鎮将府日誌・明治元年20号


鎮将府日誌 第二十
明治元年戊辰九月
天童藩歎願書
臣信敏恐懼頓首奉歎願候、先頃奥羽各藩ニ相従、出兵等仕、自然奉抗官軍候事ニ立至候処、此度上杉弾正ヨリ、厚キ叡慮ノ程奉伝承、恐懼至極奉存候、素ヨリ勤王ノ外他事無御座候得共、臣若年暗昧、且遠境隔絶事情ニ通徹不仕、一旦名分順逆ヲ誤、奉悩宸襟、恐懼至極、先非悔悟、何共可奉申上様無御座随而者臣始家来末々迄、恭順謹慎罷在、謝罪仕候、此上奉仰朝裁候、何分宜敷御処置被成下度、偏ニ奉歎願候、誠恐誠惶頓首
九月十八日 織田兵部少輔
○同廿三日御沙汰書
高七十俵 安藤伝蔵
自今朝臣被召加、本禄如旧下賜候事
明治元戊辰年九月
○同廿五日
高五千石 内藤駒次郎
右同文
高六千五百石 曽我主水
右同文
高千百石 玉虫八左衛門
右同文
高五千石 水野式部
本禄如旧下賜候事
高四千石 久永相模守
右同文
高三百俵 布施十兵衛
右同文
○同廿七日
高千五百石 安藤左京
自今朝臣被召加、本禄如旧下賜候事
明治元戊辰年九月
高四千五百石 菅谷主税介
右同文
同日御達書
今般御東幸ニ付而者、兼而御布告之通、金銀紙幣取交通用、勿論之儀ニハ候得共、遐邑僻境ニ於テハ、未相弁向モ可有之候間、御領ハ府県、私領ハ領主、地頭ヨリ、不洩様早々可相触候事
九月
黒羽藩届書
慶応四年八月廿一日於白川表、館林人数ト致合併、急速三斗小屋ヨリ、会津ヘ進撃可致旨依御達、同廿二日、館林三小隊、弊藩三小隊、合テ六小隊、第六字同所出発、於途中両藩同等ニ分隊シテ、内四小隊北ノ湯泊〈行程六里余〉残リ二小隊ハ大沢泊リ〈行程四里余〉外ニ兼而領中取締トシテ、小谷村ニ出兵之一小隊、同所ニテ合併仕候、同廿三日北ノ湯一泊之四小隊、尚分隊シテ、二小隊ハ大丸山ヲ越、賊ノ番兵ヲ打散シ、三斗小屋湯所ニ向、又二小隊ハ那須村ノ賊兵ヲ打散シテ、那須岳ヲ越、而シテ双方南北ノ山路ヲ、昇降五里ノ間、険阻ノ狭道、辛クシテ鉄鎖ヲ伝、漸進テ那須岳越ヘ、先鋒僅ニ三四伍手、臼砲三門、渓谷内ノ三斗小屋際、川向ヘ進ミ候処、彼番兵ノ報知ヲ得テ、墻壁ニ兵ヲ配リ待居、忽及砲戦、暫苦戦ノ処、大丸越ノ二小隊、忽敵ノ左ノ山ヨリ、横合ヲ烈ク打立候ニ付、賊兵南北ニ散乱シ、及敗走、続テ両道ノ兵村内ヘ打入、少々追打仕候、同日大沢泊ノ三小隊、小谷村ノ賊一小隊程、屯集ノ報知ニヨリ、進テ及戦争候処、忽逃去候ニ付、横沢村ニ進、尤黒羽表ヨリ、領内為鎮撫二小隊、廿二日出発、瀬縫村江一泊ニテ、此日同所ヲ発、半俵村ニ屯集ノ賊半隊程ヲ打散シ、兼テ軍議ニ付横沢ニ進ミ、合併シテ五小隊ニ至、直ニ同所ヲ発、板室村江致進撃候処、彼不戦シテ逃去申候、依之亦同所ヲ発、那須岳右ノ方谷合ノ本道ヲ進ミ、三斗小屋ニ向候得共、大沢村ヨリ同所迄行程七里ニテ、日没ニ及、不得止板室ヨリ二里進テ、沼ケ原ニ野陣仕候、同廿四日沼ケ原ニ野陣ノ五小隊、同所ヲ発、三斗小屋村江繰込申候、同日両藩合併四小隊ヲ以、三斗小屋一里程隔関奥ノ境、大峠江進候処、賊墻壁ヲ捨逃去候ニ付、番兵一小隊ヲ残シ、三斗小屋ヘ帰陣仕候、同廿六日館林二小隊半、弊藩三小隊半、合併仕、野際村ヘ進撃ノ処、大峠ヨリ一里程先、中峠ノ嶮岨単行ノ要地ニ、賊五十人程墻壁ヲ設相待居、及戦争候得共、彼ハ利地ヲ備居候事故、容易ニ不相破候間、以奇兵左右ノ山ヘ登リ、難処苦辛而攀登リ、賊ノ横ヲ打候故、俄ニ相破レ候ニ付、軍勢ヲ纏、再同所ヲ発、一里程進候処、賊亦駒返坂ノ要地ニ、二百人余大砲ヲ設置、相拒候ニ付、散兵ヲ以山上山下ニ相配、打立候処、大砲ヲ捨、野際村ニ火ヲ放、退散仕候間、同村ニ進ミ、敵情相探候得共、相川村其外村々ニ、多人数屯集ノ趣、味方至テ寡兵、殊ニ疲労不少候ニ付、惣勢相纏、三斗小屋ヘ帰陣仕候、尤二小隊鎮撫ノ兵ハ板室村横沢村等江ノ残賊、運送ノ諸物ヲ妨候ニ付、同村ヘ引揚、鎮撫為仕申候、合戦中討取、分捕、味方殺傷、別紙ヲ以此段御届申上候以上
賊兵討取八人〈但関山村ニテ〉
小銃五挺〈但同所ニテ〉
賊兵討取五人〈但本郷村ニテ〉
戦死 渡辺福之進平士 鮎瀬文蔵
同 安藤小太郎隊平士 平山文之丞
同 風野六之丞隊平士 井上金太郎
同 五月女三左衛門家来 高野忠兵衛
手負 笠井健平
同 安藤小太郎隊平士 稲沢寅蔵
同 渡辺福之進隊平士 谷地辰之助
同 益子四郎家来 永井三代次郎
右河原町裏ニテ死傷
賊兵討取四人
手負 渡辺福之進隊平士 吉成松次郎
右飯寺村ニテ
戦死 渡辺福之進隊属長 佐藤熊太郎
戦死 風野六之丞平士 渡辺啓次
手負 同 大野勇蔵
同 松本道之助
右関山村ニテ
戦死 一番隊長 高橋亘理
手負 安藤小太郎隊平士 渡辺次三郎
右若松城郭討入之節
賊兵十六人〈但三斗小屋半俵小谷三村ニテ〉
小銃五挺
忽砲一門
臼砲二門〈但三斗小谷野条半俵ニテ〉
賊兵討取十二人〈但会津領中峠駒込坂両所ニテ〉
戦死 一番小隊長 益子四郎
手負 益子四郎隊平士 川島磊
手負 同 伊藤弁治
右小谷村ニテ
戦死 高橋亘理隊平士 波多野八郎
手負 同 秋元倉之助
右三斗小谷村ニテ
戦死 渡辺福之進隊平士 鈴木茂右衛門
同 興野源太左衛門隊平士 井上鉄太郎
手負 高橋亘理隊平士 福田台助
同 五月女三左衛門附属 青木縫之助
戦死 安藤小太郎隊長 益子理右衛門
右会津領中峠駒返阪ニテ
九月 大関泰次郎家来出兵隊長 五月女三左衛門
肥前藩届書
八月廿二日白川進発、勢至堂右間道、滝新田通リ致進軍候処、追分峠其外屯集ノ賊徒、器械弾薬等打捨、若松ノ方ヘ逃去候ニ付、追撃同廿五日早朝若松到着、則在陣ノ参謀ヘ相達候処、天寧寺関門口ヨリ、湯本口迄相固候様被相達候ニ付、翌廿六日早朝、薩州藩ニ致交代候、同日昼頃若松城東南ノ隅、大窪山辺、薩州藩致巡邏候処弾薬庫有之、殊ニ攻城ノ要地ニ付、取固可申談判相極メ、薩州藩兵隊、弊藩四小隊、大砲二門差向、一同右場所相固申候、且又本月五日、各藩談判之上、越後口ノ為応援弊藩ヨリ四小隊、大砲一門差出候処、賊徒少々致防戦、左右山手ヘ逃去候ニ付進撃、舟渡迄相進、川向越後口ノ官軍ヘ相通シ候而、坂下駅ニ引揚、同所一泊、翌六日若松ヘ致帰陣候、廿五日以後持口、其外所々ノ小戦ニテ、手負左之通御座候打取、分捕等有之候得共、取調未届合候ニ付、此段荒増不取敢御届申上候以上
深手 倉永助五郎
薄手 田中源次
薄手 高木徳次郎
深手 足軽 峰初瀬右衛門
薄手 足軽 藤川勝太
九月九日 肥前藩 多久与兵衛
○九月廿四日御沙汰書
福原内匠
其方儀、当分之処、白川越附六万石租税、取締可致旨御沙汰候事
九月 大総督府参謀
○同廿六日
柳川藩
飛竜丸、当分之内、其藩江御預被成候事
九月
長州藩江
其藩江被預置候飛竜丸、柳川藩江可引渡旨御沙汰候事
九月
安田源之丞
其方事、御雇被成可為軍監旨御沙汰候事
九月廿六日
増田虎之助
参謀試補被申付、奥州二本松江出張可致旨御沙汰候事
九月
筑後藩
其藩兵隊、奥州磐城平江出張可有之旨御沙汰候事
九月
肥前藩届書
弊藩兵隊、藤原口ヨリ若松進撃ノ途中、討死手負、左ノ通致候、戦争ノ次第、且賊ノ死傷分捕等ハ、追テ可申上旨、出先ノ隊長ヨリ申越候、此段御届申上候
手負 南部俊蔵
同 池田忠九郎
同 伊東伊平太
同 立川勘左衛門
同 足軽 長尾兵蔵
右九月二日火玉峠ニテ
手負 角千左衛門
討死 内川源六
討死 早田長兵衛
右同月三日関山ニテ
手負 新郷友助
同 足軽 古川善作
討死 足軽 真崎作次
手負 同 木塚忠兵衛
手負 夫卒 一人
右同月五日、若松城下材木町裏手ニテ以上
九月 肥前藩 深川亮蔵
佐土原藩届書
九月十五日、奥州会津青木村戦争ノ節、死傷左ノ通
戦死 長官 新納八郎二
同 監軍 鶴田力之進
同 監軍 槍本源吾
同 戦兵 籾木勇太郎
同 戦兵 池田数之進
同 同 植村善右衛門
同 同 瀬戸口権太郎
同 同 立山源太郎
同 同 大町五兵衛
同 同 厚地熊太郎
同 同 間世田助市
同 同 原友次郎
同 同 谷山弥平次
同 同 児玉直蔵
同 同 工藤和田右衛門
同 夫卒 二人
深手 隊長 藤井隼人
深手 戦兵 堤惣次郎
同 同 小野新蔵
同 同 神崎伝兵衛
同 同 長友彦右衛門
同 同 槍本政次郎
同 同 図師惣兵衛
同 同 高山権左衛門
同 同 大町善右衛門
同 同 森源太郎
同 同 柳田権太郎
同 宇宿代吉家来 一人
同 市木五郎兵衛家来 一人
同月十七日、右同所賊徒追討之節死傷
戦死 監軍 三雲為一郎
深手 戦兵翌日死 郡司伊織
右之通会津出兵許ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候以上
九月廿七日 佐土原藩 樺山舎人
彦根藩届書
九月十四日八字ヨリ、賊城進撃ニ付、弊藩分隊人数、桂林寺口、融通寺口等ヨリ、諸藩一同進入仕候処、賊烈敷防戦致候得共、急速進闘、終ニ外郭乗取、十二字頃止戦仕候、其節分取并味方死傷、別紙ノ通ニ御座候趣、若松表出先ヨリ申越候条、此段御届申上候以上
臼砲一門 舶来ミニヘル玉三千位
討死 陣場方取調役 小倉健輔
同 青木十郎次隊 本山長五郎
同 陣場方軍夫 文吉
手負 使番 今村彦四郎
右九月十四日、若松城攻之節、分取并味方死傷ニ御座候以上
九月十八日 彦根中将内 河手主水
○御沙汰書
賊徒追討官軍進発已来、所々奮戦、堅キヲ抜キ、鋭ヲ挫キ、其忠勇義烈、達天聴叡感被為在、猶又諸軍現地ノ勲功、被為知食、臣子ノ亀鑑ニ被備度叡旨ヲ以テ今般別紙ノ通、予メ勲功ノ等級御定ニ相成候条、督府、列藩及参謀、軍監、長官等、現地ノ事蹟精密取調、偏頗彼我ノ見ヲ去リ、公正至当ノ議ヲ以テ、諸軍各部其等級ヲ判シ、姓名書差出候様被仰出候事
但御褒賞ノ儀ハ、大総督宮及諸道総督帰京被奏成功之上御沙汰有之候事
八月 行政官
勲功式三等
総督<副総督参謀等之ニ準ス>
上功
能ク衆議ヲ容レ、画策籌謨其宜ヲ得、以テ大ニ四方ヲ鼓舞シ、終ニ天下平定ノ績ヲ底スモノ上功トス
中功
能ク一方ヲ維持シ、以テ強敵ヲ挫キ、終ニ天下平定ノ業ヲ助ルモノ、中功トス、又諸隊ニ抜ンテ、賊衝ヲ奪、全軍長駆ノ勢ヲ逞セシムルノ類、之ニ準ス
下功
以多当寡勝負亡獲相等キ者、下功トス、又営塁要地等ヲ固守シ、全軍ノ潰敗ヲ維持スル類、之ニ準ス
一司令官<諸隊長之ニ準ス>
上功
使令其宜シキヲ得、其隊ヲシテ同心協力、進退坐起、自ラ法ニ合シ、以テ大敵ヲ破リ、要地ヲ抜キ、全捷ヲ取ルモノ上功トス
中功
寡ヲ以テ衆ヲ挫キ、諸隊之カ為ニ勇奮振起、其力ヲ終ニ全軍ニ及ボスモノ、中功トス
下功
率先勇進スト雖モ、隊下死傷多キモノ、概シテ下功トス、或ハ強敵ヲ受、所部ヲ指揮シ、営塁要地等ヲ固守スル者、之ニ準ス
一兵士
上功
奮戦衆ニ超ヘ、堅キヲ摧キ、鋭ヲ挫キ、其身銃丸鋒鏑ニ罹ルモノ、上功トス、又勇進シテ衝敵、斫塁、終ニ命ヲ殞スモノ、或ハ率先奮激、終ニ敵ヲ敗リ、良ヲ獲ルノ類、或ハ其他敵ノ大砲要器ヲ撃壊シ、輜重糧食ヲ捕拿スル者、亦之ニ準ス
中功
励戦衆ニ先タチ、或ハ一隊ニ殿シテ、力戦部伍ヲ収メ、其身重創ヲ被ルノ類、概シテ中功トス
下功
敵軍披靡勢ニ乗シ、追撃シテ首級ヲ獲ル者、下功トス、又力戦創ヲ被ルモノ、之ニ準ス
追補
筑波小次郎
右芸州軍監被仰付置候処、昨日戦争ノ節手負申候、此段御届申上候以上
七月廿七日 因州藩

(以下OCR追加)

補正
鎮将府日誌第六ノ十一葉目ニ在ル長州藩届書ノ内討死ノ土屋素輔ハ大屋ノ書誤ナリ
同第五巻ノ十五十六葉目二在ル同藩届書村田次郎助大谷武太郎小橋清太郎右三人手負ノ所書誤テ即死ノ部ニ混ス且武太郎ヲ誤テ竹次郎ニ作ル

鎮将府日誌・明治元年19号

鎮将府日誌 第十九
明治元年戊辰九月
宇都宮藩届書
当月五日、朝霧ヲ犯シ、津川ヲ渡リ、若松城下飯寺村迄打入候処、賊徒両面ヨリ取包ミ、発砲ニ及ヒ、頗ル苦戦仕候、四方敵地陣営未定、日モ晩景ニ及ヒ、其上賊徒糧道ヲ絶候勢相見候ニ付、無拠若松城下ヘ引上一宿、同六日再ヒ飯寺村ヘ繰出シ、諸藩一同々所ヘ宿陣同八日朝四時前、陣所南ノ方ヘ賊徒俄ニ襲来候ニ付、中津藩并弊藩番兵ニテ、暫時相防候内、諸家隊応援、津川ノ方ヘ追討候処、賊徒狼狽散乱ニ及候、其後同十四日、各藩諸道ヨリ若松城ヘ攻掛候ニ付、弊藩七小隊並大砲二門夫々分配、川原町外両道ヨリ相進、賊陣ヲ打払、直ニ城内ヘ打入、本丸ヨリ一町余東南ノ方ヘ兵隊ヲ敷キ、持口相固メ宿陣、同十五日昼八時過、飯寺村津川向ノ方ヨリ、賊徒俄ニ襲来、飯寺ノ番兵、長州并小倉勢頗ル苦戦死傷モ有之候様子ニ付、弊藩八番一小隊、早速援兵ニ差出候得共、戦争中飛脚差立、勝負未相分由申越候、高原口ニハ賊徒屯集、道路通行相成兼、白川口ヨリ便宜申越候ニ付長途之儀、殊ニ日々之戦争ニテ遅報ニ及、御届書混雑中ニテ調落モ御座候ニ付、其分取調奉申上候、猶又高原山辺ヘ賊徒屯集之由ニ付、当月十九日、弊藩兵隊塩原村ヘ繰出シ申候、且又前断戦争之節、討取、生取、分取并弊藩死傷左之通
首級一 長岡藩 長沢金太郎 六番隊士 矢島雄吉
首級一 長岡藩 鳥居藤太郎 八番隊嚮導 大屋真亀太
同一 同 増井弥兵衛 六番隊士 内藤鏗之丞
同一 同 山本敬太 同 加藤鎬之進
同一 同 篠田安作 軍局小監察 古川和太夫
同一 同山本帯刀家来 渡辺兵吉 同 本多七郎
同一 同 山口辰次郎 九番隊司令士 保田織之助
同一 同 名前不知 軍監下役 伊藤房之助
同一 同 雨宮兵吉 九番隊銃卒 小湊熊六
同三 同 〈長島兵八 大宮兵太郎 山本帯刀従卒〉〈二番小隊 七番小隊〉之内
右九月八日、於飯寺村戦争之節討取
<長岡藩 高二千石> 山本帯刀
<同銃隊頭 百石> 千本木臨吉
<同 七十石> 鍬沢弥五郎
<同 七十五石> 寺田善右衛門
<同 四十石> 長門九郎右衛門
<同 三十五石> 松井松五郎
<同 三十五石> 中川音三郎
<同 高不知> 篠崎重右衛門
<同 足軽米二十俵> 茂呂橋政七
<同 十六俵> 安田大太郎
<同 十五俵半> 吉田重太郎
<同 宛行不知> 岡本勘十郎
<同山本帯刀家来高百石> 渡辺三平
<同 仲間> 辰次
右生捕
小銃二十挺
槍一筋
刀二十二本
脇差七本
胴乱十一
指図旗一本
右分捕
深手 二番隊司令士 西村吉内
同 同隊銃兵 根岸平八
同 山口増蔵
右五日於飯寺村戦争手負
薄手 一番隊士 大橋亘理
深手 軍事局下役 松沼賢次
深手 七番隊銃兵 太田順吉
同 二番隊銃兵 長谷川直七
右八日於飯寺村戦争手負
戦死 八番隊司令士 篠原段六
深手 同嚮導帰営途中死 上田佐輔
戦死 八番隊附属 鳥居槙太郎
薄手 二番隊銃兵 竹内泰次郎
薄手 二番隊銃兵 山本多美七
戦死 九番隊銃卒 小湊熊六
右十四日於河原町門外戦争死傷
戦死 一番隊士 小林友之進
薄手 七番隊銃兵 横山昌次郎
深手 五番隊嚮導 大野五郎作
薄手 五番隊銃兵 小林時八
同 同銃卒 荒井清八
同 保田啓三
同 同 高橋唐四郎
右朔日於大内峠戦争死傷、先達而御届書ノ内調落ノ分
戦死 一番隊士 中居直記
同 同 加藤鉞次郎
同 七番隊銃兵 藤代信蔵
深手 七番隊銃兵 内田銀次郎
薄手 同 高橋七蔵
深手 八番隊長羽太忠助僕 松蔵
即死 軍事局丸山善兵衛僕 兼吉
深手 六番隊士 佐藤銀之助
薄手 六番隊士 小川鋭太郎
薄手 同 安東卓之允
深手 二番隊銃兵 黒瀬確助
深手 二番隊銃兵 田村子之助
同 同 吉川彦太郎
薄手 同 内田音次
薄手 桜井壮蔵家来 木村又吉
深手 九番隊銃卒 石川幸次
深手 九番隊銃卒 吉田紋六
同 同 渡辺徳八
同 六番隊士 松岡金六
薄手 六番隊士 正木虎男
薄手 同 福井行蔵
深手 戸田鑑之進家来 山崎文之助
深手 九番隊銃卒 荒木忠野右衛門
同 同 秋山重三郎
戦死 二番隊銃兵 宮沢忠次
薄手 分知戸田銀之丞内軍監附属 福井寅之丞
薄手 同 箕田碇之丞
同 同 宮崎兵馬
右二日三日四日、関山村戦争之節死傷
八番隊長附属 山口弥太郎 <但八月晦日於倉谷村手負 九月十八日死去>
右之通御座候以上
九月廿四日 宇都宮藩 西村鎮兵衛
○九月廿三日御沙汰書
大久保加賀
去ル閏四月中旬、林昌之助以下脱走之賊徒、其方城下通行之砌不埒之次第有之ニ付、屹度可被及御沙汰之処、全ク被処寛典、軍監両名被差立、諸事不行届無之様、精々尽力可致旨、厚寛恩之御沙汰ヲ蒙リ、就テハ為謝罪、闔藩奮励可致之処、其儀無之而己ナラス、五月上旬ニ至リ、又復林昌之助之徒、於函嶺再挙之節、直ニ賊党ニ降従シ、剰先キニ被差遺置候軍監中井範五郎始其他之官兵数名ヲ斬害シ、賊徒ヲシテ数日城下ニ滞留セシメ候段、反逆顕然候ニ付、問罪之師被差向御詰責相成候処、右者悉皆重臣渡辺了叟、吉野大炊助等之姦謀ヨリ出ル処ニシテ、於其方者不存趣申立候ト雖トモ、一体其方藩屏之大任ニ居リナカラ、斯ル重大之事件ヲ不存段、何分ニモ申訳不相立候ニ付已ニ城地所領等被召上、謹慎被申付置候処、今般出格之御仁恤ヲ以、其方儀ハ永蟄居申付、家名之儀者親縁之者御取立被為遊、更ニ七万五千石被下置候条、尚天裁之厚キヲ奉戴シ、心得違無之様可致旨御沙汰候事
九月
大久保加賀
家来共ヘ
先般閏四月中旬、林昌之助以下脱走之賊徒共城下通行之節、不届之儀有之候得共、偏ヘニ寛典ヲ旨トシ、其侭ニ被差置、却テ軍監両名被差立、精々勉励可致旨、厚キ御沙汰有之候処、五月上旬、右之賊徒又複於ニ函嶺再挙之砌、一藩直ニ賊ニ応シ、軍監及官兵数名ヲ斬害候段、不埒之至、主人加賀藩屏之職ヲ失候段、不軽次第ニ付、已ニ城地并所領等被召上、謹慎申付置候処、今般出格之御仁恤ヲ以、加賀永蟄居申付、家名御立被為遊、七万五千石被下置、小田原城御預相成候条、主家親縁之者ヲ撰ヒ、其段申出候様可致旨御沙汰候事
九月
関宿藩
其藩脱走之家来共、追々自訴候ニ付、入牢申付置候趣、然ル処、今般悔悟自訴之輩者、罪科一等ヲ被減候条、右之者共、於居宅謹慎可為致旨御沙汰候事
九月
吉井四郎
其方事、先般父吉井顕蔵復讐之儀、願出有之候処、右者於常典難相済候得共、孝子之情難黙止被為思食、罪人小原彦蔵、小田竜兵衛、武州鈴ケ森ニ於テ斬首候条、太刀取可致旨御沙汰候事
九月
彦根藩届書
九月十四日八字ヨリ、賊城進撃ニ付、弊藩分隊人数、桂林寺口、融通寺口等ヨリ、諸藩一同進入候処、賊烈シク防戦致シ候得共、急速進闘、終ニ外郭乗取リ、十二字頃止戦仕候、其節分取并味方死傷等左之通
臼砲一門 舶来ミニヘル玉三千位
討死 陣場方取調役 小倉健輔
同 青木十郎次隊 本山長五郎
同 陣場方軍夫 文吉
手負 使番 今村彦四郎
右当日若松城攻之節、如此御座候以上
九月十八日 彦根藩 河手主水
宇都宮ヨリ来状之写
小簡謹啓仕候、然者私儀過日申上候通、若松表ヘ出張、彼之模様一見候処、実ニ哀レナル事、言語難申陳次第、外曲輪ノ十六門、虎口不残十四日ニ乗取リ、二重三重ニ取囲ミ、大小砲昼夜連発、堂々不可犯勢、実ニ勇敷事ニ有之、賊ハ本丸ニ退縮、弾薬乏シキ歟折々少々ツツ発砲有之迄ノ事ニ有之、内々軍議モ承リ候処、未タ北陸道ノ官兵、不残繰込不相成候ニ付、諸道総着ノ上、取掛リ相成リ候趣ニ御座候、当時ノ人数ニテ総攻相成候得者、一日モ保チ申間敷ト相見ヘ候勢ニ御座候、是ニハ何歟略ノ有之事ト愚考致シ候、帰邑ノ上承候ニ、中村半次郎殿ノ戦場諸隊ヲ指揮候ヨリ、其他臨機処置ノ敏ナル事、実ニ感服ノ由云々
右書面認中、丸山善兵衛早追ニテ帰着候処、当廿二日、肥後父子降服ノ歎願、米沢人ニ手寄リ差出シ、御聞届ニテ、即日中村半次郎殿本使ニテ入城、彼是応接有之、右父子某寺ヘ謹慎、器械不残差出シ、兵隊ハ不残猪苗代ヘ立退候様、御沙汰相成候由ニ御座候云々以上
九月廿四日夜 宇都宮ヨリ 戸田三左衛門
県勇記殿

九月十九日、会津降参ノ使トシテ、手代木猶右衛門、秋月悌二郎儀、上杉家人数江願出候趣ニ而、縄懸候而、土州参謀江差出、同廿日右両人帰城被差免、同廿一日暁ヨリ、城中ヨリノ発砲無之、乍併官軍固場ハ不相替探砲有之候処、同夕刻会津在陣ノ参謀ヨリ、明廿二日十字過ヨリ、諸藩固場探砲候様被仰渡、尤襲来又彼ヨリ打懸候ハヾ、発砲候様通達有之候ニ付、廿二日四ツ時ヨリ砲発見合、十二字ニ至リ隆参、為応接中村半次郎殿、副使ニモ可有之哉山県小太郎殿附添大手門内迄被罷出候節、為迎降参旗一本立、羽織着之者三人扣居テ先立ス、北出丸外石垣下江幕打廻シ、先方補理置候場所江案内ス、其内手代木、秋月又出迎、幕内ヘ同道、其上ニ而会二君ヲ秋月呼出候間、二君共上下ヲ着、無刀ニテ罷出、菰ノ上ニ平服シ、秋月手代木両人ヨリ申立候趣ニハ、廿二日夕七ツ時前、城中ニ有之器械不残相渡候筈、引続二君并家族之分ハ、城下明国寺ヘ引取、蟄居之筈、尤官軍ニ而護送之趣、藩士ハ一同翌廿三日猪苗代江引取之筈、護送之儀ハ前同断、諸方口々分散罷在候兵隊ハ、追々呼寄度申出候事
右同藩丸山善兵衛、早追着ノ上差出候書面ノ略

鎮将府日誌・明治元年18号

鎮将府日誌 第十八
明治元年戊辰九月
薩州藩届書
藤原口ヘ出陣仕候弊藩一小隊、当月二日未明ヨリ、会津若松ヘ六里余有之大内村繰出シ、同所ヨリ二里余ノ場所、関山ト申要地江賊兵本道ヲ中ニ置、左右ノ山岳ヘ伏居候間、弊藩并宇都宮、黒羽、館林ノ人数、山岳本道江分配致シ、弊藩先鋒トナリ、九ツ過ヨリ烈敷及戦争候内、隊長山田司儀モ討死仕、其外死傷左之通御座候得共、尚夜伴時分迄奮戦仕、其内手詰ノ戦モ有之、賊ノ首級六七打取、其外打捨等モ多分御座候得共、深山ノ際ニテ、其数不相分申候、同夜々中番兵致シ、只今ヨリ直ニ若松城下ニ進撃ノ筈御座候、此段不取敢御届申上候以上
戦死 山田司
浅手 柏原治左衛門
浅手 柚木正次郎
深手 伊藤正助
浅手 福永十郎
深手 福永十次
浅手 松田源之丞
深手 福永矢七郎
深手 丸野仲次
同 日高喜次郎
浅手 壱岐正之進
浅手 牧与左衛門
深手 松田宗次郎
以上
九月三日 薩州監軍 上原善蔵
国分藤之丞
中村藩届書二通
去月廿八日御届申上置候山中玉野村後一盃森西ノ方峰々三ケ所江仙賊陣取、致砲発候ニ付、兼テ相固居候半野嘉左衛門、小島万之助鳶惣右衛門三組駆付、夕八半時頃ヨリ及戦争、猶憤発、七時過嘉左衛門一手西ノ方高山ヘ登、横打仕、万之助、惣右衛門二手者、賊ノ陣下ヘ押掛、手詰ニ及、猶為応援狙撃東ノ方ヘ横矢ニ相迫候様子ヲ見受、賊乱足ニ相成候ニ付、烈数追打、日暮ニ至賊徒敗走仕候、此節味方狙撃隊鳶宗右衛門組辰治ト申者浅手負申候、此段早々御届申上候以上
九月八日 相馬因幡家来 植松善司
去ル九日旗巻屯集ノ賊、青場迄進撃可仕ノ旨、御沙汰ニ付、相馬一小隊、小野口嚮導ニテ、御親兵并因藩合兵仕、夜半蠅坂絶頂国境ノ山径ヘ相詰候処、味爽ヨリ旗巻口砲声相聞候ニ付、直ニ同所ヨリ進、砲台四ケ所ヲ撃破リ、勢ニ乗シ、旗巻嶺上屯集ノ賊ヲ横矢ニ撃掛、暫時砲戦仕候処、賊陣営ヲ自焼シ、逃去候ニ付、初野口進撃ノ兵ト合シ、大内村迄追詰、賊兵尽ク委靡潰散仕候、一旦青場迄引上猶又御使番磯部鹿之進殿御指揮ニ随ヒ、旗巻迄引上、大内口江戍兵差置、相固申候
同日夜半、相馬一小隊初野攻口、長州、館林両藩嚮導トシテ、椎木、百牧田ヨリ山脇ノ隘路ヲ潜行シ、未明御殿場山上賊、第一番ノ砲台ノ側迄忍入、賊ノ戍兵二人ヲ斬斃シ、遂ニ長兵ト合シ、第二、第三ノ砲台ヲ打破リ、旗巻関門ノ脊ニ出、暫時砲戦仕候処、賊陣営ヲ自焼シ、逃去候ニ付、小野口進撃ノ兵ト合シ大内辺迄追討、賊委靡潰散仕候、依之青場迄引揚、磯部鹿之進殿御指図ニ随ヒ、同所ヘ宿陣仕、金山口ヘ戍兵差出、相固申候
一昨十日、相馬四小隊三本松ヘ固居候処、御進撃ノ御指図承候ニ付、為応援鶏鳴出発仕候処、伏兵腹背ニ相起候ニ付、一軍決死苦戦仕候而遂ニ賊徒ヲ追払、旗巻嶺上間道ヨリ、大内村迄進撃仕候得共、賊潰散ニ付、青場迄引揚、夕刻三本松ヘ帰営仕候、尤手負、討死分捕等、左之通御座候
討取賊六人
生捕三人〈但内一人荒川良作組儀左衛門生捕之、同二人ハ直ニ斬首仕候〉
弾薬六箱
西洋太鼓一ツ
旗一流
討死 引地次郎右衛門
深手 浜名庄喜右衛門
浅手 桑折五左衛門
同 高野運治
同 今野増也
右之通御座候間、此段御届申上候以上
九月十二日 相馬因幡家来 泉田豊後
館林藩届書
本月九日夜十一字、黒木村ヘ各藩勢揃、御軍配之通長州藩及中村藩、弊藩ノ人数合併、第二字頃同所進軍、初野口裏間道山手ヨリ進テ旗巻嶺下ニ至、各藩人数左右ノ山上ヘ攀登、魚貫シテ進、払暁第六字一点頃、左右山上ヨリ各藩砲発、賊屯ヲ掩襲仕候処、賊亦砲射致防戦候ニ付、山上乗越々々進撃仕候、先是御使番磯部鹿之進殿ヘ申上、御指図ヲ受、弊藩大砲隊、初野口本道ヨリ相進、期約ノ如ク山手ノ砲声ニ応シ、払暁崇嶺ノ胸壁ヲ目撃、烈敷砲発仕候処、一旦賊兵二百許致防戦候ヘトモ、忽散乱仕候ニ付、大砲相進候処、道路険阻、砲車不便ニ付、砲車ノ人員分隊、小銃ヲ以賊之関門ヘ進撃仕候、然ル処、左山ヨリ烈敷進撃仕候兵隊、長州藩ト共ニ苦戦、弊藩隊長青木三右衛門、終ニ戦死仕候、長州藩遂ニ賊ノ砲塁ヲ攻抜、先登ニ続テ弊藩人数尽力仕、長州藩ト共ニ賊塁ヲ攻破仕候、然ル処因州藩小野口ヨリ進、横撃、終ニ賊兵逡巡狼狽、賊自営ヲ焼テ敗走仕候、乗勝、各藩ト共ニ青場村迄追討仕候、賊悉退散ニ付、同所為警衛一中隊相残、為応援出兵ノ増人数ハ、本陣ヘ引揚申候、当日戦死、手負及分捕等、別紙書面ノ通御座候、此段御届申上候以上
戦死 隊長 青木三右衛門
同 青木三右衛門隊 田口虎輔
同 小俣七郎隊中 田口曽右衛門
深手 同〈帰営後死〉遠藤彦十郎
深手 高山幹隊中〈大病院ニテ死〉藤崎栄造
深手 小俣七郎隊中 佐藤清松
同 小俣七郎隊中 間仁田寅次郎
浅手 同 樽見久次郎
浅手 同 内田米次郎
〈所在生死共ニ不知〉 青木三右衛門隊中 大友釚四郎
大砲三門
小銃六挺
大砲榴弾七放〈内尖弾六放円弾一放〉
小銃弾薬三箱
刀一腰
討取賊兵三人
右之通御座候以上
九月十三日 館林藩 大陽寺内蔵介
因州藩届書
過ル十日、旗巻峠其外所々ニテ、賊兵追撃致シ候節、左ノ通分捕致シ候、此段御届申上候
大砲一門
火縄筒三十一挺
小銃弾薬二十二箱
右之通ニ御座候以上
九月 因州藩 和田壱岐
長州藩届書
当月九日夜十一字中村発途、黒木江相揃ヒ、二手ニ分レ、因州藩、御親兵ハ左手ヨリ進撃弊藩二中隊、館林一中隊ハ、中村藩嚮導トシテ百枚田村ヨリ相進、一中隊ハ鬼石山ノ後山ヘ登リ、家老山ノ賊動静ヲ相窺ヒ、夫ヨリ進撃、一中隊ハ館林一小隊ト間道ヨリ、山上ノ台場ヘ間近ク相進ミ候得共、明方故賊モ油断ノ体ニ相見候間、急襲致候処、賊不克支、大砲等モ捨置、散々遁去申候間、夫ヨリ数ケ所ノ台場ヲ乗取候処、終ニ旗巻陣屋江火ヲ放チ、悉ク敗走致候間、大場村迄尾撃致候得共賊一人モ相見不申候故、青場村迄引揚宿陣致候、此日死場左ノ通リ
深手 補助長官帰営後死 美和内蔵主
即死 国司四郎三郎隊 吉田金槌
即死 同 佐甲安兵衛
手負 同嚮導 長安四三二
手負 同兵士 原田助一
同 同 阿部利吉
同 同 吉岡五十吉
同 同 安藤久三郎
同 同 柴田友之進
同 同 河村太熊
同 同 益森秀太郎
同 同 米田素次郎
同 同 山川常吉
同 同 守兼力之助
同 夫卒 長吉
右之通御座候間、此段御届申上候以上
九月 長州草薙軍々監 飯田竹二郎
○九月十九日御達書
伊豆、相模、其外ヘ宮公卿等之名目ニテ、鎌倉五山其外ヨリ、民間ニ貸附金相成居候ヲ元利取立候向有之趣ニ候処、当春以来兵事、夫役并水損等ニ而百姓共必死難渋不忍見折柄、右様之事有之、此末流離亡散ニ立至候而者、不容易次第ニ付、追而御沙汰候迄、利銀タリ共取立候儀、総而不相成候事
但僧侶ハ就中慈悲施恵ヲ旨主ト致候者ニ候処、当年柄、民生ヲ苦メ候而者、別而不相済儀ニ付、心得違無之様、配下末々ニ至迄急度可相達事
九月
御沙汰書
来ル廿二日ヨリ、府内社寺諸願伺届等、惣而東京府ヘ可差出旨御沙汰候事
府内社寺之儀、別紙之通御沙汰相成候、就而者府外之儀モ、予而御布告相成居候通相心得、来ル十月朔日ヨリ、諸願等其所部之府藩県ヘ指出可申候事
但勅祭之大社等、直ニ鎮将府ヘ願書等指出候向ニテモ、一往其所部之府藩県ヘ申達添簡ヲ請候上、可差出候事
九月
○同廿三日御沙汰書
西尾隠岐守
高四万三千五百六十石余
安房国〈平郡 朝夷郡 長狭郡〉
上総国〈望陀郡 周准郡〉
右者先般上知被仰付置候代知トシテ、頭書之通下賜候旨御沙汰候事
九月
田沼玄蕃頭
高一万千二百七十石余
<上総国 天羽郡 周准郡〉 右同文 増山対馬守 高六千八百五十石余 <上総国周准郡>
右同文
井上河内守
高六万二千百石余
<上総国 市原郡 植生郡 長柄郡〉 右其方領知、下総国、下野国領知高、今般上知被仰付、右代地并先般上知被仰付候遠江国領分為代知、頭書之通下賜候旨御沙汰候事 九月 太田備中守 高五万三千三百石余 <上総国夷隅郡>
其方伊豆国領知高、今般上知被仰付、右代知并先般上知被仰付置候遠江国領知為代知、頭書之通下賜候旨御沙汰候事
九月
大久保中務少輔
高九千八百六十石余
<相模国愛甲郡>
其方伊豆国領分高、今般上知被仰付右代知并先般上知被仰付置候駿河国領分為代知、頭書之通下賜候旨御沙汰候事
九月
大河内刑部大輔
高六千六百八十石余
<上総国望陀郡>
右者先般上知被仰付置候代知トシテ、頭書之通下賜候旨御沙汰候事
九月
松平和泉守
高五千百八十石余
<安房国 平郡 長狭郡〉
右同文
同日御布告書
一、大小藩共郭内ニ而屋敷一箇所宛
一、郭外者十万石以上二ケ所、其以下万石迄一箇所宛
右書面之通此度被下候事
一、但是迄受領屋敷、引続拝領相願候向者、郭外計ニ而モ、勝手次第タルヘク候、尤南ハ芝口川通リ、東ハ大川端通リ、郭内ト相心得可申事
九月
一、郭中屋敷者、家作トモ被召上候事
一、郭外屋敷地者、被召上家作之儀者、出格御慈悲之思食ヲ以被下候事
右先達而相触候内、書面二廉ハ、徳川家臣ヘ申達シ候儀ニ而、列藩関係無之候ニ付、為心得尚相達置候事
九月

鎮将府日誌・明治元年第17号

鎮将府日誌 第十七
明治元年戊辰九月
太政官被仰出書
東京行幸御出輦、来ル廿日御治定之事
九月
○九月十四日御沙汰書
徳川家脱艦美加保丸、下総銚子湊ヘ漂着、同所ヘ上陸、処々ヘ散乱之内、榎本和泉、成瀬藤十郎、大河八十郎、中原登、人見勝太郎、大原金五郎、伏見喜之助、本山小太郎、中根造酒之助、外撒兵之者、奥州表ヘ逃去候趣、召捕乗組之者及白状候、右之次第ニ付、各藩申合、厳重探索、取締可致候事
九月
先般脱艦美加保丸、為風波下総銚子湊ヘ漂着候処、乗組人数之内、多分溺死、其余上陸散乱致シ、猶土浦藩五十人余召捕、猶又墨田川ニ於テモ召捕数十人ニ及ビ、其余沈没モ不少候、然処、残賊共終ニ総房之間ヘ漏伏致シ銘々小銃ハ所持致シ候得共、最早弾薬ハ有之間鋪、各藩申合、精々捕縛方尽力可有之候事
九月
○同十五日御沙汰書
勅使警衛兵隊
今般鷲尾侍従帰京ニ付、附属守衛可致旨御沙汰候事
九月
伊州藩
其藩兵隊、神速奥州中村表ヘ出張、一分隊ト交代可有之旨御沙汰候事
九月
大河内右京亮ヘ
先般脱艦之賊徒、其方領分、総州銚子浦ヘ漂着、上陸之砌、取締向等閑ニ相心得、数日滞留為致、其末脱走、所々及横行候段、全其藩不行届候条、依之謹慎可有之旨御沙汰候事
九月
新庄容丸
兼而御沙汰モ有之候徳川家脱艦之賊徒、去ル二日、其方在所於麻生表上陸之節、取締モ無之、一泊為致、跡ヨリ討手差出候趣、瞹眛之取計、不行届之次第、屹度可申付品モ有之候得共、今般ニ限リ其侭被差置候条、以来心得違無之様可致旨御沙汰候事
九月
関宿藩
兼而御沙汰モ有之候脱走之賊徒共、其藩取締場所総州野田村ヘ罷越候節、人数繰出シ候得共、賊徒ヨリ被及発砲候ニ付、兵隊散乱、追捕方全不取締、不都合ノ趣相聞、以之外之事ニ候、以来右様之不行届無之様、屹度相心得可申旨御沙汰候事
九月
二本松ヨリ来状
聖上益御機嫌能被為渡、恐悦至極奉存候、各官方弥御安全珍重存候、然者公董儀、一昨十日二本松ヘ着陣仕候、此段御届申上候二本松旧主丹羽左京ヨリ、別封歎願書、備前持場番兵所ヘ指出候ニ付、参謀渡辺清左衛門段々取調候処、相違無之旨、尚評議之上、右一紙写シ通達致置候、尤先達御布告通、器械弾薬取揚、本人東京ヘ護送可仕ハ勿論ニ候得共、何分即今一人ニテモ入用ノ兵隊ニ候間、迚モ其運ヒニハ難相成、且左京儀ハ昨夏以来大病、追々快気ノ方ニ候得共、全快ト申程モ無之趣ニ候、器械ノ儀、只今取揚ハ易ク候ヘトモ、実功相立候モ、指当器械無之候而者不相叶候間、是又評議之上、暫預置候是ハ段々情実モ有之、米藩ト共ニ賊徒防禦之為メ、福島辺ヘ出張仕居候趣ニ候
米沢謝罪歎願書、昨今指出筈候処、仙台ヨリ願ノ儀モ有之、彼是遅延ニ相成居候由ニ候越後口督府ヘハ、過日息男軍門ニ降伏罷出居候趣ニ候間、相違無之ト存候
右二ケ条、巨細ノ儀ハ清左衛門ヨリ、大村、吉村等ヘ逐一可申候間、委曲御聞取可被下候、其余米沢以下情実モ、両人ヘ同人ヨリ可申入候、仍早々如此、今日ハ当表固場等所々巡見罷在候ニ付、甚繁多取紛居、要用迄申入候、福島屯集ノ賊ハ、不日必戦争ニ可及ト存候、尚後便可申入候、乱筆可被免候也
九月十二日 公董
大総督府参謀御中
二本松歎願書
今般私儀、名分順逆ヲ誤、奥羽各藩同盟仕、奉抗官軍、終ニ土地人民ヲ失ヒ、何共可奉申上様無御座、深奉恐入候、上杉弾正儀ハ、同盟最寄ノ儀ニ付、一先米沢表江罷越候処、同藩ヨリ厚叡慮ノ程奉伝承恐愕至極奉存候、素ヨリ奉抗敵朝廷候存念毛頭無御座候得共、旧邑ノ儀ハ、全遠境ニ罷在、春来天下ノ事情モ隔絶仕リ、恐レ多モ厚キ叡慮ノ程モ、具ニ不奉伺、一時ノ行違ヨリ、終ニ今日ノ仕儀ニ立至候段、誠ニ以奉恐入、先非悔悟仕候、随而者兵器悉皆指上、旧領寺院ヘ立戻リ、恭順謹慎罷在、家来末々迄、急度謹慎申付、奉仰朝裁度奉歎願候、此上者御寛典之御所置被成下候様、偏ニ奉歎願候、誠恐誠惶謹言
九月 丹羽左京
日野源太左衛門
左京歎願之趣、委細被遊御聞届候、就而者即今之実効相立候様可致、依之猶御沙汰候迄之間、銃器者其許ヘ御預ケ、左京者旧領寺院ヘ謹慎可罷在旨可相達、此段被命候事
但器械弾薬目録可差出候事
九月 白川口総督参謀
肥州藩届書
本月朔日、藤原ヨリ弊藩進撃之兵隊、於大内峠賊徒追掃之砌、戦死、手負之人々最前御届仕置候処、左之人々致手負、相洩居候段、出先之隊長ヨリ申越候ニ付、今又御届仕候以上
入江兵之助
足軽 中島治兵衛
内田伊吉郎
軍使局小使 一人
九月 肥州藩 深川亮蔵
彦根藩届書
九月五日越後口屯賊追払候様御沙汰ニ付、弊藩人数若松表出発、高久保村近傍所々ニ於テ、諸藩斥候隊ニ相加リ、賊徒追却、直様船渡村ヘ進撃仕候処、賊徒共同村山手川筋等所々ニ散布、砲発致候ニ付、急速進撃、双方共追却仕候、其節討取、分捕、味方手負等、別紙之通ニ御座候、右若松表出先分隊ヨリ申越候条、此段御届申上候以上
首一ツ 青木十郎次隊 奥田本次郎討取之
同一ツ 三浦九右衛門隊 北村勝之進討取之
同一ツ
大砲一門 但旋条砲
大砲玉  二十七
合薬 六十貫目
手負 三浦九右衛門隊 小林良之輔
同 平田賢造
同 鯰江銀蔵
同 小沢種次郎
右者九月五日、若松表ヨリ船渡村ヘ進撃之節討取、分捕、味方手負ニ御座候以上
九月 彦根藩 河手主水
○九月廿日御沙汰書
先般以来徳川旧臣共、御扶助相願候者、御採用被為在候ニ付、同家重役共ヘ、取調可申出、猶又銘々直キニ可願出旨、懇ニ御沙汰相成候処、今以方向取失、或ハ一時邪論ヲ主張シテ奉命不致、今日ニ至リ、自巳之活計ニ差支候ヨリ、追々願出候者モ有之趣際限モ無之而已ナラス、右様心得違之者、不埒之至ニ付、御奉公願出候者、来ル廿五日限タルヘク、其以後願出候者ハ、一切御採用無之旨御沙汰候事
九月
久留米藩届書追録
昨十六日九字頃、仙賊新地街道富倉村左右ヨリ、遽ニ襲来候ニ付、直ニ人数繰出シ、一手ハ駒ケ峰ヘ攀登リ、一手ハ大砲一門并銃隊ニテ、本道右手ヘ撃出、一手ハ相馬藩一同、峰ノ左山上ヘ出、孰モ発砲仕候、賊ハ多勢、箇所手広候ニ付、分配手ヲ尽シ苦戦仕、三字三点頃ニ至リ、賊徒駒ケ峰東北山上谷合等ヨリ頻ニ峰頂ヘ砲撃相進候ニ付、一際発砲奮戦仕其内長州ノ応援ニ付、弊藩一分隊合併、賊屯集ノ左ヘ出打払、諸手一同進撃仕候央、因州本道ヨリ応援仕、五字ニ至、賊徒悉ク追払、番兵相残、駒ケ峰陣所ヘ人数引揚申候、同日目前打留候賊徒、凡二十五六人モ候半、其他多分可有御座候得共、山林深樹等ニテ、相分兼申候、則討死、手負、且分捕之品左ノ通御座候、猶各藩ヨリモ御届可申上候、此段御届申上候以上
討死 島直隊 弥長貞蔵
同 同 岩佐四郎
同 同 武藤利右衛門
深手 軍監附属帰営後死 山崎政吉
深手 岡田平八隊帰営後死 村田熊蔵
同 島直隊 堀田九郎
同 飯田冬太郎
同 小沢文太夫隊 山口寛平
同 宗小次郎附属 北川内庄五郎
浅手 上田兵次郎隊 田中貞太郎
浅手 岡田平八隊 田中松次郎
同 永尾竹五郎
同 島直隊 近藤清左衛門
同 石田喜蔵
分捕品左之通
鎗二筋
刀二本
脇差一本
鉄砲四挺
八月十七日 久留米藩 有馬蔵人

(以下OCR追加)

補正
鎮将府日誌第十五ノ冊二葉目二在ル増虎之助ハ増田虎之助ノ誤リナリ

太政官日誌・明治元年98号

太政官日誌 第九十八
明治紀元戊辰年秋九月

【伊達遠江守、阿部主計頭、賜暇ノ事】
九月廿九日御沙汰書写二通
伊達遠江守
其方儀上京後未タ日数モ不相立殊ニ御東幸御留守中ニテ御警衛モ被仰付置候得共先達而以来多人数諸方出兵ニ付別段之思食ヲ以御暇被下候事
○阿部主計頭
同文
九月
【富山藩ヘ感状ノ事】
同日冨山藩届書写
弊藩越後出兵之者共ヘ御総督府ヨリ為御褒賞別紙之通御目録等頂戴被仰付候段出張先ヨリ申越候ニ付此段御届申上候以上
九月廿九日
前田稠松家来 高沢覚馬
別紙写
去十日已来於処々賊軍追討昼夜苦戦之趣相聞令感佩候依之為犒軍聊酒肴差贈候此段惣軍ヘ可達者也
五月
隆平 花押
永祐 花押
冨山隊長江
別紙之銘々勇戦被創候之旨苦悩察入候依之聊為療資目録差遣候也
五月
隆平
永祐
冨山隊長江
別紙手負之者共左之通
金千三百匹宛
〈冨山藩〉上林善六 黒田千之丞
牧砲二郎
坂井弥右衛門
以上
一御酒 三斗六升
一大勝男武士 七本
右従太政官永陣ニ付頂戴被仰付候
六月
一カタクス粉 三袋 一白砂糖 三袋
一御札 五十八枚 一御神酒
一御鏡
但於与板八幡宮従朝廷御祈祷被仰付候御札等也
右従朝廷頂戴被仰付候
一御酒 一石六斗五升
一鯛 十六尾〈代八両〉
右従総督府頂戴被仰付候
六月
長岡城城後連戦無虚日殊ニ悍強之賊ト対塁連旬不得休息遂苦戦候段実不堪感激因馳一夫聊慰軍労候尚直様朝廷ヘ可及奏聞候也
六月十八日
永 花押
公 花押
冨山隊長中
右於関原駅高倉殿西園寺殿御旅館ヘ渡瀬守馬御呼出御両卿御目通御直ニ被渡下候
六月
冨山兵隊
手負之者江
此程中連戦已ニ及手負当所病院ニ養生罷在候輩宮御方達御聴煩苦ヲ察シ被思召病状被尋下候
但砂糖七樽各藩手負一同ヘ被下置候
右之通被仰出候ニ付壬生殿夫々病院ヘ被差向候事
七月十三日
【会城総攻撃始ル】
同日大垣藩届書写
八月廿三日会城ヘ討入奮激城ヲ攻ルト雖モ一時ノ力戦ニハ難及候ニ付四方ノ出口ヲ各藩持固メ諸道ノ官軍入来ルヲ待テ衆軍挙テ攻撃可致ト会津市中ニ屯営罷在其中賊兵城中ヨリ折々出テ官軍ヘ討テ懸リ候得共悉ク追払討取モ多ク御座侯然処本月十日迄ニ諸道ノ官軍打入ニ相成各藩合併致シ候間同十四日八字ヨリ各藩挙テ攻城可致之旨前夜参謀衆ヨリ御内達御座候依之長州並弊藩ハ桂林寺辺持場之儀ニ付其侭同所ヨリ討入可申尤賊兵右桂林寺口辺ニ胸壁ヲ築立諏訪社ノ森ヲ小楯ニ取テ多人数防禦致居候様子故桂林寺口ヲ正兵トシテ向ヒ大町口ヨリ奇兵トシテ横撃可致ト両藩軍議ノ上前算ヲ設ケ置弥当日八字ヨリ右ノ如桂林寺口ヨリ進撃致シ大小砲烈敷打立一時ニ突進致シ候処敵モ小銃ヲ以テ防戦致シ居候折柄両藩ノ分隊大町口ヨリ土手ヲ伝ヒ不意ニ賊中ヘ衝入候間賊ハ大ニ度ヲ失ヒ諏訪社ノ森ヘ引退申候猶森ノ脇河原町門ヨリ日光口ノ官軍モ討入賊ノ左右ヲ夾撃及ヒ候ニ付大ニ狼狽散乱シテ多ハ二郭内ヘ逃込申候夫ヨリ其辺ノ地形ニヨツテ城中ニ向ヒ胸壁ヲ築立桂林寺口ヨリ河原町口辺マテ総テ三ツ之小路有之候ヲ長州並弊藩ニテ持固メ十四十五日無間断大砲ヲ以テ城門矢倉等ヲ打立四方各藩ニテ厳敷周囲シ城中ヘ打入ヘク勢ヒニテ罷在候乍去必死ノ賊故憤怒ノ防戦意外ニ堅ク一時ニハ落城致ス間敷候得共近日力挫ケ弾尽テ可陥右両日攻城ノ戦状如斯尤弊藩人数死傷別紙之通御座候段出先ヨリ申越候此段御届申上候以上
九月廿九日
戸田釆女正家来 壮合渚之介

〈九月十四日〉
死〈銃隊〉米山休左衛門 武藤菱之助
傷〈銃隊伍長〉小倉喜代二 〈銃隊〉馬淵己之助
安藤良之助 清水保吉
〈大砲隊〉細野隼太 〈器械持夫〉一人
〈同十五日〉
同〈銃隊〉白木謙次 上田清之助
臼井勝之助 〈器械方中間〉一人
〈同七日夜賊ヨリ流弾ニテ傷〉
〈銃隊〉大場孝次郎
右者会津攻城ニ付弊藩人数ノ内死傷書面之通御座候以上
九月廿九日
戸田釆女正家来 壮合渚之介
【羽越国境府屋、鼠ケ関附近ノ戦】
同日足守藩届書写
去月十九日与坂三日月小松峰山弊藩都合五藩兵隊卯刻出立海岸通路筋探索之上脇川寒川越沢村ニ屯シ芦谷勝木田中等之近村探索之上報知可致之旨依御達則村上表出立海岸通探索之上同廿一日寒川ヘ着陣所々探索仕委細御中軍ヘ申上候同廿二日寒川ヲ出立シ間瀬村ニ宿陣ス五藩越藩兵隊ト組合大崎山ト申所ヘ台場ヲ築右六藩固守罷在候処同廿三日暁賊徒進撃ニ付与板三日月小松峰山弊藩間道ヘ進軍仕候様御指揮ニ付下大鳥村ヘ転陣同廿六日暁惣進軍ニ付五藩ニハ越藩一小隊ト合兵高畑越間道ヘ進軍可仕旨依御達則六藩三手ニ相分ケ小松弊藩ハ杉ノ平村間道ヨリ高畑越之方ヘ探索乍仕進軍途中岩石村ノ方ニ当リ砲声相聞候ニ付直様駆廻リ敵ノ後ヲ遮リ候積ニ御座候処其内砲声相止候ニ付斥候三四人差遣候処三日月藩峰山藩及戦争賊徒敗走シ追々高畑越ノ方ヘ退候様子ニ見積リ帰リ則右辺ヘ相進候処岩石村山上ニテ越藩ニ出合三藩申談高畑越ヘ進撃仕リ候処敵屯集ニ付弥及砲戦候処何分難所ニテ其上地理不分明大ニ苦戦仕台場近辺迄押寄賊九人ハ合討仕候得共小樹萱繋茂如何ニモ難所ニテ難進殊及日暮候ニ付一先府屋町迄揚取申候尤其節討死手負並死生不分明之者別紙之通ニ御座候当日戦争之次第ハ御中軍ヘ御届申上候段出兵先之者ヨリ申越侯間此段御届申上候以上
九月廿九日
木下備中守家来 河原恰

討死 石橋弁九郎 深手 竹下鹿十郎
浅手 安藤新吉 有松喜右衛門
死生未詳 橋本惣右衛門
右之通御座候以上
九月廿九日
木下備中守家来 河原恰
同日越前藩届書写
北越出張先弊藩家来ノ者鼠ケ関ヨリ来状写
然者粕谷外次郎帰着ニ付村上迄之様子御承知被成候旨其後ハ小島逸八鈴木蕃戦地ノ模様見分罷帰候間追々御承知可被成賊兵ハ国境海山ノ要地ニ拠リ防戦候故攻撃不利当時持場所相固居機会ニ乗シ致進撃度昼夜苦心罷在候事ニ候十一日ニハ中継ヨリ進撃ニ相成候処関川ヘ討入候薩長高鍋ハ雷村ヲ攻破リ関川迄都合能打入候由中継ヨリハ四里程有之極難所ヲ不厭得勝利喜悦ノ事ニ候中継ヨリ小牧ノ方ヘハ十一日手後レ十二日朝進撃ニ相成候処賊兵山上処々ニ砲台ヲ築終日砲戦而已ニテ七半時項中継迄兵隊ヲ引揚候由右進撃中両日浜手モ兵隊ヲ繰出シ大斥候ヲ出シ大小砲打合候得共賊兵モ益兵隊ヲ操出シ動揺ノ姿モ無之候故唯勢援而已ニテ七時過兵隊引揚之事ニ候先朔日後外ニ異条無之候会津ハ諸隊若松城下ヘ攻入家中不残焼払裸城ニ相成無程落城可致存外早ク埒付候事ニ候米沢モ降伏之由左候得ハ孤立之庄内無程打破リ可申吉左右御待被成候
一ヱンヘール銃百挺計御廻達ノ旨致承知候扨兼而相待候鉄製大砲十三日府屋町着ニ付早速台場ヘ為運賊兵ノ目ヲ為驚可申ト楽居候事ニ候此頃ハ次弟ニ荒気色海風烈敷浪高ク海岸兵隊屯所ヘモ折々浪打入困リ入候別而寒風難堪候故此手当ハ殆痛心罷在候御推察可被下候食物等モ山中海辺次第ニ乏敷小荷駄モ困窮之事ニテ一刻モ早ク埒付候様祈居候軍紛多忙先ハ御報如斯御座候以上
九月十五日
越前藩
考正
第七十一巻二葉ニ加藤出雲守
御東幸供奉輔相附被仰付候旨載録之トコロ右ハ御取消ニ相成改メテ鳳輦後衛被仰付備前兵隊ノ次ニ列ス

太政官日誌・明治元年97号

太政官日誌 第九十七
明治紀元戊辰年秋九月

【宇都宮藩、会城ニ逼ル】
九月廿八日宇都宮藩届書写四通
野州藤原村屯集之賊徒共兼テ御届申上候通去月七日暁弊藩宿陣罷在候西船生村ヘ襲来ニ付進撃仕追払候後近辺迄時々出没伺候ニ付当方ニ於テ要害ノ地ヲ見立竹木伐払入口ヘハ陶壁ヲ設ケ守禦益厳重ニ仕罷在候処去月廿一日藤原村ノ方ニ当リ火ノ手相見ヘ候ニ付何事モ不相分候得共人数差出候処賊徒金穀不便ニ御座候哉会津辺攻撃相迫リ候哉険要ノ陣営民家共不残放火自焼引払候ニ付跡見届候処外ニ相変侯儀無御座猶賊徒ノ行衛相尋候処会津領横川ト申候処ヘ引退候由ニ付人数引上ケ候上弊藩追撃可仕旨肥前藩ヘ申談候処弊藩ニテ先鋒相勤候様ニ付約諾仕其侭尾撃ト奉存候得共前路ノ儀ハ頗ル深山荒僻ノ地ニテ人家稀疎兵食モ無之ニ付用意仕候内廿二日日光山守衛ノ芸藩日光裏通リ六方道ヲ相進ミ候由廿四日ニ相成弊藩並肥前藩同道小百村ノ方ヘ進軍仕候段在所表ヨリ申越候ニ付於東京不取敢御届申上候趣申越候ニ付此段御届申上候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

先達テ御届申上候通去ル八月廿一日野州藤原村屯集ノ会賊陣営民家等自焼引払候ニ付翌廿二日船生村宿陣ノ弊藩兵隊差出場所巡邏見届仕候
廿三日賊退去仕候ニ付尾撃ノ軍議肥前藩ヘ問合候処外ニ見込モ有之候哉ニ相見ヘ此日進軍無之模様且芸藩ノ儀ハ既ニ今日進軍ノ由承及候ニ付進軍ノ用意仕候
廿四日弊藩五番隊七番隊一番隊大砲隊二隊八番隊十番隊ト順序ヲ立相進原村ト申所ニ着陣仕候
廿五日栗山峠ノ険ヲ越ヘ栗山村ニ着仕候処兵糧運送続キ兼村内ニ有合候稗蕎麦ヲ取集是ヲ以饑ヲ助ケ宿陣仕候
廿六日栗山出立兼テ西川村宿陣ト心組候処三依村宿陣ノ芸藩ヨリ急速応援ノ事申越候ニ付昼夜兼程ニテ山路ノ険ヲ越ヘ暁八ツ半時迄ニ惣軍五十里村ヘ着仕候処村内不残焼払有之野陣仕候
廿七日三依村ニ着陣芸藩ト相合シ候此村モ不残焼払人家無之野陣仕候
廿八日芸藩ト軍議両藩ノ惣兵三依村ヲ出立芸藩ノ勢ハ山ノ峠ヲ押シ弊藩ノ勢ハ先鋒ニテ正面ノ本道ヲ進ミ山ノ麓ヲ押シ糸沢ヘ着陣仕候此日横川村ニ於テ塩原口ヨリ相進ミ候大田原勢一小隊程芸藩ニ附属合隊仕候由ニ御座候
廿九日芸藩弊藩ト相分レ芸藩勢本道ヲ進ミ弊藩勢ハ糸沢村ヨリ高野村ノ方ヘ相廻リ候処賊兵相見ヘ候ニ付銃砲打掛候得共賊兵忽チ退散槍十筋小銃五挺旗一流〈浅黄地木爪紋〉棄去候ニ付取収メ難ナク相進ミ田島村ニ到テ芸藩ト相会シ宿陣仕候
晦日弊藩勢田島村ヲ打立朝四ツ時頃倉谷村ヲ過キ十五六町ニテ字松山ト申所ニ至リ候処賊ノ伏兵突然不意ニ起リ厳舗発砲仕先鋒ニ相進候五番隊戦死手負モ出来煩ル苦戦ニ御座候得共踏堪ヘ戦候処七番隊急ニ相進ミ応援五番七番両隊各半小隊宛ヲ分テ本道ノ左ノ原ニ出テ横合ヲ打八番隊追付右ノ原ニ出テ打立候内一番隊正面ニ当リ相進ミ五番七番十番引続キ合隊力ヲ併セ三方ヨリ敵陣ヲ目掛打立候得共敵兵モ必死防戦勝負不相分内大砲隊二隊進出打掛候故味方力ヲ得テ益奮戦仕候折柄芸藩勢追付烈敷大砲並小銃ヲ打出候ニ付賊兵辟易遂ニ支兼大内峠ヘ惣軍引退候ニ付両藩ノ勢追撃大内村ヘ進軍宿陣仕候尤分捕並死傷別紙ノ通軍中ヨリ申越候ニ付不取敢於東京御届申上候趣申越候ニ付此段御届申上候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬
戦死
〈一番隊長〉彦坂孝次郎 〈同隊士〉鳥居鈴吉
〈同隊士〉水田太津美 〈戸田内匠家来〉倉田弥十
深手
〈八番隊長附属〉山口弥太郎 〈銃兵〉足立藤一郎
〈五番隊司令士〉富永久米次 〈同嚮導〉平塚善蔵
浅手
〈士分〉和田六之進 〈五番隊銃卒〉原要之助
〈同〉斎藤倉平
右之通御座候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

去日晦日倉谷松山ノ一戦ニ賊徒敗走大内峠〈一名火玉峠〉ノ要害ニ引揚候ニ付官軍一同進テ大内村ヘ宿陣仕候処翌九月朔日大内峠ノ賊徒官軍宿陣ヘ襲来肥前藩先鋒芸藩弊藩一同繰出烈舗戦争ニ及ヒ賊兵敗走大内峠ヘ引退候ニ付続テ進撃仕候処賊兵不残峠ヲ逃下タリ関山村ヘ引退候ニ付一同大内峠ヘ宿陣仕候
翌二日芸肥一同進軍弊藩先鋒仕未明ヨリ操出シ賊陣関山村ヘ押寄砲戦ニ及候処賊徒同村自焼敗走仕候ニ付其地ヘ宿陣ト存候得共左右皆山ニテ地利モ不案内ノ儀ニ付再大内峠ヘ引揚宿陣仕候此日味方死傷別紙ノ通ニテ敵ノ首級四討取外ニ分取モ御座候由ニ候得共混雑中火急申越候ニ付委細ハ後便可申上旨不取敢於東京御届申上候趣申越候ニ付此段由上候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬
戦死
〈一番隊嚮導〉大沢冨三郎 〈同隊士〉島居鎌三郎
〈同〉間瀬半八郎 〈八番隊〉高橋春之助
深手
〈三番大砲隊〉久保千代之助 〈一番大砲隊〉加藤虎之進
浅手
〈一番隊士〉和仁吉郎 〈同〉小林鐐次郎
〈軍局小監察〉中島与七郎 〈十番隊〉宮田直三郎
右朔日大内峠戦争死傷
戦死
〈八番隊〉森田孫太郎 〈人夫〉一人
浅手
〈七番隊嚮導〉荒川平九郎 〈七番隊卒〉鈴木芳蔵
小野川金次
右二日関山村戦争死傷
右之通御座候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

首級 三 旗 三流
〈但一流ハ白地黒字東照大権現ト認有之外ハ白地ニ赤ク丸ニ大ノ字染付有之〉
ミ子ール 七挺 脇差 三腰
右ハ廿九日高野村分取ノ外ニ御座候混雑中ニ付大凡書上申候追テ明細ニ相分侯上可申上旨於東京御届申上候趣申越候ニ付此段御届申上候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

本月三日早天ヨリ官軍一同大内峠ヲ打立チ再関山村ノ賊陣ヘ押寄砲戦此日夜ニ入候迄烈戦頗ル苦難ニ御座候得共終ニ賊兵及散乱候ニ付其侭戦場ヘ野陣仕候
同四日未明ヨリ薩藩勢並弊藩大砲隊二隊ト順序ヲ立関山村操出シ途中ニ於テ及戦争敵陣乗取続テ進撃会城ヨリ半道手前本郷ト申所マテ追詰候処賊兵大敗川ヲ渡テ散乱侯ニ付同所ヘ宿陣仕候右両日共官軍勝戦ニ御座候且芸肥並弊藩勢ノ内四隊ト連日之苦戦故此日休軍仕候
同五日総軍本郷出発川ヲ打渡リ会城ヘ攻撃相迫候手筈ノ由申来候
右戦争ノ節味方死傷別紙ノ通ニテ分取モ御座候由ニ候得共混雑中火急申来候ニ付委細後便可申上旨不取敢於東京御届申上侯趣申越候ニ付此段御届申上候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬
戦死
〈二番隊銃兵〉唐沢孫平
深手
〈二番隊銃兵〉鶴牧彦輔
浅手
〈二番隊長〉桜井壮蔵 〈九番隊銃卒〉阿部美喜蔵
右之通御座候以上
九月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬
【奥州川原田村ノ戦】
同日館林藩届書写
六月廿九日奥州金山表ヘ出兵罷在候五小隊之内林将曹村山直衛何レモ組下召連釜子村辺巡邏仕候処明朝川原田村ヘ賊屯集罷在候間打入可申旨薩州隊長川路正之進方ヨリ談ニ付則其夜四ツ時勢揃ヲ相約シ薩州五十人程黒羽大砲二門銃隊六十人程敞藩ハ林将曹村山直衛隊五十人程ニ而進撃シ暁霧ノ晴ルヽヲ待チ先ツ大砲三発打込直様小銃ヲ以テ打入候処賊大ニ敗軍ニ及ヒ散乱致候由夫ヨリ右村ヘ火ヲ放チ其外三ケ所致放火三藩一同白河迄引揚委細御届申上帰陣ス其節賊六人打取候由尤味方手負討死等一人モ無御座候右之趣出兵先ヨリ申越候間一小戦ニ候得共此段御届由上候以上
九月廿八日
秋元但馬守家来 高山藤内

太政官日誌・明治元年96号

太政官日誌第九十六
明治紀元戊辰年秋九月

九月廿七日予州小松藩届書写
昨廿六日、高畑越間道押トシテ六藩三手ニ分レ足守藩弊藩杉平村間道ヨリ高畑越之方エ乍探索進軍之途中岩石村之方ニ当リ砲声相聞候ニ付直様駆廻リ敵ノ後口ヲ遮リ候積リニ御座候処其内砲声相止候付斥候三四人差遣候処三日月藩三根山藩戦争賊敗走追々高畑越ノ方エ退候様子承リ帰候ニ付追々右ノ方エ相進候処岩石村山上ニテ越藩ト出合ヒ三藩申談高畑越エ進撃仕候処敵屯集ノ様子ニ付弥及炮戦台場近辺迄押寄侯処小樹茅萱繋茂如何ニモ難所ニテ難進殊ニ日没ニ及候ニ付一ト先府屋町迄引揚申侯其節討死手負別紙之通御座候此段御届申上候以上
八月廿七日
小松藩 黒川知太郎
別紙
即死 兵士 元山源太 深手 同 和田源八
薄手 同 能智大次郎
右之通御座候
右之通於北越表御中軍御本営エ御届申上候段自出先申越候ニ付此段御届申上候以上
九月廿七日
一柳因幡守家来 武藤加守衛

同日肥前藩届書写四通
八月朔日朝卯半刻秋田藩荒川久太郎佐藤日向両隊並亀田陣営矢島領中ノ沢秋田藩梅津千代吉陣営小滝ヘ賊襲来候ニ付梅津隊ヘ為応援弊藩三小隊本庄領塩越陣所ヨリ繰出候処中ノ沢不要害之地ニテ我兵関村迄引揚凡二時余之接戦大ニ苦戦之由報知有之候ニ付早速小滝ヨリ引返シ二小隊ハ横合山手ヨリ一小隊ハ浜手ヨリ進ミ討入候得共往来一里余之間ニテ関村既ニ堪兼引揚ニ相成候ニ付冠石ト申所ニ相纏メ夕暮迄防戦諸手一同本庄迄引揚防禦之央佐竹湊着船之弊藩戦士二百人為応援到着ニ付大ニ気勢ヲ増シ進撃之約ヲ定メ諸手矢島口ヘ向ヒ弊藩一手海浜ニ向ヒ同四日夜九ツ時本庄出立賊ヨリ夜襲セントノ聞有之途中ニ伏兵ヲ設ケ待居候得共賊兵不来五日未明平潟着陣屯集ノ賊追払是ヨリ両手ニ分レ一手ハ山手ニ向ヒ一手ハ浜手ニ向ヒ候処三森ヘ差出候斥候一小隊芹田ヨリ押来ル賊三百余人ト川ヲ隔テ接戦ニ付則大砲二門谷隊三小隊ヲ繰出シ直ニ川ヲ渉リ追討候処賊兵死者四人傷者七人其余一時ニ退散候ニ付三森ヘ谷隊纏メ休息罷在候央昼九ツ半時頃、賊軍七百余人再襲来東南ヘ相廻候ニ付夫々分隊接戦数十人討留候得共賊大勢ニテ衆寡難敵殊ニ日暮ニ及ヒ終日之戦ヒ疲労、不得止本庄迄揚取申候然ル処此地後ニ大川ヲ帯ヒ期ニ至リ道絶ヘ候場所ニテ進退不侯ニ付地勢見立防戦之積ニテ翌六日未明同所ヨリ新屋迄引揚申候死傷左之通
戦死 士分 野田弘平 鍋島上総家来 樋口泉兵衛
手負 士分 納富仁助 足軽 久米吉蔵
鍋島上総家来 宮原林平 鍋島孫六郎家来 堤兵力
即死 鍋島上総  夫方四人
手負 夫方二人
右之通御座候以上
八月

八月廿五日新屋出足之末同夜大久保宿陣之処賊兵小繋辺迄押寄候聞有之候ニ付弊藩遊兵隊昼夜兼行ニ而繰出候処廿七日今泉村辺ニテ賊兵ト行合暫時砲撃賊小繋山ヘ取掛候ニ付味方川ヲ渡リ右手之山ヘ馳登リ暫時砲戦賊終ニ致敗走候得共猶今泉村ヘ潜伏有之由ニ付暮頃続テ進撃賊又答砲ヲ発ス味方間道ヨリ横合ニ出候ニ付賊支兼今泉村ヲ放火致遁走将又同日間道ヨリ賊三百人位大沢口ヘ襲来秋田兵隊少々相備居候得共支兼皆以引揚ニ相成候頃弊藩遊兵隊之内五人馳付候得共賊四方ヨリ取囲ミ何分防戦難叶其侭引揚候処賊大沢村ヘ火ヲ掛ケ岩平山ヘ陣ヲ取リ罷在候ニ付味方直様備ヲ立終夜対陣然ル処本道賊敗走候歟翌廿八日未明一同退散少々潜伏罷在候ヲ秋田兵隊追撃首級ヲ得候由同夜於荷揚場軍議夫々配兵翌廿九日未明ヨリ本道並大沢米内沢三口ヨリ尤本道秋田藩佐竹大和多賀谷長門須田政三郎隊大砲二門並弊藩六小隊大砲三門刻期出発之処暁霧四塞数歩之外難弁ニ付霧ノ開ヲ待チテ可討入之処諸道隔絶報知届兼候故其侭前山ヘ進撃大砲等打掛候処賊三百人許不意ヲ討レ狼狽遁逃大砲二門小銃三挺弾薬等分取リ続テ坊沢ヘ進撃賊四百人許左手之山ヘ備ヲ付候央味方通撃大小銃連発賊又烈敷応砲暫ク攻合候央鷹ノ巣村ノ賊兵七十許右手川原ヨリ横合ニ出テ味方可及難儀処秋田藩佐竹大和三隊弊藩一小隊相添予メ川原ヨリ進撃之手配相付置候故合図ニ応シ右横合之賊ヘ発砲進撃候ニ付賊直ニ敗走将又米内沢ヨリ秋田藩茂木筑後小野寺主水隊並弊藩斥候隊二番隊大砲一門鷹ノ巣村之空虚ヲ襲ヒ且又大沢口ヨリ秋田藩兵隊弊藩一番隊遊兵半隊鍋島欽八郎家来四小隊大砲二門臼砲山手之賊ヲ横撃シ或ハ後ニ出テ諸道一時ニ奮撃ス賊兵支兼坊沢ヲ放火シ致遁走続テ綴子ヘ進撃賊又同所モ放火遁走ス味方鷹ノ巣ヘ本陣ヲ据ヘ綴子ヘ番兵差置賊情探索進撃之手配相付候央之由尤討死手負左之通
戦死 士分 村山又兵衛
手負 士分 原喜惣太 石丸雄平
鍋島欽八良家来 石丸雄太郎 夫方一人
右之通御座候以上

八月朔日惣勢横手繰込之末賊兵襲来ノ由相聞候ニ付弊藩並薩長小倉新庄長崎六手之兵二手宛組合本道ハ薩小倉馬鞍口ハ長崎新庄深間内ハ弊藩ニ長崎隊請持秋田兵ハ右三道エ分配然末同八日暁七時ヨリ弊藩一小隊長崎一中隊深井間道之賊ニ備置惣隊ハ深間内繰出シ明頃ヨリ浅舞ニテ勢揃上田村通ニテ分隊及進撃岩崎川ヲ隔テ砲戦二時計弊藩一隊長崎二隊川ヲ越進討勝敗不相分処本道ノ薩小倉秋田兵岩崎川迄押寄候得共賊応戦ノ様子モ果敢々々敷無之由ニテ右者定テ間道エ大勢馳向味方可及苦戦ト相察薩斥候小倉斥候各一人兵隊少々引連様子見計旁応援ノタメ上田村エ参リ候跡ニテ賊大勢本道ニ打懸リ味方支兼引退侯ヲ付入リ沿道ノ民家ヲ放火相進候旨報知ニ付相追同所ニテノ戦争無覚束第一深井口之気遣有之一先惣軍引揚深間内操込此日賊死傷数不知弊藩討死左之通
戦死〈士分〉石井虎三郎
一同十四日弊藩並薩長小倉新庄秋田長崎兵隊大曲駅エ操出シ分隊進撃本道弊藩一小隊大砲一門並秋田一小隊進撃之途中不計賊兵ニ出合候ニ付大砲打掛続テ小銃連発ノ処賊不意ヲ被討敗走ニ及ヒ死傷夥敷臼砲三門小銃五挺並弾薬等不少分捕其侭致尾撃候ハヽ愉快ノ勝利ニ可有之処両道ノ様子不相分自然深入賊ニ後ヲ被包候哉モ難計ニ付一先少々引揚候央長崎一小隊小倉勢少々為応援罷越一同配兵相備候内賊兵返戦逼撃候ニ付本道ニモ一先引揚候様急報ニ付追分迄繰引候処右角間川ノ賊間近ニ相廻退キ口及難儀同夜神宮寺着陣翌十五日角館エ転陣大村兵一同所々口々分配致守禦候事

八月廿九日大昌寺豊巻長浜三道ヨリ方面ノ賊塁エ進撃ノ期ヲ約シ弊藩兵隊豊巻ヨリ暁八時出発八田黒瀬両手ニ分隊進軍君ケ野賊塁ヲ左右ヨリ取挟ミ攻撃候処賊番兵相構候悪手口休崎両所ヨリ発砲候ニ付両手之兵隊一時ニ閧ヲ揚大小砲打立逃ルヲ追テ賊ノ根拠エ討入令放火侯ニ付賊禦兼本営ヲ捨二ノ備高山ニ拠リ樹林岩窟之間ニ繰引候付猶又進撃鏖殺之目的ニテ激戦央日既ニ黄昏ニヲヨビ然ルニ此地高山四囲露営ノ地形ニ無之候故不得止一先兵ヲ揚豊巻ニ繰込申候尤討死手負並分捕左之通
戦死 士分 北原養一郎 士分 石井辰吉郎
手負 士分 牛島幸一郎 同 中溝佐吉
足軽 山口為蔵 同 吉田広三郎
鍋島上総足軽 大宅恵三 同 中尾八百三郎
分捕品
エンヒールト銃 一挺 胴乱 三ツ
短刀 一本
右之通御座候以上
羽州表弊藩出勢ヨリ別紙四通之通申越候ニ付先以此段御届申上候以上
九月廿七日
肥前少将内 原口重蔵

太政官日誌・明治元年95号

太政官日誌 第九十五
明治紀元戊辰年秋九月

【若松城下ノ戦】
九月廿四日越前藩届書写
越後守先隊若松城下近邑所々之賊巣追撃之内当月十一日栃屋政之助一小隊岩国一小隊松代一小隊ト共ニ藤沢村ヨリ小荒井村へ打入熊倉村賊ノ屯所へ相向候処賊進退相窮候哉必死之勢ニ而多勢八方ヨリ打出烈敷致発砲苦戦相成候付岩国松代勢共追々揚取政之助隊ハ下台小荒井両村之間小田月縄手ニ踏止リ防戦致シ候処賊小荒井村ヘ忍込致放火三方ヨリ燃上リ前後ニ敵ヲ受ケ極々苦戦力闘夕八半時過ヨリ暮六ツ半時迄之間ニ弾数六千余モ発射致シ候其節死傷別紙之通御座候其内御親兵並長州干城隊等応援罷越漸ク同所持固メ同夜岩国松代勢共縄手ニ相守居翌十二日朝境村迄各藩一旦揚取政之助隊ハ又復塚原村ヘ致進撃候弊藩大砲隊ハ四日館ケ原宮月之賊打払候後追々相進候処十日船岡屯集之賊致掃撃候様御達ニ付黎明広野村迄繰出シ長州松代等之小銃隊ト共ニ大砲烈敷発射其節一人手負申候賊敗走小布瀬原慶徳両村之間惣三峠卜申所ニ而踏止リ致防戦候ニ付忽砲ニテ榴弾十四五発射之処悉ク的中ス敵又復敗遁ニ付直ニ尾撃致シ慶徳村ヘ撃入候処夕方御達ニ付小荒居村迄相進候且又若松城下ヘハ十日五番遊撃隊繰入其余渡辺隼太隊ハ勝方村武曽権左衛門隊ハ青木村林藤五郎隊ハ山崎ニ出張専ラ進撃致シ追々若松ヘ進入之筈ニ御座候右ハ家来東郷平太夫去ル十三日坂下村出立罷帰相達候概略先御届申上候以上
九月廿四日
〈松平越前守家来〉堀庸之介
討死 〈栃屋政之助隊〉 太西孝左衛 前田喜平
深手 川合庄之介 松森弥右衛門
山口賢之介
浅手 小林児十郎 高橋喜一郎
笠原幸太郎 増永磯之介
〈大砲組〉森川十助
右之通御座候以上
九月
【京都御警衛ソノ他ノ事】
同廿五日御沙汰書写九通
【○軍務官両局廃止ノ事】
軍務官
其官裁判所御用掛之両局自今被廃候事
【京都御警衛ノ事】
○各通 安藤飛騨守
平野内蔵助
竹腰伊予守
非常之節粟田口ヘ援兵繰出候様被仰付候事
○各通 紀伊中納言
松前敦千代
前田丹後守
伏見口同文
○各通 池田久米之助
久松隠岐守
山名主水助
鳥羽口同文
○各通 伊達遠江守
伊達鍗之助
毛利左京亮
丹波口同文
○各通 戸田丹波守
秋月長門守
長坂口同文
○各通 松平能登守
阿部主計頭
大田備中守
内藤金一郎
鞍馬口同文
○各通 五島飛弾守
内藤若狭守
建部内匠頭
大原口同文
【高松少将ヘ御沙汰ノ事】
○高松少将
其藩累年崇徳帝御陵守護相勤猶又今般還遷御用向且御途中御警衛ニ至迄打続尽力致シ無滞御還遷相成功労不少段神妙之至御満足ニ被思召候依之賜此品候事
九月
【常州土浦ノ戦】
同日土浦藩届書写
当四日暁徳川藩士ノ旨申聞斎藤辰吉吉沢峰松ト申者外三人相模守城下川口町旅店ヘ罷越火急之用向ニテ町奉行ヘ面会致度旨申出候付町奉行附属之者差出為及応接侯処疑敷廉モ有之候ニ付彼是手当中右附属之者置手紙致シ木原村ヘ出船仕候趣ニ付猶更事情探索旁代官ノ者其外共両人同村ヘ差出侯処行違ヒ翌五日暁脱走人数百人領内ヘ向操込候趣相聞候ニ付不取敢夫々ヘ人数致分配隊長一色沖之丞兵隊引率出張桜川要所銭亀川迄操出候処操込来候脱走人俄ニ西之方ヘ逃去候ニ付追撃仕候処至窮ノ賊兵足並早何分ニモ難追付其内城下ヨリ二里程西方大村ト申所ニテ賊兵ニ追付候処五拾人余降伏ス猶残賊追討ノ為メ北条村迄進軍仕猶又後援トシテ奥田図書兵隊引率城北藤沢村ト申所迄出張候処賊兵既下妻ノ方ヘ逃去候趣ニ付猶更進撃可致ノ処城下人数手薄ニテ残賊寄来候趣報告モ有之候ニ付遠方迄ノ追撃何レニモ無心元不得止人数領内ヘ取纏厳重守衛罷在侯右降参人之儀者兵器取揚是又厳重取締申付置候姓名並兵器員数等取調之上御届可申上候得共先此段御届申上候様相摸守申付越候以上
九月廿五日
〈土浦藩隊長〉杉村弘之允
去ル八日別紙之通於東京相摸守家来ノ者ヨリ大御総督府及ヒ御鎮将府ヘ御届申上候旨申越候此段御届奉申上候以上
九月廿五日
〈土屋相摸守家来〉尾木汀
【灯明台築造ノ事ソノ他】
同廿七日御沙汰書写三通
【○灯台築造ニ付英匠出張ノ事】
各通 薩州
土州
紀州
今度海岸要所ヘ灯明台築造被仰付候ニ付地所為可相撰其国器械匠一人長谷川三郎兵衛同伴火船ニテ其地ヘ見分ニ被差立候ニ付着船之上ハ万端不都合無之様可取計事
但不日横浜出帆ニテ大坂着船之上直ニ発向相成候事
【福岡四位御用掛被免】
○福岡四位
議事体裁取調御用ニ付東下被仰付候処依所労不克其儀旨願出之段被聞召候就而ハ右取調之儀東西相隔侯テハ難整ニ付御用掛被免候事
【御使平松甲斐権介ヘ御沙汰ノ事】
○平松甲斐権介
先般奥州官軍慰労之為メ御使トシテ被差向侯処賊徒蝟集険阨之地数百里往返速ニ復命之段彼是苦労ニ被思召候旨御沙汰候事
九月
【若松城外船渡ノ戦】
同日彦根藩届書写
九月五日越後口ノ屯賊追払候様御沙汰ニ付弊藩人数若松城出発高久村近傍所々ニ於テ諸藩斥候隊ニ相加リ賊徒追却直様船渡村ヘ進撃仕候処賊徒共同村山手川筋等所々散布砲発致候ニ付急速進撃双方共掃却仕候其節討取分取味方手負等別紙之通ニ御座候右若松出先分隊ヨリ申越候条此段御届申上候以上
九月
〈彦根中将家来〉河手主水
別紙
首 一級 討取人 〈青木十郎次隊〉奥田本次郎
同上 同〈三浦九右衛門隊〉北村膳之進
同上 同〈小泉弥右衛門隊之者〉討取之
大砲〈但旋条砲〉一門 大砲玉 二十七
合薬 六十貫目
手負 〈三浦九右衛門隊〉小林良之輔 平田賢造
鯰江銀蔵 小沢雅次郎
右者九月五日若松表ヨリ船渡村ヘ追撃之節討取分取味方手負ニ御座候以上
九月
〈彦根中将家来〉河手主水
奥州若松ヨリ船渡村ヘ進撃御届書一通於奥州出先御総督府ヘ御届申上侯段申越候ニ付写ヲ以御届申上候様中将申付候以上
九月廿七日
〈彦根中将家来〉横内平右衛門

太政官日誌・明治元年94号

太政官日誌 第九十四
明治紀元戊辰年秋九月

【奥州下手渡ノ戦】
九月廿三日下手渡藩届書写
出雲守在所奥州下手渡近隣ハ棚倉領福島領多ク同領所々ヘ兼テ仙台ヨリ兵隊分配致シ有之下手渡ノ儀ハ三春表ヘ出張ノ官軍ヘ応シ候趣承候哉右仙台ノ兵隊下手渡ヘ襲来ノ由相聞候ニ付三春表ヘ出張ノ参謀渡辺清左衛門殿ヘ下手渡之家来共ヨリ援兵願出候処官軍モ所々ヘ御分配ニ付急速ノ御取計ニ難被及依之下手渡陣屋ノ老幼婦女子ノ分三春表ヘ為引移候様御達ニ付八月七日迄ニ右ノ者共不残同所ヘ引移申候
一同月十四日領分御代田村ヘ仙台兵士ノ旨申唱五六人相越同村名主儀糾明ノ筋有之趣ヲ以縛囚致シ候注進ニ付下手渡住居ノ兵卒三十人程同所ヘ出張致シ候処右五六人ノモノ共近所ノ山ヘ逃退候趣ニ付探索為致候処右山中ヘ賊二百人程屯集悉ク銃器相携ヘ候由ニ付下手渡ノ兵卒密ニ後ノ山ヨリ突然ト襲撃発砲ノ処賊共狼狽暫時ハ及砲戦候得共忽チ散乱致シ尤夜ニ入候ニ付下手渡ノ兵卒モ直様陣屋ヘ引揚申候其節賊七八人斃シ候様見留候得共多勢ニテ引連参候由
一同月十六日仙台賊三百人程下手渡陣屋ヘ襲来ニ付兼テ領内ノ要路ヘ番兵指出置候ニ付人数相加防戦致シ候得共前条ノ少数ニテ兵勢不相対依之疾速人数引揚陣屋相固メ罷在候処賊共所々ノ山間ヨリ入込陣屋下町ノ方幷領分在々ヘ放火続テ陣屋ヘ乱入発砲且放火致シ防兼候ニ付不得止事住居向キ自焼其外不残焼亡ニ付領分小島村ノ内ヘ引揚申候由其節賊共放火ノ紛レ士家農家ヘ押入衣類金銭等奪取且陣屋ヘ積置候米六百俵余奪取引取申候
一同十七日昼時頃柳川兵隊下手渡ヘ繰込ノ処最早賊兵引取候後ニテ下手渡ヨリ三十町余有之候月立ト申所ヘ未タ二百人程残リ居候趣ニ付柳河兵隊一同兵卒指出追打致シ候処賊兵防戦終ニ敗走生捕共十余人柳河兵隊ニテ打取候趣尤同日モ日暮ニ付其侭下手渡ヘ引揚候段在所家来共ヨリ申越候ニ付此段御届申上候尚委細ハ追テ取調御届可申上候以上
九月
立花出雲守内
岡崎文太夫
右之通於東京表ニ御届申上候得共尚御届申上候様東京表出雲守ヨリ申付候依テ此段御届申上候以上
九月廿三日
立花出雲守内
立花鑑二
【野州塩原並奥州火玉峠ノ戦】
同日大田原藩届書写二通
去月中一応御届申上置候通同月廿三日弊藩人数一手ニテ塩原ヘ撃入賊徒追払同廿四日ヨリ一番分隊六十人余為番兵同所ヘ差置候処藤原高原辺ノ賊徒追々横川ノ方ヘ引揚候様子ニ付不取敢間道ヨリ直ニ横川ヘ進撃可仕旨塩原出兵先ヨリ報告御座候間猶城下ヨリモ為後詰二小隊繰出シ時機ニ寄今市口ヨリ進撃之官軍各藩ヘ一同合併若松城迠進軍可仕段其節不取敢白川口御総督府迠御届申達同廿六日塩原留陣ノ人数捷路ヲ取横川ヘ向進軍仕候処何分地理険難ニテ路次頗ル手間取薄暮横川近在迄着陣夫ヨリ戦地ノ模様等点検仕候内昏黒ニ及候間其夜山中ニ宿陣翌廿七日朝横川ヘ撃入候処賊兵追々繰出シ午時過迄無透砲戦敵兵ノ内両三人打殪候得共何分町数モ隔居候間首級ハ揚不申候尤間道ニ大木等伐倒候場数ケ所有之殊ニ終夜雨中軍用附属之品々運送行届兼弾薬等手薄ニ相成旁無余儀一ト先塩原ヘ引揚其節味方ニハ死傷ノ者無御座候翌廿八日城下ヨリ後詰ノ兵隊一同猶間道進軍仕候処高原口本道之官軍多人数進撃賊兵難支陣営自焼潰散仕候様子ニ付同夜横川ヘ宿陣ノ芸藩一同進撃仕候処賊徒悉ク敗走仕候間翌晦日田島発陣追々若松城下ノ方ヘ進軍仕候段右出兵先ノ者ヨリ申越候間此段一ト先御届申上候以上
九月 大田原鉎丸
去月中一応御届申上置候通同月晦日朝弊藩人数芸藩一同田島発陣桜山嶺迠進軍仕候処肥前宇都宮両藩既ニ於同所酣戦ニ及居候間弊藩ノ儀ハ芸藩一同脇手ヘ相廻リ合図見計横撃仕候処賊兵暫時モ支不得忽土崩ノ勢ヲ成シ敗走仕其節宇都宮藩ニテ死傷十余人モ有之候由ニ御座候得共官軍勝利ヲ獲直ニ嶺ヲ越ヘ四番一同大地村迄進撃此夜同所ニ宿陣仕本月朔日蚤朝同所発陣肥前藩先鋒次ニ芸藩弊藩次ニ宇都宮藩右ノ順叙ニテ会津城ヲ距ル四里許火玉嶺ヘ押懸リ候処賊兵険要ニ拠テ拒戦致シ急々奔潰ノ模様モ無之候間肥前宇都宮二藩正兵ヲ以敵ノ左右ヘ出三面合撃烈戦仕候処賊兵遂ニ支兼同所民家ニ放火シ山ヲ下リ敗走仕候此日之戦卯ノ半刻ヨリ午ノ半刻ニ及賊兵死傷六十人余生捕二人有之尤味方三藩ニモ死傷二十余有之弊藩人数死傷無御座候夫ヨリ直ニ関山村迄進撃可仕ノ処散走ノ余賊共傍近各処ニ潜伏仕居候様子ニ付同夜ノ儀ハ嶺頭ニ露宿今二日関山村ヘ撃入勢ニ乗シ若松城下迄進撃可仕四藩申合手筈相定候段右ハ一同進撃之三藩ヨリモ夫々御届可申上候得共此段出兵先ヨリ申越候間不取敢一ト先御届申上候以上
九月 大田原鉎丸
【白峰宮御祭典ノ事】
同月廿四日御布告
来ル廿六日白峰宮御祭典被為執行候ニ付当日辰刻ヨリ申刻迄宮堂上諸侯諸官人参拝可為勝手事
但御宮詰ノ者ヘ申出神供頂戴可致事
諸人参拝幷諸家献物被免候事
但御宮詰ノ者ヘ夫々可示合事
【御東幸ト公議人御用ノ事】
同日御沙汰書写
今般 御東幸ニ付諸藩公議人ノ内一国一人宛東京ヘ可差越被仰出置候処御都合モ有之ニ付当時詰合候公議人何レモ海陸勝手次第御着輦前後東京ヘ可指越旨改テ被 仰出候尤病気等ニテ難差越向ハ別段ノ儀ニ付其旨可伺出候事
但右ニ付過日相達置候明廿五日公議人飛鳥井家ヘ出頭不及其儀候事
九月
【日光表官軍苦戦ノ事】
同日安芸藩届書写
日光表御人数進戦ノ義ハ兼テ御承知ノ通追々攻入本月四日ニハ本郷ノ川相渡リ城下口迄進撃此日ハ先陣薩州二肥前三此兵隊ニテ外六七ノ小藩兵士同進ノ所別紙略図【〈編者曰、本書略図ヲ載セズ〉】ノ通賊関山ノ方ヘ廻リ不意ノ挟ミ打一時大擾乱官賊入交リ酣戦不啻勿論勝敗モ分リ不申内小沢勇戸田旗之助山田徳太郎小倉道蔵菅野徳之助山本他人輔石井三蔵隊中ノ者十三四人家来一両人輜重ノ駆引ニテ関山先大内屯所ヘ白川口ヨリ薩肥ノ兵隊来リ申聞候ニハ賊囲切抜本郷川相渡リ可申積ニ候得共如何可被成哉ト示談有之小倉道蔵ハ総轄ノ陣ヘ被相越度旨ニテ右両藩兵隊ヘ随行此段菅野ヘ書面差越候迄ニテ主税初此末ノ消息相分リ不申心配中ニ御座候然ル処大内辺諸藩ノ残兵頻リニ引揚ノ気機相見ヘ纔ノ人数居留リノ業無覚束申値居候鼻ニ付大田原藩士狼狽馳来リ賊兵相迫リ一大事ニ付何分引揚可然右藩ニハ急々引取候趣申聞候処果シテ賊襲来辛シテ漸逃延ヒ今市迄引揚此辺ノ次第中々書キ尽シガタク右ニ付今市ニテ軍議山田ハ兎ニ角白川ノ方ヘ参リ可申ト決シ勇義ハ去ル十四日同所出足同十六日夕東京着何角示談承リ候得共其後ノ確報モ無之駆引目度モ立兼候得共藤原口ハ兼テ進撃被仰付候筋ニ付可相成丈ケハ取固メ先々模様ニ応シ取計方可有之申値其段ハ勇ヘ申談シ直ニ今日今市ヘ差戻シ申候云々
別紙東京表ヨリ申越候要文未タ於東京御届ハ不仕義ト相見ヘ候得共差掛リノ情実不取敢申越候尤戦場ノ次第今一応確報有之候上御届可申上候得共難差置儀ニ奉存候間不取敢来状写ノ侭絵図面〈今略之〉相添差出此段申上候以上
九月廿四日
安芸少将内
熊谷兵衛

太政官日誌・明治元年93号

太政官日誌第九十三
明治紀元戊辰年秋九月

【御東幸中ノ天機奉伺ソノ他ノ事】
九月廿一日御沙汰書写六通
【〇越後府、新潟府ト改称ノ事】
越後府
今般其府新潟府ト被称候旨被仰出候事
【神奈川府、県ト改メラル】
〇神奈川府
今般其府ヲ県ト被改候旨被仰出候事
【議事体裁取調ノ事】
〇各通
福岡四位
神田孝平
兼而議事之体裁取調御用被仰付置候ニ付早々東下可致旨御沙汰候事
【大垣藩ヘ五万両下賜ノ事】
〇戸田采女正
其藩儀当春来所々ヘ出兵苦労被思召且多分入費殊ニ水害不容易之趣ニ付旁以格別之訳ニテ金五万両下賜候事
九月
【御東幸ニ付諸藩公議人御用ノ事】

此度御東幸ニ付而ハ諸藩公議人之内一国一人宛海陸勝手次第御着輦前後東京ヘ可罷越旨被仰出候事
但右差越候人体之儀ニ付御用有之候間公議人一同来廿五日巳刻飛鳥井家ヘ出頭可致事
九月
【御東幸ニ付天機奉伺ノ事】

御東幸中在京諸侯
六日 十六日 廿六日
右之日巳刻参内可奉伺天気事
毎月十五日弁事一人為伺天気東京下向之事
但出立前日巳刻公卿諸侯参内右下向之弁事ヘ天気可相伺事
御東幸中在国在邑諸侯毎月十五日名代重臣ヲ以テ禁中御仮建所ニ於テ可奉伺天気事
九月
【若松城外廓破ル】
同日越前藩届書写
越前守先隊去月廿八日奥州只見川ニヲイテ戦争之次第先日御届申上候後当月四日只見川向フ島崎口官軍進撃相成候ニ付西芳賀ヨリ下河合村ヘ出張弊藩林藤五郎隊並大砲隊其機ニ応シ候様御達ニ付払暁ヨリ川端ヘ相進ミ大小砲烈敷及射弾候処賊モ必死相防候得共弊藩佐々木衛士手天砲ヲ以燃弾発射悉ク的中館ケ原村燃上リ一時ニ大火相成陣ケ峰之賊追々崩潰候ニ付 官軍モ不透館ケ原ヘ乗入台場之賊モ敗走致シ候依之藤五郎隊大砲隊トモ又々宮月村之賊ニ向ヒ大小砲ヲ以打散候其節手負別紙之通御座候翌五日午刻過白川口二本松口官軍分隊若松之方ヨリ越後口通路ヲ開候為メ越後エ廻リ攻撃ニ付賊大敗走久保村ヲ自焼致散乱候ニ付弊藩遊撃隊始久保倉村迠進撃賊巣御蔵入小荒井始追々打散シ近日越後口諸隊若松城下ヘ繰込ニ相成筈ニ御座候若松城ハ外廓相破レ居候得共多勢篭城必死防禦之由ニ御座候右ハ奥州塔寺駅ヨリ去ル九日ノ報知有之ニ付不取敢此段御届仕候且分捕別紙之通御座候以上
九月廿一日
越前少将家来
林矢五郎
手負 林藤五良隊 吉田二太夫
深手 大砲付之者 一人
分捕覚
幕    三張  銅製大砲  二門
ホウト大砲 一門  ハントモロチル 一門
小銃   十二挺  異風筒  四挺
槍    一筋  大小刀  十九本
ラントセル 二箇  火薬入箱  廿二
地雷火   一箱  同器械入箱  一箇
榴弾  三百十一  霰弾    三百七十五
実弾    十二  大砲弾    二十七
大砲弾筵包 一箇  五十目玉入箱  一箇
右之外雑物数多之事故一々記シ不申候
九月
【天長節参賀ノ事】
同月廿ニ日
天長節百官参賀被 仰付候事
【越後大鳥附近ノ戦】
同日高鍋藩届書写
越後口出兵八月廿五日薩兵同様同国山熊田エ出張手ヲ分チ左半隊雷村口エ炮台相築薩兵ト合謀相固居右半隊大鳥村ヘ進撃半途賊ノ番兵二名生獲又進テ斥候五六名逐攘小銃玉薬刀等分捕嶮山深谷ヲ経過スル殆三里前路益嶮阻夜行難出来暫時見合廿六日昧爽大鳥村放火賊徒敗走初更山熊田エ帰陣大鳥村ハ会賊第一ト頼候地ニテ会城落候者当地ニ隠伏ノ積ノ由ニ御座候雷村山手ノ砲台其後半隊ニテ守衛候処同廿八日黎明荘内兵農兵束而凡百有余左右山嶺深谷ノ間ヨリ襲来発砲ニ付即叱咤奮戦防禦仕候得共地形嶮難其上四面敵ヲ受弾丸雨飛応援ノ活路相絶衆寡不敵遂ニ別紙ノ通死傷不得止両側ノ樹間ニ引揚猶合戦敵数名ヲ斃シ十ニ八九ハ手ヲ負セ申候折柄山熊田ニ罷在候半隊薩兵ト策ヲ設ケ応援トシテ山背ヨリ樹林ヲ踏分ケ襲撃賊徒狼狽遁逃ス終ニ炮台相復シ申候然ニ地形不利ニ付山上要地ニ数ケ所分兵改而炮台ヲ築キ守衛仕居候得共地理四面山ヲ帯ヒ雨降レバ兵糧運送ノ道絶可攻不可守ノ地ニテ且素来海辺幷中道間道期ヲ合シ進撃ノ処間道ハ前文大鳥迠相進候得共他道難相進候旁以中軍ヘ掛合指揮ニ依テ晦日早朝薩兵同様中継迠引揚滞陣休兵罷在候段出張先ヨリ申越候此段御届仕候以上
九月廿二日
秋月長門守内
河辺十郎

小隊司令官 福崎良一  兵士 坂田正太郎
兵士    松田充平次  同  吉田兵太郎
甲斐数太郎家来 金吉   雇夫 一人
深手
兵士 小林久益  兵隊 一木島吉
兵士 白尾円助  兵隊 深江助九郎
兵隊 綾部末五良
浅手 兵士 綾部次一
討取
一賊一名 兵士 荒川梅太郎討取之
一賊二名〈一名士官ト相見エ〉兵士 小林久益乍傷討留之
一賊一名 兵士 上野平一郎討取之
一刀玉薬 大滝藤太夫分捕之
一賊一名 兵士 金沢常太討取之
一賊一名 兵隊 百尾円助乍傷討留之
右確証有之分
右之通御届仕候以上
九月廿二日
秋月長門守内 河辺十郎
【玄猪御就ノ事ソノ他】
同月廿三日御汰沙書写三通
【〇御東幸ト玄猪御祝ノ事】
御東幸御留守中ニ付玄猪之御祝当年ハ不被下候事
九月
【高野広馬新潟府判事仰付ラル】
〇真田信濃守
其方家来高野広馬徴士新潟府判事被仰付侯間出仕可申付候事

【租税金札ニテ上納ノ事】
皇国一円金札通用被仰出候上者当辰年租税金納之分幷諸上納都而金札ニテ上納可致候事
但遐邑僻陬ニ至リ未タ全ク融通行届兼候分ハ正金取交上納不苦候事
九月
【奥州郡山附近ノ戦】
同日大村藩届書写
官軍三春着以来賊徒会津街道之民家エ放火官軍之宿陣ヲ妨ケ加之博徒兇民ヲ鼓動シ処々乱妨金穀掠奪郡山辺エ出没ノ聞アリ弊藩追討被 仰付八月五日半隊繰出シ候処賊徒果シテ襲来ニ付直ニ追払候処是迄微力之町兵共始テ勢ヲ得余程窮追致シ弊藩ニハ二小隊ヲ相纏メ阿武隈川ヲ隔テ一里計之処阿久津一泊六日黎明賊郡山放火候付猶又繰出候処賊徒五六十計半ハ松明ニテ放火〈此時烈風ニテ郡山須賀川笹川モ大抵焼失〉半ハ町家エ発砲致シ処々掠奪最中ニ付上風ニ乗シ帰路ヲ断チ鏖殺之策ニテ町家ノ背ニ出候処賊徒是ヲ悟リ直ニ遁逃候付追撃三春エ致帰陣候此日手負左ニ相記シ申候
一同月十四日備前柳川弊藩ハ福島賊徒追払ヒ同所ヲ相固メ仙米二賊ノ衝撃ヲ防禦致居候内下手渡川股辺賊徒出没農商ヲ乱妨之旨ニ付十七日柳川弊藩川股迠繰出候処其朝下手渡エ放火乱妨之旨申来候付弊藩ニハ川股守衛柳川ニハ直ニ繰出候処仙賊エ博徒等相加リ逃遁致シ候十八日朝最前福島屯集之仙賊等川股襲来之趣報知有之候付半隊計繰出候処 官軍之宿陣ヲ聞キ逃遁ス此日御使番ヲ以テ柳川弊藩二本松エ引上候様被仰付引揚候途中土民拝伏相迎エ滞陣ヲ嘆願シ南征北怨之勢実ニ難堪候得共百方説諭致シ候処一同落涙哭泣袖ヲ牽キ候風情何分難忍情緒有之飯野一泊之処青木村村吏宿陣所エ致出訴候ハ当村今日賊徒ニ焼レ何某ハ斬首致サレ何某ハ縛ラレ婦女子迠モ殺害ニ遇ヒ悲泣号慟之状態申出一図ニ救助致嘆願候得共明日之事有之何分繰出兼百方説諭同所発足致候
一同月十九日二本松着陣之処深更ニ及ヒ会エ繰出候様被 仰付候付廿日中山道横川一泊所々賊徒追払ヒ進軍玉ノ井宿陣之官軍ボナリ峠エ掛リ候比合ヲ見積リ発途之処最早ボナリ峠屯集之賊尽ク追撃致居候付猪苗代エ一同宿陣仕候
一同月廿三日土州大垣弊藩先鋒ニテ八時猪苗代発途十六橋相渡候処直ニ砲声相聞エ賊徒山腹ヨリ横撃致シ候付弊藩二小隊差向土州ヨリモ二小隊計互ニ追撃十四五人討取引上候得ハ薩長諸藩正面之賊徒追討之央ニ付追駆候処会城エ押詰砲戦弊藩ニモ大手先ヨリ大砲ニテ相掛リ候得共城中ヨリ之狙撃ニテ死傷ニ不堪各藩銃隊ハ士屋舗エ繰込同狙撃致シ候央米沢口賊兵襲来之趣ニテ弊藩出兵被 命途中残賊六七人四五人宛討留相進申候此日死傷左ニ相記申候
一同月廿四日勢至堂出張之会賊帰城之聞エ有之弊藩防戦被命直ニ滝沢峠ヲ越エ白川路エ出相待夜中巡邏之折土民見当リ詰問之右之賊ハ植田某隊長ニテ百六七十人大砲弾薬等ハ水中エ埋メ所持之銃器弾薬夜通シ相運ヒ原宿間道ヲ天寧寺ヘ取リ城ヘ入リ白川口ヘハ一人モ出張無之旨申出候廿六日尾藩繰替ニテ猶又若松ヘ出張之処天寧寺山番兵被 命薩鍋島一同守衛致シ候賊兵折々槍隊ニテ処々ヘ突進候得共始終相斃レ一利モ無之由ニ御座候
八月六日郡山ニテ
深手 兵士 富沢徳三
同月廿三日会城ニテ
戦死 兵士 堀江良一  深手 兵士 淵山規矩蔵
兵士 森連平
浅手 同  中島修平  寺井清作
戦死 夫卒 二人    深手 同 二人
右之通御座候尚委細ハ奥羽御総督府ヘ御届可申上候得共出先ヨリ申越候ニ付不取敢此段御届申上候以上
九月廿三日
大村丹後守家来 一瀬伴左衛門