太政官日誌・明治元年88号

太政官日誌第八十八
明治紀元戊辰年秋九月

【越後十二潟、一ノ貝ノ戦】
九月十五日加賀藩届書写三通
六月八日以来、弊藩各隊塁砦ヲ相固メ、日夜防戦候付、同月十四日平旦賊徒数ケ所ヨリ襲来候ニ付、十二潟村ハ蓑輪知太夫一中隊、大砲一門、筒葉村ハ今井久太郎一分隊、司令官吉田市兵衛、大砲一門各其手之敵ヲ邀撃追却申候、同十九日午刻過、賊徒再ヒ十二潟ニ迫リ候ニ付、蓑輪隊勇戦、遂ニ打破候、同廿一日賊徒又々来冦シ、十二潟口既ニ砲戦ニ及候処、福島村口官軍不利、同所罹兵燹候ニ付、蓑輪隊後ヲ顧ミ甚致苦戦候内、今井久太郎隊、司令官金森宗左衛門一分隊ヲ率ヒ筒葉村之藩兵ニ馳加リ薩兵ト相合シ福島村之賊ヲ横撃シ勢ニ乗シ、長兵ト共ニ福島村ヲ復シ候付、賊徒周章潰走致シ候、然ニ廿二日巳刻過ニ至リ、賊再ヒ守返シ候得共、蓑輪隊迎戦、遂ニ打払申候、同廿九日、参謀衆ヨリ、明暁惣軍進撃可有之旨、森立嶺在障之官軍ヘ申来候ニ付、七月朔日払暁、小川仙之助隊司令官高畠金三郎、兵隊ヲ率ヒ並大砲一門、薩長兵ト相合シ進テ一之貝村ノ砲台ヲ奪ヒ、村落ニ火ヲ放チ、段々進撃、西ノ又村迄焚焼シ遂ニ半蔵金ニ至リ、又転シテ荷頃村ニ出、烈敷射放致シ候内、日已ニ昏黒ニ及ヒ候ニ付、一分隊ヲ比礼村ニ残シ、余兵引纏森立嶺ニ帰陣致シ候、同日十二潟村ニ於テモ砲戦有之候得共、是亦我兵大勝利、同四日夕賊栃堀之間道、張切ト申ス所ヲ襲ヒ候由ニ付同所戌兵松本藩ヨリ松尾村出軍之弊藩春日於菟男半隊司令官中野佐吉郎等ヘ、援兵ヲ乞候ニ付、迅速一分隊ヲ発シ戮力射撃候処、賊勢敗衄、追々逃亡致シ候、右六月十四日以後、長岡口諸隊戦争事情概略御届申上候、尚死傷等左之通御座候、以上
八月
加賀宰相中将家来
赤座甚七郎
奥羽征討越後口
御総督府

戦死
蓑輪知太夫隊 安達小一郎 高木蟻之助
今井久太良隊 鈴山三右衛門 北村市之助
押村甚次郎 竹村幸次郎
大砲方 高木織之助 弾薬方 太田久之助

坂井喜久助 小池六郎
中島永之助 坂井惣太夫
栗野嘉十郎 坂本常三郎
島田助次郎 犀川庄次郎
小森栄次郎 金森宗左衛門
吉田市兵衛 二木与三郎
高桑兵左衛門 半林惣七郎
林藤与三次郎 矢野久太郎
山崎平二 森佐助
上坂乙右衛門 高尾七良吉
森助次郎 河村幸左衛門
吉田辰蔵 篝卒 一人
春自於菟男隊 篝卒 一人 同 夫卒 一人

【越後与板口、出雲崎口ノ戦】
賊徒高森、高月、坂谷村等ヘ侵入シ兵ヲ山上、海浜ヘ分配シ六月十九日払暁ヨリ致来冦候ニ付、久田村海浜ニ罷在候、弊藩斎藤与兵衛半隊、大砲二門ヲ以テ応之、長州兵軍艦ヲ以、賊之砲台ヲ横撃シ、海陸一時奮進致シ候処、賊驚惶、山田村迄敗走致シ候.同廿四日賊衆久村田村辺山上数ケ所ヨリ襲来候ニ付、弊藩杉本美和介一小隊ハ、高田援兵ト相合シ乙茂村ヨリ進軍,数度賊ヲ撃退ケ、斎藤ハ久田村山上ヨリ兵ヲ縦チ、致射撃候処、爺ケ山之賊兵、尤強悍、富山加勢之弊藩宮崎久兵衛水野徳三郎二小隊、既ニ危急ニ付、神速応援可有之旨申来、即斎藤一分隊馳向候処官軍既ニ守返候ニ付、諸隊合シ同ク勢ニ乗シ進撃致候、同日藤堂村高田兵モ苦戦之由ニテ援兵ヲ乞候ニ付、弊藩近藤新右衛門半隊ヲ発シ相向候得共、薩長援兵来候ニ付、剣ケ峰ニ致帰陣候、従是剣ケ峰、乙茂等並与板口春ケ峰在陣之春日於菟男連日砲戦、七月朔日、同六日、七日、杉本隊尤奮戦、同八日弊藩杉浦善右衛門隊、杉本隊ト相代リ、同十六日太田小又助隊、近藤隊ト相代リ尚又連日致砲戦候、右六月十九日以後、与板口出雲崎口諸隊、戦争事情概略御届申上候、猶又死傷左之通御座候、以上
八月
加賀宰相中将家来
赤座甚七郎
奥羽征討越後口
御総督府

高橋新太郎 小竹喜久太郎
松山喜十郎 中村吉三郎
坪内宇三郎 山田乙次郎
吉岡友三郎 栗山安平
竹内友之丞 中西与右衛門
笠松宇三郎 石崎覚之丞
杉浦善左衛門隊 梅原吉三郎 越村安左衛門
越野喜三郎 夫卒 一人
斎藤輿兵衛隊 夫卒 一人 篝卒 一人
杉本美和介隊 夫卒 一人 篝卒 一人

杉本美和介隊 佐倉安左衛門 木村次左衛門

【越後官軍小千谷口ニ退ク】
前月廿五日払暁、官軍諸隊大挙可致進撃之旨参謀衆ヨリ指図有之、各按軍待期候処、丑刻頃、賊徒福島村等ヨリ不意ニ侵襲シ長岡城下ニ火ヲ放チ、勢太危急ニ付、各藩諸隊追々引揚、続テ弊藩家老津田玄蕃モ、手兵引纏、柳原土手川上ニ散開シ、暫時致防戦、長兵ト同ク退テ信濃川之長堤ヲ後ニシ、一同奮激致死闘候内、蓑輪知太夫隊兵並諸藩兵モ加リ候得共、何分弾薬不相継、且参謀ヨリ引揚候様申来候ニ付、同夜酉下刻、惣軍川ヲ越、大島村ニ退キ致防戦候、同暁十二潟ハ、弊藩今枝民部一中隊並蓑輪知太夫一分隊、筒葉ハ今井久太郎分隊司令官奥田九右衛門及大砲一門山田定右衛門別ニ一分隊ヲ率ヒ相加ル、坪根ハ司令官雪野順太郎、一分隊ヲ率ヒ各猛進致奮戦候内、長岡等ニ当リ兵火相起リ、惣軍敵中ニ陥リ、一同必死ヲ極メ、奮戦、遂ニ賊兵ヲ灰島、大口迄追込申候、然ルニ賊勢盛熾再ヒ坪根等ヘ相進、更ニ争戦候内参謀衆ヨリ急速可引揚旨申来、依テ惣軍引纏、川ヲ越シ関原迄引還申候、同廿六日、来伝、森立嶺、半蔵金、浦瀬等ヘ出張之弊藩諸隊、大砲順次ニ引揚候様、指図有之、追々引取候処、賊徒共我跡ヲ追ヒ襲撃候付、各隊且戦、且退同廿八日遂ニ小千谷口迄致退陣候、右前月廿五日戦争概略、御届申上候、尚死傷左之通御座候、以上
八月
加賀宰相中将家来
赤座甚七郎

奥羽征討越後口
御総督府

家老 津田玄蕃 津田玄蕃隊 奥田定之助
加藤勇 北村甚五郎
木崎右守 中村権之助
峰本源太 下村儀兵衛
別所市郎兵衛 高桑甚太郎
松本幸左衛門 伍堂与三兵衛
木越栄三郎 宮本昌太郎
田中才三郎 今枚民部手勢 三村豊松
吉田周太郎 田申勇吉
宮本春次郎 諸田九兵衛
久徳直之助 西田甚蔵
金田伊三郎 中林助次郎
安川理兵衛 石川定次郎
鑑軍 山田定右衛門 輜重方 中村吉五郎
津田十之進隊 笹川米次郎 今枝民部手勢 夫卒一人
今井久太郎隊 夫卒 二人 篝卒 二人

津田玄蕃隊
松枝十之進 石田縫右衛門
安田周蔵 勝村初右衛門
山下鉄之助 宮村敬祐
本間昌太夫 河村竹次郎
富沢次郎吉 横井市兵衛
吉本仁三郎 蓑論知太夫隊 荒木太四郎
岸九右衛門 高橋小太郎
今井久太郎隊 三田村忠五郎 奥田九右衛門
加納八十太郎 上田与三之助
村上玉吉 河村弥三助
野村仁兵衛 津田十之進隊 大砲方 大橋左平次
当六月十四日以後、長岡口戦争之次第、別紙之通御総督府ヘ及御届候旨申越候、此段御届申上候
九月十五日
加賀宰相中将家来
広瀬五十八郎

太政官日誌・明治元年87号

太政官日誌第八十七
明治紀元戊辰年秋九月

【会軍城中ニ死守ス】
九月十四日薩州藩届書写
去ル十九日賊地進取ノ軍議一決、廿日二本松出立、長州、土州、大垣、大村及弊藩ナリ其内弊藩、大村等ノ人数三百位ハ中山越ノ此方、横川ト申所ヘ、態ト終夜偽勢ヲ張テ、賊軍ヲ分タセ、其余ハ玉ノ井村ト申ス所ヘ一宿仕候処、近郊ニ賊徒五六百屯集ノ由ニ付土州等申談、人数差向ケ、夕方ニハ不残追払申候、賊ハ旧幕脱走人並二本松人等之由ニ御座候、廿一日暁五字ヨリ発軍、石筵ト申所ノ前路ヨリ惣勢ヲ三ニ分、右ハ土州、長州人伊達道ト云ル間道ヨリ進ミ、左ハ大垣、弊藩別ノ間道ヲ経テ、賊ノ背後ニ出ントシ、中筋ハ長州、土州等相進ミ候処、第一ノ砲台ハ長サ二町余、高原之下ニ沿テ築立、頻ニ発砲候故.進ンテ是ヲ乗取打取、第二ノ砲台ハ夫ヨリ十町位先キ、双方ニ構ヘ有之故、歩銃ヲ諸方ニ散布シテ、大砲ヲ要地数所ニ押出シ、攻掛候処、賊徒暫時ハ烈敷防戦候得共、右ヲ廻リシ長州、土州之人数モ進来リ攻立、正面ヨリハ十余挺ノ大砲ヲ放テ、散兵諸所ヨリ進撃候故、賊徒終ニ大敗ニテ、二ケ所ノ砲台ヲ乗取リ、数十ノ陣屋ニ火ヲ放チ焼捨、尚進テ第三之台場ニ攻掛リ候処、夫ヨリ十余町ニシテ、第三ノ台場ハボナイ峠ノ絶頂ナリ、横二町位、関門二ツ左右竹虎落ヲ結テ有之候得共、攻込ニ至テ賊徒一人モ無之逃亡ス、大砲五挺其外弾薬、兵糧、分捕ス、然ニ日モ已ニ暮ニ及ビ候故、其夜列藩ノ諸隊ハ峠ニ野営仕候左ヲ廻リシ大垣、弊藩ノ人数ハ無人ノ地数里通行、深山ヨリ賊ノ背後ニ出候処、落行ク賊ニ行逢、散々ニ打取、二里計ハ追討、在家ヘ一宿、廿二日暁ヨリ大兵進テ猪苗代ニ打入候処、賊徒城ヲ自焼シテ、尽ク落失セ候故其夜一宿、兵糧少々分捕有之、扨二三小隊ハ尚進テ其夕方迄ニ戸ノ口之険橋ヲ乗取ント攻掛候処、賊徒数百人出迎防戦、石橋少々毀傷致シ居候得共、無難打破リ押渡リ、討取不少、廿三日、惣勢暁四字ヨリ猪苗代発足、是ヨリ先キ、先手ハ既ニ戸ノ口ヨリ、要地ノ山邱ヲ乗取居候故、惣勢共ニ進テ会津ヘ攻込候処、賊徒諸所ニテ防戦候得共、悉ク追散シテ城下ニ乗入候、士小路、市中共悉ク落失セ人影更ニ無之故、進ンテ城ニ迫リ候処、爰ニハ賊徒必死ヲ究テ防戦ノ様子故、其夜ハ城下ニ一宿、廿四日城下ヲ一円ニ焼払ヒ、迎陣ヲ取テ、賊城ニ攻掛リ候手配ニテ、陣所ヲ本ノ市中ヨリ、滝沢町ト申ス辺ニ据ヘ、偖大砲ヲ放チ、攻近ツキ、其機ニ乗シ城下士小路不残焼立申候、東南ノ微風モ有之、元来茅屋ノ事故、一時ニ焼失仕候、廿五日肥前尾州紀州人数、勢至堂口ヨリ着陣、中途賊徒悉ク落失候故、無事ニ到着ノ由也、同日ボナイ峠ヨリ備前勢着陣、夕方賊ノ火薬庫三ツ焼払、廿六日天寧寺山乗取、賊ノ火薬庫数所分捕、爰ヨリ城ヲ十町余之眼下ニ見下シ候故、終日城ヲ致砲撃申候、越後口出張ノ賊徒、散々ニ成テ、五十人歟百人位宛、追々帰城之様子、乍併城中現兵五六百モ候歟、外ニ槍隊三四百人有之、衝突スル毎ニ必ス官軍ノ弾丸ニ掛テ被打立候、米沢ヨリ、必ス加勢ヲ出シ候半歟ト、相待候得共、今ニ相分不申候
右近日戦争大抵ノ形勢ニ御座候、尤弊藩戦死手負等モ不少候得共、尚細々取調可申上候、以上
八月廿八日
会津在陣
薩州藩
別紙ノ通申来候ニ付、此段申上候、以上
九月十四日
薩摩少将家来
内田仲之助
同日肥前藩届書写二通
此度鷲尾殿ヨリ、我兵隊並尾州先陣、紀州二隊、勢至堂口ヨリ若松進軍之御指図ヲ請ケ、本月廿四日、尾紀両勢ハ本道ヨリ勢至堂ヘ進撃、我兵隊ハ右手間道滝新田村ヨリ中地村等所々賊徒屯集之場所ヘ進撃、然処二本松口攻手ノ、薩長土、其外猪苗代ヨリ相進最早若松城下ヘ相進候趣ニテ、右勢至堂口ヲ始最寄間道固メノ賊兵若松ヘ引退候故、不遂干追詰、大砲其外致分捕、三世宿ニ於テ尾紀両勢ヘ致会軍候処、本城落候儀ハ、旦夕之様風説有之候ニ付、我勢ノ内四小隊、直様夜通ニテ相進、翌廿五日朝若松城下着陣、参謀ノ人ヘ其段相達候処、外郭ハ乗取リ、未タ本城ハ厳重ニ楯篭罷在候間、諸道官軍之至ヲ相待候由被申聞、然ル処、多久与兵衛始惣勢ノ儀モ、八時過頃着陣、薩藩ヨリ任示談、右攻口ノ大手口ヘ、我大砲アルムスト口ンク一門、護兵半小隊相進、且亦同藩攻口ノ大手口左ノ土手ヘ一小隊差出候、惣而、賊徒ハ人家或ハ樹陰ヨリ、出没発砲候ニ付、諸藩共昼夜放発相絶不申候、同廿六日朝五ツ時ヨリ天寧寺口湯本口両所攻口被相達候ニ付、兵隊且大砲繰出候処、城外東南ニ当リ山手ニ合薬庫有之候ニ付、薩藩並ニ我二小隊半ヲ以テ進撃候処、賊頻ニ致防戦候ニ付、薩州ニモ倉永助五郎並多久与兵衛、足軽薄手ヲ負候得共、悉ク打散シ終ニ合薬庫ヲ乗取、則山上山下ヘ分隊、厳重守衛ヲ設ケ候而、山上ノ要地ニ倚リ、我アルムストロンク並ニ四封度銃ヲ以、終夜本城ヲ射撃致シ候、然ル処、賊ヨリモ先ニ乗取候薬庫ヘ向ケ、大砲頻ニ打掛候ニ付、評議ヲ決シ入用文運取、余ハ尽ク河中ヘ打捨候、越後津川辺ヲ相守候賊徒、本城後詰トシテ、何時襲来候哉難計ニ付、薩長分隊左右ヘモ相備居候、右津川口、庄内口藤原口、三斗小屋口、発向ノ官軍未タ到着セス、当今城下ヘ押詰候兵ハ薩、長、土、大垣、大村、尾、紀並ニ我藩等ニテ、城中ノ賊頗ル多勢、且要害ニ拠リ、守禦致シ候ニ付味方ハ外廓土居ヲ胸壁トシ市中ハ悉ク焼払ヒ、遠撃ニシテ諸道到着ノ官軍ヲ相待儀ニ御座候、猶又別紙絵図相添差越候条、御評議可然候、以上
八月廿八日
弊藩ヨリ奥州白川口ヘ出張候、多久与兵衛始ヨリ、会津城下迄攻入候手続、別紙差越候ニ付、不取敢御届申上候、以上
九月十四日
肥前少将家来
原口重蔵
弊藩軍艦孟春丸、当五月為官軍御用、羽州久保田ヘ差廻候処、大風浪等ニテ奥州八戸領白銀村辺ニ於テ及破船候手続、別紙ノ通、船将中手田倉之助ヨリ申越候ニ付、不取敢御届申上候、以上
九月十四日
肥前少将家来
原口重蔵
別紙コレヲ略ス

【奥州手岡原附近ノ戦】
九月十五日岩国藩届書写
七月十八日、駿河守兵隊常州平潟ニ達ス、岩城平薩兵ノ為ニ落サルヽノ報アリ、廿三日夜薩兵已ニ三春ニ至ルヲ聞ク、遽ニ小名浜ヲ発シ、岩城平ニ至ル、廿五日久ノ浜宿陣、芸因兵賊徒ト広野ニ戦フト聞ク、廿六日払暁急発広野ニ至ル午時弁天阪ニ達ス、賊兵砲台ニ拠リ狙撃ス、弾丸雨ノ如シ、我兵先登ス、因兵ト交代ス、右側対嶺相距ルコト五六十歩、賊兵砲撃最モ甚シ、宗藩兵隊横入スルヲ以テ我兵進テ賊塁ヲ破ル、賊徒火ヲ木戸宿ニ放チ敗走ス、我兵尾撃スル一里余、此日手負如左

平士 森脇慊輔 寺本虎太
今田安太郎 軽率 藤兼喜八
同 川戸十郎介
廿七日早朝、賊ヲ駆リ山間ヲ進ム、賊兵所々ニ埋伏ス、悉ク打払ヒ、進ンテ井出村ニ宿ス
廿八日早発、午刻富岡ニ至リ、伝餐シ手岡原ニ達ス、賊兵二千余、数ケ所ノ砲台ニ拠リ防戦ス、宗藩ハ山ノ手ヨリ進ム、官道ノ兵尤先タツ、我兵左側ニ進ムモノ大沼アリテ行ベカラス、転シテ右方ニ向フ時ニ我第二小隊、宗藩兵ト、已ニ左側賊塁ヲ落スヲ見ル、第一小隊右半隊是ニ激シ、発憤進撃ス、賊ノ砲撃最モ甚シ、而シテ左半隊十四人、抜刀勇進、已ニ賊塁ニ登リ、斬テ回ル、賊ノ残兵二百余人、窮鼠ノ勢返リ撃ツ、是ニ死傷スル者如左

士官 森脇孫太郎 佐々木助七郎
大屋素輔 平士 佐藤泰
二宮嘉源治 小河内邦人
藤井桃一郎

井上三郎兵衛 大塚慊三郎
宇野吉太郎
砲手モ尤モ勤メ、芸ノ砲手我カ右半隊ト共ニ柵内ニ進入シ、賊ヲ尾撃シ、手負ヲ扶ケ、熊野町ニ帰ル、第二小隊、宗藩兵隊ニ合シ、右側ノ塁ヲ破ル、此時傷ヲ受ル者左ノ如シ

軽卒揚取後ニ死ス
三浦卯市 太田又兵衛
廿九日、第一小隊遊軍、第二小隊、山ノ手進軍、賊野上村ニ屯ス、暫時ニ打払フ、賊陣屋ニ放火シ敗走ス、夜新出ニ宿陣
八日朔日、我カ兵宗藩兵隊ト合シテ進ンテ賊ノ屯所浪江宿ノ後ニ出ツ、此日雨中ナリ、我カ兵不意ニ出テ大勝利ヲ得タリ、遂ニ浪江宿ニ宿ス
右戦争ノ次第、宗藩ヨリモ可申上候得共、出先有福新輔ヨリ、在所ヘ申越、賊首級並分捕等之趣ハ相分兼候得共、其侭不取敢申上候様申来候ニ付、此段私ヨリ御届申上候、以上
九月
吉川駿河守家来
今田鉄左衛門

太政官日誌・明治元年86号

太政官日誌第八十六
明治紀元戊辰年秋九月

【越後栃堀村九兵衛ノ事】
九月十四日松本藩届書写
越後国栃尾村ヘ守衛罷在候弊藩神方新五左衛門隊当八月廿一日栃堀村ニ残賊潜伏之由相聞、富山藩一同繰詰可討取ト之儀、会議所ヨリ談ニ付、富山勢ニ伍、当手分隊合併ニテ進軍仕候処、賊既ニ逃去、不居合候ニ付、処々厳敷探索之砌、同村九兵衛ト申者、賊ヲ隠候趣相聞、召捕糾明之上、情実会議所ヘ相達候処、翌廿二日左之通相達、斬首可致旨軍曹淵川忠之助殿ヨリ達有之ニ付、斬捨申候
栃堀村
九兵衛
此者儀、兼而御沙汰之趣モ有之候ニ逃亡之賊ヲ隠置候条、不謂次第ニ候、剰及露顕右ノ賊徒御召捕ニ相成候処、猶又其所持之武器等ヲ深蔵シ、再三拷問ニ及迄、不致白状事御上ヲ不奉畏敬之所業、重大之罪科仍而不得巳誅戮相加者也
辰八月
右之節賊ノ残置候品、別紙之通有之、会議所ヘ差出候趣、出張先家来之者ヨリ申越候付、申上候様丹波守申付候間、此段御届申上候、以上
九月十四日
戸田丹波守家来
増田万右衛門
別紙
兜 一 鉄砲 一挺
拵付刀 七本 拵付脇差 七本
陣笠 七蓋 旗竿 二本
矢 八十筋 外ニ雑物五十四品
右之通御座候、以上
九月十四日
戸田丹波守家来
増田万右衛門

【会津桂林寺町口ノ戦】
同日大垣藩届書写
八月廿九日八字、賊兵多ク城中ヨリ押出、桂林寺町口ヨリ西ノ方、越後口迄、所々杉林又ハ枯芦田畑之内ヨリ長備並弊藩持場ヘ向テ必死ト襲来、銃兵、槍兵、侵撃、互ニ先ヲ争ヒ、雨注ノ如キ弾丸ヲ怖レス進来候ニ付、右三藩ノ兵大小砲ヲ以テ烈敷打立、奮テ防戦スト雖モ、賊兵少モ退ク色ナク、頻ニ台場近ク進来リ既ニ台場ニ槍モ入ルヘキ場合ノ処、簇ル賊ハ散弾ヲ以テ打倒シ、単ナル賊ハ小銃ヲ以テ狙撃シ、遂ニ突進スル鋭鋒ハ取挫キ申候、然トモ賊ノ本隊ハ退カス、尚追々押来候処、長州並弊藩之兵桂林寺町口ノ辺ヨリ烈撃及横撃、是ニテ賊兵乱レ騒キ、城中サシテ引退ク、カヽル所ヘ薩土之応援、驀地ニ来リ、倶ニ城際迄追討シ、三字ニ不残兵ヲ引揚ケ、凱歌ヲ奏ス、此日討取大抵数百余人、尤弊藩死傷別紙之通御座候旨申越候、此段御届申上候、以上
九月十四日
戸田釆女正家来
甲斐卯太郎


大砲隊 藤田辰次郎 多賀十助
銃隊
大屋柳次郎 木村重平
渡辺順蔵

大砲隊頭 藤田八郎大夫 大砲隊 安田虎次郎
同上 宮田甚右衛門 以下銃隊 佐藤円太夫
土屋兼三郎 松野万之助
河合鉄三郎 金岩斎次
喇叭方 大橋良太夫 器械持夫 一人
右者去月二十九日、会津城下ニテ戦争之節、弊藩死傷書面之通御座候、以上
九月十四日
戸田釆女正家来
甲斐卯太郎

【越後新潟ヘ進撃ノ事】
同日高鍋藩届書写
従越後一筆啓上仕候云々、然者一軍無恙、其内七月廿三日松ケ崎口進軍之命アリ、大勢軍艦ニテ相廻リ、猶軍議ニ寄リ、一旦佐渡島ニ入港、廿四日夜同港ヲ出テ、火輪船六艘、直ニ島見、名太夫、松ケ崎三村ノ沖ヲ指シテ進ミ、廿五日海岸ニ近ツクコト半里程ニシテ、進退開合、実ニ愉快之事ニ御座候、御家薩長先鋒ニテ、筑州大鵬丸ト云フ船ニ乗組居リ端船ヲ以テ一時ニ上陸、松ケ崎ヲ指シテ登リ、此ニテ長兵庄内之重臣ヲ刺シ申候、此夜松ケ崎ノ会津川ノ岸ニ処々塁ヲ築キ、三藩並芸州大砲隊相固メ、新潟ヨリノ敵ニ備ヘ申候、廿六日本所村ヘ米沢賊三十人位屯集ノ由ニ付、軍曹新井陸之助届書之通ニテ、沼垂ヲ相固メ、翌廿七日ニ至リ、惣勢沼垂ニ会合、廿七日、廿八日ハ下所村迄繰出シ、日夜河ヲ隔テ砲戦、廿九日暁、諸軍上所村揃ニテ、出来島ト申ス川ノ中洲ヨリ渡リ三方ヨリ進撃、遂ニ大勝利、新潟ヲ揚ケ申候、同日二字頃、関屋口ヘ進撃候様、薩長ヨリ沙汰ニ付、直様東四郎半小隊引率、進軍候得共、残賊居合不申候ニ付、両藩申合芸藩半小隊ト同所終夜守衛、翌朔日朝、長州徴兵ト共ニ弥彦之方、内野ト申処迄進撃、賊無之、二日赤塚迄相進、三日滞陣、四日新潟ヘ帰陣仕候、弥彦双方至テ崎嶮之土地ニテ、賊余程屯集之趣相聞候得共、最早退散之内ニ付、弥彦進撃相止申候
一、病人傷者ハ、沼垂ヘ病院相立、直ニ差送申候、然ニ官ノ御手当有之、病人一人ニ男二人、女一人<四十歳以上>宛附添候ニ付、兵士ノ看病等ハ置不申候、死人ハ新ニ新潟ノ白山ト申山上ヘ、祭魂場ヲ築キ、神祭ニ相成、八月二日長兵二人並小島和兵衛丈送葬仕候、棺其外木綿類、皆官ヨリ御手当ニ御座候云々
八月四日
鈴木来助
武藤東四郎
黒水鷲郎様
右之通、越後出張先ヨリ別紙軍曹新井氏之届書指添、申越候付、来状之候御届仕候、以上
九月十四日
秋月長門守家来
河辺十郎
別紙新井陸之助届書写
七月廿六日、越後国蒲原郡本所村ヘ、米沢賊屯集之趣報知有之、薩長並高鍋半隊、松ケ崎ヨリ阿加川ヲ渡リ、直ニ巣窟ニ迫リ候処、賊兵狼狽、遁走之姿ニ付、機ニ乗シテ高鍋兵隊ヲ指揮シ、追討為致、猶途中ヨリ手配ニ依テ中山村ノ間道ヲ進ミ、黄昏沼垂ニ押詰候処、賊新潟ヘ敗走、薩長両藩已ニ着陣相成、同所ニテ三藩会集、各持場ヲ定メ、塁ヲ築キ砲撃ス、廿七日、廿八日、芸州大砲隊並高鍋兵隊繰出シ、同所下所村ニテ小戦ニ及候処、高鍋兵隊傷者一人、賊手負モ有之様見受申候、右者至テ小戦ノ儀ニハ候得共、大略不取敢御届申上候
廿七日
薄手 高鍋兵隊 津江尚之助
右之通御座候、以上
七月廿九日
軍曹
新井陸之助
参謀衆中
七月廿九日暁、薩、長、芸、十二番徴兵並弊藩兵隊、三道ヨリ新潟ヘ進襲、弊藩兵隊二手ニ分チ、右半隊ハ芸州並徴兵ト、出来島ヲ江岸ニ沿テ上リ弊藩計リ平島対岸之処迄押行暫時砲戦、銃丸雨注ノ中ヲ小舟ヲ棹シテ相渡候処、賊徒塁ヲ棄テ逃候ニ付、探索仕候得共、弥彦道落行足跡顕然、其内徴兵一分隊計ニ出会、共ニ平島ヨリ一里程追撃候得共、追ツキ候儀無覚束相考ヘ、且軍議之次第モ有之新潟ニ繰込候筈ニテ、引返シ平島ニ到ル、途中ニテ米沢兵二拾人計出遇ヒ、奮戦遂ニ六名ヲ斃ス、内一人士官山口謹之輔ト申者ノ由、依之賊恇遽葦中ニ隠レ逃去候、左半隊ハ長州並徴兵ト山ノ手ヘ進撃ス、手ヲ分チ探索仕候内、賊ノ伏兵双方ヨリ砲撃、苦戦之折柄、長兵ニ出会、其力ヲ得、遂ニ賊ヲ追払、数名ヲ斃ス、内一人隊長ト見受候者有之、軍曹新井陸之助指揮シ、討留候処、賊ヨリ其首ヲ斬去候付、死骸相改、米沢重臣色部長門之確証ヲ得申候、新潟ヘ繰込候後、又庄内兵隊小野長蔵ヲ生檎仕候、抑今度之戦、意外ノ都合ヲ得候者、全ク薩長等之尽カニ依リ候儀ト奉存候、弊藩死傷、分捕、別紙之通御座候、右昨日之戦状大略、不取敢御届仕候、以上
八月朔日
秋月長門守家来
鈴木来助
武藤東四郎
参謀衆中

七月廿九日新潟進撃之節
死 兵隊 小島和兵衛
傷 嚮導 日高柳助 兵隊 江藤団次郎

松田平左衛門
分捕
本込銃 三挺 ケベール 七挺
施条銃 一挺 刀 五本
差添 八本 筒袖羽織 六枚
脊負皮 四 筒袖 三十三枚
弾薬 二箱 雷管 千粒
小手当 一 槍 二筋
胴乱 四箇 金子 拾四両
右米沢品
弾薬 二箱 雷管 千粒
右会津品
右之通御座候、外ニ雑具数多有之候得共大略取調御届仕候、以上
八月朔日
秋月長門守家来
鈴木来助
武藤東四郎
参諜衆中
別紙之両通、越後表戦争之次第並死傷、分捕出先ニテ御届仕候趣申越候間、此段御届申上候、以上
九月十四日
秋月長門守家来
河辺十郎

太政官日誌・明治元年85号

太政官日誌第八十五
明治紀元戊辰年秋九月

【奥州出兵芸藩ノ死傷並桂川附近ノ戦】
九月十二日安芸藩届書写三通
奥州口出兵、川合三十良引率人数、七月十五日平潟到着ヨリ同廿八日迄戦争之次第ハ兼而御届申上候処、其節未タ戦争中、死傷等取調、委細報知之上可申上段、去ル十五日御届仕置候処、此度戦死等左ノ通申越候間、此段御届申上候
戦死
一番隊伍長 菅勝之助 佐々木藤三郎
出本健之助 造賀善太郎
二番隊 林熊太郎 <帰営後死>財満兵蔵
深手
一番隊長補 森斐司 織田清之助
鳥越久吉 山路関之助
二番隊長補 南寛助 大谷亀之助
山田亀之進 三番隊伍長 村上清之進
高崎熊蔵 大砲隊長補 築山進之助
二番隊小目付 長冶主税介 森本梅太郎
一番隊銃手 浜松乙次郎 赤坂清十郎
木山為之助 有田熊平
田中佐太郎 木本儀平
金岡徳次良 山岡吉平
二番隊銃手 田口林之助 箕浦良助
宮原千代蔵 二番隊銃手 田中佐仲
加藤善三郎 一番隊銃手 吉川逸平
大砲方 藤本幾太郎 二番隊銃手 南政助
浅手
一番隊長 加藤種之助 和田忠兵衛
三番隊長 藤田太久蔵 一番隊銃手 金谷宮内
二番隊長 岡田善兵衛 三浦重吉
広川喜代三郎 島末平助
篠村順次 織田吾三郎
伊藤卯三郎 武田松三郎
鼓手 松本甚之助 三番隊銃手 土屋良助
太砲隊 荒田才三郎 弾薬持 夫卒 与助
以上
九月十二日
安芸少将内
熊谷兵衛

奥州相馬口出兵、川合三十郎引率人数、七月廿八日、富岡駅エ到着ヨリ八月朔日迄戦争之次第ハ、兼而御届申上候処、其節未タ接戦中、戦死人名、手負人員計、去ル七日不取敢御届申上置候処、此度手負人名、左ノ通申越候間、再応御届申上候
九月十二日
安芸少将内
熊谷兵衛
深手
大砲隊伍長 岸本権平 二番隊伍長 長沢藤四郎
銃手 伊達廸吉 福永久蔵
夫卒 郷助
浅手
一番隊伍長 加藤種之助 大砲隊伍長 高橋謙益
銃手 村上貞吉 荒田才次郎
小村虎之助 陣場松右衛門
田中廉蔵 旗手 中村半三郎
以上

八月廿五日暁四字頃、中三依村ヲ発シ朝九字頃上三依村エ着、夫ヨリ横川表半里前山手エ進軍候処、折柄賊徒胸壁ヲ築造致サント欲居候処エ突然出合、賊徒狼狽奔走致候ニ付直ニ追撃、遂ニ横川表胸壁エ隠潜候ニ付、兵隊三分シ、一手ハ右憤立山、一手ハ左恋路山、一手ハ正面行進、夜七字頃迄頗憤戦、賊徒追払、胸壁エ近クコト数十歩ニ押逼、直ニ突衝嗷噛計ノ処、豈図ンヤ大礟二門車心損シ、殊ニ外藩応援モ無之、且地形不要害、晩景ニ及候ニ付、砲台等堅固ニ構置、一先上三依迄繰上申候、賊徒死傷許多有之、弊藩死傷左之通ニ御座候、此段御届申上候
八月
芸藩
一川主税
浅手
指揮役 菅野徳之助 吉広蔵之進
木村林兵衛 浜野岩助
雇夫 修蔵 雇夫 熊之助
深手
酒井嘉藤太 光井辰三郎
今枝栄一郎 森梅吉
水井順蔵 牧田次郎助
小田太郎 田坂弥平二
松下文蔵 古清水早之丞
渡部幾太郎 寺田幸助
藤田左久間 雇夫 貞次良
戦死
友田織之丞 梶川五郎左衛門
以上
別紙之通、於出先御届仕候旨申越候ニ付、不取敢差出、此段申上候、以上
九月
安芸少将内
熊谷兵衛

【板倉並両酒井差扣被免ノ事】
同月十三日御沙汰書写
各通
板倉摂津守
酒井若狭守
同前少将
兼而差扣被仰付置候処、今般御即位御大礼被為済、改元被仰出候付、今日ヨリ差扣被免候事
九月
【御東幸供奉ソノ他ノ事】
同月十四日御沙汰書写十二通
○【神祇官知事更迭ノ事】
鷹司前右大臣
神祇官知事被免議定被仰付

近衛新前左大臣
神祇官知事被仰付
○【御東幸供奉ノ事】
十津川
徴兵一小隊
右今般御東幸供奉被仰付候条、御道中御警衛向ハ勿論、不慮之備緊要之事ニ付、規律厳重可相守事

徴兵一小隊
右同文言
○【御東幸御留守中皇居御警衛ノ事】
徴兵
今度御東幸被為遊候ニ付而ハ御留守中皇居並大宮御所始、女御御方桂宮御方等、総テ御警衛向、重大之事ニ付、平常節度厳粛相守リ、非常之節、不覚無之様可致事
但徴兵之儀ハ列藩之精兵ヲ以テ御親衛ニ被為充候御趣意ニ付、在京諸藩兵之標準トモ相成候様無之而ハ、不相済候ニ付、向後別テ勉励可致事
九月
○【伊達宰相被聴直衣ノ事】
伊達宰相
春来励勤、格別之思食ヲ以テ被聴直衣候事
○戸田備後守供奉被免ノ事
戸田備後守
御東幸供奉被仰付置候処、依病気願被免候事
○【御東幸ト官家旧習ノ事】
一、今般、御東幸ニ付而者、兼而御布令之通、御道筋宿駅、迷惑不致様精々心ヲ用ヒ、官家之旧習、権威ケ間敷儀、決而不相成事ニ候、若右等之振合於有之ハ厳重御取糾ニ相成、当人ハ勿論、其主人之越度ニモ可被仰付候間、此段末々迄、屹度可申聞事
九月十四日 行政官
○【供奉ノ旅篭人足賃払方ノ事】
一、今般御東幸ニ付、供奉之面々、旅篭並人足賃等払方之儀、銘々ヘ切手相渡置総テ御後出立之出納司ヨリ惣勘定可相成候得共、明後十六日出立之出納司ヨリ凡積ヲ以テ、預メ御下渡ニ相成候間御道筋宿々ヘ其向々府藩県ヨリ支配役人一人ツヽ出張致シ居、請取可申事
九月十四日 行政官
右之通被仰出候間、早々刻付ヲ以、順達可致事
九月
駅逓司
○【播州会津領支配ノ事】
兵庫県
当春播州美嚢郡、加東郡、加西郡之内、元会津領一万七百石余之地所、脇坂淡路守、森越後守エ、取締被仰付置候処、今般其県支配ニ被仰付候間請取可申旨御沙汰候事
○脇坂淡路守
当春播州加東郡、加西郡之内、元会津領九千十二石五斗余之地所、其藩エ取締被仰付置候処.今般兵庫県支配ニ被仰付候間、引渡可申旨御沙汰候事
O森越後守
当春播州美嚢郡之内、元会津領千七百三十一石七斗余之地所以下同文
九月
東北征討諸兵ヘ毛布恩賜ノ事
同日征討諸軍ヘ御沙汰書写
東北征討之諸軍、勇進長駆、已ニ賊巣ニ逼リ捷報日ニ至リ叡感不斜候、然処辺陬之地、追々寒天ニ赴キ、風雪惨苦ニ可至哉ト深ク被為痛聖念候ニ付、格別之思召ヲ以テ、聯為防寒、毛布一着宛賜之候事
九月

太政官日誌・明治元年84号

太政官日誌第八十四
明治紀元戊辰年秋九月

九月十二日御汰沙書写三通
○【岡部筑前守差扣被免ノ事】
岡部筑前守
兼而差扣被仰付置候処、今般御即位御大礼被亀済、改元被仰出候ニ付、今日ヨリ差扣被免候事
九月
○【御賑恤御買上ノ事】
各通
細川越中守
鍋島少将
黒田宰相
立花少将
有馬中将
奥平美作守
今般蒼生、御綏撫ノ為メ御東幸被為遊候ニ付テハ御賑恤ノ備トシ、廻米被設置度思召ヲ以、別紙ノ通石数御買上被仰付候間、六藩申合、速ニ東京ヘ船路運輸可致事
但代料ノ儀ハ、彼地到着ノ上、一ケ月平均相場ヲ以テ、御下ケ渡シニ相成候間、此段相心得可申事
別紙
米二万石 肥後藩
同一万石 肥前藩
同一万五千石 筑前藩
同五千石 柳川藩
同七千石 久留米藩
同五千石 中津藩
九月
御用米廻船ノ儀ニ付、心得方件々
一、御船印ノ儀ハ未タ御規則御定無之ニ付御用ト記シ候幟、相用可申事
一、御印鑑ノ儀ハ、会計官ヘ可願出事
一、大坂府、兵庫県ヘハ夫々御達ニ相成候事
一、東京着ノ上ハ、鎮将府ヘ可届出事
尤鎮将府ヘハ兼テ御達ニ相成有之候事
九月
○【毛利淡路守ヘ賜暇ノ事】
毛利淡路守
其方儀、是迄滞京罷在候処、今度依願御暇賜候条、帰邑致候上、先達而御誓約被為在候御趣意ヲ奉体認、家政向改正ハ勿論、未タ東北平定ニモ不立至候ニ付、弥以兵備ヲ厳ニシ在所表ニ於テ御指揮可奉待旨御沙汰候事
九月
【官軍愈々会城ニ迫ル】
同日大垣藩届書写二通
八月廿一日、薩、長、土、大村、弊藩、玉ノ井発軍、石筵ニ至ル、此処ニ備居ル賊兵一戦ニテ打散シ、夫ヨリ方成峠ニ行掛ル、此山ハ会津、二本松領分堺之高山、険阻ニテ、賊徒台場ヲ四ケ所ニ設ケ防戦ス、時ニ五番ノ兵争先奮進、難ナク方成ノ要地ヲ乗取申候、此夜方成峠ニ野陣ス<終夜大雨、衣裳沾湿仕候>同廿二日六字嶺上ヲ発シ、猪苗代ヲ指テ発向ス、此猪苗代口ト申ハ、会津領三万石ノ陣屋ニテ、往古芦名氏ノ城ナルニ、会賊ヨリ陣番相詰居候所故定テ防戦スベシト思ヒシニ、左モ無之、官軍至ラザル以前ニ、少ク放火致シ逃亡仕候、同廿三日三字猪苗代ヲ発シ、会城ヲ指テ押寄ル<猪苗代ヨリ会城ヘ五里>途中ハイナ湖ノ汀ニテ十六橋ヲ落シ有之候得トモ、仮橋ヲ懸ケ、滝沢峠ニテ一戦シ、大砲二門分捕致シ、八字ニ会城三之郭迄討入申候、夫ヨリ城内ハ賊モ必死トナツテ防戦ス中々一時ニハ攻落シ難シト、其夜此ニテ対陣ス.<同日会城三ノ郭迄押入戦争之処、城下へ入テ三四丁先往来ヘ、賊山中ヨリ突出、一旦往来ヲ断切候得共、城中ヘ押入居候土藩並弊藩ノ兵、少ク繰出シ、一戦忽散乱為致候>同廿四日早天ヨリ又々猛烈攻立候得共、城中更ニ弱ル気色モ無之、依テ衆軍会議致シ、三ノ郭内放火致シ官軍不残町家ヘ引揚、其四方ヲ厳重ニ相固メ、此夜同所ニ宿陣ス、同廿五日暁、賊兵大勢ニテ越後口ヨリ寄来ル此所長州弊藩合兵守禦之場所故、一戦追散申候、夫ヨリ同日十二字ト四字ト、同所ヘ賊兵襲来、両藩共頗ル苦戦致シ、薩土ノ応援モ有之、悉ク打散シ申候、其外追手口馬場町口、大町口等ヨリ撃テ出候得共、悉皆打散候得ハ、城中ヘ逃込申候官軍死傷モ夥舗有之又賊之死骸モ処々ニ有之、其数幾千ト云フコトヲ知ラズ、同廿六日賊兵不撃出、只々遠方ヨリ不絶発砲ス、同廿七日賊兵少々越後口田畑ヨリ襲来候ニ付、及砲戦、無程討散申候
右之通、去月廿一日ヨリ廿七日迄会城ヘ討入之戦状、出先ヨリ申越候、尤弊藩死傷別紙ノ通御座候、此段御届申上候、以上
九月十二日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
八月廿一日 死
銃隊 川崎松次郎
同廿三日 死
軍事方 吉田彦三郎 大砲隊 太田七十郎
奥富元三郎 銃隊伍長 北村告五郎
銃隊 長谷川直吉 器械持夫 一人

軍事奉行 戸田五郎左衛門 田村兵助
佐竹五郎 軍事方 沢野章之助
銃隊 保科門之丞 森常之助
稲川三太郎 桐山林九郎
浅野兼次郎 大砲隊 田中兵三郎
器械持夫 五人
同廿五日 死
銃隊 九鬼円之助 河井富助

銃隊頭 小出五平治 同輔 木村庫之進
銃隊伍長 高木美喜次 銃隊 河井周蔵
内田市左衛門 足立富之丞
子安兼吉 黒川杢之進
小森惣兵衛 尾崎求
竹中谷之丞 石原太六郎
加納拾之助 矢野鉞吉
安藤儀藤次 横幕捨三郎
大砲隊 河合勘十郎 同 大島芳之丞
同廿六日 傷
大砲隊 藤田彦三郎 陣場方 中間一人
銃隊生死不相分 加納伝次郎 森甚太郎
右ハ会津城ヘ討入ニ付.弊藩死傷書面ノ通ニ御座候、以上
九月十二日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
去廿三日ヨリ連日連夜ノ合戦ニテ大小砲之音ハ山岳ニ響テ、恰モ雷鳴ノ如ク、城市ノ燃ル火ハ半天ヲ燋スカ如ク、其声、其色、十四五里外ヘモ、入度リシ歟、越後路、白川路等、其外所々ヘ防禦トシテ罷出居候賊兵モ多クハ此三四日ノ内ニ、城中ヘ引取シナラン白川路ハ、勢至堂モ戦ハスシテ引退キ、肥州、紀州、尾州兵モ此口ヨリ進軍、廿五日ニ会津ヘ到着ナリ、城中ニ肥後、若狭、其外保科、桑名、長岡父子共有之ヨシ、右等ハ奔ニ所ナク四方官軍ニ包マレ、只今ニテハ窮鼠ノ勢ナル故、一時ニハ落シ難ク候得共、畢寛自匁ニ伏シテ亡ル歟、脱甲シテ降伏スル歟、然トモ降伏ハ致ス間敷哉、右是迄之荒増申上候委細ハ追テ可申上候、以上
八月廿七日夜認
薩州 甲賀町口ヨリ三日町口迄
肥州 三日町口ヨリ天寧寺町口迄
土州 甲賀町口ヨリ大町口迄
大町口ヨリ桂林寺町口辺、越後口、米沢口共長州、大垣、二藩ニテ固メ候処、廿五日夜ヨリ米沢口辺丈ケ、備前兵固メニ相成申候、右ハ出先ノ者ヨリ書中ニ申越候ノ侭書抜、奉入御覧候、併混乱中申越候儀ニ付、書損等モ可有御座候哉、此段モ申上候、以上
九月十二日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
【野州塩原附近ノ戦】
同日大田原藩届書写
本月廿一日夜半過頃、兼而塩原村ニ屯集罷在候、会賊数十人、封内関谷村ヘ襲入、頻ニ発砲、居民ヲ驚散セシメ、遂ニ村中ヘ及放火候段、翌廿二日発暁、右村ヨリ警報御座候間不取敢一番分隊六十人余繰出シ候処、最早民家焼払、賊兵ノ儀ハ、又候塩原ノ方ヘ引揚候様子故、附入ノ好キ機会不可失之節ニ付、後詰人数早々繰出候様、右出兵先ヨリ申越候間、家老大田原数馬組二番一隊、百人余繰出シ尤関谷村ノ儀ハ、城地距ル四里余御座候事故、警告往返手間取リ、後詰繰出シノ儀ハ同日夜半ニ相及、関谷村ヘ翌廿三日発朝着陣仕候、夫ヨリ最初繰出シ置候一番分隊ハ間道ヨリ二番一隊ハ本道ヨリ、正奇道ヲ分チ前進仕候賊共要害ニ拠リ、処々ニ構置候砲台、砦柵、番小屋等、或ハ撃破リ、或ハ放火、惣軍鬨ノ声ヲ発シ、迅疾撃入、然ル処、前廿二日夕刻ヨリ夜半頃迄、塩原山ノ方ニ当リ、火ノ手揚リ候間、篤ト模様相探リ候処、荒湯、甘湯、数巻、塩ノ湯、右四ケ所ヘ放火致シ追々巣窟ヲ払引楊候様子故、撃入差急当日福渡戸迄進撃仕候処、散余ノ賊兵敢テ可支体モ無之、是迄永々屯集罷在候、賊徒第一ノ陣所、右福渡戸ヘ及放火、逃潰ノ模様ニ見請候ノ間、味方ヨリハ烈数砲撃、攻寄候処、猶敗走途中塩竃、畑下、古町等所々ヘ追々放火、会津口ノ方ヘ逃入候間引続透ナク尾撃、塩原地中ノ儀ハ悉ク駆立追払、暫時福渡戸ニテ休息、伝餐等仕、同所居民等呼出シ、悔悟帰順ノ道篤ト申諭、安堵為仕、進撃兵隊ノ者共ヘハ末々ニ至迄鹵掠ヲ厳禁シ、燼余ノ農民疾苦ニ不立至様、夫々法令相伝、尤此日既ニ日暮レ且兵疲レ候間、一旦惣軍関谷村迄引揚、翌廿四日発暁、右一番分隊、猶又塩原ヘ繰入番兵為仕、外人数ノ儀、同夜九時過本城迄引揚申候、此段御届申上候、以上
八月廿五日
大田原鉎丸
右之通、今般白川表御総督府ヘ御届仕候趣、在所表ヨリ申遣候ニ付、此段御届奉申上候、以上九月十二日
大田原鉎丸家来
大谷長太郎

太政官日誌・明治元年83号

太政官日誌第八十三
明治紀元戊辰年秋九月

【羽越国境ノ戦】
九月十日越前藩届書写三通
<此一通ハ、庄内口越後鼠ケ関九月三日出立ノ家来、同九日罷帰、差越候報如ノ内>
昨廿六日暁七ツ時、弊藩人数碁石村先キ尾崎山台場ニテ致会軍、府屋駅迄相進、岩石、高畑間道押トシテ二小隊相進、三小隊、大砲隊之分ハ中浜村ヘ致進撃、大砲数発打懸候処、賊台場ヨリモ大小砲頻ニ打立、朝四時ヨリ厳舗砲戦ニ相成互ニ打合候内、八時過土州兵隊二小隊繰込ニ相成候ニ付、申談ノ上、一層致烈戦候得共、兎角賊兵山手海岸共要地ニ相備殊ニ所々砲台等築立、厳舗致防戦候ニ付、此上進撃之見込モ付兼、且地理不便ニ付集議ノ上、一ト先兵隊引揚候手筈ニ致置候内、夜五時過俄ニ村端燃上リ候故、間牒入込候哉モ難計候ニ付、弥厳舗大小砲打立居、追々府屋駅迄引揚、黒崎ヘ砲台ヲ築、時機見計進撃ノ手段ニテ致屯衛候、且又今朝ヨリ山手ヘ相廻リ候、弊藩兵隊ノ儀ハ高畑越ニテ足守、小松両藩卜一手ニ相成、及砲戦候処、既ニ晩景ニ及候ニ付、是又引上申候、右戦争中山手兵隊ニテ賊徒両人生捕申候、以上
八月廿七日
越前藩
八月廿六日生捕候、庄内人数ノ内、本多元太組金作忠次郎両人ノ者、詰問ニ及ヒ候処、申口ノ内
一、庄内之兵隊、秋田ノ方ヘ二千人計屯集、老臣松平甚三郎、酒井兵部両人出張
一、庄内ニ蒸気船一艘有之当時酒田表ニ有之趣
一、七月上旬ニ西洋人庄内城中ヘ致参着候趣
一、米沢ヨリ人数百人計、庄内ヘ罷越居候由、其余敵地ノ様子、委敷及白状候得共、要用而己相認メ、余ハ略之
右生捕両人之者、賊徒ノ指図ニ随ヒ所々放火イタシ候旨、申口ニ付、本陣ヘ伺ノ上令梟首候事

昨朔日暁第五字、府屋駅ヘ諸手会軍、第七字過山手海岸トモ進軍ニ相成候処、弊藩四小隊ハ山手ヨリ相進、一小隊並大砲ノ分ハ海岸ヘ繰出、岩崎ニテ諸手申合、第十字過中浜村迄及進撃候処、賊兵山上海岸所々台場ヨリ大小砲頻ニ打懸、互ニ戦候内、地理見計、大砲ノ分ハ海岸エ相進、小隊ノ分ハ山手ヘ相廻シ中浜先、鼠カジリト申賊ノ台場エ、撒兵ニ配リ攻撃致シ候処、賊兵巌窟ニ拠リ、大小砲頻ニ打立、山上台場ヨリモ同様発砲致シ、且烈風ニテ海岸エ浪打揚、進退不便ニテ苦戦ニ付又々山上エ上リ、山腹ヨリ打立候内、加州兵隊モ相進候得共、賊兵所々砲台等築立、致防戦候ニ付進兼候処、海岸土州兵隊モ苦戦ニ相成、且応援モ無之ニ付、三藩申合、薩州小隊後殿ニ而繰引ニ致シ、岩崎ハ土州手ニテ相固弊藩ハ黒崎山手台場ヲ相守申候、同刻山手エ繰出シ候兵隊ハ、山上一本松台場ニテ諸手会軍、嶺通リ間道ヲ、弊藩一小隊並加州二小隊ニテ相押、土州一小隊、弊藩三小隊ヲ以相進候処、俄ニ賊兵高畑台場四ケ所ヨリ打懸候ニ付、直ニ山上、或ハ間道エ撒兵相配リ打合猶又加州兵隊モ応援イタシ共ニ及砲戦候処、賊之砲台、素ヨリ山上ニ備置、間道ヲ見下シ烈敷打立、且地理殊ノ外不便ニ付、五字頃三藩申合、是又一本松台場迄、繰引ニ致シ相固申候、右両所戦争中、賊兵打留候得共、烈戦中ニ付、人数之儀者聢ト相分不申候、其節弊藩討死、手負等、別紙之通ニ御座候、以上
九月二日
越前藩

討死 遊撃隊 岩上清作 有賀清門隊 帰山源蔵
堀十兵衛隊 吉川作兵衛
深手 分隊長 成瀬和十良 有賀清門隊 小川理兵衛
夫卒 二人
薄手 小隊長 堀十兵衛 大砲隊長 大井田喜内
高村藤兵衛隊 鷲田金十良 夫卒 二人
九月
越前藩

先日御届申上候後、八木山ヨリ日々進撃之処賊軍奥州束峠、又下野尻等ニテ相支候得共、悉打破、益勇進、賊ハ次第ニ引退、只見川向ヒ舟戸村台場エ屯集、川ヲ隔テ舟ヲ去リ相防候ニ付、八月廿八日夕、弊藩五番遊撃隊御親兵並長州勢ト牒シ合セ、片門ト申所ヨリ烈敷及砲撃、林藤五郎隊ハ西羽賀村エ出張之処、賊砲烈敷候ニ付及苦戦候、薩長勢モ出張共ニ厳敷打合、其節手負一人有之、本多門左衛門隊ハ徳沢村ヨリ柳津村ヘ出張之道筋ニテ、是モ川向ノ賊ト烈敷及砲戦候、廿六日津川表ニテ分捕並廿八日弊藩分配人数、別紙之通御座候、多分廿九日ニハ、舟戸賊塁モ可乗取形勢之由御座候、且又若松城之儀ハ、八月廿二日外廓相破レ、最早裸城ニ相成候段、越後表迄ハ報知有之、又八ツ田村会議所エ召捕ニ相成候、会津歩兵モ同様申出候趣ニ候、廿九日夕七時頃ヨリ若松城エ当リ、煙焔衝天、全ク落城ニ可有之哉ト申事ニ候得共、未タ確報ノ無御座候、庄内口之方ノ八月廿二日村上城ヲ加州勢エ引渡シ、翌廿三日碁石ヨリ弊藩高村藤兵衛半隊、斥候ニ出候処、府屋町ニテ暫時及砲戦候、同日岩崎、堀内、温出府屋町、塔之下、大谷沢、同廿四日岩石、杉ノ平、遅口等之村々賊ヨリ放火、同廿六日諸手進軍相成、鼠ケ関山手ノ方弊藩六番遊撃隊、藤兵衛隊、海岸ノ方有賀衛門隊、菅沼司馬隊、先鋒ニテ、土州勢卜共ニ及進撃、中浜村ニ於テ賊兵多勢相支、終日烈戦、小鍋口ノ方ハ薩長勢始メ進撃相成候、賊厳敷防戦致シ其日ハ夕景相成候付、諸手共繰上ケ弊藩人数モ府屋町エ揚取申候、右奥州野沢村ヨリ八月廿九日立報知有之ニ付、先此段不取敢御届申上候、以上
九月十日
越前少将家来
艸尾一馬

八月廿八日兵隊分配場所
片門 五番遊撃隊
西羽賀 林藤五郎隊
天屋 武曽権左衛門隊
柳津 本多門左衛門隊
野尻 大砲隊
水沢 栃屋政之助隊
右之通御座候、以上
九月

手負 林藤五郎隊 島崎鉄之助
以上
分捕覚
弓 一張 旗 二本
破裂丸 箱入 十一発 旋条砲弾 百廿発
大砲弾薬 百三発 同 筵包 十三
包子弾 三百丗九発 合薬 四箱
ヱンヘール銃 ニ挺 火縄筒 六十六挺
大鼓 二張 早合入胴乱 二箇
小刀 一本 地雷火入箱 一箇
イカラ棒 一本 米 百七十三俵
塩 八百俵 筵包<会津永峰清次良ノ札付ク>三箇
右之外、雑物数多御座候得共、一々書載セ不申候
九月
【生野銀山点検ソノ他ノ事】
九月十一日御沙汰書写四通
【信州御影管轄ノ事】
伊那県
信濃国佐久郡御影ハ、以来其県ニテ管轄致候様被仰付候事
九月
○【御東幸後駆ノ事】
池田丹波守
兼而御東幸供奉、宗家兵隊引率後駆被仰付置候処、依病気願被免候事
九月

備前侍従
末家池田丹波守ヘ、別紙ノ通被免候間、為心得相達候事
九月
○【仏人生野銀山ヘ出張ノ事】
今般但馬国生野銀山為点検、近々仏蘭西人同道、御用役々出張候条、兼テ御交際ノ趣モ有之候間通行ノ路次、府県並藩領共、末々ニ至迄、不作法ノ儀無之様、相達置可申事
九月
肥藩兵羽州出張ノ事
同日軍務官ヨリ達書写
肥前
其藩兵隊三百人、至急羽州ヘ出張可致ノ旨、申達候事
但艦ノ儀ハ、自藩ニテ相弁可申候、就テハ雇入料金九千六百両、御下渡相成候事
九月
助郷組替ノ事
同月十二日布告写
助郷ハ天下之公課ニ候処、私役等ヲ以、種々申立候村邑モ有之、右ハ奉対朝廷、恐入候次第ニ候、然ル処、領主支配添書相認為致歎願候向モ有之、心得違ノ事ニ候、尤難渋ノ村々者、甲乙御取調ノ上、減役除免等可被仰付旨御布告モ有之候得共、即今一同ニ申立テハ、御組替之妨碍ニモ相成、自然御法制相立兼、諸道一般ノ難渋ニ立至リ候儀、大小緩急ノ次第、深ク相弁ヘ、縦令領分支配ノ内難渋ノ村邑有之候共、追テ御取調ニ相成候迄他村並ノ郷役相勤候様、於府藩県相応ノ手当致置、眼前諸道ノ難渋相救、御用弁致シ候様一同承知、共々尽力可有之事
助郷組替相済候分、追々宿方支配ノ府藩県ヘ御委任可相成候間、支配違ニ不拘、人馬触当次第速ニ差出シ、都テ其宿々ノ指揮ヲ受候様可致、郷方支配、府藩県ニヲイテモ得其意、配下ヘ常々為申聞、不都合無之様可致候事
九月
駅逓司
駅逓規則
一、駅逓之法則者、総テ駅逓司ニテ確定シ、府藩県其法則ヲ守リ、遠近諸道一般ニ取締可申事
一、駅郷組替之儀ハ、駅逓司ニ於テ取調、其駅支配之府藩県ヘ達シ、府藩県ニテ請取調印等可申付事
一、駅々附属村々内、他支配人雑居候共、其駅支配之府藩県ニテ、一手ニ取扱可申事
一、駅郷之者共、訴訟並願之儀ハ、其駅支配之府藩県ニ於テ可致、所置万一見込難付節ハ其支配ヨリ添簡ヲ以、駅逓司ヘ可申立事
一、駅郷之儀ニ付、駅逓司ヘ呼立候節ハ、其者支配之府藩県ヘ相掛リ呼立可申、万一至急之儀ニテ直ニ呼立候節ハ其旨支配ヘ前後ニ相達可申事
一、駅々廃置、道替等ヲ初、往来ニ関係致候事件ハ、総テ駅逓司ヘ相達、取計可申事
附、出火出水並道中筋異変有之、往来ニ差支候節ハ、駅々伝馬所取締役ヨリ、逐一、駅逓司ヘ可届出事
九月
駅逓司
【御東幸ト助郷ノ事】
御東幸沿道諸藩ヘ、先般相達候東海道助郷、一宿凡七万石附属可被仰付筈候処、御多端之折柄、未タ御組立不相成宿々モ有之、今般御東幸被仰付候付而ハ、是迄疲弊之定助郷而己ニテハ必至難渋之趣相聞ヘ候得共、右者不日新助郷御組立出来次第、御布告之通、五月已来之分共、宿郷平等ニ割勤メ埋可被仰付候条、其旨相心得、一同申合御継立無滞尽力可致候、尤是迄取来候割銭之儀モ、自今宿郷一体之訳ニ付而ハ、別段宿方ヘ受取候ニ不及、札賃銭不残出人馬ヘ相渡候様、是又相心得可申事
九月
駅逓司

是迄宿助郷共、風儀不宜、多人数通行之節ハ混雑中人足共窃ニ其身ヲ隠シ、或ハ請負之者空名之顔付致シ置、自然伝馬所之破レヲ相待居候テ、格外之賃銭ヲ貪リ、伝馬所下役共ニ於テモ、前後其機ニ乗シ、種々不正相働キ候条、僅之私欲ヲ以通行ヲ妨ケ、宿郷莫大之資ヲ相懸候段、不埒至極ニ候、今度行幸之儀ハ、下民之塗炭御綏撫被為遊度至尊自ラ御出輦被為遊候儀、千歳未曽有之御盛拳、難有奉拝戴皇国之民タル者、争テ御用可相勤筈ニ候得共、万一右体心得違之者有之候者、見付次第、当人ハ勿論、所役人付添之者ニ至ルマテ無用捨厳重可申付事
九月
駅逓司
考正
第七十八巻、一葉前面ノ被仰免ハ被免ノ誤ナリ
同巻、九葉後面ノ鎮無使ハ鎮撫使ノ誤ナリ
同巻、十葉ノ面番ハ回番ノ誤ナリ

太政官日誌・明治元年82号

太政官日誌第八十二
明治紀元戊辰年秋九月

【御東幸供奉、御道筋御警衛ソノ他ノ事】
九月十日御沙汰書写十二通

久松隠岐守
其方重臣御東幸供奉被仰付候事

平野内蔵助
御東幸供奉被仰付置候処、別段之御用筋被為在候ニ付、供奉被免候事

津中将
桑名取締之儀、兼而其藩ヘ被仰付置候処、今度御東幸御道筋ニ付而ハ、御通行之節人数相増、一際厳重ニ警衛可致旨御沙汰候事
但尾張三位中将ヘモ、同様被仰付候間、申合取計可致事

【一万俵御下賜ノ事】
尾張三位中将
右同文

尾張三位中将
松平万之助家来之者共、此節必至困窮之趣、相聞候ニ付、現地之物成ヲ以、一万俵下賜候間、夫々分配可差遣旨御沙汰候事

小松玄蕃頭
御東幸御用ニ付、東京先着被仰付候事

山本静逸
御東幸御用掛被仰付、弁事ヘ出仕被仰付候事

久世前宰相中将
権弁事被仰付候事
【知事、判事、権判事異動】

川合左五郎
徴士笠松県判事、被仰付候事

池辺三郎
越後府権判事被免、会計官ヘ出仕被仰付候事

白浜勘兵衛
徴士日向県判事被仰付候事

久我維麻呂
柏崎県知事被仰付候事
九月

【奥州原竃、今泉ノ戦】
同日肥後藩届書写三通
奥州表ヘ出張仕候、当藩兵隊之内、先月十一日、於同州原竃砲戦、死傷モ不少趣、先御届申上置候処、右者相馬藩一小隊嚮導ニテ後陣因州勢参着、江ヲ隔、大小砲連発、敵ヨリモ応砲、時機ヲ量、四小隊追々ニ江ヲ渡リ因州勢モ続而押渡リ、進撃仕候処、敵諸口ヨリ応援重ル趣ニ相見ヘ、厳敷致防禦、且江ヲ隔候而、弾薬運送等不自由ニ付、頗及苦戦、殊地理不案内、敵者数多胸壁ニ拠リ発砲、徒ニ人数ヲ損候付.一卜先江後ニ繰揚挑合候内、各藩ノ攻口モ既戦争相始、是又苦戦、敵終ニ相破、所々火ノ手揚リ、敵之砲声次第ニ減候間、因州勢倶ニ不透、猶二小隊江ヲ渡リ、致進撃候処、早落去候付、今泉ヘ野陣ヲ張、相押申候、敵之死亡所々ヘ埋置候跡有之候得共、多少不相分由、尤当藩戦死、手負等、左ノ通御座候段、出先ノ者ヨリ申越候
戦死
<深手其夜陣営ニテ死> 物頭格分隊司令士 森山章之丞 斥候 園部新左衛門
重士隊 建山四郎助 横田治部右衛門隊 松江光之助
<深手追而陣営ニテ死>船津呈四郎 同上 野口一太
中村佐助隊 渡辺長太郎 米田虎之助家来銃隊 江藤熊太
丸野源之允 猿山岩太
丸野鉄次郎 大河原次郎九郎家来 岩下喜一郎
手負
物頭小隊司令士 境野素兵衛 物頭格嚮導 松本伝十郎
重士隊 松浦治右衛門 上野繋十郎
田中平次 建山三郎彦
横田治部右衛門隊 吉見寿七郎 高野修五郎
小島勝太郎 佐村嘉伝
柿山浅右衛門 大賀八之允
早瀬源七 伊藤安兵衛
山田又蔵 野口勝助
中村佐助隊 相賀弾助 中野忠兵衛
手島甚左衛門 柳井金太郎
緒方作馬 井原古久兵衛
菅辰三郎 伊藤健之助
原田繋助 馬場権兵衛
布田彦九郎 太鼓役 秋山恒助
足軽弾薬宰領 藤井民蔵 米田虎之助家来銃隊 中井藤作
岸原太之助 江藤助十郎
大河原次郎九郎家来 矢野久左衛門 矢野善次郎
下部 甚五郎 伊良子軍十郎家来 南柴左衛門
死亡 町夫 嘉右衛門 同上 庄吉
右之段御届申上候、尤於東京御総督府ヘモ、右之趣御届仕候由ニ御座候、以上
九月十日
細川越中守内
内山又助
奥州表ヘ出張仕候、当藩持場、同州今泉ヘ先月十六日敵兵寄来候間人数繰出、発砲防禦段々進撃仕候処、敵兵敗走跡ヲ詰、討取モ有之、当藩銃隊日吉孫四郎手負候由、出先ノ者ヨリ申越候、此段御届申上候、尤於東京御総督府ヘモ、右之趣御届仕候由ニ御座候、以上
九月十日
細州越中守内
内山又助

【奥州駒ケ峰ノ戦】
先月廿日朝、奥州表諸口持場々々ヘ、敵襲来之処、当藩持場ヘ者不寄来候間、河田和気之助一小隊、菅谷口ヘ押出、中村藩持場砲戦最中ニ付、山間ヨリ相進ミ、第八字ヨリ二字迄砲戦、終ニ打退候内、御使番衆ヨリ駒ケ峰ノ敵勢壮ニ付、致応援候様差図有之、直ニ高田村、菅谷村、コブカタ山、駒ケ峰ト進軍之処、敵退散ニ付、新地迄押詰申候
中村左助一小隊、同時ヨリ大坪村、上椎木村為応援押出候処、駒ケ峰ノ敵猛勢ニ付、致援兵候様、御使番衆ヨリ差図有之、直様相進候処、長州藩ヨリ敵コブカタ山ノ要所ニ拠リ居是ヲ不追落候而者、駒ケ峰殊ノ外危キ段、報知有之内、芸州手ヨリ相善ケ原危急之段、告来候付、長州藩ヘ者其趣ヲ以相断、直様進軍十二字横ヲ撃候処、敵双方ヲ防兼、二字終ニ致敗走候間、新地迄尾撃、敵勢数多ヲ倒シ惣勢一同軍ヲ揚申候
大河原次郎九郎重士隊半隊、中村藩ト致合兵及砲戦、敵構置候胸壁一ケ所乗取申候
右之節、討取相知候分.左之通、尤当藩死傷無御座候段、出先ノ者ヨリ申越候

<敵一人ヲ打倒首ヲ取> 山内嘉左衛門 <同上広瀬量ト記有之> 嘉左衛門隊 高田五次兵衛
<同上同太田忠蔵ト記有之> 同 牧野末彦 <敵二人打留姓名不相分> 同 中西嘉三郎
同上 同 伊藤四郎
下輩ノ者手負居候ヲ、右五次兵衛以下四人ニテ、生捕申候
右之段御届申上候、尤於東京御総督府ヘモ右之趣御届仕候由ニ御座候、以上
九月十日
細川越中守内
内山又助

【奥州二本松ノ戦】
彦根藩届書写四通追録
八月廿四日付奥州二本松ヨリ報知抄略
八月十七日辰刻、二本松ヘ賊進来ノ報アリ、忍斥候ヲ出ス、賊者二本柳駅内東ノ方、仏寺ノ前ニ群集ス、斥候何ノ藩ヤト問ヘハ、仙台ト答フ、斥候直ニ引還ス、賊之ヲ悟テ頻ニ発砲ス、兼而八軒ヨリ先五町計リニ胸壁ヲ築キ、一番隊貫名徳二郎出張、本道ヨリ右ノ方五丁計リ谷地山ヘ田中与左衝門隊出張、左ノ方観音山ヘ堀部弥次郎隊出張、埋伏ス、斥候隊ヲ以本道油井村辺ヨリ発砲ス、暫シテ欺テ敗走ノ如クス、賊モ亦進来ス、巳刻頃ニ至リ互ニ戦ハス、時ニ土州兵隊二三小隊来テ、賊来ラスハ吾ヨリ当ント云テ、本道ヨリ右ノ山手ハ吾藩ニテ進撃セン、土州ハ左ノ山ヨリ進撃セント決議シ、三方ヨリ攻メントス、油井村ノ兵第一ニ戦フ、賊之ヲ専ラニ防ク、此隙ニ乗シ左右ノ山ヨリ急ニ突入ス、賊狼狽防ク能ハス忽敗走ス、猶之ヲ逐テ一里半許リ、八丁目宿ニ至テ止ム、此戦賊ヲ斃ス数十、吾藩ニテ明ナルハ三宅米太郎賊首一級ヲ得ル、其余大砲三門弾薬三包ヲ分取ス、賊人数凡千五六百ト云、未刻総軍凱還スト、右之通御座候以上
九月
彦根藩

【若松落城近シ】
去ル十五日白川湯本口警衛之兵隊、福島口ヘ転陣ノ令アリ、同十七日白川出立、十九日二本松ヘ着陣、以前分隊之兵二本松ノ守ト合併ノ令アリ、備前、忍、柳川藩等ト同陣也、不遠福島ヘ進撃相成ヘク、賊ハ仙台六百、棚倉五小隊、米沢一小隊許リ篭リ居候由、尤先鋒会津ヘ進撃ノ時ハ、賊必後口ヲ襲フヘキ地ニ付、上杉、仙台ノ押ヘ也、去ル廿日薩、長、土、垣、大村五藩、二本松本宮等ヨリ会津ヘ進撃、ボナリ、中山両路ヨリ進ム、ボナリ道ノ官軍、其日未刻ヨリ申刻迄戦闘勝利、其夜玉井ニ屯シ翌二十一日ボナリ前一、二、三ト台場有テ、極テ嶮岨、要害ノ地ニテ、賊頗ル防戦スレトモ、終ニ奮進三所並清水ト云台場迄モ抜キ、其夜ボナリニ屯シ廿二日モ追々進撃、猪苗代迄者容易ニ進入ノ由、猪苗代ヨリ一里前迄、差出シ置シ探索人報知ス、其帰ル頃ニ猪苗代方ニ火焔飛揚ス、定而賊寨ノ焼ルナルヘシ、二本松ヨリ猪苗代マテ十里半、猪苗代ヨリ若松マテ五里也、要地者悉ク抜レタレハ、忽ニ落城ニ及フヘシ、官軍実ニ勇戦也
九月
彦根藩
報知中別紙
唯今探索之者、猪苗代ヨリ昨朝立帰着、一昨廿二日猪苗代乗取、夫ヨリ先二里計リ進軍相成、猪苗代ハ防戦ノ要所、大河等モ有之処、何之備モ無之、最初ボナリノ戦引取候ヨリ悉ク逃去、城下ヘ引取、昨朝出立途中ニテ後口ニ火ノ手上ル、若松落城ニ可有之ト其地ノ者申居候由
八月
彦根藩

【上杉ノ重役軍監出降ノ事】
八月廿六日立二本松ヨリ報知之抄略
八月廿日、薩、長、土、垣、大村之五藩、会津ヘ進撃相成、廿日、廿一日、廿二日ト段々勝利ニテ、廿二日ニハ猪苗代ヲ越テ二里計リ進ミ、最早若松城ヲ去コト一里半許リノ所ニテ、進撃ニ相成候ヲ探索小堀勝之進、藤山秀次見留到着シ、其後ハ探索人未ダ帰ラズ候得共、廿三日朝ヨリ城下ニテ烈戦、八ツ時頃終ニ落城之趣、出張土州本営ヘ報知ノ由、奥羽之根本如斯、猶又上杉ヨリ昨夜二本松ヘ重役軍監出降、申立候ニハ、是迄九条公鎮撫使トシテ御下リ候得共、彼是王師ノ御取扱方トモ不被存件々モ有之ニ付、奥羽諸藩約定防禦致候得共、追々王師御征討ニ付、初テ真之御征討タルコトヲ知リ、素ヨリ王師ニ抗スル意ハ更ニ無之ニ付、帰降仕候趣申出候由、右御許容ニ相成候得ハ、庄内、仙台等モ説降シ、若帰順不致候者、其節ハ先鋒ト相成進撃可仕申出候由
中山道ヘ進候官軍ハ中山ヨリ前、荒町ト申辺ニ台場要所ヘ構ヱ置、一戦有之処、迚モ追撃難相成地ト見込候欺、右ヲ外ヅシ、ボナリ道ヘ出、惣一同ニ進候趣ニ御座候
九月
彦根藩
右之通、出先ノ者ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
九月
彦根中将内
田部全蔵

太政官日誌・明治元年81号

太政官日誌第八十一
明治紀元戊辰年秋九月

【改元ノ事】
九月八日御布告写
今般御即位御大礼被為済、先例之通被為改年号候、就而ハ是迄吉凶之象兆ニ随ヒ、屢改号有之候得共、自今御一代一号ニ被定候、依之改慶応四年、可為明治元年旨、被仰出候事
九月
改元詔
詔体太乙而登位、膺景、命以改元、洵聖代之典型而、万世之標準也、朕雖否徳、幸頼祖宗之霊祇、承鴻緒、躬親万機之政、乃改元、欲与海内億兆、更始一新、其改慶応四年、為明治元年、自今以後革易旧制、一世一元、以為永式、主者施行
明治元年九月八日
議政官
輔相
岩倉右兵衛督具視
議定
中山儀同忠能
正親町三条前大納言実愛
徳大寺大納言実則
中御門大納言経之
松平中納言慶永
山内中納言豊信
伊達宰相宗城
参与
阿野中納言公誠
鍋島少将直大
三岡四位公正
福岡四位孝弟
小松玄蕃頭清廉
後藤象次郎元燁
大久保一蔵利通
木戸準一郎孝允
広沢兵助真臣
副島二郎竜種
横井平四郎時存
岩下佐次右衛門方平
大木民平喬任
行政官
弁官事
坊城右大弁宰相俊政
勘解由小路左中弁資生
五辻弾正大弼安仲
秋月右京亮種樹
西四辻少将公業
神山五位君風
田中五位輔
神祇官
知官事
鷹司前右大臣輔煕
判官事
植松少将雅言
福羽五位美静
会計官
知官事
万里小路中納言博房
判官事
池辺五位永盛
軍務官
副知官事同様
有馬中将頼咸
三等陸軍将
坊城侍従俊章
判官事
海江田五位信義
外国官
知官事
伊達宰相宗城
副知官事
小松玄蕃頭清廉
刑法官
知官事
大原中納言重徳
副知官事
備前侍徒章政
判官事
中島五位錫胤
土肥謙蔵
京都府
知府事
長谷宰相信篤
判府事
松田五位道之
青山小三郎貞
等謹奉
詔以施行
明治元年九月十二日

【大赦ノ事】
今般御即位御大礼被為済、改元被仰出候ニ付而者、天下之罪人、当九月八日迄之犯事逆罪放殺並犯状難差免者ヲ除之外、総而減一等、被赦候事
但犯状難差免者ハ、府藩県ヨリ口書ヲ以テ刑法官ヘ可伺出事
九月

【御東幸沿道戒厳ソノ他ノ事】
同日御沙汰書写四通
【外国官副知事ノ事】
東久世中将
外国官副知事被仰付
但神奈川府知事兼勤之事

【越後府知事更迭ノ事】
四辻宰相中将
越後府知事被免、三等陸軍将被仰付

四条大夫
柏崎県知事被免、越後府知事被仰付

【藤堂藩沿海警備ノ事】
藤堂和泉守
兼而上京候様被仰付置候処、近日御東幸被為遊候ニ付而ハ、其方領分海岸要衝之地、別テ備防至重之儀ニ付、不及上京父子申合精々戒厳可致旨被仰付候事
九月

【秋田、箱館並東京ヘ派兵ノ事】
同日軍務官ヨリ達書写十二通
長州
其藩兵隊五百人、至急秋田表ヘ出張可致旨申達候事
但軍艦之儀ハ、其藩ニ而相弁可申候、右代料二万二千三百二十両、御下相成候ニ付、徳山兵モ為乗組、航海可取計事

徳山
其藩兵隊、兼而用意申付置候分二百人、至急秋田表ヘ出張可致旨、申達候事
但艦之儀ハ本藩ニテ都合申付置候間、示談可有之事

小笠原豊千代丸
其藩兵隊三百五十人、至急秋田表ヘ出張可致旨申達候事
但艦之儀、御弁可被下之間、早々手合セ小倉表ニテ待受可有之事

筑後
其藩兵隊五百人、早々東京ヘ出張可致旨、申達候事
但艦之儀ハ自藩ニテ相弁ヘ可申候、就而ハ雇入料金壱万両、御下渡可相成候事

阿州
其藩兵隊五百人、至急東京ヘ出張可致旨申達候事

雲州
其藩兵隊三百人、至急秋田表ヘ出張可致旨申達候事
但艦之儀ハ御弁被下、松江表ヘ御廻可被下候間、早々用意、待合可有之候事

芸州
其藩兵隊三百人、御用之儀願出候段、神妙之至候、早々東京ヘ出張可致之旨、申達候事
但艦之儀ハ其藩ニテ相弁可申候、就而ハ右雇入料七千両、御下相成候事

福山
其藩兵隊五百人、至急箱館ヘ出張可致之旨、申達候事
但艦之儀ハ御都合可被成下候間、早々手合、鞆津ニテ待合可有之事


其藩兵隊、箱館府出張申付候ニ付、天保山警衛被免候事

大野
其藩兵隊二百人、至急箱館ヘ出張可致之旨、申達候事
但艦之儀ハ、三国湊ヘ相廻可申間、早々手合、同所ニテ待合可有之候事

宇和島
其藩兵隊五百人、至急箱館府ヘ出張可致之旨申達候事
但艦之儀ハ其藩ニテ相弁ヘ可申候、尤艦雇入料壱万九千八百両、御下相成候事

姫路
其藩精兵三百人、早々出張、天保山警衛申付候事
但是迄福山藩ニテ警衛罷在候処、至急箱館府ヘ出張申付候ニ付、迅速操出、交替可致旨相心得可申事

【越後宝珠山ノ戦】
同日高田藩届書写
過日御届申上候、家老伊藤弥惣儀、与板口ヨリ漸進、三条表ニ在陣、去月八日五泉エ繰詰同九日同所ヨリ久保村迄進軍、翌十日赤坂草生水村方ニ、破声頻ニ相聞候ニ付、直ニ丸山間道エ進入、同十一日番頭伊奈主水、鈴木勘四郎二手、曁小銃隊長州振武隊ト合シ、宝珠山エ攀登相進候処、本道ヨリ進撃ノ官軍小松村賊塁ヘ逼、酣戦ニ付、勘四良手先駆シテ巌ヲ越ヘ、水ヲ渉リ、奮進横撃候処、賊大ニ狽狼、奔敗之機ニ乗シ直ニ衝入、激戦遂ニ小松村関門乗取申候、其節手負並分捕等別紙之通リ御座候趣、出先ヨリ申越候、此役御届申上候様、在所表ヨリ申付越候、以上
九月八日
榊原式部大輔家来
服部瀬兵衛
手負
伊藤弥惣隊 使番 黒田多仲 銃士 安藤十郎
銃士 中島左吉
分捕
舶来四斤半ライフル 壱挺 鉄砲 五挺
剣 壱本 刀 弐本
玉薬箱 五ツ 胴乱 壱ツ
モヂリ 弐本 鑓 七本
鍋 弐ツ
右之通御座候、以上
九月八日
榊原式部大輔家来
服部瀬兵衛

【村上城自焼ノ事】
村上主殿一手之人数並竹田十左衛門手ノ内、物頭建部造酒之助、久野文左衛門伊藤弓五郎等、去月廿九日長岡回復後、出雲崎口ヨリ漸進、新潟表ニ屯駐罷在候処、八月十一日村上城エ進撃ノ達シ有之、先鋒越前五小隊、弐番加州四小隊、三番弊藩弐小隊、大砲三門、追々進入、先隊村上城下ヘ繰込、後隊岩船ニ至リ少々戦候内、賊徒恐怖、本城ヲ自焼、散走イタシ候ニ付官軍先隊機ニ乗シ、速ニ入城、三藩兵ヲ分テ、廓内ヲヨビ所々口々固候旨、出先ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候様、在所表ヨリ申付越候、以上
九月八日
榊原式部大輔家来
服部瀬兵衛

太政官日誌・慶応4年65号

太政官日誌第六十五
慶応四年戊辰秋八月

【信濃川ヲ挟シデ烈戦ノ事】
八月廿三日三日月藩届書写
兵部卿宮御随従、越後表ヘ差出候対馬守人数七月廿三日与板ヘ着仕、同廿五日賊軍進撃仕付候ニ付、十二形村薩藩手ヘ応援可仕旨御達ニ付、夕方与板出立、夜五ッ時頃黒津渡場迄罷越候処、薩藩ヨリ十二形村引楊ケニ相成候間、不及進軍旨申来候ニ付、夜半過与板ヘ引取申候、同廿六日昼時川袋村台場相固メ候様御達ニ付、即刻同所ヘ罷出、同廿九日迄昼夜発砲守衛仕候、尤官軍長岡城御進撃ニ付テ、川向ノ賊塁モ動揺仕候ニ付、進撃ノ義相願候得共、台場固守仕候様、軍監 ヨリ厳敷御達ニ付守衛罷在候趣、八月朔日田尻村ヘ転陣仕候様御達ニ付、同六日迄同所滞在仕候、同七日足守藩同様、地蔵堂駅取締リ可致旨御達シ、同所ヘ罷越、御召捕人十人、両藩ヘ御預ケニ相成、同所巡邏守衛罷在候旨申越候間、此段投申上置候、以上
八月廿三日
森対馬守家来
平井代次郎

同日足守藩届書写
兵部卿宮様、越後表ヘ御出張ニ付、随従仕候備中守兵隊、同国柏崎迄罷越候処、三日月、小野、小松、弊藩共、与板表迄繰込候様被仰付、一同同所ヘ進軍、巡邏罷在候処、賊徒長岡ヨリ本与板辺ニ屯集、日々暴逆、既ニ七月廿四日早暁、長岡市中及放火、夫ヨリ戦争ニ相成、砲声無間断、一同奮激仕候処、同日午時過、与板ノ東中島ト申処ヘ、致進軍候様御差図ニ付、即刻繰出シ、信濃川ヲ隔テ滞陣罷在候処、同廿七日黄昏、越前隊ヨリ大砲打掛ケ申候処、賊ヨリモ大小砲打引出シ弊藩持場砲台ヘモ大小砲打込候ニ付、此方ヨリモ小銃数発打掛ケ及争戦候得共、何分夜中ノ事故賊死傷更ニ不分明、弊藩手負等無御座候得共、廿九日迄数度ノ戦争、兵隊大ニ労レ居候処、本月朔日午時、与板迄人数引揚、休戦候様御達ニ付、早速引揚候処、当中条ト申所ヘ進軍候様、御差図ニ付、未ノ刻過与板ヘ出兵黄昏川向ヒ中条ヘ到着、同所ニ一泊、翌 二一日暁川下西尾ト申処ヨリ乗船、笈ケ島ト申所ヘ進軍候様、御指図ニ付、卯ノ刻過十条出兵、漸ク昼過笈ケ島ヘ着、同所ニ宿陣罷在候様、御指差図ニ付、同村庄屋ニ滞在、同五日御中軍ヨリ御呼出ニ付罷出候処、去月廿九日長岡再度落城、賊大敗走仕、村上辺迄引退候趣ニ付御中軍事ヲ三条ヘ御移シニ相成候、然ル処ニ当所地蔵堂駅ノ儀者、賊徒ノ領地、殊ニ人心不居合ノ場所ニ有之候間、当地為鎮撫、暫時滞在、藩々ニテ生捕ニ相成候賊徒、当分御預ケ被仰付候間、厳重ニ相守リ居可申、尤御所置ノ儀ハ追テ御沙汰ノ節、取計候様、被仰付、直ニ同所ヘ繰込、生捕人受取、守衛罷在候処、昨七日三 条ヨリ御呼出シニテ、兼テ御預ケニ相成候両人ノ賊、致斬首候様被仰付、則取計申候
与板領走出村庄屋
松宮竜太郎
其方儀、平生村長ノ身ヲ以、観音寺村賊徒ニ組シ、官軍ニ抗シ、剰ヘ土人其外近傍諸民ヲ苦メ候、其罪始終言語同断、不届ノ至ニ候、仍仇テ処斬罪者也
辰八月七日

桑名 伊藤金八郎
其方儀、正月三日以来、数度抗官軍候始末其罪不可勝数候、実以不届ノ至ニ候、仍仇テ処厳科者也
辰八月七日
右之通相済、直様御中軍ヘ御届申上候段、地蔵堂駅出兵先ノ者ヨリ、本月八日付ニテ申越候ニ付、其侭不取敢奉申上候、以上
八月口廿三日
木下備中守家来
河原恰

同日高田藩届書写
弊藩竹田十左衛門持大黒村台場ヘ、去月廿四日黄昏ヨリ、賊徒烈敷発砲ニ付、相応シ大小砲打立、烈戦罷在候処、翌廿五日暁子刻頃ヨリ、賊兵長岡城近郷村々及放火、且城下ヘ討人、所々放火ノ上発砲、同所在陣ノ官軍苦戦、一ト先信濃川西南ヘ転陣ニ相成候ニ付、同日夕未刻頃本営ヨリ揚取之儀、達有之候得共、賊兵烈敷打掛ケ、揚取ノ機無之、弥奮戦候処、賊勢相弱候ニ付、一隊相纏メ、草生水村ヘ渡船、日暮関原ヘ揚取申候、同廿六日朝用達シニ付、大島村ヘ出張、同所川端ヘ砲台築立、遠撃罷在候、同廿七日数日ノ労兵ニ付、越前人数ト交代、新町村ヘ揚取、休息罷在候、同廿八日午後寺島村ヘ繰出シ候様達シ有之、同所ヘ出張、昼夜砲戦、同廿九日朝諸手長岡城ヘ進撃ノ旨達シ有之候ニ付、大島村ヨリ渡船、城下ヘ進入候処、賊徒敗潰散走ニ付宮下村迄及尾撃候処、浦瀬村辺ニ於テ御親兵並尾藩、長藩等烈戦中ノ趣、相聞ヘ候ニ付、直ニ同所ヘ繰込、倶ニ尽力及奮戦候処、賊等支不得、桂沢ノ方ヘ引退、聊聯守返シ発砲ニ及ト雖トモ、我兵弥激励進撃候処、終ニ亀ヶ崎ノ方ヘ散乱敗走イタシ候ニ付、尚一同追撃、同所放火ノ上、桂沢村ヘ揚取リ、本月朔日上田藩半小隊、十左衛門手半小隊繰出シ上田藩ハ浦瀬ヨリ山手ヘ登リ十左衛門隊ハ桂沢ヨリ相進ミ、所々探索、両手山上ニテ合兵候得共、賊既ニ遁走居合不申候ニ付、賊塁二ヶ所焼払、見附ヘ進軍、同所巡邏取締罷在候段申越候
一、榊原若狭隊ノ内、物頭安松勘四郎、原三郎兵衛、竹田十左衛門隊ノ内大砲一門、打方ノ者共、去月以来、桂沢、亀ヶ崎辺ヘ出張日夜遠撃砲戦罷在候処、七月廿五日暁、賊兵長岡ヘ進入ノ節、対陣ノ賊栃尾城山ノ方ニテ、狼煙三四度立ルヤ否哉、厳敷打掛リ、就中長州干城隊斥候台場ヘ賊兵多人数襲来候処、味方奮戦一時計リ、遂ニ賊徒散走ス、同廿六日辰刻頃、賊兵味方ノ裏ヲ取切ン為メ、栃久保村ヘ相迫候ニ付、長州干城隊、振武隊、大垣兵隊、弊藩大砲隊栃久保ノ賊ニ当リ、数刻及烈戦候得共、不利ニ付、一同桂峠ヘ楊取、此時賊兵烈敷尾撃ニ付、原三郎兵衛踏留リ、勇戦ニ及ヒ其場ヲ不去討死ス、安松勘四郎儀者、桂峠際ニテ守返シ、大垣勢ト一同防戦イタシ、諸手追々繰引、黄昏ノ頃半蔵金村迄揚取、同廿七日妙見迄繰引、同日小千谷迄揚取申候、同夜五ツ時頃高梨村ヘ繰込対陣、同廿九日大島村ヨリ渡船、長岡城ヘ進撃、本月朔日浄願寺村ヨリ森立峠ヘ繰押込、尚追々及進撃候旨申越候
一、榊原若狭儀者、去々月以来与板取口字峠山ニ張陣罷在候処、数日ノ労兵ニ付、会議所ヨリ達有之、七月十七日ヨリ与板城下ニ休兵罷在候処、同廿五日払暁同断達ニ付、原村台場ヘ出張、午刻頃大島台場ヘ転陣、同廿六日朝藤沢村ヘ移陣、同所台場固守、同廿九日長岡進撃ノ節、若狭及附属之兵隊、信濃川ヲ渡リ進入、落行ク賊ヲ尾撃シ、筒場村ニ至リ候処、賊兼テ設置候砲台ニ拠リ、稠ケ敷砲戦候ニ付、御親兵並若狭隊協力勇進及攻撃候得共、賊等尚巌ニ相支候ニ付、若狭儀衆ニ先立、賊塁間近ク奮進及指揮候処、味方弥勇進、賊勢大ニ相挫ケ遁走ノ色相見ヘ候折柄、賊兵頻発ノ弾丸、若狭臍傍打貫キ、卒ニ即死候ニ付、右手ノ戦士不堪憤怒、益激戦及追討候旨申越候、
一、若狭隊ノ内、番頭榊原左近、竹内造酒之丞、森三郎左衛門三手並大砲隊等、天神村台場
固守罷在候処、去月廿四日黄昏頃、俄ニ賊兵多勢襲来、発砲候ニ付、速ニ相応シ及烈戦候処、賊徒退散、同廿五日長岡城ヘ賊進入、官軍一旦引揚候ニ付、同廿六日寅ノ刻過、信濃川西ヘ揚取候上、尚又朝日村ヘ繰出シ、同廿九日黎明、隔岸賊塁ヘ烈敷及砲撃候処、賊追々敗潰ノ折柄、妙見山ノ官軍進撃ニ相成、長岡城下ヨリ敗走ノ賊等、向岸ヘ引退候ニ付、大小砲ヲ以烈敷及横撃候処、弥以致散乱候、此時長州干城隊ト万端示合、一同信濃川打渡リ、草生津口ヨリ進撃、賊兵ハ暫時ニ打崩シ、夫ヨリ右手ノ方、田畔ヨリ相進ミ、町家裏手ニ屯集ノ賊打破リ、直ニ進軍、長藩人数ニ続キ一ト先城内ニ乗入候上、尚又尾撃ノ処、福井村ニテ賊相支候ニ付、両藩半隊ツヽ分隊、同村裏手ヘ相廻リ及交爽撃候処、賊忽散走ニ付、弥尾撃ノ上、其夜福島村相固居、本月一日筒場村ヘ繰出、尚又見附宿迄繰詰罷在候段申越候
一、伊藤弥惣隊ハ、去々月以来与板表ニ在陣、同所台場ニ於テ日夜砲戦、小迫合ニ及ヒ居候処、去月廿四日夜、長岡表煙火トヒトシク、砲台間近ク賊等押来、厳敷打掛リ候得共、砲台ヲ厳備シ、烈戦ニ及候処、終ニ賊徒退散、其後廿九日迄日夜遠撃罷在候、同夜ニ至リ、我軍一同合図ヲ約シ、丑刻過一斉ニ大小砲烈敷打立候処、本月朔日朝賊兵陣屋ヲ自焼シ、窃ニ逃去候段申越候
一、村上主殿隊ノ儀、去々月以来出雲崎口山上ヘ繰上ケ、賊塁ニ対シ所々砲台ヲ設ケ、諸藩一、同日夜尽力砲戦罷在候処、去月廿六日藤巻、木ノ茅山台場ヨリ、賊巣ヘ烈敷砲撃、其勢ニ乗シ、弊藩銃卒五六人、賊塁ヘ攻登候処、賊等散走ニ付、追々進軍、島崎、山田辺マテ繰込候旨申越候、
右件々並討死、手負、生捕、分取等、別紙ノ通御座候趣、出先諸手ヨリ不取敢注進申越候間、此段御届可仕旨、在所表ヨリ申付越候、以上
八月廿三日
榊原式部大輔家来
柴田定右衛門
戦死
榊原若狭
榊原若狭隊物頭 原三郎兵衛
大砲方 田中金一郎
原三郎兵衛組足軽 堀田清吉
手負
深手揚取後死ス大砲方 津田文蔵
以下戦士死 竹内又四郎
長谷川文之介 河内金太郎
以下原三郎兵衛組足軽
江川大助 以下原三郎兵衛組足軽 川合仲蔵
牛木万作 竹内造酒之丞家来 竹下為三一郎
竹田十左衛門隊用人 小倉左市郎
大砲方 竹尾弥吉
深手揚取後戦死 伊藤弥惣隊徒目附 大谷吉蔵
銃隊足軽 清水左十郎
銃士 鈴木又七郎
即死
軍夫二人
分捕
榊原若狭隊戦士三人 中島清兵衛
賊兵一人 谷田旧太郎
山田忠太郎
右三人ニテ生捕之
米七十九俵
右同人手ニテ分捕、其余諸隊之内、分取品モ有之由ニ御座候、猶取調追テ御届可仕候
右之通御座候、以上
八月

太政官日誌・慶応4年64号

太政官日誌第六十四
慶応四年戊辰秋八月

【越後村上、石間陥ル】
八月廿二日越前藩届書写
先日越後表進撃之次第、不取敢御届仕候後、越前守先隊、与板口之諸隊五泉ト申所ヘ相会シ、夫ヨリ去ル十日、諸手津川口進撃ニ相成、弊藩本多門左衛門隊、笹原ト申所ヨリ馬下村ヘ相進ミ、佐取之賊ト烈敷及戦争候、翌十一日、小松村辺ニ相備候弊藩五番遊撃隊並大砲隊先陣ニ相進及奮戦、遂ニ賊塁ヲ乗取其節井原立二、一番ニ関門ヲ乗入候処、潜伏致居候賊徒、短兵ヲ以相向候ニ付、立二、永見数馬、中村禄禄三郎、梯彦之進等立合、賊両人討取リ首級引揚楊申候、馬下之方門左衛門隊モ其機ニ乗シ、速ニ進撃之処、賊徒烈敷相防候ニ付、同隊嚮導役柴山半蔵、敵中ヘ忍入、放火致シ候処、賊兵屯シ兼敗走、遂ニ佐取之要害ヲ乗取リ候、同時栃屋政之助隊ハ、敵之横合山上ヨリ砲撃致シ、阿賀川西之山ニ斥候ヲ兼相備居候、門左衛門分隊モ、同ク発砲応援致シ候趣、右遊撃隊猛進中、手負別紙之通ニ御座候、賊兵散々ニ敗走、石右間ト申所之関門内ヘ逃集候ニ付、尚軍議之上、別紙之通出張、追々進入之節ニ御座候由、且又出雲崎口之方ハ弥彦山ヲ打越シ進撃致シ、同十一日弊藩六番遊撃隊並堀十兵衛隊、岩舟ト申所ヘ相進、已ニ村上城ヘモ一番ニ乗入、黒川ト申所迄相進候由ニ御座候エヱ共、未タ委敷報告無御座候、右両口トモ討取、討捨、多分有之候、分捕モ相知レ候分、別紙之通御座候、右ハ今度越前守家来葛巻九馬罷帰、相達候概略、不取敢此段御届申上候、尚追々相分リ次第可申上候、以上
八月廿二日
松平越前守家来
永田儀平

赤坂口出張石間ノ敵ニ対ス 五番遊撃隊
同上 大砲隊
草水小松辺山上ヘ出張 栃屋政之介隊
馬下ヨリ川上山上ノ敵ニ対ス 本多門左衛門隊
五泉市中巡邏見張番 林藤五郎隊
沼越口大倉村ヨリ二里余山上ニ陣ヲ布
武曽権左衛門隊
五泉宿陣
本多与之輔隊
酒井孫四郎隊
但、興之輔手兵隊之内、二小隊ハ三条ニ罷在、西園寺殿御警衛並同所巡邏見張、残ル四小隊ハ五泉市中巡邏見張リ番
右之通御座候、以上

遊撃隊
深手 遊撃隊 高階幾次郎 戸田半蔵
三沢恒二郎
遊撃隊
手負 遊撃隊 樋口喜左衛門 永見数馬
井上剛二三郎
本多門左衛門隊
山本政右衛門
右之通御座候、以上
分捕覚
一、弓 一張 一、陣太鼓 二ツ
一、撃発銃 一挺 一、火縄筒 五挺
一、鎗 四筋 一、胴乱 二ツ
一、陣鍬 四挺 一、釜 <内圧内釜一ツ>三ツ
一、幕入箱 一ツ 一、大砲弾薬箱 八棹
一、長持 八棹 一、武力揮薬入 一ツ
一、筵包 六筒 一、大目篭 二荷
一、筵長持 四棹 一、筵葛篭 廿箇
一、米 三千俵余
内千俵余於出雲崎参謀中ヘ指出ス
右之外、味噌桶始メ雑物類、数多之事故、書載セ不申候、以上
越前守先隊ヨリ、出雲崎口本陣ヘ別紙之通御届ニ相成候間、家来粕谷外次郎罷帰相達候ニ付、此段御届申上候、且又同人報知ニハ已ニ葡萄ト申所迄進撃、羽州境ヘ押詰候、津川口ハ去ル十六日、石間之賊塁モ乗取候趣ニ御座候
八月廿二日
越前少将家来
永田儀平
昨十一日朝五字過.桃咲浜ヨリ致渡船、七字過岩舟駅迄致進軍候処、賊兵七十人計、明神橋詰、或山之手台場ヨリ、大小砲発放シ候ニ付、弊藩先手人数ニテ、暫時折合致進撃候処、賊兵悉ク敗走致シ候ニ付、直ニ斥候トシテ一小隊差出、村上城下ヘ相廻リ候処、賊兵二ノ丸ヲ自焼、庄内之方ヘ逃去候趣ニ付、直ニ村上ヲ乗取申候、此段不取敢御届申上候、右岩船、村上ニテ打留、生捕、別紙之通御座候、以上
八月
越前少将内
山県刑部
追而両分捕之儀ハ取調之上御達可仕候也
村上藩
討留 村上藩 青山豊松 兵卒一人
番頭
生捕 番頭 石田九蔵 平士 森田鎌蔵
平士 水野蒔時平 徒頭 渓野磯之丞
徒目付
降伏 松永文左衛門
足軽
生捕 中村勘九郎 中村新蔵
大滝源吾 上田末次郎
小池福太郎 佐藤定蔵手代 山崎専太夫
庄内藩
酒井庄太郎家来
以上

【御即位大礼ノ御事】
同廿三日御布告写二通
此度御即位之大礼、其式古礼ニ基キ、大旌始製作被為改、九等官ヲ以、是迄之参役ニ令並立、総テ大政之規模相立候様、被仰出候、中古ヨリ被為用候唐製之礼服、被止候事
八月
此度御即位御大礼之節、旧儀参役太政官九等之面々、一同紫宸殿階下ヨリ承明門内外ニ排列式ヲ以テ、奉拝宸儀候様、被仰出候事
但府県ハ、知事、判事、在京之者参朝可致、権官以下不及其儀事
一、衣帯之儀ハ、旧儀参役之面々束帯、太政官九等官之面々、有位ハ束帯、衣冠、単差貫無位ハ黄袍、衣冠着用之事
一、此度参役並太政官、当官ニ無之宮堂上、在京之諸侯為総詰参朝被仰出候事
但衣帯ハノ衣冠、差貫之事、尤無位之諸侯ハノ直垂着用之事
一、太政官等外之徴士、雇士並在京之中大夫、下大夫、上士等便宜便官之候所ヘ、相詰候様被仰出候事
但直垂着用之事
右之通ニ候間、旧儀参役並太政官当官排列之面々ハ、廿七日寅之刻参朝、其余之面々ハ卯之刻参朝被仰出候事
但重服者相除、軽服者ハ不苦事
八月

【耶蘇ノ徒教誨ノ事】
同日 御沙汰書写
各通
本願寺
東本願寺
各通
興正寺
仏光寺
専修寺
錦織寺
九州表、耶蘇之徒、教諭尽力致度願之趣、尤ニ候エ共、既ニ巨魁数人御取調之上、藩々ヘ御預相成、自余之輩、当分肥前藩ヘ屹度取締被仰付候間、於其宗旨教誨之儀、不被及御沙汰候事
八月

【上杉家来歎顧ノ事】
上杉駿河守
此度上杉弾正家来共、其藩ニ依頼候ニ付、歎願書取次、土藩ヲ以差出候処、元来於朝廷好生至仁之思召ニテ、干戈ヲ被為用候、御趣意無之ハ勿論ニ候処、去閏四月伊達陸奥、上杉弾正、添願書ヲ以会賊歎願書差出候ニ付テハ、容保儀、真実伏罪、奉仰天裁候エハ開城謹慎可罷居候処、厳ニ封境ヲ鎖シ、剰ヘ東北諸路ヲ掠奪シ、隣藩之居城ヘ人数ヲ分配シ、王師ニ抗衝シ其叛跡顕然ニ付、御許容可被為在道理更ニ無之、然ル処、陸奥、弾正等終ニ無窮之天恩ヲ忘失シ、祖先勤王之忠志ニ戻リ、逆賊ニ与党シ、近隣之小藩ヲ脅従シ、官軍ヲ拒ミ、地方之艱難ニ立至ラセ候エ共、尚海涵之 御主意ニテ、遠境偏土、情実不相通、国論一定セサル所ヨリ、方向ヲ誤リ居候儀モ可有之哉ト被為思食、爵禄如元被差置、重キ 御沙汰有之候エ共、爾後私ニ盟所約ヲ結ヒ、益狂暴ヲ逞シ候ニ付、終ニ不被為得止、先般位官被召揚、征伐被仰出候、尤恭順悔悟、実効相立候ハヽ、巨魁ト雖トモ必誅之思召ハ不被為在候処、悸戻盈貫、茲ニ到リ、最早典刑ニ於テ難被為捨置、前件被仰付候条、此段可申聞御沙汰候事
八月

【兵制一定ノ事】
同日諸府県ヘ御布告写
府県兵之規則、区々ニ相成候テハ、終ニ天下一般之御兵制モ難相立ニ付、於軍務官規則御一定相成、追テ可披仰出候条、其節速ニ改正可有之御沙汰候事
但府県ニ於テ、以来各々ニ規則相立、兵員取立候儀、被差止候事
八月