太政官日誌・慶応4年71号

太政官日誌第七十一
慶応四年戊辰秋八月

【東京行幸被仰出】

八月廿九日御布告写
東京行幸九月中旬御出輦被仰出候事
但、御道筋東海道之事

【供奉ト京阪警護ノ事】

同日御沙汰書写十四通
木戸準一郎
東京行幸供奉被仰付一通御用相済次第早々帰京可致旨御沙汰候事

土佐少将
東京行幸前駆被仰付候事

加藤遠江守
同文

因幡中将
東京行幸後駆被仰付候事

備前侍従
東京行幸供奉被仰付候事

池田丹波守
東京行幸供奉被仰付候間、宗家兵隊引率後駆可相勤様御沙汰候事

備前侍従
末家池田丹波守ヘ別紙之通被仰付候間、其方兵隊附属可致様御沙汰候事

加藤出雲守

御東幸供奉輔相付、被仰付候事

平野内蔵助
御東幸ニ付、女房旅中取締被仰付候事

薩摩少将
今般御東行被為遊候付、京帥御警衛被仰付候、御留主中諸取締向別而至重之事ニ付、緩急之節ハ不及申、平常取締方、精々厳重可取計旨被仰出候事
八月

長門宰相
右同文
但長門守儀、先般帰国御暇願之通、暫ク御許容候処、不遠上京ニ付而者、其方儀者、兼而所労之趣モ有之事ニ付、長門守京着之上、帰国可為勝手候事
八月

肥前少将
今般御東幸被為遊候ニ付而ハ、御留主中京師諸取締向、別而至重之事ニ付、其方人数ヲ以警衛被仰付候条、緩急之節ハ不及申、平常取締方、精々厳重可取計旨、被仰出候事
八月

彦根中将
右同文
八月

黒田美濃守
今般御東幸被為遊候ニ付大坂表警衛被仰付候、就而者海陸要衝之地、御留守中諸取締向、別而至重之事ニ付緩急之節ハ不及申、平常取締方、精々厳重可取計旨、被仰出候事
但先般長州兵隊、北越ヘ被差向候節、其藩所持之軍艦、至急ニ御用被仰付候ニ就而者、其方上京之儀、暫ク御猶予被仰出候趣モ有之候得共、此度早々上京候様御沙汰候事
八月

【越後長岡附近ノ戦況】

同日尾張藩届書写
去月廿四日夜、長岡ヘ賊徒忍入、所々放火、諸藩陣場夜襲、藩々尽力之処苦戦之趣、廿五日暁以来追々小知谷ヘ報知有之候付、即刻弊藩津田九郎次郎一隊、妙見村ヘ高橋民部一隊浦村ヘ出張為致候、右変動ニ付、諸藩小荷駄方散乱之趣相聞候付、同所民政局ヘ掛合即時兵糧為焚出、三仏生村ニ於テモ為焚出、妙見等ヘ引上候、諸藩隊々ヘ運輸仕、其後モ日々為焚出申候
九郎次郎隊妙見ヘ出張之上、六日市蛇山之方ヘ一同進軍、本道、間道二ケ所ニ土塁築立長岡ヨリ引上ケ候長州、松代兵ト戮力守衛、昼夜不断斥候差出、諸藩ヘ兵糧弾薬等通融、廿六日薩長両藩三小隊繰込候付、本道、間道両所之土塁、右兵ト交代、同夜中妙見ヘ引上ケ、見張巡邏無間断取計候、然処、賊徒蛇山村ヘ入込、土塁築立屯集、廿七日山県参謀差図ニ因テ、九郎次郎右ノ半隊滝谷村峠ヘ陣取左ノ半隊ハ本道ト堤之間、畑中ニ土塁三ケ所築立、斥候巡邏等厳重守衛候処、賊徒頻ニ発砲、弊藩ヨリモ相応シ、交互連発、同日官軍追々繰込、廿五六小隊ト相成、臨期二三百人前、或五六百人前兵糧、九郎次郎隊中ニテ昼夜紛骨無滞運輸仕候、二十八日官軍猶又繰込三十五六小隊ト相成、発砲候得共、賊徒不応、廿九日長州干城隊一手、東方山上ヨリ十日町之際ヘ押出、官軍東西南三方ヨリ、一時ニ進撃候処、賊敗走ス、官軍勝利、此時九郎次郎隊ニテ、討取、分取等有之、薩長並九郎次郎隊共四五隊ハ駐隊、土塁厳重守備候処、夜ニ入、関原参謀ヨリ差図ニ困テ、九郎次郎隊妙見マテ引上固守、翌朔日小知谷ヘ引上申候
廿七日分隊候九郎次郎右ノ半隊ハ御親兵ト併合、廿九日朝長藩参謀差図ニ因テ、村松村ヨリ山手ヘ、順路長岡ヘ進軍、夫ヨリ富島ヘ進ム、此時賊一人アリ、追駆シテ宮地、浦瀬ノ間山手ニ至リ、右賊ヲ注目発砲候折柄、山上ヨリ賊徒小銃連発、味方ヨリモ発砲、数刻ニ及ヒ候処、賊発砲稀ナリ、陣後富島ヨリ官軍多勢、鯨波ヲ発シ進軍、賊山上之台場ヨリ浦瀬ヘ下リ、椿沢村ヘ逃去候付、薩長、高田初同村ヘ進軍、九郎次郎隊ハ浦瀬村之峠ヘ進撃候処、賊山上ヨリ小銃五六発、黄昏村民三十人計引率、鬨ヲ作リ山上ヘ進ム、賊遁逃ス、因テ同夜浦瀬村ヘ引揚、翌八月朔日朝薩長両藩ノ差図ニ因テ、御親兵ト併合、栃尾ヨリノ要路乙吉村峠固守、午刻過長州八番隊十番隊、栃尾進撃之由、申半刻頃伝聞ニ因テ御親兵ト戮力進軍之儀談合中、及黄昏候付、山下比礼村ニ宿陣、翌二日見附宿巡邏、三日朝小千谷ヘ引揚候様、長藩ヨリ達ニ付、引揚申候
浦村ヘ出張之高橋民部隊ハ、廿五日手配中長州参諜ヨリ差図ニ因テ、浦村ヨリ下手渋海川境マテ一里半余之処固守候様、達有之候処、一小隊之人数ニテハ充実之固守不行届無余儀両三人ツヽ、所々ヘ分配、全斥候番兵之心得ヲ以テ守衛イタシ、援兵ヲ乞候処、二十七日高田、富山之両藩二小隊程加勢ニテ守備、時々川ヲ隔テ砲戦、二十九日暁ニ至リ十日町之方ニ砲声劇敷、妙見ヨリ官軍総勢進撃、賊徒敗衄、川向ヒニ群リ潰走ス、川越ニ発砲、浦村続キ中島村マテ敗賊ヲ横衝砲撃シ、午後川ヲ渡リ、十日町辺之残賊掃撃、長岡ヘ進入候様、関原参謀差図ニ因テ、所々探索之処、賊一人モ不見、其夜長岡宿陣、進退大島出張之参諸ヘ問合候処、森立峠ヘ進軍候様達ニ付、八月朔日朝繰出候処、猶又長岡会議所ヨリ、今町相固候様差図ニ付、加州藩一小隊ト右村巡邏斥候等差出、固守罷在候、此時弊藩ヘ分捕之物品別紙之通御座候、川袋脇川ヘ出張罷在候、弊藩中川庄蔵隊ハ去月廿九日午刻、大監察荒尾駿河ヨリ差図ニ因テ分配、一小隊程ノ人数、川ヲ越ス、裏手ヘハ加州勢出兵、庄蔵分隊ハ川通リヲ進ミ、天神村ヨリ川辺村、関根村、宮内村、長呂村、島田村辺迄賊徒屯集之処々撃掃進軍ス、右ノ節、分捕別紙之通ニ御座候
同日夕川手前ヘ移陣固守、猶為斥候長呂付ヘモ人数差出候、然処、与板会議所ヨリノ差図ニ因テ、翌八月朔日中条付ヘ進軍、翌二日地蔵堂ヘ繰込、直ニ下粟生津付ヘ出兵、右駅守備、吉田村ヘ斥候差出、賊兵右駅守備、吉田村ヘ斥候差出、賊兵四人生捕、地蔵堂会議所ヘ差出申候
原村ニ、松代藩ト合陣、出張罷在候弊藩井野口久之丞隊ハ、松代藩申合、八月朔日朝、信濃川堤ニ対陣罷在候賊塁ヘ押寄候処、賊已ニ遁逃、依而右台場掛小屋トモ都合四ケ所焼払、馬越村ヘ出進、直ニ右ノ半隊ハ松代藩ト合併、田尻村ヘ進軍、猶又同夜大川津村ヘ進ミ翌二日熊之森付ヘ繰出シ候、左ノ半隊ハ馬越付光源寺ヘ対陣、同三日熊之森村ヘ着到仕候
右之趣、北越ヘ出張罷在候弊藩先鋒総括千賀与八郎ヨリ遂注進候付、不取敢御届申上候様、大納言ヨリ申付越候間、申上候、以上
八月廿九日
尾張大納言家来
尾崎八右衛門

浅手 千村平右衛門家来 伊藩鎌次郎
右ハ六月廿二日、越後国半蔵金村ニ於テ戦争之節、手負仕候、此段御届仕候
八月廿九日

奥州盛岡領郷士脱走
臼沢慶蔵
信州高遠領郷士脱走
原野只一
越後与板領走出村庄屋
松宮隆太郎
麓村
彦三
右之者共、弊藩中川庄蔵隊、粟生津付ヘ出兵吉田村辺ヘ、鈴木富五郎初十一人、斥候旁付々賊兵為探索差遣候節、生捕、一ト通リ吟味
之上、地蔵堂会議所ヘ差出申候
右之者共所持之品、左之通
臼沢慶蔵
大小 一腰 風呂敷包 一箇
胴巻 金丗四両二分入ル 一ツ
原野只一
大小 一腰 風呂敷包 一ツ
胴巻 金廿三両二朱入ル 一ツ
松宮隆太郎
赤毛トン一包之内
白小旗 一本 書類 一巻 但手帳並越後図トモ
紙入 一ツ 胴乱 一ツ
紙類入皮篭 手道具入皮篭 金一歩二朱入リ
内違 金五十三両入り 切袋 金三朱ト銭一貫五百文入ル
両口袋 品々入ル
切袋 銭九貫九百文並蝋燭田業粉入ル
脇差 一本 衣類挑灯等 六品
彦三
風呂敷包 一ツ
右之通御座候、以上
八月

小銃 タス共 一挺 刀 一腰
刀身 二本 袴 二ッ
毛織襦袢 一ツ 錦袖印 一ツ
割羽織 二ツ 帷子 二ツ
筒袖羽織 一ツ 単物 三ツ
汗襦袢 一ツ 綿入 二ツ
股引 二ツ 毛皮 一枚
筒袋 一ツ 書物 一束
書付類 一束 弾薬 二包
猿殿中羽織 一ツ 筒袖襦袢 五ツ
風呂敷 二ツ 両口袋 一ツ
細帯 一ツ 紙入袋 一ツ
右弊藩高橋民部、浦村ヨリ今町迄進軍ノ節分取ル
賊一人 討留 小銃 一挺 刀 一腰
右十日町戦争之節、弊藩津田九郎次郎隊、分取ル
兜 一ツ 臂罩 一ツ
槍 二本 刀 三本
脇差 十五本 長鳶口 一ツ
小銃 六挺 貝 一ツ
三十目銃 一挺 小旗 四本
笠 十蓋 雑具入長持 一棹
大砲車 六挺 渋紙包 雑具入 九ツ
風呂敷包 十一 小道具類 品々
雑具入葛篭 十二 箪笥 雑具入 四棹
毛トン包 一ツ 紙包 一ツ
右川袋ヨリ進軍之節、弊藩中川庄蔵隊ヘ、分捕ル
車台大砲 一丁 凡三貫目計
弾薬 但絵符ニ米沢藩福島源作ト記ス
右同節、大監軍荒尾駿河斥候之者ト中川庄蔵斥候之者ト両人ニテ分捕ル
但右品物、荒尾駿河陣所ヘ相廻申候
ナポレオン加農玉 六箱
三貫目破裂丸 九ッ
鉄葉弾 三ツ 火薬 七貫目
小銃弾薬 二箱 替火門 十一
焼玉 八ツ 槍 二本
雷管入 二ツ 小旗 一本
火茰 三十本 蝋松脂硫黄 一箱
右於馬越村、弊藩井野口久之丞隊ヘ分取ル
元込弾薬 一箱
右於熊之森村右同人隊ヘ、分捕ル
右之通御座候、以上
八月廿九日

太政官日誌・慶応4年60号

太政官日誌第六十
慶応四年戊辰秋八月

【奥州新山付近ノ戦】
八月十九日筑前藩届書写
七月廿八日午時頃、奥州富岡ヨリ浜手間道、新田原マテ進軍、賊徒大砲打出シ暫時
戦争、彼忽敗走、熊川村迄追撃候処、踏止リ且戦、且走、遂ニ逃亡、時刻及黄昏候間、熊川村迠人数引揚、同廿九日昧爽、熊野村ヨリ山手間道進軍、野上村ニテ巳之刻頃ヨリ半刻ニ至迠接戦、味方死傷モ無之、全勝ニテ彼悉及敗走候、同日野上村ニテ整列、直ニ新山駅ヘ進軍、同駅ヨリ伊州藩ト合兵、途中賊徒処々屯集ノ地位ニ向ヒ、発砲致シ、尾撃、全散乱、浪江マテ相迫候処、彼援兵加リ候哉、多人数繰リ出シ、弥増烈戦ニ相成、味方小勢剰弾薬尽果、且薄暮ニ至、何分勝利ノ目途難立候ニ付、新山駅迠応援申達候得共、彼是ノ内夜ニ入、兵士次第ニ疲労甚及苦戦、不得止一ト先山手ニ揚取候処、漸ク援兵到着候ニ付、又々発砲、賊徒引退候ニ付、終夜同所ヘ番兵仕候、右戦争死傷、別紙ノ通御座候、其節賊徒数多打取、其外分捕モ有之候得共、何分調行届兼、追テ可申越旨、江戸表ヘ相達候ニ付、不取敢御総督府ヘ御届申上候段申越候、右ノ趣御届申上候、以上
八月十九日
筑前宰相内
団平一郎

浅手
隊長 根本源五右衛門
討死
銃手頭 秦伝
一ノ銃士 上村伝
銃士 野口藤兵衛 銃手 川庄音五郎
中村四郎太 荒木多守
的野太三郎 高野森之助
夫卒 次平 夫卒 儀平
深手
砲術役 石里安六郎 大久保左源太
一ノ銃士 立花市右衛門 安藤新平
山鹿吉郎兵衛 遊撃銃士 広津源兵衛
吉塚栄作 池田新兵衛
河原林貞次郎 銃士 宗壬四郎
銃手 木曽小太郎 戸田仁三郎
中村善次 大倉周之助
谷口友太郎 佐野新助
半田政太 一ノ銃士 湯浅六三郎家来
浅手
銃手頭 樋口忠五郎 砲術役 久佐八郎左衛門
一ノ銃士
藤林幸吉 一ノ銃士 栗士六兵衛
遊撃銃士 岩佐平之進 田尻千吉
銃士 竹中与右衛門 若松久之丞
銃手 勝村司 宮崎甚平
藤村立三郎 伊藤左平
山路久兵衛 友納善兵衛
隊長根本源五左衛門家来 柳瀬大右衛門
一ノ銃士松下彦之丞 家来
夫卒 八右衛門 夫卒 善十
右七月廿九日戦争、死傷ニ御座候、以上
八月十九日
筑前宰相内
団平一郎

【越後長岡城下ノ戦】
同月十九日上田藩届書写
越後表之儀、先日御届申上候後、去月廿五日惣軍御進撃ノ旨、諸藩ヘ御達有之、廿四日ヨリ夫々分配相成候処、賊長岡城空虚ニ乗シ、同夜半頃俄ニ襲来、亀貝、福島、稲葉等ノ村一時ニ出火、引続長岡入口新保付并城下数ヶ所及放火、御本営ヲ始、弊藩宿陣近辺銃丸如雨、一体弊藩人数ハ山之手、川ノ手両所ニ分在、長岡表ハ小荷駄耳ニテ、殊ニ急襲故、諸藩モ引揚候勢ニ付、右小荷駄引纏、一ト先下条村ヘ引揚、翌廿五日ニ至リ、猶又小千谷ヘ引揚申候、尤弊藩人数山川両手、同夜ヨリノ戦争左ノ通御座候
一、川辺村ヘ出張ノ人数前書ノ通、廿五日ニハ愈進撃ノ手配付置候処、廿四日夜八ツ時過頃、台場ノ筋違、凡ニ十間内外ノ萱原、溝沼等ノ地ヘ賊徒潜入、俄ニ発砲候ニ付、直ニ応発及攻撃候得共、猶進撃ノ勢ニ付、烈敷散弾打掛、聊畏縮ノ様子ニ候処、右ノ地形故成功無之内ニ、大口村ノ地方ハ砲声夥敷又長岡ノ地方ハ放火甚敷候間、夫々斥候差出、兵隊ハ尽力防戦候得共、賊亦必死、甚苦戦故、其段薩藩ヘ及報知、同藩ヨリ分隊程応援候処、長岡ノ方火勢愈熾ニ付、下条村ノ方ヘ転移相成候、然ル処、殆黎明ニ至リ、賊ノ進退俯仰漸々相弁、一際奮戦術ヲ尽候ニ付、賊支兼、遂及敗走候、依テ賊散却ノ跡ヲ検候処、流血数ヶ所、左候得ハ余程死傷モ可有之候、然ル後官軍長藩進撃ノ勢盛ニ候得共、長岡焼亡ニテ、弾薬無覚束候間、一旦関原ヘ引揚候様通達ニ付、薩藩ヘ打合、夜中出足、翌廿六日同所ヘ着、無程御本営ヨリ、早々大島村ヘ繰出候様御達ニ付、直ニ出張候処、高田、松代藩ト草生津ノ渡船場相守候様、重テ御達ニ付、持場ヲ定メ、昼夜対戦、固守罷在、同廿九日暁ニ至リ.諸手進撃、弊藩モ及烈戦、此遂ニ敗走、其砌長藩ヨリ演説ニテ、長岡迠進軍御達ニテ、同夜五ツ時過浦瀬村迠相進ミ申候
一、山手ノ方廿四日夜半後、砲声盛ニ相響、比礼村ノ方ニ当リ放火、右ニ付長藩ヨリ通達有之人数繰出候、程川村弊藩台場ヘ薬師堂御固御親兵ヨリ頗難戦ニ付右村ヘ応援候様申来、依テ直ニ両道ヨリ進撃候処、賊村中ニ散布、頻ニ発砲候間、畑畔、木立等ヲ楯ニ取、及烈戦候内、高田藩ヨリ応援モ有之、又一手ハ別テ及接戦候、然ル処ヘ御親兵御繰出、諸手一同激戦、賊悉ク及敗走侯、其後所々転陣、廿七日半蔵金ヘ宿陣仕、山上ヘ台場等築立固守罷在候、尤夫々戦争ノ節、死傷并分捕之品々、別紙ノ通ニ御座候、右之次第、出張先家来共ヨリ不取敢注進仕候ニ付、可申上旨、伊賀守申付越候、此段御届申上候、以上
八月十九日
松平伊賀守家来 赤座寿兵衛
廿四日、川辺村戦争ノ節、分捕
短槍 一本 小銃弾薬 <七百発余入>一箱
小流旗<白地中三寸計紺>一本 眼灯提灯 一
同夜、程川村戦争之節、同上
ケベール銃 二挺 刀 一本
眼灯提灯 三ツ 小銃弾薬 千発
笠 廿一
廿九日大島村ヨリ長岡表ヘ進撃之節、同上
脇差 二本 小銃弾薬 一箱
ケヘール銃 二挺
廿四日夜、戦争ノ節、死傷
討死 小銃隊 寺島誠之助 物頭木村健人組 竹内喜久左衛門
手負 嚮導 堀弥三左衛門 大砲隊 岡本顕蔵
大砲隊後療養不及八月五日死 原善太夫 物頭都築壮之進組 手塚林之丞
都築組 三宅安次郎
廿九日
被創 大砲隊 森田雄之進
右之通御座候、以上
八月十九日
松平伊賀家来
赤座寿兵衛

【奥州観音森ノ戦】
同日久保田藩届書写二通
七月十三日、軍将渋江内膳手并遊軍頭荒川久太郎二小隊、同断佐藤日向三小隊、早暁ヨリ観音森ヘ攻上リ、終日砲戦番兵小屋一ヶ所焼払、同日ヨリ同所ヘ野陣致居、其間砲戦モ有之候得共、敢果敷事無之候、同所ハ嶮岨ニテ、兵糧運途難儀ノ場所柄ニ付、同十七日渋江内膳手、一ト先塩越ト小滝ヘ人数引揚申候
一、同十六日暁丑ノ刻、小砂川間道ヨリ、荒川久太郎手、佐藤日向手銃隊、肥前一小隊ヘ山本登雲介引添、女鹿ヘ出張及接戦同日辰ノ刻頃女鹿放火致候所、吹浦ヨリ応援ノ兵押来候得共、取懸ケ不申候ニ付、滝ノ浦放火致候、然ル処、観音森峰伝ノ山々番兵ノ小屋ヨリ人数集リ、炮発有之候、夫ヨリ女鹿ノ人数取纏、三岬裏手ヘ相廻リ候所、敵地利ニヨッテ炮戦、及難儀候ニ付、道無之山中ヲ越、未刻頃小砂川ヘ繰揚ケ、其後小滝ヘ引揚申候、右戦争ハ死地ニ入リ賊ヲ打破候覚悟ニテ、必死ト苦戦仕候ニ付、賊徒不少打倒候得共、首級者取不申捨置、踏込進撃仕候、其節手負討死、別紙ノ通、出兵先家来共ヨリ報知ニ付、此段御届可申上候様申付越候、右ハ先達テ伝聞ノ趣、御届申上置候得共、今般確報御座候ニ付、尚又御届申上候、以上
八月十九日
秋田中将家来
村瀬清
届書一通并討死、手負等ノ別紙ハ第六十一ニ出ス

太政官日誌・慶応4年59号

太政官日誌第五十九
慶応四年戊辰秋八月

【三春開城ト二本松落城ノ事】
八月十九日大垣藩届書写二通
采女正分隊人数、去月廿四日棚倉ヨリ進撃、順序之通追々相進、去月廿六日暁二字、各藩蓬田発足、三春ヘ進撃之処、城主降伏之趣ニテ士商共一向騒擾之様子モ無之、口々関門等警衛モ有之、夕方諸藩隊長一人宛城中ヘ繰込、無故障引渡相成、同夜同所ニ宿陣、同廿七日十二字、本宮ヘ為進撃各藩三春出発、途中糠沢村賊徒屯集、各藩斥候隊ニテ忽追払、弊藩人数之儀ハ後陣ニ罷在、右ヘハ相当リ不申候、同日同所宿陣、同廿八日暁五字過、賊徒本宮南口ヨリ、三方ニ凡千人計襲来、各藩持場、北仙台口ハ忍、黒羽、西山手間道ハ弊藩、右之方土藩、南之方彦根、館林、各藩持場ヘ駆付、以大小砲及戦争、遂ニ打退ケ、一里計モ追撃、賊多分死傷有之、当手ニテ現ニ討取候賊二人御座候、其節弊藩死傷無之候、同廿九日五字過二本松為進撃本宮発足、諸隊後列進軍、尤弊藩斥候隊一分隊之人数ハ諸隊ト同様相進及発砲候処、先鋒官軍既ニ城中討入ニ相成、所々放火、二字過頃落城相成申候、尤弊藩斥候隊之内、一人戦死仕候
斥候隊於二太松死 銃卒 菱田巳之吉
於本宮博徒一人生捕、則及斬首候
右廿六日ヨリ之戦状、御届申上候、以上
八月
戸田釆女正家来 戸田三弥
右之通、出先御総督府ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候旨申越候間、此段御届申上候、以上
八月十九日
戸田采女正家来 壮合渚之介
去月奥州路ヘ為増人数繰出候内、酒井弥右衛門手之者共、去月廿七日本宮ヘ進候処、翌廿八日朝六字頃ヨリ戦争相始リ、十二字頃終リ、其節討取十二人、内一入ハ生捕ニ御座候趣、以書状申越候、此段モ御届申上候、以上
八月十九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介

【越後川辺ノ戦】
同日上田藩届書写
越後表之儀、先般御届申上候後、川辺村之方六月十六日後モ、不絶戦争有之、就中同十九日夕八時過ヨリ、大口村ヘ賊襲来、加長勢ト戦争相始リ、大小砲声烈敷響キ、賊必死之勢頗烈戦之様子ニ付、弊藩人数横合ヨリ及応援奮戦夜半ニ至リ、賊敗走仕候、同廿一日、賊八十人程福島并亀貝、稲葉等所々及放火、其勢ニ乗シ、筒場、十二潟、大黒等ヘ襲来仕、弊藩持場川辺村之方ヘモ烈敷打掛、諸手何レモ奮戦候得共、夜半後ニ至リ火勢弥熾ニ賊勢益烈敷、翌廿二日ニ至リ候テモ戦争無止、官軍殆ト危急之処、長州新手之人数繰込、及応援候ニ付、夕刻ニ至リ賊遂ニ敗衄、不残逃去申候、尤弊藩戦死別紙之通ニ御座候、扱又乙吉村之方ハ、其後賊襲来候様之儀無御座候、右之通出陣先家来共ヨリ申越候条、可申上旨伊賀守ヨリ申付越候、前書之次第、去月中旬申越候飛脚之者不快ニテ、半途ヨリ帰国仕候ニ付、今般猶又申越候、右ニ付去ル七日御届ト前後仕候、此段乍延引御届申上候、以上
八月十九日
松平伊賀守家来 赤座寿兵衛
去ル六月十九日、川辺村戦争之節、戦死
小銃隊 竹内林右衛門
同月廿二日、同所宿陣ニテ、病人共療治仕居候節、飛丸ニ中リ、廿四日死ス
医師 林亮斉
右之通ニ御座候、以上
八月十九日

【奥州原街道ノ戦】
同日阿波藩届書写
去月朔日暁四字頃、賊徒多勢湯本口并弊藩人数之内持場原街道ヘ襲来仕候ニ付、暫砲戦仕候得共、賊兵進出仕候故、大砲繰出シ、取交ヘ激戦相及候内、薩藩、土藩ト進撃ニ相及候手筈申合、五字頃進入戦争仕候処、賊兵支兼敗色相見エ候ニ付、兵隊分配仕、一手ハ正面之野山ヘ攀上リ、一手ハ薩藩、一手ハ土藩ト同手ニ相成進撃仕、賊兵敗走ニ相及、羽太村熊村、馬船村辺迄進撃仕候処、賊兵民家ヘ放火仕、退散ニ相及候故、八字頃兵隊相纏、持場ヘ引揚申候、弊藩人数之内、一人モ手負無御座、賊二人切捨、其余打留候者モ有之候得共、多少不分明ニ候、分取之品々、左之通御座候旨、出先隊長上田甚五左衛門ヨリ申越候ニ付、不取敢此役御届申上候、以上
七月七日
蜂須賀阿波守家来 疋田友衛
分捕品々覚
一、小銃 二挺 一、大小刀 二腰
一、小旗 白地ニ赤ノ日丸 二流 一、袖印 仙台藩 一ツ 一、胴乱 一ツ
以上
別紙写之通、於東京御総督府御届申上候旨申来候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十九日
蜂須賀阿波守内
根本熊次郎

【奥州及位口ノ戦】
同日小倉藩届書写
七月十日夜九ツ時、弊藩人数三小隊院内出発、翌未明本道及位口ヨリ、肥前大砲一門先ニ立、弊藩小銃ヲ以横矢ヲ打、次第ニ進撃、及位村内ヨリ賊之台場ヘ打出、賊徒忽敗走ニ付、尾撃仕候処、絶頂辺之台場ヨリ頻ニ拒戦仕候ニ付、尚又烈敷攻立候得共、至極之険難要害之場所ニテ其功相立不申、且又最前新庄藩ヘ、応援之約束申置候得共、無其聞、八ツ時半頃迄力戦仕、次第ニ兵隊疲労ニ付、賊之巣窟及位村放火、兵隊繰引、下山、一先院内迠引揚申候、此段不取敢御届申上候、尤死傷、分捕、左之通ニ御座候
分捕
一、臼砲 <榴弾四発添○此榴弾ヲ以忽賊之台場へ打込申候>一門
一、頭形兜 一ツ 一、火縄 一束
一、韮山笠 二枚 一、風呂敷包 一ツ
一、胴乱 ニツ 一、幕 半張
一、和筒 三挺 一、インヒユル 一挺
一、垂駕 一挺
一、討死 徳永吉太郎隊 上田篤兵衛
一、手負 葉山平右衛門隊 高木太兵衛
一、同 松島六治
一、同 志津野源之丞隊 安成昇兵衛
一、同 同 木村旋蔵
右之通ニ御座候、以上
月日
小笠原豊千代丸人数頭 平井小左衛門
右之通、於羽州表御総督ヘ御届申上候段、申越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十九日
小笠原豊千代丸内
丹羽六兵衛
入江宗記

【奥州釜ノ子、西須賀川ノ戦】
同日彦根藩届書写三通
当月廿四日、弊藩固メ場所釜ノ子駅ヘ、賊襲来候様子ニ付、直ニ大隈川辺ヘ出張、手配致シ候処、九ツ半時頃賊勢四五百人押寄、頻リニ発砲、一旦川中央迄モ進来候処、大小砲ヲ以撃退ケ、薄暮止戦仕候、其節味方手負、別紙之通ニ御座候、此段御届申上候、以上
七月廿八日
井伊掃部頭家来 河手主水
三浦半蔵隊 平塚市左衛門
青木十郎次隊 中川喜多郎
右手負ニ御座候
七月廿六日払暁、弊藩先手分隊田毎神村出発三春ヘ進軍仕候処、開城降伏相成候間、同夜先鋒館林、弊藩人数ニテ城受取リ申候、其節残賊散乱致候内、別紙之通生捕、分捕仕候趣、三春出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上
八月五日
井伊掃部頭家来 河手主水
生捕一人<福島藩遠藤謹吾>搦取人 久保田松之進
同一人<仙台藩佐々木賢之助>同 田中外次郎
同四人仙台藩<加藤九三郎 佐藤金太夫 芳賀宇佐次 佐藤左門>
以上
一、小銃 四挺 一、弾薬 一箱
一、弾薬 三包
右分取ニ御座候
七月廿七日、弊藩先手分隊三春陣払、各藩同様二本松ヘ進軍仕候処、本宮駅入口阿武隈川渡船、賊徒共悉引揚置候ニ付、筏組立、同夜九時頃一同渡船、翌廿八日未明、須賀川会津口等諸道ヨリ賊徒襲来候ニ付、弊藩人数会津口両路ヘ進撃、追却仕候処、後西須賀川口苦戦之趣ニ付、急速返援、半道計尾撃、終ニ未ノ半刻止戦仕候、其節討取、生捕并弊藩死傷、別紙之通御座候趣、本宮出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上
八月五日
井上掃部頭家来 河手主水
一、首 仙台藩 八級 一、生捕 同 五人
右討取生捕ニ御座候
一、討死 貫名徳次郎隊 木田余喜一郎
一、軍事局付 田中外次郎
一、手負 貫名徳次郎隊 中川織之進
磯島新七
平山信太郎
大砲隊 大塚路之介
常盤平蔵
堀部弥次郎隊
寺田権三郎
右討死、手負ニ御座候
考正
第四十四巷、第一葉前面ノ、飯田藩届書トアルハ、椎谷藩ノ誤リナリ

太政官日誌・慶応4年58号

太政官日誌第五十八
慶応四年戊辰秋八月

【御東幸御道筋ヘ金札御貸下ノ事】
八月十四日御布告
不遠東京行幸被仰出候ニ付、東海道筋藩々ヘハ、御道筋ノ儀ニ付、別段ノ訳ヲ以テ、兼テ被仰出候石高拝借ノ金札、高三分ノ一ヲ以テ御貸渡相成候間、朝廷御仁恤ノ御趣意ヲ体シ、領民撫育方行届候儀、可為肝要候条、金札取扱方専ラ領民末々迄、御趣意貫徹、融通相成候様取計可有之候事
但、廿八日ヨリ晦日マテニ、会計官ニ於テ御下渡ノ事
八月

【越後路官軍苦戦ノ事】
同日大垣藩届書写
越後地ヘ出張之弊藩并同新田人数、兼テ赤坂峠、花見沢、亀崎等ヘ分隊相固罷在候処、去月廿四日夜賊兵襲来、其後モ連日苦戦、長州、高田、松代、其外加州勢等時々合兵、必死尽力仕候得共、已ニ糧道ヲモ被断、殆危困ニ追リ、或横撃、或殿戦、遂ニ半蔵金迄引揚、同所ニテ各藩合兵防戦仕候、尤混雑中ニ付、概略申越候趣ニ御座候、此段御届申上候、以上
八月十四日
戸田釆女正家来 甲斐卯太郎
同日大垣新田藩届書写
北越表ヘ兼テ差出置候、淡路守人数、本家采女正人数合併、同国花見沢台場相固罷在候処、去月廿四日夜、賊襲来及激戦、且長藩持場ヘ、賊徒ヨリ頻リニ砲発苦戦之節、弊藩人数斜ニ進撃致シ、賊終ニ大敗ニ及申候、其後連日苦戦罷在候条、委細之儀ハ采女正ヨリ御届可申上候、尤弊藩人数手負左之通ニ御座候、此段出先之者ヨリ申越候間、不取敢御届申上候、以上
八月十四日
戸田淡路守家来 有竹衛門
重傷 銃隊司令士 大高周治
同嚮導役 原錠之助
<激戦中深入仕候歟、死生不分明>銃卒 竹田梅治

【山陵御参拝被仰出】
同月十五日御布告
先達而御延引ニ相成候山陵御参拝ノ事、来十七日被仰出候事
右ニ付、当日御出輦迄ハ、重服者可憚事
八月

【奥州熊町付近ノ戦】
同日芸州藩届書写
奥州口出兵弊藩、川合三十郎引率人数、去月十五日平潟ヘ到着、追々進軍、同廿二日岩城平繰出、同夜未次村ニテ、斥候ノ者差出シ候処、不計賊兵出合、暫時取合、双方引分レ、翌廿三日一字頃ヨリ亀ヶ崎辺ニテ戦争、同日四字頃浅見川迄賊兵引退、翌廿四日早天広野辺迄追払、引績進撃、同廿五日朝七字頃ヨリ八字頃迄戦争、遂ニ賊兵敗走、同廿六日尚又広野口ニテ戦争、同夕四字頃木戸迄追討、此日殆苦戦、同廿七日休兵、翌廿八日富岡辺ニテ大戦争、同日熊町迄押寄候処、賊兵同所自焼引退、賊ノ死傷多分有之趣ニ候処、未タ接戦中報知ノ者罷帰候儀ニ付、其後ノ義ハ相分リ不申候、尤弊藩死傷等モ不少趣ニ御座候得共、尚委細報知ノ上、御届可仕、且弊藩一手ノ儀ニモ無之、筑前、長、因ノ藩々ヨリモ御届可有之候得共、同所ニ於テ御総督府并ニ、江戸府ヘモ、出先ヨリ夫々御届申上候、大意報知ノ侭、不取敢御届申上候、以上
八月十五日
安芸少将内
熊谷兵衛

【賀陽宮御謹慎ノ事】
同月十六日賀陽宮ヘ御沙汰書写
賀陽宮
兼テ御不審ノ筋有之、被止参朝謹慎被仰付置候処、頃日不軌ヲ謀候趣、全一己ノ存慮ニテ、徳川慶喜等ヘ密使差遣シ可内応隠謀及露顕、勅使ヲ以御糾問相成、無相違旨言上、然ルニ慶喜ニ於テハ、悔悟恭順、愈以謹慎罷在候処、皇族トシテ不容易所為、甚以不届至極ニ付、厳重ノ御沙汰ニ可被及筈ニ候ヘ共、格別ノ叡旨ヲ以、寛大ノ典ニ被行、親王弾正尹宣旨、二品位記並御養子被召上、安芸少将ヘ御預被仰出候事
八月
右ノ通賀陽宮ヘ御沙汰ニ相成候ニ付而ハ、向後朝彦ト称シ候事
同日芸州藩ヘ御沙汰書写
安芸少将
今般賀陽宮御不審ノ筋有之、其藩ヘ御預被仰付候、就而ハ万端意ヲ用ヒ、精々手篤取扱可致様御沙汰候事
但、格別ノ思召ヲ以、御預被仰付候儀ニ付、当分御手当トシテ金二千両下シ賜リ候事
八月
同日伏見宮ヘ御沙汰書写
伏見宮
今般賀陽宮不容易所為有之、安芸少将ヘ御預被仰付候、就テハ格別ノ思召ヲ以、右家族并家来トモ其宮ヘ御預被仰付候条、幼稚ノ輩ハ殊更意ヲ用ヒ、精々手篤取扱可致様、御沙汰候事
但、御預中用度ノ儀ハ、夫々御手当モ可有之、委細取調ノ上、可申出候事
八月

【砲台規則ノ事】
同月十七日長崎府ヘ御達書写
長崎府
其府諸砲台ノ儀、更ニ規則相立、要衝ノ場所ハ府兵ヲ置キ、厳重ニ守衛致シ、無用ニ属シ候分ハ相廃シ候様、被仰付候事
但、砲台ノ規則、府兵ノ紀律等ハ、追テ於軍務官決議ノ上、天下一般ノ御定則可被
仰出候間、其砌速ニ改致候様、心得置候、御沙汰候事
八月

【米医ベタル兵庫ヘ召サル】
同日長州藩ヘ御沙汰書写
長州
其藩ニ相雇居候、米医ベタル、此度御用有之候ニ付、其趣得ト申聞、早急兵庫表ヘ差越可申事
但、右人雇入ノ儀、未タ御届不申出候処、已ニ御政体ニ被仰出ノ趣モ有之ニ付、以来ハ外国人雇人ノ儀、相伺可申候事
八月

【酒井氏帰邑差許サル】
同日姫路藩ヘ御沙汰書写
酒井直之助
其方儀、是迄滞京罷在候処、先達而御内論モ有之儀ニ付、一先帰邑、旧弊一洗、人才登庸、家政向改正致度旨願出、尤ノ儀ニ被聞召、依之御暇賜リ候条、帰邑致候上ハ、兼テ御誓約被為在候、御趣意ヲ奉体認、一藩方向ヲ定メ、上下一致王事ニ勤労可致儀ハ勿論、未タ東北平定ニモ不立至候ニ付、愈以兵備ヲ厳ニシ、在所表ニ於テ御指揮奉可待旨
御沙汰候事
八月

【奥州賊軍十三ケ村ニ放火ノ事并浅川ノ戦】
同日黒羽藩届書写二通
七月廿五日、野川三斗小屋口ヨリ賊徒押来、朝五時前ヨリ所々放火、金子品物等奪取リ焼失致シ候、弊藩領分村々左之通
高久村 小幡村 丸山村 桜久保村
岡室村 茅沼村 薄室村 巻落村
菱喰内村 山梨子村 田代村 茗荷沢村
松子村
村数合十三箇村.家数百廿一軒
右領分二心無之村々ニ御座候、此外敵地近接先方ヘ随従ノ村方ハ放火無之候、賊徒所々手分ケ放火致シ候ニ付、聢ト人数不相分候、右ニ付越堀駅ヘ、兼テ在居候烏山藩人数繰出、弊藩ヨリモ不取敢人数差出候得共、隔居候場ニテ、最早賊兵逃去後ニ御座候、依之要路相固メ罷在候、此段不取敢御届申上候、以上
八月三日
大関泰次郎家来 野村右衛門
右之通、東京府ヘ御届申上候趣、今般在所表ヨリ申越候ニ付、御届申上候以上
八月
大関泰次郎家来
公務人 小山勘解由
当十六日明六ツ時頃ヨリ、奥州浅川之方ニ当リ、砲撃頻ニ相聞候間、斥候差出候処、浅川表ヘ賊兵襲来候模様、依之薩州藩并弊藩申合都合百人為応援速ニ繰出、下毛野出島村ヨリ社川ヘ相掛候処、折節洪水ニテ甚難儀苦心シテ人数押渡リ、賊之形勢伺候処、浅川村ヨリ四町余相隔、城山ト唱、大木繁茂之要地ヘ賊多人数登リ居、山上ヨリ三ケ所ヘ大砲三門伏セ置、厳敷発砲、猶又山麓ヨリ浅川入口彦藩備場ヘ、追々相迫打掛候、依之薩藩及弊藩人数、夫々分配.賊ノ横合并裏手方ヨリ頻ニ打掛、暫時及戦争、然ル処、賊兵敗走仕候、因テ少々追撃、午刻ニ至リ惣軍引上ケ、浅川邑ヘ繰込、暫時休息、申刻過釜子村ヘ帰陣仕候、且弊藩ニテ賊兵四人討取申候、味方即死手負等無御座候、此段御届奉申上候、以上
七月廿一日
大関泰次郎家来 隊長 五月女三左衛門
右之通、東京府ヘ御届申上候由、今般申来候ニ付、御届申上候、以上
八月十七日
大関泰次郎家来
公務人 小山勘解由

【岩城平城陥ル】
同月十八日岩村田藩届書写
安藤対馬守
右領分奥州磐城平城、七月十三日落城仕候段、於東京去朔日、御総督府ヘ別紙之通御届申上候旨、対馬守在京家来共迄申越候ニ付、別紙写相添、御届可申上ノ処、禁足中ニ付、此段私方ヨリ御届申上候、以上
八月十八日
内藤志摩守家来 藤田百助
別紙写
対馬守在所奥州岩城平ヘ去月十三日天兵御討臨ノ処、出張致居候仙藩始近国ノ兵隊、多人数有之候得共、諸手敗北、士卒散亡、夜ニ入城中燃上リ落城仕候趣、尤遠方ヨリ見受候儀ニ付、委細相弁不申旨、足軽熊蔵ト申老昨夜到着申立驚入、何共奉恐入候次第ニ御座候、此段不取敢御届申上候、以上
八月一日
安藤対馬守家来
山上安之進

太政官日誌・慶応4年57号

太政官日誌第五十七
慶応四年戊辰秋八月

【越後路ヘ増兵ノ事】
八月十三日大垣藩届書写
采女正家来越後路ヘ出兵ノ者共、奥州出張人数ヘ合兵之儀、過日願之通被仰付候ニ付、其段出先ヘ申遣候処、北越之儀、危急之御場合ニ候間、従御総督府御差留之御達有之、且参謀衆ヨリ、押テ相留候様、厚キ御申渡モ有之候ニ付、其侭滞陣罷在、連々之戦争、寡勢難苦之趣、急便ヲ以テ申越候、依之増人数、別紙之通北越ヘ至急繰出、両道ニテ為勤候心得ニ御座候、且末家戸田淡路守人数之儀モ先是迄之通、北越之方ニ差置候心得ニ御座候、此段御届申上候、以上
八月十三日
戸田釆女正家来
甲斐卯太郎

軍事奉行一人 隊長助并役二人
軍事役二人 戦士六十四人
喇叭方一人 医師并諸役人六人
持夫并小者二拾五人
右之通.越後路ヘ為増人数、出兵為仕儀、以上
八月十三日
戸田釆女正家来
甲斐卯太郎

【賊軍大田原ニ迫ル】
同日大田原藩届書写二通 追録
五月二日、三斗小屋口ヨリ賊軍押出、領内横林村ヘ襲来、未ノ上刻、同所ヨリ報知有之候ニ付、兼テ右道筋石林村手前ヘ人数繰出置、警固罷在候処、俄ニ賊兵凡千余人襲来候間、不取敢大砲小銃交発、猶又城中ヨリ追々繰出シ良暫ク尽力防戦仕候得共、相用候小銃ハ和筒ニテ、折節大雨中、銃口ヘ追々水気湿入リ、弾薬ヘ火移リ兼、急遽ノ場合如何共手廻リ不申、尤賊兵五六人打取候エ共、於弊藩ハ別紙ノ通討死、手負之者有之、何分賊軍多人数、諸方ヘ分隊、一時鏖戦之模様、少人数難支同所引揚ケ、大手口ニテ暫時扞戦仕候、然処、益大雨ニテ砲発不相叶、其虚ニ乗シ、賊徒市中所々ニ放火シ、郭内ヘ撃入、士屋敷二十軒余放火、本丸ヘ逼リ候間、惣軍本城ヘ繰入一二ノ郭ニテ一同尽力砲戦仕候処何分少人数扞禦不行届一之郭述賊兵打入候ニ付、之郭、本丸郭ヘ兼テ据置候狭間筒ニテ賊軍隊長ニモ可有之哉、胡床ニ倚リ、団扇ニテ指揮シ候者一人ヲ打留、其外戦士十徐人打斃シ候、内一人ハ首級ヲ打取候エ共、賊軍多人数、聯モ退去不仕、追々相迫リ、烈敷発砲仕候ニ付、防拒之術相絶、郭内作事小屋ヘ手勢ノ内ヨリ放火仕リ、攻口取押置、城中司令士勢兵差置、一旦惣勢城地裏四五町隔リ、寅卯ノ方中田原山ヘ引揚、賊軍ノ拳動ニ依リ再戦夜軍ノ用意致シ居候処、賊徒共之儀、一之郭迄撃入リ、二之郭ヘハ不攻来、同夜四時過林石村之方ヘ引上ケ、同村放火仕、不残退散致シ候、依之白川、宇都宮両所之官軍御人数先ヘ、重役共罷出、御注進、御援兵之儀願上候、賊兵ハ即夜退去仕候間、中田原山ヘ引揚候人数、同夜城内ヘ繰入レ厳重守備仕候、其後賊之進退相分不申、何時襲来之程モ難計段、五月五日東山道御総督府ヘ御届申上候趣、従在所表申来候ニ付、此段御届申上候、以上
六月二日
大田原鉎丸家来
大谷長太郎
一、閏四月十六日、賊軍宇都宮領大綱ニ屯集罷在候処ヘ長、忍両藩之兵攻撃、終ニ官軍勝利ト相成候
一、同廿一日、賊軍黒羽領三斗小屋ヨリ同領板室へ押出シ、夫ヨリ領内塩野崎付へ襲来候処、同日早朝薩、長、垣、忍、四藩兵隊之内、同所へ攻撃、翌廿二日引績再戦、板室迄進撃官軍大勝利ニ御座候
一、同廿三日、領内関谷村へ賊徒襲来之警報有之候ニ付、同早朝官軍出張打払之節、嚮導之者四人差出ス、是亦官軍勝利ニ御座候
右ハ官軍夫々ヨリ、巨細御届相成候儀ト奉存候
但右賊徒共襲来之模様有之ニ付、去月十九日石林村手前ヘ、一隊人数差出置候、昼夜巡邏罷在、尚又沼野袋村ト申方ヘモ、板室口ヨリ之間道ニ付、半小隊并大砲二門相備ヘ、是亦昼夜巡邏罷在候
一、同廿五日ヨリ当朔日迄、官軍御人数滞留ハ勿論、其後進軍之分、当駅ニ一泊ニテ追々御繰出ニ相成候
一、右ニ付、廿五日暁ヨリ手勢一小隊、関谷村ヘ繰出シ、警衛罷在候処、賊徒襲来モ無御座候ニ付、巡邏人数差置、其余同日引上申候
一、五月二日未ノ上刻、城下荒町口ヨリ石林村之間、経塚ト申所へ賊徒襲来、暫時砲戦、賊兵五六人打斃申候
一、同日於城内戦争之節、賊徒凡十人余打留申候、尤敵方夫々死骸取片付候間、確ト人数相知レ不申候
但内一人、頭立候者ト相見エ候士之首級打取候
一、分捕品々左之通
白旗 会字ヲ記ス 一流
小銃三挺
一、同日、荒町口ヨリ郭内ニ於テ、家来ノ者死傷姓名如左
戦死
使番 大田原鉄之進 戦士組頭 早川雄太郎
戦士 久島総太郎 徒士 栗田作二右衛門
大田原安之進組足軽 長岡伝四郎 同上 吉田勘兵衛

長柄奉行 平野鐐之助 大砲方 内山藤五郎
大砲方 斉藤邦之允
一、於此方、賊軍ニ被奪取候武器、左之通
大砲 一門 鞍置馬 戦死之者所騎 一匹
右之通ニ御座候、以上
大田原鉎丸家来
大谷長太郎

【越後口ノ官軍配置】
同月十四日越前藩届書写
越前守先隊、七月十五日越後国長岡表ヘ着、直ニ御本営ヨリ御達ニ付、与板口別紙之通六ヶ所ヘ出張、同十六日同所御達ニ付、出雲崎口別紙之通二ヶ所ヘ出張、日々賊塁ヘ相対シ、及砲戦、同廿九日諸軍進撃御達ニ付、当月朔日、二日与板.出雲崎口トモ諸口進撃、弊藩持場乙茂口、有賀清門、高村藤兵衛隊、賊塁馬草村ヘ攻入砲台ヲ乗取、柿木、藤巻モ同様相進、笠脱ハ武曽権左衛門隊相進、烈戦敵之巣窟小島谷ヘ乗入、績テ林藤五郎隊并見立山之遊撃隊進入、柿木山上栃屋政之助隊モ同様相進、川岸遊撃隊ハ与板川ヲ打渡シ相進、撒兵ヲ以、小島谷辺ヨリ敗走之賊兵ヲ打散シ、堀十兵衛隊モ別紙之通進撃、遂ニ地蔵堂村ヘ集会軍議之上、尚追々相進候趣御座候、右戦争中手負分捕等相知レ候分、別紙之通ニ御座候、且又本多奥之助儀ハ七月廿四日越後国柏崎ヘ着、直ニ御総督府ヨリ御達ニ付、即晩出雲崎ヘ人数出張、追々進撃、奥之助儀モ当月二日同所ヘ出張致候趣御座候、右ハ出陣先ヨリ申越候概略、不取敢御届申上候、尚委細之儀ハ追々可申上候、以上
八月十四日
松平越前守家来
伊藤友四郎

一、川岸 遊撃隊五番 坂野壮九郎
一、柿木 栃屋政之助 一小隊
右七月十六日出陣
一、笠脱山之尾 高遠持場一小隊 武曽権左衛門 一小隊
一、見立山之先キ 遊撃隊六番 織田三大夫
<長州富山>持場二小隊 但内富山ト交代
一、阿弥陀瀬山之上 高田持場一小隊 林藤五郎 一小隊
一、元与板之山上 飯山持場一小隊 本多門左衛門 一小隊
右七月十七日出陣
一、川岸 大砲一門宛
一、見立山之先キ 大砲隊一分隊宛
右七月十八日出陣

一、乙茂 有賀清門 一小隊
高村藤兵衛 一小隊
大砲隊
右七月廿日出陣
一、藤巻 堀十兵衛一小隊
菅沼司馬一小隊
右同日出陣
右何レモ諸藩ト致交代候事

原村川岸
中条村迄進軍 遊撃隊五番 坂野壮九郎
見立山之先キ
富岡村迄進軍 遊撃隊六番 織田三太夫
元与板之上
田尻村迄進軍 本多門左衛門一小隊
笠脱山之尾
島崎村迄進軍 武曽権左衛門一小隊
阿弥陀瀬山之上
同 林藤五郎一小隊
柿木村山之上
同 栃屋政之助一小隊

深手 分隊長 園田豊之助
手負 遊撃隊 田中新太郎
土坑隊長 東方新吉
栃屋政之助隊 斉木幸太夫
林藤五郎隊 木村綱三郎
有賀清門隊 岩佐林太郎
夫卒四人
右之通ニ御座候、以上
分捕品覚
一、琉球包 弐筒
一、弾薬箱 庄内木本隊ト記ス 四ツ
一、テント棒 庄内石原組ト記ス
一、大砲弾 弐箱
一、撃発銃 九挺
一、背負玉箱 弐ツ
一、番指刀 十八本
一、油紙包胴乱早合入
一、筵包 衣類入 一箇
一、半銅モルチール 一門
右之通ニ御座候、以上

太政官日誌・慶応4年56号

太政官日誌第五十六
慶応四年戊辰秋八月

【越後与板付近ノ高田藩手負】
八月十二日高田藩届書写三通
家老村上主殿隊、出雲崎口ニ守衛罷在候処、乙茂村台場兼而薩州持ニ御座候処、六月廿二日俄ニ越前藩ト交代ニ相成候ニ付、同藩ヨリ弊藩番頭柴田武四郎ヘ、諸事打合罷越候ニ付、同人儀モ乙茂村台場ヘ出張申談中、折節小迫合ニ而致手負候、且又去月朔日大黒村斥候ノ者、同六日乙茂村台場、同廿三日与板領見立山台場小迫合ノ節、手負之者、別紙ノ通御座候旨、在所表ヨリ申付越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十二日
榊原式部大輔家来
柴田定右衛門
竹田十左衛門隊
七月朔日手負 銃隊足軽 山田半次郎
村上主殿隊
銃隊足軽 菱谷音八
同 榊原若狭隊
銃隊足軽 長池徳蔵
同廿三日
右之通御座候、以上

【越後大里ノ戦】
去月二日暁七ノ半時頃、弊藩竹田十左衛門隊持場大黒村砲台ヘ賊兵大雨探霧ニ紛レ、梢ク五六間ニ追リ近ツキ、多人数押寄候ニ付、護兵速ニ相応シ烈敷及砲戦候内、凡百人計、砲台右ノ方ヨリ廻リ、俄然ト突入、厳敷砲発候ニ付、微勢ノ味方甚タ苦戦ノ折柄、監士伊奈平八郎、松井庄左衛門、旗奉行吉田巳之助及ヒ高田表ヨリ繰込、去月朔日夜着、大黒村下陣ニ暫時休息罷在候銃士等、合テ十余人、右烈戦ノ砲声ヲ聞キ、一斉猛進、吶喊及発砲候得共、賊兵已ニ砲台門ヘ突衝迫近候故、継而銃ヲ発スルノ暇ナク直ニ短兵手詰ノ勝負ト成リ、必死奮励及激戦候得トモ、賊兵モ窮困必死ヲ期シ候哉、容易ニ敗走ノ色モ不相見数刻烈戦中、弊藩新兵隊ノ内、分隊横合ヨリ頻々打立、且薩州勢モ為援兵繰込ミ来リ、戮力致合撃候処、縦横ノ兵勢当リ難ク辟易致潰敗候、右台場内ニ於テ討取処ノ賊十九人、傷者其数ヲ不知、且大黒村砲台ノ儀ハ薩藩持場、弊藩持場ト相接シ、長藩持場モ近傍ニ有之候処、賊兵同時ニ烈敷打掛リ候得共一同奮激手痛ク及砲戦候ニ付、賊等進ミ不得、其上前件ノ通リ。弊藩台場ヘ突入ノ賊潰敗散走ニ付、旁気勢相阻ミ候哉、巳ノ刻頃終ニ大敗惣崩レト相成リ、或匍匐田畔ヲ伝ヒ、或ハ傷キ深田ニ陥没シテ遁去候ニ付、愈狙撃イタシ候処、塁外ニ於テ打斃シ候賊徒死傷許多、其数難算候旨申越候、右去月二日大黒村戦争勝利ノ概略ニ御座候、其節弊藩死傷ノ者、別紙ノ通ニ御座候旨在所表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十二日
榊原式部大輔家来 柴田定右衛門
竹田十左衛門隊
戦死 用人 伊奈平八郎 目付 松井庄左衛門 旗奉行 吉田巳之助 銃士 大須賀唯四郎
松下三郎左衛門 中村才吉
以下銃卒
山口半右衛門 山下清作
神田重蔵 渡辺健次郎
金井理介 北条徳蔵
小川要八
深疵揚取後死
銃士 鈴木運八 竹田十左衛門家来 須藤三弥 銃卒 村上孫右衛門
手負 用人 桑原七郎次 目付 水野滝之助
銃隊差図役 島川杏蔵 以下銃士 生田弾治
前田門之丞 関本文四郎
金沢又蔵 以下銃卒 早津喜十郎
山岸桂蔵 宮崎鬼一
安原友吉 岡田弥介
関要吉 軍夫一人
右之通御座候、以上

【越後比礼峠ノ斥候戦】
弊藩伊藤弥惣隊ノ内、物頭設楽宰助、坂田藤江、組足軽ヲ引率シ浦瀬村ヨリ比礼峠ヘ相進ミ、対陣罷在候処、去月八日賊軍比礼村ヘ襲来及砲戦候内、峠下ヘ賊ノ斥候ニモ可有之ヤ、二人来リ候ニ付、組足軽池田善太郎、斉藤嘉一兵衛、広瀬信吉三人見分トシテ差出シ何レノ藩士ニ候哉ト、及詰問候得共、聢ト答モ不致候ニ付、討取可申哉ト存候折柄、松代藩物頭山口信八郎ト申者参リ掛リ、同人トモヘ猶及糾問候処、村松藩ニテ同勤ノ者相尋候杯ト申、甚タ疑シキ体ニ付、糾明之筋有之候間、双刀相渡可申ト申聞候処、側ヨリ賊ノ若党体ノ者、信八郎ヘ切掛リ、同人手負候ニ付、直ニ善太郎入替リ切合候処、是亦深疵受ケ候ニ付、続テ信吉打掛リ、賊ヲ疵付接戦候内、外一人ノ賊ハ嘉市兵衛鉄砲ニテ打留メ夫ヨリ切詰居候信吉ヲ助ケ、遂ニ賊兵二人トモ討取申候、尤善太郎儀ハ深疵ニ付即死イタシ候其節働ノ次第并分捕品ノ儀、不取敢参謀衆ヘ相届候処、右品ノ儀ハ信吉、嘉一兵衛両人ヘ被下置候旨、被相達候段申越候、此段御届申上置候、以上
八月十二日
榊原式部大輔家来 柴田定右衛門
分取
大小一腰 刀一本
胴乱二ツ
右之通御座候、以上
八月
被仰出、被仰下、被仰付並御達等ノ事

【同月十三日御布告】
一、被仰出、被仰下、被仰付、御沙汰等之文字ハ行政官之外不相用候事
但シ大総督府、鎮将府ハ格別ニ付、御沙汰之文字相用候儀不苦、被仰出、被仰付等之文字ハ不相成候事
一、五官、府県ニ於テ被仰出、被仰下、被仰付御沙汰候ト可相認程之儀并ニ重立候御布告等之儀ハ、行政官ヘ差出、議政官決議之上行政官ヨリ御達相成候事
一、御達書ニハ、総而行政官ト相認候事
尤重立候事件ニハ押印
一、五官、府県ヨリ達書ニハ、其官、其府、其県相記シ候事
尤重位候事件ニハ押印
一、五官、府県共、御布告之類、其配下ヘ相達候文例、左之通リ
(書式・略)
一大総督府、鎮将府ヨリ御達文例、大略左之通リ
(書式・略)
重立候事件ハ
一、行政官之外、被仰出、被仰下、被仰付等之換字、申付、申達等之語ヲ相用候事
但シ行政官ヨリ、御達相成候旨趣ヲ伝候文字ニハ、被仰付、御沙汰等之文字相用候儀、第一雛形文例ニ準候事
右之通、御規則御取極被仰出候事
行政官

【米価暴騰ノ為酒造制限ノ事】
当辰年之儀、国ニ寄戦争又ハ風水之災等モ有之、米価沸騰、諸民難渋之趣相聞候、依之当年酒造之儀、元高之三分一仕込可申、万一心得違過造等致候者ハ厳重御咎可被仰付候条、此段向々ヨリ酒造人共へ可相達事
行政官

【越後与板付近ノ戦】
同夜越前藩ヨリ急報知書 節録
本月三日越後表ヨリ之急報、同十日福井へ着、同所翌十一日立ニテ、今晩着、左之通報知仕候
越前守先隊、七月十五日越後国長岡表ヘ着、直ニ御本営ヨリ御達ニ付、与板口六ヶ所出張其後御達ニテ諸所出張、日々敵塁ヘ相対シ及砲戦、同廿九日諸軍進撃御達ニ付、当月朔日、二日諸手進軍、弊藩先隊之内、敵塁馬草村へ攻入、砲台ヲ乗取、柿木、藤巻、笠脱ヨリモ同様相進烈戦、敵之巣窟小島谷ヘ乗入、其余之先隊モ諸方ヨリ相進、遂ニ地蔵堂村ヘ集会、軍議之上、尚追々相進候筈ニ御座候、扨官軍勝利ニテ、賊軍ハ大敗走、三条迄逃行候処、官軍続テ進撃相成候故、此処モ逃散<会人モ右三条ヲ退候節ハ、余リノ瓦解故落涙シメ逃延候由>加茂之方ヘ落行申候、右ニ付明四日ニハ何レ攻撃之筈、賊軍迚モ一支モ出来申間敷、官軍勝利無疑被存候趣、右与板、出雲崎之官軍次第ニ相進<官軍相進候処、所在之父老、欣然相迎、実以箪食壷漿之情状ニ御座候由>最早新潟之官軍ト連続之運ヒニ御座候、不取敢概略申上候

太政官日誌・慶応4年55号

太政官日誌第五十五
慶応四年戊辰秋八月

【越後薬師峠、三仏生ノ戦】
八月十日飯田藩届書写追録
越後筋賊徒為追討、応援人数一小隊、四月中差出候旨兼テ御届申上置候処、閏四月廿六日越後国雪嶺戦争之節、弊藩兵隊錦旗御警衛ニテ出張、同日夕刻先鋒ト入替リ相進候処、賊徒散走致候ニ付、小千谷陣屋迄相進、五月三日片貝ヘ賊兵押寄候趣ニ付、御総督府監軍岩村精一郎殿一同、松代藩一小隊、弊藩一小隊、尾藩人数出張之処、途中薬師嶺ヘ賊勢相迫リ候趣ニ付、直ニ同所ヘ向ヒ松代隊ハ山之左ヨリ弊藩隊ハ山之右ヨリ撤兵ヲ以攻登リ候処、賊兵大砲小銃ヲ以相防<此時中川雄之助傷ツク>賊ハ高ニ在テ楯ヲ取リ、味方ハ卑ニ在テ攻撃甚難戦ニ付、暫ク発砲ヲ止メ、草萱ノ下ヲ潜リ、敵之間近ヘ出、一同奮励、鬨ヲ造リ攻撃致シ候処、賊兵忽敗走致候ニ付、松代隊、弊藩一同追撃、此時生捕、分捕等有之、塚之山駅迄相進、申半刻頃、一同人数小千谷陣屋ヘ引揚同月九日妙見ト申処ニ、賊徒押来候趣ニ付、三仏生村ヘ繰出シ、千曲川ヲ隔、烈ク砲戦、敵味方共手負有之、弊藩手負別紙ニ申上候、右之趣出先之者ヨリ申越候、此段御届申上候様、美濃守申付越候
六月七日
堀美濃守家来
淡路藤橘
五月三日薬師嶺戦争之節
生捕 会藩金田百十都隊之由 中村小七
松代藩、弊藩ニテ分捕
弾薬長持 一棹 ホウト 一挺
同所戦争之節手負
物頭 中川雄之助
五月九日三仏生村戦争之節手負
中州雄之助組 吉川信太郎
山村亀次郎
右之通御座候、以上
六月七日
堀美濃守家来
淡路藤橘

【大垣藩ヘ寛典ノ御沙汰】
同月十二日大垣藩ヘ御達書
戸田采女正
其方并家来一同、前罪悔悟実効相顕候ニ付、追々寛典之御沙汰被仰出候処、其後引続於
東北苦戦不一形、国力ヲ尽シ従事報効候段、神妙被思食候、依之先般永禁錮申付置候者共、悉皆赦罪被仰付候条、速ニ所置致シ愈以士気ヲ鼓舞シ、可遂忠節旨御沙汰候事
付リ、当春被召上置候銃砲、今度被返下候ニ付、軍務官ヨリ可受取事
八月

【奥州平城陥ル】
同日備前藩届書写二通
春来江戸在陣仕居候弊藩人数、御達ニ依而六月十日同所出立、廿二日常州平潟ヘ致着陣候処、已ニ薩藩之陣所ニ候間繰越、奥州関田村根陣ト相定置、直ニ斥候相進候処、途中薩藩ノ斥候隊ト併合、相進候折柄、新田村屯集ノ賊兵五十人計進来候ニ付、不取敢進撃、廿四日払暁賊徒追々大島村ニ来リ乱妨放火イタシ候ニ付、弊藩斥候隊ハ直ニ荒町ヨリ惣勢ハ関田村ヨリ、一時ニ進撃、賊徒敗走シ大島川ヲ渡リ及尾撃候処、賊八幡之山上ニ拠リ、抗拒致候ニ付、弊藩人数分隊及攻撃、竟ニ乗取申候、猶賊兵ソヘ村ヲ焼払遁走、新田峠険路ヲ扼シ、山上ヨリ致発砲候折柄、薩藩并柳川佐土原、大村ノ人数相加リ弊藩人数数ヶ所ヘ分隊ニテ頗ル激戦、終ニ賊散乱、洞村ト申所迄敗走仕候、時已ニ日暮ニ及ヒ参謀衆ヨリ人数引揚候様、各藩ヘ御達有之候ニ付、一同人数引揚候旨出先ヨリ申越候間、此段御届申上候、右之節弊藩手負、別紙ノ通御座候、以上
八月
備前侍従家来
沢井宇兵衛

六月廿四日戦争之節
手負 隊長 水野三郎兵衛
大砲隊司令 西浦久次郎
以下大砲隊
林幸之丞 石黒幸次郎
余伝平三郎 野村助太郎
小林助太郎
以下銃隊
岡崎助蔵 赤木佐左衛門
津毛勇次 柴田左之吉
横田藤左衛門 武久辰三郎
伊藤貞次郎 岩知道芳吉
黒田石右衛門
鉄砲師
石井惣七
右之通御座候、以上
八月
備前侍従家来
沢井宇兵衛
六月廿七日、奥州関田宿ヘ相進ミ候薩州、柳川、佐土原、大村、笠間并弊藩ヘ総督府参謀衆ヨリ泉、湯長谷、岩城平ヘ進軍之御達有之、同廿八日払暁整列、三字御手配之通海手ヘ雷発、薩藩弊藩斥候トシテ分隊、泉城ヘ相進ミ、諸所番兵追散シ、両藩共直ニ泉陣屋乗取、尤弊藩一小隊者、植田宿守衛トシテ残置、一分隊黒須根ヨリ進撃仕、其夜者一同泉ニ宿陣仕候、翌廿九日薩、大村両藩浜手ニ向ヒ、弊藩分隊、佐士原藩合併ニテ湯長谷ニ向ヒ候処、賊兵矢板坂之険ニ拠リ、相拒ミ候ニ付、弊藩分隊間道ヲ経テ、右阪之西北ニ至リ本道ノ兵ト夾撃、頗勇戦、賊兵敗走、直ニ湯長谷ヘ迫リ候処、三ヶ所ノ砲台ヨリ大小砲乱発如雨、佐土原藩搦手ニ進ミ、弊藩大手ヘ向ヒ、砲台ヲ攻ム、終ニ乗取申候、時已ニ十二字、兵糧ヲ喫ス、暫時休息、一字後平城ヘ進撃、舟尾、湯本等屯集之賊兵、風ヲ聞テ放火敗走、堀坂之険ニ拠リ抗拒ス、両藩進撃殺傷相当ル、終ニ追崩シ、平城長橋門ニ相迫リ、激戦少時、及黄昏引分ニ相成、同夜湯長谷ヘ引揚宿陣仕候、七月朔日以後、暫ク対陣罷在候処、同六日払暁、賊五六十人計、湯本見張番所ヘ襲来候ニ付、直ニ撃退ケ候、同十ニ日参謀衆ヨリ平城攻撃ノ御達有之、同十三日三字三十分、因、佐、柳、弊藩雷発、昧爽湯本出立、各藩十名ヅヽ斥候トシテ繰出堀坂ノ険ヲ越、藤棚ニテ賊之番兵追払、同所ヨリ両手ニ分チ、本道柳、作、弊藩大砲隊進撃、同期大霧不弁咫尺、下綴村山手ノ賊兵厳ニ防禦致候ニ付、弊藩分隊迂路横撃賊砦ヲ屠リ、本道疾進攻撃候処、御厩村左山手砲台ヨリ大砲頻ニ発シ及応戦、遂ニ関門攻取リ、其内間道ヨリ進軍ノ困藩ト合併、長橋門ニ相迫リ、大小砲ニテ攻撃数刻ニ及申候、一手北山手ヘ佐藩合隊進撃、高坂村ヨリ砲戦相始漸ク進撃、弊藩二手ニ分レ、山上山下ヨリ攻撃、一二ノ仮砲台ヲ破リ、三四ノ台場ヘ放火シ、五ノ台場裏手ヨリ、佐藩、弊藩九名ニテ砲撃、此台場長橋門横矢掛ニテ、門関諸共一時ニ打崩シ、賊兵敗走、各藩城下ヘ乗込申候、此時浜手進軍ノ薩、大村両藩、不明門ヘ乗入薩、因、柳、佐及弊藩才槌門ヘ乗入、諸手攻撃仕候処、賊兵要地ニ砲台ヲ設ケ、百方防禦仕候ニ付、弊藩一手ハ長坂、一手ハ大手、六間門、其他分配諸藩一同、勇奮苦戦、殺傷不少、十一字ヨリ六字ニ及ヒ申候、然ル処、参謀衆ヨリ止戦ノ御達有之、各藩長橋門内ヘ屯集仕、衆議ノ上、薩、大、佐等藩ハ不明門才槌門、弊藩ハ久保町口、因藩ハ長橋門外ニ踏止リ警衛、天明相待居候処、一字後俄ニ道ノ火焔、本城ニ起リ、賊兵尽ク脱走、遂ニ及落城候、同十四日城中点検、各藩一同繰込滞陣罷在候、右ノ趣於出先概略御届仕候得トモ、猶又委細申越候ニ付、此段御届申上候、右之節弊藩死傷、別紙ノ通御座候、以上
八月
備前侍従家来
沢井宇兵衛

六月廿九日戦争之節
死 銃隊 岡末藤右衛門 同 塩尻鶴右衛門
傷 中隊司令官 河村駒之介 銃隊 松本若松
七月十三日戦争之節
死 大砲隊 中村亀之進 以下銃隊 高木定之進
岡本秀松 田中兼治
赤井虎蔵
傷 半大隊司令官 浅野忠次郎 小隊司令官 水谷亥孝太
以下銃隊 岡本六蔵 野崎信右衛門
加藤槙之介 夫卒 杉松
右之通御座候、以上
八月
備前侍従家来
沢井宇兵衛
考正
第四十四巻、十三葉後面ノ六月廿三日ハ、廿六日ノ誤リナリ
第五十一巻、第一葉後面ノ感状、左ニトアル上ニ御ノ字ヲ脱ス
同、第八葉後面ノ弊死之侭トアルハ、斃死ノ侭ノ誤リナリ

太政官日誌・慶応4年54号

太政官日誌第五十四
慶応四年戊辰秋八月

【加茂社ヘ行幸ノ事】
八月九日
賀茂上下両社行幸、辰ノ刻御出輦、申ノ刻還幸、是日天気牢晴都鄙人民、盛儀ヲ拝スル者、堵ノ如シ

【官軍大夫浜ヘ着船ノ事】
同日新発田藩届書写
会津為御追討越後路出張之官軍、去月廿五日柏崎表ヨリ御進軍、蒸気船六艘、弊邑大夫浜ヘ着岸、乗組凡ニ千人程、即日上陸之上城下新発田表ヘ御繰込、半ハ松ケ崎、沼垂、両所ヘ御繰込相成、尤城下御人数之内ヨリ即夜五十公野并水原表ヘ御分配、同所陣屋ニハ賊徒少々屯集罷在候ニ付、発砲攻撃之処、暫時ニ敗走、則同所御乗取、尤其節弊藩人数モ差出、其外口々手配仕置候趣御座候、且誠之進儀、幼年ノ儀ニハ候得共、重臣之者付添、柏崎表御総督宮様御陣所ヘ為御用伺、同廿九日参着仕候処、翌朔日御本営ヘ被為召、御目通リ被仰付、御懇之御意ヲ蒙リ、家来之者迄御目見被仰付、冥加至極、難有仕合奉存候旨、以急飛申越候、此段不取敢御届申上候、以上
八月九日
溝口誠之進内
寺田喜三郎

【御東幸ニ付御沙汰】
同月十日御沙汰
三条右大臣
不遠、御東幸被為在候ニ付、御用之儀候条、早々上京可有之旨被仰出候事
薩摩少将
其方儀海路東行被仰付置候処、今般御用有之ニ付、早々上京候様、被仰出候事
伊斯波尼亜条約全権ノ事
東久世中将
伊斯波尼亜国和親貿易条約、取結之儀願出候処、御許容相成、右条約取結之全権、御委任被為在候旨御沙汰候事
寺島陶蔵
井関斎右衛門
伊斯波尼亜国和親貿易条約、取結之儀願出候処御許容相成、右条約取結之全権、東久世中将ヘ御委任被為在候ニ付、同様取扱候様被仰付候事、両人各通
桜井房蔵賊ヲ生捕ル事
平野内蔵助
其方家来桜井房蔵、当春大和国ニ於テ散走之賊徒ヲ生擒、彼是尽力候段、奇特之事ニ候、此旨可申聞候事

【奥州平城陥ル】
同日大村藩届書写
六月廿八日、泉ヨリ平迄攻撃之命ヲ蒙リ、同廿九日未明、薩兵三小隊一同ニ泉ヨリ出兵富岡ニテ賊兵ニ会シ、河ヲ挟ミ相戦候処、賊兵橋上海浜ヘ注目ニ付、薩兵橋外浜手ヨリ追撃、弊藩中央ヨリ徒歩川ヲ渡リ賊ノ不意ニ出候処、薩兵首尾相応シ、各烈敷打立候ヘハ賊兵脚下ヨリ逃出シ、逡巡狼狽致シ候ニ付、水田一面撤兵ニテ追掛々々打立候エハ、敗兵眼前相斃レ、潰裂不支遁逃之折柄、正面山腹之賊兵山下之大砲ニテ弊藩大砲隊ヘ狙撃候エ共、此方ヨリモ不撓大礮ニテ応戦之内、薩一小隊、弊藩半隊押寄候処、直ニ落城、於湯長谷ハ備前佐土原戦争相始メ、破声如雷相聞、<湯長谷ハ富岡ノ横ニアタル>賊兵退散、其折於海浜ハ薩兵、弊藩半隊、残賊駆逐之央、賊之蒸気船往復砲発候エ共、賊之陸軍既ニ遁走致居候ニ付、小名沖ヘ出船致シ候、依テ敗兵追撃ノ処中ノ作ニテ仙賊二三発モ打出候エ共、遁走跡形モ無之候折柄、繋船ヘ発砲之処、潜伏之賊徒、裸体ニテ海ニ投シ遁逃、船中ニテ一人討留候、其後土人申出ニハ、大涛ニテ打上ケ候死骸三十人余、此日富岡ニテ賊ノ死傷百余人有之候
七月朔日未明、薩兵一同小名浜ヨリ平城ヘ発向之処、賊兵城外水田中ヘ撤兵ニテ待受候ニ付、小名道ヨリ薩兵一小隊一同進撃駆逐之処、直ニ退散、城外杉木中町家ヨリ小銃ニテ、城中ヨリ大砲打立候エ共、此方ヨリ水田中撒隊ニテ、正面ニ掛リ候処、此方大砲五六発、城中砲台上ニ轟発ス、其機ニ乗シ、銃隊進撃直入、川土手ヲ楯トシ攻撃致シ、薩兵二小隊ハ已ニ長橋辺之賊追撃候折柄、賊勢挫折候ニ付、今一際奮戦候エハ、抜城覆巣モ豈難カランヤト存シ、乱発シ、遠地ニ付大砲モ城下ヘ取寄度存候エ共、杉木中ヨリ打立候故薩兵横撃応戦之内、弾丸雨注之間漸ク大砲取寄セ、銃砲打立候処、賊兵益畏縮ス、乍去此方銃砲共弾薬乏敷相成候故、薩兵ヘ相通候処、是又十分無之不得已退軍決議ニテ、徐歩繰引打ニテ小名浜ヘ引上候、
七月十三日暁七時、薩兵引続小名浜ヨリ繰出シ、空地山之険地ニ至候エハ、賊兵土俵ヲ築居発砲候ニ付、薩兵先鋒本道、間道、二手ヨリ追撃之処、一敗不支遁逃致シ、平城出丸ヘ相進候エハ、賊徒猶又発砲ニ付、薩兵諸共追立候処、直ニ退散致候、然ル処、城中砲台並小名道正面ヨリ大砲打出候故、此方ヨリモ大砲一門ヲ打立、暫時応戦候エ共、薄磯、湯本両道之兵進入無之故、山上ヨリ賊之形勢相伺小名道ヨリ突進之覚悟候処、薩大砲隊モ到着発砲候エハ、水田緑秧中ニ埋伏之賊兵、俄ニ大砲隊ヘ狙撃突込候ニ付、直追撃取掛、水田横行進戦之処、賊兵城下杉大中ヘ逃込、其内小名、薄磯両道之薩兵、既ニ城下ヘ押詰、湯本諸藩ハ長橋ヲ隔テ押詰、南北ヨリ賊勢ヲ殺キ及激戦、大砲モ無之難相進候ニ付、北方城下ヘ相廻候処、薩兵城地ヲ隔テ、城壁楼櫓ヘ打込候ニ付、一同相加リ打出候エ共、賊徒要地ヲ擁シ、何分難進、殊ニ湯本勢ハ最早城背ヘ相廻リ、賊之遁路ヲ断切、四方ヨリ攻撃候エ共、賊却テ窮鼠之勢ニ相成リ、折々吶喊鐘鼓ヲ鳴シ、寛容ノ気ヲ示シ、益可憎候エ共不得已遁路ヲ開候決議ニテ、追手ヘ廻リ候処、弊藩大砲隊而已、城門ヨリ一町余深入、別ニ小銃之応援無之候ニ付、暫時休戦候エハ、賊勢益狽獗、処々ヨリ狙撃候故、銃卒進撃中大砲引上候覚悟致シ候エハ、戦士手負多ク有之而已ニ付、険路難進、不得已銃隊引上、因州佐土原等一同八幡社中ニ出、城門ヘ打込候内諸藩并弊藩大砲モ引上ケ同所ヘ繰込、銃砲無間断激戦候エ共、城門城壁崩潰不致、諸藩猛士暴進候エ共、二十間許ニテ手負多々有之各心配候エ共、日己黄昏ニ及ヒ、参謀衆ヨリ引上候様沙汰有之、依之市街ニ転陣、此夜薩兵一同北門城壁之下ヘ繰出シ、折々発砲之処、四時過ヨリ賊徒放火遁逃仕候由、尤弊藩手負左之通
六月廿九日富岡ニテ 深手 福田豊次郎
浅手 橋口勘七郎
七月朔日平城ニテ 深手 宮原謙造
浅手 淵山規短蔵
同 十三日平城ニテ 深手 稲田元次郎
松添会輔
寺井八代八
渋江一郎
浅手 大村歓一郎
川勝鉄之助
松野利三郎
松野周吉
塩見助四郎
深手 小者梅吉
右之通、出先ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十日
大村丹後守家来
一瀬伴左衛門

【越後乙茂口ノ戦】
同日小浜藩届書写
兵部卿宮御先鋒、越後出張弊藩人数、去月十七日夕七ツ時、柏崎着陣仕、宮御方監察府ヘ御届仕候処、進退之儀ハ明日御達可相成旨御指図有之、同十八日朝、宮御本営ヘ隊長御呼出シ、弊藩人数急速長岡表ヘ繰出可申旨小監察ヨリ御達有之候ニ付、午刻前押出場合ニ臨、再御呼出シニテ、海岸御手薄ニ付出雲崎ヘ可繰出旨御達替ニ相成リ、直様向ヲ海岸ニ取押出シ、亥刻過出雲崎到着、御総督府ヘ御届申上候処、同廿日夜半参謀ヨリ御中軍ヘ賊徒共夜襲之支度致候様相聞候間、諸口ヘ応援繰出候条、即刻兵隊揃置、長官之者一人可罷出旨、急廻状ヲ以御布令ニ付、相馬驥太郎罷出候処、乙茂口諏訪山台場ヘ弊藩一小隊押出候様御指図有之、同廿一日寅刻出雲崎ヲ発シ、同辰刻着陣、右台場弊藩持場高田藩応援ニ相成申候、当場賊砦ヲ距ル四町許ニテ直様彼ヨリ発砲候ニ付、是ヨリモ相応シ砲戦無止、同廿二日夕方、俄ニ賊砦ヨリ烈敷発砲、左之方、越藩持場ヘ打込、随テ弊藩持場ヘモ、破裂弾并棒火矢打込、屯所ヘモ矢玉益烈敷来リ候ニ付、相応シ打立候事ニ御座候、同廿三日同様砲戦有之候、同廿四日夜中又々砲戦烈敷、依御指図本陣ヨリ大砲隊諏訪山ヘ指出候、同廿五日巳刻前、斥候之者罷帰、大黒辺大戦ニ相成、賊軍ヨリ長岡城下并村々放火、勝敗未相分趣相聞、同刻参謀御陣ヨリ長官御呼出ニテ、一小隊剣ケ峰ヘ出張守衛可致守御達ニ付、午刻前出張仕候処、又々御呼出ニテ、弊藩本陣居残リノ内一小隊、薬師嶺ヘ出兵可致旨御達有之、未刻過繰出申候、右之趣出先ヨリ申来候ニ付、御届可仕様若狭守申付越候、此段御届申上候、以上
八月十日
酒井若狭守家来
原田尉之助

太政官日誌・慶応4年53号

太政官日誌第五十三
慶応四年戊辰秋八月

【奥州白川口ノ戦】
土州藩届書写
五月廿七日、弊藩人数白川表ヘ到着之折柄、薩州、長州持場ヘ賊軍寄来候ニ付、即チ応援仕候、当日戦争ノ始末ハ両藩ヨリ御届仕候儀ト奉存候間、右迄御届仕候、以上
六月
板垣退助
本月十二日平明、白川表諸藩持口ヘ賊軍寄来弊藩持場金正寺山、飯沢山并湯本道等ニテ戦闘午時賊軍潰走、諸手進撃、賊ノ宿営村落所々放火仕候、当日弊藩死傷之人員左之通
田中煌之進 黒岩兼之助
楠瀬六衛
右重創帰営後死
北川源五郎 森本醇助
岡林虎之助 浅田悦七
日比虎作家来
田中茂作
右被創
右之通御座候、以上
六月
板垣退助
討取首級 四十四
生捕 二人
但、樫街道、会津街道等他藩相混シ候場所并叢林中ヘ斃有之分等ハ調不申候
旗 二本 槍 四本
小銃 廿八挺 金 十両計
大小刀 廿九本
当月十二日討取并分捕之品物、右之通ニ御座候、以上
六月
板垣退助
当月廿四日未明、薩、長、大垣、忍、黒羽、弊藩等ノ人数二手ニ分レ、白川発途、弊藩人数二百五十人計、棚倉街道并畑宿通リ致進発候処、関山ヨリ棚倉迄ノ間、所々屯集ノ賊、砲台相構ヘ少時致発砲逃走候ニ付、直ニ棚倉城ヘ推詰候処、賊自焼致シ退去候間、当城下ニ宿陣所在取調等仕候、当日弊藩死傷
左之通ニ御座候、分捕等者追々取調之上御達可仕候
即死 戦士 公文力之助
手負 同 池鯉鮒ニ郎
右之通御届如是御座候、以上
六月
板垣退助
昨廿五日平明、弊藩持口金正寺山ヘ賊徒相見ヘ双方砲撃、賊兵暫時敗走、大谷地村マテ追撃仕候、当時手負左之通
寺田喜馬太
右之通御座候、以上
六月廿ハ日
板垣退助
本月朔日黎明、弊藩持場湯本街道ヘ、賊兵襲来及戦闘、終ニ敗走ニ付、数ヶ所ノ砲台ヲ押破リ、追撃三里計、賊兵屯集村落ヲ放火仕候、討取、分捕、別紙之通、弊藩死傷如左
真辺養作 森下喜久馬
辻精馬
右即死
竹村鹿吉 弘末芳弥
弘末作蔵
右手負
右之通御座候、以上
七月
板垣退助

討取 廿八人 生捕二人
旗 八流 槍 一本
大小刀 三十三本 手大砲 一挺
小銃 廿七挺 大砲仕付弾薬 長持三舁
小銃仕付弾薬 長持十舁 糧米 十俵
目篭 雑物入 二樟
外ニ小銃五十余挺、糧米二百俵計、於戦場焼払右之通御座候、以上
辰七月朔日
土州 板垣退助
別紙七通、於戦地御届仕候趣、申越候間差出シ候、以上
八月四日
山内土佐守内
木山恒之助

【越後乙吉ノ戦】
上田藩届書写
越後表之儀、兼テ御届申上候後、乙吉村ノ方去月朔日暁、山ノ手ニテ戦争、諸藩分配、同時ニ遊撃、賊兵敗走、弊藩人数ハ令ニ困テ午後高田勢ト相約シ、浦瀬ノ山高森ノ方ヘ進軍、麓マテ相迫リ、猶賊之多寡動静不分明ニハ候得共、所々ヘ致出没候ニ付、烈敷及発砲直ニ山上台場マテ攻登候処、賊陣営ヲ打捨テ致敗走候間、不取敢右陣営ヘ繰込、番兵ヲ要所ニ配リ固守仕、翌ニ日令ニ因テ三角山ノ方ヘ長州藩ト代ル々々番兵差出シ固守罷在候段、出先家来ヨリ注進仕候ニ付、可申上旨、伊賀守申付越候、此段御届申上候、以上
八月七日
松平伊賀守家来
鈴木太郎

【御三卿御旅館焼撃陰謀ノ事】
秋田藩届書写
先般御届奉申上候節書落シ、今更改テ奉申上候ニモ不相及事トハ奉存候得共、先月四日仙賊断然ノ処置仕候後、荷物致吟味候処、火薬并火付道具、秋田城下絵図等持参有之全機会ヲ見合せ、御三卿様ノ御旅館ヲ焼撃ニ可致奸謀ニテ、両度迄押寄候得共、用心厳敷手ヲ出兼、空敷打過候由、生捕ノ者ヘ及詰問候処、申出候趣ニ御座候、乍併確報申越候儀ニ無之、私文中ニ申越候事ニ御座候間、実否碇ト相別リ兼候得共、一度承リ候テハ難黙止、甚以大逆無道ノ所業ト奉有候間、若又後日ノ御処置振リニ、関係仕候儀ニモ可有之哉ト、又又此段奉申上候、尚本庄小藩ニ御座候処、従来奉重朝命、終始確乎動キ不申、賊中ニ在テ尽力仕、同七日君侯ニモ城下ヘ被参滞留亀田侯モ同九日参着、出兵、八島モ庄内討伐先手相願候ト申事ニ御座候、彼是小藩ノ情実無拠事ニ御座候間、乍延引此段御届奉申上置候、以上
八月八日
秋田中将家来 村瀬清
越後福島付近ノ死傷
田ノ口藩届書写
六月十五日、福島村ノ内土見台ニ於テ砲戦ノ節、創ヲ被ル
薄手 銃隊組 阿部孝蔵
深手 樋口清内
七月二日、福島村弊藩持台場ヨリ、水門台場ヘ為応援罷越シ、創ヲ被ル
深手 銃隊戦士 田代暢
右者先般御届申上候後、北越出張兵隊、戦傷有之候段、尤其節出張先ニ於テ御届仕候趣申上候様、縫殿頭申付越候、且又兵隊此節長岡ヨリ一里半程先キ、宮下村台場ニ出張罷在候、此段御届申上候、以上
八月十日
大給縫殿頭家来
海保三蔵

【長岡城ノ争奪戦】
加賀藩届書写二通
前月廿五日暁八時頃、越後長岡ヨリ一里半計隔テ砲撃相聞ヘ、福島辺ヨリ賊徒襲来之模様ニテ、忽チ町瑞レ致放火、飛弾烈敷、直ニ賊軍押寄セ、市中放火、何分賊徒不意ニ起リ無是非惣軍所々ヘ散乱、口々ニテ拒絶スト雖モ、賊勢甚強ク、遂ニ長岡ヲ賊徒ヘ奪レ候ニ付、各藩口々ヨリ繰引之体ニ候間、弊藩家老津田玄蕃、手勢一中隊引率シ町口ニ止リ、防戦スト雖トモ、場所柄悪敷、草生津口ニ信濃川ヲ後口ニシテ踏コタヘ、於同所奮戦候処弊藩箕輪知太夫一分隊、其外諸藩ノ兵五十人計大島村ヨリ為応援川端ヘ相向候処、賊兵取支ヘ、不能渡船、不得止同所ヨリ致横撃候処、賊兵発砲モ相止メ最早及黄昏、終日ノ戦争ニテ弾薬モ尽キ、且参謀ヨリ引揚候様差図ニ付、一同川ヲ越シ、大島村ヘ一先ツ引上候段、出先ヨリ及注進候、尤討死、手負等、委細ノ儀ハ相分不申候得共、先不取敢御届申上候様、申付越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十日
加賀宰相中将内
小谷兵左衛門
弊藩家老津田玄蕃儀、前月廿五日夜参謀依差図、一ト先長岡ヨリ大島新町マテ引上、弾薬等取調、再ヒ下山村ヘ、手勢一中隊計引率シ繰出重而進軍ノ手配罷在候処、同廿九日朝五ツ時頃、妙見口ニ当リ砲声相聞、必定味方之諸隊攻撃ト相察候ニ付、此機ニ乗シ直様信濃川ヲ渉リ、横撃可致哉ト、則官軍嚮導役平川新之丞ヘ遂示談候処、一段之旨答候ニ付、即チ渡船速ニ押詰候処、賊防クニ堤ヲ楯トシ、頻ニ及発砲候得共、賊遂ニ敗走、玄蕃進ンデ堤ヲ乗取リ、尚又奮戦長岡裏口ヨリ進撃候処、賊所々ヘ散乱、薩長其外諸藩ノ兵モ追々来リ致攻撃候ニ付、玄蕃兵ヲ二手ニ分チ、半隊ヲ先ヘ進メ城下ヘ攻入リ、賊所々ニテ支ヘ候得共、撃破リ、大手口ヘ差向ヒ、直ニ城内ヘ討入候処、賊徒驚怖、終ニ及敗走候ニ付、人数手配所々探索候得共、賊兵相見ヘ不申ニ付、城内兵器等悉致分捕、城口ヘハ若州藩ヘ番兵申談、尚又市中取締罷在候段、出先ヨリ不取敢及注進、尤分捕、死傷等巨細之儀ハ相分リ不申候得共、注進ノ侭先ツ御届申上候様、申付越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十日
加賀宰相中将内
小谷兵左衛門

太政官日誌・慶応4年52号

太政官日誌第五十二
慶応四年戊辰八月

【軍用艦船御借上ノ事】
御布告写六通
兵隊繰出シ方並諸品輸送等、船手ニテ相運ヒ候ハヽ、都テ便利ニ付、奥羽、北越之賊徒鎮定ニ至ル迄、諸藩之軍艦、蒸気船ハ勿論、帆前船迄不残御借上ケ被仰付候、即今既ニ公務ニ相用ヒ候船ハ格別、其外各藩所持之船艦、大阪、兵庫両港ヘ至急差出候様、御沙汰候事
但シ右差出候軍艦之内、破損等有之分ハ於朝廷御修覆披仰付候、且又諸藩ヨリ出陣先ヘ用向之者并ニ諸品類、便船ニ乗組致度儀願出候ハヽ御聞届ニ相成候間、此旨可相心得事
七月

【兵学校開黌ノ事】
大学校御取建被遊、天下之人才ヲ集メ文武トモ盛ニ被為興度思召ニ候処、方今御多事之折柄ニ而、未タ御取調モ行届兼候処、先兵学校仮ニ御取調出来候ニ付、来ル八月二日ヨリ開黌被仰出候、就テハ兼テ御布令之通先宮堂上及非蔵人諸宮人等、望ニ随ヒ人学可致候、就中三十未満小番被免之輩ハ成丈勤学致シ候様、可心懸旨被仰出候事
但入学之節、一応太政官代ヘ可届出候、且別紙之通規則被立候ニ付、夫々相心得可申事
七月
兵学校規則
一、入学之儀、毎月十五日ニ相限候事
但入学当日正服之事
一、入学願出之儀、雛形之通美濃紙短冊ニ、位階姓名年齢邸宅等相認メ、陸軍局ヘ可申出事
雛形
官位何某嫡或次男
邸宅何町何通何之処 何某
当辰年何歳
一、稽古之生徒、毎朝七字三十分時、揃之事
一、八字ヨリ十字迄練兵、十字ヨリ二十分時之間休息、十字二十分時ヨリ十二字迄兵学右之外、洋学、数学等稽古、望ニ随ヒ可願出事
七月

【銅会所ヲ鉱山局ト改称ノ事】
今般大坂銅会所、鉱山局ト改称相成候間、山出金銀銅共、出高之多少ニヨラス、総テ右局ヘ御買上相成候間、差出可申、且金銀銅入用之儀候ハヽ同局ヘ可伺出候、尤銅之儀ハ当四月御布令相成候通、国々所々ニ於テ屹度相守可申旨被仰出候事
七月

【丁銀、豆板銀届出ノ事】
通用停止之丁銀、豆板銀共、御改製之新金銭ヲ以御買上可相成旨、兼テ御布告之御趣意モ有之候処、未タ御改製之場合ニ不立至侯間所持之者ハ先可差出候、右代リ金之儀ハ銀位相当之価ヲ以、新金銀ニテ追々御下ケ可相成、尤代金御下ケ有之候迄、難渋之者ヘハ金札御下ケ被置候テモ、又ハ金札ニテ御買上相成候テモ、銘々望ニ任セ可申候、右之趣相心得、来ル八月五日迄ニ員数並望之次第等会計官ヘ可申出候事
七月

【諸国税法ノ事】
一、諸国税法之儀、其土風ヲ篤ト不相弁、新法相立候テハ、却テ人情ニ戻リ候間、先一両年ハ旧貫ニ仍リ可申、若苛法、弊習、又ハ無余儀事付等有之候ハヽ、一応会計官ヘ伺之上、所置可有之事
一、諸府県共、役向諸事相心得候者、一両人京為致置、彼此之御用相弁候様可致事
一、租税納方、諸府県、諸藩、御預所共金ハ会計官、米ハ大坂会計官ヘ当辰年ヨリ上納可致事
但シ御所、二条、両御蔵所納之儀、可為是迄之通事
一、諸府県月給、其外諸入用、凡積ヲ以テ租税之内ニテ金穀儲ヘ置、夫々取計ヒ致シ、皆納之節会計官ヘ明細勘定帳差出候様可致事
一、旧幕麾下采邑没収之分ハ、最寄之府県并諸藩御預所可為支配、其他御処置未タ無之分ハ当分同様支配致シ、祖税取立置、会計官ヘ可届出事
一、丁銀、豆板銀通用停止被仰出候、付テハ是迄貢米代、其外小物成、運上物等、一切可為金納事
但、金一両ニ付、永一貫文、銀六拾目換之算当タルヘキ事
八月

【三位局ノ事】
督典侍儀御誕生御親母ニ付大宮段々御内意被仰上候処、格別御孝養之思召ヲ以テ、従三位、宣下、自今被称三位局、席順可為大典侍上旨、被仰出候、此段相達候事
八月
高田藩ヘ御達書写
榊原式部大輔
当夏以来、多人数徴発、不顧艱苦、所々ニ於テ奮闘烈戦、藩屏之職任ヲ尽シ候段、叡感不浅候、猶此上益励精、可奏成功様御沙汰候事
八月

【高久祐助、奥羽戦況ヲ齎】
久保田人言上書写
此度弊藩高久祐助ト申者、七月十二日秋田領大崎ヨリ乗船、同十六日迄順風無之同所滞留シ同十七日出帆若州小浜ヘ向着之処、悪風ニテ能登三岬ヘ落船、同所ヨリ上陸、昼夜指急、一昨廿九日到着仕候、尤戦争実地之場所ヨリ罷出候事ニハ無之、同湊風待中伝承之趣ニ御座候ヘ共、左ニ奉申上候
一、九条様、、沢様、醍醐様ニハ、此間御届奉申上候通、南部ヨリ御転陣、秋田城学館御本陣ニ相成、右御入以来日ニ御軍議ニ相成、中将屢参陣、庄内之御先鋒ヲモ相願、隊長之内御軍議ニモ相加リ、領境近辺ヘ迫リ居候仙、庄米之人数、速ニ御追討御決計相成、愈同月六日領分新屋口ヘ向、弊藩遊撃隊長荒川久太郎二手、三小隊、佐藤日向一手、三小隊、速ニ出兵並筑州銃隊同様進発ニ相成申候、翌七日又々弊藩隊長渋江内膳一手、二百七十一人、大砲六門同所田代口ヘ同隊長古内左惣治一手、五百九人、渋江武之助一手、二百九人、大砲数不相分、大沢口ヘ隊長梅沢小太郎一手、千四十九人、中安東治一手、二百七十人院内口ヘハ薩、長、肥、筑、倉之兵隊ニテ御進軍御持切ニ相成、其外領内大崎湊固メノ為、隊長梅沢専之助一手、二百七十人、海岸同断、隊長介川敬之進一手、百人、尤右員数者凡之事ニテ、六日、七日ヨリ追々進発ニ相成候、右者同人久保田ニ罷在候内ニテ親敷心得罷在候趣ニ御座候
一、前文申上候通同十二日大崎湊ヘ罷越候、同所滞留中、出役之者ヘ久保田ヨリ注進之趣ニ候得ハ、七月十三日右院内ヘ御出兵之官軍五藩之兵隊、新庄領ヨリ金山ト申処ニ屯集致居、已ニ弊藩ヘ迫リ候、仙、米、庄之人数生根坂ト申峠ヘ大砲ヲ備、固メ居候処ヘ院内口、役内、銀山三方之間道ヲ巡リ、右五藩ノ兵、賊兵之後口ヨリ刀戦ニテ切入、前軍一同是ニ応シ候故、一戦ニ賊徒惣敗軍ト相成、仙兵隊長柳川播磨、五十嵐岱助ト申者モ打取、其外士分首数二十四、雑兵ハ無限皆打捨相成候由、右首級久保田ヘ仕送ニ相成、五十目橋ト申処ヘ、梟首ニ相成候、又同日庄内境三崎峠ヘ相向候官軍、小砂川ト申処ハ、鉄砲ニテ打払候ヘ共、三崎峠ハ誠ノ難所故乗取兼同所手前ニテ野陣ヲ張居候趣、且又渋江内膳手并銃隊之二手ハ観音森ヘ打登戦争ニ相及賊之陣屋七ヶ所之内二ヶ所ハ攻取候内、頗苦戦ニテ手負等有之候趣、夫ヨリ追々勝利、銃隊荒川久太郎、佐藤日向手ニテ、右峠ヲ卸シ女鹿ト申処迄焼払候由、正敷火ノ手ハ見候ト申事ニ候ヘ共、実否如何可有之候哉、亀田本庄等応援出兵致シ、是亦手負等有之候趣、相聞ヘ申候
一、新庄之内、賊軍ノ内応ニハ有之、城下ヲ放火余程及焼亡、戸沢侯御家族、領分院内ヘ被立退、夫ヨリ湯沢ト申処ヘ御移、当時ハ御滞留ト申事ニ御座候、右ニ付官軍モ新庄領金山ト申処迄進撃之処、焼失故ニ無拠繰引ニ相成、院内境ヘ御取固メ之由御座候、右ハ当十六日迄、城下ヨリ二里程隔リ前文申上候大崎湊風待中ニ、全伝聞ニ御座候、返々不束之義追々取調候ハヽ定メシ間違等モ可有之、宜御取撰可被成下、右之通之勢ニ御座候間益烈敷戦争ニ相成可申、先頃モ奉願候、猶又御援兵急々御指下之儀、偏ニ奉願候、此段一先御届奉申上候、以上
八月二日