江城日誌・慶応4年3号

江城日誌 第三号
慶応四戊辰年五月十三日

五月八日
○肥前より御届之写
昨七日、弊藩先鋒人数、野州繰込兵隊之内士分二人痛所有之、行軍ニ相後れ、暮六ツ時頃、上野北大門町を、駕籠にて通行いたし候処、何者ニ哉八十人計仕掛参、無体ニ切掛候ニ付、不得止及抜合候得共、何分人少にて不及力、壱人ハ殺害ニ逢、壱人は深手負、同夜五ツ時半頃弊邸罷帰、右之段先鋒宿陣所江申通候処、一隊甚憤怒を生じ、堪兼居候ニ付、相手方之もの御召捕被下候哉、無左候はゞ此方一手を以、及返戦候勢ニ付、先以此段不取敢御届仕候以上
五月八日 肥前侍従内 吉村謙吉
掛紙
相手方始末之儀ハ、隊中恥辱ニ不成様、御所置被為在候間、其藩先鋒之儀ハ、早々可有行進事
○薩州より御届之写
兵士 有吉庄之丞
湯地治右衛門
有馬相八郎
右者斥候之者共ニ而御座候処、昨七日夕時分根岸辺ニおいて、彰義隊之者八九人ニ行逢候処、右三人を取巻、是非屯所江可連越段申聞候得共、相断候処、直様切掛、暫時相戦候由、一人ハ其場ニ而被切伏、敵両人打果、六人ニ手を負せたる由御座候得共、猶追々多人数馳集候付、無拠両人ハ切抜、駒込千駄木町観音堂前まで引取候由ニ候得共、皆深手を負候上、段々追重候付、不得止一人ハ切腹いたし、一人之者も割腹可致之処を、早鉄煙を以被打伏候段、探索方之者届申出候付、追而確証を得、委細可申上候得共、不取敢申上置候以上
五月八日 薩摩藩

五月十二日
○土州より御届之写
会藩并江戸脱走之兵、去月廿九日頃より大桑小百高畑高百辺江繰出し、今市の北毘沙門山ニ旗を建、夜分は所々ニ篝を焚、追々当駅ニ相迫り候ニ付、厳ニ備て相待居候処当月六日、賊終に毘沙門山、栄旧山等ニ兵を出し、従芹沼大谷川を渡り、朝五ツ時頃東の方杉林の中より発炮、追々宇津宮、壬生両街道より進来ニ付、不取敢三小隊を以当之、游軍二小隊両道ニ出助之、砲隊亦左之方より応之、且山上之賊よりも発砲候付、大砲三四発打掛候処、忽散乱仕候、然るに両道之戦勝敗未決、此日別ニ弊藩人数、従宇津宮二小隊計当駅到着之筈ニ付、夾撃可仕と存相待候得共、存外ニ遅刻ニ付、人数三十人計、間道より賊之背ニ出、不意ニ襲来砲撃仕候処、遂ニ敗走折柄宮城より之人数参会、賊兵八方へ散乱仕候ニ付、諸隊一里許追撃仕、七ツ時頃今市江引取申候、討取分取等ハ別紙ニ相認差出申候
五月 土州 板垣退助

橋本順助
宮地元兵衛
谷本忠一郎
右討死
小野早太
高橋喜佐次
上田庄蔵
三木壮之助
小松克馬
田辺豪次郎
佐藤順吉
小松駒之助
西楠太郎
猪石栄太郎
宮地小十郎
森岡団右衛門
江口亀太郎
中島栄太郎
右手負
死亡 馬取 京次
右者今五月六日戦争之砌、討死、手負、如斯御座候以上
五月七日 土州 板垣退助

一、仕付弾薬、三千六拾計
一、小銃、三拾五挺
一、大砲、壱門
一、タス、拾七
一、刀、九本
一、脇差、十二本
一、金、百両三朱
一、白米、一カマス
一、フランケツト、四枚
一、馬、一匹
一、木砲、一挺
一、生捕賊徒、一人
一、討取同、廿七人
但此外賊方江引取候手負、死人不相分、且麦畑、林間、溝中ニ斃居候者も可有之候得共、夫々取調相調不申候付、追而取調之上御達仕候
右者今五月六日、野州今市駅ニおゐて、戦争之節諸隊江討取、分捕等右之通ニ御座候以上

五月 土州 板垣退助
○五月六日於今市生捕候、右嚮導加藤林三郎白状之略
一、専ら今市を攻んとするは、今市ニ拠り諸道と向はんが為也
一、六日、東の方へ向ひし兵は、会兵并江戸兵、猟人等也
一、先達而日光より会藩江引取、新ニ軍議を定め、再ひ出張と云
一、兵糧、弾薬等は、不絶会の本国より送ると云
一、会の国老山川大内蔵、江戸兵の不振を憤り、会侯の内命を請出張すると云
一、白川口ニ兵を分つ後ハ、今市へ向ふ兵ハ凡千五百人計
一、第一大隊長会〈今見太郎 秋月登之助〉事、宇城より引取白川口ニ出る
一、軍奉行〈江戸〉大島某〈会〉織神某
一、大隊長、加藤平内
一、総督〈会〉田中蔵人〈江戸〉大島敬助
一、高徳ニ七聯隊出張、隊長ハ原平太夫
一、碇藤原辺、第三隊屯すと云
一、大隊司令は、羽織ニ銀の筋四ツ有之と云
一、軍監〈会〉磯貝某
一、砲隊差図役〈会〉布瀬七郎
一、第二大隊長、沼新次郎
一、今四月廿一日於今市被討取候内、小隊長、杉口精一郎、右嚮導平山弥三郎
一、五月六日於同所被討取候小隊長、中根量蔵、半隊長〈会〉岸武之助
右之通