江城日誌・慶応4年11号


江城日誌 第十一号
慶応四戊辰年五月廿六日

五月廿五日
○三雲為一郎、小田原より帰言上之次第
私共両人軍監として、小田原へ被差向候処、去廿九日、水野出羽守へ御預之林昌之助其外脱走之賊徒、関門へ押寄候ニ付、中井範五郎儀ハ、大久保加賀守人数引纏ひ、箱根関門へ出張いたし、私儀ハ小田原ニ残り居候処、加賀守家来箱根より立帰、私へ申聞候ニハ、只今箱根関門ニ而戦争之砌、中井範五郎並家来之者ハ、加賀守人数ニ而討取候間、此所ニ御滞留候而ハ、何時之討取も難計候間、早々当所立退候様申聞候ニ付、前後之始末何共不相分候得共、加賀守家来之申次第、非礼反逆之条、加賀守賊徒ニ与し、軍監中井範五郎を殺害ニ及び候事、無相違奉存候ニ付、拙者儀ハ直様当府へ帰申候、此段言上仕候事
○小田原へ御沙汰之写
大久保加賀守
軍監中井範五郎を殺害ニ及び候始末并軍監三雲為一郎を追返し、非礼之所置如何之心得有之候哉、先般林昌之助以下脱走之節、対朝廷不埒之次第、屹度御沙汰ニ可被及之処、寛大之御趣意を以、其分ニ被差置候、就而者此度翻然可抽忠勤之処、無其儀如何之事ニ候哉、屹度及詰問候間、明ニ返答可有之事
五月

来ル廿五日午時於大磯宿、問罪之返答ニ可及事
問罪使 穂波三位
参謀 河田左久馬
軍監 三雲為一郎
因州兵隊
問罪師 長州兵隊
備前兵隊
伊州兵隊
右今廿三日発足ニ而、廿五日午時、大磯着陣之事
○近国之各藩等へ御布告之写
大久保加賀守
右者先般林昌之助以下之賊徒為鎮圧、被差遣候軍監中井範五郎を殺害し、三雲為一郎を追返し候段、其罪顕然不可容、依之問罪之師被差向候事
五月

穂波三位
大久保加賀守問罪師為総督出張被仰付候事
五月
○吉田藩荒井関門詰へ御達之写
頃日林昌之助始脱走之賊徒、箱根山ニ拠り関門を奪取、往返之諸人を切害し候段相聞候付、賊兵追伐并小田原藩問罪として、今日より諸藩被差向、速ニ討伐被仰付候条、其旨為心得相達置候事
五月廿三日

五月廿四日
○徳川亀之助名代松平確堂、一橋大納言、田安中納言へ御渡ニ相成候勅諚之写
徳川亀之助
駿河国府中之城主ニ被仰付、領地高七拾万石下賜候旨、被仰出候事
但駿河国一円、其余ハ遠江、陸奥、於両国下賜候事
五月
一橋大納言
自今藩屏之列ニ被加候旨、被仰出候事
田安中納言
右同文
右三通三ツ折同紙上包
徳川亀之助
今般家名相続被仰出候ニ付、為御礼上京可致候事
五月
一橋大納言
今般藩屏之列ニ被加候ニ付、為御礼上京可致候事
田安中納言
右同文
五月
徳川家臣之輩、自今官位之儀被差止候事右者御対面所ニ於て、大監察使三条左大将殿より御渡ニ相成、参謀西四辻殿并下参謀軍監列座之事

武州飯能賊徒追討戦略
廿二日、賊兵八王子遁逃、遮断之為、筑前兵隊直竹へ相備、秩父遁逃遮断之為、川越兵隊秩父路へ相備、日光遁逃遮断之為、筑前半隊鹿山へ相備、筑前、筑後ハ賊窟横撃として、双柳より進み、備前、佐土原、大村ハ、野田より正面へ相進候様、軍配已成廿三日暁二字、佐土原先駆、入間川を渡り笹井村へ出候処、賊兵林木中へ潜伏砲撃ニ付、野砲小銃ニ而圧倒相戦候央、大村為援兵駆付候処、賊兵既ニ遁逃いたし候、併夜陰ニ而地理未分、賊之伏兵難計ニ付天明を侍、各藩両道より伏兵捜索相進候処野田村外より賊兵猶又狙撃候得共、衝突進撃平原昿野ニ出、撒兵を布衍し、野砲小銃を以、路次之林藪、賊之伏兵を進撃し、飯能市街之前ニ至り、賊窟能仁寺へ注目、吶喊之声山壑を撼し、砲弾如雨、雷電之勢を以、瞬息の間能仁寺前ニ至り候得ハ、賊兵小賊而巳ニ而、頻に横撃候得共、野砲ニ而応戦之内、大村、佐土原各先を争ひ、同時賊窟中ニ入り、能仁寺既ニ煙焔天に漲り喇叭を以諸藩へ先登を報告いたし候、無程智観寺并飯能商家も煙焔相漲り候、商家ハ則賊之敗兵所放火、智観寺ハ則両筑之進撃所放火也、依而両道之兵整頓時刻未十字半ニも不相成各進撃之路より帰陣之処、残賊竹林中より道路を梗塞発砲候付、各藩発砲通行之処、賊兵遁逃跡形も不相見、昼一時扇町谷へ帰陣仕候
一、此日討取処之賊骸、山林原野ニ横り、其数不分明、生捕共凡五六十人、深浅手負数不知
一、官軍手負左之通御座候
備前
浅手負 兵土 瀬賀役次郎
同 同 宍戸久五郎
佐土原
浅手負 小隊長 谷山藤之允
同 兵士 斎藤儀兵衛
大村
浅手負 兵士 岡虎之助
右戦争之次第御届申上候、以上
五月
渡辺清左衛門

五月廿五日
館林 木呂子善兵衛
徴士軍監被仰付候事