江城日誌・慶応4年7号


江城日誌 第七号
慶応四戊辰年五月十七日

五月十六日
○伊州より御届之写
当十五日、上野屯集之彰義隊、御追討被仰出候処、兼而筋違御門并昌平橋、和泉橋御警衛被仰付候ニ付、前夜より筋違御門内青山邸へ出張、御門ニ猶以厳衛指揮仕候、翌十五日五時頃より戦争相始四時過より益盛ニ相成、諸藩頗苦戦之風聞有之、甚苦心ニ堪兼候間、則御総督へ伺済之上、私家士隊并藤堂隼人家来へ組士等相添為斥候候処、湯島台より同所榊原式部大輔屋敷等へ、巡邏斥候仕候内、追々所々火煙熾に相起り、広小路辺大小砲声烈敷相聞候付同所へ向罷越、西側より戦争之模様一見仕候ニ付、銃丸飛来候中を横切、東側へ相移り、夫より段々相進候由之三橋内ニ而、諸藩激戦最中ニ付、寡少之乍兵、不取敢因、肥、薩其外諸藩一同、上野山下より敵之横合を、厳敷砲撃戦争仕処へ、私儀も暫時御門御警衛之儀ハ、隼人へ任せ置、巡邏之為、使番家士召連、同所へ馳付候処、右激戦之次第ニ付、直様召連候家士も差加、猶又其余之口々へも分配、所々より砲撃為致指揮仕候、然るに諸藩之勇戦、頗猛烈ニ而、遂ニ横合土手へ駈上り、黒門前へ押出候ニ付、賊徒敗衂、直様諸藩諸共、一時ニ門内へ衝入仕候処、賊徒俄ニ大砲相発し、之が為ニ家士一人討死仕候得共、弥以無隙間致進撃、賊徒遂ニ敗走仕候、乍然弊藩之儀ハ、全く斥候之為ニ差出候兵隊故最早官軍御勝利ニ付、進撃相止、兵隊相纏直様筋違御門陣所へ引揚申候、此段御届申上候、右之節死傷、別紙之通御座候、分捕品之儀ハ、取調之上可申上候以上
五月 伊州藩 総師 藤堂仁右衛門

死傷 仁右衛門家士 野崎沢右衛門
手負 雑人由次郎
〈巡邏之節深手負〉 杉田源兵衛支配 長井音次郎
千田源内組 森川治右衛門
小原治郎吉
鈴木正作
右三人之者、戦争中為斥候罷出候処其侭帰営不仕候付、重々取調候処、一之者持参之小銃并ケツト、上野山内宿坊ニ御座候付、何れ討死仕候義とハ奉存候得共、不分明ニ御座候
右之通御座候、以上
五月 伊州 総師 藤堂仁右衛門
当十五日、上野屯集之賊徒攻撃ニ付、臼砲二門差出候様御沙汰ニ付、則砲手相添差出候、依之水道橋より本郷通り相進候処、砲声頗ニ相聞戦争相始居候ニ付、加賀邸裏へ繰込、是より発砲仕候処、賊之発火漸稀薄ニ相成候ニ付、団子坂上より根津へ相進候処、潜伏之賊兵、両脇より発砲、諸手困難ニ付、右脇ニ於て、一所之使地相撰、発砲仕候而、敵陣炎焼、賊兵相撥候間、段々進撃、谷中天王寺辺へ進軍之処、藤堂監物手勢罷越候ニ付、右之隊へ相加り砲発、所々放火仕、遂ニ賊兵離散仕候、今朝六時過より戦争相始め、五時過ニ終り申候、通計六十発余仕候、猶長藩、薩藩、佐土原藩、備前藩等之兵隊申合、攻撃仕候得共、長州兵隊ニ於而、専申談相勤申候、此段御届申上候、以上
五月 伊州 総師 藤堂仁右衛門
当十五日、上野屯集之賊徒為追討、藤堂監物王子村辺より相進候、途中より為斥候兵隊之内、一小隊団子坂辺へ差出候処、賊兵ニ出会及戦争候、然るに長藩より兵隊余程疲れ候ニ付、是非共応援致呉候様頼ニ付、早速戮力戦争仕候得共、何分寡少之人数故、余程苦戦之趣報告ニ付、王子村より全隊繰出し、同所之儀ハ筑芸之二藩へ頼置相進候途中ニ而、大御総督様御使番ニ出会仕候処、団子坂辺へ急速応援仕候様御差図ニ付、早速相進、長藩と交番、余程苦戦仕候得共、何分にも同所之儀ハ、地理も悪敷候間、長藩申談放火仕、一ト先千駄木辺より引取申候処、軍監渡辺清左衛門へ出会、谷中天王寺ハ敵之巣窟ニも候得共、同所へ討入候様差図ニ付、早速相進砲発仕候処、追々賊兵離散仕候間、直ニ放火仕引揚申候途中ニ而、猶又右同人より、直ニ引取候様差図御座候ニ付、則越前邸へ引取申候、此段大略御届申上候、尢右之節死傷并分捕品等無御座候、以上
五月 伊州 総師 藤堂仁右衛門
左隊長 藤堂監物

五月十七日
○備前より重而御届之写
去ル十五日、上野表出兵御達之趣奉敬承同日暁天兵隊繰出、桔梗下馬へ整列、御手配之通全隊二部ニ分ち、一部大砲隊、一部小銃隊、大砲者備頭薄田兵右衛門引率仕、護衛として一番遊奇隊指添、一橋御門より水道橋へ繰出し、本郷水府中屋敷へ繰込、一部小銃隊者、三五六番遊奇隊并組銃隊指添、隊長吉田藤兵衛引率仕、神田橋より筋違橋を出、本郷通森川宿追分辺へ止陣、両隊共敵情候伺、地形測量之上、水府中邸之兵者、大砲隊二部ニ分ち、半隊ハ令官三上留吉引率、加州邸へ繰込、山内を攻撃ニ相及ひ、時機を以て暴多一挺相留め、臼砲を以て攻撃いたし、喜連川邸前通より、駒込団子坂へ進軍ニ相及び、長、伊、尾、佐四藩と併合攻撃仕候、半隊ハ薄田兵右衛門令官浦上幸之進等引率仕、根津黒門通へ進撃長州、大村藩と併合摂戦、賊巣へ及放発候処、山内も大ニ動揺之趣ニ見聞仕候、乍併地形悪敷小川満水、大砲進退不便利ニ付加州邸へ転陣、佐土原、肥前藩と諸共致攻撃、其後御使番衆之御差図を以、団子坂へ進軍ニ及び、尚又根津門通へ侵入いたし候処、賊兵敗走之趣ニ付、大村藩諸共、根津社へ引揚休戦、夫より加州邸門前へ致転陣候処、総軍御引揚之御差図有之、且又森川宿へ罷向候小銃之一隊ハ、途中本郷四丁目加州邸近傍寺院へ、賊兵潜伏之趣承り、令官浅野忠次郎五番半小隊を引率、所々及探索候処、既ニ前夜退散いたし候由ニ付、直喜連川邸前通より、各藩併合戦争相始め、一字間攻撃、弾薬手薄相成候ニ付及放火置、一旦水府中邸へ繰揚、弾薬詰替、猶又根津へ発向攻撃仕候、森川宿へ繰込候兵隊は、一手三部ニ分ち、一部番兵ニ残置、一部ハ雀部八郎、令官夏井嘉吉等引率、根津ニ向ひ摂戦、一部ハ古田藤兵衛、宮崎謙二等引率、団子坂ニ向ひ、屡攻撃ニおよび、長藩と併合、善光寺坂ニ而仮砲台を攻取、賊兵を追払、天王寺門前迄之間、一進一退、此処官軍余程之苦戦ニ候得共、追々賊兵崩れ色付、前路を放火し引退候趣ニ付、尚進撃、長藩諸共致分隊、寺院へ繰込、横合より及攻撃候得共、此所地形甚悪敷、賊兵又々前後より挟撃、進退殆相窮候折柄、砲声漸々相止、遂ニ物別ニ相成申候、然処佐土原大砲隊、尾州磅礴隊等相加り、賊兵致敗走候ニ付、所々及放火置、各藩兵隊団子坂へ引揚、弊藩後詰之兵隊諸共、同所ニ而致休戦候処、賊兵再び盛返し、同所を攻撃ニ及び、其節三上留吉等、重創請候得共、立地搏払、賊兵敗走仕候処へ、御使番衆より、浅香町警衛之御差図有之、一隊繰上候処、尚又御差図ニ而、加州邸へ転陣仕候内、賊兵追々退散、御軍監より総軍引揚之御指揮有之候ニ付、全隊引纏、夜ニ入桔梗下馬へ引揚、其後帰営仕候
一、同朝水府中邸へ繰込候兵隊之内、直ニ太田万次、加藤栄之進、平井源八郎等、大砲護衛、一番遊奇隊之者共、少々召連、為斥候根津通へ趣、敵情候伺ニ及候得共、朝霧溟濛、彼我難弁、攻撃之方略及立断候処、根津惣門内ニ伏兵有之、俄ニ挟撃、太田万次、平井源八郎并遊奇隊之者共、此所ニ而戦死仕候、尤孤軍勇進、二之見難続、不得止一旦水府中邸へ引揚、尚又根津辺ニ而戦争仕候、当日之賊、搦手地方之戦争、此手を以、手始と奉存候
一、当日弊藩ニ而接戦仕候場所ハ、根津近辺ニ而御座候、銃砲を以攻撃仕候場所ハ、加州邸并池之端団子坂、善光寺坂辺ニ而御座候、砲手金光繁次、中西寿之介等照準之功不少哉と奉存候、以上
五月 備前隊

江城日誌・慶応4年5号


江城日誌 第五号
慶応四戊辰年五月十六日

五月十五日
上野山内屯集之賊徒追討として、未明より各藩之兵隊大下馬ニ相揃、各隊列を整へ繰出し夫々左之攻口より攻入、愉快之奮戦を遂、賊徒忽ち敗走し、上野山内悉く灰燼となり、夕七ツ半時愷陣す、此日討取処の賊徒、山内所々ニ累々として其数を不知、死傷生捕共凡千人余、各藩攻口左之通
湯島より黒門前
薩州
肥後
因州
本郷より
長州
肥前
筑後
大村
佐土原
富山邸
肥前
筑後
水戸邸
備前
伊州
佐土原
尾州 磅礴隊
一橋御門より水道橋 阿州
水道橋より水戸邸辺 尾州
聖道近辺 新発田
森川宿追分辺 備前
大川橋 紀州
軍監両人差添
千住大橋 因州
川口 大久保与市
沼田 肥後
戸田川 備前
下総古河 肥前
武蔵忍 芸州
同川越 筑前

五月十六日
○因州より御届之写
昨十五日、薩藩ニ引続、湯島天神前迄進軍仕候処、攻口之模様難定、仲町まて押寄広小路より及激戦居候薩藩ニ応援之心得を以横矢を入、暫時発炮仕候得共、間遠にて捗々しく無御座候間、其場を引揚、下谷御徒町辺を廻り候処、臼砲一門捨置逃去申候、其後賊兵三方より少々つゝ出没、狙撃いたし候間、我兵同断是ニ応じ小促合いたし、夫より下谷へ向進撃、暫く大手之様子窺合罷在、遂薩藩申合、機ニ乗じ、弊藩ハ横手より黒門右脇塁上ニ押登り、暫時砲戦いたし、薩藩と大手より進撃、一時ニ黒門を攻破り山内へ打入申候、同日打死、手負、左之通御座候
河田左久馬家来
討死 元小田原藩 杉山繁之助
〈録人仕候ニ付不知生死〉 森本清太
浅手 河田左久馬附属 臼井貞之助
河田左久馬配下
討死 山国隊 田中五右衛門
手負 細木元太郎
郡波九郎左衛門
森脇一郎
前田庄司
同 使役士官 秋田嘉兵衛
討死 佐分利鉄次郎隊 滝金市
佐々木仲之丞
田川広之丞
深手 伊藤猪吉
星見辰之丞
浅手 有沢平之丞
討死 勘定方附属 漆原甚左衛門
田村宇三郎
高田藤次郎
池田相模守人数 石川左現次
深手 中川熊蔵
浅手 八尾重助
深手 土箱持清吉
討死 池田摂津守家来 岡山力之助
以上〈討死九人傷者十三人〉
右之通御座候間、此段御届申上候
河田左久馬
前書之通相達候間、此段御届申上候以上
因州 和田壱岐
○薩州より御届之写
〈兵士戦死〉野村正八
竹下猪之丞
川松喜蔵
岩下半之助
伊地知惣吉
隈元太一右衛門
唐釜勘助
奥新五左衛門
手負 竹迫十次郎
有吉次左衛門
面高真之丞
榊五郎兵衛
大山清右衛門
河野直之助
内山伊七郎
黒江勇右衛門
町田助之進
益満休之助
中村勇吉
池上勇次郎
鎌田幸之丞
相良笑之丞
床次吉之助
美代幸之丞
川北五郎左衛門
久永喜兵衛
吉田喜蔵
松山覚之丞
海江田諸右衛門
貴島勇右衛門
木藤宗八
松方長作
新納清一郎
家村度助
山口喜右衛門
岩城彦四郎
藤田新左衛門
松元尚之丞
深抦彦五郎
津留八之進
肝付弥四郎
西田藤助
肝付十郎
夫方主頭 橋口良助
夫卒三人
右者昨十五日戦争之節、戦死、手負、右之通御座候間、此段御届申上候以上
五月十六日 薩摩藩 相良治部

以下原本表示
(匡郭外)
五月十六日之記事許多ニして此ニ尽し難きにより第六号ニ続出す

江城日誌・慶応4年1号

江城日誌 第一号
慶応四戊辰年五月五日

後四月廿九日
○徳川亀之助へ御渡ニ相成候勅諚之写
慶喜伏罪之上ハ、徳川家名相続之儀、祖宗以来之功労を被思食、格別之叡慮を以て、田安亀之助へ被仰出候事
但城地禄高之儀ハ、追而可被仰出候事
後四月
右ハ徳川亀之助御呼出ニ相成候処、病気之趣ニ而、名代として一橋大納言登城す、大監察使三条左大将殿、附属万里小路弁殿、参謀西四辻殿、并ニ下参謀軍監列座之上、左大将殿より、右
勅諚御渡ニ相成候処、難有仕合奉存候旨、御請申上退去す、坐配左之通
(挿図省略)
○諸道戦争之藩々へ御沙汰之写
賊徒掃撃之砌、手負瘡痍之者、疾苦御慰労之思食を以、医官前田杏斎、被差遺候、精々療養相加へ可申旨、御沙汰候事
後四月
右御書付持参、医官前田杏斎、軍曹山県小太郎、東山道戦争之藩々へ向け、出立之事

五月二日
○戦士御慰労之御書付写
東山道先鋒 薩州
長州
因州
彦根
土州
大垣
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶禍心を逞し所々屯集官軍ニ抗し候折柄、野州、小山、宇都宮、其ノ外数ケ所ニ於て、指躯激励、屡遂苦戦及進撃候段、叡感不斜候、猶此上一際抽精忠、鞠躬尽力速ニ平定之功を奏し可奉安宸襟被仰出候、此段戦士江可相達旨、御沙汰候事
五月
東海道先鋒 薩州
長州
大村
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り官軍ニ相抗し候折柄総州八幡、五井、姉ケ崎辺ニ於て遂勇戦、忽及掃撃候段、達叡聞、御満足ニ被思食候、猶此上一際抽精忠、鞠躬尽力、速賊徒平定之功を奏し、可奉安宸襟被仰出候、此段戦士江可相達旨、御沙汰候事
五月
同 備州
伊州
佐土原
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り、官軍ニ相抗し候折柄、総州市川、船橋、八幡、五井、姉ケ崎辺ニ於て以下前同文
中軍 筑前
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り官軍ニ相抗し候折柄、総州船橋辺に於て以下前同文
海軍 薩州
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶野心を逞し要地ニ拠り官軍ニ相抗し候折柄、総州姉ケ崎辺ニ於て以下前同文
東山道 前橋
高崎
吉井
佐野
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶禍心を逞し所々屯集、官軍ニ相抗し候折柄、野州三国峠ニ於て以下前同文
同 館林
笠間
壬生
須坂
徳川慶喜及降伏候処、残賊猶禍心を逞し所々屯集、官軍ニ相抗し候折柄、野州小山総州結城辺ニ於て以下前同文
右御書付は、穂波三位殿勅使として、東海、東山、両道総督府御本陣へ被行向御渡に相成候事

松平確堂、当分之内、徳川亀之助後見之儀願之通被仰出候事

同三日
○徳川亀之助重臣呼出御達之写
旗下帰順之輩、自今朝臣ニ被仰付候間、此段相達候事
五月
○肥前へ御沙汰之写
肥前侍従
下ノ総野州近辺、賊徒出没、官軍ニ抗し、王土を掠め、王民を苦め、未だ平定ニ不至候間、下の総野鎮撫之為、出張いたし、賊徒鎮圧、猶二州藩々之向背、篤と相察し、民政筋取締、人心安堵候様、指揮可有之大総督宮御沙汰候事
五月
○上野輪王寺宮へ御沙汰之写

朝廷御沙汰之儀有之候間、明四日巳ノ刻御登城被為在候様、大総督宮御沙汰候事

五月三日
同四日
輪王寺宮病気ニ付、登城被成兼候旨、御断ニ相成候ニ付、参謀西四辻卿朝命を奏し、為御使上野江御越ニ相成り、下参謀寺島秀之助、軍監新田三郎附属す、然るに宮病気之趣ニ而、御対面無之ニ付、再三強而対面之儀を申入られ候得共、達而御断り故、不得止御帰城ニ相成候事

兼而御達し有之候諸藩兵隊整列、今日御覧被為在候段、被仰出候事
但シ十二字大下馬揃之事

行在所日誌・慶応4年1号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第一号
慶応四戊辰年三月廿五日

【御親征ノ大典ヲ挙サセラル】
先達テ以来、度々被仰出候通リ、億兆ノ君タル天職ヲ被為尽皇国内遠邇トナク、万民安堵、四海平定、大ニ列聖之神霊ヲ安ンシ奉ラセラレ度、厚キ思食ヲ以テ、中古絶タリシ御親征ノ大典ヲ挙サセラレ、三月廿一日辰ノ刻皇都御発輦被為遊御小休所東本願寺ヨリ葱華輦ヲ御板輿ニ召替ヘサセ給ヒ、戍刻八幡エ着御、亥ノ半刻石清水八幡宮ヘ御参詣被為在、辱クモ天下億兆蒼生ノ為ニ、早ク逆賊平治、四海静謐ヲ御祈念被為遊、同所豊蔵坊御一泊、同廿二日卯ノ半刻御発輦、戍ノ半刻守口ヘ着御、東本願寺掛所御一泊、同廿三日辰ノ刻御発輦、午刻御着坂、八軒屋ヨリ再ビ葱華輦ニ召替サセラレ、未ノ刻西本願寺行在所ヘ、万事御都合能御着輦被為在、衆庶万歳ヲ唱フ

御行列ノ次第左ノ通


六丁町 雑色 同 同 三門
御列外御先廻リ 戸田大和守
六丁町 雑色 同 同 三門

六門
六門
銃隊 徳岡大膳大進 僮僕四人 侍一人 下部三人 
先陣 加藤能登守 騎馬
僮僕 山口権少外記 僮僕四人 侍一人 下部三人

武者小路大夫 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
唐橋侍従 騎馬〈従者同上〉
難波大夫 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
大炊御門少将 騎馬〈従者同上〉

御灯籠
駕輿丁
十二人
御辛櫃
神威隊八人
神威隊八人
一御羽車 駕輿丁 四十六人

水口伊勢守 油小路侍従 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
御辛櫃
三上肥後介 六角大蔵大輔 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人

神威隊七人
神威隊七人
二御羽車 駕輿丁 四十六人
山本左府生
御辛櫃
土山長門介

白川三位騎馬 僮僕二十人 侍六人 下部十四人
藤波二位 騎馬〈従者同上〉
萩原二位 騎馬〈従者同上〉
倉橋大蔵卿騎馬〈従者同上〉
山名中務少丞 僮僕四人 侍一人 下部三人
吉田侍従三位 騎馬〈従者同上〉

山口内匠権助 僮僕四人 侍一人 下部三人

刀自以下六人
後陣小出伊勢守騎馬 銃隊 僮僕 群行 雑具

先陣 池田摂津守 騎馬 銃隊 僮僕
市橋下総守 騎馬 銃隊 僮僕
十一
加藤遠江守 騎馬 銃隊 僮僕
北条相模守 騎馬 銃隊 僮僕
十二
備前侍従 騎馬 銃隊 僮僕
藤堂大学頭 騎馬 銃隊 僮僕
十三
安芸新少将 騎馬 銃隊 僮僕
山中左近番長 僮僕四人 侍一人 下部三人
福井右馬大允 僮僕四人 侍一人 下部三人
十四
青木治部大丞〈従者同上〉
櫛田左近将監〈従者同上〉
広瀬筑前介〈従者同上〉
青木民部大丞〈従者同上〉
青木左兵エ権大尉〈従者同上〉
堀川大蔵少丞〈従者同上〉
十五
大外記 騎馬 僮僕十人 侍三人 下部七人
御旗
持手〈官人六人〉
助勢六人
上田右兵ヱ大尉
平岡掃部権助
近藤右兵ヱ権大尉
河野宮内大録
橋本左近番長
山中右近番長
十六
同奉行壬生前修理権大夫 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
五辻大夫 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
御辛櫃
中御門大夫 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
十七
東園大夫 騎馬〈従者同上〉
藪大夫 騎馬〈従者同上〉
坊城侍従 騎馬〈従者同上〉
西洞院大夫 騎馬〈従者同上〉
十八
阿野侍従 騎馬〈従者同上〉
園池少将 騎馬〈従者同上〉
千種侍従 騎馬〈従者同上〉
高野少将 騎馬〈従者同上〉
十九
愛宕中将 騎馬〈従者同上〉
石山三位 騎馬〈従者同上〉
三条西中将 騎馬〈従者同上〉
櫛笥中将 騎馬〈従者同上〉
中山前中将 騎馬〈従者同上〉
二十
三条大納言 騎馬 僮僕二十人 侍六人 下部十四人
葱華輦 駕輿丁 六十人
中山前大納言 騎馬 僮僕二十人 侍六人 下部十四人
二十一
町尻中納言 騎馬〈従者同上〉
今城宰相中将 騎馬〈従者同上〉
四辻宰相中将 騎馬〈従者同上〉
錦織刑部卿 騎馬〈従者同上〉
二十二
御衣櫃 駕輿丁二十人 同
大島右馬少允 僮僕四人 侍一人 下部三人
大島左馬少允 僮僕四人 侍一人 下部三人
二十三
真実之節ハ御板輿御水桶御馬
同 松室丹波 騎馬 僮僕五人 侍二人 下部三人
二十四
伊良子織部正 僮僕五人 侍一人 下部四人
高階筑前介〈従者同上〉
山本玄蕃大允〈従者同上〉
福井豊後守 僮僕五人 侍一人 下部四人〉
高階備前介〈従者同上〉
西尾駿河介〈従者同上〉
二十五
〈御茶弁当〉御水桶 御板輿
坊城頭弁 騎馬 僮僕十五人 侍四人 下部十一人
二十六
勧修寺大宮大進 騎馬〈従者同上〉
北小路極臈 騎馬〈従者同上〉
細川差次蔵人 騎馬〈従者同上〉
二十七
壬生祢蔵人 騎馬〈従者同上〉
官務 騎馬 僮僕十人 侍三人 下部七人
二十八
広幡内大臣 騎馬 僮僕二十六人 侍八人 下部十八人
正親町大納言 騎馬 僮僕二十人 侍六人 下部十四人
二十九
出納代 山科出雲守 騎馬 僮僕七人 侍二人 下部五人
幸徳井陰陽助 僮僕四人 侍一人 下部三人
山科筑前守 僮僕四人 侍一人 下部三人
小野備後守〈従者同上〉
真継大和守〈従者同上〉
袖岡越中守〈従者同上〉
三十
小野筑前守〈従者同上〉
林内竪頭〈従者同上〉
清水掃部助〈従者同上〉
三十一
藤井図書助〈従者同上〉
粟津良門介〈従者同上〉
小森縫殿大允〈従者同上〉
平田権少外記〈従者同上〉
青木雅楽権助〈従者同上〉
小森縫殿少允〈従者同上〉
三十二
下村主殿少允〈従者同上〉
鈴鹿主殿少属〈従者同上〉
船越武蔵大椽〈従者同上〉
宮外記使部六人
蔵人方仕人三人
主殿寮駆仕丁二人
三十三
後陣 細川右京大夫 騎馬 銃隊 僮僕
長門少将 騎馬 銃隊 僮僕
三十四
津和野侍従 騎馬 銃隊 僮僕
柳沢甲斐守 騎馬 銃隊 僮僕
三十五
松平図書頭 騎馬 銃隊 僮僕
織田出雲守 騎馬 銃隊 僮僕
三十六
松浦肥前守 騎馬 銃隊 僮僕
森対馬守 騎馬 銃隊 僮僕
三十七
尾張元千代 騎馬 銃隊 僮僕
群行 雑具
三十八
六門 雑色
六門 雑色

御列奉行
永井土佐守
和田雅楽大属
富島左近将曹
深尾内蔵少允
垣内尾張介
能勢摂津介
進藤左近府生
広瀬左ヱ門
下河辺主税
七条左兵ヱ尉
白川雅楽
大島大蔵
伊藤帯刀
宗岡玄蕃允
榎原織部
法螺
光泉院
理正院
清量院
鏡浄院
円教院
大泉院
御行列外先着
総裁局顧問 小松帯刀
同 弁事 松尾但馬
同 田中国之輔
同 史官 新田三郎
神祇局権判事 六人部雅楽
同 福羽文三郎
軍防局判事 吉田遠江
会計局判事 鴨脚加賀
刑法局判事 木村得太郎
制度局権判事 山田阿波介
天保山ヘ行幸仰出サル
三月廿四日、議定、参与、其外供奉之宮、公卿、諸侯、為伺天機参上ス玉座近ク被為召、一同大儀ニ被思食候旨、親ク綸言アリ、此日天保山ヘ行幸ノ事ヲ仰出サレタリ、左之通リ来ル廿六日海軍為天覧、天保山ヘ行幸可被為在旨、被仰出候事但、雨天之節ハ御順延之事

行在所日誌・慶応4年2号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第二号
慶応四戊辰年三月廿七日

【天保山ニテ海軍叡覧ノ事】
三月廿六日、天保山ニ於テ、海軍為叡覧、卯ノ半刻御発輦御行列ノ次第ハ左之通
先陣

加藤遠江守兵隊
池田侍従兵隊
柳沢甲斐守兵隊
細川右京大夫兵隊
先陣一番
不参 加藤遠江守
若王子
聖護院宮
庭田大納言
松本隠岐

先陣二番
不参 池田侍従
勘ケ由小路弁
勧修寺権佐
松尾因幡
先陣三番
柳沢甲斐守
四辻宰相中将
櫛笥中将
細川右京大夫
細川三河

中軍
薩州兵隊 百人
備前兵隊 百人
中軍 左
中山大納言馬
富小路中務大輔
壬生修理権大夫
坊城侍従

御板輿 輿丁十人 雨皮二人 脚立二人

中山前中将
大原左馬頭
裏松中務権少輔
三条大納言馬

御医三人
松室丹波
土山淡路守
御児両人御先廻リ 御茶弁当二人 御膳番一人
御水桶二人
雨皮二人 御台二人

御厨子所 上下四人
同御用長持 二棹 夫四人
肥後兵隊 百人
長州兵隊 百人

後陣一番
中務卿宮
正親町大納言
坊城頭弁
安芸少将
津和野侍従
松室石見
後陣二番
石山三位
千種前少将
長門少将
森対馬守
羽倉播磨

後陣三番
石野大夫
北小路極臈
不参 藤堂大学頭
松室下総
後陣兵隊
藤堂
安芸
津和野
長門

兵隊

御道筋ハ、御本門ヨリ心斎橋通リ四軒町、大豆葉町、七郎右衛門町西国橋、玉水町、常安橋通リ玉江橋ヨリ堂島、浜筋塩津橋ヨリ安治川筋、安治川橋通御ニ而、富島二丁目浜ヨリ御乗船被為遊、兵隊ノ前軍、中軍ハ左ノ川岸、後軍ハ右ノ川岸ヨリ、隊列ヲ整ヘ、正々堂々御座船ノ左右ニ随従行進シ、以テ護衛セリ、午ノ刻天保山エ御着船也○兼テ用意アリシ各藩ノ軍艦、仏国軍艦、天保山ヨリ距離一里ニシテ碇泊セリ叡覧所ヨリ青旗ヲ振リ
着御ヲ合図ス、是ニ応シテ海軍惣督聖護院宮、同輔翼若王子、同参謀庭田大納言乗込レシ肥前軍艦電流丸ヨリ、祝砲ヲ発ス、仏国軍艦ヨリモ亦発砲シ皇帝陛下ヲ祝シ奉ル、右相済ミ、電流丸ヨリ答礼ノ応砲ヲ発シ、諸艦ヲ誘導シ、兵庫ノ方ヘ向テ、航スル事三十分時ニシテ転回シ、天保山ヘ帰艦碇泊ス、八ツ時過御乗船御道筋、御行列、初ノ如シ、七ツ時
還御在セラル○此日供奉諸侯ノ供連ハ、侍二人、口附二人、下部一人ナリ、尢船中ハ従僕一人ナリ、残リ供ハ陸行御行列ノ後ニ従ヘリ○前中後ノ兵隊人数ハ、中藩以上百人、小藩ハ一小隊ナリ○御行列ヲ拝セントテ、市中近在ノ衆庶、群集スル事夥シ

行在所日誌・慶応4年3号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第三号
慶応四戊辰年四月七日

【大坂城ヘ行幸仰出サル】
四月三日、城内ニ於テ各藩ノ兵隊
叡覧可被為遊旨ニテ、左之通仰出サレタリ
明後五日卯ノ刻
御発輦、銃陣為天覧城内エ行幸被為在候旨、被仰出候事
御道筋之儀ハ、表御門ヨリ安土町通、堺筋右ヘ、本町通リ谷町迄右筋左ヘ大手筋ヨリ
御入城之事
但、雨天ノ節ハ御順延之事
四月
同五日、雨天ニ付
行幸御順延之旨、被仰出タリ

【大坂城内ニテ繰練叡覧ノ事】
同六日、卯ノ刻過
御発輦被為在、各藩ノ兵隊ハ、兼テ御沙汰ノ有シ事ナレハ、早旦ヨリ城中二ノ廓ニ揃ヒ、屯集セリ、辰ノ刻城中本丸繰練天覧所ヘ着御被為在、直ニ第一兵隊薩州、芸州、越前ノ人数、各隊列ヲ整ヘ、令ニ随ヒ、仮ノ繰練場ニ進ミ、運動発砲ヲナシ、終テ退ソク、次テ第二兵隊長州ノ人数、次テ第三兵隊細川、柳沢、北条ノ人数、イツレモ順序ヲ以テ繰練場ヘ、代ル々々相進ミ、運動発砲ヲ為ス、右繰練終リテ、各藩兵隊ヘ酒肴ヲ賜フ
御沙汰ノ次第左之通
今日調練大儀ニ被思食聊酒肴ヲ下賜候事
右銃陣叡覧悉ク相済ミシ後御歩行ニテ天主台等御巡覧被為在、夫ヨリ御馬見所ヘ臨御、俄カニ乗馬天覧可被為在旨、被仰出タリ、此ニ於テ公卿、諸侯、各馬ヲ御馬場ヘ引寄セ、乗馬ヲ始メタリシニ、大ニ叡慮ニ叶ハセラレ、一同何レモ駆ヲ逐ヒ見セヨトノ綸言在ラセラレ、頻リニ駆ヲ逐ヒナトシテ天覧ニ供シ奉レリ、未ノ半刻城内
御発輦、御都合能還幸被為在、此日御行列之次第ハ左之通リ


先陣 尾州兵隊百人 口付細川差次蔵人 侍二人 下部一人

同 毛利讃岐守〈従者同上〉
同 市橋下総守〈従者同上〉
同 北条相模守〈従者同上〉

同 松浦肥前守〈従者同上〉
同 中御門大夫〈従者同上〉
同 西洞院大夫〈従者同上〉

同 島津淡路守〈従者同上〉
同 三条西少将〈従者同上〉
同 今城宰相中将〈従者同上〉

同 三条西中納言〈従者同上〉
中軍 御旗持手

奉行口付 壬生前修理権大夫〈従者同上〉
口付 正親町三条前大納言〈従者同上〉
口付 中山前大納言〈従者同上〉

高辻少納言
堀川新三位
御板輿〈仕丁四人 八瀬六人〉
大原左馬頭
富小路前中務大輔

石野大夫
裏松中務権少輔
口付 三条大納言〈従者同上〉
雨皮持二人
脚立持二人

虫鹿豊後守
御衣櫃 二合 八瀬四人
御医
西尾土佐守
福井豊後守

御馬口付二人掛リ 松室丹波
非蔵人
吉田淡路
藤木但馬
佐々能登
鴨脚出羽
大賀上総
三催
十一
北面一人 岡本近江守
御茶弁当 御水桶 持人四人 御台持二人 雨皮持二人
十二
御膳番 藤木右衛門尉 御厨子所御用長持一棹
十三
御用桶〈持人八人〉大隅美作守 小谷早太 手代二人 下部一人
後陣 口付 広幡内大臣 侍二人 下部一人
十四
同 錦織刑部卿〈従者同上〉
同 千種侍従〈従者同上〉
同 勘解由小路弁〈従者同上〉
十五
同 東園大夫〈従者同上〉
同 五辻大夫〈従者同上〉
同 織田出雲守〈従者同上〉
十六
同 小出伊勢守〈従者同上〉
同 加藤能登守〈従者同上〉
同 松平図書頭〈従者同上〉
十七
同 池田摂津守〈従者同上〉
不参 同 徳川元千代〈従者同上〉
十八
島津淡路守兵隊 五十人
毛利讃岐守兵隊 五十人

行在所日誌・慶応4年4号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第四号
慶応四戊辰年四月十五日

【英仏ノ使節拝真ノ事】
四月八日午ノ半刻、仏蘭西国コルヘツトチプレキス〈船名〉ノ指揮官カヒテーンデフリケイト〈第二船将〉ヘルガスヂユペチトワールス〈人名〉英吉利国使節館掛リエヽビミツトホルト
行在所ヘ参上ス、輔弼中山卿御対面アリ、外国事務局判事誘引ス、蓋シ過日皇帝陛下御機嫌能御着輦ノ御歓ビヲ申上奉ル也、未ノ刻退出セリ

【東本願寺掛所ヘ行幸ノ事】
同十一日巳ノ刻、東本願寺掛所ヘ行幸被為在、議定、参与之面々御対面アリ、夫ヨリ仮ノ演武場ヘ臨御被為在、辱クモ玉簾ノ中ヨリ、御親兵ノ演武ヲ天覧被為遊、相済ミ入御、続而読書講義ノ事ヲ被仰出御座ノ間ヘ被召出、親ク天顔ニ咫尺シ奉リ、講義ヲ始ム、松浦肥前守大学ノ三綱領ヲ講シ、田中国之輔孫子ノ謀攻篇、新田三郎三略ノ上略ヲ講シタリ、斯ノ如ク文武之道ヲ偏廃ナク、益々盛ンニ興サセ給フ、厚キ思食ノ程、誠ニ有難キ事ナラズヤ、申ノ半刻ニ至リ御機嫌能還幸在ラセラル元陸軍所ニ於テ調練仰付ラル

同日被仰出之写
来ル十四日卯ノ半刻、揃ヒニテ、元陸軍所ニ於テ、供奉之各藩諸兵調練被仰付、総裁并軍防局、為見分可被差出旨御沙汰候事
四月十一日
同十四日卯ノ半刻ヨリ、各藩ノ兵隊、元陸軍所近辺ニ屯集セリ、操練ノ順序左之通
第一 安芸新少将 兵隊
織田出雲守 兵隊
市橋下総守 兵隊
第二 備前侍従 兵隊
北条相模守 兵隊
森対馬守 兵隊
第三 徳川元千代 兵隊
松浦肥前守 兵隊
池田摂津守 兵隊
第四 長門少将 兵隊
加藤遠江守 兵隊
小出伊勢守 兵隊
第五 細川侍従 兵隊
津和野侍従 兵隊
柳沢甲斐守 兵隊
第六 島津淡路守 兵隊
毛利讃岐守 兵隊
第七 藤堂大学頭 兵隊
松平図書頭 兵隊
加藤能登守 兵隊
右時刻之指揮ニ随ヒ、第一兵隊操練所ニ進ミ、調練ヲ始メ、畢テ屯所ニ帰ル、次テ第二兵隊、代リ進テ調練ヲナス、第三ヨリ第七ニ至ル迄皆準之、午ノ半刻悉ク終テ、退散ス

【人民心得ノ御書附】
同十五日、供奉之公卿、諸侯ヲ被召出、御渡ニ相成候御書附之写
今般蒼生塗炭之苦ヲ被為救度御仁恤之
聖慮ヲ以
御親征被仰出、海軍
叡覧相済候上ハ、関東之動静ニ依リ、直チニ
大旆ヲ東海道エ被為向候
思食ニ被為在候処、大総督ヨリ形情言上之次第モ有之、先浪華ニ行在被為遊候ニ附而者、供奉之輩下々ニ至ル迄、別而厚ク
御旨趣ヲ奉戴シ、聊モ私怨ヲ狭ミ、公事ヲ誤リ候類之儀、決而無之様、深ク心ヲ用ヒ、戮力協心、可遂成功候、尚陪従之者心得違無之様、是又各其家々ニ於テ、不洩様精々可相示事
一、異変之節ハ、各其持場ヲ固メ、未ダ持場無之者ハ、厳粛ニシテ御指揮可相待候、若猥リニ奔走シ、混乱ヲ生シ、或ハ持場ヲ去リ他之功ヲ争ヒ候者、可為不覚事
一、平常道路往来ハ勿論、行軍タリ共、互ニ道ヲ相譲リ、礼節ヲ可尽候、若礼節ヲ失ヒ、或ハ不条理申掛ケ候者有之候共、私ニ争論ニ不及、其筋エ可訴出、速ニ是非曲直ヲ正シ、公平之御処置可有之事
一、軍中ニ於テハ、上下貴賤、寝食労逸ヲ同スヘキ事
一、喧嘩口論、堅ク禁止之事
一、民屋町家ニ立入、乱妨狼籍ハ勿論、押借、押買等堅ク禁止之事
一、遠乗、或ハ歩行之節、田畠ヲ踏荒シ、農業ヲ妨ケ、道筋之竹木ヲ折取候等之儀、有之間敷事
一、浮説流言、総テ人心之疑惑ヲ生候儀、堅ク禁止タリ、自然難差置事件聞及候節ハ、速ニ其筋々エ可申出候事
一、猥ニ酒会ヲ催シ、種々醜態ヲ顕シ候儀、下々ニ至ル迄、心得違無之様、其主人々々ヨリ、堅ク可申付事
一、宿駅馬借ニ限ラス、総而旅宿等ニ於テ、猥リニ忿怒ヲ発シ、小民ヲ畏縮セシメ候儀、有之間敷候事
一、貴ハ愛恤ヲ不忘、賤ハ恭敬ヲ不失、上下之間、礼譲ヲ専トシテ下ナル者ハ、上ニ対シ非礼之進退無之、上ハ権威ヲ以下ヲ不侮、互ニ誠ヲ推候儀、緊要之事
右条々堅ク相守、若不心得之輩於有之ハ、屹度可相糾者也
戊辰四月

行在所日誌・慶応4年5号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第五号
慶応四戊辰年閏四月二日

【座摩社ヘ御参詣ノ事】
四月十七日已ノ刻御出輦、座摩社ヘ御参詣、夫ヨリ東本願寺掛所ヘ行幸被為在、読書講義ヲ被仰出、福羽文三郎玉座近ク相進ミ古事記ヲ講ス、午後座摩社内ニ角力場ヲ設ケ、御旗持ノ士共ニ、角力ヲ被仰付、申ノ半刻還幸被為在候事住吉社ヘ御参詣ノ事
四月廿日卯ノ上刻御出輦、住吉社ヘ御参詣被為在、申ノ半刻還幸之事異教徒御処置方御下問ノ事
同廿二日辰ノ刻、議定、参与、徴士并在阪之諸侯ヲ、悉ク召サセラレ玉座近ク被召出、御書附ヲ以テ、長崎近傍浦上村、異教蔓延御処置之儀ヲ親ク御下問被為在、明廿三日申刻迄、書取ヲ以御答可奉申上ノト事ニテ、一同退出ス
〈御書附二通并各御答之書取ハ太政官日誌ニ詳出ス〉

【孝子節婦并極老御賑恤ノ事】
同日大阪裁判所江御沙汰書之写
大政御一新ニ付、人倫之大道ヲ明ニシ、天下之人心ヲ興起被遊度被思食、孝子、節婦并極老之者等御賑恤被為在候御趣意ニ有之候処、大阪之儀者、今度行在所ニ茂相成候ニ付、旁以孝子、節婦、七十以上之老人并平生忠義之志深キ者等、早々取調可申出候様、被仰出候事
四月

【英国使節国書捧呈ノ事】
閏四月朔日辰ノ刻、東本願寺掛所ヘ
行幸被為在、午ノ半刻、英吉利国公使セルハリハルケス」公使館セクレタリーヱフオヱテムス」ヱヽビミトフオルド」イヱムサトウ」副水師提督セルヘンリーケベル」船将ヘネジ」水師提督書記官ウイリヱムリスク」リフテナントカニユ」船将ステンホプ」司ホラルド」同ヒユヒ」リフテナントカー」国書持参、同所ヘ参上シ、拝天顔、国書ヲ捧ク
但、副総裁始メ、公卿、諸侯及掛リ役員各列ス
英国公使言上之趣意、大略左之通
今日謹テ参朝セシハ、先般貴国政体、変革有シ事ヲ聞知シ、我皇帝ヨリ、早速書翰ヲ呈シ
日本天皇陛下之幸福高寿ヲ祈リ、且両国人民ノ為ニ、親睦交誼永久ナラン事ヲ希望スルニ依テナリ
天皇陛下、其心意ヲ諒察シ給ヒ、外国ノ交誼益懇信ナラン事ヲ奉願也
勅答之大意
今度帝王ヨリ、懇篤之書翰ヲ贈リ御満足ニ被思食候、乃チ来書ニ云ヘル如ク、両国人民ノ為ニ、親睦交誼、益永続被遊度、此旨公使ヨリ速ニ通達有之候様、被思食候旨勅答相成候事
未ノ刻相済退出セリ、申ノ半刻還幸被為在候事
一、英国公使取扱之件々、左ノ通リ
一、四月廿九日、英国公使江明閏四月朔日第一字参朝ノ儀、外国事務局輔ヨリ、書翰ヲ以テ通達ス
一、当日公使参朝之節、外国事務局輔塀重門外迄出迎
外国局判事一人、外国御用掛一人、公使旅館迄被遺、公使前導者トナリ、参朝ス
一、公使扣所迄誘引、外国局輔相勤ム
判事付添
一、茶菓ヲ賜フ
判事取計、配膳ハ使番ニテ取扱
一、副総裁及諸大臣出会
一、皇帝出御
一、弁事出御ノ旨ヲ、外国掛公卿、諸侯ニ通達ス
一、外国事務輔、公使ヲ誘引ス
一、公使拝
天顔、捧書翰了リテ、水師提督及ヒ船将等、未タ不拝
天顔者共之姓名ヲ披露ス
山階宮、三条大納言、中山大納言侍ス、通弁外国局判事伊藤俊介亦侍ス
一、拝
天顔相済、公使扣所ニ帰坐ス
以上

行在所日誌・慶応4年6号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第六号
慶応四戊辰年閏四月五日

閏四月四日公卿諸侯以下供奉在阪之面々悉ク被召出御渡ニ相成候御書附五通之写
一、此度大総督宮ヨリ言上之趣モ有之、徳川慶喜降伏謝罪、奉仰天裁候ニ付而者、非常至仁之叡慮ヲ以、寛典之御処置可被仰出、依之来七日還幸被為在候旨、被仰出候事
閏四月
一、向後治乱トモ、時機ニ依リ、四方江行幸可被為遊御儀、可有之候ニ付、供奉御列之儀モ、三等ニ被為定、追而可被仰出候、殊ニ近来国家多事、小民夫役ニ苦シミ候段、連々達天聴歎思食候、民力ヲ省スルハ国家之急務ニ付、右三等中、御平常ハ可成丈ケ、第一御簡便ニ随ヒ被為遊候段、被仰出候ニ付
叡慮之旨、厚ク可相心得御沙汰候事
閏四月
一、先般御誠誓之旨ニ被為基、此度還幸之上ハ、思食ヲ以、不日二条城エ
玉座ヲ被為移、万機親敷被聞召、猶御余暇ヲ以、文武御講究ヲモ被為遊候旨、被仰出候ニ付、弥以公卿列藩士民ニ至迄、可有勉励御沙汰候事
閏四月
一、此度御親征海軍天覧被為遊、時機ニ依リ東海道エ大旆ヲ被為進候思食ニ候処、大総督宮ヨリ、関東之形勢言上之趣有之、暫浪華ニ御滞在被為遊候、然処此度徳川慶喜恭順謝罪、奉仰天裁候ニ付而ハ、不可赦之大罪、厳譴至当ニ候得共、祖先之勲労不被為捨非常至仁之叡慮ヲ以、寛典之御処置被仰出候、依之兼而御布令之通、速ニ還幸被為在、慶喜伏罪、江戸城平定之廉相立候所ヲ以御先霊エ被為告候思食ニ付山陵御参拝被仰出候、乍去会津其外残党之者、尚処々屯在、暴威ヲ張、抗官軍候趣相聞候、此後之動静ニ依リ、直チニ御親征ヲモ可被為遊候間、公卿列藩益勉励、敵愾之気不相弛様、屹度可相心得候、且又追々内外之大勢、被為知食、海陸軍之御作奥ヨリ、列藩之御指揮、海外各国之御扱等其当ヲ被為得候ト否トハ、御興廃之岐ル所、殊ニ地勢之利不利ハ関係之最大ナル儀ニ付、弥以
御励精御誠誓ニ被為基已後屡浪華ニ行幸官代ヲ被為置、万機御親裁、内外大勢御統馭被為遊候叡慮之旨、被仰出候ニ付、上下厚奉体シ、各々其分ヲ可尽御沙汰候事
但、今般被仰出候通、京都ハ先二条城ト被為定候御宗廟之地旁、已来別而御警衛向等厚ク被仰付候、浪華之儀ハ屡行幸被為遊候ニ付而ハ、下民之困苦被為厭行在所官代等、追而地利御撰ヒ、御造営被為在候旨、被仰出候事
閏四月
一、此度還幸被仰出候ニ付而者、兼而御沙汰ニ相成候御法度之件々、堅相守、礼義廉恥ヲ主トシ、聊心得違之所業屹度無之様相慎、各其々家陪従之者ニ至迄、不洩様厳重可申付候、若不心得之輩於有之ハ、屹度御沙汰可有之旨、更ニ被仰出候事
閏四月

行在所日誌・慶応4年7号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第七号
慶応四戊辰年閏四月六日

【大坂城内ニ於テ繰練天覧ノ事】
閏四月四日、城内江
行幸可被為在之処、雨天ニ付御延引、被仰出候事
同五日卯ノ刻御出輦、城内ヘ
行幸被為在、各藩ノ兵隊、大砲小銃之繰練天覧被為遊、相済ミ供奉之面々ヘ、乗馬ヲ被仰付、午ノ半刻、還幸被為在候事

【豊太閤社壇造営仰出サル】
閏四月六日神祇局並大坂裁判所江御沙汰之写
有功ヲ顕シ、有罪ヲ罰ス、経国之大綱、况ヤ国家ニ大勲労有之候者表シテ顕スコト無之節ハ、何ヲ以テ天下ヲ勧励可被遊哉、豊臣太閤側微ニ起リ、一臂ヲ攘テ天下之難ヲ定メ、上古
列聖之御偉業ヲ継述シ奉リ
皇威ヲ海外ニ宣ヘ、数百年之後、猶彼ヲシテ寒心セシム、其国家ニ大勲労アル、今古ニ超越スル者ト可申、抑、武臣国家ニ功アル、皆廟食其労ニ酬ユ、当時
朝廷既ニ神号ヲ追謚セラレ候処、不幸ニシテ天其家ニ祚セス、一朝傾覆シ源家康継テ出、子孫相受ケ、其宗祠之宏壮前古無比、豊太閤之大勲ヲ以テ、却テ晦没ニ委シ、其鬼殆ント餒ントスルニ及候段深
歎思食候折柄、今般
朝憲復故、万機一新之際、如此之廃典挙サルヘカラス、加之宇内各国、相雄飛スルノ時ニ当リ、豊太閤其人ノ如キ、英智雄略ノ人ヲ被為得度、被思召、依之新ニ祠宇ヲ造為シ、其大勲偉烈ヲ表顕シ、万世不朽ニ被為垂度、被仰出候、列侯及士庶、豊太閤之恩義ヲ蒙リ候モノ不少、宜シク共ニ合力シ、旧徳ニ可報旨御沙汰候事
閏四月
別紙之通、被仰出候ニ付而ハ、大阪坂外近傍ニ於テ、相応ノ地ヲ撰ヒ、社壇造営被仰出候、且天下有志之者、御手伝致度儀申出候得者、御差許ニ相成候間、於裁判所、早々程能可取計様、被仰出候事
閏四月

【浪華病院御取建仰出サル】
同日同所江御沙汰之写
大政御一新之折柄、鰥寡孤独貧窮之者、自然療養不行届、天年之寿命ヲ保コト能ハスシテ、空ク致落命候者有之候テハ可憫事ト、深ク御垂憐被為遊、厚キ
御仁恵之思食ヲ以テ、今度於浪華、病院御取建ニ相成、窮民ニシテ疾病療養、不行届之者共御救助可被為在旨、被仰出候事
閏四月
追而病院取建之場所並医師人物制度規則等、早々取調可申出旨御沙汰候事

【大坂市中極老者御賑恤ノ事】
同日同所江御沙汰之写
兼テ被仰出候通、厚キ御賑恤之
思召ヲ以、今般大坂市中、極老之者江、別紙之通、御恵ミ可被為下置候旨、被仰出候事
但シ、兼テ被仰出候孝子、節婦等、尚早々取調可申出旨、更ニ御沙汰候事
閏四月
別紙
一、百歳以上 壱人ニ付給穀 三石
一、九十歳以上 同 二石
一、八十歳以上 同 一石
一、七十歳以上 同 五斗
右之通御恵ミ可被為下置候間、早々取斗可申旨御沙汰候事
閏四月
同日同所エ御沙汰之写
御仁恤之思召ヲ以
御親征御行在相成候上ハ、市中人民、其処ヲ不得モノ有之候而ハ元来之
聖慮ニモトリ、深ク
御顧念被為遊候、依而ハ
還幸之後、一層励精、人民安撫之政令、施行候様尽力可有之旨、被仰出候事
閏四月
同日軍防局江御沙汰之写
此度徳川慶喜降伏ニ及候処、残賊猶野心ヲ逞シ候趣、然ルニ摂海之義ハ、近畿枢要之土地、衆庶輻湊之都会ニ付、万一賊船衝突シ、人民危難之地ニ立至候而者、不容易次第ニ付、深ク歎思食候、依而此度
還幸被為在候後者、猶更防禦向、一際厳重ニ相備、非常之戒不懈人民安堵、各生業ヲ安シ候様、厚ク取締可致旨、更ニ被仰出候事
閏四月