江城日誌・慶応4年10号

江城日誌 第十号
慶応四戊辰年五月廿五日

五月廿一日
堀田相模守
頃日総房辺へ残賊出没、民心を悩し候段、不容易儀ニ付、速ニ出兵、前橋藩申合、鏖賊候様尽力可致旨、被仰出候事
五月廿一日
○伊州、因州二藩へ御感状之写
今度上野山内屯集之賊徒追討之節、遂勇戦忽及掃賊候条感入候、尚成功之次第速可遂奏聞候、猶此上敵愾之士気不相馳、弥勉励尽力可有之、仍感状如件
慶応四年戊辰五月廿一日 大総督
因州藩 隊長中
伊州藩 隊長中
右各通

信濃松代 真田信濃守
甲府城代職被仰付候事
五月廿一日

水野出羽守
上野山内敗走之賊徒、所々屯集未至平定駿州之儀ハ、要衝之地面候条、甲府城代被免、速ニ帰邑被仰付、府中城ニ而領内口々警衛之儀、近隣諸藩申合、厳重可相守旨、御沙汰候事
五月廿一日
五月廿一日着、野州出勢之肥州藩より来状書抜
真岡陣屋代官山内源七郎、陽ニ恭順之姿を顕し候ニ付、格段寛大之
思召を以、旧ニ依而、代官勤被仰付置候処、其掛り之手附ニ而、先般大田原へ会津賊兵之嚮導等致し候儀、普衆人之所知、其上官軍へ護送する之名儀ニて、会賊へ米穀等内分差送り、不遠内党類をも相集候由ニ付、其侭ニいたし置候ハヾ、賊勢益可致増長候ニ付、今十四日四ツ半時、左之通為取計候儀ニ御座候
真岡陣屋代官 山内源七郎
手附 三沢昇四郎
平田義助
松野裁右衛門
江並善太郎
右者打果、代官山内源七郎一人丈獄門ニ相掛陣屋等焼捨、所之名主等呼出し、得と申諭し、人心安堵家業尚又致出精候様、申達たる儀ニ御座候、尤出張人数左之通
土州 三原兎弥太
其外兵隊凡二十人
肥前 重松善左衛門
其外兵隊凡四十人
右為可申上如斯御座候、以上
五月 肥前藩

五月廿四日
青梅辺出張之諸藩へ御沙汰之写
青梅辺賊徒、速ニ退散候段、報知之趣、就而者筑後藩一ト手残賊為掃除、先当分残し置、惣軍悉く早々可引揚候、尤為念別紙之通近辺へ不洩様、布告可致旨、御沙汰候事
五月
別紙
甲武両野州辺諸在々、折々残賊出没、民財を掠、家業を妨げ候段相聞へ候、向後右体浮浪之者往来之砌、最寄百姓共、竹鎗或ハ猟銃を以、勝手次第可打取、尤多人数手ニ余候節ハ、出先兵隊へ可届出、処置可致候事
五月

永井肥前守
一手
右明廿五日より、上野山内取締警衛被仰付候条、早朝より出張可致候事
但市街より拾ひ物、差出次第可受取事
駿河田中 本多紀伊守
其方家来別紙姓名之輦、賊徒ニ党与し、去十五日上野山内ニおゐて敵対候段、重々不届之至ニ候、依之早々召取、何分之御所置可伺出旨、御沙汰候事
五月廿四日
小林助右衛門
其他六人
太田備中守
前同文
秋山七兵衛
其他二十人
松平右近将監
前同文
熊谷左織
其他九十三人

江城日誌・慶応4年6号

江城日誌 第六号
慶応四戊辰年五月十七日

五月十六日
○肥後より御届之写
当藩隊湯島より黒門江進撃候様被仰付候間、湯島より不忍池端黒門前へ進撃、夫より分隊仕、一隊ハ上野南手下谷より山内へ乗入、一隊は上野北より進入仕候、此段御届仕候
五月
深手 士分 高山秋蔵
同 歩之者 千田四郎右衛門
薄手 足軽 高野庄蔵
右昨日戦争之節、手疵迄、外小者ニ至迄、死傷無御座候以上
五月
○肥前より御届之写
昨十五日上野賊徒御誅伐ニ付、戦争之次第且戦死等左之通御座候、此段御届仕候
一、大炮二門
右者富山屋鋪へ相備、同所より上野黒門口台場并堂柵松藪之内等へ相備居候賊徒且弁天島へ相掛り参候賊徒之儀ハ、小銃を以打払候
一、小銃隊
右ハ最前御割付之通、本郷辺より攻入、だんご坂辺にて苦戦候得共、同所之儀長州其外兵士込合候ニ付、手を分二十人程、黒門口より山内へ薩州其外一同乗入候
討死 宮崎代助
中地藤太
手負 高岸文八
同 夫一人
以上
五月十六日 肥前侍従内 吉村謙助
○長州より御届之写
戦死之部 嚮導 佐藤左武郎
同 生瀬清見
久山寿太
池永小五郎
原房之助
藤井靖六
深手陣営ニ而死 内山久之進
深手之部 掠木直人
田中平九郎
永井房蔵
大庭佳蔵
佐藤辰三郎
右過ル十五日、戦争出人数、戦死、手負、前書之通ニ御座候、以上
五月 長州藩
○筑後より御届之写
一、昨十五日攻口之儀、千駄木坂下ニ而、長州勢苦戦之体ニ御座候間、横合より応援之心得ニ而、発炮仕候
一、根津権現之北ニ而、森際より賊小銃打出候ニ付、発炮仕候処、深樹之内へ入、何れ江歟退散仕候
一、右同日攻口之儀、被仰渡之通、富山屋敷より四ツ半頃迄放煙仕居候処、表面防戦堅固ニ付、敵之真横より打立候様、御使番より御差図御座候付、茅町池之端へ転陣仕形勢見計打込申候、尤小銃も兼而銘々手当仕罷在候ニ付、手隙より連発仕候
一、一昨十五日、金座警衛弊藩人数、千住迄巡邏仕候処、残賊煙鎗之隊伍相備、凡三十人計突出、弊藩之巡邏見掛、発炮仕候ニ付此方よりモ発炮仕候ニ付、賊退散仕候
一、一昨十六日、護国寺へ出兵仕候様、御沙汰御座候得共、金座へ繰出置候兵隊之内、直ニ出兵仕候付、少々及遅刻候処、最早残兵無之由ニ而、諸兵隊孰も引揚申候、右期ニ後れ候儀残念之余、同所へ踏込、吟味仕候内、前町人家へ罷在候賊、勤仕并寄合加藤下総守潜匿仕候付、主従討留申候
一、右両日戦争戦死手負左之通
手負 土田清摩隊 桑原文司
討死 上田兵次郎隊 肥部金三郎
右之通御達申上候以上
五月十七日 筑後 有馬蔵人
○大村より御届之写
上野屯集之賊、為討手大下馬江相揃、五字出陣、水道橋より本郷通、加州邸へ繰入半隊ハ根津惣門より突戦、半隊ハ水戸邸へ出、だんご坂手前、伏兵之賊と戦争、暫して地形悪敷ニ付、根津権現堂へ引揚小隊相会し、間もなく同所門前寺院へ、屯集之賊と相戦、夫より谷中、千駄木町、だんご坂辺ニおゐて始終戦争、追々相鎮、上野黒門山内等相敗、其手へ進候藩々、既ニ引揚候趣相聞候付、諸藩申合、六字頃巡邏相勤、引取候事
一、手負左之通
深手負 半隊長 宮原俊一郎
同 兵士 伊達守之助
同 同 池田小市
薄手負 同 根岸貞平
右之通御座候以上
五月 大村 渡辺清左衛門
○備前より御届之写
討死 半大隊司令官 大田万治廿一歳
同 銃隊 伊原儀左衛門廿五歳
同 同 内藤恵三郎廿五歳
同 同 尾関久五郎四十二歳
疵三ケ所 大砲隊司令官 三上留吉
内股二ケ所内一ケ所為搏貫疵
外〈陰嚢一ケ所為摶貫疵 羽織四ケ所〉
右小銃疵
同九ケ所 銃隊 妹尾卯太郎
内〈頭上一ケ所 右ノ手二ケ所〉
右〈左ノ手一ケ所 刀疵〉
〈陰嚢一ケ所 左右ノ股四ケ所〉
右鎗疵
同一ケ所 同 松田松三郎
左ノ手浅疵
同一ケ所 同 片山言一
右ノ手浅疵
同一ケ所 同 山本弥太郎
左鬢浅疵
右三名共小銃疵
右者上野おゐて戦争之節、討死并手負之者共御座候、此段御届申上候以上
五月 備前侍従内 薄田兵右衛門
○佐土原より御届之写
上野ニ而戦争之節
能勢惣之進
右之通御座候以上
五月 佐土原藩
紀藩兵士 亀井卯吉
右十五日戦争之節討死仕候
島本亀右衛門
右同断之節手負申候
山崎熊八
右同断之節、何れニ而討死仕候哉相知不申、色々探索仕候得共、未相分不申候
右之通御座候以上
五月 紀藩隊長 和佐類之助

以下橋本本になく原本に表記
(匡郭外)
五月十六日之記事未余りありて尽しかたきにより猶第七号に続出す

江城日誌・慶応4年12号

江城日誌 第十二号
慶応四戊辰年五月廿五日

五月廿五日
水野出羽守
本多紀伊守
滝脇丹後守
今般徳川亀之助、駿府城主ニ被仰付候間兼而用意可有之旨、御沙汰候事
五月
右各通

五月廿六日
北陸道総督府より之来状書抜
抑於北越小千谷長岡道、去ル十日ヨリ攻撃、薩、長両藩、加州、高田、信州、尾州等進撃、賊軍強勢ニ而、苦戦打続候得共、去ル十九日、長州勢千曲川打越乗入、引続諸藩進撃ニ而、同日巳刻後長岡城町在共焼亡仕候、残賊之儀も、廿日朝迄ニ尽く散乱いたし、八十里越と云奥州地へ之間道へ引栃尾と云所へ相集候様相聞候、追々追撃之手配いたし居申候、此度之戦、官軍之死傷不少賊之死傷ハ又倍々有之趣、近来之大戦ニ御座候、長岡落城ニ付、追々右城下江操込居申候、先右迄不取敢御注進申上候巳上
五月廿二日

薩藩より之届書
去ル朔日、白川城攻落し候節、取討之賊兵死骸、追々取調相成候処、都合六百八十二人ニ相及候段、彼表出張之同藩ヨリ申参候間此段御届申上候、以上
五月廿六日
薩摩藩

五月廿七日
軍監木呂子善兵衛、越後表為監察、急速出張被仰付、薩州、長州以下戦争之藩々へ下賜候御感状持参、今廿七日出立之事
○薩州へ下賜候御感状之写
会津其外之賊徒共、北越所々之要地ニ盤踞し、兇暴猖獗、以て官軍ニ抵抗する之折柄屡遂勇戦、殊ニ去ル十日より、十九日ニ至り、連日之苦戦、頻りニ賊徒を掃撃し、遂ニ長岡城を乗取候段、深感賞候、成功之次第ハ速ニ可遂
奏聞猶此上一際抽忠勇、勉励尽力可有之、仍て感状如件
五月
○長州へ同断
会津其外之賊徒共、北越所々之要地ニ盤踞し、兇暴猖獗、以て官軍ニ抵抗する之折柄屡遂勇戦、殊ニ去ル十日より、連日之苦戦頻りニ賊徒を掃撃し、遂ニ十九日千曲川を打越先登し、長岡城を乗取候段、深く感賞候、成功之次第ハ、速ニ可遂
奏聞猶此上一際抽忠勇、勉励尽力可有之、仍て感状如件
五月
右各通
徳川江御沙汰之写
一、徳川亀之助方ニ而扶持いたし候分相除、朝臣ニ相願候もの共、姓名格式等相認可差出候事
五月

一、町奉行組与力同心之輩、自今鎮台府附被召出、禄高扶持米等是迄之通被下置候事
五月

品川侍従
今川侍従
前田侍従
同源十郎
六角主税
名代弟 六角由太郎
右自今朝臣ニ被仰出候事
五月

市政裁判所より伺之写
今般市政裁判所被建置候ニ付而ハ、向後於市中乱妨之者有之候節ハ、士と雖とも、御作法通り、裁判所手先之者を以、取締候心得ニ御座候、此段奉伺候以上
五月
掛紙
可為伺之通事

五月廿八日
武州飯能出張之筑後藩ヨリ御届之写
去ル廿三日、賊徒飯能中山江屯集、其外最寄村々ニ罷在候趣ニ付、藩々申合、筑前藩一同押寄、討入候得共、賊徒逃去候ニ付、同寺焼払、飯能村へ押寄候処、賊徒森陰、民家抔より砲発致し候ニ付、分隊仕、藩々一同打払申候、此段御届申上候
五月廿七日

江城日誌・慶応4年13号

江城日誌 第十三号
慶応四戊辰年五月三十日

五月廿九日
小田原出張軍監より文通写
然者去ル廿七日午刻大磯駅迄着陣、夕方加賀守家老岩瀬大江之進、年寄蜂屋重太夫、留子居郡権之介、三ケ条問罪御答として罷出、謝罪之書面差出候得共、期限延引ニ相成候上、一ツとして条理相建候儀無之、曖昧之事而已ニ而、不憚朝威次第、厳敷叱付、御答不分明之儀有之ニ於てハ、速に居城を屠り、加賀守始家来共不残、可致誅戮旨、御沙汰ニ候間、直ニ進撃可致間、早速罷帰り、防禦之手当可致様申渡候処、大ニ恐縮仕、何分ニも謝罪之実功相立候ニ付、寛大之御沙汰を蒙り度、只管歎願仕候得共、強弁無益、速ニ立去り候様申聞追放申候、従是先馬入ニ長藩、中原村ニハ備州藩小隊を残し置、伊州、備州両藩より、一小隊宛、酒匂川岸へ、為斥候隊進軍致し候処、川役人共打寄、仮橋為掛居候最中ニ而、大ニ都合宜敷、早々進軍致し候ニ付、諸隊不残進軍、直ニ城下ニ入申候、備前藩ハ、酒匂川上飯泉と申所へ廻り、夫より渡り、同城下ニ入申候、然処大久保重役共、精服ニ而出向、哀訴仕暫時打入見合呉候様、段々及嘆願候ニ付攻撃見合、入城仕候処、加賀守ハ菩提寺へ引取、謹慎罷在候段申聞候ニ付、直様参上可致旨申渡、彼是仕居候内罷出候ニ付、三ケ条及糾問候処、一々奉恐入、全く不明にして奸臣ニ委任仕置、今日ニ至候段重く奉恐入候、此上ハ如何様ニ被仰付候共、聊以申上訳更ニ無御座、深悔悟仕、謝罪之実功相立挙家出兵仕、先刻より賊兵を追撃為致置候ニ付、何卒寛大之御処置被仰付度旨、再三歎願仕候ニ付、先ツ攻撃相止、同人ハ菩提寺ニ而謹慎、居城請取弾薬、器械為差出申候、且同人兵隊之者共ハ、先刻より箱根口へ出張致し居候ニ付為点検各藩一小隊ツヽ、尾行進軍、午中刻より大久保兵隊戦争相始、五字二点迄砲戦致し居候得共、勝敗不相分、同隊手負即死追々有之候ニ付、四藩申合、一時ニ進軍、四点之中ニ、賊兵大敗、山崎村迄追撃致し候処、日暮ニ及び候ニ付、惣軍をまとめ、大久保兵隊を番兵ニ残し、長、因両藩兵隊、風祭村ニ屯集、備、伊両藩ハ小田原迄凱陣仕候、手負打死別紙之通御座候間此旨問罪督府江可然御達被仰上可被下候、且昨日之所ハ因藩より之別紙ニ相譲り申候、尚委細ハ、使口頭ニ托し候間、御聞取可被下候
一、右之次第ニ而、出兵致し候事故、機械取集、甚手間取申候、依之今日は大久保兵隊不残引上、器機相揃候覚悟ニ御座候間運送船早々御廻し可被下候
一、謝罪実功相建候得共、家老年寄斬罪当然之儀ニ付、明日申渡候心得ニ御座候、首級ハ如何可仕哉、此段相伺候
一、件々相済候上、函嶺ニ兵隊相残し候哉、且軍監附属之兵隊相残し不申而ハ不相成儀と奉存候、此辺も相伺度候
一、市民撫育之儀ハ、加賀守家来共、乍慎相勤、旧蔽を去り、鎮撫之実功相立候様申付候
右之段御報知申上度、如斯ニ御座候
五月廿八日
小田原出張因藩より文通書抜
去ル廿七日、進軍之次第廿六日残賊追討之都合ニ候処、兎角大久保藩兵気甚鈍く、全前日之戦争ニ恐縮仕候様子ニ見請候得共、実行成丈相建させ申度存寄ニ而、種々説得候処、追々相進ミ、漸四字ニ至り、箱根宿へ着、賊兵ハ九字頃ニ右箱根迄引揚、兵糧等相遣ひ、三島宿あたみ之方へ落去仕候由ニ相聞申候、始終兵気之不進故、跡々ニ相廻り、実ニ残念之至ニ候、尚又其より右三島あたみ之両道へ分隊為致繰出し候処、残賊之内、林昌之助一手と相見候者、箱根宿外れ山上ニ、三十人計、大砲一門、小銃一挺宛相携、休息致し居候様子ニ而、右小田原藩へ向、砲発仕候処、散々馳帰り候ニ付、尚又跡より追建、押而山上へ為進候処、人数之内、兼而強壮之者と被存候者、両三輩も抜刀、真先江相進ミ候処、跡より追々相進候者も有之、生捕両人、及打取六人、所持之器械等者、不残分捕相成申候、其後も大島と申処、三島道之由、賊徒一小隊計屯集之由ニ付、直様夕方繰出し置申候、尤あたみ路江も同様之事ニ候、右分捕之内、少々手掛り之書面も有之候ニ付、直様小田原表江備藩同断罷帰申候
五月廿八日
因藩 足立勘四郎
別紙
手負 長藩 松岡梅太郎
因藩 井上静夫
梶浦清蔵
佐々木永之丞
大久保家より差出候届書写

薄手 家老 渡辺了叟
同格 吉野大炊介
番頭 山本主計介
深手 足軽頭 松下舎人
小与頭 小川小右衛門
討死 銃士 石川鎌治
片桐左仲
鈴木久太郎
深手 奥平兵庫
飯野数衛
牧野半吾
薄手 村田吉之介
片桐久太郎
岡島峰衛
山下江並
里見粂之丞
大西藤四郎
坂部弥一郎
河合健三郎
小早川丹造
大木錠四郎
村山徳三郎
討死 徒銃隊 高橋藤太郎
右者昨廿六日午中刻より之戦闘ニ而、打死手負等如此御座候以上
五月 大久保加賀守家来 郡権之助

江城日誌・慶応4年15号

江城日誌 第十五号
慶応四戊辰年五月

五月三十日
○奥州出張長藩より届書之写
一、五月廿五日之戦状
前日より近辺賊兵屯集の由報知有之、地理研究巡邏旁三藩申合、二十人計宛、兵隊差出し、根田通り大田川ニ至り、敵兵百計屯集いたし居候ニ付、暫時ニ撃破り、村中焼払帰営す、三番隊は別に鹿島口より出、本沼口ニ向ふ、同所より五六町手前、叢樹の中ニ、敵兵五六十許潜伏いたし、不意ニ左右より撃出す、我兵直ちニ散開、当戦二時斗、敵兵追々繰出し、味方勿論巡邏之儀ニ付、二十人余而已にて突入、村中之賊を追払、村内賊屯集いたし居候民家焼払、鎗其外少々之武器分取帰営仕候、其節弊藩戦死一人、手負一人而已にて、賊兵手負死人十五六人ハ可有之、現ニ残し置候死骸五ツ御座候以上
戦死 北野武熊
手負 岡八十吉
一、同廿六日之戦状
五字三点頃、棚倉道、湯本道両道より賊兵襲来、此頃弊藩棚倉道、鹿島道両道を守る二番隊ハ棚倉口を守り、三番隊ハ鹿島口を守る、二番隊直様押出し棚倉口ニ戦ふ、同刻鹿島口へも敵兵二手ニ分れ襲来、三番隊是に当る、奥州道、金正寺道、原街道白坂へも両道より襲来る、八道共悉激戦、砲声地を轟し、万雷の急撃するが如し、此時棚倉口へも賊二タ手に分れ、一は本道より来り、一ハ大沼脇より来る、賊大砲三門を大沼脇ニ出し烈しく砲撃、我兵左手より大砲隊を目掛ケ、盛ニ進撃、薩二番隊、応援として右より出づ、賊支へ兼、大砲三門を置て走る、又進で小銃隊ニ当り激戦、終ニ一字三点頃賊兵遁走る、三番隊ハ、同刻より鹿島口の賊ニ当り、盛ニ奮戦、賊二大隊余来り、味方僅八九十人、衆寡不敵、余程苦戦ニ相成、二番隊ニ援兵を乞、此時二番隊も小勢を以大勢を引受、随分苦戦中の事故、差出す兵員無之、雖然実ニ苦戦ニ而、援兵を乞候事故、大炮隊を出し是を助く、十二字頃戦最烈しく、我兵最苦戦、此時幸ニ大雨降落、我兵本込銃ニ而、賊ハ口込、其外火縄銃抔の事故、銃多くは発せす我兵勢を得、盛ニ突入、賊兵追々浮足ニ相成、三字頃二番隊よりも少々兵具差出し、終ニ五字頃悉賊兵追払候、此時両道共、賊死人手負多人数可有之、弊藩即死一人、手負四人而已ニ御座候
即死 村田鹿之助
手負 草刈孫市
同 佐子九郎兵衛
同 吉井栄作
同 宮五郎
手負 夫卒 栄助
一、同廿七日之戦状
七字一点頃、棚倉口、鹿島口両道共賊兵襲来、二番隊ハ棚倉口ニ而当戦、三番隊ハ鹿島口ニ出、賊兵ニ当る、此時賊兵一大隊計二タ手ニ分れ襲来、土平一小隊余為応援来り戦ふ、十二字二三点頃賊兵を追払ふ、此日賊死人、手負等少々可有之、現ニ残し置候死骸三ツ、棚倉口へも一大隊計

以下入力分

江城日誌15 明治文庫画像使用

襲来候得共暫時ニ追払候弊藩手負死人等無之候此日金正寺口一字頃より八字項迠頗る激戦薩土大垣当之
一同廿八日之戦状
六字四点頃棚倉鹿島両道共賊兵襲来此日棚倉口最烈しく前々日より連日之戦にて少々疲れ居本隊繰出すこと少く遅し斥候隊是に当
り頗る苦戦無間本隊操出し十一字二三点頃賊兵悉く追払ひ進で新合度村を焼賊死骸五ツを残し置き走る我兵帰営す一字頃又々敵兵

襲来暫時斥候隊を以て当之本隊操出し暫く戦ひ終ニ追払四字頃帰営す八字頃又々賊兵襲来本隊繰出し暫時ニ追払此日一昼夜にて棚倉口三戦いたし随分激戦鹿島口へも三度襲
来本隊三度繰出し戦争す棚倉口ニて比すれバ大ニ軽し
一忍藩二小隊弊藩兵隊同行初戦岩井以来幣藩人数同樣每戦出張戦争致し候
一同廿九日
夜十字頂斥候隊見張所へ賊兵少々突来り手

5お

負二人有之
手頁
矢野助七
佐々木正三郎
同晦日
夜中鹿島口見張所先へ少々賊兵来り篝火の番兵を襲ふ即時ニ追払ふ
六月朔日

前夜篝火の番兵を襲ひしを慍り三番隊二十人巡邏として根田村迠至る正ニ進んで泉田ニ至んとす賊往還左右ニ炮台を築き備へ居候

5う

斥候の者一両人を遣し候処賊小勢の様相見候故二十人申合せ進で炮台前ニ至り戦ふ賊不計大勢来り四方より迫る我兵頗る苦戦勿論
巡邏の事故正ニ引取んとする時薩土大垣の兵隊少々宛来り合せ又々替り合ひ戦候得
共賊兵大勢之事故引揚帰営仕候此日賊死人多分ニ有るべく弊藩死人一人手負二人ニ御座候
手負
山県省三
福島一松

6お

松田清蔵
右器械掛りの者故遅刻戦地ニ
出候処本隊と行違ひ決メ戦死
仕候哉今以帰営不仕候
手負 夫卒一人

一六月十二日之戦状
三字三点項棚倉口に当り一声の号炮を発す

勿論未明の事故斥候差出候処敵兵弥襲来の由報知す直様本隊繰り出す此項鹿島口ハ薩藩多勢の事故彼藩ニ譲り弊藩棚倉口一道を

6う

守る戦頗る烈しく須更ニして鹿島口奥州口金正寺口湯木口原口白坂合せて七道より賊大挙襲来棚倉口へハ賊二大隊余三手ニ分れ一ハ山上より一ハ本道一ハ大沼脇より来る
我兵忍潘申合せ五六手と分れ或ハ渓間或ハ
樵道或ハ本道或ハ叢樹の中を潜り一ハ前より炮撃し一ハ背面より炮撃す賊周章狼狽大炮
一門小銃十五六挺死骸八ツ手負一人を残し
置き敗走す我兵頻りニ勝たと呼び進で大炮
小銃を分取り手負一人を斬首し無疵の一賊

7お

を擒とし益進ミ戦ふ賊遁走恰も蜘子の散乱するが如し十二字四点凱陣す
手負 溝部千吉
右先月廿五日より今十二日迠之戦状御届上候
長藩
楢崎頼三
口羽兵部
梨羽戈吉
原田良八

太政官日誌・慶応4年25号

太政官日誌第廿五
慶応四年戊辰夏五月

【小栗上野主従斬首ノ事】
高崎藩届書写
御総督府ヨリ依御差図、去月朔日、板倉主計頭、吉井鉄丸、並右京亮人数、上野国権田村へ差出、小栗上野介並悴又一所持之大小砲、其外請取、三手家来へ御預被仰付、同四日夕、御総督府御使豊永貫一郎殿、原保太郎殿右京亮城下へ被相越、右権田村へ出兵之儀御達ニ付、兵隊夜半繰出、翌五日、於三ノ倉村軍議、半隊上野介宿寺後山手へ相配、半隊ハ表門ヨリ繰入、保太郎殿糾問之上、三ノ倉村地内ニ於テ、主従四人斬首、家来三人ハ同村外ニテ梟首、悴又一並家来三人ハ、兼テ在所表ニテ手当仕置候処、是又依御差図、同七日斬首、家来三人ハ城外ニ於テ梟首申付、上野介父子首級並武器類等ハ、御総督府へ護途仕候旨、在所表ヨリ申越候、此段御届申上候、以上
五月七日
大河内右京亮家来
島崎儀兵衛

【北越戦況】
高田藩届書写二通
御領所並弊領為守衛安塚村へ、兼テ出兵為致置候一族、榊原若狭一手、今般為賊徒御追討追々御進軍ニ相成候ニ付、為先鋒魚沼郡千手辺迄繰込候処、同所ヨリ二里余、雪峠嶺頭賊徒屯集之旨ニ付、去月廿六日若狭隊其外尾州松代藩人数等繰詰、本日午ノ下刻、若狭手ヨリ為斥候追々指出候者、賊塁近ク進寄候処、左ノ手ニ当リ、賊兵両三人相顕レ、小旗振立候ヤ否、二三十人突出候ニ付、斥候之者共速ニ相応シ、及炮発候内、分隊致シ、左一手ヲ以陣ケ平ニ当リ、右一手ハ千曲川畔ヨリ繰詰中軍若狭手ハ本道ヨリ攻寄、一同進撃烈戦中若狭手ヨリ打出候大砲二発、賊陣中央へ着発候処、忽チ奔潰之色相立候ニ付、迅速ニ追詰雪峠先登致シ乗取申候、其節若狭隊ニテ討死手負之者、別紙之通ニ御座候、賊兵ニモ死傷数多有之候様相見候得共、引纏逃去、且首等打候テ、骸計捨置候分モ御座候、夫ヨリ追撃申之中刻頃、池ケ原村迄進軍仕候処、監軍岩村精一郎方ヨリ達有之、収軍仕、同所字池ケ原新田へ宿陣、翌廿七日、小千谷陣屋へ繰結候得共、賊兵敗北致退去候ニ付、同所ニ陣取罷在候旨、注進申越候、尤諸藩奮戦尽力之次第ハ、夫々ヨリ御届可申上候ニ付概略仕候、尚事実巨細之儀ハ、追々可奉申上候、此段不取敢御届申上候、以上
五月五日      榊原式部大輔

榊原若狭手
一、討死    榊原若狭家来 成瀬三千弥
一、手負    小銃方    新田岩次郎
一、同     大砲方    荒木岡治
右之通御座候、以上
弊領為固、家老竹田十左衛門一手之人数、兼テ鉢崎駅出兵為致置候処、今般賊徒為御追討御進軍ニ付、致先鋒、去月廿七日、薩長加三藩人数、一同追々繰出シ、進軍候処、賊兵柏崎領鯨波駅へ出張相支候ニ付、一同進撃之処右駅ヲ放火、忽敗走致シ、駅外往還筋左右之山林へ拠リ、要地へ砲台ヲ設ケ、相拒候ニ付直ニ追詰、諸手一同進撃、大小砲打立候処、賊巣ヨリモ大小砲頻ニ打出候間、数刻奮戦ニ及候得共、折節風雨烈敷、日暮ニ相成候ニ付薩長軍事方ヨリ沙汰有之、薩長加三藩人数、各一小隊宛同駅ニ相残リ、弊藩人数ハ青海川村へ揚取申候、右戦争之節、十左衛門手ニテ賊兵一人討取、首級捕来申候、同手討死手負之者別紙之通ニ御座候、翌廿八日、前三藩之人数各一小隊並竹田十左衛門儀モ一小隊相率ヒ、大斥候トシテ柏崎駅迄罷越、容子見定メ一先揚取、翌廿九日十字過、諸手夫々分配、同所へ繰込候処、駅ノ北阿久田村辺、残党相見へ候ニ付、薩長人数之内ニテ及追撃候処、賊等同所ヲ放火シ、何方共不知致潰散候、依之柏崎駅ニ宿陣、諸手一同口々厳ニ守衛罷在候旨、注進申越候
右戦争之節、領分境谷根口ヘ、兼テ出兵為致置候家老村上主殿隊者、一手之内物頭二組、銃手一小隊、薩長両藩之人数一同、鯨波駅南城山へ繰登セ、賊兵横合ヨリ打立、加州人数モ相加リ、大小砲ヲ以激戦致シ候、尤主殿儀ハ、残リ人数相率ヒ、為応援、鯨波駅端迄繰下シ申候、其後柏崎表進軍相成候ニ付テハ、谷根口衝路厳ニ相守候様沙汰ニ付、本道筋揚取、谷根口守衛罷在候旨申越候
右柏崎口戦争之大略、書面之通ニ御座候、尤薩長加三藩奮戦尽力之次第、並戦地委細之儀ハ、参謀衆ヨリ可申上ト奉存候、尚追々可申上候得共、此段不取敢御届申上候、以上
五月五日      榊原式部大輔

軍務御中
竹田十左衛門手
一、討死 物頭 今井新左衛門
一、同  竹川十左衛門家来    今井与助
一、同  物頭今井新左衛門組足軽 京田啓次郎
一、手負 目附役         水野滝之助
一、同  大砲方         田中金之助
一、同  同           山本玄蔵
一、同  物頭今井新左衛門組足軽 小出豊吉
一、同  同           秋山新吉
一、同  同           幸山七十吉
一、同  西洋銃隊足軽      伊藤幸三郎
一、同  物頭伊藤弓五郎槍持   孫太郎
右之通御座候、以上

尾張藩届書写
過日御届申上候越後表先鋒総括千賀与八郎、同国太平村ニ宿陣仕候節、監軍岩村精一郎差図ニ任セ、薩長之兵隊組合差向候高橋民部一隊、去月廿七日暁、薩長松代飯山之諸藩ト一同攻撃、右之内長藩松代藩ハ、浦佐ノ渡ヲ越、薩藩、飯山藩、並弊藩ハ、魚沼郡堀ノ内ヨリ、魚沼川堤ニ出張、弊藩先陣ニテ、六ッ半時頃ヨリ四日町小出島へ進軍、殊死奮戦之処、五ッ半時頃ニ至リ、同所人家焼亡、賊兵不残敗衄ニ及ヒ申候旨、千賀与八郎へ高橋民部ヨリ申達候段、同人出張先ヨリ申越候間、此段申上候様、大納言申付越候ニ付、不取敢御届申上候
五月十八日
尾張大納言内
尾崎将曹

薄手  高橋民部隊銃手 渡辺新三郎
深手   夫之者  一人
右ハ別紙ニ御届申上候、去月廿七日小出島戦争之節手負仕候、依之申上候
五月十八日
尾張大納言内
尾崎将曹

加賀藩届書写
北越為鎮圧、越後青海川村辺迄、人数差出置候処、賊徒鯨波駅等切所ニ拠、帰順不仕候ニ付、閏四月廿七日早暁、三好軍太郎ヨリ、兵隊鯨波へ進撃候様申談、薩州、長州 高田、曁弊藩諸勢、追々相進、弊藩壱番手隊長高畠猪太夫、鯨波駅ヨリ相進、同処ヨリ山ノ上ニ屯集之賊兵ヲ、速ニ小銃ニテ烈敷討立、賊左右へ散乱、死亡多有之、隊中ニモ武井弥三右衛門、水上徳次郎戦死、竹村伝次郎重創ヲ蒙リ、銃丸猪太夫ノ右ノ肩ヲ貫キ、応援不継、不得止浜手小高キ所へ引集討合中、永沢理右衛門賊一人打斃シ、総軍繰引ノ時猪太夫殿ス賊徒尾撃シテ止マズ、水登清次郎、村尾六之丞、蹈止テ賊徒ヲ打斃シ、猪太夫ニ追及フ、二番手隊杉本美和介、谷根口ヨリ山道ヲ経、鯨波ニ向フ途中、砲声ヲ聞、急ニ鯨波へ趣ク時ニ一村已ニ猛火トナリ、道路弁ゼズ、幸ニ弊藩使番成田外鐖助、火ヲ隔テ我兵ヲ招ク、一隊是ヲ見テ声ヲ発シ、煙焔中ヲ経過シ、駅外ニ出、猪太夫賊兵ヲ追撃シ、山麓ニ逼リ応援不継力戦スルヲ見、美和介隊進撃、賊終ニ退ク、更ニ駅ノ右旁ニ出、山半山麓ノ賊兵ヲ攻撃ス、賊山ノ左ニ潜伏スルモノ、銃発ヲスル事雨ノ如シ、美和介隊、駅左高キ所ヘ登リ之ニ応ス、石黒鑑太夫ナルモノ、黄巾ヲ以テ腕ヲ縛スル賊一人ヲ討斃シ、進テ其首ヲ斬ラントス、銃丸左肩ヲ貫クヲ以テ退ク、爰ニ於テ第一第二両隊相合シ、積薪ニ陰翳シ、賊徒ヲ討撃スト雖、賊銃ヲ発スルコト殊ニ甚シク、兵衆創ヲ蒙ルモノ頗多シ、此時薩州兵代テ敵ニ当ル、囚テ弊藩兵駅傍ニ到リ糧ヲ喫、憩息スル事少時、又進テ銃ヲ発スルコト一百余、賊ヲ斃スコト若干、大砲隊水上喜八郎、一番砲ヲ左方小径ヨリ繰出、駅外右ノ方ノ賊兵ニ当リ発砲ス、賊乃街道左之山へ相集、又砲ヲ廻転シ直ニ之ヲ射撃ス、賊又大砲一門ヲ運転シ、海岸ノ陵邱ニ出、小銃ヲ合テ頻リニ射出ス、銃丸喜八郎分隊司令役橋本一之進ノ左腕ヲ貫ク、更ニ前面凸処ニ進ミ、賊ノ大砲ヲ狙ヒ、射出スコト数十、此時賊砲ヲ撃砕シ賊命ヲ殞ス者許多、然而弾薬運送不継、賊兵益逼リ、不得止村辺迄引揚ル、偶弾薬運送スル者至ル、因テ霰弾ヲ以烈敷射撃ス、賊終ニ逃去、此ニ於テ第一砲街道へ繰出、第二、第三砲ト相合シ、駅外ニ於テ発砲ス、薩州兵喜八郎隊ノ苦戦ヲ察シ、慇懃ニ慰労シ、代而敵ニ当リ、喜八郎隊ヲシテ暫休息セシム、喜八郎隊コレヲ辞スト雖、薩州兵速ニ大砲五門ヲ進メ、来代ル、因テ第一砲ハ右方ニ転シ、山手ノ賊ニ向テ発砲ス、賊退走、二番砲鯨波入口右方高キ所ニ引上ケ、相対スル山嶺ニ在ル賊ニ向ヒ、発砲数度、賊潰散スト雖、猶山嶺相接スル海岸ノ小山ニ屯集ス、因而砲ヲ駅外ヨリ海辺へ転シ、賊ヲ射撃スルコト二十七八度、又砲ヲ駅外へ廻転シ、発砲数回、更ニ海辺ヨリ進ミ、軽山臼砲ヲ以テ賊ヲ攻撃ス、三番砲ハ初応援トシテ青海川五軒茶屋口ニ在リ其後参謀指揮ヲ以鯨波へ繰込、第一、第二砲街道ニ備へ、賊ヲ攻撃スルニ遇合シテ一トナリ、戮力発砲ス、薩州兵砲ヲ出シ、代テ敵ニ当ルニ及テ、第三砲ハ海浜へ繰出シ、賊ヲ攻撃ス、其内官軍力ヲ殫シ進撃スルヲ以、賊支ルコト不能、遂ニ潰走ス、夕七ツ時頃、参謀ノ指図ヲ以テ、弊藩総勢高田勢ニ継キ引揚候由申越候、因テ死傷人姓名別紙相添、此段不取敢御届申上候、以上
戊辰五月
加賀宰相中将内
加須屋十左衛門
北陸道鎮撫
御総督府

一番手隊長高畠猪太夫隊
討死 水上徳次郎 武井弥三右衛門
供田小三郎 滝 猪之助
二番手隊長杉本美和介隊
夫卒 長蔵
深手
銃隊物頭 高畠猪太夫 高畠猪太夫隊 竹村伝次郎
松本市之丞        千秋覚左衛門
清水権太郎        安宅丈三郎
杉本美和介隊 高橋新三郎 大町弥八郎
鍋沢和吉  大西清作
石黒鑑太夫
大砲隊長水野喜八郎隊司令役
橋本一之進
浅手
高畠猪太夫隊半隊司令役 西村与三郎
同隊組頭        辻 金左衛門
同隊組頭代 山崎啓之助 同隊 中山市之丞
高桑十左衛門      浦田直次郎
村尾六之丞       西村要助
松山喜十郎
杉本美和介隊 越山善次郎 水上喜八郎隊 高橋熊次郎
右弊藩討死手負如斯御座候、此段御届申上候、以上
戊辰五月
加賀宰相中将内
加須屋十左衛門

松代藩届書写
本月十五日御届申上候通、閏四月廿六日、越後国魚沼郡雪峠ニテ 官軍大勝利、諸隊進而小千谷之陣屋ヲ取、是ヲ根拠ト致シ、益進撃ノ機ヲ窺居候ノ折柄、本月二日、会賊並関東脱走ノ賊徒等三百人余、小千谷ヨリ二里余東北之方、片貝駅迄繰込、猶多勢押来可申、兵勢尤盛ノ由相聞候ニ付、即高田、尾州、上田、飯山、諸藩並弊藩二小隊、大銃三門繰出シ、右地方へ進軍、翌三日朝辰刻過ヨリ、互ニ砲戦相始候処、賊徒等数度之敗走ニ憤激致シ候哉、頗烈敷戦争ニ相成、諸隊大ニ苦戦、終ニ高田、尾州両藩等危殆ニ及ヒ候ニ付、弊藩之兵隊孤立憤戦、踏ミコタヘ罷在候処、薩長両藩新手之二小隊進来リ、暫時砲戦、直ニ接戦ニ相成、賊軍辟易、忽チ敗走ニ及ヒ、弊藩人数モ一同追撃、賊徒遂ニ大敗、官軍大勝利ト相成候者、実ニ薩長両藩之尽力ニ依リ候儀、右戦争辰刻過ヨリ申刻過ニ至リ、諸隊何レモ労レ、其夜ハ片貝ヲ取切、相固居候義ニ御座候、右之節打取分取等モ多分有之、味方死傷モ御座候得共、未タ明細相分兼候由、右之趣出先之者ヨリ及注進候間、其段御届申上候、以上
五月十九日
真田信濃守内
北沢幟之助
軍務御役所

富山藩届書写
北陸道為鎮圧、弊藩ヨリ指出候兵隊之内、堀丈之助 宮崎久兵衛二小隊、越後上輪村へ出張致シ置候処、先月廿六日夜、三好軍太郎等ヨリ、賊徒不容易挙動有之由ニ付、翌早暁青海川江繰出候様申来、則明暁七ツ半時出発致シ、青海川ヨリ鯨波へ迅急兵ヲ前メ候処、途上既ニ炮撃繁ク相響候ニ付、同駅浜海之邱陵へ疾ク攀躋セ、不取敢及砲戦候処、賊衆等予メ官軍重兵ヲ以テ東向有之儀ニ、伝聞罷在、地勢要害之処ヲ撰、多人数屯集潜伏罷在、林莽ノ間ヨリ砲撃致シ、官軍ニ抗衡仕候故、味方地利ヲ得ス、誠ニ難厄之場所ニハ御座候得共或ハ山ニ依リ、或ハ海ニ向ヒ、薩州、長州、加州、高田曁弊藩凡五藩之兵、奮発力ヲ戮セ銃砲烈ク打立、諸道ヨリ進撃仕候処、賊勢大ニ挫衄シ、遂ニ潰乱敗走致シ候由、則其節手負候人名左ニ申上候
深手  上林善六
同   黒田文之丞
浅手  牧砲次郎
同   坂井弥左衛門
右等之趣、御届申上候、以上
五月
前田稠松内
渡辺守馬
北陸道鎮撫副総督府

太政官日誌・慶応4年24号

太政官日誌第廿四
慶応四年戊辰夏五月

【幕臣本領安堵ノ事】
五月十五日、旧幕府高家、旗下、在京之面々被召出、本領安堵被仰付、御書付左之通
高幾許 何某
従前徳川氏附属ヲ以令領知被思之処、慶喜反逆ニ不従、大義ヲ存シ、速ニ上京志願之趣達叡聞、神妙之至、忠情不浅召、依之本領安堵、是迄之通被仰付、今後分限相応王事ニ勤労可致旨被仰出候事
慶応四年戊辰五月 太政官印
別紙左之通御達
一、本領安堵被仰付候ニ付、御請誓紙別紙案文之通相認、明日参朝差出可申事
一、近日日限被仰出、一同御誓約被仰付候事
一、当春以来追々上京、勤王之志情ハ一同ニ有之候ヘトモ、其中実効之浅深等先般銘々書上ニ及ヒ候趣、逐一被為聞食候間、追而其品可被仰付候事
一、格席称呼、改而可被仰付候ヘトモ、未タ御取調中ニ付、少時是迄ノ称呼ニテ家席如故相心得可申、尤寄合以外、領地之高下ニ不拘、一列ト相定可申、是又追而称呼可被仰付候事
一、元旗下之面々、従前徳川氏ニ付属シ、秩禄ヲ受候ヘハ君臣之分不可免、慶喜朝敵ト相成候ニ於テハ、仮令大逆ニ不与ト雖トモ、其御処分可被仰付候処、一同追々上京、順逆ヲ明ニシ候志情、神妙ニ被思食、改而御奉公被仰付候ニ付テハ、元禄三分之一、或ハ半減等被為宛行儀ニ候ヘトモ、方今旗下之内、残党ニ与シ、大逆無道不可謂之醜類モ有之候処、其方共全ク方向ヲ不失、御一新之聖慮ヲ奉体認、追々身分相応之御用等奉願候趣ニ付テハ、減禄之御処置難被為忍、格別之叡旨ヲ以、所領是迄之通被仰付候段、莫大之皇恩奉感戴、海内御一定之聖業ヲ奉助、粉骨砕身、何分之御用向可相勤旨御沙汰候事
五月十五日

松山藩へ御達書写
板倉伊賀家来へ
伊賀儀、於旧幕府老中勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後、叛逆顕然始終奉欺朝廷、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候処、伊賀儀近年京都常詰要路之職ニ罷在、前件之形行全ク致関係、剰サヘ慶喜東帰一同随従シ、其罪科難遁ニ付、被止官位、本城追討被仰出候処、於家中ハ速ニ開城伏罪、恐粛謹慎罷在、只管奉仰朝裁、伊賀父子ハ東山道先鋒総督軍門へ致降伏候ニ付、戸田越前守へ被預置候折柄、賊徒相迫、不得止時勢ヨリ、不慮之次第ニモ立到候哉ニ相聞へ、臣子之志情、池田備前守ヨリ言上之趣被聞召届候、其後報告ニ而者、前件混雑中、伊賀父子共行方不相知由、両条共全ク確証無之事ニ付巨細御取糾之上、万一不慮之儀相違無之候共其方共最前ヨリ伏罪、謹慎相尽候ニ就テハ、格別御寛大之品モ可有之候条、一統致安堵、追而之御沙汰可奉待様被仰出候事
五月
右ニ付備前藩へ御達写
池田備前守
板倉伊賀家来銃隊頭水野湛、磯村雄之助、其外共之儀、当正月三日後不容易時態ニ立到、従大阪表帰国之砌、右両人其藩へ被預置候処既ニ百余日恐粛謹慎罷在、最前同一楯之重役熊田恰、屠腹謝罪、一統之助命ヲ乞候旨趣モ有之旁出格御寛典ヲ以テ被免御預、松山表ニ而謹慎可罷在候、其他総家来モ同様相心得候様被仰付候条、其藩ヨリ可申達候事
五月

【諸事節約ト関門廃止ノ事】
同月十七日御布告二通
国家多事之折柄、軍資ヲ始メ、総テ莫大之御費用ニ付、土木之功ハ勿論朝廷御用費ヲ始メ、諸事御省略被仰出候事
但大宮御所之儀ハ、急速御造営被為在候事
諸国街道筋ニ於テ、私ニ関門或ハ番所等取建置候儀、被停候事
五月

唐津藩へ御達書之写
小笠原佐渡守
同姓壱岐儀、於旧幕府老中勤役中、段々御聞込之儀有之、兼而御沙汰之次第モ有之候処、其方之儀ハ帰順之道相立、速ニ上京、謹慎既ニ数十日ニ及ヒ、殊更、壱岐致脱走候ニ就テハ、謝罪実効為可相立、関東表へ出兵被仰付、其他軍艦入用石炭御用等、速ニ御請モ仕、於其方者全ク勤王之素志無二念事ニハ可有之候得共、壱岐勤役中不束之次第、前以取計振モ可有之処、無其儀之落度難免、依之相当之御譴責、可被仰付筋ニ候得共、前件被聞召分、出格御寛典ヲ以テ被免候条、弥以国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

【小笠原壱岐身上ノ事】
同人へ別紙御達書写
其方儀、既往御赦宥被仰出候得共、壱岐身上之儀ハ、向後尚加探索、召捕候得者、速ニ可申出候事
五月

峰山藩へ御達書写
京極主膳正
其方儀、於旧幕府若年寄勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後、大変動ニ及ヒ候形行叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、就テハ其方枢要之職務ヲ以テ、屹度取計振モ可有之処、兼而在江戸、彼是ノ情実不相通、尽力難届次第モ有之由ニ候得共、如斯不容易時態ニ立至リ候テハ、全ク勤役中ノ落度難免、相当之御譴責モ可被仰付之処、其方上京之儀ハ、依病気遅滞ニ及ヒ候得共、不取敢為名代養子右近儀速ニ上京、帰順謝罪之実効モ相立候事ニ付、出格御寛典ヲ以、被免謹慎候条、弥以国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

下手土藩へ御達書
立花出雲守
其方儀、於旧幕府若年寄勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後、大変動ニ及ヒ候形行叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、就テハ其方枢要之職務ヲ以、屹度取計振モ可有之処、兼而在江戸、彼此之情実不相通、尽力難届次第モ有之由ニ候へ共、如此不容易時態ニ立到リ候テハ、全ク勤役中之落度難免、相当之御譴責ヲモ可被仰付之処、出格之御寛典ヲ以被免謹慎候条、弥以国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

【下手土藩へ出兵御沙汰】
同人へ別紙御達書写
立花出雲守
其方既往御赦宥被仰出候ニ付テハ、即今奥羽辺不容易形勢ニ付天機伺御誓約等相済候ハヽ、早々在所表へ引取、奥羽鎮撫使之指図ヲ請、藩力相応出兵、格別勉励、弥以勤王之実効可相立旨御沙汰知事
五月

【壱岐国内紛擾ノ事】
土肥謙蔵へ御達書写
土肥五位
隠岐国監察使ニテ下向之儀被仰付置候処、即今其国内兵端相開、紛擾之趣相聞、全不容易儀ニ候間、只今発足、昼夜兼行、何方ヨリニテモ飛船ヲ差立、着島之上、速ニ取糾可申旨、更ニ被仰付候事
五月

【駿府鎮撫使ノ事】
同月十七日、四条少将、駿府表鎮撫使被仰出候事
桑名藩へ御達書写
松平万之助
並家来中へ
越中儀、於旧幕府京都所司代勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後、反逆顕然、終始奉欺朝廷、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多クモ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候処、越中儀枢要之職務ニ罷在、始終之行形全ク致開係、且前々御暇被遣下坂中慶喜上洛先供ニ托シ、押テ先鋒出兵欠下ヲ奉犯、剰サヘ一敗後、慶喜東帰ニ随従シ 逆謀主張シ、罪科難遁ニ付、被止官位、本城追討被仰付候処、万之助始在邑家来共ニ於テハ、速ニ開城伏罪、只管恐俱謹慎罷在、奉仰朝裁候へ共、越中始随従之者共、今以行方不相知、伏罪実効不相顕内者、何分難被及御沙汰之処、今般徳川家相続等被仰出、格別御寛大之御仁恵ニ基キ、仮令越中等、更ニ悔悟謝罪不致トモ、前顕万之助始家来共心得方宜敷次第ニ付、相当御沙汰之品モ可有之ニ付、一統致安堵、追而之御沙汰可奉待旨被仰出候事
五月

右ニ付尾張、津両藩へ御達書写
藤堂和泉守
徳川元千代
別紙之通、松平万之助始、家来共へ被仰出候間、此段可相達旨御沙汰儀事
五月

【酒井雅楽蟄居ノ事】
姫路藩へ御達書写
酒井雅楽
其方儀、滞坂中、徳川慶喜去冬大政返上以来当正月三日後、不容易時態ニ立到リ、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多クモ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、其方慶喜東帰ニ随従シ、前件反逆ニ党与之罪科難遁ニ付、官位被止、本城追討被仰付候処、家来中ニ於テハ速ニ開城伏罪、於江戸モ隠居閑亭、養子直之助共、一統只管恐粛謹慎罷在、段々謝罪歎願之旨趣被聞食届候、此条屹度御沙汰之品モ可有之処、出格寛大之御仁恵ヲ以テ、蟄居被仰付候事

【酒井家相続ノ事】
酒井直之助
同姓雅楽へ別紙御沙汰之趣ヲ以テ、屹度被仰付之品モ可有之処、出格寛大之御仁恵ヲ以テ、其方へ家督相続被仰付、本領如旧被下候条、向後不心得無之様、国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

【軍費十五万両貢献被仰付】
右同人へ別紙御達書写
酒井直之助
其方儀、既往御赦宥家督相続被仰出候、付テハ即今東北多事之折柄、出兵等被仰付更ニ勤王実効可相立之処、追々人数被差向候ニ付、御軍費金拾五万両貢献被仰付候条不残早々可致上納旨御沙汰候事
五月

【至急派兵ノ事】
福井藩へ御達書写
松平越前守
為会津征討、越後口ヘ出張被仰付候、尤至急之軍務ニ付、従国許直ニ発途、速ニ可奏成功様御沙汰候事
五月

阿波藩へ御達書写
蜂須賀阿波守
兼而東行被仰付置候処、彼表既ニ開兵端候段報告有之、別而至急之場合ニ付、差向滞坂之兵隊致出張候様、被仰出候事
但軍艦之儀、軍務官之差図ヲ可受候
五月

長岡左京亮へ御達書
右同文 同日

宮津藩へ御達書写
本庄弾正忠
同 伯耆守
其方家来八幡表守衛中、当正月三日後不容易時態ニ立至リ候砌、奉対朝廷、如何之儀有之、一旦被止入京、山陰道鎮撫使西園寺中納言出陣之上、取糾被仰付候処、其方父子、昨年来在江戸中ニテ全ク家来共之不束ヨリ差起候事ニテ、於父子ハ素ヨリ勤王無二之心底罷在候就テハ、謝罪之道相立、帰順願出候段中納言ヨリ言上之趣被聞食届候、勿論出先家来共不束トハ乍申、畢竟大義順逆ヲ不弁次第、全ク其方兼々示方不行届ニ相当候ニ付屹度御咎モ可被仰付之処、恐粛謹慎罷在、既ニ数十日ニ及候事ニ付、出格寛大之御仁恵ヲ以テ被見候条、弥以臣民ヲ教諭シ、国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
但右出張之輩、取持之鉄砲、尽ク御取揚相成候条、早々軍務官へ可差出候事
五月

【禁闕北門御警備ノ事】
同人へ別紙御達書写
本庄弾正忠
其方既往御赦宥被仰出候付テハ、即今東北諸路多事之砌、出兵又者御軍費金貢献等可被仰付之処、其方在所表之儀ハ禁闕之北門鎖鑰之地ニ付、兼テ海陸軍備ヲ厳ニシ、不慮之手当無怠様可致旨御沙汰候事
五月

【東国出兵ノ事】
薩摩藩へ御達書写
島津修理大夫
累年重大義、抽忠節、効力王室、殊ニ去冬以来黽勉従事、竟ニ回天之功業ヲ顕シ、且所々出兵行軍之費、不容易事ト被為煩 叡慮候得共、頃者東国之凶賊未タ 王化ニ不服、暴虐ニ募リ、生霊塗地候段、難被為安宸衷候ニ付、今般無余儀東行被仰付候、素ヨリ深ク御依頼被遊候儀故、速ニ東下、諸事大総督宮示合、励精可奏鎮定之偉功旨御沙汰候事
五月
但シ今日ヨリ関東御用相済候迄、議定職同様心得ヲ以テ、政事鞅掌可致候事

佐土原藩へ御達書写
島津淡路守
徳川慶喜謝罪之道モ相立、既ニ御処置可被仰出之処、旗下之士、未タ鎮定ニ不到、此侭被差置候而者朝威不被為立筋ニ付、其方儀早々東下、大総督宮指揮ヲ受、鎮撫之勉励可致旨御沙汰候事
五月

長岡左京亮へ御達書写
長岡左京亮
今度出府、当官御用向ハ勿論、今日ヨリ関東御用相済候迄、議定職同様之心得ヲ以テ、於政事向モ鞅掌可有之候事
五月

【駿府鎮撫使出発】
同月十九日、駿府鎮撫使四条少将、徴兵七番隊及ヒ津、彦根、郡山、島原、今治、人吉等諸藩之兵凡千余人ヲ率テ京師ヲ発ス

【楠氏ノ祭典式】
同月廿四日御布告
来ル廿五日、楠中将ノ忌辰ニ付、河東繰練場ニ於テ、仮ニ神座ヲ設ケ、祭典式被為執行候、依テ辰刻ヨリ申半刻迄、諸官参拝可為勝手、諸人拝礼ヲモ被差許、且有志之輩、詩歌献供及ヒ諸兵隊之繰練備神覧候儀、御免ニ候
五月

【徳川家相続ノ事】
後四月廿九日、田安亀之助被召出、於大総督左之通被仰出候
慶喜伏罪之上ハ、徳川家名相続之儀、祖宗以来之功労ヲ被思召、格別之 叡慮ヲ以テ田安亀之助へ被仰出候事
但城地禄高等之儀ハ、追而被仰出候事
五月

太政官日誌・慶応4年23号

太政官日誌第廿三
慶応四年戊辰夏五月

【奥羽諸藩連名ノ歎願書】
越後表ヨリ報知賊徒書類
会津表ヨリ、当今之形勢別紙之趣申遣候間兼而御申合モ致居候御間柄故、態ト御廻達申述候、以上
閏四月廿一日
会津
水原出張
軍事方
三根山御藩
長谷川久太郎様
椎谷御藩
海津左兵衛様
柏崎御陣屋
久徳小兵衛様
高田御藩
杉本太兵衛様
糸魚川御藩
御重役中様
当月十一日、仙台、米沢之両侯、白石城へ御会議、同十二日両侯岩沼へ御越、弊藩歎願書へ御両名ニテ御添書之上九条殿へ被差出、委詳御演説有之由之処、書面御落手、大ニ御喜悦御憤発被成、正邪分明相成候迄ハ、西方ヘハ一歩モ不向、仙藩ニ逗留致度旨被仰候由、尤両侯御同座ニテ、奥羽各藩之重役共被召出皇国之頽勢挽回之大策、被為立候御結約相成、決而此信義不失様ニトノ御事ニテ、委細之儀猶又両藩重役ヨリ、各藩重役共ヘ及談判候由之処何レモ同意ニテ、即別紙名前書之通、歎願書連名致候由、右連名之外ニモ、追々相加リ、此節ニ相成候テハ、同盟十七藩ニ相成、弊藩東北之兵、追々解兵ニ相成、右兵卒ヲ以テ姦賊討伐之師被差出候手筈之由、会津表ヨリ申遣候間、不取敢為御知申達候、以上
連名諸藩
伊達陸奥守家来
坂英力
但木土佐
上杉弾正大弼家来
千坂太郎右衛門
竹俣美作
南部美濃守家来
野々村真澄
丹羽左京大夫家来
丹羽一学
松平大学頭家来
三浦金八郎
阿部美作守家来
平田弾右衛門
相馬因幡守家来
相馬靭負
佐藤勘兵衛
秋田万之助家来
大浦帯刀
水野真次郎家来
水野三郎左衛門
板倉甲斐守家来
池田権左衛門
藤井伊豆守家来
渡辺五郎左衛門
岩城左京大夫家来
大平伊織
田村右京大夫家来
佐藤七太夫
生駒大内蔵家来
椎川嘉藤太
右連名ニテ差出候書面左之通
此度会津征討被仰付、各藩出兵、既ニ仙台先手勢及接戦候、容保家来共降伏謝罪之儀申出、仙台国境陣門ニ於テ糾明相遂候処伏見暴動之儀ハ、全ク異心等有之筋ニハ無御座候へ共、事皆卒然ニ相発リ、奉驚天聴候段深ク恐入、其筋之先手隊長等ハ別而謹慎申付置、奉待御沙汰、何様共処置仕候由ニ御座候処、畢竟容保兼而指揮不行届之所致ニ有之候段、至極恐縮仕、当時城外ニ於テ恭順謹慎相尽、先非悔悟罷在、家来共歎顧ヲ以降伏謝罪仕候上ハ、幾重ニモ寛大之御処置被成下、至仁之聖恩奉感戴候様奉仰望候、尤当時王政一新之御場合ニモ被為在候ヘハ、何分不被為動干戈人心之向背ヲモ深ク可被為有御汲量御時節ト奉存候、勿諭春夏之間ハ、農事之甚急務スル所ニ有之、自然民命之大ニ所関係ニ御座候間、是等之儀共、篤ト御諒察被成下、今日之事ハ、只々会津孤国耳之御所置ト不被為思召、寛大之御沙汰被成下候者、実以奥羽御鎮撫之道、赫然被為立候様偏ニ存込、列藩衆議相尽奉懇願候、尚又連名外之輩ハ、駆付次第可奉申上候、恐々謹言
慶応四年閏四月

会津歎願書
弊藩之儀ハ、山谷ノ間ニ僻居罷在、風気陋劣人心頑愚ニシテ、古習ニ泥ミ、世変ニ暗ク、制御難渋之土俗ニ御座候処、老寡君京都守護之職被申付候以来、乍不及天朝尊崇奉安宸襟度一途之存意ヨリ他事無之
粉骨砕身罷在、万端不行届之儀ニハ候ヘ共、御垂憐ヲ蒙リ、多年間何トヵ奉職仕居、臣子之冥加無此上、難有奉存鴻恩万分之一ニ奉報度、闔国奮励罷在、奉封朝廷御後閻体之心事、神人ニ誓ヒ毛頭無御座、伏見一挙之儀ハ、事卒然ニ発リ、不得已次第柄ニテ、是亦異心等有之儀ニハ毛頭無之候得共、一旦奉驚天聴候段奉恐入候次第ニ付、帰邑之上退隠、恭順罷在候処、此度鎮撫使御東下、尊藩ヘ征討之命相下候由ニ承知仕愕然之至、斯迄奉悩宸襟候儀、何共可申上様無御座、此上城中ニ安居仕候而ハ、奉恐入候ニ付.城外屏居罷在、奉待御沙汰候間、一視同仁之御宥恕ヲ以、寛大之御沙汰被成下度、家臣挙而奉歎願候、右之段々幾重ニモ厚御汲量被下、宜御執成之程、深ク奉懇願候、以上
閏四月

仙米両藩添歎願書
討会先鋒被仰付、両国共出兵罷在、既ニ仙台先手勢及接戦候処、今般降伏謝罪之儀容保家来共申出候ニ付、仙台国境於陣門、問罪督責為致候処、伏見暴動之一拳ハ畢寛指揮不行届ヨリ、全ク卒然ニ発、奉驚天聴候段、至極恐縮之余リ、容保儀者帰邑退隠之上、当時於城外恭順謹慎相尽シ、頗ル先非後悔罷在、寛大之御処置被成下候様、別紙欺願書之趣、家来共申出候間、益天朝之御仁徳奉感戴候様御処置奉仰望候、会津国情等之儀ハ、委細演説ヲ以テ申上候通ニ御座候間、深ク御汲量、寛典之御沙汰被成下候様、一同奉懇願候、以上
閏四月十一日
仙台中将
米沢中将

【奥羽歎願ニ付御達】
○右報知ニ付仙米両藩並奥羽北越諸藩ヘ御達写
伊達陸奥守
其藩事松平肥後追討ニ付、重キ御沙汰之旨有之、速ニ朝命奉戴、既ニ出馬ニモ及ヒ候趣之処、豈図ランヤ肥後降伏謝罪之名ヲ口実トシ、以テ奥羽諸侯ヲ連合、窃ニ彼之凶暴ヲ資ケ候哉ニモ相聞候段、前後如何、御不審不少勿論其状確実ニ候ハゝ、其罪難容、屹度御処置之品可被仰付候処、斯迄順逆ヲ不弁次第万一国論一定セサルヨリ所致歟ト被思食、追而事跡明細御検覈相成候迄、先家来中入京被差停、屋敷被召揚候旨御沙汰候事
五月
上杉弾正大弼
右同文但シ出馬ヲ出兵ニ作ル
奥羽北越諸藩
先般松平肥後追討被仰出候処、伊達陸奥守上杉弾正大弼盟主ニテ、近隣諸藩ヲ連結、肥後之罪戻ヲ弥縫シ、歎願書相添候次第、奉対朝廷如何之事ニ候、抑肥後真之伏罪無他候得ハ、開城蟄居、謹而可奉仰、朝裁之処、更ニ無其儀、厳ニ封境ヲ鎖シ、剰サヘ東北諸路王土ヲ掠奪シ、諸侯之居城ヘ人数ヲ分配シ、暴威ヲ張リ、官軍ニ抗候段、叛跡顕然ニ候、然ルニ両藩ヲ始メ猶其逆ニ与シ候藩々モ有之哉ニ相聞ヘ、実ニ不謂事ニ候、徳川慶喜始追々御処分、出格之御仁慈ヲ以、総而被処御寛典候御趣意ヲ不奉戴、上者奉悩宸襟、下者万民塗炭ニ陥ラセ候段、天人倶ニ所悪ニ候、乍併於諸藩、従前昇平之流弊、上下之情実不相通ヨリ奸臣其王ヲ要シ勤王之宿志ヲ妨害スル等、亦不少事ニ付、今ヨリ大義順逆篤ト相弁シ、前罪反咎之情実相表スルニ於テハ、更ニ可被処御寛典候、万一悔悟セズ、益順逆ヲ誤ルニ於テハ、断然天下ト倶ニ征討被仰付候条、速ニ方向ヲ可定旨御沙汰候事
五月

太政官日誌・慶応4年22号

太政官日誌第廿二
慶応四年戊辰夏五月

稲葉美濃守へ御達書写
其方事、旧幕府ニ於テ老中勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後大変動ニ及候形行、叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ 御親征行幸被為遊、深ク被為悩宸襟候、就テハ其方枢要之職務ヲ以テ、屹度取計振モ可有之処、兼而在江戸、且病気ニ付退役之儀申出居、彼是始末尽力難届情実モ有之候得共、仮令病臥ニテモ如斯不容易時体ニ立至候而ハ、全ク勤役中ノ落度難免、相当之御譴責ヲモ可被仰付之処、右戦争無間、将軍宮出陣之節、其方国元居合之家来共、速ニ帰順実効相立、官軍ヘ随従仕、御用相立候趣モ有之、其方平生示方宜敷ヨリ、方向一定之筋ニ立至候、依之出格之御寛典ヲ以テ被免謹慎候条、弥以国論一定、精々可励忠勤様御沙汰候事
閏四月

永井肥前守ヘ御達書写
其方事、旧幕府ニ於テ若年寄勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後大変動ニ及候形行叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ 御親征行幸被為遊、深ク被為悩宸襟候、就テハ其方枢要之職務ヲ以テ、屹度取計振モ可有之処、兼而在江戸、会計奉行兼帯ニテ、本役若年寄月番不相勤、専会計而已携り罷在候段申出居候得共、全ク無役ノ者トモ違ヒ、如斯不容易時体ニ立至候テハ、相当之御譴責ヲモ可被仰出之処、家族一同早速江戸表引払ヒ、帰国之上、東山道鎮撫総督へ帰順之道相尽シ、兵隊ヲモ差出、追々官軍御用ニモ相成、彼是実効相立候事ニ付、出格之御寛典ヲ以テ被免謹慎候条、弥以国論一定、精々可励忠勤様御沙汰候事
閏四月

酒井若狭守、同右京太夫へ御達書写
其方家来、橋本関門守衛中、当正月三日後不容易時態ニ立至候砌、対朝廷如何之儀有之一旦被止入京、北陸道鎮撫使高倉三位、四条大夫出張之上、取糾被 仰付置候処、右京大夫儀者在国ニ付、一切承知不仕、若狭守儀ハ兼而上京可仕旨被仰出候得共、在江戸中、依病気段々遅延相成、押而旧臘十一日彼地発足、直ニ入京可仕之処、慶喜在坂中ニ付、一先当正月三日着坂仕候、然処、同六日橋本関門出張之家来共、奉対官軍恐入候次第ニテ早々引揚、若狭守儀ハ着坂無間、何モ不相弁驚愕之余リ不取敢帰国仕候儀ニテ、橋本表之次第ハ、只管出先家来共ノ不束ヨリ差起候事ニテ、於父子者、素ヨリ奉対朝廷、忠勤之心底ニ罷在候、就而者謝罪之道相立、帰順願出候段、鎮撫使ヨリ言上之趣被聞食届候、勿論出先家来之不束トハ乍申、畢竟大義順逆ヲ不弁、全ク父子兼々示方不行届ニ相当リ、屹度可被仰付之処、帰順之上、其藩之者直様北陸道先鋒被仰付今日迄勉励、且父子謹慎罷在候事、既ニ百余日ニ及候ニ付、出格寛大之御仁恵ヲ以テ、若狭守御預、且父子謹慎共一切被免候条、弥以国論ヲ確定シ、臣民ヲ教導シテ、可励忠勤旨 御沙汰候事
但奉対官軍致戦争候家来共処置之儀、本文御寛大之旨趣ニ準シ、隊長以上重立候者死一等ヲ減シ、永禁錮可申付、其儀ハ不及処刑法候、尤取捌相済候上、姓名役名共刑法官へ可届出候事
付リ、右橋本出張之輩、所持之鉄砲、御取揚被仰付候条、軍務官ヘ可差出候事
五月

稲垣平右衛門へ御達書写
其方家来共徳川慶喜上洛先供之者 食料米ヲ警衛被申附、伏水表止宿中、当正月三日後不容易時態ニ立至候砌、奉対朝廷如何之儀有之、一旦被止入京候処、東海道鎮撫使橋本少将、柳原侍従出陣中、家来共速ニ歎願、且其方上京前、石川宗十郎取次ヲ以テ謝罪之道相立、帰順願出等之旨趣ニテハ、其方在江戸中全ク家来共ノ不束ヨリ差起候事ニテ、於其方ハ素ヨリ勤王之宿志ニ有之段被聞食届候、勿論出先家来共、不束トハ乍申、畢竟大義順逆ヲ不相弁次第、全ク其方兼々家来共ヘノ示方不行届ニ相当リ候ニ付、屹度御咎モ可被仰付之処、恐縮謹慎罷在、既ニ百余日ニ及ヒ候事ニ付、出格寛大之御仁恵ヲ以テ被免候条、弥以国論一定シ、臣民教導、精々可励忠勤旨御沙汰候事
但書以下酒井若狭守ヘ御達書同文
五月

同人へ御達書写
其方儀、先般被免入京候節、御沙汰之通東北諸道多事之折柄、相応御用相勤、謝罪実効相顕候上、寛典之御処置可被仰付之処、更ニ無其儀、今般格別之訳ヲ以テ、既往御赦宥被仰出候、就而者御軍費金壱万五千両、早々可致貢献旨 御沙汰候事
五月

内藤備後守ヘ御達書写
其方家来大坂詰居中、当正月三日後不容易時態ニ立至候砌、奉対朝廷、如何之儀モ有之哉ニ相聞、一旦被止入京候処、段々歎願之旨趣ニテハ、其方在国中ニテ、坂地詰重役之者翌四日朝徳川慶喜ヨリ野田口警衛被申付、倉卒人数差出、前日伏水辺戦争之顛末不相弁ヨリ、不都合之次第ニ立至、奉恐入候得共、毫モ奉対官軍及発砲候儀ハ全ク無之事ニテ、於其方ハ素ヨリ勤王之心底ニ有之候段被聞食届候、最前重役之者、旧幕府閣老監察等ヘ向ケ、諌争致シ候哉ニ候得共、其赤心不行届ノミナラス、終ニ前件軽卒出兵ニ及候次第ヲ以テ、其方儀一旦御不審ヲ蒙リ候ハ当然之事ニ有之、畢竟出先家来共ノ不束ハ、全ク兼而示方不行届ニ相当リ候ニ付、此件御沙汰之品モ可有之処、恐縮謹慎罷在、既ニ百余日ニ及候事ニ付、寛大之 御仁恵ヲ以テ被免候条、弥以臣民ヲ教導シ、国論一定、精々可励忠勤旨御沙汰候事
但家来穂鷹内蔵進原小太郎儀モ、本文御寛典ニ準シ、謹慎差免候而不苦候事
五月

松平右近将監へ御達書写
其方儀、一昨寅秋、石州浜田退城以還、僅ニ作州八千石之領地へ流寓、必至困窮ニ立至候折柄、当正月、其方家来共奉対官軍如何之儀有之、既ニ為謝罪重臣屠腹ニ及ヒ、其方儀ハ全ク存知無之トハ乍申、畢竟大義順逆ヲ不相弁次第、兼々家来共ヘ示方不行届ニ相当リ謝罪実効十分ニ相顕候上ニ無之而ハ、領知之儀容易ニ難被及御沙汰筋ニ候得共、是迄彼是之哀訴御垂憐被為在、出格寛大之御仁恵ヲ以テ、別紙之通、作州之内高二万七千八百六十三石五斗二升八合之地面、先被預置候条、弥以臣民ヲ教導シ、国論一定、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

別紙高附
高三千百七石四斗六升三合
右英田郡十一ヶ村
同六千三百石九斗九升八合
右勝南郡三十一ヶ村
同千五百七十二石七斗三升九合
右勝北郡三ヶ村
同八千百十二石二斗八升五合
右久米南条郡二十九ヶ村
同八千七百七十石四升三合
右久米北条郡二十二ケ村
高惣〆二万七千八百六十三石五斗二升八合
村数惣〆九十六ケ村

【幕府旗下鎮撫ノ事】
蜂須賀阿波守ヘ御達書写
徳川慶喜謝罪之道モ相立、既ニ御処置可被仰出之処、旗下之士未タ鎮定ニ不到、此侭被差置候而者朝威不被為立筋ニ付、其方儀当官ヲ以テ早々東下、総督府へ示合セ、鎮撫之儀勉励可致旨御沙汰候事
五月

長岡左京亮へ御達書写
右同文
立花飛弾守へ御達書写
右同文 当官ヲ以テノ五字ナキノミ

【堀内蔵頭諌死ノ事】
堀恭之進へ御達書写
兄内蔵頭儀、旧幕府ニ於テ、要路相勤居候ニ付、御譴責モ可有之処、先般諌死之趣、全ク大義名分順逆ヲ明ニシ、士道ノ本分貫徹致シ候条叡感不斜、依之今般其方へ家督相続無相違被仰付候、猶内蔵頭遺志ヲ体認シ、勤王勉励可有之候事
五月

亀井隠岐守へ御達書写
累年勤王之志厚ク、就中御政務御一新之折柄、迅速上京、其後官代出仕勉励之段、神妙ニ思召候、今度依願、在国百日賜暇候間、兼而御布令之御旨趣ヲ奉戴シ、国政改正致シ尚又早々上京可致旨御沙汰候事
五月

【出雲大社古典取調ノ事】
同人へ御達書写
雲州大社之儀ハ、格別御尊崇モ可被為在候処、爾来其儀モ不被為在、御遺憾ニ被 思召候、今般其方帰邑ニ付、彼社ハ隣国之事ニ候間、其古典ヲ始メ、夫々取調可申様、被仰出候事
五月

【松平式部蟄居ノ事】
松平式部へ御達書写
其方儀滞坂中、当正月三日後、徳川慶喜叛逆之砌、奉対朝廷如何之儀有之、追討被仰付候処、速ニ開城伏罪、恐縮謹慎、奉待朝譴其向へ証書歎願申出候趣ニテハ、全ク賊徒要路之職ニ居ラス、逆謀ニ与シ候罪科モ無之候得共、去冬慶喜大政返上以還、前件不容易時態ニ立至リ、就而ハ其方滞坂中、仮令当職ニ無之共、屹度可為匡救之処其儀ナク、剰其頃梅田村辺固メ被申付、人数差出置、別段奉対官軍発砲不致候得共、大変勤ニ立至リ被為悩宸襟候御事奉恐察、不取敢迅速上京奉窺天機、御詑ヲモ可申上之処、更ニ無其儀致帰国候形跡、全ク慶喜之妄挙ヲ助ルノ御不審難免、畢竟心得方不宜辺ヨリ、大義順逆ヲ不弁筋ニ相当リ候ニ付、屹度御沙汰之品モ可有之処、出格寛大之 御仁恵ヲ以テ蟄居被仰付候事

松平隠岐守へ御達書写
同姓式部儀御沙汰之通、大義順逆ヲ不弁筋ニ相当候ニ付、屹度御咎モ可被 仰付之処
出格寛大之御仁恵ヲ以テ、蟄居被仰付、其方儀再勤被仰付、本領如旧被下候条、向後心得違無之様、国論一定、可励忠勤旨御沙汰候事

同人へ御達書写
其藩儀、既往御赦宥被仰出候、就而者即今東北諸道多事之砌、出兵可被仰付之処、既ニ諸藩兵隊繰出ニ相成候ニ付、更ニ勤 王実効之為メ、軍費金拾五万円貢献被仰付候事
五月

水野出羽守ヘ御達書写
其方儀、兼而東山道先鋒総督ヨリ、甲府城被預置候ニ付テハ、厳重守衛可致之処、去月廿日頃、元徳川亀之助家来遊撃隊等二百人余、兵器ヲ携へ、相州小田原辺ヨリ、追々甲府へ入込、市中徘徊イタシ候処、一切取締不致而已ナラス、却而其方家来共、志ヲ通シ候様ニ相聞へ、方今関東辺兇徒蜂起、不容易形勢ニ付而者、深ク被為悩宸襟候折柄、前件 朝命ヲ背キ、反賊ニ与シ候形跡、全ク於無相違者甚以不謂事ニ候、此段御取糾被仰付候条重役之者一人早急可致上京旨御沙汰候事
五月

松井周防守へ御達書写
其方儀、於旧幕府老中勤役中、徳川慶喜大政返上以来、当正月三日後、大変動ニ及ヒ候形行叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、就而者其方枢要之職務ヲ以テ、屹度御取計振モ可有之処、兼而在江戸ニテ、会計総裁所勤中、兎角病気引篭リ勝ニ有之、前件情実了解不致、尽力難届次第モ有之由ニ候得共、如斯不容易時態ニ立至リ候テハ、全ク勤役中之落度難免、相当之御譴責モ可被仰付之処、既ニ上京数十日之謹慎ニモ有之、出格御寛典大ヲ以テ被免候条、弥以国論一定、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

大給縫殿頭へ御達書写
其方儀、於旧幕府老中勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後大変動ニ及ヒ候形行叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、就而者其方枢要之職務ヲ以テ屹度取計振モ可有之処、兼而在江戸ニテ、去冬十一月十八日ヨリ傷寒劇症ニ陥リ、殆一身死生ヲモ不弁程之仕合故、解職申出居、用向談合更ニ無之、彼此始末尽力難届次第モ有之由ニ候得共、如斯不容易時態ニ立至リ候テハ、全ク勤役中之落度難免、且近年在勤中、段々御聞込之趣有之、旁被仰付候品モ可有之処、既ニ上京数十日ノ謹慎ニモ有之、出格御寛典ヲ以テ被免候条、弥以国論一定、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

松井周防守、大給縫殿頭へ御達書写<同文各通>
其方儀、既往御赦宥被仰出候ニ付テハ、即今東北諸道多事之砌、頃日 天機窺御誓約等相済候上ハ、早々帰邑、近隣諸藩等申合セ賊徒鎮定、奉安宸襟候様、格別ニ勉励、弥以勤王之実効可相立旨御沙汰候事

大給左衛門尉へ御達書写
其方儀、於旧幕府若年寄勤役中、徳川慶嘉去冬大政返上以来、当正月三日後、大変動ニ及ヒ候形行、叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、就テハ其方枢要之職務ヲ以テ、屹度御取計振モ可有之処、兼而在江戸、肺病不相勝引篭居、前件事実承知致シ、驚動失途、病勢別而相募リ、被是尽力難届次第モ可有之由ニ候得共、如斯不容易時態ニ立至リ候而ハ、全ク勤役中之落度難免、相当之譴責モ可被仰付候処、既ニ上京数十日之謹慎ニモ有之、出格御寛典ヲ以テ被免候条、弥以国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

稲葉江隠へ御達書写
其方儀、於旧幕府老中勤役中、徳川慶喜去冬大政返上以来、当正月三日後、大変動ニ及候形行叛逆顕然、其罪天下万民倶ニ所知、終ニ恐多モ一旦御親征行幸被為遊、被為悩宸襟候、就而者其方枢要之職務ヲ以テ、屹度取計振モ可有之処、兼而在江戸、多病旁尽力難届情実モ有之哉ニ候得共、其段奉恐入、何分奉待 朝裁之外無他事ト、断然在所表へ退去之上、蟄居謹慎罷居候由、然共如斯不容易時態ニ立至リ候テハ、全ク勤役中之落度難免、殊更近年段々御聞込之趣有之、此条御沙汰之品モ可有之処、同姓備後守帰順之道相立、速ニ上京セシメ候ニ付、右へ対シ出格御寛典ヲ以テ被免候、向後屹度心得違無之様可致旨御沙汰候事
五月

稲葉備後守へ御達書写
其方養父隠居江隠儀、於旧幕府老中勤役中、当正月三日後不容易時態ニ立至リ、就テハ御取糾之趣有之、先差控居候様被仰付置候処、上京後数日謹慎罷居候ニ付、格別御寛典ヲ以テ被免候条、弥以国論一定シ、精々可励忠勤旨御沙汰候事
五月

太政官日誌・慶応4年21号

太政官日誌 第廿一
慶応四年戊辰夏五月

官員録
○議政官
議定 江戸在勤 三条右大臣
同 岩倉右兵衛督
同 中山一位
同 正親町三条前大納言
同 徳大寺大納言
同 中御門大納言
同 阿波中納言
同 土佐中納言
同 越前宰相
同 肥前前中将
参与 三岡四位
同 福岡四位
同 小松帯刀
同 木戸準一郎
同 後藤象次郎
同 大久保一蔵
同 広沢兵助
同 副島二郎
同 横井平四郎
同 西郷吉之助
同 岩下佐次右衛門
史官 巌谷迂也
同 江戸在勤 海江田彦之丞
同 岸良七之丞
同 長松文輔
筆生 桂西市
同 村岡多門
○行政官
輔相 三条右大臣
同 岩倉右兵衛督
弁事 阿野中納言
同 坊城右大弁宰相
同 大原左馬頭
同 勧解由小路左中弁
同 五辻弾正大弼
同 秋月右京亮
同 神山五位
同 門脇五位
同 田中五位
同 江戸在勤 丹羽五位
権弁事 千種前少将
同 戸田大和守
同 坂田莠
同 松室豊後
同 水野助太夫
史官 江戸在勤 新田三郎
同 菱田文蔵
同 江馬正人
同 北川徳之允
同 試補 作間正之助
同 同 日下部三郎
筆生 谷森右兵衛権大尉
同 峰大蔵少丞
同 北大路外記
同 小西式部
同 井上主膳
同 青木中務
同 松尾掃部
同 山田三郎
同 入谷駿河守
同 岡本弾正
同 立花宮内
同 岡本市之進
同 中川中務
同 人見正親
同 渡辺大監
同 元田直太郎
同 石川内舎人
同 木本隼人
同 大橋河内大目
同 馬杉玄吾
官掌 浅井左近
同 生駒右京
同 伊地知右膳
同 森主計
同 中川大炊
同 進藤左近番長
同 井上中務
同 内藤常太郎
同 河合修理
同 徳岡隼人
守辰 浅井伊予介
同 垣内尾張介
同 三上越前守
同 河合右近番長
○神祇官
知官事 鷹司前右大臣
副知官事 亀井中将
判官事 植松少将
同 福羽五位
権判官事 平田延太郎
同 青木稲吉
書記
筆生 藤木左近番長
同 橋本左近番長
同 富島左近将曹
○会計官
知官事 万里小路中納言
副知官事
判官事 池辺五位
権判官事 大阪府在勤 陸奥陽之助
同 甲斐九郎
同 雇士 三原清五郎
同 鴨脚加賀
判官事試補 雇士 山田五次郎
同 岡本健三郎
書記 藤田波右衛門
筆生 渡辺朔二郎
同 小森治郎吉
同 富田丹次
同 安藤行蔵
同 下村八郎
同 武島新三郎
○出納司知事 木村東市正
同 桐山辰次郎
同 判司事 小堀右膳
同 権判司事 南部綱蔵
同 加藤佐四郎
同 書記 中川弾正
同 森伊織
同 森治兵衛
○用度司知事 城多図書
同 判司事 雇士 富士谷仙太郎
○駅逓司知事 山中静逸
同 試補 山本藤十郎
同 判司事 松井清蔭
同 奥田鎌介
同 権判司事 田中十郎
同 矢島修平
同 筆生 椎野千万吉
同 中島武四郎
○営繕司知事 海福雪
同 広瀬左衛門
同 判司事 寺木甚右衛門
同 小出良右衛門
同 試補 白川雅楽
○商法司知事 西村勘六
同 雇士 団野真之丞
同 吹田四郎兵衛
同 武田伴兵衛
同 高井弥三七
同 判司事 橋本二郎
同 磯野金次郎
同 岡本嘉右衛門
同 山中伝次郎
○貨幣司知事 江戸在勤 長岡右京
同 判司事 梶川徹介
同 内山介輔
同 久世治作
同 村田理右衛門
同 浅香綱次郎
同 上原十助
同 吉田文蔵
同 五十嵐初次郎
同 書記兼勘定方 大西新兵衛
○租税司知事 岡田準助
○軍務官
知官事 仁和寺兵部卿
副知官事 長岡左京亮
三等陸軍将 西園寺中納言
同 四条少将
同 壬生左衛門権佐
同 坊城侍従
判官事 吉井幸輔
同 江戸在勤 大村益次郎
同 大木五位
同 桜井慎平
同 江戸在勤 長谷川仁右衛門
権判官事 江戸在勤 林玖十郎
同 松尾但馬

同 江戸在勤 陸原慎太郎
同 船越洋之助
同 雇士 長谷川深美
判事試補 雇士 曽我準造
同 同 森尾竜彦
同 同 伊吹喜三太
同 同 井田五蔵
書記 古賀十郎
筆生 中川右近府生
同 福井右馬大允
同 五十川左京大進
同 試補 徳岡衆祐
同 助 竹中久之助
○外国官
知官事 宇和島宰相
判官事 町田五位
同 長崎在勤 井上聞多
同 同 野村宗七
同 大隈八太郎
権判官事 中島作太郎
同 南貞介
書記
筆生
○刑法官
知官事 大原中納言
副知官事 備前侍従
判官事 中島五位
同 立花五位
同 土肥謙蔵
同 小南五郎右衛門
権判官事 江戸在勤 山田一郎左衛門
同 同 岡田雄次郎
同 同 北川亥之作
同 間島万次郎
判官事試補 雇士 桑原衛士之助
同 佐々鉄三郎
同 青木斎宮
同 玉手鎮二郎
同 椋木弥輔
監察司知事試補 雇士 落合源一郎
同 同 斎藤貞之丞
鞫獄司知事 中村知一郎
書記 西田秋作
筆生 初川右兵衛尉
同 速水左兵衛大尉
同 赤尾左衛門権少尉
○京都府
知府事 長谷宰相
判府事 松田五位
同 青山小三郎
権判府事 伏水在勤 大山彦八
同 御用掛 徴士 山田舗三郎
同 同 堀江六郎左衛門
同 以下雇士 安見源左衛門

同 小栗左源太

同 山口蔵助
同 神谷保太郎
同 今井槌太郎
同 野口庄之助

同 箕浦又一
同 鈴木鐐四郎
同 繁野又一
同 谷口道造
同 永元喜一郎
同 塩田蓮右衛門
同 谷口岩八
同 松村作一
同 山中新五
〇大坂府
知府事
判府事 堺在勤 小河弥右衛門

権判府事 五代才助
同〈摂河泉播当分支配〉税所長蔵
同 伊丹右京大進
同 西園寺雪江
同 陸奥陽之介
判府事試補 山口繁蔵
○江戸
○長崎府
知府事 沢右衛門権佐
判府事 兼外国官判官事 井上聞多
同 同 野村宗七
同 同 大隈八太郎
同 同 楠本平之丞
○箱館府
知府事 清水谷侍従
判府事 井上石見
同 松浦武四郎
権判府事 岡本監介
同 山東一郎
同 小野淳輔
同 堀真五郎
○越後府
知府事
判府事
権判府事 安井和助
同 小笠原弥右衛門
同 南部彦助
同 関沢六左衛門
同 池辺三郎
同 渡辺儀右衛門
○大和奈良県
知県事 春日讃岐守
○摂津兵庫県
知県事 伊藤五位
判県事 東条慶次
同 中島作太郎
○近江大津県
知県事 辻将曹
判県事
○美濃笠松県
知県事 長谷部甚平
判県事 林左門
同 岡田助右衛門
○飛騨高山県
知県事 梅村速水
判県事
○丹後久美浜県
知県事 伊王野次郎左衛門
判県事 松本麒太郎
○豊後日田県
知県事 松方助左衛門
判県事
○備中倉敷県
知県事
判県事 島田泰雄
同 長阪半八郎
○肥後天草富岡県
知県事 佐々木三四郎
判県事
○日向富高県
知県事 木村得太郎
判県事