江城日誌・慶応4年14号


江城日誌 第十四号
慶応四戊辰年五月

五月廿九日
○小田原出張軍監より之伺書へ〈第十三号ニ出〉附札之写
一、其地ニ而、和船雇入、可相廻候事
一、此方より斬罪之儀ハ先見合、加賀守へ三ケ条之趣、吃度及糾問、書付差出候上、当府へ可伺出候事
一、伊州出張之兵隊、当分之間、其表ニ滞陣被仰付、三雲為一郎為軍監被差残候条、小田原函嶺等、取締被
仰付候事
今更此方より催足、実功為立候ニハ不及候得共、乍慎為相勤不苦候事
一、家中之者一統帰家謹慎被仰付候事
一、城中用意米其侭差置、加賀守家来共へ可被為任置、官軍兵隊兵食之儀ハ、是迄之通り、江川太郎左衛門より仕向被仰付候事
五月
○御沙汰書之写
今川侍従
品川侍従
前田侍従
六角主税
前田愿十郎
岡田錖之助
大久保与七郎
勝田鋼吉
坪内嘉兵衛
座光寺盈太郎
菅沼左近将監
右本禄如旧下賜候事

五月三十日
○奥州出張黒羽藩より届書写
去月廿二日、白川表御参謀より、奥州旗宿迄出兵可致旨御差図ニ付、同日領分追分村迄三小隊、外ニ施条砲一門繰出し、翌廿三日、旗宿まで操入、同廿四日払暁、賊兵棚倉表よりの間道越、追分村三軒之処、二軒放火焼失、且賊三十人余襲来、村方の者一人為手負候段、同村見張之者より旗宿本陣へ注進有之、依て夫々手配り罷在候処、卯半刻頃棚倉往還より賊兵多少不相分候得共、凡七十人程ニて砲発有之、不取敢戦争ニ及、追々賊兵敗走、中野番沢村入口迄二十四町程之処迄追払、賊兵散乱いたし候間、人数旗宿へ引上候得共、同所東西葉山続、殊ニ奥州へ之間道多く、地利不宜、何分一手ニてハ、番兵難届、就てハ白坂宿へ兵隊繰入、其段早速御参謀方へ御届仕候処、追而白川表へ繰入ニ相成候迄同所へ警衛致し候様御差図ニ付、大垣藩一同警衛罷在候、同廿六日卯半刻頃、右宿最寄ニ而、天王山と申森林ニ、賊兵五小隊屯集致し、砲発、依之大垣藩二小隊、当家三小隊并大砲一門両勢を以砲戦、午刻過、賊兵敗走ニ及び、討死、生捕、分捕等猶追而取調之上、御届可申上候得共、不取敢右之段御届申上候以上
五月
黒羽藩隊長 五月女三左衛門

江川太郎左衛門
頃日箱根辺之残賊、豆州網代辺屯集之趣ニ相聞候ニ付、人数繰出し、早々掃攘可致旨、御沙汰候事
五月
○奥州出張薩藩より届書写
昨廿七日三字頃より、北の方十八町位御座候、会津街道筋、大谷地村を根拠として、追々賊山上へ兵を分配し襲来候ニ付、二番隊四番隊足軽、大垣一小隊、土州二小隊位左右へ相分れ、進撃候処、五字過ニ至り賊退散いたし、大谷地村迄致追撃候処、既ニ夜ニ入候ニ付、大谷地村白川之要口ニ付焼払、六字過ニ、兵隊都て引揚申候、討取候死骸、十五六位も御座候哉、山中諸処之戦にて、聢と取調不行届、凡右内外ニ御座候、敵ハ山中諸処ニ屯集いたし、千人内外も御座候趣ニ御座候、此段不取敢御届申上候以上
五月
○忍藩より届書写
下総守領分、武州秩父郡大宮郷へ、去る廿三日怪鋪体之者立入候ニ付、取押取調候処彰義隊滝川渡、其外共都合十二人、飯能にて被討洩候者ニ付、斬首仕候以上
五月
○小田原より届書写
林昌之助始脱走之賊徒、日金道より熱海、真鶴辺を心差候様子ニ付、討手として箱根宿より三小隊、分配仕差向申候
一昨廿七日、箱根ニ而及戦争候節
一、首級七ツ孕石帯刀ニ討取申候
一、生捕一人是ハ林昌之助下僕之由ニ御座候
別通
一、首二級
但豆、相境日金ニ而打取申候
一、首九級
但相州底倉村、字堂ケ島ニ而打取申候
右之段御届申上候
五月廿九日 大久保加賀守家来 郡権之助

湯本村
箱根宿
同権現社領江
此度兵火焼失ニ付、右村々へ御救米、軒別ニ一俵宛、合七十八俵被下置候事
六月

御牧重太郎
右者先達而、豆相軍監附属として、小田原表へ出張被仰付置候処、箱根ニ而戦死いたし候趣ニ御座候、此段御届申上候以上
六月 佐土原藩

江城日誌・慶応4年11号


江城日誌 第十一号
慶応四戊辰年五月廿六日

五月廿五日
○三雲為一郎、小田原より帰言上之次第
私共両人軍監として、小田原へ被差向候処、去廿九日、水野出羽守へ御預之林昌之助其外脱走之賊徒、関門へ押寄候ニ付、中井範五郎儀ハ、大久保加賀守人数引纏ひ、箱根関門へ出張いたし、私儀ハ小田原ニ残り居候処、加賀守家来箱根より立帰、私へ申聞候ニハ、只今箱根関門ニ而戦争之砌、中井範五郎並家来之者ハ、加賀守人数ニ而討取候間、此所ニ御滞留候而ハ、何時之討取も難計候間、早々当所立退候様申聞候ニ付、前後之始末何共不相分候得共、加賀守家来之申次第、非礼反逆之条、加賀守賊徒ニ与し、軍監中井範五郎を殺害ニ及び候事、無相違奉存候ニ付、拙者儀ハ直様当府へ帰申候、此段言上仕候事
○小田原へ御沙汰之写
大久保加賀守
軍監中井範五郎を殺害ニ及び候始末并軍監三雲為一郎を追返し、非礼之所置如何之心得有之候哉、先般林昌之助以下脱走之節、対朝廷不埒之次第、屹度御沙汰ニ可被及之処、寛大之御趣意を以、其分ニ被差置候、就而者此度翻然可抽忠勤之処、無其儀如何之事ニ候哉、屹度及詰問候間、明ニ返答可有之事
五月

来ル廿五日午時於大磯宿、問罪之返答ニ可及事
問罪使 穂波三位
参謀 河田左久馬
軍監 三雲為一郎
因州兵隊
問罪師 長州兵隊
備前兵隊
伊州兵隊
右今廿三日発足ニ而、廿五日午時、大磯着陣之事
○近国之各藩等へ御布告之写
大久保加賀守
右者先般林昌之助以下之賊徒為鎮圧、被差遣候軍監中井範五郎を殺害し、三雲為一郎を追返し候段、其罪顕然不可容、依之問罪之師被差向候事
五月

穂波三位
大久保加賀守問罪師為総督出張被仰付候事
五月
○吉田藩荒井関門詰へ御達之写
頃日林昌之助始脱走之賊徒、箱根山ニ拠り関門を奪取、往返之諸人を切害し候段相聞候付、賊兵追伐并小田原藩問罪として、今日より諸藩被差向、速ニ討伐被仰付候条、其旨為心得相達置候事
五月廿三日

五月廿四日
○徳川亀之助名代松平確堂、一橋大納言、田安中納言へ御渡ニ相成候勅諚之写
徳川亀之助
駿河国府中之城主ニ被仰付、領地高七拾万石下賜候旨、被仰出候事
但駿河国一円、其余ハ遠江、陸奥、於両国下賜候事
五月
一橋大納言
自今藩屏之列ニ被加候旨、被仰出候事
田安中納言
右同文
右三通三ツ折同紙上包
徳川亀之助
今般家名相続被仰出候ニ付、為御礼上京可致候事
五月
一橋大納言
今般藩屏之列ニ被加候ニ付、為御礼上京可致候事
田安中納言
右同文
五月
徳川家臣之輩、自今官位之儀被差止候事右者御対面所ニ於て、大監察使三条左大将殿より御渡ニ相成、参謀西四辻殿并下参謀軍監列座之事

武州飯能賊徒追討戦略
廿二日、賊兵八王子遁逃、遮断之為、筑前兵隊直竹へ相備、秩父遁逃遮断之為、川越兵隊秩父路へ相備、日光遁逃遮断之為、筑前半隊鹿山へ相備、筑前、筑後ハ賊窟横撃として、双柳より進み、備前、佐土原、大村ハ、野田より正面へ相進候様、軍配已成廿三日暁二字、佐土原先駆、入間川を渡り笹井村へ出候処、賊兵林木中へ潜伏砲撃ニ付、野砲小銃ニ而圧倒相戦候央、大村為援兵駆付候処、賊兵既ニ遁逃いたし候、併夜陰ニ而地理未分、賊之伏兵難計ニ付天明を侍、各藩両道より伏兵捜索相進候処野田村外より賊兵猶又狙撃候得共、衝突進撃平原昿野ニ出、撒兵を布衍し、野砲小銃を以、路次之林藪、賊之伏兵を進撃し、飯能市街之前ニ至り、賊窟能仁寺へ注目、吶喊之声山壑を撼し、砲弾如雨、雷電之勢を以、瞬息の間能仁寺前ニ至り候得ハ、賊兵小賊而巳ニ而、頻に横撃候得共、野砲ニ而応戦之内、大村、佐土原各先を争ひ、同時賊窟中ニ入り、能仁寺既ニ煙焔天に漲り喇叭を以諸藩へ先登を報告いたし候、無程智観寺并飯能商家も煙焔相漲り候、商家ハ則賊之敗兵所放火、智観寺ハ則両筑之進撃所放火也、依而両道之兵整頓時刻未十字半ニも不相成各進撃之路より帰陣之処、残賊竹林中より道路を梗塞発砲候付、各藩発砲通行之処、賊兵遁逃跡形も不相見、昼一時扇町谷へ帰陣仕候
一、此日討取処之賊骸、山林原野ニ横り、其数不分明、生捕共凡五六十人、深浅手負数不知
一、官軍手負左之通御座候
備前
浅手負 兵土 瀬賀役次郎
同 同 宍戸久五郎
佐土原
浅手負 小隊長 谷山藤之允
同 兵士 斎藤儀兵衛
大村
浅手負 兵士 岡虎之助
右戦争之次第御届申上候、以上
五月
渡辺清左衛門

五月廿五日
館林 木呂子善兵衛
徴士軍監被仰付候事

江城日誌・慶応4年7号


江城日誌 第七号
慶応四戊辰年五月十七日

五月十六日
○伊州より御届之写
当十五日、上野屯集之彰義隊、御追討被仰出候処、兼而筋違御門并昌平橋、和泉橋御警衛被仰付候ニ付、前夜より筋違御門内青山邸へ出張、御門ニ猶以厳衛指揮仕候、翌十五日五時頃より戦争相始四時過より益盛ニ相成、諸藩頗苦戦之風聞有之、甚苦心ニ堪兼候間、則御総督へ伺済之上、私家士隊并藤堂隼人家来へ組士等相添為斥候候処、湯島台より同所榊原式部大輔屋敷等へ、巡邏斥候仕候内、追々所々火煙熾に相起り、広小路辺大小砲声烈敷相聞候付同所へ向罷越、西側より戦争之模様一見仕候ニ付、銃丸飛来候中を横切、東側へ相移り、夫より段々相進候由之三橋内ニ而、諸藩激戦最中ニ付、寡少之乍兵、不取敢因、肥、薩其外諸藩一同、上野山下より敵之横合を、厳敷砲撃戦争仕処へ、私儀も暫時御門御警衛之儀ハ、隼人へ任せ置、巡邏之為、使番家士召連、同所へ馳付候処、右激戦之次第ニ付、直様召連候家士も差加、猶又其余之口々へも分配、所々より砲撃為致指揮仕候、然るに諸藩之勇戦、頗猛烈ニ而、遂ニ横合土手へ駈上り、黒門前へ押出候ニ付、賊徒敗衂、直様諸藩諸共、一時ニ門内へ衝入仕候処、賊徒俄ニ大砲相発し、之が為ニ家士一人討死仕候得共、弥以無隙間致進撃、賊徒遂ニ敗走仕候、乍然弊藩之儀ハ、全く斥候之為ニ差出候兵隊故最早官軍御勝利ニ付、進撃相止、兵隊相纏直様筋違御門陣所へ引揚申候、此段御届申上候、右之節死傷、別紙之通御座候、分捕品之儀ハ、取調之上可申上候以上
五月 伊州藩 総師 藤堂仁右衛門

死傷 仁右衛門家士 野崎沢右衛門
手負 雑人由次郎
〈巡邏之節深手負〉 杉田源兵衛支配 長井音次郎
千田源内組 森川治右衛門
小原治郎吉
鈴木正作
右三人之者、戦争中為斥候罷出候処其侭帰営不仕候付、重々取調候処、一之者持参之小銃并ケツト、上野山内宿坊ニ御座候付、何れ討死仕候義とハ奉存候得共、不分明ニ御座候
右之通御座候、以上
五月 伊州 総師 藤堂仁右衛門
当十五日、上野屯集之賊徒攻撃ニ付、臼砲二門差出候様御沙汰ニ付、則砲手相添差出候、依之水道橋より本郷通り相進候処、砲声頗ニ相聞戦争相始居候ニ付、加賀邸裏へ繰込、是より発砲仕候処、賊之発火漸稀薄ニ相成候ニ付、団子坂上より根津へ相進候処、潜伏之賊兵、両脇より発砲、諸手困難ニ付、右脇ニ於て、一所之使地相撰、発砲仕候而、敵陣炎焼、賊兵相撥候間、段々進撃、谷中天王寺辺へ進軍之処、藤堂監物手勢罷越候ニ付、右之隊へ相加り砲発、所々放火仕、遂ニ賊兵離散仕候、今朝六時過より戦争相始め、五時過ニ終り申候、通計六十発余仕候、猶長藩、薩藩、佐土原藩、備前藩等之兵隊申合、攻撃仕候得共、長州兵隊ニ於而、専申談相勤申候、此段御届申上候、以上
五月 伊州 総師 藤堂仁右衛門
当十五日、上野屯集之賊徒為追討、藤堂監物王子村辺より相進候、途中より為斥候兵隊之内、一小隊団子坂辺へ差出候処、賊兵ニ出会及戦争候、然るに長藩より兵隊余程疲れ候ニ付、是非共応援致呉候様頼ニ付、早速戮力戦争仕候得共、何分寡少之人数故、余程苦戦之趣報告ニ付、王子村より全隊繰出し、同所之儀ハ筑芸之二藩へ頼置相進候途中ニ而、大御総督様御使番ニ出会仕候処、団子坂辺へ急速応援仕候様御差図ニ付、早速相進、長藩と交番、余程苦戦仕候得共、何分にも同所之儀ハ、地理も悪敷候間、長藩申談放火仕、一ト先千駄木辺より引取申候処、軍監渡辺清左衛門へ出会、谷中天王寺ハ敵之巣窟ニも候得共、同所へ討入候様差図ニ付、早速相進砲発仕候処、追々賊兵離散仕候間、直ニ放火仕引揚申候途中ニ而、猶又右同人より、直ニ引取候様差図御座候ニ付、則越前邸へ引取申候、此段大略御届申上候、尢右之節死傷并分捕品等無御座候、以上
五月 伊州 総師 藤堂仁右衛門
左隊長 藤堂監物

五月十七日
○備前より重而御届之写
去ル十五日、上野表出兵御達之趣奉敬承同日暁天兵隊繰出、桔梗下馬へ整列、御手配之通全隊二部ニ分ち、一部大砲隊、一部小銃隊、大砲者備頭薄田兵右衛門引率仕、護衛として一番遊奇隊指添、一橋御門より水道橋へ繰出し、本郷水府中屋敷へ繰込、一部小銃隊者、三五六番遊奇隊并組銃隊指添、隊長吉田藤兵衛引率仕、神田橋より筋違橋を出、本郷通森川宿追分辺へ止陣、両隊共敵情候伺、地形測量之上、水府中邸之兵者、大砲隊二部ニ分ち、半隊ハ令官三上留吉引率、加州邸へ繰込、山内を攻撃ニ相及ひ、時機を以て暴多一挺相留め、臼砲を以て攻撃いたし、喜連川邸前通より、駒込団子坂へ進軍ニ相及び、長、伊、尾、佐四藩と併合攻撃仕候、半隊ハ薄田兵右衛門令官浦上幸之進等引率仕、根津黒門通へ進撃長州、大村藩と併合摂戦、賊巣へ及放発候処、山内も大ニ動揺之趣ニ見聞仕候、乍併地形悪敷小川満水、大砲進退不便利ニ付加州邸へ転陣、佐土原、肥前藩と諸共致攻撃、其後御使番衆之御差図を以、団子坂へ進軍ニ及び、尚又根津門通へ侵入いたし候処、賊兵敗走之趣ニ付、大村藩諸共、根津社へ引揚休戦、夫より加州邸門前へ致転陣候処、総軍御引揚之御差図有之、且又森川宿へ罷向候小銃之一隊ハ、途中本郷四丁目加州邸近傍寺院へ、賊兵潜伏之趣承り、令官浅野忠次郎五番半小隊を引率、所々及探索候処、既ニ前夜退散いたし候由ニ付、直喜連川邸前通より、各藩併合戦争相始め、一字間攻撃、弾薬手薄相成候ニ付及放火置、一旦水府中邸へ繰揚、弾薬詰替、猶又根津へ発向攻撃仕候、森川宿へ繰込候兵隊は、一手三部ニ分ち、一部番兵ニ残置、一部ハ雀部八郎、令官夏井嘉吉等引率、根津ニ向ひ摂戦、一部ハ古田藤兵衛、宮崎謙二等引率、団子坂ニ向ひ、屡攻撃ニおよび、長藩と併合、善光寺坂ニ而仮砲台を攻取、賊兵を追払、天王寺門前迄之間、一進一退、此処官軍余程之苦戦ニ候得共、追々賊兵崩れ色付、前路を放火し引退候趣ニ付、尚進撃、長藩諸共致分隊、寺院へ繰込、横合より及攻撃候得共、此所地形甚悪敷、賊兵又々前後より挟撃、進退殆相窮候折柄、砲声漸々相止、遂ニ物別ニ相成申候、然処佐土原大砲隊、尾州磅礴隊等相加り、賊兵致敗走候ニ付、所々及放火置、各藩兵隊団子坂へ引揚、弊藩後詰之兵隊諸共、同所ニ而致休戦候処、賊兵再び盛返し、同所を攻撃ニ及び、其節三上留吉等、重創請候得共、立地搏払、賊兵敗走仕候処へ、御使番衆より、浅香町警衛之御差図有之、一隊繰上候処、尚又御差図ニ而、加州邸へ転陣仕候内、賊兵追々退散、御軍監より総軍引揚之御指揮有之候ニ付、全隊引纏、夜ニ入桔梗下馬へ引揚、其後帰営仕候
一、同朝水府中邸へ繰込候兵隊之内、直ニ太田万次、加藤栄之進、平井源八郎等、大砲護衛、一番遊奇隊之者共、少々召連、為斥候根津通へ趣、敵情候伺ニ及候得共、朝霧溟濛、彼我難弁、攻撃之方略及立断候処、根津惣門内ニ伏兵有之、俄ニ挟撃、太田万次、平井源八郎并遊奇隊之者共、此所ニ而戦死仕候、尤孤軍勇進、二之見難続、不得止一旦水府中邸へ引揚、尚又根津辺ニ而戦争仕候、当日之賊、搦手地方之戦争、此手を以、手始と奉存候
一、当日弊藩ニ而接戦仕候場所ハ、根津近辺ニ而御座候、銃砲を以攻撃仕候場所ハ、加州邸并池之端団子坂、善光寺坂辺ニ而御座候、砲手金光繁次、中西寿之介等照準之功不少哉と奉存候、以上
五月 備前隊

江城日誌・慶応4年5号


江城日誌 第五号
慶応四戊辰年五月十六日

五月十五日
上野山内屯集之賊徒追討として、未明より各藩之兵隊大下馬ニ相揃、各隊列を整へ繰出し夫々左之攻口より攻入、愉快之奮戦を遂、賊徒忽ち敗走し、上野山内悉く灰燼となり、夕七ツ半時愷陣す、此日討取処の賊徒、山内所々ニ累々として其数を不知、死傷生捕共凡千人余、各藩攻口左之通
湯島より黒門前
薩州
肥後
因州
本郷より
長州
肥前
筑後
大村
佐土原
富山邸
肥前
筑後
水戸邸
備前
伊州
佐土原
尾州 磅礴隊
一橋御門より水道橋 阿州
水道橋より水戸邸辺 尾州
聖道近辺 新発田
森川宿追分辺 備前
大川橋 紀州
軍監両人差添
千住大橋 因州
川口 大久保与市
沼田 肥後
戸田川 備前
下総古河 肥前
武蔵忍 芸州
同川越 筑前

五月十六日
○因州より御届之写
昨十五日、薩藩ニ引続、湯島天神前迄進軍仕候処、攻口之模様難定、仲町まて押寄広小路より及激戦居候薩藩ニ応援之心得を以横矢を入、暫時発炮仕候得共、間遠にて捗々しく無御座候間、其場を引揚、下谷御徒町辺を廻り候処、臼砲一門捨置逃去申候、其後賊兵三方より少々つゝ出没、狙撃いたし候間、我兵同断是ニ応じ小促合いたし、夫より下谷へ向進撃、暫く大手之様子窺合罷在、遂薩藩申合、機ニ乗じ、弊藩ハ横手より黒門右脇塁上ニ押登り、暫時砲戦いたし、薩藩と大手より進撃、一時ニ黒門を攻破り山内へ打入申候、同日打死、手負、左之通御座候
河田左久馬家来
討死 元小田原藩 杉山繁之助
〈録人仕候ニ付不知生死〉 森本清太
浅手 河田左久馬附属 臼井貞之助
河田左久馬配下
討死 山国隊 田中五右衛門
手負 細木元太郎
郡波九郎左衛門
森脇一郎
前田庄司
同 使役士官 秋田嘉兵衛
討死 佐分利鉄次郎隊 滝金市
佐々木仲之丞
田川広之丞
深手 伊藤猪吉
星見辰之丞
浅手 有沢平之丞
討死 勘定方附属 漆原甚左衛門
田村宇三郎
高田藤次郎
池田相模守人数 石川左現次
深手 中川熊蔵
浅手 八尾重助
深手 土箱持清吉
討死 池田摂津守家来 岡山力之助
以上〈討死九人傷者十三人〉
右之通御座候間、此段御届申上候
河田左久馬
前書之通相達候間、此段御届申上候以上
因州 和田壱岐
○薩州より御届之写
〈兵士戦死〉野村正八
竹下猪之丞
川松喜蔵
岩下半之助
伊地知惣吉
隈元太一右衛門
唐釜勘助
奥新五左衛門
手負 竹迫十次郎
有吉次左衛門
面高真之丞
榊五郎兵衛
大山清右衛門
河野直之助
内山伊七郎
黒江勇右衛門
町田助之進
益満休之助
中村勇吉
池上勇次郎
鎌田幸之丞
相良笑之丞
床次吉之助
美代幸之丞
川北五郎左衛門
久永喜兵衛
吉田喜蔵
松山覚之丞
海江田諸右衛門
貴島勇右衛門
木藤宗八
松方長作
新納清一郎
家村度助
山口喜右衛門
岩城彦四郎
藤田新左衛門
松元尚之丞
深抦彦五郎
津留八之進
肝付弥四郎
西田藤助
肝付十郎
夫方主頭 橋口良助
夫卒三人
右者昨十五日戦争之節、戦死、手負、右之通御座候間、此段御届申上候以上
五月十六日 薩摩藩 相良治部

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(匡郭外)
五月十六日之記事許多ニして此ニ尽し難きにより第六号ニ続出す

江城日誌・慶応4年1号

江城日誌 第一号
慶応四戊辰年五月五日

後四月廿九日
○徳川亀之助へ御渡ニ相成候勅諚之写
慶喜伏罪之上ハ、徳川家名相続之儀、祖宗以来之功労を被思食、格別之叡慮を以て、田安亀之助へ被仰出候事
但城地禄高之儀ハ、追而可被仰出候事
後四月
右ハ徳川亀之助御呼出ニ相成候処、病気之趣ニ而、名代として一橋大納言登城す、大監察使三条左大将殿、附属万里小路弁殿、参謀西四辻殿、并ニ下参謀軍監列座之上、左大将殿より、右
勅諚御渡ニ相成候処、難有仕合奉存候旨、御請申上退去す、坐配左之通
(挿図省略)
○諸道戦争之藩々へ御沙汰之写
賊徒掃撃之砌、手負瘡痍之者、疾苦御慰労之思食を以、医官前田杏斎、被差遺候、精々療養相加へ可申旨、御沙汰候事
後四月
右御書付持参、医官前田杏斎、軍曹山県小太郎、東山道戦争之藩々へ向け、出立之事

五月二日
○戦士御慰労之御書付写
東山道先鋒 薩州
長州
因州
彦根
土州
大垣
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶禍心を逞し所々屯集官軍ニ抗し候折柄、野州、小山、宇都宮、其ノ外数ケ所ニ於て、指躯激励、屡遂苦戦及進撃候段、叡感不斜候、猶此上一際抽精忠、鞠躬尽力速ニ平定之功を奏し可奉安宸襟被仰出候、此段戦士江可相達旨、御沙汰候事
五月
東海道先鋒 薩州
長州
大村
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り官軍ニ相抗し候折柄総州八幡、五井、姉ケ崎辺ニ於て遂勇戦、忽及掃撃候段、達叡聞、御満足ニ被思食候、猶此上一際抽精忠、鞠躬尽力、速賊徒平定之功を奏し、可奉安宸襟被仰出候、此段戦士江可相達旨、御沙汰候事
五月
同 備州
伊州
佐土原
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り、官軍ニ相抗し候折柄、総州市川、船橋、八幡、五井、姉ケ崎辺ニ於て以下前同文
中軍 筑前
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り官軍ニ相抗し候折柄、総州船橋辺に於て以下前同文
海軍 薩州
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り官軍ニ相抗し候折柄、総州姉ケ崎辺ニ於て以下前同文
東山道 前橋
高崎
吉井
佐野
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶禍心を逞し所々屯集、官軍ニ相抗し候折柄、野州三国峠ニ於て以下前同文
同 館林
笠間
壬生
須坂
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶禍心を逞し所々屯集、官軍ニ相抗し候折柄、野州小山総州結城辺ニ於て以下前同文
右御書付は、穂波三位殿勅使として、東海、東山、両道総督府御本陣へ被行向御渡に相成候事

松平確堂、当分之内、徳川亀之助後見之儀願之通被仰出候事

同三日
○徳川亀之助重臣呼出御達之写
旗下帰順之輩、自今朝臣ニ被仰付候間、此段相達候事
五月
○肥前へ御沙汰之写
肥前侍従
下ノ総野州近辺、賊徒出没、官軍ニ抗し、王土を掠め、王民を苦め、未だ平定ニ不至候間、下の総野鎮撫之為、出張いたし、賊徒鎮圧、猶二州藩々之向背、篤と相察し、民政筋取締、人心安堵候様、指揮可有之大総督宮御沙汰候事
五月
○上野輪王寺宮へ御沙汰之写

朝廷御沙汰之儀有之候間、明四日巳ノ刻御登城被為在候様、大総督宮御沙汰候事

五月三日
同四日
輪王寺宮病気ニ付、登城被成兼候旨、御断ニ相成候ニ付、参謀西四辻卿朝命を奏し、為御使上野江御越ニ相成り、下参謀寺島秀之助、軍監新田三郎附属す、然るに宮病気之趣ニ而、御対面無之ニ付、再三強而対面之儀を申入られ候得共、達而御断り故、不得止御帰城ニ相成候事

兼而御達し有之候諸藩兵隊整列、今日御覧被為在候段、被仰出候事
但シ十二字大下馬揃之事

江城日誌・慶応4年2号

江城日誌 第二号
慶応四戊辰年五月八日

五月六日
前橋少将
賊徒猶野心を逞し、王土を掠め、王民を苦しめ、処々出没、官軍に相抗し、未平定ニ不至候ニ付、上野全国鎮撫被仰付候間、民政之儀者勿論、藩々之向背をも篤と相察し、取締行届候様、尽力可有之旨、大総督宮御沙汰候事
五月 大総督府 参謀

徳川民部大輔
御用有之候間、急速帰国可有之、被仰出候事
五月

○薩藩池上四郎左衛門帰府言上之大略
賊徒等白川城ニ拠り益禍心を逞し候ニ付、去閏四月廿八日、漸奥州白坂駅迄着し、廿九日白川城攻撃之筈ニ御座候処、延引ニ而本月朔日未明より、三方江手配いたし、五番隊迄黒川村より原街道江繰出し候処、賊兵台場等築立致防禦候ニ付、直様進撃、諸所台場等追崩し、白川町口迄攻入、長州薩州、大垣三藩ニ而、賊兵を中ニ取込、頻りニ攻立候処、賊兵大ニ致狼狽候ニ付、過分打取申候、未首級等も相分不申候得共、大概五六百位者可有之奉存候、何分此度之儀者、十分之好都合ニ而、少も遺策無之、誠に愉快之事ニ御座候、尚委細之儀者本営方より御届可申上候、弊藩戦死手負左之通
二番隊 手負 飯々礼才蔵
即死 古渡七之丞
手負 市本彦十郎
川細金右衛門
町田金右衛門
山本吉蔵
前川田八郎
四番隊 手負 仁礼平兵衛
北郷万兵衛
神原吉兵衛
久留休左衛門
五番隊 即死 八地清八
手負 桑皮田角左衛門
川上源七郎
有川彦右衛門
郷田正之丞
香田嘉右衛門
土師庄之進
篠崎覚之丞
即死 河野助五郎
坂元仲蔵
手負 大河平源助
上村彦之丞
武立庄五郎
八地知庄左衛門
壱番大砲隊 即死 広瀬彦蔵
手負 奈良原長左衛門
亀沼源右衛門
淵辺八郎次
勝部謙助
桂宗十郎
二番大砲隊 即死 小野藤吉
手負 河上万助
伊藤権平
猿渡嘉左衛門
過川仁平太
四本十左衛門
有馬彦七
手負 町夫熊四郎
兵具隊 手負 中島尚四郎
即死 田中清左衛門
手負 大迫彦左衛門
八地知正治
池上四郎左衛門
臼砲打手 手負 土師孫市
外ニ 夫卒等略之

島団右衛門
軍監被仰付、下総野二州為監察被差遣候事
五月
和田藤之助
軍監被仰付、駿州沼津為監察被差遣候事
五月
中井範五郎
三雲為一郎
軍監被仰付、豆相二州為監察被差遣候条、申合尽力可有之候事
五月
大久保加賀守
江川太郎左衛門
先般残賊林昌之助以下脱走之者、其領内罷候節、不都合之儀も有之候趣相聞、如何之事ニ候、依之吃度御沙汰ニも可被及之処、於此度者其分ニ被差置、今般軍監中井範五郎、三雲為一郎、豆相両州為監察被差遣候条、諸事不行届無之様、精々尽力可有之之旨、御沙汰ニ候事
五月 監察使府 軍監

江城日誌・慶応4年3号

江城日誌 第三号
慶応四戊辰年五月十三日

五月八日
○肥前より御届之写
昨七日、弊藩先鋒人数、野州繰込兵隊之内士分二人痛所有之、行軍ニ相後れ、暮六ツ時頃、上野北大門町を、駕籠にて通行いたし候処、何者ニ哉八十人計仕掛参、無体ニ切掛候ニ付、不得止及抜合候得共、何分人少にて不及力、壱人ハ殺害ニ逢、壱人は深手負、同夜五ツ時半頃弊邸罷帰、右之段先鋒宿陣所江申通候処、一隊甚憤怒を生じ、堪兼居候ニ付、相手方之もの御召捕被下候哉、無左候はゞ此方一手を以、及返戦候勢ニ付、先以此段不取敢御届仕候以上
五月八日 肥前侍従内 吉村謙吉
掛紙
相手方始末之儀ハ、隊中恥辱ニ不成様、御所置被為在候間、其藩先鋒之儀ハ、早々可有行進事
○薩州より御届之写
兵士 有吉庄之丞
湯地治右衛門
有馬相八郎
右者斥候之者共ニ而御座候処、昨七日夕時分根岸辺ニおいて、彰義隊之者八九人ニ行逢候処、右三人を取巻、是非屯所江可連越段申聞候得共、相断候処、直様切掛、暫時相戦候由、一人ハ其場ニ而被切伏、敵両人打果、六人ニ手を負せたる由御座候得共、猶追々多人数馳集候付、無拠両人ハ切抜、駒込千駄木町観音堂前まで引取候由ニ候得共、皆深手を負候上、段々追重候付、不得止一人ハ切腹いたし、一人之者も割腹可致之処を、早鉄煙を以被打伏候段、探索方之者届申出候付、追而確証を得、委細可申上候得共、不取敢申上置候以上
五月八日 薩摩藩

五月十二日
○土州より御届之写
会藩并江戸脱走之兵、去月廿九日頃より大桑小百高畑高百辺江繰出し、今市の北毘沙門山ニ旗を建、夜分は所々ニ篝を焚、追々当駅ニ相迫り候ニ付、厳ニ備て相待居候処当月六日、賊終に毘沙門山、栄旧山等ニ兵を出し、従芹沼大谷川を渡り、朝五ツ時頃東の方杉林の中より発炮、追々宇津宮、壬生両街道より進来ニ付、不取敢三小隊を以当之、游軍二小隊両道ニ出助之、砲隊亦左之方より応之、且山上之賊よりも発砲候付、大砲三四発打掛候処、忽散乱仕候、然るに両道之戦勝敗未決、此日別ニ弊藩人数、従宇津宮二小隊計当駅到着之筈ニ付、夾撃可仕と存相待候得共、存外ニ遅刻ニ付、人数三十人計、間道より賊之背ニ出、不意ニ襲来砲撃仕候処、遂ニ敗走折柄宮城より之人数参会、賊兵八方へ散乱仕候ニ付、諸隊一里許追撃仕、七ツ時頃今市江引取申候、討取分取等ハ別紙ニ相認差出申候
五月 土州 板垣退助

橋本順助
宮地元兵衛
谷本忠一郎
右討死
小野早太
高橋喜佐次
上田庄蔵
三木壮之助
小松克馬
田辺豪次郎
佐藤順吉
小松駒之助
西楠太郎
猪石栄太郎
宮地小十郎
森岡団右衛門
江口亀太郎
中島栄太郎
右手負
死亡 馬取 京次
右者今五月六日戦争之砌、討死、手負、如斯御座候以上
五月七日 土州 板垣退助

一、仕付弾薬、三千六拾計
一、小銃、三拾五挺
一、大砲、壱門
一、タス、拾七
一、刀、九本
一、脇差、十二本
一、金、百両三朱
一、白米、一カマス
一、フランケツト、四枚
一、馬、一匹
一、木砲、一挺
一、生捕賊徒、一人
一、討取同、廿七人
但此外賊方江引取候手負、死人不相分、且麦畑、林間、溝中ニ斃居候者も可有之候得共、夫々取調相調不申候付、追而取調之上御達仕候
右者今五月六日、野州今市駅ニおゐて、戦争之節諸隊江討取、分捕等右之通ニ御座候以上

五月 土州 板垣退助
○五月六日於今市生捕候、右嚮導加藤林三郎白状之略
一、専ら今市を攻んとするは、今市ニ拠り諸道と向はんが為也
一、六日、東の方へ向ひし兵は、会兵并江戸兵、猟人等也
一、先達而日光より会藩江引取、新ニ軍議を定め、再ひ出張と云
一、兵糧、弾薬等は、不絶会の本国より送ると云
一、会の国老山川大内蔵、江戸兵の不振を憤り、会侯の内命を請出張すると云
一、白川口ニ兵を分つ後ハ、今市へ向ふ兵ハ凡千五百人計
一、第一大隊長会〈今見太郎 秋月登之助〉事、宇城より引取白川口ニ出る
一、軍奉行〈江戸〉大島某〈会〉織神某
一、大隊長、加藤平内
一、総督〈会〉田中蔵人〈江戸〉大島敬助
一、高徳ニ七聯隊出張、隊長ハ原平太夫
一、碇藤原辺、第三隊屯すと云
一、大隊司令は、羽織ニ銀の筋四ツ有之と云
一、軍監〈会〉磯貝某
一、砲隊差図役〈会〉布瀬七郎
一、第二大隊長、沼新次郎
一、今四月廿一日於今市被討取候内、小隊長、杉口精一郎、右嚮導平山弥三郎
一、五月六日於同所被討取候小隊長、中根量蔵、半隊長〈会〉岸武之助
右之通

江城日誌・慶応4年4号

江城日誌 第四号
慶応四戊辰年五月十五日

五月十四日
徳川亀之助
上野山内ニ有之候祖先之霊位、重器等、今日中取片付候様、大総督宮御沙汰候事
五月十四日
○高札并市中へ御触之写
過日以来脱走之輩、上野山内其外所々屯集屡官兵を暗殺し、或は官軍と偽り民財を掠奪し、益兇暴を逞する之条、実ニ国家之乱賊たり、以来右様之者ハ、見付次第速ニ可打取若万一密ニ扶助致し、或は隠し置候者於有之者、賊徒同罪たるべき者也
五月
今般徳川慶喜、恭順之実効を表するニより祖宗之功労を被
思食家名相続被仰出、城地禄高等之儀も追々御沙汰ニ相成、末々之者ニ至迄、各其所を得ざる者無之様、被遊度との
思食ニ被為在候処、豈図んや、旗下末々心得違之輩、至仁之
御趣意を拝戴し奉らざるのみならず、主人慶喜之素志ニ戻り、謹慎中之身を以、恣ニ脱走ニ及び所々屯集、官軍ニ相抗し、無辜之民財を掠奪し、兇暴至らざる所なく、万民塗炭之苦ニ陥らんとす、故ニ今般不得止之を誅伐せしむ、素より其害を除き、天下を泰山之安きニ置き、億兆之民をして、早く安堵之思ひをなさしめん為なれバ、猥ニ離散する事あるべからず、篤と
御趣意を体認し奉り、末々之者ニ至る迄、聊心得違無之、屹度安堵致し、各其生業を営み其分ニ安すべき者也
五月

徳川亀之助江
過日以来、旗下末々心得違之者
朝廷寛仁之
御趣意を不奉拝戴、主人慶喜恭順之意ニ背き、謹慎中之身を以脱走ニ及び、上野山内其外所々屯集、官軍ニ抗衡す、実ニ不可赦之国賊也、故ニ不被為得止、明十五日誅伐被仰出候、此段為心得可相達旨、大総督宮御沙汰候事
五月
松平下総守
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并芸州兵隊被差遺候間、万事申合領内取締向ハ勿論、厳ニ軍備を整へ、賊徒落行候者有之節ハ、速ニ可打取、万一不都合之儀於有之者、屹度御沙汰ニも可被及候間、精々不行届無之様尽力可有之旨、大総督宮御沙汰候事
五月
土井大炊頭
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并肥前兵隊被差遺候間以下前同文
五月
松平周防守
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并筑州兵隊被差遺候間以下前同文
五月
○近国之藩々江御達之写
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之領内取締向ハ勿論以下前同文
○上野輪王寺宮江御送ニ相成候
御書之写
今度徳川慶喜、恭順之実効相立、家名相続之儀被仰出候ニ付、旗下之輩、愈以謹慎可在之処、心得違之徒恣ニ脱走、所々ニ屯集、人之意ニ相戻り候のみならず、屡官兵を暗殺し、民財を掠奪し、王化を妨候所業、実ニ不相済次第ニ付、速ニ誅伐ニ可及者勿論之儀ニ候得共、今日迄遷延ニ相成候者、畢竟宮御方ニハ、御懿親之儀故、於朝廷厚き
思召も被為在、於総督宮も深御配慮被遊、御使を以て御登城之儀、被仰入其後参謀をも被差遺候処、御面会も無之、猶又再応覚王、竜王両院をも被為召候得共更ニ出頭不致、此上ハ御救被成進候道も絶果、一方ならず御焦慮被遊候、乍去何分国家之乱賊、其侭被為差置候而ハ、万民塗炭之苦ニ陥り朝憲も更ニ不相立次第ニ付、誠ニ不被為得止誅伐被仰出候間、宮御方急速御立退ニ相成候様可申上旨、大総督宮御沙汰ニ候間、此段申上候、宜執達可有之候也
五月十四日
○各藩之兵隊江御沙汰之写
旗下末々脱走之輩、上野山内其外所々屯集屡官軍之兵士を暗殺し、無辜之民財を掠奪し、益暴虐を逞し、官軍ニ抗衡す、実ニ大罪不可赦之国賊也、最早
朝廷寛仁之道も絶果、断然誅伐被仰出候付而者勇闘激戦、奮て国賊を鏖殺し、億兆蒼生之塗炭を救ひ、速ニ平定之功を奏し、可奉安宸襟旨、御沙汰候事
五月

兼而御軍令にも被仰出候通、猥ニ民家を放火し、家財を掠める等、乱妨狼藉ケ間敷儀無之様、精々可相心得旨、尚改而被仰出候事
五月十四日

江城日誌・慶応4年8号

江城日誌 第八号
慶応四年戊辰五月十八日

五月十六日
御布告書之写
今度上野山内屯集之賊徒討伐之砌、輪王寺宮御立退ニ相成、行衛更ニ不相分候ニ付右御行衛相分り候ハゝ早々可申出旨、御沙汰候事
五月

○肥後、肥前、備前、筑前、筑後伊州、稲田之藩々御達之趣
昨十五日上野ニ而打洩し候残賊、掃除被仰付候条、指揮次第進撃可致候事
但今十六日四ツ時、筋違門内へ相揃、可致整列候事

○昨十五日上野ニ而打洩し候賊、掃除被仰付候条、諸藩兼而之持場吟味いたし、精々可致尽力旨、被仰出候事
但講武所へ可相揃事
広小路三枚橋辺
薩州 因州 肥後
本郷駒込根岸辺
備前 長州 佐土原 大村 肥前
道灌山谷中王子辺
芸州 伊州 筑後
浅草蔵前辺
筑前 尾州

五月十七日
○越後戦争略
一、閏四月十九日薩、長之兵、高田着陣、探索之敵情ニより直様戦略を定め、先達而以来荒井駅滞陣之尾州以下信州諸藩之兵ニ、薩長高田之兵相添、松山越千手辺へ出張、加州高田之兵ニ薩、長之兵相添、柏崎口青海川辺へ出張す
一、同月廿四日薩州一小隊、長州二小隊、松代一小隊、飯山一小隊、尾州一小隊、千手より千曲川を渡、十日町ニ押出す、廿五日暁、路を分て六日町に進入るに、賊一人も不見、昨日小出之方へ逃去候由也、夫より尾州兵を陸地より進め、薩長之兵、川船にて浦佐ニ至り、直様大斥候とし尾兵を橡原峠ニ進しむ、廿六日薩州半小隊、飯山一小隊、尾兵ニ合して、堀内ニ進む、廿七日暁八ツ時過、大雨を侵し、薩半小隊、長二小隊を以、浦佐より魚沼川を渡り、賊之斥候を追散し、小出島を攻撃す、賊駅口及川堤ニ仮炮台を設け、烈敷防戦、薩、長之兵両道より奇正互ニ進、佐梨川を渡り、市中ニ突入、激戦して、遂ニ小出島を破る、堀内之兵ハ、川向より四日市之賊ニ当り、薩長ニ応援す、賊悉く会津道六十里越に逃走す、乃ち四日市ニ飯山之兵、小出島、松代之兵を備、余ハ堀内ニ引揚固守す、此戦暁六ツ半時より一小時間余、薩、長討死九人手負二十人、尾州手負一人、姓名別具、賊之死傷ハ、余程多分有之様相見候
一、同月廿六日暁、尾州、松代、高田等之兵千手より千曲川に沿て進む、賊雷峠之険ニ拠り、山腹ニ砲台を設けて防禦す、官軍四ツ時前より七ツ半時頃迠攻撃、松代兵峰を踰候故、賊敗走、山上より大砲を発候得共官軍終ニ山上ニ押登、賊小千谷之方ニ至る賊既ニ長岡之方ニ走る由にて一人も無之、官軍代而陣屋ニ入、官軍死傷十許人、賊路傍ニ仆居候者一人、生捕四人、其外死傷多く相見候
一、同月廿七日薩州一小隊、長州二小隊、加州二小隊二炮門、富山二小隊、高田一手、前夜より申合、未明鯨波前、七八町迄押出候処、加州、高田等之兵、未来候故、援兵と定置候薩、長之兵を以、直ニ鯨波を攻撃す、賊駅口ニ邀戦ひ、終ニ不能支、人家を自焼して走る、薩長追撃して駅外ニ至る、加州、高田等之兵、追々来り加はる、賊柏崎之前、右手之山ニ依り、松林を楯とし、烈敷防戦す、山下ハ水田にて、是日大雨如傾、渓水暴漲、薩、長半隊を以勇進其山を奪ひ、続て万神堂を攻んとす、加州勢不続、且兵疲たるを以て、鯨波ニ引揚今日長州討死二人、手負七人、高田即死三人、手負八人、加州即死六人、手負廿人、富山手負四人、廿八日桑名、水戸之賊及歩兵等昨夜より柏崎を捨逃走候様子相聞候ニ付、官軍進で柏崎ニ入り、要地を右拠す、賊二三里之間に盤路し、斥候三四十人を出す、官軍撃て之を退く
右三所戦争之概略ニ御座候
五月
死傷姓名
閏四月廿六日雷峠戦
官軍死傷十許人、姓名未詳
高田討死壱人
成瀬道弥
同手負二人
荒木岡作
新田岩二郎
同月廿七日小出島戦
長州討死六人
杉山篤太郎
伊藤俊三
山田藤五郎
大本昇
吉武五郎
清水甚蔵
同手負九人
元森熊次郎
松村新三
飯田伊之助
貞永卯之助
橋本九兵衛
田村次之助
田中与之助
梶山鼎助
前田和吉
薩州討死六人
松崎勘衛
佐藤林蔵
長静吾
臼井道斉
野崎半左衛門
児玉清兵衛
同手負八人
有馬誠之丞
松崎祐斉
高崎泰助
児玉源之助
東次郎太
上村緑揃
和田軍吉
夫卒 直左衛門
尾州手負壱人、姓名未詳
同月廿七日鯨波戦
長州討死二人
増野矢之助
早川文造
同手負五人
生雲平六郎
福良忠三郎
林市太郎
藤川虎之進
剣山三郎
高田討死三人
今井新左衛門
今井与作
京田啓次郎
同手負八人
水野滝之助
田中金之助
山本源蔵
小出豊吉
秋山新吉
幸三郎
幸山七十吉
夫壱人
加州即死五人
水上徳二郎
武井弥惣右衛門
供田小三郎
滝猪之助
壱人姓名未詳
同手負二十二人
高畠猪太夫
西村与三郎
竹村伝次郎
松本市之丞
辻金左衛門
山崎啓之助
千秋覚左衛門
清水権太郎
中山市之丞
安宅常三郎
高桑十左衛門
浦田直次郎
村尾六之丞
西村要助
松山喜十郎
橋本一之進
高橋熊次郎
高橋新三郎
大町弥八郎
鍋沢和吉
大西清作
石黒勘太夫
富山手負四人
上村善六
黒田文之丞
牧砲二郎
坂井弥右衛門
以上

江城日誌・慶応4年9号

江城日誌 第九号
慶応四戊辰年五月廿一日

五月十七日
○奥羽追討之藩々江御感状之写
奥羽之賊徒猖獗、白川城之要地ニ盤居し、益兇暴を恣ニし、官軍ニ相抗し候折柄、去ル朔日奮戦を遂、寡兵を以、忽賊徒を掃攘し、遂ニ城地を乗取、大ニ賊胆を破り候条深感賞候、尚成功之次第速ニ可遂
奏聞候、此上弥抽忠誠、鞠躬尽力可有之候、依而感状如件
慶応四年戊辰五月 大総督
薩州藩 隊長中
長州藩 隊長中
大垣藩 隊長中
忍藩 隊長中
右各通

芸州藩
其藩急々甲府表辺出張被仰付候条、彼地ニ而、万端東海道副総督府之指揮ニ随ひ当府ニ而打洩し候残賊、速ニ掃除可被致旨、被仰出候事

此程御届申上置候東照宮木主、上野事件之節、精鋭隊之者持運、小石川富坂住居罷在候寺社奉行并酒井安房守宅江遷座致し置、日々精鋭隊ニ而警衛為仕置候処、此度田安門内、元田安屋敷内江遷座仕、尤途中之儀ハ、十二三人ニ而警固致候、此段御届申上候、以上
五月
後見 徳川亀之助
松平確堂

五月十八日
各藩江御達之趣
当府内潜伏之残賊、最早退散ニ及び候条、明十八日より各藩ニ而、私ニ襲撃一切被差留候、尤巡邏斥候之ものより、賊徒見付次第書付を以中軍ニ可申出候、臨機御指揮可有之旨被仰出候事
五月十八日

上野山内討伐之節、戦争相働候藩々兵隊、明十九日御覧可被遊旨、被仰出候条辰半刻大下馬前ニ可相揃旨、御沙汰候事
○薩州、長州へ御感状之写
今般上野山内屯集之賊徒追討之節、終日奮戦忽及掃撃候条、深感賞候、尚成功之次第速ニ可遂奏聞候、弥抽誠忠勉励可有之、仍感状如件
慶応四戊辰年五月 大総督
薩州 隊長中
長州 隊長中
右各通

大音竜太郎
柴山文平
右軍監被仰付、上野国為監察被差遣候事
五月

因州藩
右残賊為掃除武州忍表出張被仰出候事
但軍監一人付添之事
芸州藩
右武州忍表出張被仰付置候処、被免今般甲府表江出張被仰付候事

諸藩兵隊当分之間、見付内外之市街、私ニ他行堅く被差留候、尤隊用之儀ハ可為勝手、万一微行之もの於有之ハ、市中巡邏之兵隊より可届出候様被仰付候事
但諸藩兵隊之者、町家ニ屯集、或ハ止宿等一切被禁候事

五月廿日
薩州藩
長州藩
因州藩
佐土原藩
右当府内残賊潜伏之聞へも有之候付、市街巡邏取締可致、尤猥ニ捕縛打捨等被禁候条賊徒見当り次第、急度取糺し申出候ハヽ、御指揮可有之旨、御沙汰候事
但五十員より二千員迄、以下小人数被禁候事

水野下総守
過日以来賊徒所々屯集いたし、民財を掠奪し、官兵を暗殺し、其凶暴至ざる処なし、依而追討被仰付散乱候得共、尚残賊屯集掠奪も難計候間、両総領地并近辺共、精々取締向厳重可致旨、被仰出候事

大村藩
筑前藩
筑後藩
佐土原藩
右明廿一日早朝より、武州青梅迄出張被仰付候条藩々申合、鏖賊候様、尽力可致旨、被仰出候事
筑州藩
右明廿一日早朝より医者一人、兵隊一同、武州青梅辺迄出張被仰付候事
筑後藩
右同文

大総督宮
江戸鎮台被仰出候事
橋本少将
大原前侍従
西四辻大夫
江戸鎮台補被仰出候事
新田三郎
小笠原唯人
江藤新兵
土方大一郎
江戸鎮台判事被仰付候事
北島千太郎
西尾遠江介
横川源蔵
江戸鎮台判事加勢被仰付候事
岩倉大夫
東山道総督被免、奥羽征討、白川口総督被仰付候事
同八干丸
右副総督被仰付候事
穂波三位
大総督府参謀被仰付候事
但錦籏奉行被免候事
河田左久馬
渡辺清左衛門
吉村長兵衛
右同下参謀被仰付候事
右之通被仰出候、夫々相達候事

宇都宮藩へ
過日来度々戦争尽力有之、殊ニ居城焼失定而思諸器械之不足も可有之旨召、小銃百挺下賜り候事
五月