慶応4年62号

太政官日誌第六十二
慶応四年戊辰秋八月

【長崎風俗革易ノ事】
八月廿日 御沙汰書写
沢右衛門佐
長崎府之儀ハ御一新後御取立相成候エヘ共、従来旧幕府之筋ヨリ開出港地ト相成、人民相聚リ、一都会ヲモ為シ来候所柄ニ付、積習弊風モ不鮮、人民困窮之次第モ有之趣、自今府藩県一定之御政治相立候上ハ、風俗革易、窮民救助之筋相運ヒ、殊ニ外国交際之場所ニ付、愈以御趣意貫徹致候様、勉励可有之旨御沙汰候事
八月

【戦地ヘ洋医御差遣ノ事】
同日諸道官軍総督ヘ御沙汰書写
諸道官軍暴露ヲ不厭、失矢石ヲ冒シ、奮戦勇闘、追々奏捷効候段叡感不斜候、就テハ往々癘気ニ感シ、創傷ヲ被リ、相悩候者モ可有之ト深ク不便ニ被思召、今般洋医御雇、可被差遣候間、右病気等篤ト治療相加ヘ、精々調護行届候様、可取計御沙汰候事
八月

【公議人、公用人ノ事】
同日御布告写
過日被抑出候、公務人之儀、今般御改ニ相成、公議人ト相唱ヘ、其職ハ即議員ニシテ朝命ヲ奉承シ、藩情ヲ達スルコトヲ旨トス、更ニ公用人ヲ相設、従前留守居役之職務ヲ掌リ居候様可致旨、被仰出候事
八月

【讃岐藩兵東京ヘ出張ノ事】
同日御沙汰書写
松平讃岐守
其藩兵隊五百人、早々東京ヘ出張被仰付候事
八月

【奥州平城自焼ノ事】
同日薩摩藩届書写
江戸表ヨリ奥州平潟ヘ海路相廻候兵隊、先月七日致着岸候処、同国七本松ヘ賊徒台場ヲ築キ、致屯集候ニ付、同十日小名浜ヨリ兵隊繰出、正面又ハ後山手ヘ分隊、或ハ間道ヲ経、三方ヨリ致攻撃候処、賊徒同所左右之山半腹三ヶ所ノ台場ヨリ手繁ク致砲発候ヘ共、前後ノ攻撃ニ難守得、引色ニ相成候処ヲ益進撃イタシ候処、散々ニ致敗走候ニ付、四ヶ所ノ台場都テ取壊、兵隊引揚申候、其時弊藩宮地源太郎手負仕、戦死無御座候、打取候賊七人其余打捨有之候ヘ共、山中之事故死体取調出来兼申候、左候テ、同十三日岩城平攻撃之儀、各藩一同相決、弊藩大砲隊半隊、小銃三小隊十二日十二字頃ヨリ小名浜繰出、致進薄磯、沼之内境ヘ賊徒台場ヲ築居候ニ付、砲発致攻撃候処、賊徒散々ニ敗走、下高久村迄追討、打取一人、暮時分兵隊引揚、沼之内ヘ宿陣致シ申候
同十三日、下高久村宿陣之弊藩三小隊半、晩五字頃同所繰出、進軍致シ候処、下高久村又ハ中山村ヘ賊徒台場ヲ築キ致砲発候ニ付、手配ヲ以テ致攻撃、暫時ノ間ニ両所ノ台場乗取、賊徒悉追払、打取二人有之、直ニ進軍、八字頃平城ヘ押寄セ、且小名浜滞陣之弊藩五小隊ハ同日暁三字過ヨリ、同所繰出、空地山口進軍、クジ山ヘ屯集之賊徒、悉追払、打取二人、八字頃平城ヘ押寄、各藩モ同様、諸口大小砲ヲ以テ致攻撃、外郭ハ無難攻敗候エ共、城中ヨリモ厳敷防戦イタシ候ニ付、容易ニ難攻抜、夕五字頃ヨリ官軍一同、弥猛烈砲発致攻撃候得共、更ニ相弱リ候体モ無之、
且味方暁ヨリ、終日之戦ニテ、相労候間、諸隊先引揚候様命令有之候得共、今引揚候テ、敵又備ヲ立替候テハ、是迄攻詰侯功労皆水泡ト可相成候間、此機ヲ不失可攻抜ト致決策、各藩同意ニテ益烈敷攻詰候処、七字頃ヨリ城中砲撃モ漸々絶々ニ相成、当夜十二字頃自焼、終ニ及落城申候、翌十四日、平城涯ニテ相斃候賊徒、死骸取調候処、四十二人有之、各藩同様攻撃之事ニテ誰之手ニ打留候儀不相分、其他諸藩之掛口固場先ニテ打留候モ有之候エ共、右ハ其藩々ヨリ御届可申上儀ト奉存候
一、生捕六人
一、城内ヘ乗入候処、諸所ヘ死骸ヲ埋候跡有之候エ共、首級細詳取調出来兼申候
戦死手負並分捕
半隊長
戦死 末弘武輔
小隊長
深手 樺山十兵衛
戦兵 税所雄之助 永田彦兵衛
種子島吉兵衛 竹内筍七
松清喜之助 末野角二
末野正之助 末野男蔵
末野仲吾
監軍 半隊長
浅手 監軍 池田次左衛門
半隊長 志々目弥平次
小頭 土持直五郎 東藤太八衛門
戦兵 本多休助 床次勇四郎
江川覚兵衛 東郷勇助
有馬春斎 中村九之丞
志々目藤兵衛 瀬尾助五郎
財部与八 北郷作兵衛
肥田藤吉 岩崎静一
長井守介 今井四郎兵衛
肝付英助 従卒小助
一、大砲 一挺 一、火薬箪笥 拾五荷
一、銃丸 六箱 一、土蔵 但米蔵 五軒
一、四斤半砲 一挺 一、百目位車砲 一挺
一、携臼砲 二挺 一、小銃 拾五挺
一、水蔵 二軒
但一軒六拾五俵入
一軒四俵、其外糖俵数不相分
右之通、奥州岩城平出陣、島津伊勢、島津左衛門ヨリ申越候ニ付、此段不取敢御届申上候、以上
八月廿日
薩摩少将内
新納喜藤二

【越後椎谷、妙見附近ノ戦】
長府藩届書写<追録>
一、五月八日、椎谷家老ヨリ致内通候趣、有之候ニ付、暁官軍椎谷ヘ進撃、弊藩二番、四番小隊、賊兵二十余人討取、其他死傷不知数、薩長死傷一人モ無之官軍大ニ得勝利申候
一、同九日、小千谷、妙法寺両所ニテ戦闘、遂ニ両所ヲ乗取、尾州兵ハ信濃川ヲ渡リ、陣ヲ取申候
一、同十一日、大雨、信濃川満溢、賊兵尾兵ヲ襲撃、苦戦ノ体ニ付、薩長渡川救援ス、弊藩一番、三番小隊引続渡川戦争、妙見、榎峠ハ至テ険岨ノ地ニテ、官軍苦戦、是ヨリ昼夜ノ別チナク奮戦仕候
一、同十三日、長兵間道ヨリ進、余程激戦仕、死傷頗多御座候
一、同十四日、海岸進撃ノ官軍、石地ニテ大戦争、殊ニ得勝利、賊兵出雲崎ヘ引退、官軍続テ進撃、賊不戦シテ逃去申候、是日弊藩兵隊死傷左ノ通
二番小隊
死 所光蔵 傷 富田幾太郎
四番小隊
死 平尾磯之助 長岡勘助
傷 小群伊三郎 中川清吉
一、同十五日、夕刻迄ハ、妙見山ニテ、頻ニ戦争勝敗未決、尤 官軍台場二ヶ所乗取、賊兵会津、長岡、桑名、水府浪士、旧幕府出兵組、必死防戦仕、官軍モ余程苦戦、隊中死傷ノ者有之候得共、何分激戦付テ委細相分不申候、
右之段 、北越出先ノ者ヨリ遂注進候間、其侭不取敢御届申上候、猶委細ノ儀ハ取調、追テ可申上候、以上
六月十五日
毛利宗五郎内
時田少輔
【越後長岡城陥ル】
小浜藩届書写<追録>
去月廿六日、出雲崎御中軍府ヨリ、剣ケ峰、薬師嶺両所ヘ指出置候弊藩二小隊、長岡口応援トシテ出張可仕旨御達ニ付、同日亥刻頃関原宿ヘ着陣、西園国寺殿御本営ヘ御届仕候処、大島村ヘ繰出可申旨御達ニ付、同廿七日寅刻同村着陣、無間信濃川岸松代藩是迄之固場ヘ出張、交代可仕旨御指揮ニ付、同所堡塁持守仕候処、敵陣ヨリ頻リニ発砲ニ付、川ヲ隔テ銃戦ニ及ヒ、同日未刻剣ケ峰ヨリ繰出候人数モ着陣、同所川上元大島ト申処ヘ出張、銃戦仕居候、同廿九日早天、尚亦砲戦中討死等有之候処、長岡城進撃依御達、同所堡塁守衛兵隊川上ヲ渡リ、河原ニテ烈敷砲戦、草生津村ヘ進軍、益砲戦仕候内、川下塁守衛之兵隊モ渡リ、合併追々進撃、遂ニ長岡大手口ヘ攻入候処、賊兵散乱、已ニ本丸ハノ放火々勢盛ニ付、二之丸ヘ第三番乗入、別紙之通分取仕、本月朔日依御達城内引払、盛立峠ヘ押出、高田藩ト合守罷在候
去月廿一日ヨリ、乙茂口諏訪山台場ヘ弊藩兵隊出張後、日夜馬草山之敵ト対陣、砲戦罷在候内、兵隊二人手負有之、且賊砦間遠ニテ華々敷戦争モ無之処、本月朔日早天ニ至リ敵砦之後手ヨリ官軍進撃、賊兵動揺仕候旨、斥候共ヨリ注進ニ付、加越両藩並弊藩軍議シ持場ヘハ小人数残置、敵砦ヘ進撃仕候処、賊何地ヘ歟敗走ニ付、島崎村一泊、翌二日三藩共弥彦宿迄進軍仕候処、依御達同所巡邏、同三日寺泊ヘ転陣、要地ニ斥候等設置、守衛仕宿中巡邏等昼夜相勤罷在候旨、報知御座候、委細之儀ハ取調可申上候エ共、不取敢出雲崎御中軍ヘ御届申上候段、出先之者ヨリ申来候間御届可仕様、若狭守ヨリ申付越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十六日
酒井若狭守家来
藤井清二