾吉伎御代止固成賜<波牟>其大御位爾即世賜<比弖>進毛不知爾退毛不知爾、恐美坐<佐久止>宣布大命乎、衆聞食止宣布、然爾天下治賜<倍留>君波良弼乎得弖平久安久治賜布物爾在<止奈牟>所聞、爰朕雖浅劣、親王、諸臣等乃相穴<奈比>扶奉牟事爾依弖、仰賜比授賜<倍留>食国乃天下乃政波、平久安久仕奉<倍志止>所念行須、是以弥抱正直乃心弖天皇我朝廷乎衆助仕奉止宣布天皇我勅命乎衆聞食止宣
慶応四年八月廿七日

寿詞写
八十日日波雖有、今日乃生日乃足日爾、掛巻毛畏伎明神止大八州所知食須天皇乃天津御位爾登里賜<倍留>此乃御賀乃庭上爾、親王、諸臣、百官人等、恐美恐<美毛>言祝奉弖朝日乃豊逆登爾称辞竟申賜久
言巻波雖畏、未国稚土稚<里志>時、高天原爾天神諸、伊邪那岐命、伊邪那美命二柱乃大神爾、此多陀用幣流国乎修理固成止詔<知弖>、言依志賜<比支>、次伊邪那岐命、天照大御神爾詔久、汝命波高天原乎所知止事依而賜<比伎>、次天照大御神、高木神之命以弖皇御孫之命乎、天津高御座爾坐弖、天津璽止為弖、八尺勾璁、八咫鏡、草那芸剣、三種乃シ神宝乎捧持賜<比天>、言寿岐宣<波久>、皇我宇都御子皇御孫命、此乃天津高御座爾坐弖、天津日嗣乎天地乃共万千秋乃長五百秋爾、大八洲豊芦原乃瑞穂之国乎、安国止平<気久>所知食止、言寄奉賜<比伎>国中爾荒振神等<乎波>神問<志爾>問志賜比神掃々賜<比弖>、語問志磐根樹立草乃垣葉<乎毛>語止弖、天之磐坐放、天之八重雲乎、伊頭乃千別爾千別弖、天降依志賜<比伎>、四方之国中爾山城乃日高見国乎、安国止定奉弖、下津磐根爾宮柱、太敷立、高天原爾千木高知弖天津日嗣所知行須皇御孫之命乃美頭乃御舎乎、天之御蔭日之御蔭止称辞竟奉留、四方国者、天之壁立封極、国之退立限、青雲乃靄極、白雲乃墜居向伏限、青海原波棹舵不干舟艫乃至留極、満都々気弖、自陸往道者、荷緒縛堅弖、馬爪至留極、立都々気弖、明神止天下国乃八十国島乃、八十島漏留事無、阝清、墜留事無久、弥高爾弥広爾所知食須、皇御孫命之大御世乎手長乃御代止堅磐爾常磐爾、天地止共爾平久安久、所知食牟事乃御賀乃吉詞乎、恐美恐<美毛>称辞竟申賜<波久止>、申須
慶応四年八月二十七日

大歌写
和太都美乃波末乃末左古遠可楚遍都々伎美賀千登世乃安理可須耳世武

楚乃可須耳世武

太政官日誌・慶応4年68号

太政官日誌第六十八
慶応四年戊辰秋八月

【奥州二本松落城ノ事】
八月二十五日備前藩届書写
奥州地ヘ出発之弊藩兵隊、去月十三日平落城後、同所ニ滞陣罷在候処、同二十四日御達ニ付、諸藩一同進発仕、合戸宿ヘ一泊、同二十五日上之坂ヘ一泊、同二十七日和那田通進軍為大斥候一小隊、薩藩ト併合、八ツ作ヘ馳向候処、賊兵拠険、防戦仕候内、引続薩藩ト共ニ前軍相進、左右ヨリ攻撃、遂ニ追崩シ、尚又仁井町仮砲台ニテ相支候ニ付、是又追払ヒ東軍者田原井通進撃、仁井町ニテ合隊、午飯後直ニ三春攻撃之手配ニ而、二手ニ分チ、一手ハ一小隊計、薩佐ト併合、広瀬通ヘ向ヒ、一手ハ柳大両藩ト併合、浮金通ヘ相進ミ、柳橋ヘ宿陣之処、三春既ニ帰順ニ付、同二十七日城下ヘ繰込.整列之上、城地点検仕、同廿八日薩長両藩ト併合、二本松進撃可致旨御達ニ付、小浜ヘ相進ミ、同廿八日五字整列、各藩斥候併合ニ而繰出シ、阿武隈川ニ相臨候処既ニ賊兵五六十人計渡川致シ、邀戦之形相見候ニ付、直ニ砲戦ニ及、漸々各藩本隊繰詰、進撃致候内、斥候ヨリ渡川相始メ、全隊続々押渡、相進候処、賊兵潰走、遂ニ城下ヘ繰込大手、搦手一時ニ攻撃仕候処、賊兵死力ヲ尽シ防戦致候付接戦等マヽ有之、賊死傷不少弊藩十一番隊長市原金三郎、於城内竹田門通、賊三人ニ出合、内一人三浦某ト名乗、槍ニテ突懸候ニ付、剣ニテ討取申候、終ニ十二字頃及落城、本丸、外郭、台敷共不残焼亡仕候、右於出先大総督府ヘ御届モ仕候得共、尚又申越候侭、御届申上候、其節弊藩死傷、別紙之通ニ御座候、以上
八月十五日
備前侍従家来
沢井宇兵衛

戦死 刀疵 銃隊 朝倉芳之介
重創帰営後死 長尾亀八
手負
刀疵 銃隊 時田右太郎
松田松三郎
井上貞祐
銃隊夫卒
常三郎
右之通ニ御座候、以上
八月廿五日
備前侍従家来
沢井宇兵衛

【奥州新田坂、平城ノ戦】
同日佐土原藩届書写
六月十七日、兵隊常陸国平潟ヘ上陸、賊徒不戦而走、陸奥国関田村迄追詰、十一字頃ヨリ砲戦、賊敗走、三字頃平潟ヘ引揚、同廿四日、植田川ヲ隔砲戦、各兵隊植田村迄追撃、賊散乱
同廿八日未明、柳川兵、弊藩兵、新田坂迄押詰、賊山上ニ分布、互ニ砲戦、賊徒能防、弊藩兵左之山堤ノ道ヲ廻リ、山上ヘ攣登、敵ノ背後ヲ突、砲台五ヶ所ヲ奪、賊敗走、依之柳藩ト一手ニ成、新田村迄追撃、此戦頗苦戦、手負、死人左之通
戦死 兵隊 酒匂浅之進
深手 半隊長 富田源右衛門 兵隊 恒吉兵衛
浅手 兵隊 松浦清助
同廿九日、柳川藩平潟ヘ為守衛引揚、備前藩ト相備、未明三坂口ヘ押詰、賊此要地ヲ守、二藩兵撃走之、賊保湯長谷、備前攻大手、弊藩撃搦手、賊敗走、此戦手負左之通
深手 兵隊 上村惣太郎
同日一字頃、湯長谷ヨリ平城ヘ進撃之処、賊兵防堀坂砲戦、味方一手ハ本道ヨリ進、一手ハ山ノ手ヨリ撃ツ、賊走、味方踊躍平城ヘ迫リ、既ニ城門迄押詰候得共、深夜ニ及、働キ不自由、不得止事兵ヲ引揚、湯長谷ヘ宿陣、此戦ニテ手負左之通
深手 半隊長 桑原新五兵衛 兵隊 弓削与兵衛

七月十三日今暁第二字頃、備前兵隊、弊藩兵隊、共ニ湯長谷ヨリ平城ヘ進、両藩之合兵ニテ、左ノ山手ヨリ攻撃、賊砲台ニ拠守、今朝霧深ク、昼ヨリ雨甚敷、山坂嶮岨ノ戦、尤苦戦、十字頃城下迄押寄、諸藩之兵皆会、四囲攻撃、賊能防不能破、薩備並弊藩之兵、期必死堀ヲ越ヘ、高土居攀登リ、将ニ乱入セントス、此時日已没、不得止引揚、諸兵城下ヘ会ス、参謀衆ヨリ各藩元之陣ヘ、一応兵ヲ引揚候様達有之候得共、薩、備、大村、弊藩相越、是迄取詰候ヲ、一旦弛メ候而者、容易ニ落城致間敷、仮令夜ニ入トモ不可止トテ尽死力攻撃、因藩.柳藩モ之ニ同シ、一斉ニ発砲攻撃、賊兵大ニ阻ム、砲発間遠ニ相成初更ノ頃ニ及ヒ、城中忽チ火起リ、所々ヘ転火、賊敗走落城、此戦頗苦戦、手負、討死、左之通
戦死
兵隊 牧野田六左衛門 同 児玉源次郎
同 壱破栄蔵 夫卒 新吉
夫卒 嘉平
深手
兵隊 図師恒右衛門 同 細山田藤蔵
同 高橋軍右衛門
浅手
兵隊 種子田市郎 同 小手田武十郎
新坂ニ而分捕
乗馬 一疋 大砲 四挺
内施条砲 一挺 ホウト 一挺 臼砲 一挺
大砲<平城ニテ分捕>二挺
右之通、奥州出兵之者ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月廿五日
島津淡路平内
能勢二郎左衛門

【越前兵増派ノ事】
八月廿六日越前藩ヘ御沙汰書写
越前少将
其藩儀、既ニ多人数出兵奮戦ニ候得共、不失其機、速ニ奏勦絶可致為、今般彼表ヘ、猶又四小隊、急繰出被仰付候事

【御即位参賀其他ノ事】
同日御沙汰書写九通
諸侯
来廿七日御即位ニ付、禁中大宮御所等ヘ当日卯ノ刻参賀、衣体衣冠ノ事
但浅黄袴着用ノ輩、当日薄色袴着用ノ事
一、無位ノ輩、直垂ノ事
一、当日重服可憚ノ事
但当日所労不参並重服ノ輩等ハ、九月朔日ヨリ五日迄ノ内ニ、参賀候事
一、当日参賀ノ輩ヘハ、御祝酒御認等被下候事
一、在京諸侯献物ノ儀ハ、九月一日ヨリ五日迄ノ内、使者ヲ以、奏者所ヘ可差出事
献物人別ニ
太刀 一腰ヅヽ
大宮御所ヘ家別ニ
干鯛 一箱宛
一、上京無之面々ハ、重臣ヲ以、九月朔日ヨリ五日迄ノ内、仮建ニテ恐悦可申上候、献物ハ奏者所ヘ可差出候事
但大典侍始並大宮御所上臘以下、役々ヘ一切贈物ニ不及候事
一、当日南門被開候間ハ、南門外往還停止ノ事
但差掛候急御用向ハ警固ノ者ヘ可届事
右之通被仰出候事
八月

中、下大夫、上士
来廿七日御即位ニ付、禁中大宮御所等ヘ当日卯ノ刻参賀、各衣体直垂ノ事
但当日所労不参並重服ノ輩等ハ、九月朔日ヨリ五日迄ノ内、参賀ノ事
一、当日参賀ノ輩ヘハ、御祝酒御認等可被下候事
一、在京ノ面々ハ九月一日ヨリ五日迄ノ内ニ奏者所ヘ献物可差出事
一、在京無之面々ハ上京ノ節仮建ニテ恐悦可申上、献物ハ奏者所ヘ可差出事
献上物人別ニ以下前同文言

徴兵、諸藩公儀人、公用人、来ル二十八日
御即位御礼式御飾付、於承明門外拝見ノ事被仰付候得共、徴兵、公儀人ハ、於承明門内、拝見被許候事
但誘引ノ者有之候事

今度御即位ニ付、諸藩公儀人、来ル九月朔日、卯ノ刻ヨリ申刻迄、恐悦参朝可致旨御沙汰候事
但御仮建ヘ参賀ノ事、衣体ハ麻上下着用、尤軽重服ノ輩、不及参朝候事

今般御即位ニ付、徴兵惣代トシテ、右隊長ノ者、来九月朔日卯ノ刻ヨリ申刻迄恐悦参朝可致旨御沙汰候事
但御仮建ヘ参賀ノ事
○紀藩政事向ノ事
水野大炊頭
紀藩政事向、一切関係無之様、御沙汰候事

安藤飛弾守
同文

紀伊中納言
別紙ノ通、各通ニテ御沙汰有之候間、為心得申達候事
○御東幸中諸務御委任ノ事
各通 正親町三条前大納言
徳大寺大納言
今般御東幸ノ節、岩倉右兵衛督、供奉被仰付候、然ル処、三条右大臣ニモ、未タ東京ノ在職相成候ニ付、御留守中当官ニテ諸務御委任、被仰出候ニ付ハ、輔相候所ヘ出仕可致旨、被仰付候事
但誰某ヘモ同様被仰付候事

【天長節御執行ノ事】
同日御布告写
九月廿二日ハ聖上御誕辰相当ニ付、毎年此辰ヲ以テ、群臣ニ酺宴ヲ賜ヒ、天長節御執行ニ相成、天下ノ刑戮被差停候、偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思食ニ候間、於庶民モ一同御嘉節ヲ奉祝候様、被仰出候事

太政官日誌・慶応4年67号

〓=舟に央

太政官日誌第六十七
慶応四年戊辰秋八月

【西園寺、壬生両卿長岡城ヲ立退ク】
八月廿四日高遠藩届書写二通並別紙
若狭守人数、越後与板迄進軍仕、同所近傍逆谷村之上、笠脱山ヘ陣営罷在候処、六月廿四日日ノ浦ト申所ヘ賊徒屯集之趣、探索ノ者ヨリ申出、即刻一小隊繰出及進撃、六七人打斃賊兵忽散乱致シ候ニ付、以前之山上ヘ繰上、相固居候、然処殆及五十日候長陣故、暫時休兵候様、御達有之、再ヒ与板城下ヘ七月十七日引取、養兵気罷在候、同廿二日柿木村山之尾先ヘ出兵致シ候様、参謀衆ヨリ御達ニ付、則差出、長藩三好六郎隊ト交代、加州、長州越州、高田勢ト連隊同様ニ相備、木ノ芽峠ノ賊塁ト日夜連戦罷在候
一、長岡城先達而陥落後、西園寺中納言殿、壬生左衛門権佐殿御陣営被為在候処、賊軍潜込七月廿四日不意ニ放火、口々ヨリ襲来、官軍防禦至苦戦ニ候ニ付、御両卿ニモ俄ニ御動座相成、御供勢モ不相揃候ニ付、兼テ会議所ヘ差出置候弊藩野木捨三郎並椎谷藩一人、関原駅迄御供仕、御安居被為在候儀ニ御座候旨、出張先家来共ヨリ申越候趣、在所若狭守ヨリ申付越候間、此段御届申上候、以上
八月二十四日
内藤若狭守家来
三沢喜右衛門

越後表ヘ差出置候兵隊、去月二十八日川東長岡辺ニ当リ、大小砲声烈敷相響候ニ付、所々ヘ斥候差出候処、益強戦之体ニ相聞、長岡ヨリ下方ハ一円放火、其内追々注進ニテ、長岡城ハ官軍ニテ取返、賊徒ハ大敗之趣ニ御座候、二十九日夜半過頃、長州、高田等出張罷在候陣之峰ニ当リ候テ、砲声夥敷相響候ニ付、弊藩隊長青山七蔵、兵隊召列罷出候処、夜分之儀ニ付、難見極、及軍議候処、今夜所々之戦争ニテハ、兼テ対塁罷在候日之浦ノ賊塞、必狼狽之時節ニ可有之、此虚ニ乗シ、及掃攘度決評、長州之令官弘中虎之助ヘ申談候処、至極之策略ニ候エ共、従中軍御指揮無之内ハ猥ニ進軍難致間、篤ト見極候様申聞、堪居候得共、此機会ハ逃シ難ク、尚又同人ヘ談判、加州、越州、与板之隊々ヘ申合、倶ニ打掛、弊藩之戦士共先魁、賊塞ヘ乗入候処、賊徒悉ク敗走、直ニ及放火、一時ニ灰塵、遂ニ下方之賊モ、一々潰散之体ニ相見申候、其後薩州参謀方ヨリ、島崎ト申場所ハ要地ニ付、進軍仕候様、任差図及進撃候、其節分捕之品、別紙之通ニ御座候、且桑名知仁隊松浦秀八属下伊東金八郎ト申者ヲ召捕、及吟味候処、相違無之旨ニ付、会議所ヘ申達、引渡申候、右之趣出張先家来共ヨリ申越候旨、在所若狭守ヨリ申付越候間、不取敢此段御届申上候、以上
八月二十四日
内藤若狭守家来
三沢喜右衛門

別紙 越後島崎ニテ分捕
小銃ミニヘール 四挺 激発弾 ニッ
同長弾 一ツ 小銃尖弾 八十九
刀 一本 サーヘル 二本
紺木綿胴服 一ツ 黒雲才チャケツ 一ツ
胴乱 十六 陣笠 二蓋
弾薬箱 五ツ
右之通御座候、以上
八月二十四日
内藤若狭守家来
三沢喜右衛門

【崇徳帝神霊供奉ノ事】
八月二十五日高松藩ヘ御沙汰書写
松平讃岐守
来月上旬崇徳帝神霊御遷還ノ節、伏水ヨリ後列供奉被仰付候事
京極佐渡守重臣ヘ、八月廿日同様被仰付候事

【常州平潟ノ戦並奥州岩城平ノ手負】
同日下手渡藩届書写
出雲守人数、柳川藩一同常州平潟表守衛罷在候処、当七月二十八日九ツ時過、賊船三艘沖合ニ相見及発砲候ニ付、其段参謀御出張先ヘ注進仕、上陸ノ処、打留申度相待罷在候処、八ツ時頃岩城ノ方ヘ〓去申候、同二十九日朝五ツ時過、賊船一艘空砲打掛、尚脚船ニ乗組向ヒ来候ニ付、小銃連発致シ候処、忽チ舵ヲ転シ遁去、本船ヨリ頻ニ大砲打掛候得共、暫時ニテ洋中ヘ〓去申候
一、当七月十三日岩城平城攻撃ノ砌、弊藩手負左ノ通ニ御座候
深手
足軽 小畑小四郎
浅手 士分 向坂多仲 同 小山直之進
右之段、出張先ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、尤戦争ノ次第ハ、委細柳川藩ヨリ御届申上候通ニ御座候、以上
八月二十五日
立花出雲守内
森脩

【越後妙見、長岡、三条、月岡ノ戦】
同日徳山藩届書写
去ル七月二十九日暁、越後国長岡領妙見村ヘ在陣之本藩並弊藩兵隊、其他同所出立進撃、砲台相構居候十日町ヲ乗取、夫ヨリ続テ進撃六日町辺ニ於テ戦争、賊兵ヲ討退ケ、直ニ長岡城ヘ討入候処、賊兵敗走致候ニ付、同所ヘ宿陣仕候、此日於長岡城下テハ弊藩兵隊手負左之通ニ御座候
一番小隊
傷 白井友次郎 吉富二郎
二番小隊
傷 藤井孫四郎 立花林平
一、八月二日見附宿ヘ移陣仕候処、賊残兵モ悉ク当朝致退散候趣ニ付、即日同所発足、相進候処、凡二里外月岡ト申処ニ、賊兵二三百相残居候間、夕八時頃ヨリ川ヲ隔相戦フ、賊ハ川向ナル高地ニ拠リ碽撃ス、味方ハ纔ナル胸壁ヲ楯トシテ大ニ戦タリ、賊失防禦ノ術候哉、其夜半一里外退去ス、此日弊藩傷左ノ通御座候
傷 時田少輔家来 杉村良平
但此者儀用向有之、兵隊外彼地ヘ差越候処、於現地二番小隊ヘ組込、及戦争候儀ニ御座候
右ノ外味方死傷モ有之趣ニ候得共、姓名未詳翌日早旦三条ト申地ヘ大斥候ヲ差出候ノ処、賊徒近方ニ相見不申候ニ付、残置候器械等、分捕モ数多有之候由、翌四日早天、又々大斥候ヲ差出候処、賊兵保内ト申地ニ、砲台ヲ設ケ固守仕候間、直ニ進撃、容易ニ砲台ヲ乗取賊ノ屯所加茂ヘ打向、追撃シテ大ニ得勝利申候、此日薩州死傷数多有之候由、其他者未詳只今ニテハ賊兵加茂ノ一里計山手ニ屯集仕居候由、右ハ北越出先ノ者ヨリ申越候間、不取敢其侭御届奉申上候、猶相違ノ儀モ御座候得ハ、取調ノ上追テ可奉申上候、以上
八月二十五日
毛利宗五郎内
時田少輔

一、五月十一日於越後国榎嶺戦争ノ節
一番小隊
死 無敵幸之進
一、同日於妙見口同断
小隊
傷 園川半之允 久永重介
蒲田織平 吉島常吉
権兵衛
一、同十四日於榎嶺同断
死 三番小隊 井上三郎
一、同十九日於長岡同断
死 四番小隊 坂井栄太郎
右先般御届申上落シ候分
一、六月二日於越後国今町戦争ノ節
傷 小隊 精一郎
一、同二十二日於亀貝村同断
死 小隊 佐久間友槌
一、同日於半蔵金同断
死 小隊 畠中孫助 下田小太郎
河田原太郎
傷 吉津貞吉
右七月七日死
一、同日於赤田山同断
死 小隊 阿川五郎
一、同二十八日於与板口同断
傷 隊長 江良和一
一、七月二十四日於長岡城下同断
死 一番小隊 藤井直衛 大崎源吾
傷 中山四郎 北村忠蔵
死 大砲隊 原新平
傷 佐々木熊二郎
一、同二十五日ヨリ同二十八日迄ノ間、味方ハ妙見、賊ハ十日町ニ砲台ヲ設ケ、昼夜互ニ砲撃仕候
上原二九郎
右五月十三日於榎嶺傷御届申上置候処、七月四日死
右之段北越出先ノ者ヨリ遂注進候間、其侭不取敢御届申上候、猶委細ノ儀ハ取調、追テ可奉申上候、以上
八月二十五日
毛利宗五郎内
時田少輔