太政官日誌・明治元年122号

太政官日誌 第百廿二
明治紀元戊辰冬十月

【並銭、浪銭通用ノ事】
十月廿三日御布告写
御一新後、万国貨幣之釣合ヲ以テ、並銭始浪銭等、夫々直増通行御定被仰出候処、其国所ニ於テ、心得違之者共、十二文通行ノ処、或ハ六文、或ハ八文位ニ取引致シ、其ニ準シ浪銭等ニ至ル迄、御定通ニ通用不致趣相聞ヘ以ノ外ノ事ニ候、元来貨幣ノ儀ハ、僻地避陬ニ至ル迄、不一様候テハ不相済事ニ付、先達テ金札通用向ニ付テモ、厳重被仰出侯通、府藩県ニ於テ、厳重ニ取調、天下一円定額之通、通用可致様御沙汰候事、

【越後官軍ノ金穀取賄ノ事】
同日御沙汰書写
越後国所在留戊之官軍
同 病院ニ療養之者共
右夫々入用之金穀等、当分其最寄ノ府藩県ニテ、取賄可致旨 御沙汰候事
但、藩々之分ハ、追テ会計官ヨリ御下渡相成候間、資料取調可申出事

【藩主ノ身分届出ノ事(同日布告)】
各藩当主、嫡子、隠居、庶子トモ、年齢、家督、任官、叙位之年月日等、明細ニ相記可差出旨、先達テ御布告有之、追々差出候処、認方区々ニ相成、且疎漏ノ向モ有之候間、更ニ書体並寸法迄、別紙雛形之通、美濃紙ニ相認来ル十一月弁事伝達所ヘ可差出事
当主
領知高 地名
氏通称姓実名
当辰何歳
養子ナレバ
実何某実名幾男
年号干支月日 家督
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官
隠居 氏通称姓実名
当辰何歳
養子ナレバ
実何某実名幾男
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官
嫡子 氏通称姓実名
当辰何歳
養子ナレバ
実何某実名幾男
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官
庶子 氏通称姓実名
当辰何歳
年号干支月日 叙何位<上下>任何官
年号干支月日 叙何位<上下>遷任何官

【鷹司入道薨去ノ事(同日御沙汰)】
鷹司入道准后
光格天皇以来数年之間王事鞅掌其労不少、然処薨去之趣、被聞食御哀憫之余、以出格之思食、金五百両下賜候事
十月

【肥州海軍、盛岡領脇ノ沢台場占領ノ事】
同日肥前藩届書写
秋田軍艦乗組弊藩人数、九月十日昼四ツ半時頃、南部盛岡領野辺地乗廻候処、波涛強、致動揺候得共、直ニ台場並宿陣所ヘ及砲発候処賊兵則台場出張致応発候内、一放者帆柱ノ綱ヲ切リ、一放ハ船ノ中央ニ中ル、益及攻撃候処、台場半ハ破壊、討死ノ者モ可有之歟、賊兵堪兼、致遁逃候ニ付、既ニ端舟ヨリ揚陸、進撃可致ノ処、只様風波強ク、進退自由不相成、不得止暁八ツ半時頃相止、同所ヨリ海上十四里、同領脇ノ沢ヘ乗廻リ、揚陸、台場相襲候処、賊逃去、一人モ不罷在、分捕別紙ノ通御座候、以上
九月
海軍 肥州藩
九月十日、盛岡領脇ノ沢台場分捕品、左ノ通
大砲 二門 玉 二十七
合薬 四筥 旗 四流
幕 一張 製薬鍋 二ツ
笠 五枚 印付衣物 六枚
木鋏 一挺 斧 一挺
以上
九月
海軍 肥州藩
弊藩海軍秋田藩軍艦乗組、九月十日盛岡領野辺地ニオヰテ戦争ノ次第、別紙ノ通、出向家来ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候、以上
十月廿三日 肥州藩

【元水藩ノ家老市川等弘道館ヲ襲フ】
同日水戸藩届書写
当春国元脱走之奸徒市川三左衛門、朝比奈弥太郎等、其他会賊共、去月廿八日領内ヘ相迫候ニ付、早速人数差出候処、廿九日未明、城西ノ方、小野河岸ト申所ヘ押来候ニ付、出張ノ人数及防戦候得共、遂ニ河岸ヲ渡ラレ、午剋石塚ト申所ニテ、再ヒ及戦闘候処、何分姦徒之兵勢熾盛ニシテ、我遊撃隊中死傷ノ者モ有之候得共、防キ不得、稍引退ク、城下金町ニ於テ、山野辺主水正一手防戦ス、然ルニ敵ハ衆、我ハ寡、引返シ接戦候内、終ニ弘道館ヘ押入候ニ付、必死防拒ス、朔日未明ヨリ、双方互ニ砲戦之節、姦徒清水陸一郎ト申者、五人計引率シ、史館裏手ノ方ヨリ忍入候ヲ見付ケ、直ニ斬戮ス、翌二日烈敷及攻戦候処、姦徒難支故歟、弘道館内並南北廓中ヘ放火致シ、同夜四方ヘ散乱ス、味方死傷、討取、別紙之通御座候由、東京小石川邸ヨリ、当月十一日仕出ヲ以テ申来候間、不取敢御届申上候尚委細之儀ハ、再報ノ上御届仕候、以上
十月廿日
水戸中納言家来 大野謙介
討取
元側用人 荻庄右衛門 元小姓頭 市川主計
同 荻勇太郎 元小十人 宮田常之助
元徒士 清永陸一郎 元新番 介川治右衛門
元与力 後藤小平太
生捕
元大番 大畠理八郎 元蔵奉行 小泉左十郎
児玉園右衛門 会津人 二人
越後村松人 二人 伊藤辰之介家来 一人
松田半右衛門家来 一人 先手同心 為二郎
郷夫 八人計
右之外、名前不詳者、五六十人討取ル
戦死
目附 鮎沢伊太夫 先手物頭 久米鉄之進
以下平士 太田鉞之介 金子七之助
片岡五郎介 野島斧太郎
亀井宇八 武石伝之助
園部壮之介 松本金左衛門
平山兵蔵 菊池久平
芳賀庄三郎 岡部忠三郎
梶留四郎 鈴木庸介
黒沢忠之進 塀和善之進
山本金吾 田治見荒二郎
武藤貞四郎 桧山壮一邦
手負
大番頭 榎本五左衛門 同上 赤林三郎兵衛
同上 太田新蔵 先手物頭 谷晋太郎
使番 庄半十郎 以下平士 矢野唯之助
皆川源吾 里見平三
国分尚之進 萩谷理左衛門
川辺十松 大胡半次郎
小田倉秀二郎 江原清右衛門
小野崎藤平 菊池五郎左衛門
小池徳二郎 富田彦三
新屋半之助 近藤卯之吉
江幡吉五郎 国友忠之助
川又友三郎 林七太郎
小泉彦三郎 大内幹之介
石川竜之介 津田友吉
和田熊次郎 連枝松平安房家来 五人
家老山野辺主水正家来 四人 家老三木左太夫家来 四人
同鈴木縫殿家来 三人 先方隊 三十余人
神官郷士 死傷未詳 車夫 十人
右之通、討取、生捕、弊藩死傷ニ御座候、以上
十月廿日 水戸中納言家来 大野謙介

【水府弘道館襲撃ノ巨魁下総成田ニテ誅セラル】
別紙御届申上候奸徒巨魁、市川三左衛門等、南筋ヘ逃去候ニ付、為追討、尼子扇之介一手出張之処、下総国成田近村ニ於テ出会及戦争其節討取左之通
元家老 市川三左衛門 同 朝比奈弥太郎
同 佐藤図書 元小姓頭 朝比奈靭負
其外名前不相明大将分、都合二十六人討取従卒不分明、味方死傷モ未詳
右東京小石川屋敷ヨリ、本書同日仕出ヲ以テ報知申越候間、是又不取敢御届申上候、以上
十月廿三日 水戸中納言家来 大野謙介

【羽州小名部附近ノ戦】
福知山藩届書写 追録
弊藩人数一小隊、薩州、岩国、村上兵隊同様去月廿六日午時、中継村発陣、小俣村ヘ進軍候処、賊兵小名部峠ニ砲台ヲ築、厳重ニ相固居候ニ付、諸隊分配及砲戦候処、何分要害堅固ニテ難崩、及苦戦候内、申刻頃、敵兵右手山嶺ニ突出、発砲シ、味方地位不宜、防戦難相叶、不得止一旦其場ヲ引揚、小俣村手前相備候得共、及日暮、且地埋不便ニ候之間、小俣峠迄繰引、同所台場ヲ固守候処、敵兵小俣村民家ヲ放火シ引退申候、右戦争中、弊藩佐原将曹隊松井喜平次、浅手ヲ負申候、此段出陣先ニ於テ、去ル六日御総督府ヘ御届申上候段申越候間、不取敢御届申上候、以上
九月廿三日 栃木近江守内 中野斎