太政官日誌・明治元年124号

太政官日誌 第百廿四
明治紀元戊辰冬十月

【館林藩兵、大峠、中峠ヲ越エテ会城ニ進撃ノ事】
十月廿五日館林藩届書写
八月廿一日、黒羽藩、弊藩合併、三斗小屋ヨリ会津ヘ、急速進撃致スヘキノ旨、於白川表御達ニ付、翌廿二日第六字黒羽三小隊、弊藩三小隊、四斤砲車三門、午臼砲三門白川ヲ発シ、於途中両藩同等ニ分隊、両藩ノ二小隊、四斤砲車ハ本道ヨリ進ミ、板室、横沢辺ノ賊ヲ勦シ、三斗小屋ニ会スルヲ約シ、大沢村ニ泊陣<行程四里余>四小隊、午臼砲ハ那須、月山ノ絶嶮ヲ下シ、賊ノ不意ニ出、三斗小屋ヲ取ント議シ、月山ノ趾北湯ニ泊陣<行程六里余>
廿三日、北湯泊陣ノ兵四小隊、猶両分シ、二小隊ハ大丸山ヲ越、賊ノ候兵ヲ撥ヒ、三斗小屋湯所ニ向ヒ、三小隊那須湯本ノ賊ヲ撥ヒ、月山南路ヨリ進ミ、同時ニ三斗小屋ノ賊巣ヲ擣クノ策ヲ定メ、北湯出発、所々ノ賊候兵ヲ掃ヒ、南北ヨリ登攀ス、峭壁千仞、数ケ所鉄鎖ヲ聯ネ、纔ニ道士ノ行径ヲ通ス、飛雨面ヲ撲チ、煙靄咫尺ヲ弁セス、此嶺昇降五里ニシテ、直チニ三斗小屋ニ臨ム、先鋒僅ニ三四五午臼砲三門、路ヲ山南ニ取リ、機ヲ計リ、打放ス、賊モ亦備アツテ迎戦弾撃ス、山路嶮絶後兵継難ク、砲手頗ル苦戦ス、時ニ北路大丸越ノ兵、砲声山谷ニ震スルヲ聴、月山南路ノ兵、先戦ヲ知リ、勇ヲ振ヒ、直下シテ応援シ賊ノ左旁ニ出テ、奇ト成テ烈ク打放ス、賊是ニ由テ乍潰散ス、二路ノ兵追撃シテ、直ニ其巣穴ヲ取リ、夜守ヲ厳ニシ、兵ヲ休ス、賊山路ニ潜走ス
本道ノ兵二小隊ニ、黒羽藩ノ一小隊ヲ増シ、三小隊大沢村ヲ発シ、小谷村ノ賊巣ヲ勦セント進ム、賊風ヲ望テ潰散ス、直ニ進テ横沢村ニ至ル、亦黒羽藩ノ二小隊ヲ増シ、合併五小隊、進テ板室ノ賊ヲ勦シ、約ノ如ク三斗小屋ニ会セント、板室ヨリ二里進ト雖モ、黒夜前途ノ報知ヲ得ニ難ク、沼ケ原ニ野営ヲ張リ、天明ヲ待ツ、廿四日三斗小屋ニ来会ス
三斗小屋ヨリ北方、登ル事一里余、天険ノ切処、大峠ト号ス、奥野ノ境、会領一ノ胸壁ナリ、賊ノ候兵之ヲ守ル、廿四日両藩合併ノ四小隊、険岨ヲ凌歴シ、襲フテ之ヲ取リ、各半小隊ヲ留メテ之ヲ守リ、三斗小屋ニ凱旋ス
廿六日、兵ヲ三斗小屋ニ残シ、黒羽藩三小隊弊藩二小半隊ヲ以テ、進ンテ会領ニ入ル、行程二里余ニシテ中峠ニ至ル、会領二ノ胸壁也左右嶪山邃谷中、一線路ヲ通ス、賊五十人許先ツ要害ニ拠リ、胸壁ヲ設ケテ之ヲ扼ス、我兵死力ヲ出シ、山ヲ踰ヘ、路ヲ取リ、奇正合撃シテ之ヲ破ル、賊野際村ニ敗走ス、我兵コレニ迫ル、賊二百人許、駒返阪ノ険ニ拠リ、砲車二門ヲ備ヘテ之ヲ待ツ、我兵既ニ疲レタル上、砲車ニ後レ、勢殆窘迫ス、然レトモ、将卒必死ヲ極メ、散兵ヲ配リ、山上、山下ヨリ烈ク正横ニ発砲ス、於是賊砲車弾薬ヲ捨テ野際村ヲ自焼シテ潰走ス、前後賊ノ死傷、渓間ニ墜ル者数ヲ知ラス、我兵進テ野際村ニ至リ、軽ク兵ヲ収メテ三斗小屋ニ凱旋ス、尚賊ノ情状、地勢ノ険易ヲ探リ、議ヲ定テ、日ヲトシ、出発セントス
九月朔日朝、若松御在陣参謀衆ヨリ、羽檄到来シ、八月廿三日以来、ホナイ嶺、猪苗代、勢至堂処々ノ険ヲ破リ、会城ニ迫リ、日夜攻撃ニ付、日光口ノ各藩ト会軍、速ニ若松ヘ可討入段、御達有之、将卒一層勇憤ヲ増シ、夫々軍配ヲ成シテ、即日十二字過三斗小屋ヲ発シ、山路ヲ昇降シ、前日去月廿六日賊ヲ破ルノ地ヲ経過シ、数処死傷ノ賊、渓関ニ横ルヲ見、黄昏音金村ニ至リ、両藩宿陣ス、賊我兵ノ至ルヲ聴、隣村ニ火ヲ放テ遁逃スルノ報知アリ、追撃ナサントスレトモ、時遥ニ後レ、既
ニ遠ク去ヲ以テ之ヲ不追、兵ヲ休ス、二日、両藩音金村出発、大地村ニ至ルノ途中民屋家具資財ヲ片付逃去テ、村落悉空舎トナリ、大ニ運輸ノ事ヲ闕ク、賊退ノ前 官軍ノ暴行ヲ流言シテ、愚夫愚婦ヲ惑誑シ、男ハ軍夫トナシ、若松城ヘ伴ヒ、女ハ夫々ヘ離散セシムルノ報知ヲ得テ、大地村ニ着陣ス、日光口進撃ノ芸、肥、宇都宮、中津、今治ノ五藩ハ、先達テ着陣ナシ、火玉嶺ノ賊ヲ破リ、進テ栃沢村ヲ焼払ヒ、退テ火玉嶺ヲ守ル、故ニ賊動モスレハ、山上山下ノ間道ヨリ、大地或ハ嶺上ノ陣営ヲ、襲ントスル気勢アルヲ以テ各藩戒ヲ厳ニシ、明日払暁、嶺上ニ兵ヲ進メン事ヲ議約ス
三日、両藩早天嶺上ニ至テ、地勢ヲ点検ス、路傍左右、皆山ニシテ、山上山腹、険ニ拠テ賊屯集シ、前途ヲ遮ル、我行進ヲ妨ク、於是先ツ兵ヲ進メ、嶺ヲ下シ、賊ヲ動シ、其挙動ニ因リ御指揮可有之旨、御達ニ付、各藩兵ヲ進テ、栃沢村ニ至ル、左右山ニシテ、中央平坦ノ路ヲ通ス、三方守備ノ警戒御指揮ニ付、弊藩一小隊、左ノ山上ニ番兵ス、朝十字頃正面平路ニ於テ接戦相始ル、是ニ由テ応援合撃シテ賊ヲ打砕ク、賊左右ノ山ニ逃登リ、右ハ山巒ノ険、或ハ胸壁ニ拠リ、左ハ樹林ノ間、或ハ険岨ニ出没シテ発砲シ、弾丸雨ノ如ク来ルト雖モ、我兵一歩ヲ去ラス弾撃シ、日没黒夜トナルモ、猶砲声ヲ認メテ打放シ不止、夜十二字頃、賊遂ニ敗績散乱ス、然レトモ、黒夜追撃ニ不及、兵ヲ休ス、此日雨、昼ヨリ夜ニ至テ不止、山上ノ駆馳、悪路殊ニ不便、加ルニ冷寒ヲ増ス、然レトモ、尚夜守ヲ厳ニ成ヘキノ御達ニ付、栃沢村ヘ野営ヲ張リ、弊藩半小隊ヲ増シ、一小半隊ヲ以テ左山上ニ番兵ス
四日、進撃ノ御軍議アツテ、正面黒羽、砲車二門、弊藩砲車一門、二小隊ヲ添、外各藩兵隊コレニ続キ、中央大路ヲ押シ、図ニ中テ打放ノ礟声ニ応シテ、左右山上ノ進撃ヲ始メ、奇正合撃、一時ニ賊ヲ挫クノ策ニテ、左ノ山上山下ニハ、薩藩、宇都宮、弊藩一小隊、右ノ山上ニハ黒羽藩、各寂々トシテ其機節ヲ待ノ処、約ノ如ク、正面中央ノ礮声山谷ニ震スルヲ聴、左右山上弾撃ヲ始、中央ノ砲車、左右山上ノ賊ノ横ヲ打、我兵気ヲ進メ砲戦ス、稍ヤ時ヲ移シ、賊敗走ス、前面山上胸壁ニ拠ノ賊、薩藩之ヲ破リ、谷ヲ隔テ、賊モ見崩ニシテ逃去ル、同時右ノ山上山下ヨリモ攻撃ヲ始ム、中央砲車ノ後ニ進ム、弊藩一小隊モ右ノ山上ヘ駆登テ攻撃シ、倶ニ之ヲ破リ、一時ニ左右正面ノ賊ヲ破テ、中央ノ大路ヲ押ス、賊潰走シテ関山村ヲ自焼ス、惣軍追進テ本郷村ニ至リ、宿陣シ、夜守ヲ厳ニシ、弊藩一小隊、中津藩半小隊ト合シ、村内入口、山上山下ノ不慮ヲ戒ム
五日、御軍議之通、朝六字過惣軍兵ヲ進メ、ソルヌマ川ニ至リ、遥ニ川向集屯ノ賊ヲ打払ヒ、弊藩一小隊、先鋒ニ続キ徒渉シテ進ミ、余ハ御指揮ニ従ヒ後途ヲ守リ、惣軍ノ渡リ終ルノ後、同徒渡リシテ進兵ス、朝十字頃、若松城下裏手新町ヘ惣軍着、各藩御指揮ヲ待ノ処、樹林間、或ハ木石ノ蔭ヨリ発砲シテ我不意ヲ打、黒羽、宇都宮、弊藩ノ三藩、烈ク打払テ迫破リ、弊藩半小隊程、市中入口金銀座ノ家居迄進ミ、火ヲ放チ、兵ヲ揚ク、然ルニ夕一字頃、正面、左右二方ヨリ、賊再来テ発砲ス、弊藩半小隊程、正面ノ賊ニ応シ、分隊シテ左ノ賊ト弾撃ス、賊市中家居ニ潜ミ、出没烈シク発砲シ、我ハ田野ニ在テ、一木ノ楯モナク、苦戦ニ及ノ時、薩横ヲ衝キ、賊忽崩レ立、遂ニ潰走ス、弊藩ノ兵モ進テ之ニ合ス夕四字一点頃、御指揮ニ因テ、城下七日町ヘ繰込、宿陣ス
六日、御指揮ニ従ヒ、城裏飯寺村ニ弊藩人数ヲ繰込、不慮ヲ戒ム
八日朝八字過、賊飯寺村ニ来、二方ヨリ発砲シテ戦ヲ挑ム、弊藩人数持口ヲ固メ、答砲シテ遂ニ打破リ、賊ノ根拠トナルヘキ福永村ヲ薩藩ト議シ、火ヲ放チ、兵ヲ揚ク
十四日八字揃、河原町口ヘ進撃、御指揮ニ従ヒ、砲車一門、三小隊、二ノ郭口、花畑口ヘ繰込ノ処、南町口ヨリ、賊ノ出勢ヲ圧トシテ繰替ル、之ニ因テ地利ニ依リ、胸壁ヲ設ケ、砲車ヲ据、警衛ス
十六日、田島、三斗小屋辺ヘ賊脱走ニ付、砲車一門、一小隊ヲ留メ、残隊白川ヘ繰上、同所参謀衆ノ御指揮ニ可従ノ旨、御達ニ付、人数ヲ分隊ス、砲車一門、人数一小隊ハ、肥州藩ト合、砲車一門ヲ備、警衛スヘキノ御達ニ付、兵隊ヲ繰込、其機ニ応シ、昼夜爆発シ、持口ヲ守ル
廿二日、御取調ノ儀有之ニ付、各藩持口ノ発砲ヲ止置ヘク、然ト雖トモ、守衛場ノ益厳粛シテ、若城中ヨリ一発ニテモ打放アラハ、速ニ打放ノ手配不可怠ノ御達有之
廿四日、会主降伏ノ儀、一昨廿二日御許容ニ相成、城地御受取ニ付、弊藩人数半小隊、夕四字前大手前ヘ繰出シ、各藩ト共ニ御指揮ニ従ヒ、本城ヘ繰込、不慮ヲ戒メ、城地御受取ノ儀、全ク終ノ後、帰営、右之通進撃戦争仕候、戦争中討取、分捕、味方死傷之儀者、別紙之通ニ御座候、以上
辰九月 館林藩総司 会津在陣 斎田源蔵
別紙

首級 一ツ 隊長 村山直衛討之
討取 九人
右於三斗小屋、黒羽藩、弊藩討取
小銃 五挺 小銃弾薬 四千五百発
火薬 三貫目 弾丸 千
剣 十七本 刀 二本
右於同所分捕
討取 九人
右於中嶺駒返坂両所、黒羽藩、弊藩討取
忽砲 一門 小銃 四挺
右於同所分捕
討取 三人
右若松討入之節
生捕 但長岡藩 一人 討取 四人
右於飯寺村
小銃 七挺 小銃弾薬 七百発
雷管 五百粒 大小刀 四本
右若松討入ヨリ於飯寺村分捕
軽傷 総司 斎田源蔵 砲車長 大沼綱蔵
本営附 荒淵源次郎
重傷
林将曹隊 木村峰治 夫卒 一人
右三斗小屋討入之節
戦死
斥候 多賀谷松之助 遊撃隊 永田伴次郎
岡村多膳隊 高柳要之助
右同断之節
軽傷
隊長 村山直衛 村山直衛隊 永野弥
同 石井市十郎 太田十右衛門隊 遠藤貞太郎
本営附 中川勝之助 同 大竹休太郎
右中嶺、駒返坂両所戦争之節
重傷
隊長 岡村多膳 本営附 荒木兼吉
長岡甚兵衛隊 岸清吉 同 島村庄之助
右栃沢村戦争之節
戦死
遊撃隊 高山清記 林将曹隊 津田平吉
太田十右衛門隊 小沢剣之助 長山甚兵衛徒士 栃尾熊吉
軽傷
輜重方 道山小左衛門 村山直衛隊 大野滋
重傷
本営附 本木弥三郎 夫卒 一人
右若松討入之節
右之通ニ御座候、以上
九月
館林藩総司 斎田源蔵
前書之通、出兵先ニテ御届仕候旨申越候ニ付此段御届申上候、以上
十月廿五日
秋元但馬守家来 高山藤内

太政官日誌・明治元年123号

太政官日誌第百廿三
明治紀元戊辰冬十月

【会津方横田大助等自殺ノ事】
十月廿三日松本藩届書写
先月廿九日、会議所ヨリ、奥州横田村庄屋善蔵、賊兵ヘ尽力、謀計ノ聞有之ニ付、弊藩ヘ召捕候様、御達ニ付、神方新五左衛門隊、召捕人敷差出候処、本月二日右善蔵並組頭元蔵生捕、吟味之上、会議所ヘ差出、其上横田村ニ賊兵潜伏モ難計付、取締厳確申付置、右同日奥州玉梨村ニ、会賊山内大学弟横田大助潜伏ノ聞有之趣、依而会議所ヨリ生捕候様、御達ニ付、松代藩五人、弊藩新五左衛門手ニテモ同様、一同玉梨村ヘ出張、所々及探索候処同村山中一ノ沢ト申所ニ、横田大助、飯坂新内、小沢源蔵潜伏、大助、新内儀ハ自殺、源蔵儀ハ自殺致シ懸候ヲ、取押候得共、深疵ニテ絶脈ニ及ヒ候故、両藩召捕ノ者共、談判ノ上、三賊ノ首ヲ切持帰、会議所ヘ是又差出候段、出先ヨリ申越候ニ付、先此段御届申上候以上
十月廿三日
戸田丹波守家来 加藤修理

【奥州火ノ玉峠ノ戦ヨリ会城撃入ノ事】
同日大田原藩届書写
本月二日、火玉峠ヨリ若松城下迄、直ニ進撃可仕手筈之処、同所ヨリ関山村ヘノ路次、栃沢村ニテ賊兵多勢、我進軍ノ路ヲ相妨候ニ付芸州、肥前、宇都宮、弊藩一同進戦ス、尤弊藩兵隊ノ儀ハ、路左ノ山手ヨリ横撃シ、四藩共ニ大奮戦、賊軍ヲ追崩シ、直ニ関山村ヘ進軍候処、同所ニモ賊兵数百人屯集罷在候間、諸手互ニ進ミ、烈敷砲撃候得共、何分賊ハ地利ノ宜ニ拠リ、頗ル防禦ノ術ヲ尽シ、激戦候ニ付、容易ニ敗走之模様無之、且ツ日モ已ニ昏黒ニ及ヒ候間、一先繰揚、休兵仕候、同三日、四日ハ日光口後詰薩摩、肥前、其他両三藩、関山村ニテ戦闘ス、遂ニ宿陣、同五日本郷出発、進軍之諸藩ヨリ、斥候隊二十人宛差出シ、敵地之摸様探索為仕候処、折節賊兵突出、俄ニ及砲戦候ニ付、諸手本軍ヲ以テ、賊兵ヲ打払ヒ、夫ヨリ材木町口迄進撃、同所ニテ良久ク戦闘、勝敗未決、彼我交綏、味方兵隊之儀ハ、同所近村ヘ引揚、終夜警守ス、同六日、各藩各所ニ陣営相定メ、弊藩之儀ハ、西城戸村ヘ移陣、同七日幕之内村ヘ移陣、其後数日休戦、当十三日ニ至リ、明十四日惣軍進撃之旨、参謀衆ヨリ達ニ付、当日辰刻芸州兵隊ヘ合併、材木町口ヨリ進軍、河原口郭外ニテ、暫時砲戦、遂ニ郭内ヘ撃入、良久ク戦闘ス、然処、日モ昏暮ニ追リ、諸軍止戦候ニ付、猶又郭外迄引揚、番兵相勤候、同十六日迄同所ニ屯軍罷在候処、田島辺散走之賊ニモ可有之哉、当十日人数凡四五百人ニテ、大関泰次郎領分三斗小屋村ヘ襲来、放火仕候趣、右者私領分接近之場所ニモ御座候ニ付、会津表出張之兵隊繰揚、城邑警衛厳重可致旨、参謀伊地知正治殿ヨリ被達候間、当十七日会津表引揚、帰陣仕候、前書之通所々戦争之節、弊藩死傷且生捕、分取等、別紙之通御座候、此段御届申上候、以上
九月 大田原鉎丸


戦死 輜重方 宇野良貞 同 江連半之助
銃手 蒲沢健次郎 渡辺久次郎
夫卒 一人
右者去月二日、火玉嶺ヨリ進軍、於処々戦争同五日若松迄撃入候処、輜重隊之分、途中ニテ賊兵ニ被遮、兵隊一同進ミ兼、田島迄引返候処、同九日、同所ヘ賊兵襲来、衆寡不敵、甚及苦戦候節、五人之者戦死仕候事
薄手 銃手 刈田市左衛門 同 室井甚右衛門
右者若松撃入之節、手負仕候
薄手 銃手 笠門久米吉
右者惣軍若松攻城之節、手負仕候
生捕分取如左
生捕 会津槍隊 小林久米吉
右者惣軍若松城攻撃之節、生擒之、同所詰合参謀衆ヘ届之上、斬首仕候
刀 三本 脇差 二本
長刀 一振 剣 四本
旋条銃 八挺 ヒストール 一挺
馬<内一匹鞍置キ> 二匹 弾薬 三百発計
槍 五本 喇叭 一口
タス 三箇 雷管 千五百粒
右之通御座候、以上
九月 大田原鉎丸

本月十七日、会津表出張之兵隊引払帰陣、其後無間断、領分内外警邏為仕居候処、同廿六日、田島口ヨリ脱漏之賊兵、八九百人、百村泊ニテ城下迄襲来之模様、右近村ヨリ追々警報有之候間、夫々手配迎撃之用意中、奥州筋進軍之彦根藩二小隊計、城下泊ニテ通行之折柄、同藩ニテモ弊境騒擾之聞ヘ有之候者、直様応援可致旨申談御座候間、何分敵兵ハ多人数之様子、弊藩一手耳ニテハ甚心支ヘ候折柄援兵之申入レ幸之事ニ付、滞陣相頼候、同朝阿州兵隊モ、奥州ヘ進入、鍋掛駅ニ宿陣候ニ付、是亦応援之儀相頼候処、同夜一小隊、速ニ城下ヘ繰戻ニ相成、尚又黒羽藩ヨリモ、為応援四小隊繰入候ニ付、諸藩申談シ、手筈相定居候内、右賊徒、領内高林村ヨリ石上村通リ、福原内匠知行所滝沢村ヘ相掛リ、襲人之旨、石上村ヨリ警報有之候付、軍議確乎ト示合セ、同廿七日払暁、黒羽藩ニハ佐良土村ノ方ヘ相廻リ、阿、彦両藩之儀ハ、弊藩先鋒ニテ、賊徒ノ遁路ヲ追撃、掃攘可仕手筈ヲ以テ間道ヨリ片府田村迄、進軍仕候処、同所ニテ賊兵休憩喫飯致シ居候付、於同所三藩一同砲戦相始リ、然処、敵ハ頗ル尽力軍配位、我ハ地利不宣、殆ト及苦戦候ニ付、短兵ヲ以テ争ニ相接シ、力戦仕候処、賊兵無程、同所ヨリ二里計相隔候佐良土村ノ方ヘ、敗走仕候付、味方ハ一旦人数引纏メ、暫時休憩、夫ヨリ佐良土村迄、彦藩弊藩、両手追撃仕候処、同所ニハ黒羽藩ニテ激撃仕候ニ付、賊徒浪狽之体ニテ、箒川ヲ渡リ、敗奔仕候趣ニ付、同所ニテ追捨、申半刻過彦藩一同凱旋仕候、此日弊藩死傷且討取、分取等、別紙之通御座候、此段不取敢御届仕候、以上
九月
大田原鉎丸

別紙戦争之節、弊藩人数之内、死傷如左
戦死 使番 阿久津又次郎
薄手 藤田六郎組 印南小右衛門 同 渡辺善右衛門
大砲方杉江一郎組 小林房次郎
右之節、討取、分捕如左
賊 五人
兜 一ツ 刀 一本
陣笠 一蓋 旋条銃 二挺
長刀 一振 タス 一筒
右之通御座候、以上
九月
大田原鉎丸
別紙之通、東京御総督府ヘ御届仕候趣、在所表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
十月廿三日
大田原鉎丸家来 黒木哲平

【明律取調御用ノ事】
同月廿五日脚沙汰書写
水本保太郎
明律取調御用被仰付候事
十月

【切支丹宗改方ノ事】
同日御布告書写
切支丹宗門改方 追テ御規則相立候迄ハ、旧幕府之所置ニ相従ヒ、不審成者、有無取調、来十一月限、弁事伝達所ヘ可届出事
十月

【羽越国境関川、雷附近ノ戦】
同日土佐藩届書写
去十一日、諸道進撃ニテ、雷村屯集之賊徒、掃撃候様御達有之、弊藩一小隊、岩国藩一小隊、前夜四ツ半時中継村出発、半里余ニシテ山谷ニ入候処、頗ル嶮岨ニシテ、細路モ無之巌石ヲ攀チ、蔦蘿ヲ椚シテ、漸ク雷村山上ニ達シ、賊ノ動静ヲ伺ヒ、岩国藩ト申談シ、岩国藩半小隊、雷村右傍ノ山腹ニ出テ、賊ノ砲台ヲ襲撃シ、弊藩一小隊、岩国藩半小隊、山下ヨリ雷村正面ニ突撃ノ手配ヲ以、双方ヘ相分レ、雷村ヲ目掛ケ相進ミ候処、山勢最嶮絶、兵士魚貫シテ谷ヲ下リ候内、嚮導之者道ヲ失ヒ、数十仞ノ懸崖ニ至リ、可下様無之、不得己一先兵士ヲ山上ニ繰揚候処、雷村右傍山腹ニ出候岩国藩半小隊、砲声甚盛ンニ付、又々我兵ヲ無二無三ニ、山ヲ下ラサセ候得共、何分崎嶮之路、可下之手立モ無之、遂ニ夕陽ニ至リ、兵士疲労甚シク、弾薬糧食ノ持夫道ヲ失ヒ、不相続ニ付、無拠人数引揚申候、然ニ弊藩、岩国藩ト渓路相尋候内、僅ニ六七人、別道ヨリ相下リ、雷村ヘト進込候得共、最早薩長等ノ兵砲台ヲ乗取、賊徒散乱之場合ニ御座候、此段御届仕候、以上
九月
土佐少将家来 前野久米之助
去十六日、賊徒諸方山上ヨリ、関川陣所ヘ襲撃、弊藩一小隊、岩国一小隊、関川西ノ山嶺ヘ兼而相固居候処、五時過山下ニテ戦争相始申候ニ付、山上ヨリ少々発砲、追々九時頃後ノ山上所々ヨリ、襲撃候ニ付、両藩諸口固メ場ヨリ砲撃候内、岩国藩相固候嶺上ノ砲台ヨリ、援兵乞ヒ候ニ付、早速一分隊繰出候処、賊一町余ノ所ヘ進来、頻ニ発砲候ニ付、岩国藩厳シク砲撃、七ツ時過山下ノ賊勢相退候得共、山上ノ賊不相退、然ニ頂上ノ外ハ、格別ノ事モ無之旨、弊藩人数、岩国藩ト交替相戦申候、夜ニ入リ、賊勢相弛リ、夜半後遂ニ賊徒引退申候、此段御届仕候、以上
九月
土佐少将家来 前野久米之助
別紙之通、於出先御届仕候趣申越候間、此段御届申上候、以上
十月廿五日
山内土佐守家来 岸本円蔵
校正
○太政官日誌第百六冊目、弊藩戦争御届之内
七月十日之条下
御領内者 領内ノ誤 私者 中将ノ誤
七月廿五日之条下
右ノ台場ハ 五ノ台場ノ誤
七月廿八日之条下
矢島ハ 矢島勢ノ誤
八月十三日之条下
長勢者 長州勢ノ誤
七月廿八日之条下
戸田大学者 戸村大学ノ誤
○第百七冊之内
七月廿九日ノ条下
足軽嘉三郎ハ 喜三郎ノ誤 豊間多嘉治ハ 多喜治ノ誤
本月八日ノ条下
根本半助ハ 羊助ノ誤
八月八日ノ条下
宮崎谷四郎ハ 善四郎ノ誤
手負 小松市之助 書落候
○第百八冊之内
七月七日ノ条下
根本六左衛門ハ 兵右衛門ノ誤
八月十日ノ条下
旗付者 付添士ノ誤
八月十二日ノ条下
羽出村ハ 四羽出村ノ誤 岡本政吉ハ 政治ノ誤 佐竹組ハ 佐竹大和組ノ誤
八月十三日ノ条下
在近士庄助ハ 左近士ノ誤
○第百九冊之内
本月十八日ノ条下
左午子村ハ 左手子村ノ誤 則川向ハ 賊川向ノ誤
八月廿九日ノ条下
岡谷久太郎ハ 兵馬ノ誤
右之通御座候、以上
十二月十九日 佐竹中将公用人 村瀬清

太政官日誌・明治元年122号

太政官日誌 第百廿二
明治紀元戊辰冬十月

【並銭、浪銭通用ノ事】
十月廿三日御布告写
御一新後、万国貨幣之釣合ヲ以テ、並銭始浪銭等、夫々直増通行御定被仰出候処、其国所ニ於テ、心得違之者共、十二文通行ノ処、或ハ六文、或ハ八文位ニ取引致シ、其ニ準シ浪銭等ニ至ル迄、御定通ニ通用不致趣相聞ヘ以ノ外ノ事ニ候、元来貨幣ノ儀ハ、僻地避陬ニ至ル迄、不一様候テハ不相済事ニ付、先達テ金札通用向ニ付テモ、厳重被仰出侯通、府藩県ニ於テ、厳重ニ取調、天下一円定額之通、通用可致様御沙汰候事、

【越後官軍ノ金穀取賄ノ事】
同日御沙汰書写
越後国所在留戊之官軍
同 病院ニ療養之者共
右夫々入用之金穀等、当分其最寄ノ府藩県ニテ、取賄可致旨 御沙汰候事
但、藩々之分ハ、追テ会計官ヨリ御下渡相成候間、資料取調可申出事

【藩主ノ身分届出ノ事(同日布告)】
各藩当主、嫡子、隠居、庶子トモ、年齢、家督、任官、叙位之年月日等、明細ニ相記可差出旨、先達テ御布告有之、追々差出候処、認方区々ニ相成、且疎漏ノ向モ有之候間、更ニ書体並寸法迄、別紙雛形之通、美濃紙ニ相認来ル十一月弁事伝達所ヘ可差出事
当主
領知高 地名
氏通称姓実名
当辰何歳
養子ナレバ
実何某実名幾男
年号干支月日 家督
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官
隠居 氏通称姓実名
当辰何歳
養子ナレバ
実何某実名幾男
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官
嫡子 氏通称姓実名
当辰何歳
養子ナレバ
実何某実名幾男
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官
庶子 氏通称姓実名
当辰何歳
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官

【鷹司入道薨去ノ事(同日御沙汰)】
鷹司入道准后
光格天皇以来数年之間王事鞅掌其労不少、然処薨去之趣、被聞食御哀憫之余、以出格之思食、金五百両下賜候事
十月

【肥州海軍、盛岡領脇ノ沢台場占領ノ事】
同日肥前藩届書写
秋田軍艦乗組弊藩人数、九月十日昼四ツ半時頃、南部盛岡領野辺地乗廻候処、波涛強、致動揺候得共、直ニ台場並宿陣所ヘ及砲発候処賊兵則台場出張致応発候内、一放者帆柱ノ綱ヲ切リ、一放ハ船ノ中央ニ中ル、益及攻撃候処、台場半ハ破壊、討死ノ者モ可有之歟、賊兵堪兼、致遁逃候ニ付、既ニ端舟ヨリ揚陸、進撃可致ノ処、只様風波強ク、進退自由不相成、不得止暁八ツ半時頃相止、同所ヨリ海上十四里、同領脇ノ沢ヘ乗廻リ、揚陸、台場相襲候処、賊逃去、一人モ不罷在、分捕別紙ノ通御座候、以上
九月
海軍 肥州藩
九月十日、盛岡領脇ノ沢台場分捕品、左ノ通
大砲 二門 玉 二十七
合薬 四筥 旗 四流
幕 一張 製薬鍋 二ツ
笠 五枚 印付衣物 六枚
木鋏 一挺 斧 一挺
以上
九月
海軍 肥州藩
弊藩海軍秋田藩軍艦乗組、九月十日盛岡領野辺地ニオヰテ戦争ノ次第、別紙ノ通、出向家来ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候、以上
十月廿三日 肥州藩

【元水藩ノ家老市川等弘道館ヲ襲フ】
同日水戸藩届書写
当春国元脱走之奸徒市川三左衛門、朝比奈弥太郎等、其他会賊共、去月廿八日領内ヘ相迫候ニ付、早速人数差出候処、廿九日未明、城西ノ方、小野河岸ト申所ヘ押来候ニ付、出張ノ人数及防戦候得共、遂ニ河岸ヲ渡ラレ、午剋石塚ト申所ニテ、再ヒ及戦闘候処、何分姦徒之兵勢熾盛ニシテ、我遊撃隊中死傷ノ者モ有之候得共、防キ不得、稍引退ク、城下金町ニ於テ、山野辺主水正一手防戦ス、然ルニ敵ハ衆、我ハ寡、引返シ接戦候内、終ニ弘道館ヘ押入候ニ付、必死防拒ス、朔日未明ヨリ、双方互ニ砲戦之節、姦徒清水陸一郎ト申者、五人計引率シ、史館裏手ノ方ヨリ忍入候ヲ見付ケ、直ニ斬戮ス、翌二日烈敷及攻戦候処、姦徒難支故歟、弘道館内並南北廓中ヘ放火致シ、同夜四方ヘ散乱ス、味方死傷、討取、別紙之通御座候由、東京小石川邸ヨリ、当月十一日仕出ヲ以テ申来候間、不取敢御届申上候尚委細之儀ハ、再報ノ上御届仕候、以上
十月廿日
水戸中納言家来 大野謙介
討取
元側用人 荻庄右衛門 元小姓頭 市川主計
同 荻勇太郎 元小十人 宮田常之助
元徒士 清永陸一郎 元新番 介川治右衛門
元与力 後藤小平太
生捕
元大番 大畠理八郎 元蔵奉行 小泉左十郎
児玉園右衛門 会津人 二人
越後村松人 二人 伊藤辰之介家来 一人
松田半右衛門家来 一人 先手同心 為二郎
郷夫 八人計
右之外、名前不詳者、五六十人討取ル
戦死
目附 鮎沢伊太夫 先手物頭 久米鉄之進
以下平士 太田鉞之介 金子七之助
片岡五郎介 野島斧太郎
亀井宇八 武石伝之助
園部壮之介 松本金左衛門
平山兵蔵 菊池久平
芳賀庄三郎 岡部忠三郎
梶留四郎 鈴木庸介
黒沢忠之進 塀和善之進
山本金吾 田治見荒二郎
武藤貞四郎 桧山壮一邦
手負
大番頭 榎本五左衛門 同上 赤林三郎兵衛
同上 太田新蔵 先手物頭 谷晋太郎
使番 庄半十郎 以下平士 矢野唯之助
皆川源吾 里見平三
国分尚之進 萩谷理左衛門
川辺十松 大胡半次郎
小田倉秀二郎 江原清右衛門
小野崎藤平 菊池五郎左衛門
小池徳二郎 富田彦三
新屋半之助 近藤卯之吉
江幡吉五郎 国友忠之助
川又友三郎 林七太郎
小泉彦三郎 大内幹之介
石川竜之介 津田友吉
和田熊次郎 連枝松平安房家来 五人
家老山野辺主水正家来 四人 家老三木左太夫家来 四人
同鈴木縫殿家来 三人 先方隊 三十余人
神官郷士 死傷未詳 車夫 十人
右之通、討取、生捕、弊藩死傷ニ御座候、以上
十月廿日 水戸中納言家来 大野謙介

【水府弘道館襲撃ノ巨魁下総成田ニテ誅セラル】
別紙御届申上候奸徒巨魁、市川三左衛門等、南筋ヘ逃去候ニ付、為追討、尼子扇之介一手出張之処、下総国成田近村ニ於テ出会及戦争其節討取左之通
元家老 市川三左衛門 同 朝比奈弥太郎
同 佐藤図書 元小姓頭 朝比奈靭負
其外名前不相明大将分、都合二十六人討取従卒不分明、味方死傷モ未詳
右東京小石川屋敷ヨリ、本書同日仕出ヲ以テ報知申越候間、是又不取敢御届申上候、以上
十月廿三日 水戸中納言家来 大野謙介

【羽州小名部附近ノ戦】
福知山藩届書写 追録
弊藩人数一小隊、薩州、岩国、村上兵隊同様去月廿六日午時、中継村発陣、小俣村ヘ進軍候処、賊兵小名部峠ニ砲台ヲ築、厳重ニ相固居候ニ付、諸隊分配及砲戦候処、何分要害堅固ニテ難崩、及苦戦候内、申刻頃、敵兵右手山嶺ニ突出、発砲シ、味方地位不宜、防戦難相叶、不得止一旦其場ヲ引揚、小俣村手前相備候得共、及日暮、且地埋不便ニ候之間、小俣峠迄繰引、同所台場ヲ固守候処、敵兵小俣村民家ヲ放火シ引退申候、右戦争中、弊藩佐原将曹隊松井喜平次、浅手ヲ負申候、此段出陣先ニ於テ、去ル六日御総督府ヘ御届申上候段申越候間、不取敢御届申上候、以上
九月廿三日 栃木近江守内 中野斎

太政官日誌・明治元年121号

太政官日誌 第百廿一
明治紀元戊辰冬十月

【金穀調達取調ノ事】
十月廿二日御布告写
東海道 中仙道 北陸道
附、江州西街道
右三道、春来 官軍出張ニ付、沿道之藩々ヨリ、臨時金穀調達之向ハ、明細取調、書取ヲ以テ会計官ヘ可差出事
但、人馬賃銭等、宿駅ニテ引負ニ相成候分モ、其向々ニテ、取調可申出事
十月

【会津攻撃佐土原藩ノ死傷】
同日佐土原藩届書写
七月廿九日、奥州二本松攻撃之節死傷左ノ通
浅手 戦兵 新名勘右衛門 夫卒 次郎
戦死 甚助
八月廿三日、会津ニテ
戦死 戦兵 伊集院貞之助 同 大久保源之丞
夫卒 万吉
浅手 谷山琢磨 夫卒 力蔵
同月廿六日、同所ニテ
深手 戦兵 有馬弥左衛門 浅手 上村源兵衛
右先達而御届申上置候内、申越洩候間、追而申越候段、奥州出張ノ者ヨリ、書面到来仕候付、此段追而御届申上候、以上
十月廿二日
島津淡路守内 富田三蔵

【野州馬頭、常州石塚附近ノ戦】
同日常陸府中藩届書写
諸藩之脱人並水戸中納言元家来等、凡八百人計、会津表ニテ敗走候哉、野州路ヲ指シ落来リ太田原領石林村ト申所ニテ、太田原藩ト及戦争、其後水戸領野州馬頭村関門ヘ押寄セ候ニ付、宗藩ヨリ追々人数繰出シ、弊藩ヨリモ援兵差出候処、九月廿九日、右賊徒共、同領石塚村ト申所ニテ、宗藩人数ト及接戦、夫ヨリ水戸城下ヘ相迫リ候処、中納言病中ニ付、播磨守出馬、指揮可致旨申来候得共、是亦久々病気ニテ、参覲モ仕兼候次第ニ付、雅楽頭出馬致候旨、在所表ヨリ申来候間、此段不取敢御届仕候、以上
十月廿二日
松平播磨守家来 浜野英次郎

【越後小俣峠附近ノ戦】
同日福知山藩届書写
弊藩人数一小隊、去ル十二日未明ヨリ、小名部口ヘ進撃、薩州、岩国、新発田、村上兵申合、小俣村川手前ヨリ、諸手分配、弊藩兵隊ハ川向高山ヨリ、賊之背ヲ襲ントノ手筈ニテ川ヲ渡リ、裏手ヨリ相登リ候処、案外ノ深樹嶮岨ノ地ニシテ、時刻遅延ニ相成リ、午刻過漸ク絶頂ニ到ントスル十四五間距ル嶺上ヨリ賊兵烈敷発砲候ニ付、速ニ相応シ、砲撃ニ及候得共、何分樹間孤立ニテ、三尺ノ先ハ見エ難ク、賊ハ便利枢要ノ地ニ待チ設ケ候儀付、甚苦心罷在候内、賊兵山下ニ相廻リ、左右ヲ取囲ントスルノ旗色、如何共手配難致、不得已其場ヲ引揚ケ、山ヲ下リ、賊ノ正面ニ向ヒ暫時砲戦シ、申刻過諸手小俣峠迄繰揚申候、此日弊藩死傷別紙之通有之候、此段御届申上候、以上
十月
栃木近江守家来 榊原甚五右衛門

深手 白井武男隊 佐山郡八
同月十九日病院ニテ死
右之通御座候也
十月
右之通、出張ノ者ヨリ申越候ニ付、不取敢御届申上候、以上
十月廿二日
栃木近江守家来 北条束

【会城攻撃西大路藩ノ死傷】
同日西大路藩届書写
八月廿三日、会津城ヘ討入ノ節、滝沢口ニテ賊徒襲来、一戦有之、弊藩死傷左之通御座候此段御届申上候、以上
討死 土州藩附兵糧方 豊島作次郎
深手 長州藩附同小者 常吉
以上
九月
白川口兵糧方 市橋下総守家来 田中善左衛門
別紙之通、白川口御総督府ヘ御届仕候旨、申越候ニ付、此段御届申上候也
十月廿二日
市橋下総守公用人 大津忠右衛門

【越後駒ケ峰、村上附近ノ戦】
同日岩国藩届書写二通
本月朔日、山手進軍ノ令ヲ奉シ、朝六字新山発足、宗藩鋭武隊一同、間道ヲ経テ、敵営浪江駅ノ後面ニ出ツ、銃砲ヲ以テ直ニ敵営ヘ打入候、賊徒不意ニ尾撃セラレ、進退途ヲ失ヒ本道或ハ東西ノ間道ヘ敗走ス、本道進撃ノ正兵モ、互ニ相進、大勝利ヲ得テ、兵ヲ浪江ニ約メテ宿陣ス、右戦状概略如此御座候、以上
八月
吉川駿河守家来 有福新輔

八月十一日、諸藩三手ニ別レ、駒ケ峰進撃被仰付候処、弊藩一中隊之儀ハ、西山村押トシテ出張被仰付候間、今日進軍不仕候、然処十二字頃宗藩本道ニ相進候一中隊、一旦敵塁ヲ攻落候得共、後詰ノ兵無之、殆ト苦戦ニ付応援之儀申越候付、直様一小隊、西山ヨリ繰出候途中ニ於テ、御使番ヨリ駒ケ峰ノ方ハ、已ニ十分ノ利ヲ得候得共、山ノ手徴兵、久留米、只今苦戦危急ニ付、相援ケ候様トノ事ニ付、味方先手之方無覚束相考候得共、無拠一小隊右手ノ山上ニ繰上ケ、一二声発砲致シ候得共、伊州兵モ已ニ立交リ、且敵間余程遠ク候ニ付、宗藩申越候儀無覚束、本道ヘ直様駆抜候処、已ニ駒ケ峰関門打破リ、悉ク放火ニ及ヒ、敵天ニ敗走ニ相成候間、人数引円メ、其夜ハ同所番兵相勤メ候、当日怪我人等一向無之候事
此日兼而本藩砲隊ヘ相加ヘ置候弊藩長友衛ト申者、一人手負ニ相成候処、此段ハ本藩ヨリ届出可申ト奉存候事
右之通御届仕候、以上
八月
吉川駿河守家来 有福新輔

今十六日十字過、賊襲来ノ様子ニ付、駒ケ峰黒木ニ当リ、砲声相聞候ニ付、長州二中隊、浜手本道ヘ為応援致出張候様、御沙汰ニ付、弊藩一中隊直様駒ケ峰ヘ駆付候処、本道筋近辺ハ、筑州兵打合中ニ付、山ノ手ヨリ横合ニ出ント、筑兵ヘ諜シ合セ、間道ヨリ賊ノ後口曠野間小高キ所ヘ進ミ出候処、賊不意ヲ打レ狼狽ノ体ニテ、俄ニ逃出シ候者有之候得共、暫ク方面ヲ替ヘ、僅十五歩ノ所ニテ発砲致シ居候処、賊ヨリ味方打カト疑ヒ、白号旗ヲ以テ松林中ヨリ麾キ候付、此方ヨリモ号旗差揚候処、弥厳敷発砲致シ候内、味方右小隊山上ヘ廻リ出、継テ久留米半小隊計、一同致発砲候ニ堪ヘ兼、本街道ヘ向ケ潰散シ、其内十人許、一簇ニテ槍剣ヲ携ヘ返撃候得共、無難斬捨申候、然処、後面ノ原中ヨリ、一中隊乃至二中隊計、応援ノ為ニ候哉、我前路ヲ相支候様子ニ付、筑後兵ヲ押ニ残シ置キ、再ヒ間道ヨリ、後面ノ山路ヲ経テ、賊ノ横合ニ打入ラント、備ヲ廻シ候内、筑後兵ニ向ヒ来候付、筑兵ヨリ暫ク発砲候得共、弾薬尽キ候付、其侭伏致シ候得共、賊兵疑ヲ生シ候哉、進ミ来ラス、弊藩隊後面ヘ廻リ候得ハ、既ニ退去直ニ本道筋七八町許押出候得共、賊一人モ無之候ニ村、我兵ヲ約メ、駒ケ峰ニ引上ケ、雨中ニテ、殊ニ兵士モ相労レ候ニ付、浜手ヘ相進候一中隊申合セ、直様中村ヘ引取申候
手負 官司令 二宮富太郎
首一級打取 <仙台隊長青木清太郎之首也>
八月
吉川駿河守家来 有福新輔

昨廿日暁七字ヨリ、駒ケ峰番兵交代之筈ニ付支度相調候内、追々砲声相聞候付、直ニ出張候処、駒ケ峰ハ筑州、長州兵ノ外応援無之、今暁以来朝糧モ不遣内ヨリ賊兵押寄セ、殆ト苦戦ノ模様ニ付、弊藩一中隊之内一小隊ハ本道ヘ向ケ応援、持口相固メサセ、一小隊ハ山ノ手ヘ繰上ケ、賊ノ背ヘ廻リ候積ニテ進候処宗藩応援ノ兵、鋭武一中隊継テ出張、山道ヨリ直ニ賊営ヘ押寄、双方砲撃甚ク、我兵先ニ進候分、地理不宜、右同所ヘ続テ押出候処、存外左右ヨリ砲撃烈シク、手負数多有之、何分地理不便ニ付、再ヒ一隊ヲ繰替、賊ノ要衝ニ、横合ヨリ芸州勢一同相進ミ、直ニ賊ヲ追落シ、芸肥両兵同所ニ留メ置キ、我兵ハ前面ヲ隔候賊之要衝ヘ進入、本街道ヘ向ケ追落候得共、本街道ノ賊モ後面ヲ襲レ、海辺ヘ向ケ落行候モ不少、遂ニ尾撃シテ新地村迄相進宗藩兵其余一同相約メ、駒ケ峰引取、番衛相勤候事
手負 一番兵士 亀井文一郎 松浦良太郎
福山文人 河野弥介 熊谷藤三郎 井上安次郎
二番兵卒 新庄祥太郎
右之通御届仕候、以上
八月
吉川駿河守家来 有福新輔

右之通、奥州出先ヨリ東京鎮将府ヘ御届申上候旨申越候ニ付、不取敢御届仕候、以上
十月廿二日
吉川駿河守家来 勝屋九一郎

八月九日、弊藩一小隊米沢口、一小隊村上口ニ進ミ、米沢口ニ進ム兵ハ、同十日、坪穴ニテ因兵ト共ニ賊ト戦フ、十二日、重テ榎峠ニ戦ヒ、両度トモ大ニ勝利ヲ得ル、黒川何某、榎峠戦争之後、弊藩ニ依リ降伏ス、村上口ニ進ム兵ハ、福知山一小隊ト共ニ、十日ノ四時佐々木村ニ着ス、川向ヒ渡守ト申所ニ、賊台場ヲ築キ六七十人位モ守ル、直ニ砲撃シ、川ヲ隔テ打合ヒ、弊藩兵川ヲ渡リ、遂ニ台場ヲ乗収、賊散乱、福知山兵モ川ヲ渡シ、平林迄追詰、夕七時惣軍佐々木ニ引揚ク、此日弊藩ニテ分捕如左
大砲 二門 大砲弾薬 十一箱
十一日、村上城下ニ進軍、賊兵城ヲ自焼シテ退散ス、其後村上兵降伏、或庄内ヘ逃込分モ有之候、十四日村上出発、順々進軍、猿沢ニ三泊シ、此所ニテ米沢ノ米廩七箇所、弊藩ヨリ封印シ、先鋒中軍ヘ御届申上候、廿日荒川口庄内ノ斥候三十二人来ル、宿外ニテ暫時ニ追払ヒ、廿六日四時薩兵半隊、福知山一小隊、村上一小隊、弊藩二小隊、右先鋒ニテ庄内ニ討入リ、小俣ノ賊ヲ一時ニ打払ヒ候得共、賊ノ頼トナス小俣ト、尾名部ノ間ニ台場十三ケ所位モ固メ居リ、賊ハ要害堅固ニテ官軍苦戦、夜ニ入リ中継村迄惣軍引揚ケ、当村相固ム、此日弊藩手負一人
軽卒 岡平槌
右之通、北越出先ヨリ申越候付、此段御届仕候、以上
十月廿二日
吉川駿河守家来 勝屋九一郎

太政官日誌・明治元年120号

太政官日誌第百二十
明治紀元戊辰冬十月

【法華宗ヘ御沙汰ノ事】
十月十八日御沙汰書写
法華宗京都十六本寺
頂妙寺 立本寺
本隆寺 妙蓮寺
本法寺 妙顕寺
妙覚寺 本満寺
本禅寺 妙伝寺
寂光寺 妙泉寺
要法寺 妙満寺
本能寺 本国寺
王政御復古、更始維新之折柄、神仏混淆之儀御廃止被仰出候処、於其宗ハ、従来三十番神ト称シ皇祖太神ヲ奉始、其他之神祇ヲ配祠シ、且曼陀羅ト唱エ候内エ天照皇太神、八幡太神等之御神号ヲ書加エ、剰死体ニ相着セ候経帷子等ニモ、神号ヲ相認候事、実ニ不謂次第ニ付、向後御禁止被仰出候間、総テ神祗之称号、決而相混不申様、屹度相心得、宗派末々迄、不洩様可相達旨御沙汰候事
但、是迄祭来候神像等、於其宗派設候分ハ速ニ可致焼却候、若又由緒有之、往古ヨリ在来之分ヲ相祭候類ハ、夫々取調ヘ、神祗官エ可伺出候事
十月 行政官
無本寺 洛東岡崎村 満願寺
諸国本寺之分
遠州見附駅 玄妙寺 駿州富士山大宮 久遠寺
同 上野 大石寺 同 上野 妙蓮寺
同 北野 本門寺 同 岡宮 光長寺
同 国岩本 実宗寺 同沓之谷郷之内貞松 蓮永寺
甲州身延山小室 久遠寺 同 妙法寺
同 大野 本遠寺 同 休息山 立正寺
豆州玉沢 妙法華寺 同 伊東 仏現寺
相州片瀬竜之口 竜口寺 同鎌倉日企谷 妙本寺
武州池上 本門寺 同 真間 弘法寺
同 平賀 本土寺 同 新造 妙顕寺
房州小湊 誕生寺 同 東条小松原 鏡忍寺
上総興津 妙覚寺 同 藻原 妙光寺
同 小四檀林 正法寺 同 鷲巣 鷲山寺
下総中村檀林 日本寺 同 中山 法華経寺
常州水戸 久昌寺 奥州会津若松 妙法寺
能登滝谷 妙成寺 越後村田 妙法寺
同 蒲原郡 本成寺 佐渡阿仏 妙宣寺
同 塚原 根本寺 泉州堺 妙国寺
紀州若山 報恩寺 同 養珠寺
摂州尼崎 本興寺 芸州広島 国前寺
肥前松尾山 勝光寺
右同文 各通

【奥州藤原口ノ戦】
同日今治藩届書写
八月廿二日、白川口御総督府ヨリ、惣軍諸道ヲ取リ、会城エ討入之御達有之候ニ付、兼而申上候通、日光警守之人数分隊、同月廿九日藤原口進軍仕、九月二日大地村エ着陣仕、翌三日栃原辺戦争之趣ニ付、中津藩申合、為応援相進候途中、軍監之命ニ依テ引返シ、大地村火玉峠ニ守衛罷在候、翌四日関山ノ賊進撃候様、軍監ヨリ申来リ、中津藩ト協力、鬨ヲ作リ攻撃ス、朝五時ヨリ夕七時比迄及奮戦、賊兵終ニ関山宿ヘ火ヲ放チ、敗走仕候ニ付、尾撃シテ本郷村ニ至リ宿陣仕候、同五日払暁藤原口進軍ノ各藩申合、斥候隊差出、本郷村ヨリ七八町隔リ候大川向マテ、暁霧ニ乗シ相進候処、真向ノ林中ニ屯集ノ賊ト及砲戦、暫時ニシテ賊徒敗走仕候、折柄本軍川上ヲ渡リ四時頃若松城下材木町ノ西裏手ヘ相廻候得共近辺賊屯集ノ模様モ無之ニ付、兵糧ヲ遣ヒ罷在候処、東ノ方林中ヨリ、賊兵急襲ニ付及戦争、八時頃賊左右エ分隊、三方ヨリ打掛リ、甚及苦戦候中、黄昏ニモ相成リ、諸藩一同、若松城下七日町ヘ引揚申候、同夜同所ニ宿陣ス、同六日飯寺村エ移陣、同八日朝五時頃、朝霧ヲ冒シ、賊四五十人許見張番所エ襲来、館林藩ト申合、烈敷及戦争候処、直ニ賊潰走仕候、同十四日薩州四番大砲隊、中津、館林弊藩会城打入之談合ニテ、城ヨリ東、観音堂前ヨリ相進、杉ノ森ト唱フ処ニ宿陣仕候、其他探リ打ニ均キ発砲、且見張所等相構候儀モ有之候得共、別段御届申上候程ノ儀ニモ無之候間、書略仕候、同十八日今市出張鍋島監物殿ヨリ書状到来、田島辺賊多人数屯集ノ趣、就而ハ日光表守備甚手薄ニ付引返シ、全軍ニテ守衛仕候様トノ儀ニ付、早速軍監エ申達候処、最早落城同様ノ事ニモ候得者、日光表エ合兵警守可仕旨、御達ニ付、翌廿日ヨリ発足仕候、手負、分捕左之通
手負
銃士 中西弥三郎 物頭朝山清四郎足軽組 野田鍵之助
石川郡太郎
分捕
手銃 一挺 胴卵 三ツ
大小 二腰 鉢金 一ツ
番具足胴 一ツ 槍 一本
舶来板銀 十七枚 米 三石
右之通御座候、以上
十月
久松壱岐守家来 戸塚求馬
右之趣、鎮将府エ御届仕候段申越候付、御届申上候、以上
十月十八日
久松壱岐守家来 池上邦五郎

【越後陣ケ峰附近ノ戦】
同日小野藩届書写
弊藩兵隊、兵部卿宮様ニ随従、六月廿二日出京、七月廿日、柏崎御本営エ着陣仕候処、下参謀楠田十右衛門殿、松尾但馬殿ヲ以、関原エ出張候様被命候付、即夜出陣、翌廿二日卯下刻頃、関原エ着陣、西園寺様御本営エ、進退相伺候処、吉井幸助殿ヲ以、与板口エ出張御差図付、翌廿三日関原出陣、同日巳ノ下刻頃与板エ着陣 御中軍会議所エ為御届罷出候処、長藩杉山荘一郎殿ヨリ、即今憩兵地理点検可致旨、依差図而午刻後所々巡邏致シ候処賊徒向山数ケ所ニ砲台ヲ築キ屯集 官軍モ胸壁ヲ構エ対陣、距離凡四五町計ニ相見申候、同廿五日、会議所ヨリ御呼出ニ付、罷出候処杉山荘一郎殿ヨリ、即剋陣ケ峰エ出張ノ儀被命、尤松代藩申合候様トノ儀ニ付、同日未刻頃、弊藩人数繰出シ、松代並飯山隊併合ニ而同所胸壁ニ拠リ対陣、日夜厳重守衛罷在候内八月朔日暁寅剋頃、兼而御布令ノ依合図而弊藩分隊及砲戦候処、賊ヨリモ是ニ応シ、頻ニ発砲付、尚亦弊藩分隊、胸壁ノ側ニ散布奮発及砲戦申候、同日朝辰剋頃ニ至リ、賊陣所々自焼、遁去ノ体ニ相見エ、山壑一時ニ黒煙覆天候付、追々各藩一斉及進撃、賊巣ヲ屠リ、残焼ノ小屋放火致シ、所々探索候得共、賊徒一人モ相見不申候付、陣ケ峰エ揚取、猶厳重相守候所、同二日斥候ノ者残シ置、兵隊一ト先引揚候様、会議所ヨリ御達付、同所引揚、同五日三条エ繰出シ被 仰付、同六日到着後、西園寺様御守衛並同所市中巡邏等被 仰付、且又荒町村見張相務居候処、去ル六日出雲崎出張御達ノ旨、同九日承知仕候付、同十一日出雲崎出張已後、市中巡邏並見張等相勤罷在候、右砲戦ノ砌銃創
薄手 田鹿藤左衛門
其外傷兵等無御座候段、御総督御本営エ御届申上候旨、惣括原田又兵衛ヨリ、九月十七日附ヲ以申越候ニ付、此段御届申上候様、在所表対馬守ヨリ申付越候、以上
十月十八日
一柳対馬守家来 福島漠

【会城攻撃薩藩ノ死傷】
同月廿日薩藩届書写
去月廿二日、会津容保自身、歎願書差出、謝罪降伏相成候ニ付、右歎願書写相添、去ル四日須磨敬二郎ヲ以、軍務御役所迄御届申上候次第御座候、右ニ付於諸所、弊藩死傷別紙之通御座候間、此段御届申上候、猶委細之儀申越候者、其節御届可申上候、以上
十月
薩摩少将家来 新納嘉藤二

会津並於諸所進撃ニ付戦死
伊佐敷金之進
右八月廿日、二本松領之内、山ノ井ニ於テ戦死ス
足軽 木原藤一郎 夫卒 岩右衛門
右八月廿一日、会津領ポナイ峠ニ於テ戦死ス
田中小太郎 上原正八郎
藤井才之助 川上彦八郎
苗田勇吉 中島岩次郎
米良仲之亟 猪俣壮七郎
奈良原弥六左衛門 萩原強之進
松崎壮八 丸田喜右衛門
夫卒 小左衛門 富次 藤右衛門
勝三郎 林太郎 藤助
藤左衛門 伝蔵 喜之助
藤四郎 半左衛門 山下助右衛門下人 栄蔵
玉ノ井村道案内 木場孝之助
右八月廿三日、会城攻撃之節戦死
疣岡八郎 福富嘉右衛門
右八月廿四日、同断
加藤郷兵衛 西田藤助
右八月廿六日、同断
山内次郎 足軽 加藤次左衛門
右八月廿三日、会城攻撃之節手負、九月三日死
竹内正介
右八月廿三日、同断之節手負、三春病院ニ於テ死
川崎休右衛門
右八月廿三日、同断之節手負、同所ニ於テ九月十四日死
山口彦八
右八月廿六日、同断之節手負、於同所九月六日死
山本中助
右八月廿六日、同断之節手負、於同所九月五日死
諏訪次郎右衛門
右八月廿七日、同断之節手負、於同所九月五日死
川上四郎次
右八月廿八日、同断之節手負、於同所九月五日死
藤崎勇蔵
右八月廿九日、同断之節戦死
夫卒 松蔵
右九月九日夜、天寧寺町口ニ於テ戦死
米良清之助
右九月十四日、川原町口ニ於テ戦死
会津並諸所ニ於テ進撃之節手負
吉井七之亟
右八月廿一日、二本松領之内、山ノ井ニ於テ手負
平田九十郎 川上嘉次郎
右八月廿一日、会津領ボナイ峠ニ於テ手負
佐々木清蔵
右八月廿一日、二本松領玉ノ井村ニ於テ手負
種子島宗之丞 百幸衛下人 仲助
堀八太郎下人 喜助
右八月廿二日、会津領ボナイ峠ニ於テ手負
藤崎清之丞 夫卒 源八
右八月廿二日、会津領於猪苗代手負
大脇源左衛門 益山次左衛門
武郷兵衛 梁瀬源次郎
村田源助 筒井清五郎
毛利権之丞 左近允新六
川崎仲之亟 蒲生彦四郎
榎本源次郎 市来宗次郎
山田直四郎 小出健斎
若松喜介 自浜助之進
奥清輔 松方長作
飯牟礼休左衛門 梅北八郎左衛門
淵辺彦二 汾陽直次郎
肥後平八 梅北伊八郎
竹内惣七 大山弥助
新納荘右衛門 木藤吉左衛門
土師孫市 大山十郎次
浅田政次郎 川上源七郎
有馬七左衛門 種子島宇左衛門
畠山源七 和田乗太郎
廻新次郎 山口直右衛門
福島良介 讃良竹五郎
市成彦右衛門 西佐一郎
松元彦四郎 酒匂軍助僕 金助
夫卒 民助 仁助
清次郎 喜助
長蔵 仲蔵
右八月廿三日、会城攻撃之節手負
古河源助
右八月廿三日、玉ノ井ニ於テ手負
村山源左衛門 夫卒 甚吉
右八月廿四日、手負
夫卒 松太郎
右八月廿五日、手負
東郷巳之助 桐野藤五郎
右八月廿六日、手負
郡山甚後左衛門 山形竜次郎
右八月廿六日、会城攻撃之節、於建福寺門前手負
加治木彦太郎
右八月廿八日、手負
竹山藤右衛門 夫卒 小次郎
右八月廿九日、手負
柏原吉左衛門 石原七郎太
右九月八日、飯寺ニ於テ手負
夫卒 伊助 勘太郎
右九月十一日、手負
谷村孫七
右九月十二日、会津攻撃之節、於六日町口手負
二階堂彦太郎
右九月十四日、手負
向井納四郎 肥田軍右衛門
豊丸与藤次 曽木彦次
右九月十四日、会城攻撃之節、於河原町口手負
川南東右衛門
右九月十五日、青木村ニ於テ手負
松田健四郎
右九月十七日、手負
夫卒 市之亟
右九月廿日、手負
以上 巻尾

太政官日誌・明治元年119号

太政官日誌第百十九
明治紀元戊辰冬十月

松代藩、北越戦記写 其四
一、七月二十九日 官軍大勝、長岡城ヲ復ス初廿五日ノ変、我兵憤怒ニ堪ヘス、本日黎明薩長両藩共ニ妙見口ヨリ進撃ス、於是躍起シ乃路ヲ分ツテ、三番小隊ハ本道ヨリシ、六番八番ノ狙撃隊ハ川辺ヨリス、長兵先ツ賊ヲ破リ、水梨村ニ至リ、我狙撃隊ハ笹花村ヨリ、中島ニ到リ、賊ヲ破リ、長州ノ兵ト会シ、左近村ニ転ス、賊徒予シメ砲台ヲ設ケ勁拒ス、乃共ニ之ヲ撃チ、薩兵来援、然ルニ鋭進深入ノ故ヲ以テ、賊兵我背後ニ出ルヲ慮リ、我兵ヲシテ又川辺ニ行、賊塁エ向ツテ撃進セシム薩兵復来会ス、此時川西大島口ニ在ル官軍妙見口ノ進撃勝ニ乗シ、已ニ長岡エ逼ルヲ見加州ノ兵一小隊、川ヲ渡リ来会ス、於是議シ薩兵ヲ以テ川辺ヲ警備シ、我兵朝餉未タ終ラス、長兵方ニ苦戦スト聞キ、投筋シテ赴援ス賊兵拒ク能ハス、塁ヲ棄テ走ル、則長兵ト共ニ尾撃ス、時ニ本道ノ 官軍苦戦ノ報アリ、又長兵ト共ニ赴援ス、已ニシテ川西ニアル我兵、大砲一門並各藩ノ兵、続キテ水ヲ渡ル、我狙撃隊弥進、賊ト戦ヒ、遂ニ草生津口ヨリ先登長岡エ入リ、城門外ニ到ル、賊已ニ城中ニ放火シテ逃ル、則城ニ入ラズ、直チニ賊ヲ追撃、市外北口ニ到リ、三番小隊ト遇フ、先是三番小隊ハ、今朝本道ヨリ進ミ、十日町ニ到レハ、賊已ニ逃ル、則急追シ、路ニ薩長ノ兵ト会シ、宮内村ニ入ル、賊徒宮原村二砲台ヲ設ケ、大小砲ヲ連発シ、死ヲ以テ拒守ス、勢尤悍強ナリ、我兵直ニ逼ツテ、前面ノ溝中ニ散布シ、烈シク狙撃ヲナス、士卒半身水ニ没シ、刻苦激戦、一時半余、頗飢労スト雖、午餉スルニ遑アラス、加ルニ銃筒熱シテ火ノ如シ、互ニ水ニ点シテ装発ス、賊終ニ砲台ヲ棄敗走、則其塁ヲ取リ、急転別処ニ向ヒ、賊ノ側面ヲ撃、又其塁ヲ取ル、長州ノ兵亦突進シテ、本道ノ賊ヲ破ル、乃相共ニ城ニ入ラントス、然ルニ城外追撃ノ兵寡キヲ慮リ、更ニ城下ノ賊ヲ蒐リ、遂ニ狙撃隊ニ会ス、已ニシテ蔵王村辺ニ当リ砲声アリ、乃共ニ進ンテ石内村ニ入ル、賊徒已ニ下条村ニ走ルト聞キ、再ヒ長州ノ兵ト会シ、共ニ掃撃シテ池之島村ニ到リ、翌八月朔、北ルヲ追フテ見附駅エ進軍ス、今日之戦、妙見口ノ官軍ニ始リ、各所ノ官軍期セスシテ赴キ、駢進協撃、一時ニ城ヲ復シ、賊ヲ屠リ、挙国ノ平定日ヲ期シテ待ヘシ、実ニ大快事ト謂ヘキ哉<我死傷殺獲別記ス>
○閏四月廿六日、魚沼郡雪嶺ヨリ、五月十四日、古志郡榎峠前山ノ戦ニ至ル迄、各所ニ於テ死傷人員、先般御届済ノ分除ク
五月十五日、於三島郡高梨村
傷 安藤民部
同十八日、於同所
傷 佐野左兵衛
同廿八日、於三島郡与板原村
傷 五番小隊 小野小十郎
同廿九日、於同所
傷 林栄之進 前島七良家来 宮下銀平
六月朔日、於同所
傷 杉田芳太郎
同日、於与板陣ケ峰
傷 六番小隊 野沢常治
死 弾薬運夫 末吉
同日、於蒲原郡赤坂嶺
死 兵糧運夫 儀市
傷 弾薬運夫 千代蔵
同二日、於与板陣ケ峰
傷 六番小隊 轟喜十郎
同五日、於同所
死 弾薬運夫 甚左衛門
同八日、於古志郡比礼嶺
傷 四番小隊司令官 山越新八郎
同日、於同郡盛立嶺
傷 大砲方附属 宮下甚吾
同九日、於与板原村
傷 五番小隊司令官 牧野大右衛門
同十二日、於出雲崎口久田村
傷 増田 将曹<後死ス> 渡辺憲蔵
金児友太郎家来 峰村伊兵衛 人夫 常右衛門
死 二番小隊 小林源之助
同十四日、於与板原村
傷 五番小隊 北沢千代蔵
同十五日、於古志郡栃窪嶺
傷 金井鉄之進 弾薬運夫 文吉
同廿二日、於同郡半蔵金村
傷 軍監 篠崎源五郎 八田嘉吉
一番小隊 山中文太 同 村沢高五郎<後死ス>
同 中沢初治 同 岡田多之助
弾薬運夫 嘉吉
七月朔日、於比礼
傷 四番小隊 中村芳三郎 同 笠井富蔵
同日、於古志郡亀崎
死 大砲方附属 春原孫左衛門
同日、於出雲崎口御経塚
傷 二番小隊 西村岩次郎
同三日、於同所
死 同 中曽根良作
傷 同 中川八十五郎 弾薬運夫 祖左衛門
弾薬運夫 文吉 人夫 仁兵衛
同日、於比礼嶺
傷 四番小隊 越坂喜十郎
同日、於与板原村
傷 兵糧運夫 民弥
同四日、於古志郡天狗沢
傷 一番小隊 高木重作
同五日、於出雲崎口御経塚
死 二番小隊 小林孝太郎
同六日、於与板原村

五番小隊 浅井徳三郎 同 岡沢要之助<後死ス>
同日、於荷頃口陣ケ峰
死 一番小隊 佐々木作治
同七日、於荷頃村口
傷 小泉浅右衛門
同十一日、於同所
傷 兵糧運夫 磯右衛門
同十九日、於与板原村
傷 大日方孫三郎
同廿二日、於亀崎
傷<後死ス> 古川嘉栄治
同廿五日、於長岡蔵王口

佐川彦之亟 松村作右衛門
山本直次郎

六番狙撃隊番頭 海野寛男 八番狙撃隊番頭 小幡助市
軍監 前田角次郎 樋口覚男
海沼忠蔵<後死ス> 小山新蔵 同
海野寛男家来 飯島安次郎 小幡助市家来 小林助作
弾薬運夫 長次郎
同日、於長岡草生津口

小山謙三郎 大砲方附属 飯島菊治
同日、於長岡四郎丸口

小荷駄方附属 粟林吉弥 同 八町源蔵
丸山五郎八
同日、於与板原村
死 森山熊之助
傷 高井栄治
同日、於亀崎
死 軍監 西山良助

伊藤荘吉 三番小隊 滝沢島蔵
器械方附属 長井定治郎 兵糧運夫 金左衛門
同廿六日、於同所
傷<後死ス> 三番小隊 吉沢豊三郎
同日、於比礼嶺途中
傷 同 五明栄八
同日、於上稲干場
傷 斎藤亀作 弾薬運夫 理作
同日、於与板口三楯山
死 五番小隊 字敷恒右衛門
同廿九日、於長岡口
死 三番小隊司令官加勢 祢津千馬之助
傷 島津左織 三番小隊 竹内伊太郎
同 永井芳太郎
同日、於筒場村
傷 軍監附属 小池乙司
以上八拾四人

太政官日誌・明治元年118号

太政官日誌第百十八
明治紀元戊辰冬十月

松代藩、北越戦記 其三

六月十九日暁、賊徒久田山上、及ヒ海岸ヨリ出雲崎ヘ襲来セントス、薩長ノ兵、雲浦碇泊ノ蒸気船ヲ以テ、海面ヨリ之ヲ撃逆セントス、我兵モ軽舸ニ乗シ、共ニ進ムヘキ令アリ於是、五番狙撃隊、二番小隊ノ水行ニ便ナル者、急ニ軽舸ニ乗シ、蒸気船ニ随テ、海上ヘ鞅進ス<其水行ニ不便者陸路行進ス>須臾ニシテ蒸気船、海岸ニ向ツテ賊塁ヲ砲撃シ、漸々山田、寺泊ノ方ヘ航行シ、両駅ヲ砲撃ス、飛弾賊塁並駅中ヘ好着ス、賊辟易シテ山上ヘ逃走ス、同時我陸路ヲ進ム者、加州兵ノ砲台ヲ守ル者ト、頻ニ賊塁ヘ発砲シ、海軍ノ勢ヲ助ク、然ルニ海浅クシテ、蒸気船砲撃不便、故ニ転シテ久田村ヘ上陸シ、午餉ヲ喫シ、再ヒ山上ノ賊ヲ進撃セントス、地険行難、乃兵ヲ収、雲浦ヘ帰ル
六月二十一日、我八番狙撃隊、三番小隊、大垣藩ニ代リ、亀崎ノ砲台ヲ守ル、此夜初更、賊大小砲ヲ連射シ、我ニ逼ル、我兵拒撃、時ニ大垣藩援兵ヲ乞フ、則士卒十二人ヲ往シム三更賊郷間ヲ放チ、宮下、富島等ノ村落ヘ放火シ、其機ニ乗シ、急摯、再ヒ逼ル、又別ニ田井村ノ方ヨリ、撒兵ヲ以テ、大垣藩守ル所ノ千場砲台ニ逼ル、翌暁ニ至迄、賊逼ル前後三次、毎ニ之ヲ撃退ス、同二十二日暁ヨリ大雨、朝来宮下村辺ニ当ツテ、砲声山野ニ震フ賊再ヒ我ニ逼ル、我復拒撃、巳牌ニ至リ賊退走ス、是日八番、六番ノ狙撃隊、四番小隊ノ分兵等、浦瀬ニ在ル者、長藩ト共ニ、宮下村ノ賊ヲ撃、三路並進ム、賊支フ能ハスト、乍敗走ス、尾躡福島村ニ至テ帰ル、同二十三日晡時、大垣藩ト衛所ヲ換ヘ、千場ノ砲台ヲ守ル、薄暮ヨリ賊烈発ス、我兵応戦徹夜、於是、兵士不睡三昼夜、同二十四日、我大砲好着シテ賊塁ヲ壊ル、賊大ニ畏縮シ、此ヨリ打砲漸ク減ス、此間毎戦賊ノ死傷枚挙スヘカラスト云
六月二十二日、古志郡半蔵金村ノ役<北栃尾ヲ距三里西長岡ヲ距三里、山谷ノ間ニ在リ、尤要衝ノ地>初官軍ノ栃尾ヲ退ヤ、我一番小隊、大砲一門、来伝村ヨリ半蔵金ヘ転陣シ、長州、尾州、松本ノ兵ト共ニ屯守ス、我砲台本道栃尾口ノ賊衝ニ在リ、本日昧爽、賊徒三路襲来、我砲台ヲ挟撃、我兵予備山上山下一時ニ応発、之ヲ拒ク、賊又大砲ヲ放テハ、我亦大砲ヲ以テ之ヲ挫ク、戦闘方ニ酣ナルニ及ヒ、賊兵窃ニ山ヲ繞リ、我背後ニ出、樹間ヨリ猝ニ砲撃ス、我兵四方賊ヲ受ケ、瞬息ノ間重創ヲ被者七人、苦戦ト雖、若此地一敗セハ長岡ノ大患ヲ慮リ、一隊尽ク命ヲ致ヲ期シ、乃兵ヲ分ツテ、一ハ深叢中ヲ潜行シテ背後ノ賊ヲ拒撃、一ハ塁中ニ在ツテ、三面ノ賊ニ当リ、憤戦時ヲ移ス、時ニ長州ノ兵、我苦戦ヲ援ケ、尾州ノ兵ヲ促シ、左方ノ山ニ登ラセ、松本ノ兵ヲ引テ、右方ノ山ニ向ヒ、率先シテ左右ノ賊ヲ進撃ス、於是我左右後ノ賊稍退キ、兵士恰モ蘇活ス、則吏ニ奮励、相共ニ烈撃ス、賊終ニ大敗遁逃ス、今日ノ戦、昧爽ヨリ溥暮ニ至、賊兵会津、米沢、長岡、村松等合テ六百人余、遺屍十五、其他死傷数ヲ知ラス<我傷者別記ス>
七月朔日、半蔵金村在陣ノ官軍、一ノ貝、比礼等ノ各藩ト約シ、栃尾口ノ賊ヲ進撃ス、払暁我一番小隊、長州奇兵隊、長府報告隊ト共ニ半蔵金ヲ発シ、西中之又村間道ヨリ進ム、賊東中之又村山上ノ塁ニ拠リ拒守、長州並我斥候先進之ヲ取ル、賊又木山沢村ニ止リ捍禦ス、乃我兵ヲ中分、半隊ハ報国隊ト共ニ、右方ノ賊ヲ撃チ、半隊並大砲一門ハ、奇兵隊ト共ニ左方ノ賊ヲ撃ツ、左右並進、激戦時ヲ移賊兵漸却退、晡前ニ至リ、終ニ敗走、追撃シテ荷頃村ニ到ル、時ニ一ノ貝口ヨリ進撃スル薩長ノ兵、已ニ賊ヲ破ツテ、先ツ在リ、然ルニ前路地形不便、乃会議シ、一ノ貝口薩長ノ兵ハ、帰テ原地ヲ守リ、我兵、奇兵、報国二隊ト共ニ、止ツテ田野口村ニ陣シ、本道荷頃口ト、間道天狗沢ノ各所ニ砲台ヲ築キ、分隊シ、之ヲ守ル
同日我六番狙撃隊、四番小隊、薩州半小隊ト共ニ、浦瀬口上鳰嶺ヨリ進撃ス、同時栃窪嶺ヨリモ、長州、大垣二藩進撃ス、我兵先鋒トナリ、賊塁ニ対スル孤山ニ登、烈発急進、塁下ニ逼リ、薩兵ト相会シ、薩兵ハ塁北ヨリシ我兵ハ塁西ヨリ狭撃ス、賊亦路傍ノ塁ヨリ我側面ヲ撃ツ、長州、大垣ノ兵、更ニ進ンテ其塁ヲ攻ム、姑クシテ長兵、已ニ路傍ノ塁ヲ奪転シテ、我ヲ抗スル賊塁ヲ撃ツ、賊腹背ニ敵ヲ受テ周章ス、我兵一斉ニ突撃先登シ、薩兵ト共ニ其塁ヲ取ル、賊已ニ二塁ヲ失ヒ、山谷ノ間ニ散乱シテ逃ル、他塁戦ハスシテ潰ユ、賊死傷許多、遺屍四、於是兵ヲ分、長兵ハ路傍ノ塁ニ入リ、我兵ハ先ニ取ル所ノ塁ト、彼孤山ノ上ヲ守リ、薩兵ハ長兵ト我兵ノ間ニアリ、徹夜警備ス、後我四番半小隊ヲ留テ屯戍セシメ、余ハ皆原地ニ帰ル、是日八番狙撃隊、三番小隊モ亦亀崎砲台ニ在、賊ト戦ヒ、各藩進撃ノ勢ヲ援ク<我傷者別記ス>
同日、出雲崎分隊ノ我五番狙撃隊、二番小隊平明沢田村ヲ発シ藤巻村ニ到リ、斥候ヲ以テ賊状ヲ探知シ、進ンテ馬草村ノ東御経塚ヲ取ル、薩州、高田ノ大砲各一門倶ニス、已ニシテ砲台ヲ築造ス、功未ダ成ラス、賊兵猝ニ銃砲ヲ連発シテ、我ヲ妨ク、我兵敢テ屑トセス且応シ、且築キ、遂ニ成ル、時ニ戎装悉大雨ニ濡ヒ、兵士頗ル苦ム、此戦晡時ニ始リ、翌暁ニ至ル、我兵僅ニ数十人、而放銃八千余弾ニ及フ、爾後対塁連戦十四日ニ至ル<我死傷別記ス>
七月六日昧爽、栃尾ノ賊荷頃村右方ノ山上ヨリ、陣ケ峰ヘ襲来ス、我一番小隊、半隊ヲ分チ、十ニノ森ニ在リ、乃又其一分隊ヲ分チ、長兵数人ト共ニ、尾州ノ兵守ル所ノ陣ケ峰前面ヘ進ミ、尾兵二伍ヲ合セ、賊ヲ逆ヘテ奮戦シ、遂ニ之ヲ破リ、且砲台ヲ築テ帰ル<我死者別記ス>
同十六日、我八番狙撃隊、三番小隊、亀崎砲台ニ在、早暁長兵一分隊来リ、我兵九人ト共ニ、賊地椿沢村ニ往、斥候シ、賊ノ斥候塁ヲ研リ、且其夜衛ノ卒ヲ逐フ、賊驚駭、諸塁ヨリー斉ニ砲撃シ、別隊急ニ耳取村ヨリ突出シ我帰路ヲ絶ントス、乃共ニ撃挫シテ帰ル
七月二十五日、長岡之変<官軍不利、城復賊ニ陥ル>初我藩隊長河原左京、長岡城北石内村ニ陣シ、諸方分配ノ兵隊ヲ督ス、今月二十四日、東山、栃尾口ノ砲台ヲ歴視シ亀崎ニ在リ、是夕令アリ、二十五日暁、筒場、大黒等ノ官軍進撃スト夜半ニ至リ砲声ヲ聞ク、人皆以テ先鋒 官軍已ニ進撃ヲ始ムトナス、時ニ近郊富島、新穂等ノ村落、忽チ火発シ、砲声猝ニ逼リ、賊兵数路侵入ス、我石内ニ留守スル者、有司並病兵等ニテ尤寡兵ト雖トモ、急ニ分隊、一ハ蔵王口ト極楽寺ノ後ニ向ヒ、一ハ大砲一門ヲ以テ同寺門前ニ向ヒ、賊ヲ拒ク、賊兵頻リニ沓至シ、我兵一人ノ後継ナシ、相共ニ苦戦、激闘数刻、已ニシテ蔵王ヨリ長岡市中ニ至ル迄、煙焔大ニ漲リ、賊兵我ヲ掩撃セントス、乃城下ニ転向ス、到レハ城下ノ 官軍退旋シ、勢支ヘ難シ、於是憤然一条ノ血路ヲ薙開シ、草生津渡口ニ至リ、重傷病兵ヲ関原ヘ護送セシメ、余ハ浦村ノ方ヘ退ク、同時前ニ進ンテ賊ヲ撃掃スル者、長兵ト共ニ更ニ進ンテ本道ノ賊ト奮戦シ、遂ニ妙見口ノ方ヘ退キ、三俵野村ニ止ル、又後ニ在テ賊ノ追躡ヲ拒ク者ハ中島ニ止リ、長州、加州ノ兵ト共ニ捍禦ス、然ルニ孤軍路絶、糧食銃弾ノ続クヘキナク、殆ト危困ニ及フノ処、幸ニ出雲崎口ヨリ来ル我斥候兵ト、前ニ病兵ヲ関原ニ護送スル者、相謀ツテ船ヲ求メテ救援ス、本日午後賊徒漸々城中ニ退入ス、因テ我兵ヲ分ツテ城門外ニ往カシメ、賊情ヲ窺フ、帰路一賊ニ遇ヒ、之ヲ斃ス、忽チ伏兵四辺ニ起リ、一斉我ヲ撃ツ、中ラス、姑クシテ三藩ノ兵、令ニ従ツテ川ヲ渡リ、西岸ニ屯守ス、又嚮ニ四郎丸、宮内両村ヲ守ル者、暁来賊ノ囲中ニ陥リ、決死奮闘一方ヲ破リ、浦村ノ方ヘ退ク、於是我兵ノ前ニ浦村ヘ到ル者、同二十六日川東ヘ渡リ、妙見口ノ藩兵ト会シ、長州一小隊ト共ニ三俵野ニ屯シ、川辺ヲ守<我死傷別記ス>
同日、我八番狙撃隊、三番小隊、大砲二門、亀崎砲台ヲ守ル、早暁俄ニ賊塁ヨリ発砲シ、襲来セントス、先是隊長河原左京、来ツテ亀崎ニ在リ、急ニ砲台エ往、守禦ヲ督ス、時ニ長岡ノ方ニ当ツテ出火、砲声アリ、須臾近郊村落一団ノ火焔トナリ、砲声益烈シ、因テ其変ヲ察シ、更ニ対面ノ賊ヲ専禦ス、是夕筒場大黒等ノ官軍已ニ退キ、賊所在ニ放火ス、同二十六日午時賊侵撃、山上官軍ノ屯営ヲ焼ク、已ニシテ亀崎以外悉ク賊巣トナル、我運輪路絶ユト雖モ、兵弥奮戦、固守セント欲スル所、豈料ランヤ、隣塁大垣ノ兵、早ク已ニ退去シ、賊兵其営ヲ焼キ、猝ニ我塁側ニ出
テ狭撃ス、於是懸軍孤立、激戦賊ヲ挫ク、時ニ退旋ノ令アリ、乃チ兵ヲ収テ退キ、比礼嶺ニ登レハ、我六番狙撃隊、四番小隊、長州、大垣ノ兵、山外ニ在、方ニ苦戦ス、直ニ之ヲ援ク<我死傷別記ス>
同日、我六番狙撃隊、四番小隊ハ、栃尾口、土ケ谷砲台ヲ守、早暁長岡辺ニ当ツテ、火気天ヲ焦シ、砲声大ニ震フ、乃共ニ戒厳ス、二十六日、賊徒数百人、栃窪村ノ方ヨリ襲来、長兵ト戦フ、我兵之ヲ援ク、攻撃甚勉ム、姑クシテ嶺上ノ官軍已ニ退キ、賊兵白旗ヲ揮ヒ、各塁ニ入リ放火ス、余賊之ニ乗シ暴進、我塁ニ逼ル、時ニ隣塁モ亦已ニ退キ、賊兵我背後ニ出ツ、於是長藩ト議シテ、更ニ地利ニ拠テ捍禦セントス、乃交綏シテ比礼山中ニ到ル、我狙撃隊未夕退ヲ得ス、大垣藩ト共ニ苦戦ス、故ニ四番隊往、之ニ代リ、長兵亦大垣ニ代リ、賊ヲ拒撃シテ退ク、兵士頗ル艱、時ニ八番狙撃隊、三番小隊来援、烈戦数刻、夜中兵ヲ収テ退キ、二十七日半蔵金村ニ到ル、是日荷頃口ノ官軍亦退キ、我一番小隊、大砲一門来会ス、於是一番、四番ノ二小隊並大砲一門ヲ止メ、各隊ト共ニ半蔵金ニ屯守セシメ狙撃隊、三番小隊等ハ浦柄村ニ到リ、妙見口ニ屯守ス<我死傷別ス>
同時与板口、出雲崎口モ亦賊徒長岡ノ変ニ投シ、侵撃猛烈ト雖トモ、我兵所在、各藩ト共ニ之ヲ撃退ケ、依然トシテ固守ス<我死傷別記ス>

太政官日誌・明治元年117号

太政官日誌第百十七
明治紀元戊辰冬十月

松代藩、北越戦記写 其二

五月廿六日早晨、北大面口ニ戦アリ、砲声天ニ震フ、已牌ヲ過キ、又南文納口ニ戦アリ、薩長ノ兵赴援ス、南北ノ戦甚タ急、時ニ斥候趨報云、今賊兵八十人許、赤坂ヨリ左ノ山ニ随ヒ、百人余右ノ山ヲ廻リ、本道ノ兵ト三路已ニ来リ逼ルト、我二番小隊、報ヲ聞、乃チ半隊ヲ分チ、赤坂山ノ峰ヨリ本道ノ賊ヲ撃ツ、賊本道ヨリ大小砲ヲ連発シ、且右ノ山ヲ廻ル者、我側面ヲ打チ、頗ル苦戦ス、於是別ニ一分隊ヲ右山ヘ進メ、一分隊ヲ左山ヘ進メ、三方共ニ吶喊急撃ス、加フルニ夫卒ノ後ニ在ル者、亦大呼其勢ヲ助、賊我兵ヲ衆ト疑フヤ、右山ノ方乍チ乱ル、我兵機ニ乗シ進撃尤烈、賊錯愕支フルコト能ハス、三路一時ニ敗走ス、然ニ孤軍、遠ク追フヘカラズ軽ク兵ヲ収テ屯所ニ帰ル、夜中八番狙撃隊、三番小隊、長岡ヨリ来リ代ル、此日僅ニ四十余人ヲ以テ、賊ノ二百五十余人ヲ破リ、而我兵一人ノ死傷ナシ
同廿八日、三島郡与板ノ役<関原ヲ距三里北方ニアリ>初官軍長岡ヲ取ルノ後、我六番小隊関原ニ在リ本日午後急報アリ、与板ノ兵金ヶ崎ヲ守ルノ処、昨日賊数百人、地蔵堂村ノ方ヨリ来襲シ与板ノ兵敗退、薩、長、富山、須坂、飯山ノ兵之ヲ救ヒ、苦戦スト雖、賊勢強大、各藩稍々退軍シ、賊兵殆城下ニ逼ル、於是我六番隊長府報国隊、尾州一小隊、関原ヲ発シテ急援三藩ノ兵疾進ンテ与板ニ到レハ、前ニ退ク薩長ノ兵、城外北口ニ止リ、戮力防戦ス、時ニ長人来謂フ、今ヤ間道襲来ノ賊、已ニ城ノ後山ニ逼リ、飯山ノ兵之レト戦フ、若シ不利アラハ、与板ハ賊ニ陥ル必セリト、乃我兵、長府、尾州ノ兵ト共ニ之ヲ援ケ、吶喊山上ニ登ル、飯山ノ兵正ニ退カントス、賊悍撃烈発ス報国隊先進、我兵之ニ次、奮撃賊ヲ斃ス、賊亦強戦スト雖、支フルコト能ハス、忽敗走ス、我兵報国隊ト共ニ追撃シテ、薄暮陣ケ峰ニ到ル、乃議シ、報国隊ト我兵ヲ陣ケ峰ニ、飯山ノ兵ヲ塔ノ峰ニ、尾州ノ兵ヲ衣掛山ニ分配シ各砲台ヲ設、之ヲ守ル、賊谷ヲ隔テ、鷹ケ峰ニ止リ、塁ヲ築テ陣ケ峰ニ抗ス、是ヨリ砲戦日夜休マス、其間賊兵多方窃発スト雖、毎ニコレヲ撃却ク<我兵死傷別記ス>同日夕、与板ノ飛報長岡ニ達ス<与板ヲ距三里東南ニアリ>即我七番狙撃隊、五番小隊、大砲一門ヲ以テ赴援シ、初更与板ニ到ル、時ニ薩兵、市外北口ノ水辺諏訪社地ニ在リ、須坂、椎谷ノ兵堤下ニ在リ、苦戦間道ノ賊ヲ防キ、兵士甚労スト聞キ直進、狙撃隊薩藩ヲ援ケ、五番隊二藩ニ代リ徹夜激戦ス、賊逼ルヲ得ス、二十九日暁遂ニ敗走ス、黎明兵ヲ縦テ、前面ヲ跡スルニ信濃川ニ沿フテ行クコト五六町、原村ノ堤上ニ至ル、器械遺棄、流血淋漓、遺屍猶二ツヲ見ル、殺傷知ルべシ、已ニシテ薩州、須坂、椎谷ノ兵城下ニ帰ル、我兵独進、村外ニ出テ砲台ヲ築キ、未夕功ヲ竣ヱス、賊兵一小隊許再襲ス、我兵土功ヲ勤テ顧ミス、賊漸進、我兵乍狙撃シテ、其先導一人ヲ斃、且鼓噪砲撃ス、余賊狼狽不戦而走ル、於是五番隊堤上砲台ヲ守、狙撃隊並大砲隊別ニ砲台ヲ設テ守、賊亦数所ニ対塁シ、砲戦月ヲ亘リ、六月、今町中島ノ賊ニ陥ルヤ、賊兵川東芦荻中ニ来、屡我側面ヲ砲撃ス、又塁ヲ築、之ヲ防戦ス、賊ヲ殺傷スル頗ル多シ、ライフル砲尤能ク遠達、賊塁ヲ壊ル<我死傷、並獲所ノ物別記ス>
六月朔日、赤坂嶺ノ役<蒲原郡ニ属ス、見附ヨリ東ニアリ、村松ヘ通スル山道>先是我六番狙撃隊、四番小隊、赤坂山ニ屯ス、今暁斥候帰報云、賊兵数百、駒込、大平両村ヲ発、暗黒ニ投シ、潜ニ山谷ヲ繞リ、我背後ヲ襲ハントス、乃我兵戒厳、急ニ四番隊ノ左山ニ在ル者ヲ招キ、賊衝ニ当テ右山ニ躋ラシム、須臾ニ賊山谷ヲ跋渉、本道ニ備フル我大砲隊ノ背面ヲ撃ツ、砲隊衛護ノ兵、顧テ其賊ヲ打却ス、時ニ薩長ノ兵来リ援ク、薩兵左ノ山ヲ進ミ、長兵右ノ山ヲ進ム、賊兵烈撃ス、四番隊、長兵共ニ奮進倏チ賊ニ逼リ、林中ニ於テ短兵接戦、遂ニ之ヲ破リ、嶺下ニ走ラス、三藩追撃、賊大ニ敗走ス、我兵、村松米沢ノ賊三人ヲ擒シ、殺傷頗ル多、三藩斃ス賊屍、現在五十余、其他山谷ニ散在スル者数ヲ知ラス、同時我大砲隊、狙撃隊等ハ、本道ノ賊ト激戦シ、亦之ヲ破ル、賊終ニ遠逃ス、<我死傷別記ス>
同日、我八番狙撃隊、三番小隊、見附ニ在リ、已牌、賊徒堀溝村ヲ侵掠、民家ヘ放火ノ報アリ、我兵ヲシテ、薩長ト共ニ之ヲ掃撃セシム、長兵本道ヨリ進ミ、我兵山上ヨリ側面ヲ撃ント約ス、乃疾歩、堀溝山ヘ躋レハ、賊已ニ村外、山谷間ヘ逃入ス、暫アツテ賊兵百五六十人、谷ヲ隔、前山ニ出、相距三町余、時ニ薩兵十人許来会、共ニ烈撃シテ進ム、賊辟易、嶺ヲ踰、敗走ス、即追撃、谷中ノ残賊ヲ蒐リ、許多殺傷ス、晡時見附ヘ帰
六月二日、蒲原郡今町中島<共ニ見附ヲ距一里半西ニアリ>ノ賊ニ陥ルヤ、我八番狙撃隊、三番小隊、見附ニ在リ、晡時ヲ過キ、俄ニ我兵ヲシテ赴援セシム、我兵令ヲ聞、疾行シテ柳橋村ニ到ル、高田、尾州、上田等ノ兵方ニ退軍シ、賊已ニ中島今町ニ放火ス、乃弥進ンテ賊ヲ拒撃セントス、路ニ長藩三好軍太郎<銃創ヲ被リ退>薩藩淵辺直右衛門ニ遇フ、淵辺ノ曰、賊ヲ拒ク宜ク柴野村ニ於テスへシ、上田ノ兵ヲ留テ彼ニ在リト則趨ツテ村口ニ到レハ、上田ノ兵在者僅二十人許、時已ニ昏黒、於是一帯水ヲ前ニシ、民家ノ席薦ヲ楯トシ、帖然固守ス、初更賊兵来ツテ柴野村<今町ヲ距三四町>ニ入リ、火ヲ放ツテ砲撃ス、我兵突起、大呼連発、賊兵我備アルヲ知リ退走ス、同三日、朝来各所ノ 官軍形状、常ニ非ルヨシヲ聞ト雖、我兵益奮励屯守ス、午後ニ至、果シテ班旋ノ令アリ、已ムヲ得ス見附ヘ帰ル、同時赤坂山ニ屯スル六番狙撃隊、四番小隊、大砲隊亦至、於是、薩長以下見附ニ在ル 官軍、長岡ヘ退ク、我兵中路ニシテ浦瀬村ニ止リ、遂ニ砲台ヲ各所ニ築テ屯守
同八日、我四番小隊、高田ノ兵半小隊、共ニ比礼嶺ノ砲台ヲ守ル、平明賊兵襲来、且塁ヲ築カントス、両藩兵戮力砲撃スト雖、賊兵頻ニ増、一時苦戦ス、我八番狙撃隊、三番小隊浦瀬ニ在モノ報ヲ聞テ、急ニ分隊シ、一ハ浦瀬ノ東上鳰嶺ノ砲台ニ止リ、更ニ守備ヲ厳ニシ、一ハ比礼嶺ヘ赴援シ、共ニ賊ヲ撃、之ヲ破ル、先是賊ノ斥候二人、我ヲ来窺ス、我兵之ヲ射斬ス、是夕賊又上鳰嶺ニ来テ塁ヲ築ク、我兵進撃、米沢ノ賊一人ヲ斃ス、余賊忽敗走ス、乃其塁ヲ取ル、前後殺傷少カラスト雖、賊皆将テ去ル<我傷者別記ス>
六月十二日、三島郡久保村之役<出雲崎ト山田ノ間ニ在>初我五番狙撃隊、二番小隊ノ、長岡ヨリ海岸出雲崎ニ往ヤ、今月二日暁、薩、長、加、高田ノ兵ト共ニ進撃シ、已牌島崎村ニ到ル、已ニシテ加州ノ兵、村北ニ在テ賊ト戦フ、我兵分隊シテ、茗荷谷ト村口ノ路ヲ守ル、日暮令アリ、加州、高田ト交代、出雲崎ヘ帰ル、同三日久田村ヘ進軍シ、地形ヲ点検シ、五個ノ砲台ヲ設、厳守ス、此時ニ当リ、賊徒四百余人寺泊ヲ巣窟トナシ、近傍村落ニ出没、勢甚猖獗、本日黎明賊兵襲来シ、我砲台前面松林ニ入リ、撒兵シテ発砲ス、我兵先着シテ烈撃スト雖、寡兵如意ナラス、賊兵益衆多、我ヲ圧撃セントス、我兵奮闘、一歩モ退カス、姑クシテ富山ノ兵、三十人許来援ク、於是共ニ要地ニ撒布、或ハ側面、或ハ高卑、機ニ投シ攻撃ス、時ニ我游軍、他ノ手天砲ヲ借リ、賊中ヲ照シ、放射数回、毎弾破裂、賊終ニ敗走ス、乃急ニ追撃シ、我兵賊一人ヲ生獲梟首シ晡前本塁ニ帰リ、更ニ砲台ヲ増築シ、警備ヲナス、是日襲来賊三百五十余人、其四十余人ハ死傷ト云<我死傷別記ス>
六月十四日、上鳰嶺並栃窪嶺ノ役、初我兵ノ瀬々村ニ到ルヤ、比礼嶺、平石平、上鳰嶺ノ三所ニ砲台ヲ築、六番狙撃隊、四番小隊之ヲ守、平石平ヲ距ル十余町、栃窪嶺ノ砲台、及ヒ亀崎村ニ在ル砲台ハ、八番狙撃隊三番小隊、大垣藩ト隔日交代、之ヲ守ル、本日未牌、賊上鳰嶺ヘ襲来、我兵之ヲ拒、同時栃窪嶺ヘモ襲来<今日大垣藩砲台ヲ守ル>先是、緩急互ニ応援ト約ス、然ルニ両所一時ノ戦ヒ、互ニ他ヲ顧ルニ遑アラス、我兵激戦、日暮遂ニ賊ヲ破ル時ニ長人平石平ニ来云、嚮ニ賊栃窪嶺ニ逼リ大垣ノ兵砲台ヲ捨テ退ク、宜ク分兵シテ之ヲ復スヘシト、則チ兵士ヲシテ、長人ト共ニ浦瀬ニ往テ、其実ヲ聞カシム、果シテ然リ、於是六番狙撃隊、長兵四人ト共ニ、夜ニ乗シ、直ニ趨テ栃窪嶺ニ到リ、地形ニ随ヒ、二路ニ分レ、賊ノ側面ヨリ進撃ス、賊亦頻リニ発砲捍禦ス、時ニ長兵四人、又来援、相共ニ攻撃天明ニ至ル、十五日朝、雨降リ、大霧咫尺ヲ弁セス、辰牌後、賊ノ発砲乍チ止ム、即長兵ト共ニ急進スル処、本道応援ノ長兵、先登砲台ヲ復スト大呼ス、此時陰霧初テ晴レ、敗賊ノ烏散スルヲ見ル、故ニ疾ク迫撃シテ帰ル、殺傷其数ヲ知ラス<我傷者別記ス>同日、我八番狙撃隊、三番小隊ハ、昨日栃窪嶺ヨリ、大垣藩ニ代ツテ亀崎村ニ来、各所砲台ヲ守、今暁賊烈発ス、我兵大垣分隊ノ此地ニ留ル兵ト相応シテ、大小砲ヲ電射シ、之ヲ拒ク、黎明賊畏縮シ、砲声少シク減ス、辰牌ニ至リ再ヒ熾ナリ、又之ヲ撃却ス、是ヨリ戦ヒ虚日ナシ
巻尾

太政官日誌・明治元年116号

太政官日誌第百十六
明治紀元戊辰冬十月

【会城融通寺口ノ戦】
十月十七日備前藩届書写

会城攻撃之挙動、八月廿九日之儀ハ、前ニ御届申上候、其後去月十二日夕、弊藩持場融通寺口胸壁エ、賊徒屯集之諏訪社内ヨリ、頻ニ致発砲候ニ付、我ヨリモ応戦ス、軍事方兼銃隊司令官加藤栄之進、銃創ヲ被リ申候、同十四日賊城砲撃之御達有之、小銃隊ニ付、越後口致警衛候様トノ事ニ御座候得共、兼テ融通寺口持場ニテ、賊徒屯集之諏訪社ヘ近キ場所故、兵之進退目前ニ相分リ候間、兵隊繰替之儀ハ不可然旨、長州藩ヨリモ示談有之候ニ付極密一手ハ米沢口警衛為致、一手ハ西面河原町並烏橋通リ進撃、時機ヲ相計リ、直ニ繰出シ、諏訪社内エ攻撃ニ及ヒ、融通寺口攻破リ、列藩ト共ニ乗入申候、同所ニテ軍事方兼銃隊司令官雀部八郎戦死ス、銃隊山形静左衛門、和気甚右衛門、別府楽太郎傷ヲ蒙ル、同夜ヨリ諏訪通、大手通之十字街上持場ニテ屯戍仕候、同廿二日城将降伏、同廿四日城地御請取ニ相成候ニ付、御軍配之通、弊藩ヨリモ一小隊繰出、旗ヲ城上ニ相建候、此段御届申上候、以上
右之通、於出張先御届申上候条申越候間、此段御届申上候、以上
十月十七日
備前侍従家来 沢井宇兵衛

【松代藩北越戦記写 其一】
同日松代藩届書写

弊藩越後国出張兵隊戦闘ノ次第、先般御届申上候後、尚又諸方御分配ニ相成、進撃対塁、連戦虚日無御座候処、其時々取調御届可申上筈ニ候得共、山手小出島ヨリ、海辺出雲崎ニ至ル迄、凡十五六里ノ間、各所ニ分隊罷在、就中大砲隊ノ方者、薩長両藩兵隊ニ相交リ居候者共モ有之、旁以激戦多端ノ折柄、何分戦闘ノ始未、早速相弁兼、殊ニ諸藩入組ノ儀付万一事実相違ノ儀等申上候様ニテハ、奉恐入候間、精々遂吟味度、心配罷在候得共、頻ニ戦闘打重リ、明細取調行届兼、其内数月相過余リ遅緩ニ及ヒ候段、更ニ恐入候儀付、先長岡再復迄ノ処、廉立候事件而巳、大略取調為セ仕、今般戦記略並死傷録共、出張重臣ヨリ差出候間、其侭御届申上候様、在所表ヨリ申付越候、猶薩長両藩エ相交リ居候大砲隊之者共、戦状ノ趣ハ、両藩ヨリ御届可申上儀ト奉存候、且又長岡再復後、奥州会津城下迄進撃ノ次第者、追々申越次第可申上候、別紙記録二冊相添、此段御届申上候、以上
十月十七日
真田信濃守家来 北沢幟之助

北越軍記写 其一
一、後四月廿七日 官軍越後国魚沼郡小出島ヲ取ル<会ノ陣屋アリ、同郡小千谷陣屋ヲ距五里、椅角ノ勢、尤要衝ノ地、賊兵恃之>初我藩兵、同郡千手駅ヨリ分隊シテ<本隊ハ直進小千谷ノ賊ヲ討>六番狙撃隊海野寛男組番士、一番小隊蟻川賢之助組、薩、長、尾、飯山ノ兵ト共ニ、廿四日信濃川ヲ渡リ、十日町ニ入ル、賊兵已ニ昨日逃ル、我兵先進、八家嶺ノ険ニ拠、廿五日長兵ト共ニ六日町ニ入、薩兵ハ別路ヲ取、先ツ到ル、賊兵昨日三国嶺ニ於テ 官軍ト戦ヒ敗走、前宵此地ヲ退去スト聞ク、廿六日我四番小隊山越新八郎組来ル、先隊乃チ進ンテ五日町ニ陣ス、本日暁浦佐エ進軍ノ処、薩長両藩先ツ魚野川ヲ渡リ、小出島ノ賊ヲ撃、天明砲声雷起、即疾進小出島ニ到、両藩ノ兵一時苦戦ト雖、賊遂ニ敗走、放火焔々、乃両藩ニ代リ、四日町ノ残賊ヲ掃撃ス、時ニ我四番隊亦到、共ニ賊ヲ追数里、而帰、両藩ト議シ、我兵ヲ留、小出島ヲ守、会津間道六十里越、大白川口ノ賊ヲ禦キ、且近方ヲ鎮ス<此日我本隊ノ分兵、先ツ小千谷ニ入リ、陣屋ヲ取ル昨日官軍雪峠芋坂ニテ戦勝アリ、別ニ記ス>
一、五月三日、三島郡片貝之役<小千谷ヲ距二里余北ニアリ会桑等ノ賊徒襲来ス、官軍進ンテ撃之>我藩六番小隊柘植彦四郎組飯田ノ小隊ト共ニ、岩村監軍ニ従ヒ、片貝エ進軍スル途中、上山谷村ニ到ル時、正ニ巳牌、前軍已ニ戦、砲声山野ニ震フ、忽チ斥候来報云、此ヨリ柏崎道塚之山村エ到ル山路アリ、薬師嶺ト号ス、今賊兵二百人許已ニ嶺ヲ下リ、近ク数十町之間ニ在リト、蓋是片貝襲来ノ賊徒、分兵シテ窃ニ官軍ノ後面ニ廻リ、本道ノ戦ヒ酣ナル時ヲ窺ヒ不意ニ出テ小千谷エ侵入スルノ策ナルベシ官軍予メ此路ニ備ルハ、尾州藩一小隊ナリ、然ルニ嚮ニ此ヲ過キテ、坪野村ノ方エ行ク乃俄ニ監軍所従ノニ小隊ヲ以テ之ニ抵リ、山路ニ向テ進ム、行僅七八町、果シテ賊ニ遇フ、相距二町許、賊ハ地利ヲ高ニ占テ、進撃甚難シ、於是飯田ノ兵ヲ、山ノ右側ニ列シ、我六番隊ハ、山ノ左側ニ列シ、撒兵トナリ、左右共ニ砲撃シテ進マシム、賊兵或ハ樹木、或ハ路ノ凹所ニ拠リ、形ヲ不露シテ発砲雨ノ如シ、六番隊鋭進一町余、賊ト大ニ戦フ、飯田ノ兵未夕進マス、賊頻リニ大砲ヲ放ツ、我兵勇気益旺ン、激戦時ヲ移ス、監軍一喝、飯田ノ兵ヲ進マシム、於是賊兵少シク乱ル、我六番隊又進テ烈撃ス、時ニ中央ニ在ル監軍衛士<我藩ヨリ出スモノ>突進シテ砲撃ス、賊徒共面ノ砲撃ニ僻易、忽チ敗レ、二三町山上ニ退キ、再ビ嶮阻ニ拠、大小砲ヲ雨下ス、我兵奮勇前進シ、飯田ノ兵亦右傍ヨリ側面ヲ撃ツ、賊又敗走ス、是ヨリ全軍哨喊シテ進ム、尾藩ノ兵モ亦十許人来ル、賊猶所々ニ止リ、防戦ヲナスト雖終ニ支フル能ハス、我兵勝ニ乗シ、追撃疾風ノ如シ、賊兵大敗、山谷ノ間ニ散乱シ、大砲弾薬等路上ニ狼籍タリ、賊兵塚之山エ走ル者、民家ニ放火シ、追撃ヲ碍フ、官軍山中ノ賊ヲ蒐リ、申牌前塚ノ山村エ到ル、<小千谷ヲ距二里半>賊兵遠ク北条或ハ片貝、深沢ノ方ニ逃去ス、乃軍ヲ収メテ小千谷エ帰陣ス、<本道片貝ノ戦、亦官軍勝ヲ得、別記ス>
ー、同日我二番小隊金児友太郎組、尾藩ト共ニ進ンテ、古志郡榎嶺ヲ取ル、初官軍ノ小千谷ニ入ルヤ、敗賊信濃川ヲ渡リ、妙見村ニ走ル<小千谷ト川ヲ隔テ、相距一里余、榎嶺ノ北麓ニアリ>即日尾藩一小隊、大砲二門ト、我二番小隊ヲ川東ニ渡シ、中子村ニ陣シテ、小出島ノ脱賊、且妙見ノ賊ニ備ヘシム、榎嶺ハ妙見ト横渡村ノ間ニアリ、左信濃川ニ臨ミ、右金倉山ニ接シ、長岡エノ要路、実ニ天険ナリ、頃日長岡等ノ賊徒、此険ニ屯戍シ 官軍ニ抗セントス、本日我二番隊、川西ノ方片貝、薬師嶺ノ戦ヒ酣ナルヲ見テ、急ニ議シテ榎嶺ノ賊ヲ撃チ、兇勢ヲ殺カントス、於是尾藩ト共ニ進ミ、我兵先登ス、賊戦ハスシテ、輜重ヲ棄テ走ル、乃チ嶺上ノ険ニ拠リ、兵勢ヲ張リ、斥候ヲ厳ニシ、賊ノ衝突ヲ禦ク長岡ノ賊、於是畏縮スト云、同六日我三番小隊吉村左織組、往テ代リ、二番隊小千谷ヘ帰ル、是夕上田藩ト代リ、三番隊ハ、七番狙撃隊前島七郎組番士、大砲二門ト共ニ川西エ渡リ、三仏生、高梨両村ヲ守ル
一、五月十日哺時、会桑長岡ノ賊徒、小千谷ヲ復セント謀リ、窃ニ兵ヲ二路ニ分チ、金倉山並妙見口ヨリ、榎嶺ヘ襲来ス、尾州、上田ノ兵防戦尤苦ム、三仏生ニ在ル我兵、上田ノ別隊ト共ニ、急ニ之ヲ救ハントス、然ルニ頃日霖雨、信濃川暴漲、渡ルヲ得ス、乃共ニ身ヲ挺、川岸ニ趨リ、水ヲ隔大小砲ヲ放、妙見口ノ賊ヲ横撃シ、尾上ノ苦戦ヲ援ク、暫シテ我五番弥津丈之助、八番小幡助市両組番士ノ狙撃隊、二番小隊、大砲三門、小千谷ヨリ来ツテ応援ス、賊迫ル能ハス、是夕我六番小隊、長州、尾州ノ兵ト共ニ、決死シテ川ヲ渡リ、榎嶺エ赴援ス、我兵中子村ニ陣シ、賊ノ間道衝突ニ備フ
ー、同十一日黎明、賊兵榎嶺ニ逼ル官軍苦戦退テ白岩横渡ノ山頭ニ保ス、賊復榎嶺ニ拠ル、於是我五番狙撃隊、二番小隊、大砲三門三仏生ニ在リ、七番、八番狙撃隊、三番小隊、大砲一門、高梨ニ在リ、大砲一門浦村ニ在リ、諸藩ト同シク、賊ト対塁シ、烈発ス、是日中子ニ在ル我六番小隊、進ンテ鬼倉山ニ陣ス、十二日朝賊兵三小隊許、来ツテ鬼倉ノ険ヲ取ントス、我兵潜伏シテ動カス、賊ノ迫近スルヲ待テ、一斉ニ大呼連発、賊驚愕潰散ス、哺時五番小隊牧野大右衛門組来リ代ル、六番隊飯盛山ニ転陣ス
ー、同十三日払暁、薩長両藩決意シテ、川東ノ賊ヲ進撃ス、川西ニ在ル各藩モ、亦期ノ如ク発砲シ、賊ノ後継ヲ絶ツ、一時東西ノ官軍烈発ス、我五番狙撃隊、二番小隊、奮進川岸ニ逼リ、賊ヲ打ス、賊遂ニ大砲ヲ捨テ走ル、川東薩長ノ兵、激戦シテ已ニ賊ノ二塁ヲ奪ヒ、殆ト其三塁ニ及ントスルニ、応援続カス、乃チ兵ヲ収メテ帰ル、賊追撃セントス、勢甚危シ、我五番小隊鬼倉ニ在リ、谷ヲ隔テー斉賊ヲ砲撃シ、其急ヲ援ク今日ノ戦、賊ノ死傷無算、官軍亦頗ル多シ十九日ニ至迄各塁砲戦止マス
一、同十九日、長岡落城ス、金倉等ノ賊、死ヲ決シテ会川村ノ方エ突出シ、小千谷ヲ衝ントス、我六番小隊、木津口ニ在ル各藩ト相応シ、之ヲ撃走ス、夜中暁ニ徹シ、賊徒悉ク塁ヲ捨テ敗走ス、二十日暁我五番小隊鬼倉山ヲ下リ、長州ノ兵ト共ニ、賊塁ニ入リ、残賊一人ヲ生擒ス、天明薩長尾ノ兵榎嶺ニ登ル、我二番小隊三仏生ヨリ川ヲ渡リ妙見ニ入リ、六日市ニ到ル、賊已ニ逃レ、大砲弾薬等猶在リ、乃籍シテ帰ル、昨日我兵ノ浦村ニ在ル者、長岡落城ノ機ニ投シ、亦川ヲ渡ツテ賊塁ニ入ル、賊敗走シ、器械糧食狼籍タリト云、今日小出島ヲ守ル我六番狙撃隊、一番、四番小隊、松本藩ト交代シテ、長岡ヨリ六十里越エ達スル要路、萱嶺エ進軍シ、之ヲ守ル<萱嶺ハ、小出島ヨリ五里余、北ニ在リ、長岡ヲ距三里、東山ノ険隘>廿一日賊徒敗走スル者、栃尾ヨリ八十里越ニ入ルト報ス、乃チ令アリ、我兵隊ノ川西ニ在ル者、長岡城下エ進軍セシム、隊長河原左京、小千谷ヨリ出発ス、是役ヤ十日ニ始リ、二十日暁ニ終ル、十日十夜連戦休セス、加フルニ霖雨暑湿、兵士労苦極ル、其間屡賊塁ヲ破リ、賊兵ヲ殺スト雖、又詳録セス<我死傷殺獲別記ス>
一、五月廿四日、杉沢之役<栃尾ノ北ニアリ古志郡ニ属ス>前夕我五番狙撃隊、二番小隊、長岡ヨリ見附エ進撃シ<長岡ヲ距三里東北ニアリ、蒲原郡ニ属ス>今町口ヨリ守ル、今暁賊徒杉沢村ニ屯集スルノ報アリ、薩長ノ兵、進ンテ之ヲ撃チ、加州ノ兵応援シ、我兵留守ス、已而賊勢強悍、薩長ノ兵苦戦加州ノ兵ハ戦ハスシテ還リ、我兵ヲ招テ急ニ赴援セシム、乃暴雨ヲ衝、疾馳、杉沢ヲ距七八町、二番隊賊ノ左ニ出テ、吶喊シテ其側面ヲ撃チ、狙撃隊、薩長ト共ニ本道ヨリ其正面ヲ撃チ、互ニ猛進ス、賊遂ニ敗レ民家ヲ放火シテ走ル、我兵殺獲頗ル多シ、両藩ノ兵、早晨ヨリ戦闘、労苦スルヲ以テ堀溝村エ帰憩シ、我兵代ツテ戦地ニ止リ、徹夜風雨冒シテ警備ヲ厳ニス
ー、同廿五日黎明、賊兵赤坂ノ方ヨリ襲来ス時ニ堀溝ニ在ル薩長ノ兵、報ヲ聞来会ス、乃議シ、両藩ハ左右ノ山ヨリ、我兵ハ本道ヨリ、相共ニ進撃ス、我兵先進ミ、山腹ニ在ル第一砲台ヲ奪フ、賊退テ第二台ヲ保シ殊死シテ戦、我兵大呼奮突、又之ヲ奪フ、此時両藩兵亦左右ノ山ヨリ進撃ス、賊遂ニ大敗、乃両藩ト共ニ北ルヲ追、赤坂村ニ入我兵賊二人ヲ擒ス、余賊三四十人、左ノ山ヨリ出走、即急ニ尾撃、駒込村ニ至リ帰、両藩ノ兵堀溝ニ還憩ス、夜中我狙撃隊モ亦見附エ往キ、独二番隊赤坂山中ニ屯戍ス、此戦、賊ノ死傷夥シト云 巻尾

太政官日誌・明治元年99号

太政官日誌 第九十九
明治紀元戊辰冬十月

【京都仮伝馬所ノ事】
十月二日御布告写
一京都伝馬御用所御取建相成候迄三条通大宮西へ入三宝寺ヲ以仮伝馬所ニ相定候事
但十月三日ヨリ取開候事
一人馬之儀者御用通行出兵等ニ限リ都而当司之添簡ヲ以指出其余諸藩発京私用之分等一切指出申間敷事
一諸官司初人馬入用之節ハ前以当司ヘ申入置当日其向々ヨリ請取トシテ小者一人仮伝馬所ヘ指出候筈ニ付其者ヘ人馬聢ト引渡可申候自今伝馬所ヨリ銘々邸宅ヘ繰込候儀ハ致間敷事
一諸官司ヨリ致差出候御用状諸荷物自今伝馬所ニ於テ取扱可申事
尤当司ヨリ掛ノ者一人宛出役立合為取扱候事
一宿駕篭等一切指出申間敷万一早追等ニテ買上ケ被申入候ハヽ世話可致事
一宮堂上方平生遣人夫各不同有之候得共都而領地高百石ニ付一ケ年十人遣之割合御定相成候ニ付其分申込次第無賃ニテ繰入可申事
一右人夫遣方ニヨリ宮堂上奥向之用筋ニテ領民不成テハ難相叶其段前以届有之候ハヽ其通繰入可申万一領民繰込方難出来候節ハ夫銀ヲ以可相納事
一伝馬所御定賃銭左之通申付候事
京都ヨリ大津迄
人足一人ニ付 六百三十九文
本馬一匹ニ付 一貫二百八十二文
軽尻一匹ニ付 八百三十五文
京都ヨリ伏見迄
人足一人ニ付 五百四十五文
本馬一匹ニ付 一貫五十文
軽尻一匹ニ付 八百三十五文
京都ヨリ淀迄
人足一人ニ付 六百十六文
本馬一匹ニ付 一貫二百二十五文
軽尻一匹ニ付 八百四文
京都ヨリ山崎迄
人足一人ニ付 七百一文
本馬一匹ニ付 一貫三百八十六文
軽尻一匹ニ付 一貫五十二文
京都ヨリ樫原迄
人足一人ニ付 三百十二文
本馬一匹ニ付 六百二十四文
軽尻一匹ニ付 四百六十六文
右之通京都伝馬御用所規則取極取締役共ヘ申渡候事
十月 駅逓司
右之通ニ付申達候事
十月 行政官
【因幡中将ヘ御沙汰ノ事】
同日御沙汰書写
因幡中将
自今車寄昇降可有之事
十月
【会津融通寺ノ戦】
同日備前藩届書写
弊藩人数兼而守山表警衛仕居候処御達ニ付去月十七日同所出発同十九日平城ヘ着陣猶又御達ニ付全隊之内二小隊会津攻撃其余兵隊不残二本松警衛可致トノ事ニテ同廿日出発同廿二日三春表ヘ着陣仕候処会城攻撃之諸藩ハ已ニ繰出ニ相成申候翌廿三日一手ハ二本松一手ハ会津ヘ繰出シ同廿五日若松ヘ着陣兼而長州大垣持場ニ相成候米沢越後両口エ相備候様被仰付即夜出兵屯戌仕候処天寧寺山エ転陣之御達有之同所相固メ猶又越後口ヘ帰陣被仰付直ニ一小隊引上ケ同所融通寺エ二箇所半小隊ツヽ持固メ候処寡勢ヲ見掛候哉同廿九日早天賊兵三百人許襲来必死ト相見エ〈賊之屍ニ法名並慶応四年八月廿九日戦死ト記スル者有リ〉隊長等銃卒ヲ指揮シ二十間内外迄繰詰激烈砲戦衆寡之格闘艱苦之折柄諸手繰出賊軍終ニ崩潰ス当日長州大垣弊藩持場ニテ賊兵斃者凡百二十五六人弊藩死傷之者左之通
戦死
〈銃隊司令官〉緒方益太郎
重創
〈同〉〈帰営後死ス〉中西寿之介 〈同〉〈同〉 斎藤小十郎
銃卒〈同〉三宅彦太郎 銃隊 光信弥四郎
浅井清三郎石野喜三右衛門
木庭金蔵
軽創
大森信之介 小坂直治
〈人足〉一人
右八月廿九日死傷ニ御座候
重創帰営後ニ死ス〈銃卒〉伊藤常三郎
右八月廿六日巡邏之節被創
其後昼夜共無間断諸手ニテ致砲発申候得共賊徒襲来之勢モ無之城中寂寞タル趣ニ相見申候此段於出先御届仕候旨申越候ニ付不取敢御届申上候、以上
十月二日
〈備前侍従家来〉沢井宇兵衛
【越後口ノ警備ト兵部卿宮着陣布告ノ事】
同日岩村田藩届書写三通
去月九日越後路御総督府ヨリ御回章ヲ以テ御達之趣志摩守越後口出兵隊長之者ヨリ同十三日朝在所表迄申越候ニ付即刻人数相備置候旨同所家来共ヨリ申越候此段別紙相添御届申上候以上
十月二日
〈内藤志摩守家来〉長谷川専右衛門
別紙写
今般浮浪之徒上信之間致屯集越後路ヘ侵入之趣相聞候ニ付藩々兵隊至急手当致シ取締方遺算無之様可致候右差引之儀ハ軍監藤村四郎被差遣候間万端可申談旨御沙汰候事
九月
越後口総督府
但手当兵員之儀ハ別紙之通可相心得事
別紙
松代二小隊  松本一小隊半
須坂半小隊  上田一小隊半
飯田半小隊  高遠一小隊
岩村田半小隊 小諸半小隊
竜岡半小隊  高島一小隊
飯山半小隊
以上

去七月十六日越後長岡会議所兵部卿宮ヨリ兼而志摩守越後出兵之者エ御廻状ヲ以テ別紙之通御布告御座候趣隊長之者ヨリ在所迄申越候付家来共ヨリ報知有之間則御達書相添此段御届申上候以上
十月二日
〈内藤志摩守家来〉長谷川専右衛門
別紙写
松平肥後始終暴逆ヲ恣ニシ近隣諸藩ヲ煽動シ屢王師ニ抗衡ス故ニ万民塗炭之苦被為救候叡慮モ貫兼且勤王之大小藩数旬対塁及苦戦死傷不少段達天聴大ニ被為悩宸衷候因而今般北軍総督トシテ早速出馬遂成功奉安宸襟候様厚キ勅命ヲ蒙リ不肖之身敢而雖不当其任危急之場合辞スルニ暇ナク今日当地ヘ致着陣候此上偏ニ諸藩ト同心戮力奉奏成功度頼存候右勅意之趣且着陣之布告為可致如件
七月
嘉彰 花押
越後口出張諸藩エ

去七月十八日長岡会議所ニ於テ西園寺卿壬生卿ヨリ志摩守家来会議所詰之者拝謁被仰付別紙之通御書付ヲ以テ御酒肴下賜重々難有仕合奉存候此段以使者申上候以上
十月二日
内藤志摩守
別紙写
数月之間諸藩不容易尽力叡感被遊候依之軍士慰労トシ勅使被差立乍聊酒肴下賜候事
七月
【奥越境叶津ヘ進軍ノ事】
十月三日高島藩届書写
兼而御届申上候於越後表召捕候賊名別紙之通申越候且又奥越境叶津ト申処迄致進撃候旨報知有之候間御届可申上旨伊勢守申付越候以上
十月三日
〈諏訪伊勢守家来〉林魯兵衛
別紙写
〈越後国長崎村大福寺隠寮ニテ召捕〉〈会賊〉古川弥次郎
〈同〉小桧山鉄之助
〈同国中家村理左衛門方ニテ召捕〉豊七
〈同国長森村新左衛門方ニテ召捕〉清助
右之通召捕小千谷民政局エ差出申候旨申越候以上
十月