太政官日誌・明治元年134号

太政官日誌第百三十四
明治紀元戊辰冬十一月

十一月五日 御沙汰書写
【薩州兵ヘ御沙汰ノ事】
〇薩川兵隊
久々遠踏跋渉、攻撃奏功、既ニ東京ニ於テ云々
但、来春云々 <第百三十三号十一月四日同隊ヘ御沙汰書同文>

【小出伊勢守家来贈賄ノ事】
〇小出伊勢守
其方領内、築城志願助郷人足免除並産物売捌等ニ付、兼々旧幕吏ヘ懇願致シ居候、引続一昨年来家来、谷章六儀、右前件条々時勢探索之事件ニ付、伏見宮家来鷲尾志津摩ヘ致頼談候ヨリ、為入費許多之金子、品物等差贈リ、御一新之後ニ於テモ不相改、猶金穀ヲ贈投致シ候段、彼是申繕居候エ共、賄賂分明ニ有之候、全体当春御布告之趣ヲモ体認シ可所置候処無其儀、不正之取計為致候段、甚以不束之至ニ候間、以後屹度相心得侯様御沙汰候事

【南部外七藩官位ヲ止ラル】
〇南部美濃
其藩先達テ、秋田領ヘ侵入官軍ヘ抗衡致シ候段、不届之至、依之官位被止、屋敷取揚之上、詰合家来之者、早々帰国可致旨申付候事
○丹羽左京
其藩儀官軍ヘ抗衡致シ候ニ付、詰合之家来共、屋敷ニ於テ禁足、他藩出入差止被置候処追々御調之儀有之、今般官位被止、屋敷取揚之上、詰合家来之者、早々帰国可致旨申付候事
○各通 岩城左京
酒井紀伊
松平伊豆
本多能登
内藤長寿丸
牧野駿河
其藩儀、賊徒ニ与党シ官軍ニ抗衡致シ候段不届之至リ、依之官位被止、屋敷取揚之上、詰合家来之者、早々帰国可致旨申付候事

【隠岐国取締ノ事】
〇松平出羽守
隠岐国取締之儀、其藩ヘ被仰付置候処、今度被免候間、池田因幡守ヘ引渡可申旨御沙汰候事
○池田因幡守
隠岐国取締之儀、松平出羽守ヘ被仰付置候処、今度被免、追而知県事被置候迄、当分其藩ヘ取締被仰付候間、出羽守ヨリ請取可申旨御沙汰候事

【治河掛全権御委任ノ事】
〇中御門大納言
今般治河掛、被仰付候ニ付テハ、全権御委任相成候事

【職務進退選挙掛ノ事】
〇門脇五位
神山五位
職務進退選挙掛被仰付、弁事官分課改正取調致候様、被仰付候事
十一月

【安藤鶴翁謝罪ノ事】
同日岩村田藩届書写二通
安藤対島守在所、奥州磐城平城、去七月十三日天兵御討臨、及落城候砌、隠居鶴翁儀、驚愕狼狽、同国仙台表ヘ立退罷在候処、九月廿四日降伏謝罪之儀、別紙之通哀願仕候処、同廿六日重役之者御呼出ニ付、漆原市郎左衛門、同国岩沼表官軍御先鋒御陣門ヘ罷出候処、御総督四条殿御聞届相成候間、明廿七日鶴翁儀、為御礼同所ヘ可罷出旨、御達御座候ニ付、同日参上仕、御参謀方寺島秀之進殿ヘ御礼申上候処、猶又御同人ヨリ別紙之通、御達御座候ニ付、直様仙台城下寺院ヘ、退去謹慎罷在、且又家族共旧領岩城平表ヘ引取候エ共、不苦哉之旨奉伺候処、不苦候趣、御参謀方御差図御座候由、然処対島守儀ハ、領分美濃国厚見郡切通村陣屋ヘ、滞留之儀ニ付、右之趣申聞度奉存候ニ付、家来之者両人、仙台表出立、切通陣屋迄相越、右之趣申聞候旨、同所ヨリ京詰家来共迄申越候処、禁足中ニ付此段従私方、御届申上候、以上
十一月五日
内藤志摩守家来 長谷川伝右衛門
安藤鶴翁歎願書写
当三月中、対馬守上京仕候ニ付、私儀岩城平罷在候処、奥羽同盟之儀ニ付、名分順逆ヲ誤リ、家来共奉抗 官軍、終ニ磐城平封土ヲ失ヒ、何共可申上様無御座、深奉恐入候、伊達陸奥儀ハ、最寄同盟之儀ニ付、一先仙台表ヘ罷下リ候処、今般仙台、米沢両藩ヨリ、深叡慮之趣奉拝承、恐俱至極奉存候、素ヨリ奉抗敵官軍候存慮ハ、毛頭無御座候エ共、着邑以来、遠境之僻地ニ罷在候ニ付、天下之事情モ隔絶仕、恐多モ叡慮之程モ具ニ不奉伺、一時之行違ヨリ、終ニ今日之姿ニ立至リ候段、退隠之身トハ乍申、指揮不行届之儀ニ付、誠以奉恐入、先非悔悟仕候、随而ハ兵器悉ク指上、於旧領恭順謹慎罷在、家来末々迄屹度謹慎申付置奉仰 朝裁度候間、御寛典之御所置奉歎願候、右之事件、道路相塞候ニ付、対馬守承知不仕候エ共、早速申遺候者恐俱至極仕、可奉歎訴候、此上ハ幾重ニモ御寛大之御処置、偏ニ奉歎願候、誠恐誠惶謹言
九月
安藤鶴翁
右ニ付御沙汰書写
安藤鶴翁
今般降伏之歎願書、御落手相成候間、仙台城下最寄之寺院ニ、謹慎罷在候様 御沙汰候事
九月

安藤鶴翁
右降伏謝罪被聞召届、東京ヘ被差出候条着之上謹慎、奉待天裁候様、御達有之候事
十月
去ル十日、仙台表ニテ別紙之通、御達御座候ニ付、翌十一日、隠居鶴翁同所出立仕候旨申越候、此段御届申上候、以上
十月廿日
安藤対馬守家来 植竹五郎太夫
隠居鶴翁儀、降伏謝罪被聞召届、東京ヘ被召出候条、着之上謹慎、奉待天裁候様、御達御座候、就テハ当地大塚下屋敷ニ住居仕、不苦候哉之段、仙台表ニテ、伺済之旨申越候間、此段御届申上候、以上
十月廿日
安藤対馬守家来 植竹五郎太夫
別紙写之通、於仙台表御達御座候ニ付、於東京大総督府ヘ、別紙之通御届申上候段、対馬守京詰家来共迄申越候処、禁足中ニ付此段私方ヨリ御届申上候、以上
十一月五日
内藤志摩守公用人 長谷川専右衛門

【明石藩、越後口ノ戦報】
同日明石藩届書写
一、七月廿一日於柏崎表、薩長、徴兵、秋月、栃木、弊藩等、海路ニテ出兵被仰付、同廿三日同所出帆、同廿五日大夫浜ヘ着、直ニ薩、長、弊藩、新発田表ヘ繰込、同廿六日依御達、薩、芸、新発田、弊藩、水原口ヘ繰込、弊藩半隊ハ間道ヘ廻リ、半隊ハ致先鋒、薩州斥候ト合併、進撃之処、敵ヨリ烈敷打懸候ニ付、及応砲、敵四五人打斃候処、余賊忽潰走、分捕左之通
大砲 一門 弾薬箱 六棹
一、同廿七日、中島村ニ滞陣
一、同廿八日、保田村ニ滞陣
一、同廿九日、渡リ場村ヨリ賊兵百五六十人計押来候注進ニ付、大斥候旁兵隊繰出シ候処、笹堀村ヘ不残退、空虚ニ付、直様保田村迄引揚、同所ニ宿陣
一、八月朔日、長、芸、新発田、弊藩、暁大八時頃ヨリ、赤坂山草水村之間道ヘ繰出、追々及戦争、四藩交戦、敵数人打取、前両所辺速ニ乗取、其後芸、新発田、弊藩同所番兵致候
一、同八日草水山ニテ、新発田兵取合ニ相成援兵申来、直ニ半隊繰出候処、賊兵追々退散ニ付、以前ヘ引揚申候
一、同十四日、石間口台場、越州持場之処、致交代固守罷在候処、賊ヨリ砲発候ニ付、厳敷防戦、其侭対陣
一、同十五日、出湯村高田兵ト交代、及夕景保田村ニテ宿陣、翌十六日出湯村ヘ繰込、高田兵ト致交代、五頭山令番兵候
一、同廿日、早天ヨリ、新発田半隊、弊藩一小隊、五頭山ノ大嶮艱ヲ打超、中ノ沢ヘ潜行候処、賊八九人計徘徊致シ居候由、注進申出、直ニ一里計、両藩繰出シ、速ニ不残討取、同夜中ノ沢ヘ引揚滞陣、分捕左之通
小銃 二挺 脇差 二本
一、同廿一日、上島ヘ繰込、同夜滞陣
一、同廿二日、川口村ヘ繰込、其後同所ニテ御親兵、越州、新発田、弊藩等ニテ、白崎大牧両口番兵巡邏
一、同廿六日、津川迄繰込
一、同廿八日、昼後八田ヘ繰込
一、同廿九日、宝川ヘ繰込、取々探索ノ上、左之通分捕
合薬 十箱
一、九月三日、半隊白坂ヘ繰込、滞陣巡邏
一、同廿一日、北ノ宮迄繰込、同所番兵巡邏
一、同廿六日、兵隊新発田表迄引揚候様、会議所ヨリ御達シニ付、翌廿七日同所迄引揚申候処、八十里越ノ方ヨリ、残賊押来候由直ニ西形ヘ繰込
一、同廿八日、宮崎迄繰込候処、残賊悉降参之由ニ付、翌廿九日西形迄引揚
一、十月三日、新発田表ヘ引揚申候、尤前件之通ニテ弊藩死傷無御座候
右之通御座候、猶巨細之儀ハ、軍曹ノ方ヘ御届仕置候旨、帰京之隊長申聞候ニ付、此段御届奉申上候、以上
十一月五日
松平兵部大輔公用人 友部久太郎

太政官日誌・明治元年133号

太政官日誌第百丗三
明治紀元戊辰冬十一月

【薩州兵ヘ御沙汰ノ事】
十一月四日御沙汰書写三通
薩州兵隊
久々遠路跋渉、攻撃奏功、既ニ東京ニ於テ被為慰軍労候エ共、今般凱至ニ付、不取敢賜酒肴候事
但、春来兵事ニ付、大宮御所云々
〇薩州兵隊
飯牟礼喜之助 服部平八
奈良原長左衛門 東江巳之助
汾陽尚次郎 津田八之進
川上孫七 亀沢源右衛門
桂宗右衛門 柴山矢八
深柄彦五郎 伊地知弥兵衛
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被創傷云々
〇薩州兵隊
飯牟礼猪之助 野村文左衛門
鎌田織平 伊地知新四郎
川上竜助 稲雨八次
町田幸次郎 面高真七郎
伊地知四郎 和田市五郎
樋口八太郎 伊藤善之助
柏原甚左衛門 永田新兵衛
長崎金兵衛 鬼丸半介
大廻直心 久留仙右衛門
若山次兵衛 宇野源太
市木英之丞 小田原六郎左衛門
園田良助 面高武輔
有高誠之丞 僕与介

高崎苓助 松崎祐斎
山口伝左衛門 和田軍吉
宮原銀助 中原左郎兵衛
実吉友助 実吉禎造
馬渡十蔵 石神宅右衛門
松崎源左衛門 完野八太郎
田中宗五郎 中尾休右衛門
逆瀬川正之進 大山藤之亟
佐藤賢二郎 友野雄介
森川勇之進
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被創傷云々
十一月

【羽州上淀川、峰之山附近ノ戦】
同日小倉藩届書写三通
弊藩人数、堺口先鋒願之通被 仰付、去十三日夜半、角館出発、翌十四日船岡村ヘ到着仕同十五日游兵ニテ同所滞陣、翌十六日先鋒被仰付、弊藩一小隊、大砲一門、因州一小隊、大砲一門、佐土原一小隊ニテ、本道攻撃之処、上淀川向賊徒、台場ヲ築防戦仕候ニ付、味方川岸之林叢、或土居等ヲ楯ニ取発砲、尚又弊藩之兵ヲ分隊仕、賊之左右ヨリ烈敷攻掛候処黄昏ニ及ヒ、旦賊徒益相加候様子ニ付、味方弥必死ヲ究メ、弊藩人数一人ニテ、二百五六十或三百発、一昼一夜烈発仕、鶏鳴ニ至リ、賊少々引色ニ相見ヘ候間、益手強打スクメ候処、次第ニ砲声相弛候付、十七日暁天ヨリ追討之手筈仕候内、長藩繰出候付、弊藩人数合併、峰之山通進軍仕候処、賊兵退走之途中、処々流血有之、死傷多ク御座候ト見請申候、続テ早急刈和野駅ヘ進撃、残賊ヲ追払、荘賊一人生捕、大小銃、弾薬等分取仕、同所ニテ兵糧ヲ喫候内、楢岡、神宮寺等之賊モ不残退散之由ニ付、同夜刈和野ヘ滞陣仕候、尤生捕分捕之儀ハ、出先参謀局ヘ差出置候、十六日戦争之節、手負之者一人御座候
深創 戦士 原田弥太郎
賊一人 戦士 岡部六蔵 討取之
同一人 足軽 村本栄蔵 討取之
分捕
臼砲 一門 大砲 一門
小銃弾薬 十八箇 七連砲弾薬 百個
火縄筒 五十七挺 槍 十九本
大小太鼓 五ツ 火縄 一駄
幕 二張 旗竿 四本
荘内米 十五俵 具足 二領
銃剣 百本 干飯 五斗
蝋燭 四十斤余 投松明 一箱
陣笠 六枚 葛篭 八箱
右去十三日以後、進軍之次第、前文之通御座候、此段御届申上候、以上
九月廿六日
小倉人数頭 平井小左衛門
右之通、於出先御届申上候旨申越候付、此段御届申上候、以上
十一月四日
小笠原豊千代丸家来 高田浅之助

【羽州増田口田子内、天倉ノ戦】

去十三日、弊藩高木悦蔵儀、佐竹河内組下人数指揮候様、参謀局ヨリ被 仰付、人数百二十人引率、即夜横津村賊徒之陣営ニ夜襲仕、及攻撃、賊徒退軍ニ付其侭尾撃、廿日増田口通リ田子内村ニテ、接戦ニ相成、賊敗走ニテ其夜天倉ヘ潜居之由ニ付、村之前後ヨリ押掛リ、及接戦候、尤分隊ニテ小安村ヘモ押寄、同様攻撃仕、賊終ニ敗走ニ付、尚更尾撃仕、当攻口之賊悉追払申候、尤処々ニテ討取、分取等有之、左之通
首二級 隊長 高木悦蔵 討取之
同二級 平士 石井文四郎 討取之
同二級 粟原主税 討取之
同二級 石井庄太郎 討取之
小頭 兵右衛門
同二級 足軽 彦七 討取之
弁蔵
分捕
米 六拾八俵 幕 七張
弾薬 百九十九箱 弾薬 二十八箱
和銃 十八挺 大砲 二挺
雑具 十篭 臼砲 二挺
大砲弾薬 十二 火縄 二十把
箭 百八十本 革箱 二箱
旗 三流 破裂玉 五箱
太鼓 一ツ インヒル銃 七挺
大小 一腰
右之通御座候、以上
九月廿一日 小倉人数頭 平井小左衛門
右之通、於出先御届申上候旨申越候付、此段御届申上候、以上
十一月四日 小笠原豊千代丸家来 高田浅之助

【羽州松山、亀ケ崎両城請取ノ事】

去廿三日、庄内討入清川口、薩州、佐土原、長州、新庄、小倉先鋒被 仰付、同廿六日新庄ヘ繰込候処、清川口ヘハ、最上口ノ 官軍多勢繰込ニ相成候付、松山口進入被 仰付、翌廿七日新庄領庭月村ヨリ、松山城ヘ進軍仕候処、同所開城降伏ニ依テ、五藩立合之上、城並器械等相改、請取相済、翌廿八日同所出発、酒田亀ケ崎城ヘ進軍、右同所夫々請取方相済、同所ヘ滞陣仕候処、新屋口ヨリ、追々進軍之肥前其外各藩ヘ、十月二日引渡、新庄領ヘ引揚之御沙汰ニ相成候ニ付、翌三日酒田出発、同六日新庄ヘ人数引揚、着陣仕申候、此段御届申上候、以上
十月七日
小倉人数頭 平井小左衛門
右之通、於出先御届申上候旨申越候付、此段御届申上候、以上
十一月四日
小笠原豊千代丸家来 高田浅之助

【摂津丸、丁卯丸新潟攻撃ノ事】
同日摂津丸船将届書写
去廿四日柏崎出艦、佐渡小木港ヘ碇泊、同廿五日越後松ケ崎ヘ一同着船、午前八字ヨリ十一字迄、諸兵隊上陸為致、賊地進撃之次第、山田市之允ヨリ、昨廿六日御届申上候ニ付相省候
摂津艦、丁卯艦之儀者、陸兵応援之為メ、新潟ヘ廻船之処、英国商艦二艘碇泊、同地ヘ互市致候様子ニ付、直ニ及談判、賊徒屯集之地故、当港速ニ退船候様申諭置候、丁卯艦之儀者御用ニ付、再度松ケ崎ヘ廻艦致シ、諸蒸気船之警衛候、同夜新潟港辺ニ銃砲相響候付、陸兵声援之為メ、沿海ヲ砲撃致シ候、今朝八字三十分、賊徒台場ヨリ御鑑ヘ発砲ニ及ヒ候付、直ニ連発、互ニ打合候内、賊之砲弾、御艦左舷ヨリ右舷ヘ打貫候砌、水夫菊四郎ト申者戦死仕候、其後午前十字三十分、丁卯艦松ケ崎ヨリ航来、相共ニ致繰打居候内、御艦之儀者急御用ニ付、松ケ崎ヘ廻艦致シ、丁卯艦ハ新潟沖ヘ相残リ居、臨機応援之積ニ御座候、同港不日攻落可申、委細ハ追々注進可仕候得共、一先此段御届仕候、以上
七月廿七日
先月廿八日午前八字、松ケ崎沖ヘ蒸気船一艘相見候付、丁卯艦一同進発仕候処、英国商船新潟ヘ差向候間、同所迄追掛、右英船ヘ、御艦士官ヨリ当港戦争之地ニ付、早々退帆致シ候様申諭置、正十字ヨリ午後一字迄、賊之砲台ニ差向ヒ、互ニ発砲仕候内、急御用ニ付、松ケ崎ヘ廻艦仕候、然処今午前三字、水夫儀助ト申者、川口ニ碇泊致居候売船ヘ申付、孥ニ仕立、賊地探索之為メ差出置候処、同五字上陸之節、賊徒両三人、小銃ヲ差向ケ相咎候得共、偽言ヲ以テ罷通リ、右売船問屋ニ至リ探索候処、賊徒白山ト申所ト海岸ト両所ニ、凡三百余人屯集仕居候由ニ付、海岸台場辺見廻候処、大砲七門処々ニ相備候付、其内一門ハ砲手居合セ不申候付、砲車押鉄取ハヅシ持帰、午後三字ニ帰艦仕候、右前後川ヨリ出帆致候商船数艘相留メ、御艦士官ヘ差向ケ、彼地之様子、且舟中相改見聞仕候処、右儀助見聞之事ニ符合候、即刻御艦士官磯兼虎之助ヲ以、新発田表参謀ヘ報知致シ、陸軍至急ニ進撃有之度、左候エバ海軍一同応援可仕段申遣候処、同日午刻八字、陸軍ヨリモ明廿九日未明、一同進撃之筈ニ付、海軍応援之儀申来候同夜十二字、丁卯艦一同新潟ヘ進軍、同廿九日午前二字賊之砲台ヘ差向ヒ、砲戦相始リ、同十字、新潟市中放火相見候間、尚厳敷両艦ヨリ繰打仕候処、賊徒台場ヲ棄テ遁亡候様子見受候付追撃仕候、陸軍モ追々進撃相見ヘ候付、発砲相止メ、英船ヘ賊徒逃込候モ難計候間、暫時取囲、其後端船ヲ以テ陸地ヘ押上リ候処、賊徒一人モ居不申候、川内碇泊之商船ヘ、潜伏モ難計候付、一々相改、帰艦仕候、此段御届申上候、以上
八月
右両条、其時越後出張御本営ヘ御届仕候エ共此段御届申上候、以上
十一月四日
御軍艦摂津丸船将 兼坂熊四郎
〇校正
太政官日誌第廿八号ニ、越後国片員村戦争之事件報知之内、書誤リ左之通
第一葉ノ前面ニ、小谷村ハ、千谷村ノ誤
同後面ニ、飯山之兵隊ハ、松代ノ誤
右之通御座候、以上
正月十二日
徳川三位中将公用人 横井内匠

太政官日誌・明治元年132号

太政官日誌第百丗二
明治紀元戊辰冬十一月

【越羽国境ノ戦】
十一月二日加賀藩届書写三通
九月朔日夜子刻、弊藩各隊、軍ヲ岩崎ヘ進メ津田権五郎一中隊、砲一門ハ中浜村エ、富山加勢多田権太郎、木村実之助二小隊、砲一門ハ、クヾリ岩エ向ヒ、発砲致シ、又高畠越之敵ノ台場ヘモ、同ク致発砲候処、賊兵山中ヘ埋伏シ、海浜ハ、小名村之断岸嵯峨之間ヨリモ頻リニ射砲致シ、彼ハ要地ニ陣ヲ敷キ、我兵ハ狭溢之嶮路ヲ渉リ、苦戦攻撃最甚ク、巳刻ヨリ申刻ニ至リ、各隊立島村マデ陣ヲ引揚申候、同二日杉浦善左衛門一小隊、米沢口ノ柳生渡口ヘ、進軍致シ候処、賊険路ニ拠リ、巨木大石ヲ転シ防拒ス、我兵急撃候処、賊引退キ候故、我兵又進ンデ大峠、タスケ茶屋之下ニテ、互ニ奮戦致シ候内、賊其所ニ放火シ敗散致シ候、同九日津田隊、多田隊合併シ、十日夜同ク中次ヨリ兵ヲ進メ、十一日卯下刻津田隊山熊田ニ進ミ、先一分隊ヲ斥候ト為シテ、雷村ニ出シ、引続キ兵隊モ同所ヘ進ミ候処、偶土州岩国之兵モ、進ンテ攻撃致候ニ付我兵戮力衝突致候処、賊忽敗走致候、因テ一分隊ヲ其地ニ置キ、余軍ハ引取申候、同十六日ニ至リ、賊兵又襲来候ニ付、我軍ヲ分テ三隊ト為シテ、大島口、荒沢口、オコシトノ三所ニ出シ、防禦候処、賊兵気焔益熾ンニ、弾丸乱射霰ノ如ク、遂ニ白班山ニ拠リ候ニ付、我兵攻撃甚急、殺傷無算、薩長之兵モ、亦来会候ニ付、共ニ進ンデ白斑山之賊塁ニ伝ヒ、急ニ我一分隊ヲ分テ、賊ノ砲台ヲ奪ヒ取リ申候、依之賊兵気魄挫折、各先ヲ争テ遁走致候
同廿六日庄内賊降伏ニ付、津田、杉浦、多田、木村諸隊、大田小又助、田辺仙三郎二小隊共路ヲ温海川ニ取リ、同廿八日庄内城下エ致進入候、右前月朔日以後戦争事状、概略御届申上候、其節手負別紙之通御座候、以上
十月
加賀宰相中将家来 富永佐太郎
土師湊
奥羽征討越後口御総督府
手負
杉浦善左衛門隊 柳瀬弥太夫 宮野七太郎
越野喜三郎

前月十四日、弊藩家老津田玄蕃手兵一中隊、砲一門、奥州入小屋村迄相進、同廿二日水臥村出張之飯山兵ヨリ、頻ニ警告候ニ付、一分隊ヲ発シ、共ニ戮力賊軍ヲ致追撃候、翌廿三日味爽、賊兵我営ヲ環リ、三方ヨリ攻撃シ、我軍死闘殆ント危急、依之挙軍引退キ、富山兵ト相合シ、更ニ勇進急撃、遂ニ賊ノ本塁ヲ擾シ候得共、孤軍独進、応援モ無之ニ付、富山兵モ小林村迄致退陣候、同夕、春日於兎男一小隊、砲一門急進候路上、右報知ヲ得テ、暗夜冒雨、大芦村ニ至リ、同所ニ軍シ候今枝民部手兵一中隊、砲一門並高崎兵ニ相合シ、陣営未定内、翌廿四日暁四字頃、賊潜ニ我後ニ出、不意ニ火ヲ放チ、短兵相逼候ニ付、我両隊等死奮酣戦、遂ニ勢難支、一先中津川迄引取、尋テ返戦、賊酋等数人ヲ斬獲シ、猶衝突長駆致候処、賊軍擾乱、黒沢、麻布両路ヲ指シ、致敗散候、同日津田隊等小林村ヲ引、滝原村ニ至リ候処、御親兵之来援一会ヒ、共ニ三手ニ分チ、御親兵ハ右山手ヨリ、我兵三分隊並富山兵ハ左山手ヨリ、一分隊ハ間道ヨリ各鋭進 遂ニ賊軍ヲ山上ヨリ致撃退候、右前月廿二日以後、戦争事状、概略御届申上候其節死傷、別紙之通御座候、以上
十月
加賀宰相中将家来 富永左太郎
土師湊
奥羽征討越後口 御総督府

戦死
津田玄蕃手兵 森川余所之助 太田治右衛門
春日於兎男隊 石黒政之亟 杉江久五郎
小原安之亟 小島惣左衛門
村田弥左衛門 石川徳太郎
今枝民部隊 小川六三郎 多和田平八郎
山川文太郎 藤田隼太郎
宮島左一郎 金子五十松
大館采右衛門 小杉半蔵
夫卒 小三郎 彦三郎 伊三郎
手負
津田玄蕃手兵 沼田将曹 竹村左守
薄井弥左衛門 中吉忠左衛門
庄田徳三郎 長田佐左衛門
長田豊太郎 原周平
森川清五郎 牧八郎右衛門
大砲方 岸平十郎 高桑常右衛門
山田余所次郎 夫卒 市三郎
以上
山田定右衛門
右七月廿五日暁、於筒葉村被重創、其後医療無功、致死去候、因テ御届申上候、以上
十月
加賀宰相中将家来 富永左太郎
土師湊
九月朔日以後、越後岩崎等ニ於テ戦争之模様別紙三通、御総督府ヘ及御届候旨申越候間、此段御届申上候、以上
十一月二日
加賀宰相中将家来 篠島権之助

【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
同月三日御沙汰書写三通
薩州兵隊
各通 長州 奇兵隊
長府 報国隊
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、到ル処功ヲ奏シ云々
但、春来兵事ニ付云々
薩州藩
実吉 禎造 実吉 友助
松崎源左衛門 田中宗太郎
逆瀬川正之進 佐藤賢二郎
友野雄介 森川勇之進
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被重創、今般凱至之段、別而難労之事ニ候、此節東京御駐輦中之儀ニ付、不取敢為被慰病情、此品被下候、猶精々療養可相加事

【諸降賊御処置振ノ事】

諸藩公議人
奥羽北越諸降賊、御処置振見込之処、書取ヲ以、来ル十日午刻迄ニ、非蔵人口ヘ持参可致事
但、東京ニ於テモ同様、被 仰出候事、尤美濃紙ニ認メ、封書ニテ可差出事

【興行場ヘ帯刀禁制ノ事】
同日御布告写
一、角力、芝居、狂言其外見セ物等ノ場所ヘ帯刀之者並小者体之者罷越、威勢ヲ以、木戸銭等モ遺ワサス、猥ニ入込候モノ有之趣相聞、甚以有間敷事ニ候、向後右体之所業於有之ハ即時可搦取旨、及沙汰候条、末々迄不心得無之様、屹度可申付候事
一、同断、仮令木戸銭等ハ相払候共、暴威ヲ振リ、場中ヲ妨候者ハ、是亦厳重取糾シ、品ニヨリ候而者、可搦捕旨及沙汰候条、末々迄不心得無之様、屹度可申付候事
右之通、被仰出候事

【高田藩会城攻撃ノ死傷】
同日高田藩届書写
津川口ヨリ繰込候竹田十左衛門隊、九月十日坂下駅ヨリ、会津城下エ進入、同十三日総軍攻城ニ付、持場天年寺口エ繰出候処、折節大風雨ニテ、進撃見合之達シ有之、則同所停軍罷在候、同十四日暁、賊徒襲来、終日及烈戦賊遂ニ敗走致候、其節討死別紙之通御座候、同日黄昏頃、薩州十四番隊ト交代、下陣エ引揚候帰路、薩州手ニテ砲声烈敷相聞候ニ付、即為援兵引返シ、及戦争候節、討死別紙之通ニ御座候、同十五日滝沢口、米沢口両所エ、為応援人数繰出候処、薩藩並佐土原人数等、青木村ヨリ引取来候ニ付、一同引揚、天年寺口エ繰込、夫ヨリ飯寺ト申所ヘ進軍、此日接戦中、軍夫一人賊丸ニ当リ即死致シ候、同十八日諸藩分配、高田村日光口之方ヘ及合撃候処、賊敗散ニ付収軍、翌十九日、長州振武隊一同、坂下迄揚取、戦機見計罷在候、同廿二日会城惣攻撃之旨達ニ付、坂下在陣之諸藩一同繰出候途中、長藩二騎馳来、肥後父子伏罪乞降候間、惣軍本営ヘ揚取候様、申達候ニ付則坂下駅エ揚取、屯駐罷在候旨、出張先ヨリ、注進有之候旨、在所表ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
十一月三日
榊原式部大輔家来 服部瀬兵衛
九月十四日
討死
銃士 松井勝之助 新村美代吉
銃隊足軽 高橋利吉
以上

【上総ノ五井ニ脱賊屯集ノ事】
同日長瀞藩届書写
去ル十日、上総国市原郡五井村エ、脱賊百五拾人余宿陣ニ付、急速長南駅エ出兵可致旨、知県事附属海瀬光太郎ヨリ達ニ付、乍小分差出候処、柏輪村ニ、脱賊屯集之趣、法進有之候間、同十一日暁八時、一ノ宮知県事兵隊、弊藩何レモ牛久村迄進軍ノ処、同朝六時、脱賊柏輪村ヨリ、奈良輪村ヲ指退去候趣、此時水野出羽守人数、知県事附属差添為斥候進軍候処、既ニ前夕奈良村ヨリ七拾人許乗船、沖合碇泊、十二日武州大森辺エ向出帆、残徒者散乱、致潜伏候聞有之候得共、一ト先兵隊引揚候様、知県事附属ヨリ達ニ付、同十四日領分大網村エ、人数帰着仕候段申越候、此段御届申上候、以上
九月廿三日
米津伊勢守家来 岸雄波
右前顕之始末、東京鎮将府エ、御届奉申上候趣、彼地詰合之家来共ヨリ申越候ニ付、猶又右之段御届奉申上候、以上
十一月三日
米津伊勢守内 白木利左衛門

太政官日誌・明治元年131号

太政官日誌第百三十一
明治紀元戊辰冬十一月

【凱旋ノ芸州兵ニ酒肴下賜ノ事】
十一月二日御沙汰書写
芸州兵隊
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、到ル処功ヲ奏シ、凱至之段、其勲労不少候、此節東京御駐輦中之儀ニ付、不取敢為慰労、酒肴被下候事
但、春来兵事ニ付大宮御所ニモ御内々御憂襟被為在、征討兵士之艱苦ヲ恤布被為思食、日夜平定而已御祈念之祈柄、今般凱旋之趣御内聴被為在御喜悦不斜候、猶又御留守中ニ付、帰陣之者厚ク慰労候様御内諭被為在候事
十一月

【神衛隊ニ復籍ノ御沙汰】
〇神衛隊
早春以来、久々滞在王事ニ勤労之段、志情神妙之至ニ候、今度夫々復旧籍候様申付候間此旨可相心得事

【水戸脱藩人侵入並降伏人ノ事】
同日土浦藩届書写四通
水戸領分近辺ヘ、彼藩脱走之者多人数寄来候段、去月廿八日夜以使者申来候趣モ有之、且昨廿九日私領分小田村ヘ、何方之者ニ候哉、士一人乗馬ニテ罷越、申聞候ニハ、多人数出張候ニ付、人足手当可致旨、申置立帰候旨、村方之者届出候間、早速人数差出候エ共、何方ヘ歟立去リ、行衛相知レ不申候、右等之事
件有之、当節柄不安心ニ付、口々ヘ人数差配リ、守衛罷在候、此段御届申上候、以上
十月朔日
土屋相模守
去月三日、相模守ヨリ鎮将府ヘ、別紙之通御届申上候旨、申越候ニ付、此段申上候、以上
十一月二日
土屋相模守家来 尾木汀
去九月廿五日御届奉申上候、相模守在所土浦表、降伏人並所持之品々共、別紙之通、去月十七日東京御糾問所ヘ差出申候、此段御届申上候、以上
十一月二日
土屋相模守家来 尾木汀

別紙写
奥平太八郎 伊藤銀八郎
牛方鉄四郎 稲生山三郎
清水廉治 小塚勝治
太田熊作 石川軍治
富川勇 平林定太郎
中川音三郎 高橋清太郎
福山泰之助 荒野圧太郎
斎藤正之助 三木三郎右衛門
富見久蔵 増田金三郎
高井左十郎 徳竹力松
村松与市 芝山久左衛門
芝山勘之助 芝山伊三郎
太田惣次郎 向井新吉
奥田新八 福島永治
田中倉吉 富倉甚三郎
鈴木文蔵 梅崎弥助
縫次郎 伊兵衛
真砂吉 留吉
巳之吉 花之助
七郎右衛門 由五郎
啓太郎 次郎吉
勘三 和吉
弁之助 源次郎
清之助 岩初
万吉 新五郎
鉄砲五十二挺 胴乱四十六
刀十四腰 脇指十二腰
右之通ニ御座候、以上
十一月二日
土屋相模守家来 尾木汀
去月三日、従大総督府、相模守家来之者、御呼出ニテ、別紙之通被仰渡候ニ付、右人数土浦表ヘ引取申候、此段御届奉申上候、以上
十一月二日
土屋相模守家来 尾木汀

別紙写
土浦藩
常州辺、残賊暴行之聞有之、領内為取締東京詰兵隊、早々帰国可致旨御沙汰候事
十月
去朔日仕出、相模守ヨリノ御届、昨三日申上候通、水戸表ヘ彼藩脱走之徒、多人数襲来、不容易形勢ニ立至リ、既ニ当朔日ニハ、城下迄押入候旨ニテ、援兵之儀、度々頼ミ越候処於在所表モ、爰元ヘ出兵跡人少、殊ニ自然領内モ不穏、応援仕候程之兵隊無之候得共、隣境之儀ニ付、不取敢隊長奥田図書附属之兵隊別紙之通、去二日夜、水戸表為応援、出張為仕候、在所表之儀ハ、厳重守衛罷在候旨、今暁飛駕警報有之候間、不取敢御届申上候、以上
十月四日
土屋相模守家来 鈴木小一郎
去月四日、於東京相模守家来之者ヨリ、鎮将府ヘ別紙之通、御届申上候ニ付、此段奉申上候、以上
十一月二日
土屋相模守家来 尾木汀
隊長 奥田図書 諸長吏 六人
兵士 五十人 兵卒 二十五人
其外附属之者共
右之者差出候処、襲来之賊徒退散平定ニ付、凱陣候様、水戸藩役人共、申聞候ニ付、去月十日引取申候段申越候、此条御届申上候、以上
十一月二日
土屋相模守家来 尾木汀

【越後口総督宮旗本隊関川附近奮戦ノ事】
同日越後口総督宮届書写
越後口総督宮旗本兵隊並附属者九月十二日、十六日、廿日戦争之始末
九月十二日朝、関川口ヘ可繰出旨、中継出張之中軍ヨリ致承知、六字大代ヨリ、薩州十三番隊之内一分隊ト合兵、雷村ヘ繰込、暫時扣候処、関川村山奥ヘ残賊潜伏、速ニ撃攘候様致承知、同所台場手前迄相進候処、関川之方砲声頻ニ相聞エ、又急ニ兵ヲ進メ候処、追々手負、戦死之引取モ相見エ、台場踏越候処ニテ、長州隊長ニ出会、戦争之次第粗承リ候処北之高山ヨリ賊徒砲発、只今酣戦ト承リ候央追々斥候報知有之候ニ付、又地利見究メ候テ関川村之上手之山並畑中ヘ撤兵ニ繰込、早速及砲戦候処、各藩兵隊ハ畑中或ハ関川村民屋其外要所ヘ相備、砲戦甚烈、然処賊兵関川之川上杉林辺ヘ相廻 官軍之右ヨリ横掛ニ打官軍之後ニ相成候処、茂山有之、右ヘ賊徒突然相廻官軍之後ヨリ打掛候ニ付、御旗本勢ヲ以、早々打攘ヒ候様、薩藩大野五左衛門ヨリ申遣候ニ付、速ニ人数引揚、右山ヘ相掛リ一時ニ賊徒ヲ追攘ヒ、山上山下致探索候得共尽ク逃去候ニ付、右場所相固メ居候処、五字之頃四方之砲声一時ニ相罷ミ申候、然ル処、右十三番隊監軍鮫島元吉馳来リ、関川村ヘ人数引揚候様、中軍ヨリ可相達旨ニ候段承リ、直ニ其場ヲ引取、民屋ヘ致宿陣、終夜巡邏、番兵相勤申候
戦死 福原直七郎
昨十二日、御旗本隊初戦之次第、右之通ニ御座候、尤外ニ手負、戦死等無御座候、此段御届申上候、以上
但、賊徒追攘ヒ候節、弾薬並火縄砲等致分捕候得共、僅之儀ニ付、別段御届不申上候
九月十三日
関川在陣御旗本隊長 中島治部
今朝九字前、請持之台場ヘ差越、外ニ助ケ之台場築掛居候処、東方之高山ヨリ、大凡二小隊計之人数、当村ヘ向ケ繰下ケ、戦ヒヲ待請候様、見請候ニ付、早速右山手之方ヘ、斥候差出候処、無程北之方、五六百間モ相隔候高山有之、其樹陰ニ賊徒相見エ、台場ヘ砲発候ニ付、台場ヨリモ打掛候、然ル処、台場ヨリ東ニ当テ、打越之山ヨリ賊徒相下リ候由ニテ砲戦之声盛ニ相聞エ、早々台場人数引分ケ、直ニ前之山上ヘ繰込、打攘候様、中軍ヨリ指揮有之候エ共、台場之儀ハ別而要所故、少人数ニテハ難守、右半隊外ニ扣居候ヲ以、早速繰込及激戦候処、賊之砲丸甚繁ク、迚モ半隊ニテ防兼、早々台場ヨリ一分隊取寄、暫時之間ニ四人浅深手負有之、追々相進ミ、山麓迄相下候処、各藩兵隊ヨリ大砲小銃別テ烈敷打掛ケ候故、賊兵モ相応之、手負有之哉ニ相見請、且隊長ト相見エ打倒サレ候処、直ニ背負引取候、然ル処、無程喇叭相鳴シ、賊徒山奥ヘ逃去、砲発モ不致候ニ付、打方為止、人数引揚、元之台場ヘ相屯罷在候処、賊徒今朝繰下リ候元之山道ヘ引取候故、五十発計モ打掛候エ共、何分七百間計モ相隔候故、打方為止台場ヲ致修覆、四字頃右半隊引取致休息、左半隊猶厳重ニ相固罷在申候、尤手負人数、左之通ニ御座候
深手 小頭 奥八郎 伍長 本多猛
薄手 織田恒助 森本兵次郎
右之通ニ御座候、台場之方モ同時ニ砲戦相止申候、此段御届申上候、以上
九月十六日
関川在陣御旗本隊長 中島治部
御旗本隊、是迄請持居候台場ヨリ、北西之方三町計入、賊之台場ニ対シ、誠ニ要所之山故去ル十九日夜、右山ニ出張、台場ヲ既ニ築之処、賊之台場ヨリ頻ニ砲発、且暗夜故、一先引取、翌廿日一字頃、賊兵追散シ候上、右山ニ台場築立候覚悟ニテ 左右之山ニ撒兵ニ繰込置、台場築掛候処、如案賊兵及砲発候間、左右之山ヨリ、烈敷及砲戦候処、薩州川辺隊一分隊、為応援繰出、相共ニ激戦之処、手負四人、応援之兵モ戦死有之、賊之死傷ハ谷越ニテ委細ニ難見届 且日モ西山ニ傾候故、台場築立モ調兼候ニ付、一応喇叭相鳴シ、打方為止候処、賊之砲丸モ、暫稀ニ相成候ニ付、其間ニ右高キ岡之絶頂ヘ斥候台相築、半隊ハ七字頃ニ休所ニ引取申候、尤右台場ニ人数出張之覚悟ニ候得共、何分正面之台場ハ勿論、左右之高山ヨリ打下シ候テ、四人、外ニ少々薄手モ有之、如何ナル大兵ヲ指置候共、防禦之手便更ニ無之、迚モ難守御座候故、八字頃一声打方為致、元之台場ヘ引取申候
深手 伍長 中島信次郎 鵜飼藤作
隠岐譲太郎
浅手 芥川左内
右戦争之節、始末粗如此御座候、仍而此段御届申上候、以上
九月二十一日
関川在陣御旗本隊長 中島治部
前三条之通リ、本営ヘ届出候度ニ、家来小幡長門介ヨリ、北越会議所ヘ御届申候旨、出先ヨリ申越候ニ付、此段御届申候、以上
十一月二日
仁和寺宮家来 木村右衛門

太政官日誌・明治元年130号

太政官日誌第百三十
明治紀元戊辰冬十月

【羽州大館附近ノ戦】
十月廿九日肥前藩届書写
八月廿七日、賊已ニ小撃村ヘ、侵入ノ勢相見候段、急報至来ニ付、本藩一同斥候差出、動静致探索候処、今泉村入口ニテ、賊徒ヘ果シテ行逢、斥候丈ニテ小銃放発、並秋田藩大砲隊等ヲ以、互ニ打合候迄ニテ、賊前山村ヘ引取候ニ付、番兵差出置、廿九日朝六時出発、本街道今泉村口、間道大沢村口両道ヨリ進撃ノ手段ニテ、徳島健之亟始五小隊並大砲二隊本街道繰出候処、大霧ニテ咫尺ヲ不弁、本藩大砲隊其外並徳島健之亟一隊斥候等、前山村ヘ賊徒屯集ノ報知ヲ得候ニ付、間近ク押掛、不意ニ小銃打立候ニ付、賊致狼狽、応砲纔七八発ニテ、兵具等打捨致敗走候、乗其機先鋒今泉惣左衛門、徳島健之亟、松田善左衛門其外諸隊相進候処、賊坊沢村口並西松山、東田原三所ヘ致分隊、大小銃ヲ以、相防候ニ付、猶又本藩其外一同、凡昼四半時頃ヨリ八時頃迄、烈敷及奮戦、賊勢相崩候処、間道ヨリ相廻候重松与次右衛門、其外兵隊駆付、山上ニ相扣候賊ヘ打掛、弥以敗北致遁去候ニ付、坊沢村、綴子村ヘ宿陣、九月二日朝六時出発、本街道大砲田尻源十郎隊、永橋助一、長崎要人、五郎川八太夫三隊、間道山手中須田村ヘ重松与次右衛門、三浦斧柄、嬉野多志摩三隊脇道板沢村ヘ、徳島健之亟、松田善左衛門、今泉惣左衛門三隊、三道ヨリ進軍ニテ、於早口村、大小銃ヲ以賊徒ヘ打掛、凡昼四時頃迄相支、賊敗走餅田村ヘ相固、山上其外ヨリ大小砲打懸候ニ付、則手分致発砲、是又凡一時余ニテ、賊遁去、根拠大館城ヘ引取申候間、間道ヘ相廻候重松与次右衛門、其他三隊、山手ノ賊ヲ打破、大館ノ方ヘ相進、且又板沢村口ヨリ相進候徳島健之亟其外三隊、於同所賊ノ不意ヲ打、大ニ得勝利、扇田村口打入、何レモ直ニ夕七ツ時頃ヨリ、三道分隊烈敷打懸凡半里許大館ノ方押詰、奮戦仕候得共、賊要地ヲ相頼引請、烈舗打立、殆可及苦戦ノ処、最早暮ニ及ヒ発砲相止、川口村宿陣仕候、同四日未明ヨリ出発、本道重松与次右衛門、長崎要人、五郎川八太夫三隊並遊兵犬塚志津馬隊、大砲田尻源十郎隊、田町口三ノ丸口永橋助一、嬉野多志摩、三浦斧柄三隊、飼鈎口松田善左衛門、今泉惣左衛門二隊、船場口徳島健之亟一隊、三道分隊、大小銃打立、賊ノ巣窟ヲ平夷可致、早天ヨリ暮迄、烈舗死力ヲ尽奮闘仕候得共、賊ハ要害ニ致潜伏、味方ハ平原ニテ小楯無之、頗難儀ノ場ニテ、落城不致候ニ付、其夜ハ野陣仕、翌五日未明ヨリ、最前ノ手段ニテ大小砲打掛候得共、究冠ニ付、深入相憤、終日互ニ打合候末、賊夜半頃ヨリ器械輜重相運遁去申候ニ付、六日朝大館ヘ進軍仕、下代野村滞陣罷在候、尤五日朝ヨリ下村長四郎、松田善左衛門二隊、十子村出張ニテ、十二所間道山手ヲ相塞、大館ノ応接ヲ立切罷在、同七日朝ヨリ重松与次右衛門、大塚志津馬二隊繰出、都合四隊ニテ、十子村二筋ノ間道ヘ相進、烈敷致発砲、本藩並秋田藩本道其外ヘ致手分、一同奮戦仕、最早暮過、賊徒遁去、十二所致落城申候得共、国境ヘ余賊致出没、動静相伺候様子ニ付、同所並雪沢村両所ヘ分隊致宿陣候、尤分捕、死傷左之通
八月廿九日前山村戦争ノ節
分捕<本藩斤候大砲隊並徳島健之亟隊斥候一同ニテ>
大砲 玉薬共 二門 胴乱 一ツ
手負
大砲掛 石丸雄太郎 同水夫 利右衛門
九月二日早口村戦争ノ節
大小 一腰 鉄陣笠 一蓋
右永橋助一隊深川善之介分捕
首 一級
右香田市助組討之、敵助太刀捕之
小銃 一挺
右五郎川八太夫隊分捕
同日板沢村戦争ノ節
小銃 一挺
右松田善左衛門隊分捕
莚包<但衣類道具入> 四箇 具足 二領
右斥候江頭増太郎、石井十字、徳島健之亟隊神代左馬允、城戸助作、西川隼之助分捕
刺違 一ツ
右永橋助一隊香田市助分捕
同日餅田村同断ノ節
手負
大砲掛足軽 栗原太助 森伝助
村岡久平 池田円助
同月四日、大館同断ノ節
戦死
隊長 今泉惣左衛門
手負
徳島健之亟隊 中尾神左衛門 三浦斧柄隊足軽 馬場崎卯七
寺田治右衛門
同月七日、十二所同断ノ節
手負
犬塚志津馬隊 池田善次郎
右之通御座候、以上
九月十日
鍋島欽八郎家来 田尻宮内
弊藩羽州表出勢ノ内、末家鍋島欽八郎家来、田尻宮内ヨリ、戦争ノ次第、死傷、分捕等、別紙ノ通、報知申越候ニ付、不取敢御届申上候、以上
十月廿九日
鍋島藩 高木権太夫

【残賊常陸ヘ流入ノ事】
同日牛久藩届書写
当月四日、常陸国信太郡木原村ヘ、賊徒上陸同所竜ケ崎ヘ可罷越旨ニテ、各藩ヘ出兵ノ儀知県事柴山文平殿御附属中ヨリ、在所常州牛久陣屋ヘ御達御座候間、翌五日一小隊竜ケ崎ヘ出兵、御同人御附属中ヘ引合候処、賊徒常州土浦ヘ趣候由ニテ、尚同所ヘ出張可申旨、御附属一同土浦迄出張ノ処、賊徒行衛不相分同七日帰陣ノ趣、在所長次郎ヨリ申付越候、此段御届申上候、以上
九月十八日
山口長次郎家来 岡部彦四郎
山口長次郎領分、常州河内郡岡見村百姓平蔵方ヘ、去五日浮浪体ノ者四人罷越、金子致借用度段、及強談、無余儀金二両差出候処、別紙ノ通鉄砲其外差出預置候様申聞候間、只管及断候処、取捨不苦旨申聞、其侭何レヘ歟立去候趣、村役人ヨリ在所役場ヘ届出申候間、得ト相糾候処、相違茂無御座候ニ付、別紙ノ通品々役場ヘ取揚置候、然ル処去ル九日、前条四人ノ内一人、外ニ両人同所ヘ罷越、此程ノ鉄砲戻シ呉候様申聞候段、同村役人共ヨリ注進有之候間、即刻為召取人数差出候処、最早何レヘ歟逃去、行衛不相分由ニ御座候、依之別紙鉄砲其外共、如何可仕哉奉伺度、長次郎申付越候、此段奉伺候、以上
九月十八日
山口長次郎家来 岡部彦四郎
別紙
元込馬上銃 二挺 七発繰出銃 二挺
胴乱 四ツ
右之通御座候、以上
九月十八日 山口長次郎家来 岡部彦四郎
別紙ノ通、九月十八日於東京、御届申上、且伺書差出候処、在所ヨリ取寄、鎮将府ヘ可差出旨、即日御差図相済、依之同月廿七日、別紙品書ノ通、鎮将府ヘ差出候段、申越候ニ付右写三通相添、此段御届申上候、以上
十月十九日 山口長次郎家来 小川伝右衛門

【松山藩家来謹慎ノ事】
同月晦日御沙汰書写二通
池田侍従
板倉伊賀家来、板倉千代太郎、金子寛人両人其藩ニテ預リ置候処、追々伊賀家来一同、深謹慎罷在候趣、依テハ右両人ノ者、一先松山表ヘ引取、厳重相慎居候様、其藩ヨリ可申達旨御沙汰候事
但、松山表ノ儀ハ、其藩出張ノ者ヨリ、精々取締心付ケ可申候事

【松井周防守領知百姓不穏ノ事】

市橋下総守
当春、松井周防守謹慎被 仰付、同人領知取締、其方ヘ被仰付置、其後周防守謹慎被免、復領之儀ニ付、右領分百姓ドモ、領主ニ対シ彼是不伏ノ筋申立候趣、其方ヨリ連々申達候儀モ有之、引渡方御猶予願之趣御聞置此節ニ至リ、周防守早々引渡候様御沙汰候処、右領知百姓共、動揺致シ、屯集等致シ候様相聞候、右ハ其方取締方奉命致居候事故、鎮撫方屹度行届候様、可致所置候事

【刑律御改正ノ事】
同日御布告写
王政復古、凡百之事、追々御改正ニ相成、就中刑律ハ兆民生好之所係、速ニ御釐正可被為在之処、春来兵馬倥偬、国事多端、未タ釐正ニ暇アラズ、依之新律御布令迄ハ、故幕府ヘ御委任之刑律ニ仍リ、其中磔刑ハ君父ヲ弑スル大逆ニ限リ、其他重罪及焚刑ハ梟首ニ換ヘ追放所払ハ徒刑ニ換ヘ、流刑ハ蝦夷地ニ限リ且盗窃百両以下罪不至死候様、略御決定ニ相成候、尤死刑ハ勅裁ヲ経候条、府藩県共刑法官ヘ可伺出、且総テ粗忽之刑罰有之間敷事
一、流刑ハ蝦夷地ニ限リ候得共、彼地御制度相立候迄ハ、先旧ニ仍リ、取計置可申事
一、徒刑ハ土地之便宜ニヨリ、各制ヲ可立事ニ付、府藩県共其見込ニ従ヒ、当分取計置可申、追々御布令可被為在事
右之通、被仰出候条御旨趣堅相守、猶不決之廉有之候ハ、刑法官ヘ可伺出候事
十月

太政官日誌・明治元年129号

太政官日誌第百廿九
明治紀元戊辰冬十月

【新発田藩戦記】
十月廿九日新発田藩届書写
七月廿五日、柏崎表ヨリ海軍御繰出、弊邑大夫浜、松ケ崎浜エ着岸、軍艦七艘凡二千人程上陸、即日千人程城下町エ御繰込、迅速諸手進撃之御手配ニ付、不取敢領内口々、固人数差出、翌廿六日会津本道山内村エ、一番手物頭窪田嘉一郎始三小隊、大砲一門出兵、同日城下ヨリ四里以南、村岡村賊徒攻撃之タメ、疾速兵隊繰出之儀、長藩ヨリ談有之、即刻水原口荒町村固之二小隊、大砲二門、本田村エ繰込、滝沢地界並荒川口エ台場ヲ築、固守罷在、同日夜半薩長芸始藩々、弊藩一小隊、城下叫ヨリ福島潟間道進軍、翌廿七日早天、水原陣屋攻撃之処、賊狼狽一戦ニモ不及、市中放火潰走ニ付、惣軍討入、消防口々砲台ヲ築相固候
同廿六日松ケ崎上陸人数之内、薩、長、秋月藩阿賀野川ヲ越、津島屋村エ出兵、一手者海老ケ瀬村、一手ハ堤通ヨリ本所村エ進軍ニ付弊藩高久六左衛門一小隊、沼垂警衛出張先ヨリ発向之処、本所村屯集之賊徒、一戦ニモ不及、尽ク敗走、即追討イタシ、海老ケ瀬新田ニテ、右三藩人数落合、惣勢ニテ追詰、暫時及砲戦、忽散走ニ付、無透間致進撃候処、寺山新田ニテ賊兵少々相加リ、此所ニモ及砲戦賊四人討取、直ニ沼垂迄追詰候処、賊徒信濃川ヲ打越、新潟ヘ敗走、最早申ノ下刻ニ及ヒ敵情難計ニ付、要地ニ台場ヲ構ヘ、沼垂出張弊藩人数馳加リ、同夜ヨリ新潟屯集之賊ト、信濃川ヲ挟テ砲戦、同廿九日未明、長藩奥平謙助、信濃川ヲ渡リ、新潟隣地平島村エ斥候其節弊藩古田九左衛門嚮導相勤、夫ヨリ諸藩会議決策ノ上、新潟エ討入、十分勝利、賊徒惣敗軍、未ノ刻頃及鎮静、尤弊藩ニハ諸台場ヲ引請、頻ニ砲発応援仕候、其節手負並生捕分捕、左之通
手負
浅手 砲士 桜井庄五郎
分捕
陣羽織 一枚 胴乱 一
手銃 一挺 陣笠 一蓋
武者袋 一 国々城郭図 二冊
脇差 一腰 異国製剣 一本
生捕
手負 米藩 中山勇次
右七月廿七日大淵村ニテ生捕入牢、八月十六日死
同 佐藤駒之助
右八月三日、沼垂ニテ生捕入牢
同 夫卒 九人
右退々所々ニテ生捕入牢
七月廿八日、領内小阿賀野川以西、荻島新田渡船場エ、賊徒台場ヲ築、相固罷在、賊河東二本木村エ押渡候テハ、一難事ニ付、不取敢郷村取締出役之者奔走、土兵ヲ起シ防禦之手配中、芸州、福知山巡邏ニ付、右両藩エ申談築塁、川ヲ挟テ砲戦、其内沼垂表兵隊少々繰出シ、廿九日上田一学一小隊モ加リ、頻ニ及砲撃候処、賊潰走ニ付、即川ヲ渉、新津方迄尾撃、遂ニ追散シ申候
同廿九日、嘉茂口押之賊、嘉茂新田地内渡船場信濃川岸ニ台場ヲ築、五反田村エ進軍之形勢有之ニ付、同村正義ノ者等奮発、台場ヲ築土兵ヲ催シ、川ヲ挟テ頻ニ砲撃中、越前人数繰込ニ相成、遂ニ討払、賊徒敗走、嘉茂町巣窟エ引退申候
七月廿七日、本田村地境台場相固居候弊藩、佐分利雄吉隊、薩長藩談ニヨリ、滝沢山樵路ヲ越、両藩倶堤村屯集罷在候賊之横手エ出、不意ヲ襲候処、賊防戦不叶、宿寺エ火ヲ掛ケ潰走ニ付、陣ケ峰迄尾撃、絶頂エ砲台ヲ築、雄吉隊並大砲一門相備、荒川口固二番隊モ繰込、固守罷在候
同廿八日、城下ヨリ朝倉勇次一小隊並大砲一門、水原エ繰込候処、夜ニ入、参謀衆指揮ニヨリ、本田村ニ差残シ候大砲共都合三門、山内口エ繰廻シ、陣ケ峰ノ二隊ヲ保田町エ繰込市中巡邏、所々台場相固居候
八月朔日、水原会議所ヨリノ指揮ニ寄、朝倉勇次隊、長藩ト倶ニ山手屯集之賊進撃、草水赤坂両所之台場乗取、賊草水村放火敗走、其節生捕、分捕左之通
生捕
<元江戸遊撃隊坂本平弥組、当時会藩附属>清水七郎
右芸藩エ引渡
分捕
手銃 三挺
同日、朝倉勇次分隊、水ケ曽根村固場ニテ、阿賀野川脱走之賊船捕押、賊一人生捕、同所並草水、赤坂山台場エ、時々賊徒襲来候ニ付討払申候
生捕
村松藩 鈴木勇三郎
右薩藩エ引渡
分捕
刀 二腰 脇差 一腰
手銃 一挺
同日、朝倉勇次分隊、梅原太郎兵衛、芸藩ニ加リ分田口ニ進撃、賊徒敗走之処、水原ヲ襲候哉モ難計ニ付、弊藩ハ直ニ引揚、新橋口相固、翌二日小里村番兵エ繰替相成、三日勇次半隊ヲ合兵、所々番兵巡邏並二本木村、横越村等エ分勢相固候処、最寄潜伏之賊徒散走ニ付、追々中島並水原新橋口エ引揚固守罷在候
同三日、諸方潰走之賊徒、勝屋、出湯辺之山谷ニ潜伏之趣ニ付、保田町喜多尾勝蔵隊、迅速進軍之儀、会議所ヨリ指揮ニ随ヒ、即日出湯村エ繰込、五頭山上エ台場ヲ築、番兵差出置、四日賊兵襲来ニ付、斥候隊繰出討払申候
同夜会議所ヨリ丸山エ分勢之儀申来、即半隊繰廻ス、五日五頭山エ猶又賊兵襲来、烈戦ニ及候得共、賊多勢、味方小勢、応援モ無之ニ付一ト先人数繰下ケ、保田町エ応援之儀、早打ヲ以テ申達候得共、万一五頭山賊手ニ入候テハ一大事ニ付、再ヒ繰登セ、必死防戦之術ヲ尽シ候処、賊兵敗走、立岩ト申処迄引退申候
同六日、水原会議所ヨリ差図ニ付、新橋口並中島相固居候一小隊分勢、分田村、西岡村エ繰込、近郷巡邏、分捕左之通
弾薬 四箱 ジヤケツ 一枚
フランケツト 一枚 ミニー早合 二箱
手銃 四挺 胴乱 一
同八日、長藩ヨリ談有之、草水村固佐分利雄吉一小隊、七曲山エ繰替、塁壁ヲ築、屡及砲戦、十二日猶又丸山宝珠山エ転陣、出湯口ヨリ分勢之人数ト合兵固守罷在、十四日申ノ刻頃、同所エ賊徒多勢、不意ニ襲来ニ付、奮発激戦之折柄、長藩五六人、高田藩十人位、救応有之弥奮戦、西ノ下刻頃、賊徒潰走ニ及申候、此時手負左之通
深手 砲士 江口銿次郎
浅手 足軽 上田俊次
同日、出湯村固之喜多尾勝蔵隊、勝屋村エ陣替、十九日、同所ヨリ会津領中ノ沢エ繰込、明石藩ト倶ニ、潜伏之賊徒八人打斃、其節分捕左之通
刀 一腰 脇差 一腰
手銃 四挺 胴乱 一
同十七日、宝珠山相固候佐分利雄吉隊、絶頂ヨリ直チニ石間村賊塁エ押寄、烈シク及攻撃候処、賊兵難支忽潰走、暫時隊下之鋭気ヲ養ヒ、戦跡見廻リ候処、賊四人斃罷在、夫ヨリ追々進軍、廿一日夜鳥上ケ村宿陣罷在候処、会議所ヨリ賊徒五十島村山手ニ屯集ニ付、進撃イタシ候様申来、翌未明同村エ到着、松音山ニ対塁及砲戦、其節手負左之通
深手 砲士 板倉治三郎
浅手 片山峰之丞
右之通、出先ヨリ申来候ニ付、此段御届申上候、以上
十月廿九日
溝口誠之進内 山崎重三郎

太政官日誌・明治元年128号

太政官日誌第百廿八
明治紀元戊辰冬十月

【野州大田原附近ノ戦並彦根藩凱陣ノ事】
十月廿八日彦根藩届書写二通
弊藩三浦十左衛門隊、小塙喜平太隊、九月七日国元出発、同廿六日野州大田原駅エ宿陣仕候処、田島屯集之賊、多勢大田原エ差向候趣ニ付、同藩応援之儀依頼之処、同夜賊兵、窃ニ作山駅ヨリ、水戸筋ヘ脱走之趣ニ相聞、翌廿七日未明、大田原藩、弊藩、阿州藩等進軍仕候処、片腐田村ニ賊徒休息イタシ、先手ヲ繰出掛ケ候ヲ、斥候之者見留候ニ付、直様三藩押寄、発砲烈戦候処、無程賊兵敗走仕候ニ付、一旦整列、再ヒ大田原、弊藩追撃仕候処賊兵箒川ヲ渡リ落去候趣ニ付、佐良土村ヨリ引揚申候、右追撃之節、賊兵五人討捨、二人生捕ル、其他多ク打斃候得共、諸藩同進中ニ付、其侭捨置候、弊藩死傷、別紙之通御座候此段不取敢御届申上候、以上
十月六日
彦根中将家来 河手主水
別紙覚
討死
三浦十左衛門隊 雨川本太郎 山口捨次郎
小塙喜平太隊 宮川増弥 西沢与惣次
手負
中島与惣吉
右九月廿七日、野州片腐田村戦争之節、死傷ニ御座候、以上
十月六日
彦根中将家来 河手主水
別紙之通、於出先御総督府ヘ御届申上候由、報知仕候ニ付、此段御届申上候様、中将申付越候、以上
十月廿八日
彦根中将公用人 田部洗蔵
別紙之通、於奥州白石城、従大総督府、御達ニ付、出張之兵隊、去十一日白石城出発、東京ヘ凱還可仕由、尤去月出張之二小隊ハ、今一応御沙汰有之迄、居残リ候様御達ニ付、白石城ニ滞陣仕候、此段出先ヨリ申越候ニ付、御届可申上様、中将申付候、以上
十月廿八日
彦根中将公用人 田部洗蔵
別紙写
彦根兵隊
春以来、長々出張、遂苦戦、終ニ賊城ヲ令陥落候段、深感賞被思食候、依テ速ニ凱陣休兵可致旨御沙汰候事
十月

【越後口上閂藩ヘ感状ノ事】
同日上田藩届書写
去五月中ヨリ、越後表出兵先ニ於テ、追々御達、左之通御座候

五月十九日御書附写
先般当国出兵之諸隊、追々進撃尽力有之候趣達 天聴、神妙之至被思食候、自今尚更可抽忠節旨御沙汰候事
五月
公望 花押
別紙之銘々、賊徒追伐、遂戦死候段、神妙ニ存候、依之以目録聊寄奠儀者也
五月
隆平
永祐
上田藩 隊長中
一、金三千二百匹宛 上田藩討死野間次太夫
八木兼助
堀内掌一
別紙之銘々、勇戦被創候旨、苦悩察入候、依之聊為療資、目録差遣候也
五月
隆平
永祐
上田藩 隊長中
一、金千三百匹宛 上田藩手負 船越精一郎
大熊健助
切田善左衛門
六月十八日御感状写
長岡落城後、連戦無虚日、殊ニ強悍之賊ト対塁連旬、不得休息、遂苦戦候段、実不堪感激因馳一夫、聊慰軍労候、尚直様朝廷エ可及奏聞候也
六月十八日
永 華押
公 華押
上田隊長中
右之通、出兵之者共エ、度々御感状並御目録頂戴仕、且御酒肴ヲモ被下置、重畳難有仕合奉存候、右御礼御届申上候、以上
十月廿八日
松平伊賀守家来 四方田辰三郎

【肥前藩、羽州戦記】
同月廿九日肥前藩届書写
山手追分口
八月十八日明六時、賊襲来羽根川ヲ奪ヒ、長浜ヘ相廻、味方難儀ニ及ビ候報知有之、昼四ツ半時、為応援、追分口備罷在候弊藩二小隊ヲ繰出シ、疾行二里、羽根川東南高山ニ取登リ賊ノ後ニ出、別ニ半小隊ヲ分チ、谷ヲ渉リ横合ヨリ攻立候処、此時長浜口ノ味方モ、一際奮進ノ様子ニテ、賊前後途ヲ失ヒ敗走、谷間ヲ指引揚候ニ付、大ニ喊ヲ発シ、追撃先登羽根川ヘ入リ放火、賊死傷不少、暮半頃兵ヲ纏メ凱旋仕候
海手長浜口
同日未明、賊兵長浜村秋田藩陣営ヘ襲来、苦戦ニ付、為応援三小隊、長浜山手ニ繰出、直ニ賊ノ右翼ニ廻リ候処、賊ヨリモ抗拒激戦及数刻、猶又大砲ヲ以、頻ニ打懸候処、斃賊数十員、賊勢稍相挫候故、味方一斉喊ヲ揚急進烈敷致放発候ニ付、終ニ堪兼、狼狽致遁逃候ニ付而、秋田藩一同致進撃候エ共、日既ニ没候ニ付、無拠羽根川辺ニテ繰揚申候、尤手負左之通
手負 鍋島上総徒士 山口藤作
同廿九日暁、七ツ時、亀田領上新屋村賊巣ヘ押寄、秋田藩先鋒ニテ、明六ツ時及戦争候処賊勢甚熾、昼四ツ半時頃ニ至リ、既ニ苦戦ニ相見候ニ付、弊藩四小隊、大砲二門ニテ則進軍、攻撃時ヲ移候エ共、更ニ不相挫ニ付、右村ハツレ南山手ヨリ、アルム及臼砲ヲ以、頻ニ打掛候処、斃賊数十員ニ相及、賊勢為之被挫、山門ヨリ致遁逃候ニ付、追撃ニ可相及処日既ニ没シ、殊ニ風雨飛沙、何分厳備不相整ニ付、無拠夜九ツ時長浜ヘ致帰営候、尤戦死左之通
戦死 鍋鳥上総家来足軽 馬渡栄助
九月十二日暁七ツ半時、弊藩四小隊、秋田兵隊一同、長浜相備居候処、賊兵羽根川ヲ渡リ両手ニ相分レ、一手ハ山手秋田番兵所ヲ襲撃直様侵入、長浜民屋ヲ放火致シ、一手ハ浜手ヨリ相進、致放発候ニ付、弊藩兵隊即左ノ山上ニ備ヲ立、巌敷戦争、就中臼砲及アルム銃等ヲ以、頻ニ打立候央、浜手之方、秋田兵隊苦戦ニ相見候ニ付、弊藩半小隊分隊、応援差出、一際致奮戦、猶又アルム銃着発弾ヲ以、山手浜手ヲ打立候処、数百之賊中ニ数発打当致破烈候ニ付、此勢ニ賊一時ニ打挫、皆以潰走候ニ付、不透尾撃、羽根川ヲ追詰、乗勢道川、松ケ崎辺之巣窟ヘ、追撃之積リノ処、最早及日晩、折節暴雨降出、殊ニ寡兵終日ノ激戦及労倦旁ニ付、不得止秋田藩一同兵隊ヲ相纏メ、長浜ヘ帰営仕候、賊之死傷不少、味方手負、戦死、左之通
戦死 鍋島上総家来 御厨源三郎
手負 同足軽 井手又次郎
即死 小荷駄方夫小頭 平兵衛
山手豊巻口
同十一日、大正寺口ニ賊襲来、先是味方不利ニ付、戸島辺引揚之報知ニ付、九日早朝ヨリ弊藩一小隊半、大砲二門、豊巻出兵之内ヨリ分隊、椿川ヘ繰出防禦之処、十日昼頃、賊兵安養寺辺ヘ相廻候ニ付、秋田藩渋江内膳手ヘ為応援、椿台迄相進、十一日早朝ヨリ、今又一小隊半、豊巻ヨリ繰出、薩、筑並秋田藩一同、賊ノ左右ヨリ相進、東南ヘ追撃、弊藩三小隊、大砲一門ヲ以、平沢村ヨリ鳥越山ヘ相進、閧ヲ発シ、一時ニ攻立候処、七ツ時頃、賊勢百五十人程、川端ヘ相廻候付、猶又大砲ヲ打立候処、一時ニ散乱、逃去申候、時ニ日已ニ夕陽ニ及ヒ、同夜厳備夜営、十二日未明ヨリ追撃ノ央、賊小山ヲ放火シ、追分、豊巻両口ヘ襲来、同所別而寡兵ノ儀ニ付、薩藩ヘ相談、持場相譲繰揚申候
同十二日明六ツ時頃ヨリ、賊追分ヘ襲来、凡五百人豊巻ヘ、同百人小山村ヲ放火、両道相廻候ニ付、兼而相備置候追分ヘ、二小隊ヲ以防戦、豊巻ヘ大砲一門、同所川東ヘ同二門厳敷打立候処、賊忽逃去、追分口ヘ合併、横合ヨリ打掛、味方寡兵ニテ及苦戦候ニ付、今又豊巻ヨリ一小隊繰出シ、全軍必死ニ相成、一際奮戦相進候処、賊遂ニ堪カネ、引色ニ相成候ニ付、大ニ喊ヲ発シ、一同追撃、凡一里余、賊兵右往左往ニ散乱致シ、敗走ス、死傷凡五十人余、隊長ト覚候首一級討取、夕七ツ時頃繰揚申候、戦死、手負左之通
戦死 鍋島上総足軽 大古場佐吉
手負 足軽 北村敬助 吉田広次
右ハ追分口ニ於テ
手負 馬渡国三
右ハ椿台口ニ於テ
山手三崎峠観音森口
弊藩人数之内、秋田領長浜、追分、豊巻三ケ所ヘ分兵、相滞居候賊、亀田領引揚候由、探索之者ヨリ報知致シ候ニ付、九月廿日、因州秋田兵一同繰出、亀田城放火、矢島、塩越両口進軍之末、賊徒領境三崎嶺、観音森両所ヘ相滞居候付、同廿七日筑因秋田兵一同進撃、両道共終日激戦、当夜対陣、翌暁諸手一勢ニ討入候積ニ候処、三崎嶺ノ儀、其夜半ニ可撃入報知候付、諸藩一同進入、観音森口モ前段報知ニ付、順々進入仕候、尤廿七日戦死、手負左ノ通
戦死 隊長 石井又左衛門 即死 夫方 一人
手負 西村礼之助 鍋島上総家来 西村喜八
夫方 一人
右者三崎嶺ニ於テ
戦死 鍋島上総足軽 大渡岩太郎
手負 須古清之助 従者 一人
右者観音森ニ於テ
於追分口、賊一人打留、首級並持筒、大小等分捕、軍監ヘ差出之、其外分捕左之通
白焔硝<大瓶六本、大箱一ツ小箱一ツ俵入十> 大砲空弾 六十余
同空弾 二箱 和筒 十五挺
蘭筒 七挺 和太鼓 一ツ
鎧胴 一ツ 太刀 一本
手鑓 一本 米 八百俵
ヱンヒールト玉薬 四箱 鉛玉 一包
右者必要ノ品ニ付、陣中ニ相用候
東北南部口
九月二日、本道綴子村並間道中須田、板沢三道ヨリ、弊藩偖又秋田ノ人数分隊、尤本道者弊藩一小隊、大砲一門、鍋島欽八郎家来四小隊、大砲一門、秋田一小隊、板沢口ヨリ弊藩一小隊、臼砲一門、欽八郎家来三小隊、秋田三小隊、中須田口ヨリ欽八郎家来三小隊、進撃之末左之通
同日暁天、本道之兵、既ニ早口村ヘ相進候処川口村ヘ致根拠居候賊兵八百計、岩瀬早口之間ヘ致逆寄、砲台築立、大砲ヲ備、其最寄松薮ヘ伏兵、其外左右ノ山手処々要地ニ相備、小銃連発、手強ク及防戦候付、味方猶又奮撃或ハ山手ニ上リ、或ハ川ヲ越、大小銃打交、正面左右ニ当リ激戦二時計、勝敗未判、別ニ人数引分、左右ノ山手ニ廻リ、横矢ヲ入、一同烈敷攻立候処、殺傷過当、賊終ニ支兼、致敗走候折、中須田通ノ味方已ニ川口ニ廻リ、個所個所ヨリ砲撃、賊兵弥狼狽逃走、板沢通ノ味方ニモ右ノ敗賊引受、十分要撃、斬首十八級、其外分捕等モ有之、偖本道ニハ、川口ニテ一先兵ヲ纏候内、中須田通之兵ニハ、川口ヨリ又々左右間道ヘ相廻リ、餅田村屯軍之賊ヘ、砲戦之央、間モ無ク本道ヘ相進候処、賊兵三百人計、村中処々ヘ相伏シ、発砲、且右手ノ山ヘ攀登リ、一際遂陣戦候得共、味方続而奮撃、或ハ背ニ廻リ、横ヲ撃候処、賊又敗走候付、勝ニ乗シ進撃、先登ノ兵、大館近ク相廻リ候処、最寄ノ村蔭ヘ、賊兵伏ヲ設、味方ノ不意ヲ打、頗ル及難儀候処、軍後ニ相附候兵糧武具運送ノ人夫等、致驚走候ニ被相纏、連戦疲労之折、自然ト友崩レニ相成、五町計繰揚、再備ヲ立応戦、暮ニ及ヒ候ニ付、賊兵ニモ固場引取、同夜双方対陣、賊死傷数不知、味方手負、戦死、左之通
戦死 足軽 内田雄八 同 久保幸之助
即死 夫卒 一人
手負<死生不知>勝屋雄七 斎藤内蔵允
原口大三
接戦刺違 鍋島欽八郎家来 香田市助
手負 同足軽 栗原太助 同 森伝助
同 村岡久平 池田円助
同三日、烈風強雨ニテ進撃相止打追対陣
同四日未明ヨリ、本道餅田口並田町坂三ノ丸口、舟場口、飼鈎口等凡四手二分隊、尤本道ハ弊藩一小隊、大砲一門、欽八郎家来四小隊秋田四小隊、田町坂三ノ丸口ヨリ弊藩半小隊大砲一門、欽八郎家来三小隊、秋田三小隊、扇田舟場ヘ弊藩一小隊、欽八郎家来二小隊、秋田二小隊、飼鈎口ヨリ弊藩半小隊、欽八郎家来一小隊、秋田一小隊、残リ人数遊軍ニ相備、大館会軍ニテ約期進撃之処、賊兵ニモ夫々配兵、専要地ヲ守、尽力防戦、勝敗互ニ不相判、猶又様々手段ヲ以遂勇戦候得共、数多之賊兵、其上得地形一挙難乗取、及暮相引対陣、此日賊死傷数不知、味方戦死手負左ノ通
戦死 西村藤一郎 鍋島欽八郎家来 今泉惣左衛門
手負 立川千兵衛 鍋島欽八郎家来 中尾神左衛門
鍋島欽八郎家来 馬場崎卯七
同五日、前日之末早朝ヨリ、弘前兵隊相加リ一同及進撃候処、賊兵如形防戦、味方勝算難相立ニ付、分隊ヲ以、扇田村ヘ差廻シ、同所ヨリ賊背ニ出、挟撃之手配相付、其外口々厳重示合、翌日ハ一挙可乗取軍議相定、其日ハ暮ニ及ヒ一先相引対陣
同六日早天、前日手配之末、本道並口々及進撃、将又釈迦内ニハ、弘前之新手三小隊着陣味方ノ気勢十分相進候処、賊兵畏縮、暁頃ヨリ段々遁走之模様ニ付、直様押寄、無難大館乗取候処、人家不残兵焚ニ相罹リ、同夜最寄之村々ヘ宿陣、方々探索差出候処、同所遁走ノ賊、水沢村ヘ四五百計根拠ヲ構、其当面小葉ノ台山ヘ番兵相附、無油断相守候由ニ付、先以秋田二小隊、雪沢村ヘ繰出置、追而全軍進撃之手配相附滞陣
同七日、最初板沢通之弊藩兵隊並秋田兵、扇田着陣ノ末、本道並右山手隠行、凡三手二分隊、十二所屯集ノ賊ヘ責掛候ニ付、大館ヨリ弊藩一小隊、為応援扇田辺繰出、然ル末、本道之兵大滝村ヘ相進候処、賊兵三百計、同所相備、大砲二門先ニ立、厳敷及防戦候ニ付、味方ニモ猶又粉骨勇戦之折、川向左リ山手ニ賊兵百計攀上リ、横矢ヲ入候而、味方殆及難儀候処、扇田辺相備居候一小隊、秋田之人数引連、速ニ繰出、山手ノ賊ヘ奮戦逼撃之処、賊不得止引揚候ニ付、本道無難相進、偖又靄森其外所々屯集ノ賊ハ、本道右山手隠行、間道之兵ハ奮撃相破、一同暮頃十二所ヘ取掛、厳敷砲撃防戦候エ共、味方之気勢、弥以相張、賊終ニ敗走、直様十二所ヲ乗取ル、惣而右之敗賊者、不残三哲山ヘ引篭、堅固防禦之用意ト相見候付、同所迄打払、国境全恢復之議定ニテ、連戦之疲労ヲ不顧、直様進撃、同夜亥刻頃迄、引続遂奮戦候エ共、流石要地ノ山上殊ニ賊兵ニモ最早国境引請候上ハ、必死防禦輙ク難責破ニ付、一先兵ヲ収、十二所ヘ引取滞陣、偖又前断川向左山手之賊ニハ、葛原ヘ引退、守備罷在候、此日賊死傷数不知、味方手負左ノ通
手負 鍋島欽八郎家来 池田善次郎
同十日、大館近村宿陣ノ弊藩兵隊並秋田、弘前人数一同、暁天冒雪出発、大明神村ヘ進軍同夜野陣ヲ張、進撃之手配罷在、翌十一日今又弘前三小隊新手相加、同日賊兵之ヲ押タメ二ツ屋村、新沢村分隊番兵差出、尤二ツ屋村ハ、其侭石州通進撃手段ニテ、弊藩二小隊、欽八郎家来二小隊、大砲二門、弘前二小隊、大砲一門、秋田二小隊相副繰出候処、差付ヨリ最寄之賊兵ト及一戦候末、同夜山手ニテ対陣、同十二日早天ヨリ本道新沢口、間道中長根山手口、偖又前断石州通、凡三道分隊、尤本道者弊藩大砲一門、半小隊、欽八郎家来二小隊、弘前二小隊、中長根ヨリ秋田二小隊、弘前一小隊、欽八郎家来一小隊、残リ人数本道遊軍ニ相備、進撃之末、本道ニハ弊藩大砲弘前大砲ヲ先ニ立、連発責懸候央、中長根口ヨリノ味方、本道弊藩半小隊、弘前人数一同且戦、且進、漸々小葉ノ台山ヘ相廻、二時計及戦争候処、賊兵終ニ敗北、続テ水沢ノ根拠ヘ責掛、無程石州通ノ味方ニモ、途中ノ賊徒打破、会軍ニ相成候処、賊軍震動土崩、国境山手ノ個所個所ヘ退散、再備ヲ立、死力防戦之用意罷在、味方ニモ、一同水沢村乗取ノ節ヨリ、切所切所ノ山手二分隊出張、或戦、或守、昼夜無間断対陣
以上
幣藩羽州表出勢請持之方面、南者海手一口、山手両口、東北南部口郡合四隊ニ分配戦争、死傷、分捕等、出向家来ヨリ、別紙之通申越候付、不取敢御届申上候、以上
十月廿九日
肥前藩 高木権太夫

太政官日誌・明治元年127号

太政官日誌第百廿七
明治紀元戊辰冬十月

【十月廿七日安芸藩届書写二通】
○野州藤原口ノ戦
藤原口進撃ノ節、所々人馬差支候ニ付、田島表ヘ輜重方差残、追々運送仕候手筈ニ仕置候処、先月九日朝、残賊差越、四面ヨリ相囲候ニ付、色々奮戦仕候得共、何分賊多勢、輜重紛失、而巳ナラズ左ノ者、死生ノ程モ難分御座候間、此度引取ノ節、探索仕候処、弥以戦死相違無御座候、此段御届申上候、以上
戦死
指揮役 菅野徳之助 以下戦士 山本他人輔
石井三蔵 沖粂六
小笠原恕左衛門 菅野徳之助家来 清蔵
中島玄庵家来 吉蔵 清兵衛
市蔵 正之助
熊吉
八月廿三日、横川表戦争之節、左ノ者山手ヘ相進候所、行衛相分不申候ニ付、其後色々探索仕候所、全ク深入仕、賦ニ被生捕、会津城中ニテ斬首仕候様、確証御座候間、乍延引此段御届申上候、以上
兵卒 大川左源太
十月
芸州藩 二川主税
【芸藩霞ケ関屋敷ヘ繰揚ノ事】

若松表ヘ出兵、弊藩人数早々出足、大田原ヘ申談、三斗小屋、五十里口残賊ノ形勢探索、時機可然見留モ候者、暫時横川迄、取敷可仕旨御達ニ付、九月廿九日河原町宿陣揚兵、五十里口ヘ出足、当朔日深川村宿陣揚兵、三斗小屋通リ大田原表ヘ、通行可仕筈ニテ、既ニ松川村迄罷越候処、野際峠ヘ先月廿日頃、会藩共大木伐倒シ、逆茂木等ニテ山路絶塞、其上先月廿九日、当月朔日二尺余ノ積雪、中々以、人馬往来難相成趣ニ付、猶宇都宮藩承合候処、探索振同様ノ儀、無拠田島通日光口ヘ通行仕候得共、何モ別条無御座、去ル十一日霞ケ関屋敷迄繰揚申候、此段御届仕候、以上
十月
芸藩 二川主税
右之通、於出先御届仕置候旨申越候得共、尚又不取敢御届申上候、以上
十月廿七日
安芸少将内 熊谷兵衛

【藩治職制一定ノ事】
同月廿八日諸藩ヘ御布告写
天下地方、府藩県之三治ニ帰シ、三治一致ニシテ、御国体可相立、然ルニ藩治之儀ハ、従前各其家ノ立ルニ随ヒ、職制区々異同有之候ニ付、今後一般同軌之御趣意ヲ以テ、藩治職制、大凡別紙之通可相立旨被 仰出候事
十月

藩治職制
執政 無定員
掌体認朝政、輔佐藩主、一藩紀綱政事、無不総
参政 無定員
掌参政事、一藩庶務、無不与聞
公議人
掌奉承朝命、代国論備議員
一、執政、参政ハ藩主ノ所任ト雖モ、従来沿襲之門閥ニ不拘、人材登庸、務テ公挙ヲ旨トシ、其人員黜陟等、時々太政官ニ達スベシ
一、執政、参政ノ外、兵刑、民事及庶務ノ職制、其藩主ノ所定ト雖モ、大凡府県簡易ノ制ニ准シ、一致ノ理ヲ明ニスヘシ
但、職制一定ノ上ハ、之ヲ冊ニシテ、太政官ニ達スヘシ
一、藩主ノ側ハラ、従来所置用人等ノ職ヲ廃シ、別ニ家知事ヲ置キ、敢テ藩屏ノ機務ニ混セシメス、専ラ内家ノ事ヲ、掌ラシムベシ
一、公議人ハ執政、参政中ヨリ出スベシ
一、大ニ議事ノ制ヲ立ラルベキニ付、藩々ニ於テモ、各其制ヲ立ツベシ
十月

【治河掛リ並舎密局ノ事】
同日御沙汰書写四通
○後藤象二郎
当官ヲ以、治河掛リ被仰付候事
○宮川小源太
当官ヲ以、治河副使申付候事
○岡本健三郎
当官ヲ以、治河使被仰付候事
○島津少将
大阪ニ於テ舎密局御取建ニ付、其方家来平田助左衛門儀、御用有之、御雇被仰付候間、出仕可申付事
十月

【宇都宮藩引揚ト残賊警備ノ事】
同日宇都宮藩届書写四通
去九日従大総督府、御書付御渡有之候、其趣ハ若松落城ニ相成候ニ付テハ、脱走ノ残賊、潜伏暴行候モ難計候間、両野州ノ藩々、若松ヘ進撃ノ兵隊、早々帰陣休兵被申付候条、尚精々領内取締可為肝要旨御沙汰ヲ蒙リ候趣申越候ニ付、此段御届申上候、以上
十月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

若松表ヘ、出張ノ弊藩人数、早々引揚、黒羽大田原等申談、三斗小屋、五十里越、残賊之形勢、令探索、時機次第、暫時横川迄、陣取可致旨御達ニ付、去月廿九日、当月朔日ト両日ニ出発、同二日音金村ヘ宿陣、三斗小屋通リ大田原ヘ通行可致筈ノ処、去月廿日頃、残賊共野際峠一里程ノ間、巨木伐倒道路梗塞之上、当月朔日数尺ノ積雪、人馬往来難相成候ニ付、無拠五十里口ヘ、通行可致旨考居候処芸藩ヨリモ、探索振同様ノ趣申越、弥以不得已、五十里口ヘ致通行候得共、聊別条無御座候旨、在所表ヨリ申越候、此段御届申上候、以上
十月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

野州藤原口横川辺ヘ、残賊屯集、諸方ヘ出没領分及動揺候趣、若松出張ノ参謀衆ヘ、警報有之候処、弊藩人少ニ可有之候ニ付、封内固之為メ、人数引揚候様、伊地知正治殿被相達候間、是迄若松ヘ出張罷在候七小隊、大砲隊二隊之内三小隊、去月廿三日帰陣仕候旨、在所表ヨリ申越候ニ付御届仕候、以上
十月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

会津領横川田島辺ヘ、残賊出没之模様モ御座候テ、宇都宮領民共、動揺仕候間、為押先達テ四番小隊、大砲二門、塩原村ヘ差出置候処当時今市駅ヘ、各藩之出兵モ有之候得共、何レモ小藩ニテ、不都合ノ儀モ有之候ニ付、弊藩ヨリ為援兵、藤原辺迄出兵可仕候様、軍監三好助次郎殿ヨリ申談御座候間、去月廿六日三番小隊高徳村迄出張仕候旨、在所表ヨリ申越候ニ付、御届仕候、以上
十月廿八日
戸田故越前守家来 大塚数馬

【東京脱走ノ賊徒警戒ノ事】
同日高遠藩届書写
東京脱走ノ賊徒、信濃路ヘ侵入之機、相見得候旨、大総督府ヨリ御報知ノ趣モ有之候ニ付神速出張、各藩糾合、時機掃除之処分可致旨被仰付、当表参着、委曲監察ヘ尚承合候得バ、更ニ相替候儀モ無之事実判然、完静謐ニ候上ハ、早々帰営、右之趣大総督宮ヘ可奉言上候就テハ藩々ノ儀、尚此上不慮之予備厳重、各在所ニ於テ、兼テ兵隊整列、緩急共異変有之節ハ、何時ニテモ出兵相整候様有之度候、右之次第、夫々ヘ御通達可被成候、以上
十月朔日
越後総督府 軍監
松代藩重役 各御中

別紙之通、信州路一時鎮静ニハ候得共、東北未平定ニ至ラズ、騒然之際、残賊何時蜂起侵来モ難図候、当藩ノ儀ハ、兼テ触頭ヲモ被仰付置候事ニ付、万一右等急変ノ節ハ、早速各藩ヘ布告致シ、糾合ノ上、臨機其宜ヲ得候様、尽力可有之候
右ノ趣、各藩ニオヒテモ、急変報知之次第モ候ハ、速ニ相応シ、精々遂示談、事実ヲ尽シ進退区々不相成様、協和一致、倶ニ尽力、抜群ノ成功可有之様、此段廻達可被成置候事
別紙両通ノ趣、越後口御総督府軍監藤村四郎殿ヨリ、松代藩ヘ御達相成、各藩廻達ニテ在所表ヘ致到来候由、申越候旨、若狭守旅中ヨリ申越候、此段御届申上候、以上
十月廿八日
内藤若狭守家来 星野蔀

太政官日誌・明治元年126号

太政官日誌 第百廿六
明治紀元戊辰冬十月

【竹腰伊予守領知尾州家ヘ返還ノ事】
十月廿七日御沙汰書写四通

徳川三位中将
其方旧臣、竹腰伊予守儀、先般藩屏列被仰付、其方ヘ関係無之ニ於テハ、従前同人ヘ遣置候、一万石之高、其方ヘ差返候様被仰付候間、此旨相心得、請取可申事
但、成瀬隼人正儀ハ、当時其方輔翼之儀モ有之候ニ付、封地其侭之通閣置度内意之趣御聴置被為在候ニ付、此段モ申達候事
竹腰伊予守

其方領知三万石之内、一万石ハ徳川三位中将方ニテ、前々ヨリ遣シ置候儀ニ有之処、其方先般藩屏之列ニ被仰付、尾州ヘ関係無之儀ニ於テハ、旧封二万石之余、一万石ハ三位中将方ヘ差返可申様、被仰付候事
但、右之趣、徳川三位中将ヘモ御沙汰候間、此旨相心得、早々可引渡候事
【成瀬隼人正領知ト尾州家内意ノ事】

成瀬隼人正
其方領知三万五千石之内、徳川三位中将方ニテ、従前遣置候高有之処、其方先般藩屏列ニ被仰付、尾州ヘ関係無之ニ於テハ、旧封之余ハ、三位中将方ヘ差返可申筈之処、当時其方儀、三位中将輔翼之訳モ有之候ニ付而ハ、先領知是迄之通遣置申度趣、同人内意モ有之候ニ付、当分封地差返候ニ不及候間、此旨相心得可申候事
十月
【灯明台築造地検分ノ事】

各通 毛利宰相中将
松平兵部大輔
久松壱岐守
今度海岸要所ヘ、灯明台築造被仰付候ニ付地所為可相撰、英国器械匠一人、長谷川三郎兵衛同伴、火船ニテ其地ヘ見分ニ被差立候ニ付、着船之上ハ、万端不都合無之様可取計事
但、長州ヘハ海岸要所ヲ下ノ関ニ作ル
【孝子、義僕、高齢者等御褒賞ノ事】
同日御布告書写
今般 御東巡御道筋之孝子、義僕、職業出精之者御褒賞、七十歳以上之者、且火災水難ニ罹リ候者共御賑恤被仰出候、依而ハ皇国中無遠近、前件之通御拡行被為遊度、深キ叡慮ニ付、府藩県ニ於テモ御主意奉体認、其支配所領、速ニ褒賞賑恤之道ヲ施シ、窮民撫育等、精々行届候様可取計旨御沙汰候事
十月

【会津城受取ノ事】
同日土佐藩届書写
九月十七日、諸道之敗賊、城南諸村ニ在リ、城中ヨリ応援スルヲ以テ、薩藩ト相議シ、当朝弊藩五小隊<内二小隊ハ越後ヨリ来リシ兵>米沢一小隊、七字進発、飯寺村ニ至リ、兵ヲ二手ニ分チ、一手ハ中堂村ニ向ヒ、一手ハ高久村ノ堤ニ向ヒ攻撃ス、賊胸壁ニ依リ、川ノ左右ヨリ発射シ弊藩人数亦分布シテ之ヲ撃、賊兵且退、且防戦闘時ヲ移ス、賊終ニ支ヘス、進テ数ケ所ノ塁壁ヲ奪ヒ、進撃ノ折柄、薩兵左ノ山手ヨリ出テ、相共ニ北ルヲ追ヒ、西川村ニ至リ、諸村賊巣タルモノ、不残焼払、四字比帰営仕候
同廿二日肥後父子歎願書持参、軍門ニ降伏仕候ニ付、薩藩一小隊ヲ以テ、城北滝沢村妙国寺迄護送仕、継デ兵器一切 官軍ヘ差出シ、諸藩立会之上、夫々受取、追而城中ノ兵卒非婦女子共為引払、同廿四日居城受取申候
右戦状概略如此、尤日々ノ小戦ハ、細ニ記不申、且討取ノ賊数百人、加之大砲、小銃及弾薬、剣槍、金穀等夥敷分捕候得共、調方未行届候間、別ニ御届不仕、弊藩死傷、別紙之通御座候、以上
九月
土州 板垣退助


八月廿三日、若松城討入之節、傷者過日御届洩ニ付、此ニ記ス
四番隊 池田忠兵衛 十四番隊 竹内楠太郎
十三番隊 岡本守之尉
九月十三日戦争之節
傷 後ニ死ス 夫卒 猪吉
同十四日戦争之節
傷 後ニ死ス 夫卒 三蔵
同十五日戦争之節
傷 仲間 栄次
同十七日戦争之節
死 川野忠之進 岩井猪之助
原庄九郎 金子和三郎
岩原熊吉
傷 別府彦九郎 上田六郎
竹内陽之助 明神戍吉
曽我慎八郎 岡本三郎
野辺敬吉 井沢勘吉
服部綴一郎 野村幸七郎
筒井悦之進 仁井田郷 吉之助
宇都宮 平吉
右之通御届仕候、以上
九月
土州 板垣退助

会人ヨリ差越ス書状写
一書拝呈、寒冷之節、長々御滞陣、益御壮剛可被為在候半ト、欣然之至、拝賀候、陳者国情之儀ニ付、歎願之筋有之、使者差立申度、彼是心配仕候得共、四方之通路相塞リ、殆ト当惑罷在候処、幸ニ昨夕御手之小者之由ニテ、当城ヘ召連候ニ付、一ト通相尋、御陣ヘ御返申候、尤当手之者両人附添差出候間、前文之次第、御許容被下候者、御手ヨリ御一人、此者一同御遣被下度、左候ハヽ、直様使者両人差出可申候間、委細之儀者、同人共ヨリ御聴取、何分ニモ宜敷御取扱被下度、奉伏願候、謹言
九月廿日
会津 倉津五兵衛
田中源之進
井沢茂右衛門
海老名群治
山川大蔵
原田対馬
土州御藩 御重役中様
別紙之通、御届仕候趣、申越候ニ付、此段脚届申上候、以上
十月廿七日
土佐少将家来 本山恒之助

【小倉藩会津坂下警衛ノ事】
同日小倉藩届書写
豊千代丸人数、当月二日領海門司浦出帆仕候兵隊三百五十人余、越後朝潟着仕候後、新発田城ニ於テ、御総督宮様ヨリ、会津城下坂下警衛被 仰付候旨、出先ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
十月廿七日
小笠原豊千代丸家来 丹村六兵衛

【会津降人警衛ノ事】
同日大村藩届書写
八月廿六日、天寧寺山番被命、出張仕候段者先度御届申上候通御座候、其後九月十四日、薩州、鍋島、松代一同、天寧寺山ヨリ、終日城中ヘ砲撃、賊徒ヨリモ発砲、十五日熊倉ニ於テ、米沢兵塩川屯集之賊徒ノ遁路ヲ断候故猪苗代ヘ襲来 官軍之要路中断必然ニ付、即刻出兵之命アリ、猪苗代ヘ転陣、塩川辺探索候得者、賊徒既ニ退散、依テ猪苗代警衛ノ儀尾藩ヘ相頼ミ、若松ヘ帰陣ノ処、若松在留ノ官軍、賊徒屯集ノ高来ヘ、既ニ進撃ニ相成居就テハ逃賊猪苗代ヘ可出候ニ付、至急可引取旨、御沙汰ニヨリ、尚又猪苗代ヘ引戻申候、廿二日会賊降伏、歎願御聞届相成、就テハ降人猪苗代ヘ蟄居被仰出、明日ヨリ連々到着ノ筈ニ付官軍ハ近村ヘ転陣相固、警衛ノ薩、尾、彦、弊藩一同申合、降人大小刀取上候様御使番被相達、廿三日夕刻降人連々到着候付四藩立会、大小刀取上申候、惣計三千人余候得共、取調中極テ難申上段、出先ヨリ申越候此段御届申上候、以上
十月廿七日 大村丹後守家来 一瀬伴左衛門

【小倉藩帰陣ノ事】
同日小倉藩届書写
豊千代丸人数七月廿七日出兵被仰付候兵隊八月十七日領海沓尾浦出発、同廿五日越後柏崎着仕候後、同国沼垂ト申所ニテ、六小隊ヲ三小隊宛ニ分隊被仰付、一手者下関ヘ向ヒ一手ハ津川口ヘ参リ候処、此所ニテ又分隊被仰付、二小隊ハ野沢口ヘ向ヒ、一小隊ハ滝谷通坂瀬川ニ着ノ上、先鋒被仰付、賊徒ノ屯集所米沢村、雀林村、寺崎村等ヲ乗取、高田ノ砦ヲ攻落シ候処、止戦ニ相成、十月七日頃帰陣被仰付候段、一小隊丈ノ報知有之候、猶惣括登京ノ上、惣隊ノ儀委細御届可申上候以上
十月廿七日 小笠原豊千代丸内 丹村六兵衛

【水戸脱藩人並壬生浪士召捕ノ事】
同日久留米藩届書写
弊藩兵隊、東京ヘ出張罷在候処、去ル三日青柳枝川辺ヨリ攻撃ノ儀、大総督府ヨリ御達ニ付、同四日、五日出張、其後磐城平ヘ出兵被仰付、相進候途中、水戸退去ノ奸賊、両総ノ間ニ屯集罷在候哉ニ、芸備両藩ノ兵ヨリ報告仕候ニ付、先軍者船橋、千葉、山梨ニ出、探索仕候処、其模様相見不申、尤先軍斥候ノ者ヨリ、壬生浪士中ノ賊一人討取、後軍ニテ六人召捕、吟味ヲ遂ケ候処、八日市場敗走ノ賊ニ無相違段、白状仕候ニ付、於千葉打捨、成田ヘ相進申候、同所ヘハ水戸ノ追兵、二百人計モ出張罷在候、最早敗走ノ残賊ニテ、屯集之模様更ニ無御座、其上過ル八日下参謀吉村辰兵衛ヨリ、水戸脱奸両総ヘ屯集ノ有無ニ不拘、人数ノ儀ハ磐城平ヘ進軍候様、差図ニ付旁同所引揚、直ニ磐城平ヘ進発仕候、則討取等姓名並所持ノ品、左之通御座候
討取 水戸脱藩人 大嶺総七郎 河合子之吉
朝比奈千次郎 田山金平
小松崎為次郎 守山脱藩人 砂川熊吉
壬生浪士 林信太郎
所持之品
刀 三本 脇差 一本
本込銃 一挺 胴乱 二ツ
鉢金 一ツ
以上
右之趣、御総督府ヘ御届仕候段、出張先ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
十月廿七日
筑後中将家来 川村作摩

太政官日誌・明治元年125号

太政官日誌 第百廿五
明治紀元戊辰冬十月

【守山藩水府ヘ応援ノ事】

十月廿五日守山藩届書写二通
去朔日、旧幕府旗下脱走人、其外奥羽之残賊並宗藩脱走之奸徒数百人、俄ニ押寄セ、水戸城下ヘ攻入リ、弘道館乗取、及戦争候段、注進有之候ニ付、弊藩ヨリ早速一隊ノ人数差出候条、在所松川陣屋ヨリ申来候、此段御届申上候、以上
十月五日
松平大学頭家来 鈴木梶右衛門
右之通、於東京鎮将府並大総督府ヘ御届差出候旨、彼表詰役人共ヨリ申越候間、此段御届仕候、以上
十月廿五日
松平大学頭家来 小川善四郎

一昨五日御届申上候、脱走ノ賊徒、水戸城下ヘ討入候ニ付、於弘道館、去朔日ヨリ本藩並弊藩人敷等、頗ル及苦戦候処、三日暁ニ至リ賊徒敗走、長岡通リ玉造明神山ヲ指テ、逃去候間、本藩ヨリモ追討人数差出、猶又弊藩ヨリ人数差出シ、北浦ヲ背負ヒ、武田郷ト申所ヘ陣取、追討仕候手筈之由、在所松川陣屋ヨリ申越候、此段不取敢御届申上候、以上
十月七日
松平大学頭家来 鈴木梶右衛門
右之通、於東京鎮将府並大総督府エ御届差出候旨、彼表役人共ヨリ申越候間、御届仕候、以上
十月廿五日
松平大学頭家来 小川善四郎

奥州叶津、堺村附近ノ戦
同日飯田藩届書写
越後表ヘ出張ノ兵隊、追々進軍、八十里越打越、奥州大沼郡叶津ヨリ、中向村迄相進、致宿陣居候処、賊ノ残党、此辺山野所々蔓延致居、諸手ノ輜重等致襲奪候様子ニテ、九月廿四日、御軍曹淵川忠之助殿ヨリ達シ有之、中津川村ヨリ大芦村、堺村之間道、厳重相守候処、猶又鳥居嶺迄繰出、堺村賊徒防禦方、弊藩一手ヘ御任被成候旨、達シ有之候ニ付、同廿五日、急速繰込、同所ヘ台場築造中、未剋頃堺村之賊徒襲来、砲発烈敷打込候ニ付、是ヨリモ不透打立、憤戦ニ及ヒ候内、申半刻頃賊徒敗走致シ候間、直様追討致シ候得共、樹木蘙薈中ヘ逃込、且日暮ニテ、更ニ行方不相分候ニ付、元台場ヘ引揚、厳重相守候由、賊徒多人数ニハ御座候得共、叢樹ノ間ニ出没致候儀ニテ、聢ト員数難見積旨ニ御座候、且又出張先病兵等有之候ニ付、在所表ヨリ少々ノ人数差遣候途中、九月廿五日夕、奥州西谷川口村辺ニテ、賊徒之襲来ニ出逢、上田藩ヘ合兵、防戦致シ候趣、出先ノ者ヨリ申越候ニ付御届申上候様申付越候、此段御届申上候、以上
十月廿五日 堀美濃守家来 淡路藤橘

【奥州初野口旗巻嶺ノ戦】
同日館林藩届書写
本月九日夜十一字、黒木村ヘ各藩勢揃、御軍配ノ通、長州藩及中村藩、弊藩ノ人数合併、第二字頃同所進軍、初野口裏間道、山手ヨリ進ミ、旗巻嶺下ニ至リ、左右山手ヘ攀登、魚貫而進ミ、暁第六字一点頃、各藩ニテ左右山上ヨリ砲発、賊屯ヲ掩襲仕候処、賊亦砲射防戦致シ候ニ付山上乗リ越進撃仕候、先旦御使番磯部鹿之進殿御指揮ヲ受、弊藩大砲一門初野口本道ヨリ進ミ、期ノ如ク山手ノ砲声ニ応シ、払暁嶺上ノ胸壁ヘ、目撃砲発仕候処、一旦賊兵二百計致防戦候得共、忽散失仕候ニ付大砲相進候処、道路嶮岨、砲車不便ニ付、砲車ノ人員半ハ小銑ヲ以テ、関門ヘ進撃仕候、左リ山ヨリ烈敷進撃仕候兵隊、長州藩ト共ニ苦戦、弊藩隊長青木三右衛門終ニ戦死仕候、長州藩遂ニ賊ノ台場ヲ攻抜キ、先登ニ続テ弊藩人数尽力仕、長藩ト共ニ賊塁ヲ攻破仕候、賊ノ兵卒逡巡狼狽、賊自ラ営ヲ焼テ敗走仕候勝ニ乗、各藩ト共ニ青場村迄追討仕候、賊悉ク退散ニ付、同所警衛仕、応援ノ増人数ハ、本陣ヘ引揚申候、当日戦死、手負及分捕等、別紙書面ノ通御座候、此段御届申上候、以上
九月十三日
館林藩 太陽寺内蔵介
戦死
隊長 青木三右衛門 青木三右衛門隊中 田口虎輔
小俣七郎隊中 田口曽右衛門 遠藤彦十郎
高山幹隊中 藤崎栄蔵
深手
小俣七郎隊中 佐藤清松 同 間仁田寅次郎
浅手
同 樽見久次郎 同 内田米次郎
青木三右衛門隊中 大友釻四郎<但在所不知生死不分明>
分捕
大砲 三門 小銑 四挺
四斤榴弾 七放 舶来小銃弾薬 <二千五百放但四箱入>
大小 一腰 討取賊兵 三人
右之通御座候、以上
九月十三日
館林藩 太陽寺内蔵介
前書之通、出兵先ニテ御届申上候旨、申来候ニ付、此段御届申上候、以上
十月廿五日
秋元但馬守家来 高山藤内

【江州ノ松井周防守領引渡ノ事】
同月廿六日御沙汰書写二通
市橋下総守
松井周防守領知、江州ノ中ニ有之地、其藩ヘ当分取締被仰付置候処、先達テ右領、如旧御下渡ニ相成候ニ付、右藩ヘ可引渡旨、当九月相達候処、其事件ニ付、民心動揺可致哉之儀、申立ノ筋有之、是迄引渡方猶予之儀聞置候処、最早日数モ余程相立候ニ付、百姓共精々申諭、右藩ヘ可引渡旨御沙汰候事

松井周防守
其方領知、江州ニ有之候分、市橋下総守ヨリ可請取旨、当九月申達候処、民心動揺可有之哉ノ儀、彼藩ヨリ申立有之ニ付、是迄引渡猶予ノ儀、聞置候処、最早日数モ余程相立候ニ付、彼藩ヘ可引渡旨、申達候ニ付、百姓共ヘ精々申諭シ、早々可請取旨 御沙汰候事

【羽州神宮寺、刈和野ノ戦】
同日久保田藩届書写
当月七日国許出足、東京ヘ指立候飛脚、同十七日同所ヘ着ニ付、翌十八日江戸邸ヨリ、直ニ町便宜ヲ以、指越候書状、昨廿五日此表ヘ相達候処、先般御届申上候後、弥賊勢相募リ亀田領福部羅ト申処ヨリ相破レ、領内中淀川ト申所迄、賊徒押出シ、所々放火、小山村ト申所迄侵入ニ相成、仙北郡ノ方ハ、兼テ申上候通、神宮寺村ニテ防戦ノ処、右中淀川ヘ侵入ノ賊、城下ヨリ神宮寺迄ノ通路ヲ断切候故同所ノ防禦甚相難シ、下度、角館ト申所迄惣勢引揚ニ相成候処、彼レ時ヲ得テ、神宮寺ノ方ヨリモ進入、刈和野ト申所迄襲来、不容易難戦ニ相至候処、平戸、大村両藩始、諸藩ノ兵隊ニテ防戦、賊徒不少打斃、頗奮激ニ付、賊終ニ大敗、其刻又上淀川ト申所ヘ乱入ノ賊モ有之、是亦薩長両藩始、諸藩並弊藩ノ兵隊ニテ防戦、賊多勢討取、暫時ニ追散シ、同時ニ椿川ト申所ニテモ争戦、是以諸藩兵隊ニテ打払、続テ進撃、追々庄内領ヘ突入、酒田表迄討入ニ相成候処、先月十八日、賊徒惣勢俄ニ引揚、全米沢、山形、上ノ山等謝罪、先鋒歎願官軍、同様米沢口ヨリ庄内領ヘ討入ニ相成、前後難敵ヨリ、一時ニ敗散ニ相成、従テ庄内ハ素ヨリ、仙台、盛岡等降伏開城ニ相成、依テ九条殿、沢殿ニモ、領内横手ト申所迄御出陣、中将ニモ同所迄出張、醍醐殿ニモ弘前ヨリ、同八日、久保田ヘ御帰陣之趣、未巨細ノ儀、取調行届兼候得共、一ト先御届可申上旨、今般申越候ニ付、右大旨不取敢御届申上候、以上
十月廿六日
秋田中将家来 村瀬清

【羽州関川附近ノ戦】
土州藩届書写 追録
弊藩、水戸、岩国三藩相固メ候、関川四ノ峰向ヒノ峰二ケ所ヨリ、賊兵出没、樹木ノ蔽障ニ依リ、同夜発砲致シ候ニ付、水戸、岩国両藩ヘ申談、弊藩人数一分隊、砲台ヨリ砲発、一分隊嶺伝ヒ、賊ノ横ヲ突ク、一分隊谷ヲ潜行、賊ノ後口ヲ襲フ軍配ヲ以、本月廿日五ツ半時ヨリ進撃、峰伝ヒノ兵、先ツ第一峰ノ賊ヲ払ヒ、進テ二峰ニ迫ル、砲撃其間ニ乗シ、潜行ノ兵、賊砲台ノ後側ヲ攀上リ、第一ノ砲台ニ乱入、一隊長、二雑兵ヲ斃ス、賊蒼黄遁出、奇正ノ兵、北ヲ追テ第二ノ砲台ヲ奪、賊谷底ニ逃ル、我兵砲台、渓頭両所ヨリ討之、賊退テ第三峰砲台ニ上リ防禦、四方ノ賊起テ之ニ応ス、砲台ノ賊モ亦稍加レリ、此時夕陽我兵所奪之砲台ヲ撃テ、営ヲ焼キ、樹木ヲ伐引兵テ帰ル、其節弊藩死傷、且所獲別紙ノ通御座候、此段御届仕候、以上
九月廿二日
土佐少将内 前野粂之助

広瀬循

岡洲助四良 西尾純蔵
沖大次 中町兼吾
生捕
庄内隊長 武藤某<但随身小道具共> 雑兵 二人
分捕
日ノ丸大旗 一本 采配 一振
刀 二腰 脇指 三口
小銃 四挺 弾薬 三舁
酒 壱挺
以上
右之通、出先ニ於テ御届候赴、申越候間、御届申上候、以上
十月
山内土佐守内 岸本円蔵