明治元年132号

太政官日誌第百丗二
明治紀元戊辰冬十一月

【越羽国境ノ戦】
十一月二日加賀藩届書写三通
九月朔日夜子刻、弊藩各隊、軍ヲ岩崎ヘ進メ津田権五郎一中隊、砲一門ハ中浜村エ、富山加勢多田権太郎、木村実之助二小隊、砲一門ハ、クヾリ岩エ向ヒ、発砲致シ、又高畠越之敵ノ台場ヘモ、同ク致発砲候処、賊兵山中ヘ埋伏シ、海浜ハ、小名村之断岸嵯峨之間ヨリモ頻リニ射砲致シ、彼ハ要地ニ陣ヲ敷キ、我兵ハ狭溢之嶮路ヲ渉リ、苦戦攻撃最甚ク、巳刻ヨリ申刻ニ至リ、各隊立島村マデ陣ヲ引揚申候、同二日杉浦善左衛門一小隊、米沢口ノ柳生渡口ヘ、進軍致シ候処、賊険路ニ拠リ、巨木大石ヲ転シ防拒ス、我兵急撃候処、賊引退キ候故、我兵又進ンデ大峠、タスケ茶屋之下ニテ、互ニ奮戦致シ候内、賊其所ニ放火シ敗散致シ候、同九日津田隊、多田隊合併シ、十日夜同ク中次ヨリ兵ヲ進メ、十一日卯下刻津田隊山熊田ニ進ミ、先一分隊ヲ斥候ト為シテ、雷村ニ出シ、引続キ兵隊モ同所ヘ進ミ候処、偶土州岩国之兵モ、進ンテ攻撃致候ニ付我兵戮力衝突致候処、賊忽敗走致候、因テ一分隊ヲ其地ニ置キ、余軍ハ引取申候、同十六日ニ至リ、賊兵又襲来候ニ付、我軍ヲ分テ三隊ト為シテ、大島口、荒沢口、オコシトノ三所ニ出シ、防禦候処、賊兵気焔益熾ンニ、弾丸乱射霰ノ如ク、遂ニ白班山ニ拠リ候ニ付、我兵攻撃甚急、殺傷無算、薩長之兵モ、亦来会候ニ付、共ニ進ンデ白斑山之賊塁ニ伝ヒ、急ニ我一分隊ヲ分テ、賊ノ砲台ヲ奪ヒ取リ申候、依之賊兵気魄挫折、各先ヲ争テ遁走致候
同廿六日庄内賊降伏ニ付、津田、杉浦、多田、木村諸隊、大田小又助、田辺仙三郎二小隊共路ヲ温海川ニ取リ、同廿八日庄内城下エ致進入候、右前月朔日以後戦争事状、概略御届申上候、其節手負別紙之通御座候、以上
十月
加賀宰相中将家来 富永佐太郎
土師湊
奥羽征討越後口御総督府
手負
杉浦善左衛門隊 柳瀬弥太夫 宮野七太郎
越野喜三郎

前月十四日、弊藩家老津田玄蕃手兵一中隊、砲一門、奥州入小屋村迄相進、同廿二日水臥村出張之飯山兵ヨリ、頻ニ警告候ニ付、一分隊ヲ発シ、共ニ戮力賊軍ヲ致追撃候、翌廿三日味爽、賊兵我営ヲ環リ、三方ヨリ攻撃シ、我軍死闘殆ント危急、依之挙軍引退キ、富山兵ト相合シ、更ニ勇進急撃、遂ニ賊ノ本塁ヲ擾シ候得共、孤軍独進、応援モ無之ニ付、富山兵モ小林村迄致退陣候、同夕、春日於兎男一小隊、砲一門急進候路上、右報知ヲ得テ、暗夜冒雨、大芦村ニ至リ、同所ニ軍シ候今枝民部手兵一中隊、砲一門並高崎兵ニ相合シ、陣営未定内、翌廿四日暁四字頃、賊潜ニ我後ニ出、不意ニ火ヲ放チ、短兵相逼候ニ付、我両隊等死奮酣戦、遂ニ勢難支、一先中津川迄引取、尋テ返戦、賊酋等数人ヲ斬獲シ、猶衝突長駆致候処、賊軍擾乱、黒沢、麻布両路ヲ指シ、致敗散候、同日津田隊等小林村ヲ引、滝原村ニ至リ候処、御親兵之来援一会ヒ、共ニ三手ニ分チ、御親兵ハ右山手ヨリ、我兵三分隊並富山兵ハ左山手ヨリ、一分隊ハ間道ヨリ各鋭進 遂ニ賊軍ヲ山上ヨリ致撃退候、右前月廿二日以後、戦争事状、概略御届申上候其節死傷、別紙之通御座候、以上
十月
加賀宰相中将家来 富永左太郎
土師湊
奥羽征討越後口 御総督府

戦死
津田玄蕃手兵 森川余所之助 太田治右衛門
春日於兎男隊 石黒政之亟 杉江久五郎
小原安之亟 小島惣左衛門
村田弥左衛門 石川徳太郎
今枝民部隊 小川六三郎 多和田平八郎
山川文太郎 藤田隼太郎
宮島左一郎 金子五十松
大館采右衛門 小杉半蔵
夫卒 小三郎 彦三郎 伊三郎
手負
津田玄蕃手兵 沼田将曹 竹村左守
薄井弥左衛門 中吉忠左衛門
庄田徳三郎 長田佐左衛門
長田豊太郎 原周平
森川清五郎 牧八郎右衛門
大砲方 岸平十郎 高桑常右衛門
山田余所次郎 夫卒 市三郎
以上
山田定右衛門
右七月廿五日暁、於筒葉村被重創、其後医療無功、致死去候、因テ御届申上候、以上
十月
加賀宰相中将家来 富永左太郎
土師湊
九月朔日以後、越後岩崎等ニ於テ戦争之模様別紙三通、御総督府ヘ及御届候旨申越候間、此段御届申上候、以上
十一月二日
加賀宰相中将家来 篠島権之助

【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
同月三日御沙汰書写三通
薩州兵隊
各通 長州 奇兵隊
長府 報国隊
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、到ル処功ヲ奏シ云々
但、春来兵事ニ付云々
薩州藩
実吉 禎造 実吉 友助
松崎源左衛門 田中宗太郎
逆瀬川正之進 佐藤賢二郎
友野雄介 森川勇之進
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被重創、今般凱至之段、別而難労之事ニ候、此節東京御駐輦中之儀ニ付、不取敢為被慰病情、此品被下候、猶精々療養可相加事

【諸降賊御処置振ノ事】

諸藩公議人
奥羽北越諸降賊、御処置振見込之処、書取ヲ以、来ル十日午刻迄ニ、非蔵人口ヘ持参可致事
但、東京ニ於テモ同様、被 仰出候事、尤美濃紙ニ認メ、封書ニテ可差出事

【興行場ヘ帯刀禁制ノ事】
同日御布告写
一、角力、芝居、狂言其外見セ物等ノ場所ヘ帯刀之者並小者体之者罷越、威勢ヲ以、木戸銭等モ遺ワサス、猥ニ入込候モノ有之趣相聞、甚以有間敷事ニ候、向後右体之所業於有之ハ即時可搦取旨、及沙汰候条、末々迄不心得無之様、屹度可申付候事
一、同断、仮令木戸銭等ハ相払候共、暴威ヲ振リ、場中ヲ妨候者ハ、是亦厳重取糾シ、品ニヨリ候而者、可搦捕旨及沙汰候条、末々迄不心得無之様、屹度可申付候事
右之通、被仰出候事

【高田藩会城攻撃ノ死傷】
同日高田藩届書写
津川口ヨリ繰込候竹田十左衛門隊、九月十日坂下駅ヨリ、会津城下エ進入、同十三日総軍攻城ニ付、持場天年寺口エ繰出候処、折節大風雨ニテ、進撃見合之達シ有之、則同所停軍罷在候、同十四日暁、賊徒襲来、終日及烈戦賊遂ニ敗走致候、其節討死別紙之通御座候、同日黄昏頃、薩州十四番隊ト交代、下陣エ引揚候帰路、薩州手ニテ砲声烈敷相聞候ニ付、即為援兵引返シ、及戦争候節、討死別紙之通ニ御座候、同十五日滝沢口、米沢口両所エ、為応援人数繰出候処、薩藩並佐土原人数等、青木村ヨリ引取来候ニ付、一同引揚、天年寺口エ繰込、夫ヨリ飯寺ト申所ヘ進軍、此日接戦中、軍夫一人賊丸ニ当リ即死致シ候、同十八日諸藩分配、高田村日光口之方ヘ及合撃候処、賊敗散ニ付収軍、翌十九日、長州振武隊一同、坂下迄揚取、戦機見計罷在候、同廿二日会城惣攻撃之旨達ニ付、坂下在陣之諸藩一同繰出候途中、長藩二騎馳来、肥後父子伏罪乞降候間、惣軍本営ヘ揚取候様、申達候ニ付則坂下駅エ揚取、屯駐罷在候旨、出張先ヨリ、注進有之候旨、在所表ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
十一月三日
榊原式部大輔家来 服部瀬兵衛
九月十四日
討死
銃士 松井勝之助 新村美代吉
銃隊足軽 高橋利吉
以上

【上総ノ五井ニ脱賊屯集ノ事】
同日長瀞藩届書写
去ル十日、上総国市原郡五井村エ、脱賊百五拾人余宿陣ニ付、急速長南駅エ出兵可致旨、知県事附属海瀬光太郎ヨリ達ニ付、乍小分差出候処、柏輪村ニ、脱賊屯集之趣、法進有之候間、同十一日暁八時、一ノ宮知県事兵隊、弊藩何レモ牛久村迄進軍ノ処、同朝六時、脱賊柏輪村ヨリ、奈良輪村ヲ指退去候趣、此時水野出羽守人数、知県事附属差添為斥候進軍候処、既ニ前夕奈良村ヨリ七拾人許乗船、沖合碇泊、十二日武州大森辺エ向出帆、残徒者散乱、致潜伏候聞有之候得共、一ト先兵隊引揚候様、知県事附属ヨリ達ニ付、同十四日領分大網村エ、人数帰着仕候段申越候、此段御届申上候、以上
九月廿三日
米津伊勢守家来 岸雄波
右前顕之始末、東京鎮将府エ、御届奉申上候趣、彼地詰合之家来共ヨリ申越候ニ付、猶又右之段御届奉申上候、以上
十一月三日
米津伊勢守内 白木利左衛門