明治元年123号

太政官日誌第百廿三
明治紀元戊辰冬十月

【会津方横田大助等自殺ノ事】
十月廿三日松本藩届書写
先月廿九日、会議所ヨリ、奥州横田村庄屋善蔵、賊兵ヘ尽力、謀計ノ聞有之ニ付、弊藩ヘ召捕候様、御達ニ付、神方新五左衛門隊、召捕人敷差出候処、本月二日右善蔵並組頭元蔵生捕、吟味之上、会議所ヘ差出、其上横田村ニ賊兵潜伏モ難計付、取締厳確申付置、右同日奥州玉梨村ニ、会賊山内大学弟横田大助潜伏ノ聞有之趣、依而会議所ヨリ生捕候様、御達ニ付、松代藩五人、弊藩新五左衛門手ニテモ同様、一同玉梨村ヘ出張、所々及探索候処同村山中一ノ沢ト申所ニ、横田大助、飯坂新内、小沢源蔵潜伏、大助、新内儀ハ自殺、源蔵儀ハ自殺致シ懸候ヲ、取押候得共、深疵ニテ絶脈ニ及ヒ候故、両藩召捕ノ者共、談判ノ上、三賊ノ首ヲ切持帰、会議所ヘ是又差出候段、出先ヨリ申越候ニ付、先此段御届申上候以上
十月廿三日
戸田丹波守家来 加藤修理

【奥州火ノ玉峠ノ戦ヨリ会城撃入ノ事】
同日大田原藩届書写
本月二日、火玉峠ヨリ若松城下迄、直ニ進撃可仕手筈之処、同所ヨリ関山村ヘノ路次、栃沢村ニテ賊兵多勢、我進軍ノ路ヲ相妨候ニ付芸州、肥前、宇都宮、弊藩一同進戦ス、尤弊藩兵隊ノ儀ハ、路左ノ山手ヨリ横撃シ、四藩共ニ大奮戦、賊軍ヲ追崩シ、直ニ関山村ヘ進軍候処、同所ニモ賊兵数百人屯集罷在候間、諸手互ニ進ミ、烈敷砲撃候得共、何分賊ハ地利ノ宜ニ拠リ、頗ル防禦ノ術ヲ尽シ、激戦候ニ付、容易ニ敗走之模様無之、且ツ日モ已ニ昏黒ニ及ヒ候間、一先繰揚、休兵仕候、同三日、四日ハ日光口後詰薩摩、肥前、其他両三藩、関山村ニテ戦闘ス、遂ニ宿陣、同五日本郷出発、進軍之諸藩ヨリ、斥候隊二十人宛差出シ、敵地之摸様探索為仕候処、折節賊兵突出、俄ニ及砲戦候ニ付、諸手本軍ヲ以テ、賊兵ヲ打払ヒ、夫ヨリ材木町口迄進撃、同所ニテ良久ク戦闘、勝敗未決、彼我交綏、味方兵隊之儀ハ、同所近村ヘ引揚、終夜警守ス、同六日、各藩各所ニ陣営相定メ、弊藩之儀ハ、西城戸村ヘ移陣、同七日幕之内村ヘ移陣、其後数日休戦、当十三日ニ至リ、明十四日惣軍進撃之旨、参謀衆ヨリ達ニ付、当日辰刻芸州兵隊ヘ合併、材木町口ヨリ進軍、河原口郭外ニテ、暫時砲戦、遂ニ郭内ヘ撃入、良久ク戦闘ス、然処、日モ昏暮ニ追リ、諸軍止戦候ニ付、猶又郭外迄引揚、番兵相勤候、同十六日迄同所ニ屯軍罷在候処、田島辺散走之賊ニモ可有之哉、当十日人数凡四五百人ニテ、大関泰次郎領分三斗小屋村ヘ襲来、放火仕候趣、右者私領分接近之場所ニモ御座候ニ付、会津表出張之兵隊繰揚、城邑警衛厳重可致旨、参謀伊地知正治殿ヨリ被達候間、当十七日会津表引揚、帰陣仕候、前書之通所々戦争之節、弊藩死傷且生捕、分取等、別紙之通御座候、此段御届申上候、以上
九月 大田原鉎丸


戦死 輜重方 宇野良貞 同 江連半之助
銃手 蒲沢健次郎 渡辺久次郎
夫卒 一人
右者去月二日、火玉嶺ヨリ進軍、於処々戦争同五日若松迄撃入候処、輜重隊之分、途中ニテ賊兵ニ被遮、兵隊一同進ミ兼、田島迄引返候処、同九日、同所ヘ賊兵襲来、衆寡不敵、甚及苦戦候節、五人之者戦死仕候事
薄手 銃手 刈田市左衛門 同 室井甚右衛門
右者若松撃入之節、手負仕候
薄手 銃手 笠門久米吉
右者惣軍若松攻城之節、手負仕候
生捕分取如左
生捕 会津槍隊 小林久米吉
右者惣軍若松城攻撃之節、生擒之、同所詰合参謀衆ヘ届之上、斬首仕候
刀 三本 脇差 二本
長刀 一振 剣 四本
旋条銃 八挺 ヒストール 一挺
馬<内一匹鞍置キ> 二匹 弾薬 三百発計
槍 五本 喇叭 一口
タス 三箇 雷管 千五百粒
右之通御座候、以上
九月 大田原鉎丸

本月十七日、会津表出張之兵隊引払帰陣、其後無間断、領分内外警邏為仕居候処、同廿六日、田島口ヨリ脱漏之賊兵、八九百人、百村泊ニテ城下迄襲来之模様、右近村ヨリ追々警報有之候間、夫々手配迎撃之用意中、奥州筋進軍之彦根藩二小隊計、城下泊ニテ通行之折柄、同藩ニテモ弊境騒擾之聞ヘ有之候者、直様応援可致旨申談御座候間、何分敵兵ハ多人数之様子、弊藩一手耳ニテハ甚心支ヘ候折柄援兵之申入レ幸之事ニ付、滞陣相頼候、同朝阿州兵隊モ、奥州ヘ進入、鍋掛駅ニ宿陣候ニ付、是亦応援之儀相頼候処、同夜一小隊、速ニ城下ヘ繰戻ニ相成、尚又黒羽藩ヨリモ、為応援四小隊繰入候ニ付、諸藩申談シ、手筈相定居候内、右賊徒、領内高林村ヨリ石上村通リ、福原内匠知行所滝沢村ヘ相掛リ、襲人之旨、石上村ヨリ警報有之候付、軍議確乎ト示合セ、同廿七日払暁、黒羽藩ニハ佐良土村ノ方ヘ相廻リ、阿、彦両藩之儀ハ、弊藩先鋒ニテ、賊徒ノ遁路ヲ追撃、掃攘可仕手筈ヲ以テ間道ヨリ片府田村迄、進軍仕候処、同所ニテ賊兵休憩喫飯致シ居候付、於同所三藩一同砲戦相始リ、然処、敵ハ頗ル尽力軍配位、我ハ地利不宣、殆ト及苦戦候ニ付、短兵ヲ以テ争ニ相接シ、力戦仕候処、賊兵無程、同所ヨリ二里計相隔候佐良土村ノ方ヘ、敗走仕候付、味方ハ一旦人数引纏メ、暫時休憩、夫ヨリ佐良土村迄、彦藩弊藩、両手追撃仕候処、同所ニハ黒羽藩ニテ激撃仕候ニ付、賊徒浪狽之体ニテ、箒川ヲ渡リ、敗奔仕候趣ニ付、同所ニテ追捨、申半刻過彦藩一同凱旋仕候、此日弊藩死傷且討取、分取等、別紙之通御座候、此段不取敢御届仕候、以上
九月
大田原鉎丸

別紙戦争之節、弊藩人数之内、死傷如左
戦死 使番 阿久津又次郎
薄手 藤田六郎組 印南小右衛門 同 渡辺善右衛門
大砲方杉江一郎組 小林房次郎
右之節、討取、分捕如左
賊 五人
兜 一ツ 刀 一本
陣笠 一蓋 旋条銃 二挺
長刀 一振 タス 一筒
右之通御座候、以上
九月
大田原鉎丸
別紙之通、東京御総督府ヘ御届仕候趣、在所表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
十月廿三日
大田原鉎丸家来 黒木哲平

【明律取調御用ノ事】
同月廿五日脚沙汰書写
水本保太郎
明律取調御用被仰付候事
十月

【切支丹宗改方ノ事】
同日御布告書写
切支丹宗門改方 追テ御規則相立候迄ハ、旧幕府之所置ニ相従ヒ、不審成者、有無取調、来十一月限、弁事伝達所ヘ可届出事
十月

【羽越国境関川、雷附近ノ戦】
同日土佐藩届書写
去十一日、諸道進撃ニテ、雷村屯集之賊徒、掃撃候様御達有之、弊藩一小隊、岩国藩一小隊、前夜四ツ半時中継村出発、半里余ニシテ山谷ニ入候処、頗ル嶮岨ニシテ、細路モ無之巌石ヲ攀チ、蔦蘿ヲ椚シテ、漸ク雷村山上ニ達シ、賊ノ動静ヲ伺ヒ、岩国藩ト申談シ、岩国藩半小隊、雷村右傍ノ山腹ニ出テ、賊ノ砲台ヲ襲撃シ、弊藩一小隊、岩国藩半小隊、山下ヨリ雷村正面ニ突撃ノ手配ヲ以、双方ヘ相分レ、雷村ヲ目掛ケ相進ミ候処、山勢最嶮絶、兵士魚貫シテ谷ヲ下リ候内、嚮導之者道ヲ失ヒ、数十仞ノ懸崖ニ至リ、可下様無之、不得己一先兵士ヲ山上ニ繰揚候処、雷村右傍山腹ニ出候岩国藩半小隊、砲声甚盛ンニ付、又々我兵ヲ無二無三ニ、山ヲ下ラサセ候得共、何分崎嶮之路、可下之手立モ無之、遂ニ夕陽ニ至リ、兵士疲労甚シク、弾薬糧食ノ持夫道ヲ失ヒ、不相続ニ付、無拠人数引揚申候、然ニ弊藩、岩国藩ト渓路相尋候内、僅ニ六七人、別道ヨリ相下リ、雷村ヘト進込候得共、最早薩長等ノ兵砲台ヲ乗取、賊徒散乱之場合ニ御座候、此段御届仕候、以上
九月
土佐少将家来 前野久米之助
去十六日、賊徒諸方山上ヨリ、関川陣所ヘ襲撃、弊藩一小隊、岩国一小隊、関川西ノ山嶺ヘ兼而相固居候処、五時過山下ニテ戦争相始申候ニ付、山上ヨリ少々発砲、追々九時頃後ノ山上所々ヨリ、襲撃候ニ付、両藩諸口固メ場ヨリ砲撃候内、岩国藩相固候嶺上ノ砲台ヨリ、援兵乞ヒ候ニ付、早速一分隊繰出候処、賊一町余ノ所ヘ進来、頻ニ発砲候ニ付、岩国藩厳シク砲撃、七ツ時過山下ノ賊勢相退候得共、山上ノ賊不相退、然ニ頂上ノ外ハ、格別ノ事モ無之旨、弊藩人数、岩国藩ト交替相戦申候、夜ニ入リ、賊勢相弛リ、夜半後遂ニ賊徒引退申候、此段御届仕候、以上
九月
土佐少将家来 前野久米之助
別紙之通、於出先御届仕候趣申越候間、此段御届申上候、以上
十月廿五日
山内土佐守家来 岸本円蔵
校正
○太政官日誌第百六冊目、弊藩戦争御届之内
七月十日之条下
御領内者 領内ノ誤 私者 中将ノ誤
七月廿五日之条下
右ノ台場ハ 五ノ台場ノ誤
七月廿八日之条下
矢島ハ 矢島勢ノ誤
八月十三日之条下
長勢者 長州勢ノ誤
七月廿八日之条下
戸田大学者 戸村大学ノ誤
○第百七冊之内
七月廿九日ノ条下
足軽嘉三郎ハ 喜三郎ノ誤 豊間多嘉治ハ 多喜治ノ誤
本月八日ノ条下
根本半助ハ 羊助ノ誤
八月八日ノ条下
宮崎谷四郎ハ 善四郎ノ誤
手負 小松市之助 書落候
○第百八冊之内
七月七日ノ条下
根本六左衛門ハ 兵右衛門ノ誤
八月十日ノ条下
旗付者 付添士ノ誤
八月十二日ノ条下
羽出村ハ 四羽出村ノ誤 岡本政吉ハ 政治ノ誤 佐竹組ハ 佐竹大和組ノ誤
八月十三日ノ条下
在近士庄助ハ 左近士ノ誤
○第百九冊之内
本月十八日ノ条下
左午子村ハ 左手子村ノ誤 則川向ハ 賊川向ノ誤
八月廿九日ノ条下
岡谷久太郎ハ 兵馬ノ誤
右之通御座候、以上
十二月十九日 佐竹中将公用人 村瀬清