太政官日誌・明治元年169号

太政官日誌第百六十九
明治紀元戊辰冬十二月

【泉山御参拝ノ事】
十二月十三日御布告写
還幸後来ル二十五日泉山御参拝御道筋堺町御門南ヘ三条東ヘ寺町南ヘ五条東ヘ伏見海道大仏正面ヨリ入御妙法院宮御小休同所御出輦西門七条通西ヘ伏見海道南ヘ大路橋御順路泉山着御
右之通被仰出候事

〇【守護不入ノ寺院取調ノ事】
諸国寺院之領地従来守護不入ト相唱候分政務等自ラ取行ヒ今以府藩県之所轄ニ不相成モ有之趣相聞候間右等之寺院取調早々可申出旨御沙汰候事

【出征諸藩ヘ御沙汰ノ事】
同日御沙汰書写
鍋島少将兵隊
征討出張遠路跋渉日夜攻撃到ル所〈云々〉
〈第百卅一十一月二日芸州兵隊ヘ御沙汰書同文〉

小笠原豊千代丸兵隊
久々遠路跋渉攻撃奏功既ニ東京ニ於テ〈云々〉
〈第百卅三十一月四日薩州兵隊ヘ御沙汰書同文〉

〇【病院改名ノ事】
軍務官
先般病院被為取建候処当今未タ難被行儀モ有之暫時病院之名目相止メ当分軍務官治療所ト唱候様被仰出候間此旨相達候事

〇【美作国騒擾ノ事】
松平三河守
美作国諸領入交リ政令一途ニ不出ヨリ人心不和ヲ生シ且松平右近将監御預所之郷民共頻ニ徒党騒擾之形状ニ付鎮撫使御差向被為在度申立之趣一応尤ニ相聞候得共元来朝廷之御趣意奉戴セサルヨリ政令区々ニ相成民和ヲ失ヒ騒擾ヲ醸候次第ニ付其藩ニハ高嵩ニモコレ有兼テ被仰出候府藩県一致ニ帰シ天下同軌之御趣意ヲ奉体認政治教化等一国之標準トモ相成拡充之力ヲ以テ隣並之藩々親和扶植庶民安堵候様先導可有之処無其儀只管微力不束ヲ申立再三願出之趣不被及御沙汰候依テハ前顕之次第篤ト服膺致シ藩屏之職任違算無之様可相心得旨御沙汰候事

松千右近将監
当夏五月出格之御仁恵ヲ以テ作州之内高二万七千石余其藩ヘ御預ケ被仰付厚御沙汰モ有之候処右地所百姓共庄屋村長等ノ不正ヲ申立徒党ケ間敷所業ニ至リ殆騒擾ニモ可及之勢素ヨリ其藩之不都合ヨリ生シ候訳ニ無之トハ乍申御預以来右様之形勢ニモ有之候ハヾ急速鎮撫教諭之所置モ可有之処今以恟々不穏趣ニ相聞候段全ク治教ノ不行届ニ相当候ニ付テハ被仰付之品モ有之候得共何分新附之儀ニ付御沙汰ニ不被及候間前条騒擾之趣意且村長并小前之者共正邪曲直等篤ト取糾シ一同安堵撫育行届候様可致旨御沙汰候事

【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
同十四日御沙汰書写
各通
鍋島少将兵隊
有馬中将兵隊
池田中将兵隊
池田相模守兵隊
池田摂津守兵隊
征討ニ付軍艦ニテ海路遠渉日夜攻撃〈云々〉
〈以下第百三十一十一月二日芸州兵隊ヘ御沙汰書同文〉
但春来兵事ニ付大宮御所〈云々〉
〈第百三十三十一月四日薩州兵隊ヘ御沙汰書同文〉


池田中将兵隊
征討出張遠路跋渉其労不少候既ニ於東京被為慰軍労候〈云々〉
〈以下第百三十三十一月四日薩州兵隊ヘ御無沙汰書同文〉
但春来兵事ニ付〈云々〉〈同前〉


同前 創傷之者
征討出張遠路跋渉日夜攻撃遂被創傷〈云々〉
〈第百三十五、十一月七日柳河藩兵隊ヘ御沙汰書同文〉

〇【三宝院ト栃木主計頭領地争論ノ事】
朽木主計頭
三宝院門跡ト領地争論之儀京都府ニ於テ裁評有之候間此旨相達候事

三宝院
朽木主計頭ト領地争論之儀京都府ニ於テ裁評有之候間此旨相達候事

〇【公議所開設ノ事】
万民ヲ保全シ永世不朽ノ皇基ヲ確定スルハ固ヨリ万機之政令公論ニ出ルニアリテ即御誓文ノ大本ニ候依テ当夏議政行政ノ御制度相立各府藩県ヨリ徴貢土ノ法御設ニ相成候儀即御政体之通ニ候然ル処春来兵禍引続候処ヨリ御誓文之御趣意或ハ未タ周達セサルモ有之候処当今追々四方鎮定弥前条之通広会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシトノ御趣意ヲ以今般改テ被仰出東京旧姫路邸ヲ以当分公議所ト御定ニ相成来春ヨリ開議致候様被仰出候間各彼我之私見ヲ去リ公明正大之国典確立之所ニ熟議ヲ遂ケ御誓文之御趣意ニ貫徹致候様御沙汰候事
但開議期日御規則等ハ追テ御沙汰可有之候事
諸藩公議人
別紙之通被仰出候ニ付当年之儀ハ御暇下賜候間勝手次第帰国可致候尤来正月中無遅滞東京ヘ可罷出候事
諸藩公議人過日早々東下可致旨相達候処於東京別紙之通被仰出候ニ付テハ来正月中罷下候様可致候尤未タ不差出藩々モ同様相心得正月中屹度差出可申候事

【下総八日市場ノ戦】
同日水戸藩届書写
当春国許脱走之奸徒去九月廿九日夜ヨリ十月三日暁迄二日三夜之間城下ヘ侵入之節姦徒敗走ニ付追討トシテ出張ノ人数同七日下総国迊瑳郡八日市場ニ於テ合戦ノ砌味方死傷并姦徒討取之儀其砌不取敢概略御届申上置候処此度委細取調別紙ノ通報知御座候間此段御届申上候以上
十二月十四日 徳川中納言家来 大野謙介
戦死
里見平三
萩谷理右衛門
菊池五郎右ヱ門
望月新十郎
佐藤平三郎
福田十兵衛
皆川源吾
武石伝之允
初瀬兵太夫
雨宮新助
江幡定右衛門
大森左平治
前野安次郎
堀口蔵吉
赤須隆三郎
児玉市之允
滝川金太郎
塙与市
潮田猟之介
三田寺秀太郎
小田次郎
川又捨吉
馬場雄四郎
石井新之介
佐藤彦七
萩留蔵
塀和善之助
宮部万三郎
関忠之允
荻谷伝衛門
清水捨吉
小池泉三郎
木下清吉
関俊之介
宮田清三郎
中根八之介
和田鉦吉
荒蒔内蔵介
明根恒右衛門
照山庄三
蔀捨五郎
佐藤正介
西野泰次郎
小貫竜之介
山口佐吉
大曽根金之介
郡司捨吉
植田庄八
藤三郎
家老松平安房家来 山崎亀太郎
卯兵衛
仙助
家老山野辺主水正家来 細谷八三
谷田川万
岡田弥八郎
村岡常之允
鯉淵村 清光院隠居
参政興津市郎兵衛家来 市兵衛
小野村百姓 源五郎
石上外宿村百姓 助七
手負
中村彦之進
矢野唯之允
戸村惣大夫
江幡虎吉
杉原源蔵
塙左五郎
大山鉄蔵
武藤貞四郎
増山理左衛門
矢野四郎左ヱ門
吉田伊之介
師岡猪之允
松本兼太郎
菊池勇之助
鈴木金次郎
青木栄次郎
益子左一郎
鵜飼喜三郎
白石又右衛門
大山虎松
和田政之允
大関彦七郎
兼子与四郎
板橋善三郎
伊藤秀五郎
吉成恒次郎
大古健五郎
国友忠三郎
信木丑之助
林長五郎
佐久間貞助
大内孝太郎
柏淳平
西安三郎
浅沼八十吉
江幡吉五郎
今井平三郎
浅川安之允
小泉藤三郎
高林平内
白井八太郎
小田倉竜之允
小沢彦四郎
松葉亀吉
佐藤梅吉
松本善次衛門
間々田金三郎
蓮沼又四郎
飯島祐蔵
横倉秀五郎
菊池孝五郎
山中政介
田所長十郎
寺門忠一郎
玉川福蔵
岡田弥七
畠山権次郎
関本豊吉
村岡幸七
斎藤六右衛門
安藤津右衛門
石川清兵衛
岡部三八郎
小沼錫之助
藤田藤太
小沼亭介
福田三右衛門
河西織部
柳下啓助
多寺菊太郎
川崎惣太
樫村進之介
山本善次
鬼沢安之介
矢島林助
相沢熊蔵
加治権次郎
駒田亥之助
江橋善蔵
一瀬源太郎
佐藤幸之助
綿引郡次右衛門
江原与三兵衛
寺門俊助
岡部忠三郎
金沢悦之介
清厳寺
安達善之進
細谷蔵太
早川吉右衛門
滝田秀之助
小田倉六左ヱ門
永作安之助
田崎清介
河井伴次郎
栗原啓蔵
高畑源十
雨具藤兵衛
関内宇之衛門
村田彦四郎
木内冨吉
五十嵐彦兵衛
島崎新三郎
石川誠之助
関沢鉄太郎
山崎山十郎
木村平兵衛
岡山卯之次郎
長山勇次郎
小田野誠六郎
室田市之介
小林孝太郎
柳町嘉七
耀町清蔵
和田芳吉
駒柳清之助
沢畑惣兵衛
伊沢芳五郎
大戸喜八
安藤捨蔵
大助
下伊勢畠村百姓 三蔵
石塚村百姓 喜兵衛
清之助
平兵衛
藤七郎
重次郎
孝蔵
右之内前御届書ニ所載人名今除之
討取
市川安三郎
鵜殿内匠
太田源五郎
生駒誠蔵
河合伝次
村松信蔵
野沢藤太郎
佐々木雲八郎
藤咲小右衛門
宮田介太
小田部壮三郎
猪飼伝右衛門
佐々八三郎
大久保久八郎
宇田川松之介
中川任一郎
中沢寅一郎
小島為四郎
田島重次郎
高倉常五郎
戸村三郎四郎
滑川惣四郎
黒羽鉄五郎
生井岸次郎
小貫要介
庄司誠一郎
長山徳十
藤田卯之助
磯崎二郎左エ門
茅根善吉
岩沢政五郎
滝徳太郎
田崎年次郎
菅谷貞蔵
小泉幾太郎
打越所一郎
目黒安次郎
安部弥吉
渡辺織之介
森山友右衛門
久保曽右衛門
高野金蔵
高野金七
高野田右衛門
長沢亀之助
木村兼吉
大沼平蔵
市毛子之吉
儀三郎
藤太郎
孫四郎
孫七郎
大介
孫兵衛
捨吉
啓次郎
源之助
善八
忠助
栄吉
与六
貞介
市兵衛
元吉
豊蔵
新八郎
藤之助
熊五郎
吉五郎
千次郎
源四郎
桂次郎
誠一郎
維三郎
久米吉
清次
外ニ首三十六級姓名不相分
生捕
渡辺伊右衛門
生熊丑之介
鯉淵幸蔵
島崎左介
川崎六郎
木村弥一右エ門
松本長右衛門
田崎謙次郎
久兵衛
下総国匝瑳郡八日市場ニテ討取之
討取
佐藤主税
佐藤酉之助
冨田理介
生井松次郎
橋本小三郎
丹下音蔵
大久保貞蔵
大高孫兵衛
山田惣次郎
友部徳之介
綿引隆三郎
春山宗七
鈴木欣一郎
佐藤留勇
外ニ首十級討捨七人生捕一人
生捕
関八太郎
上彦四郎
千葉重兵衛
討取
高久彦三郎
笠間ニテ召捕之
安仙之助
大高熊之助
弘道館ニテ討取
松田半左衛門
弓削左内
生井秀三郎
久留米藩ニテ討取
朝比奈友次郎
大嶺惣七郎
河合子之吉
小山金平
川崎某
小松崎某
右之内前御届書所載人名今除之
以上

太政官日誌・明治元年168号

太政官日誌第百六十八
明治紀元戊辰冬十二月

【松前藩戦記】
十二月十二日松前藩届書写
去十月十八日徳川脱走賊艦鷲ノ木村ヘ揚陸函館府ヲ陥没同廿五日知府事清水谷侍従殿津軽青盛ヘ賊鋒御避被成候後十一月朔日何国之船ニ候哉軍艦一艘福山ヨリ東南白神洋ニ見エ候付熕台ヨリ号砲相発候処右軍艦忽然津軽藩旗章ヲ指立候故発砲暫差扣居候処右軍艦次第ニ漕寄港内一周二十町程之距離ニテ福山城ヘ一声砲発又忽然旭日之旗章指立候ニ付右旭日之旗章ニ対シ砲発如何ト遅疑仕候得共定而賊徒之点計ト見切候間則城外三熕台ヨリ一時打出候処賊艦ヨリモ打出双方砲戦中敝藩十八斤長熕賊之艦腹ヲ貫キ火焔忽漲起四十八斤長熕賊之艦舳ニ中リ賊艦殆ト傾覆困厄之体ニテ遁逃白神岬ヲ過ル時僅ニ一声砲発其侭遠洋ニ去夫ヨリ右賊艦同日未之上刻福山ヨリ五里福島村海岸ヘ又々相迫リ候ニ付此所兼々出張守居候敝藩陣代蛎崎民部総隊長鈴木織太郎両人尽力防戦申之下刻頃賊艦竟ニ敗走ニ及ヒ候
同夜賊陸軍先鋒百五十人余知内村出立ハキチヤリ迄侵入候ニ付敝藩隊長渡辺虁二副隊長目谷小平太一小隊ヲ引卒小舟ニ棹サシ小田西村ヨリ上陸間道進撃暗夜ニ乗シ知内村賊之宿陣所ヘ忍込戸間板隙ヨリ透見候処賊徒十分解怠酣飲之体ニ付臨機之計ヲ以高声ニ大隊進メ指令ヲ掛ケ一時砲発続テ短兵急接討入候処賊徒周章狼狽暫時ニ六十人余切倒申候内ニ金帳紫衣之者アリ此者賊中長官之者ニ候哉又外国人二人死骸アリ此者仏人之由其他賊徒手負之者多分有之候様子味方十分之勝利ヲ得路ヲ旧路ニ取引揚申候
抑今般戦争之儀者賊軍三千有余人敝藩人数僅ニ七百余人之内所々分配守禦有之朔日ヨリ十五日迠十戦以上ニ候エ共三百人ヲ以対戦仕候者唯一度ニテ其他者小人数ニテ窮戦仕候事故賊之首級ヲ収并分取等ニ不及且味方人数死傷之儀モ未タ分明ナラス何レ後日取調之上委曲可申上候エ共先以相知レ候而已不取敢御届奉申上候間毎戦此意味ヲ以御照覧奉希上候右戦争中死傷左之通
戦死 銃卒 荒井幾三郎
深手 三浦此治
手負 副隊長 目谷小平太
銃卒 三浦清八郎
浅手 銃士 浅利宇八郎
銃卒 穂高長蔵
海野兼三郎
同二日福島ヨリ二里程東一ノ渡ヲ十五町許相隔野戦砲台築立三斤短迦農一挺百目筒一挺都合二門備置賊兵相待候処賊徒先鋒多人数襲来ニ付且戦且退十分引寄短迦農ヨリ十五六連放多分打倒候処賊辟易之体ニテ道ヲ転シ山手ヨリ押来候ニ付是又奮戦仕候エ共賊勢増加敝藩少人数防戦行届兼福島村内山崎ト申所迠繰上申候
同日申ノ下刻賊兵三百人余再度同所ヘ押来候ニ付敝藩一小隊槍剣隊両隊及百目筒一挺備置頗防戦候エ共衆寡難敵福島村迠引揚申候其日之討死左之通
討死 安田純一郎手農兵 治助
同 一人
同夜酉之中刻賊徒一手者山崎ヨリ山之手相廻リ一手者河筋通陸続同所ヘ来撃ニ付総隊長鈴木織太郎手二小隊山崎ヨリ引揚候人数ト合併三小隊ニテ苦戦中賊徒ヨリ放火致サレ不得止人数引揚候其夜死傷左之通
戦死 士 宮島承之丞
手負 総隊長 鈴木織太郎
徒士 吉村源一郎
同四日賊徒乱進吉岡辺村落放火仕候
同五日賊脱艦二艘福山港ニ相迫リ陸地者福島村ヨリ山道ヲ経テ女山ニ出野越并及部両度ヨリ絡繹侵入候ニ付連闘苦戦之折柄城中号令粛然上下一致社稷ト存亡ヲ与ニセント決定有之候処隊長安田拙造父子ナル者アリ妄ニ賊兵之強大ニ仮託天朝恩賜之封土ヲ捨祖先万艱之城地ヲ忘レテ於江刺志摩守ヘ慫慂他境ヘ移遷之事件取計紛々相唱候ニ付激昂死憤之勢ニテ防戦罷在候士気モ為之一時怠惰反テ瓦解土崩之勢ヲ醸成ニ至候ニ付城中勤王有志之長鈴木織太郎田崎東等数人江刺ヘ趣拙造父子ヲ誅戮仕候隙賊徒則是虚ニ乗シ切迫攻撃候ニ付空敷敗軍ニ及ヒ候其節賊徒小舟ニテ及部村海辺ヘ漕寄候処此所ニ備置候野戦迦農六門ヲ以打出候初弾賊之小舟ニ中リ覆没舟中之賊残リナク溺死仕候右様憤励相働候エ共人疲レ勢屈シ遂ニ自焼落城ニ及ヒ候段奉恐入候仕合私共ニ於テモ遺憾難尽奉存候右落城之節死傷左之通
於城中切腹 隊長 田村量吉
戦死 蛎崎竜衛
士 蛎崎吉右衛門
砲台掛 池田修也
医師 藻崎自然
銃創ヲ負切腹 銃卒 難波藤次郎
深手 士 枚田津盛
手負 斥候 岡田耕造
戦士 蛎崎勘之丞
銃卒 佐藤繁次郎
熊谷延太郎
鈴木和作
浅手 戦士 駒木根千次郎
士 因藤洋次郎
同十二日暁七ツ時義馬内固ノ所ヘ百姓体之者三人僧一人合テ四人関内ヘ入候ヲ取押吟味之処賊ノ間諜ニ相違無之依テ直様斬首仕候内賊兵三百人程直ニ襲来ニ付守兵十七人ニテ苦戦防禦仕候エ共衆寡難敵防戦之術極リ候付人数引揚申候右戦争中死傷左之通
戦死 足軽 四人
手負 同上 一人
同十四日敝藩三小隊ニテ大滝之険ヲ固メ候処払暁賊徒四百人程攻掛候ニ付隊長氏家丹宮尽力防戦仕候エ共賊徒間道ヨリ山上ヘ押登挟撃仕候ニ付防戦難相叶人数引揚申候右戦争中死傷左之通
戦死 隊長 氏家丹宮
徒士 田中作右衛門
手負 足軽 四人
同日午時鶉村ヘ義馬内ヨリ押来候賊徒両手ニ相別レ一手者三百人程鶉村ニ屯集一手ハ館村ヘ押ユキ候ニ付今井奥之丞手二小隊南之山ヨリ進軍一手ハ水牧梅于手二小隊北山ノ手ヨリ押向候一時挟撃仕尤南ノ方ヨリ押向候一手ハ地勢モ宜ク十分挟撃仕候エ共北ノ方ヨリ差向候一手者地形甚不宜苦戦仕候趣尤午ノ上刻ヨリ申ノ上刻迠戦争仕候故弾薬尽果難渋之折柄賊之別手一小隊山腰ヨリ帰路ヲ絶切候ニ付人数引揚申候此戦争中死傷左之通
戦死 水牧梅于隊徒士 西村定次郎
銃卒 小林甚兵衛
従者 寅吉
深手 徒士 岡羊平
手負 同 石川新吉
同日義馬内ヨリ押来候一手ノ賊徒三小隊程館村ヘ押来候ニ付敝藩人数五十人ニテ防戦刻苦尽力仕候処賊徒鶉村之方ヘ敗走仕候此戦争中討死左之通
戦死 鈴木久五郎隊 三浦巽
同十五日志摩守儀病養中押而出馬指揮尽力仕候エ共諸手之形勢切迫ト相成尤其以前館村本営ヘ三小隊差置謀士三上超順隊長今井興之丞尾山八百里増田鞁平等相守居候ニ付一旦右ヘ引揚防戦社稷ト存亡ヲ与ニ可仕儀上下一決ニ付鶉村之賊軍為押兵隊差向候処館之本営ヘ賊軍三百人程厳敷相逼候ニ付勉励苦戦仕候エ共追々賊勢増加遂ニ本営没落仕候趣注進有之而已ニテ戦争之始末死傷等詳ニ相知レ不申右様諸手敗軍館本営モ没落可拠之険要無之且江刺表近海ニ者賊艦砲声雷動陸地之賊軍大挙之気色相見エ形勢差迫候ニ付俄ニ虫村柵門ヘ押之人数隊長水牧梅于池田繁右衛門其外諸隊合併二百人余残置志摩守儀者五小隊召連深夜積雪ヲ冒シ俄虫村引揚乙部村着陣翌十六日ヨリ三日程ニテ熊石村着陣此地ニテ志摩守始老少并家来共伏剣四歳ニ相成候嫡子勝千代儀者民間ニ潜匿為致候儀既ニ決断仕候エ共再相考候処四百年来世々相守候封土一朝賊有ト相成侯テハ上奉対天朝重々奉恐入候儀故小ヲ曲テ大ヲ伸ルノ儀ニ従ヒ天兵御進撃奉懇願再挙回復可仕ト上下議論決定新田主税兵隊三百人余差残シ志摩守并勝千代其他老少相携家来七十人余召連去月十九日夜熊石村ヨリ出帆同廿一日夜津軽領平館ヘ落船弘前迠罷越薬王院ニ謹慎罷在候此段奉申上候以上
十二月十二日 松前志摩守家来 石川七郎

太政官日誌・明治元年167号

太政官日誌第百六十七
明治紀元戊辰冬十二月

【秋月藩負傷兵ヘ御沙汰ノ事】
十二月九日御沙汰書写
秋月長門守兵士 森喜一
征討出張遠路跋渉日夜攻撃遂被創傷〈云々〉
〈第百丗五柳河藩ヘ御沙汰書同文〉

【東京御発輦ノ事】
同日御達書写
昨八日東京御発輦被為遊候ニ付三等官已上明十日午刻恐悦可申上事

【東北諸藩ヘ金札御割渡ノ事】
同日東北諸藩ヘ御達書写
当夏御発弘相成候金札之儀東北紛乱中其地方諸藩ヘハ未タ御割渡不相成候処今般平定ニ付テハ石高割賦之内当節ヨリ御渡シ相成候間早々請取洽ク通用可致様御沙汰候事
但委細之儀ハ会計官ヘ可承合事
右之通於東京被仰出候間相達候事

【皇学所御開講ノ事】
同月十日御布告写
来十四日皇学所御開講被仰出候間宮堂上及非蔵人諸官人ニ到迄入学勉励可致候尤兼テ御布告之通三十未満小番被免之輩者専ラ勤学致候様可心掛候近来皇国之学相衰ヘ外国ヘ対シ候テモ不都合ニ付今般更ニ皇国学盛大ニ御振起被遊度思召ニ候間各御一新之御趣意ヲ奉戴シ異日国家之大用ニ相立候様一同奮発勉強可致旨御沙汰候事
但追而大学校御取建ニ可相成候得共当分之処九条家ト被仰出候処更ニ二条家ヲ被用候事
一御開講当日卯半刻参集可有之事
一衣体之儀堂上狩衣直垂地下麻上下之事
規則
一入学之儀毎月四之日ニ被定候尤入学当日可為正服束脩之儀ハ御用掛ヘ可伺出事
一入学願度輩ハ其前月廿八日迄ニ弁官事ヘ可届出之事
一元大学寮代ヘ参入之輩更不及入学式事
一毎年正月御開講日
古事記表文 講義
二七日講釈古事記
三八日同令義解
四九日会読 続日本記
五十日講釈 万葉集
一講釈 自四時至九時
一会読 同
一素読 毎朝自六半時至八時
一輪講 同自八時至七時
一対読 同於諸局随意為之
一歌詞会二之日
一詩文会七之日
右二点ハ於局中為之自七時至晩時

【朝彦元領地大津県支配ノ事】
同日御沙汰書写
大津県
江州之内朝彦元領地今般其県ヘ支配被仰付候条当年之租税ヲ始総テ管轄候様御沙汰候事

〇【遠州水害御賑恤ノ事】
各通 井上河内守
太田備中守
田沼玄蕃頭
西尾隠岐守
今般遠江国徳川亀之助ヘ被下置候得共未タ引渡之場合ニモ不立到候処水損之窮民眼前無依所兼テ被仰出候朝廷御賑恤之御趣意不致徹底候ニ付於会計官差向キ御救助被成下候御評議ニ候間其藩ニ於テモ故領之儀厚ク相心得引渡相済候迄精々尽力可致御沙汰候事
〇徳川新三位中将
今般石高拝借被仰出候上ハ其藩七拾万石七十万両拝借被仰付筈ニ候処遠江国天竜川近傍当年之水害ヲ被リ窮民無依所眼前難拾置趣ニ相聞候ニ付其藩引渡相済候迄之処於会計官右窮民為救助金四万両御立替ニ相成候間此段相心得候様御沙汰候事
十二月

【備前藩戦記】
同日備前藩届書写
当正月西之宮出兵同二月御当地ヘ罷越東海道御先鋒被仰付東京ヘ罷越滞陣中所々分隊仕候六月ヨリ奥州路出張被仰付関田村泉湯長谷平中村二本松若松白石迄罷越同所ヨリ引揚申候尤出張中所々分隊仕候
右出張中攻撃戦争左之通
閏四月三日下総国八幡戦争
同月七日上総国姉ケ崎戦争
五月十五日武蔵国上野戦争
同月廿三日同国飯野戦争
同月廿五日相模国小田原戦争
六月廿二日奥州関田村ヨリ繰出同廿四日迄大島植田新田峠辺迄連日戦争
同月廿八日同国泉落館同廿九日矢坂根湯長谷落館堀坂平城迄一日四度之戦争
七月六日暁同国湯本宿見張番兵所ヘ襲来之賊兵即刻掃撃
同月十三日同国平城攻撃落城
同月廿九日同国二本松攻撃落城
八月廿九日会津融通寺口戦争
九月十四日同所戦争
但八月廿五日ヨリ九月廿二日迄昼夜砲戦
右之通御座候以上
十二月十日 池田侍従家来 沢井宇兵衛

一総人数六百五十七人

四百四十八人〈両総武相奥諸州ニテ数十度戦争〉
四十人〈二本松若松ニテ三度戦争〉
四十三人〈仁井町二本松ニテ両度戦争〉
七十三人〈二本松ニテ一度戦争〉
〆 六百四人
残リ五十三人 戦争不仕
右之通御座候以上
十二月十日 池田侍従家来 沢井宇兵衛

【東北平定ノ論功行賞】
同月十二日御布告写
今般東北平定ニ付賞罰之典被為挙候而一先還幸被遊度思食之処将士功勲之等級未精密取調行届兼時日遷延ニ及候間尚還幸之上速ニ褒賞之典可被挙候此旨一同可相心様被仰出候事

〇【九門内通行禁止ノ事】
諸藩士并兵卒等自今九門内勝手ニ通行又ハ参朝之行列等見物ニ立入候儀決而不相成候若要用有之候ハヽ九門外見張番所エ相届候上通行可致事

市中男女并旅人等九門内勝手ニ通行致候儀決而不相成候若無余儀用向有之候ハヽ其旨九門外見張番所ヘ相届候上通行可致且御門先通行之節立留リ見物致候儀相成不候事

〇【御発輦ニ付御布告】
去ル八日御発輦ニ付明十四日天機伺不及参朝候事
〇【宮堂上諸侯社寺用達ノ者苗字帯刀禁止ノ事】
宮堂上諸侯及中下大夫社寺ニ至迄従来京師東京大坂其他自領ニ非サル所ニ於テ用達出入等申付候者ヘ苗字帯刀ヲ許シ或ハ家来ト唱サセ候儀不謂次第ニ付自今禁止被仰出候事
但苗字帯刀格式等其家限リ内輪取扱之儀ハ可為勝手候若又其家之抱ニ無之テハ差支候向モ有之候ハヽ其管轄之府県ヘ可申出願ニ仍リ其他民籍可被差除候事

【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
同日御汰沙書写
各通 島津少将兵隊
池田侍従兵隊
振遠隊
七番隊徴兵
征討出張遠路跋渉日夜攻撃到処功ヲ奏シ〈云々〉
〈第百丗一号芸州兵隊ヘ御沙汰書同文〉
〇池田侍従兵隊
創傷之者十八人
征討出張遠路跋渉日夜攻撃遂被創傷〈云々〉
〈第百丗五号柳河兵隊ヘ御沙汰書同文〉
〇島津少将兵隊
小倉斎之丞
松元甚助
田中藤右衛門
苗田加藤太
指宿平之進
征討出張遠路跋渉日夜攻撃遂被創傷〈云々〉〈以下同上〉
〇 軍曹 伊東源助
征討ニ付四条少将参謀トシテ出張遠路跋渉日夜攻撃〈云々〉〈以下芸州兵隊ヘ御沙汰書同文〉

〇【松平右近将監ヘ御沙汰ノ事】
松平右近将監
其方家来脱走之者共去ル五月於上野山内不届之所業ニ付其方謹慎之儀伺中既ニ於東京御所置相済候上ハ不及其儀旨御沙汰候事

〇【苗字帯刀取締ニ付御沙汰ノ事】
京都府
農工商ニテ朝廷御用并宮堂上諸侯及社寺之用達等相勤候者苗字ヲ称シ帯刀ヲ致或ハ家来ト相成居候テ民籍ニ混入条理不相立儀且有名無実之職務等御廃止及其他建議之条件夫々御採用相成候ニ付御取調之上御所置可被仰出且宮堂上府藩県ヘモ御布令相成候間此段可相心得旨御沙汰候事

【大宮ヘ御機嫌奉伺ノ事】
同日御達書写
一来ル十七日宮堂上諸侯以上大宮ヘ為伺御機嫌九条家ヘ可致参入徴士之輩不及其儀候事
一此頃御布告ニ相成候大宮ヘ献上物九条家ヘ参入之儀者御仮住居中之儀ニ而今般行啓ニ付テハ別段不及献上候事

〇【天機奉伺ノ事】
天機伺之義是迄弁事宿直之当番ヘ申出候振合ニ有之候処先般弁官事分課御定ニ相成候ニ付此後奏聞伝達分課之弁事ヘ天機伺可致旨被仰出候事
但並御番諸侯日々着到退出届同様之事尤右分課当分久世前宰相中将東園宰相中将両人ニ候間同人ヘ可申入事

〇【諸願伺附札一定ノ事】
諸官ニ於テ宮堂上諸侯及其他ニ至ル迄諸願伺等差出候節御附札之体裁区々ニ相成候ニ付向後雛形之通諸官一定候様被仰出候事
(挿図省略)
御附札総テ中奉書半切ニ相認全文一事ニ渉リ候分ハ書出シ三四寸之処其上ヘ張付ケ諸件伺等之分ハ其件々之上ヘ張付候事
右之通ニ付相達候事
十二月

太政官日誌・明治元年143号

太政官日誌   第百四十三

明治紀元戊辰冬十一月

【箱館賊艦事件三】

十一月十四日松前敦千代届書写二通

去月十八日、箱館在萱部浜ヘ脱走人乗組候蒸気船六艘、人数凡二千四百人程致上陸、追々同在天野口之方ヘ赴候由ニ付、弊藩人数繰出シ及戦争死傷モ有之哉ニ付、為討手弘前并備後福山越前大野人数モ出張致シ候由、同廿三日箱館表ヨリノ注進、同廿六日横浜表ヘ相達候趣、当時在府被為在候、箱館府判事小野淳輔殿ヨリ通達有之、就テハ在所ノ儀ハ人数少ニテ心配仕候間、乍聊当地有合ノ家来共、不残早々箱館ヘ出張申付候、此段先不取敢御届申上候、委細ノ儀ハ在所表ヨリ申越候上、猶又御届申上候、以上

〈松前志摩守家来〉石川七郎

去ル三日御届奉申上候通、去月十八日箱館在ヘ脱走人上陸、大野口ノ方ヨリ押来候趣ニ付、同廿一日大野村峠下ニテ戦争ニ及ヒ、引続、備後福山越前大野并敝藩人数奮励候得共、諸手不利無拠箱館御総督清水谷侍従様并附属附ノ面々、蒸気船ニテ津軽青森ヘ御立退ニ付、久保田、弘前、福山、大野、敝藩人数モ引続同所ヘ一旦引退候由、同廿八日賊数百人海陸両道ヨリ城下表ヘ相廻リ候由、然処同所ノ儀ハ箱館表ヘ御警衛人数追々差出、手薄ノ儀ニモ候哉、是亦戦争不利遂ニ及落城候由、当時在府箱館府判事小野淳輔殿ヨリ通達有之、驚入何共恐入奉存候、委細ノ儀ハ在所表ヨリ申越次第御届可奉申上候得共、先此段不取敢御届申上候、以上

十一月七日

松前志摩守家来 石川七郎

別紙両通於東京府家来ノ者ヨリ御届申上候赴、急便ヲ以申越候間、此段不取敢御届申上候、以上

十一月十四日 松前敦千代

【○】同月十六日弘前藩届書写

去月十八日、旧幕府脱艦南部宮古浦出帆、東蝦夷地鷲ノ木村ト申処ヘ着船ニ付、裁判所ヨリ少将人数出張被仰付、大番頭木村杢之助隊頭、石郷岡廉之助中隊頭、笹権六郎隊頭、原子勘吾、手塚郡平五小隊引纏、大野有川ト申両村ヘ出張、同廿二日夜賊進撃争戦、未タ勝敗相分リ不申候得共、箱館出役之者ヨリ申達候ニ付、不取敢御届可申上旨申付越候間、此段御届申上候、以上

十一月十六日 弘前少将内 赤石礼次郎

【○】同月十七日秋田藩届書写

敝藩所持ノ蒸気艦高尾丸、去月廿五日国元出帆、兵庫港ヘ差廻申候ニ付、薩州藩田島慶蔵、土州藩井上干城、敝藩飯塚兼助外ニ英人両人乗組、箱館表ヘ同廿七日澗掛リ致候処、同所ヘ徳川脱艦碇泊致シ居候戦争後、厳重之改方ニテ兵隊乗移来候テ、一々及吟味候ニ付、右慶蔵干城賊隊ヘ為談判致上陸候処、其侭被引留艦ハ賊方ニテ相預リ申候趣、荷物之儀ハ英人ノ品ニ致シ右見世ヘ差送リ、兼助ハ辛シテ其場ヲ相免レ、便船ニテ横浜港ヘ着帆仕候ニ付、其後之事情ハ相分不申候得共、此段御届申上候、以上

十一月〈秋田中将家来〉松田銈三郎

右之通於東京御届申上候段、申越候間、御届申上候、以上

十一月十七日 秋田中将家来 村瀬清

【○】同月十九日伊那県届書写

十一月十二日七ツ時、松前表ヨリ報知有之候ニ付、為御心得至急継立ヲ以御届申上候、兼テ御総督様箱館表御陣営相成居候処、徳川之脱走軍艦三艘売船五隻、右ヘ兵隊四千人程乗組、箱館松前両所ヘ上陸致シ、去月廿六日頃、同所戍兵高鍋藩其他官軍ト三四戦モ有之、御総督様始、官軍都テ青森弘前迄引揚ニ相成候赴ニ御座候、此上佐渡、新潟、松ケ崎、出雲崎、柏崎、今町港等北越海岸筋ヘ相廻リ可申風説有之、就テハ厚ク防戦之手配無之テハ難相成、万一柏崎ヨリ海岸筋ヘ賊徒上陸致シ候ハヽ、自然信州地ヘ相進候哉モ難計、依テ此段不取敢御届申上候、以上

十一月

越後官軍軍曹米村半兵衛ヨリ別紙ノ赴報知有之候ニ付、当国中列藩并中下大夫為心得相達、非常出兵之用意并斥候等差出置、至急ノ義有之候ハヽ注進致シ置、手配可有之旨相達置申候、依テ右之一通相添御達申候也

十一月十九日 伊那県

【○】同月廿四日福山藩届書写

敝藩人数羽州船川湊ヘ着船之処、同所ヘ出張被致居候箱館御総督附役人衆ヨリ、津軽ヘ罷越ニ不及、直ニ箱館表ヘ相越候様、御達有之候事

十月十九日箱館表ヘ着船、直ニ兵隊上陸旅宿之都合致シ居候処、裁判所役人ト称シ罷来清水谷殿殊之外御喜ノ由ニテ、弾薬其外兵隊旅宿等之儀、万端引請世話可致旨申聞候得共、旧幕府ヨリ引続ノ役人ニテ些ト不審之儀有之候間、何事モ不相頼吾手ニテ万事取計候〈但兵器其外荷物等、翌廿日南部陣屋跡揚ケ、軽重隊ノ者モ不残上陸之事〉、同日徳川脱艦ヨリ箱館ヘ討入候旨、仏コンシユールヘ通達有之風聞ニ付、翌廿日箱館内町離レ尻沢村ヘ軽部半左衛門一小隊繰出、即晩尚又大野村ヘ天宇字門一小隊、下直記一小隊、岩井辰之丞大砲隊半隊繰出、廿一日朝同所ヘ着、敵兵既ニ相廻リ居、直ニ戦争ト相成候ニ付〈此時津軽大野松前等ノ藩々モ戦争ス〉、箱館ヘハ伊藤兵十郎一小隊、本間務一小隊并砲隊半隊残シ置、惣人数有川ト申処ヘ繰出、田中湊隊ハ有川ヨリ三里程手前亀田ノ五稜郭ヘ相廻、廿一日ヨリ廿四日迄引続戦争有之、廿三日夕、清水谷殿ヨリ人数引揚之御沙汰有之、同夜直ニ御出帆其節箱館ヘ相残居候二小隊半、并輜重隊之者扈従青森ヘ引取、廿四日口々出張戦争之者追々箱館ヘ引取、岩井辰之丞隊ハ相後レ五稜郭ヘ引揚、御玄関ヘ上リ候処、最早敵入込居小銃打出候ニ付、早々船場迄引揚、大隊長岡田伊右衛門始惣軍相揃候ニ付、英国船ヲ雇ヒ日暮出帆、翌廿五日午ノ刻頃、清水谷殿御引揚場所青森表ヘ着船仕候、右四日ノ戦争死傷左之通

十月廿三日戦争之節

討死

天宇門隊 内藤金三郎

梅田小太郎

真野録三

松本喜多治

千賀猪三郎

岩井辰之丞隊 柳沢友之助

軽部半左衛門隊 中村源斎

古川膳左衛門

深手

〈斥候引取掛途中ニテ死〉河合要之助

天宇門隊 石崎文蔵

中島忠三郎

〈軽部隊廿六日死〉河村秀三郎

同廿四日戦争之節

討死

斎藤勘兵衛隊 橘高助五郎

天野和忠太

赤松岩五郎

薄手

半隊司令士 菊池隼之助

右之外、斎藤勘兵衛隊ノ内手負十余人有之趣ニ候得共、姓名未詳候、以上

十一月廿四日 阿部主計頭家来 斎藤淳太郎

【○】同月廿七日小倉藩届書写

敝藩人数奥州坂下警衛被仰付候段、十月廿七日御届申上候処、同月廿五日七小隊之内三小隊若松表ヘ繰込可申旨、在陣参謀衆ヨリ被仰渡、則繰込候処、同所ニテ三小隊ノ内一小隊田島村辺一揆蜂起ニ付、同村ヘ為守衛出張仰付ラレ、且又当分人撰進退民政局ヘ出役被仰渡、則真野四郎、小沢武雄、馬場久左衛門、粟屋藤五郎差出申候、同月七日新潟着ノ処、風涛ニテ上陸ニ後レ候者十余人、同十四日夕七ツ時羽州秋田沖飛島ヘ船ヲ繋ク之処、日之丸印之軍艦二艘碇泊罷在、一艘忽砲門ヲ開キ已ニ発砲之模様ニ付、此方乗組之英国人俄ニ英国之印ヲ振立候処、砲門ヲ塞キハツテーラ一艘ニ二人乗リ来、此方船ニ乗込英人ヘ種々談判之様子、其節敝藩乗組之人数悉船底ニ埋伏、日本人ハ乗組無之段英人申聞ケ候得共、彼レ船中見廻小倉兵隊ノ水桶ニ疑ヲ生シ候様子ニ付、此桶ハ箱館ニ至リ魚積商売ニ相用候趣申答候処、左候得ハ明朝再ヒ見届ニ来ルベキ由申残、本船ニ向テ乗出申候、其後此方船ノ左右ニ千代方丸、長崎丸二艘番船仕、沖ノ方ヘ順道丸碇泊仕居候、翌朝彼ヨリ再ヒ見届ニ来ント、益船底ヘ蟄伏仕候得共終ニ不来、依テ箱館ヘ向ケ出帆之処、風波烈敷佐渡ヲ目当ニ乗出シ、同十八日能州七尾ヘ着仕候、尤英人ト談判之節秋田沖ヘ冨士山丸、開陽丸二艘繋居候ニ付用心可致旨申居候赴、七尾ヨリ早追ニテ申越候旨、若松在陣参謀衆ヘ御届仕候処、早速新発田御本営ヘ御注進ニ相成候赴ニ候

右之段、出先之者ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上

十一月廿七日 小笠原豊千代丸家来 丹村六兵衛

太政官日誌・明治元年142号

太政官日誌 第百四十二号
明治紀元戊辰十一月

【箱館賊艦事件 二○】
松前藩届書写〈五通之一〉
当月廿四日於大野村戦争之一件

敵三人打留 志村進吾
同二人打留 冨永栄八郎
右証人熊谷幸五郎
敵一人打留 中村参太郎
敵一人打留 村山剛一郎
同一人打留 〈尾見幹家来〉松太郎
右証人 新藤斧三
戦死 犬上譲次郎
〈足軽伍長〉菊地多作
〈足軽〉日角収蔵
高畑喜六
右喜六敵一人打留証人 青山兵馬
薄手〈徒士〉大場喜代吉
〈足軽〉田村文平
行衛并生死之程相分不申者如左
〈徒士〉佐々木又太郎
下国滝蔵
林宇右衛門
葛西半左衛門
萩野伴五郎
小林兵五郎
山崎才治
中津林兵衛
〈医師〉〈桜井励家来〉辰五郎
右者去廿四日朝六ツ時、東郷大野村ヘ賊兵押寄候付、同村滞陣罷在候、備後福山藩人数、越前大野藩人数、并当家人数不取敢出陣、尤当家人数ハ、同村八幡境内ヘ出張打合ニ及ヒ、接戦中死傷等前文之通ニテ、何分死骸等味方ヘ可引取、寸隙モ無之烈戦罷在候内、福山大野人数引揚ニ従ヒ当陣ヘ頻ニ打懸、不得止同社ヨリ引退両藩同様、ク子べツ川迄引払申候、猶菊地多作儀者、敵一人打留候後討死仕候
〈足軽〉三国兵一郎
右者同所出張退口之砌、武器等格別骨折持運候ニ付、此段申上候
〈士〉酒井麻右衛門
〈足軽〉北島岩平
田中為五郎
佐々木秀三
笠島末吉
津田新太郎
橋詰栄次郎
榎駒吉
右之者共、最初藤山村口ヘ出張、去ル廿三日夜大野村ヘ引取、同廿五日未明五稜郭ヘ出張、夫ヨリ箱館表ヘ引取候砌ヨリ、行衛相知レ不申候
〈足軽〉滝川豊五郎
右者足痛ニテ歩行出来兼候ニ付、同人ヨリ依願箱館定泊ヘ残シ置申候
〈足軽〉山本祐右衛門
右者箱館マテ罷越候得共、其節乗船無之候
右ハ去ル廿四日、於大野村接戦之次第如此御座候以上
十月廿九日〈松前藩〉村上温次郎
【○】大野藩届書写〈五通之一〉
十月廿日午後、福山藩并獘藩之兵隊箱館港ヘ着、同夜賊艦数艘鷲木村ヘ着、同所ヘ襲来候趣ニ付、為斥候八地頭村ヘ可致出兵旨御達ニ付、翌廿一日早天同所ヘ一小隊出張、同廿三日坂下村ヘ賊徒追々繰込、昨廿二日大川口、大野口両所ヘ出張之人数ト及戦争ニ候ニ付、為応援大野村ヘ二小隊可致出張旨御達ニ付、迅速兵隊繰出、同夜戍刻前同村ヘ到着斥候差出置候処、翌廿四日卯半剋頃賊徒同村ヘ襲来候趣報知ニ付、不取敢兵隊排列福山松前両藩ト合兵、巳ノ刻頃迄及砲戦候処賊兵多人数、且地勢不宜候ニ付三藩申談、クネべツ村迄引揚申候、然処弘前藩一小隊出張罷在候ニ付尚四藩申合、爰ニテ地勢ヲ見立攻撃可仕ト決評仕、橋向一本木村焼払、福山、松前両藩者有川ヘ出張、跡二藩ニテ探索ノ者差出軍配仕候内、夜ニ入又候斥候ノ者差出候処、山手大川村ヘ出張ノ官軍引揚候趣注進申来候、就而者山手ヨリ間道モ有之、賊ヨリ後ヲ絶切候哉モ難計ト彼是衆議中、大野口総轄ヨリ一先五稜郭ヘ諸藩兵隊引揚可申旨被相達候ニ付、四藩申合殿トシテ一小隊宛残置、追々五稜郭ヘ繰込候処、最早箱館ノ方ヘ御転陣之趣ニ付、猶同所ヘ引取申候、同廿三日前二小隊出張後、猶二小隊者箱館表御警衛被仰付、同所ニ在陣罷在候処、翌廿四日午剋過、大野村戦争之始末出張之者ヨリ致報知候ニ付、為応援、右二小隊同村ヘ出張之儀、軍務官ヘ相伺候処、其通被仰付出張之途中、亀田五稜郭ヘ兵隊繰込候様更ニ御達ニ付、七重浜村ヨリ引戻、御郭内表一二ノ御門御警衛、依命相固候内一旦箱館表ヘ総軍御引揚之旨、御達ニ付、御郭内御人数御出払後、兵隊引纏、同所ヘ引取申候、然処、津軽青森港迄御披キ之由ニ付、右藩々申談、蒸気艦ヘ乗組同廿六日当港ヘ着艦仕候、且大野村戦争之砌死傷別紙之通御座候、此段不取敢、概略奉申上候、猶巨細之儀、追而取調之上、御届可奉申上候、以上

十一月二日

隊長 土井能登守家来 中村雅之進

討死 三宅友七
手負 監察 奥田元五郎 二番小隊中 鈴木郷助
吉田金一郎 原田恒三郎
但、恒三郎、友七両人共賊一人宛打殪候
二番小隊中 金子庫次郎 三番小隊中 関口賢次同 島田活次
右賊中ヘ切込候ニ付、討死仕候儀ト被存候右之通御座候、尤賊徒数人打殪候得共、乱射中ニ付、誰打留候ト申儀者聢ト難申上候、以上

【○】福山藩届書写〈五通之一〉
弊藩兵隊五百人箱館府出兵被仰付、十月廿日同地着船、御本陣ヘ御届仕且脱艦之模様探索候処、南部領宮古港ヘ数艘碇泊罷在、遂ニ本府ヲ襲べキ姿有之、已ニ一昨十八日夜砲台沖ヘ一艘罷越、此地形勢ヲ伺候様子ニ付、諸隊戒厳ノ御達有之、津軽藩兵隊一両日前到着追々御手配ニ相成居候由、同夜御達ニ相成候ハ鷲木村ヘ賊艦三艘、砂原ヘ一艘碇泊上陸、本府ヲ伺フ模様有之、鷲木ノ南茅部嶺ハ険要之地ニ付、津軽藩兵隊ヲ以テ此ヲ守ラセ、大野藩并獘藩兵隊ハ、本府海岸ヲ守候様御達有之、同廿一日清水谷様御座所亀田村五稜郭ヲ根本トシ、本府砲台并裏手海岸尻沢部、八頭村ヲ相守、臨時御指揮ヲ相待候様御達有之、即獘藩一小隊半ヲ砲台ヘ一小隊ヲ尻沢部ヘ、大野藩ハ八頭ヘ一小隊ヲ繰出シ申候、其夜鷲木ノ賊四十人許、既ニ茅部嶺ヲ踰ヘ峠下村ヘ寄セ来リ、追追人数相増廿二日ニ至リ候得共、我兵未タ進撃ニ及ズ候ニ付、尚又獘藩之者戦地出張諸隊ヘ心添、速ニ進撃候様御達有之候ニ付、即指揮役一小隊ヲ引率シ、途中有川村ニ屯在之松前兵一小隊ヲ促シ、廿三日大野村ヘ進候処昨夜津軽藩進撃不利ニシテ引揚候由、其夜半大野藩二小隊応援トシテ大野村ニ至リ、暁ニ及ヒ獘藩小隊又到着候、今日諸隊管轄無之ニ付権判府事堀真五郎殿七重口之総轄ヲ被命、獘藩二小隊ヲ引率シテ出張、大野口之総轄ハ私ヘ被命、両道申合進撃候様御達ニ付即夜出発、廿四日六字過大野村ヘ着シ、即チ軍議ヲ決シ進撃可致ト存候処、賊已ニ一ノ渡ヘ相逼リ候旨大野藩斥候隊ヨリ報知有之ニ付、夫々手配致候内忽チ村口ヘ相迫候付、即及砲戦候処、賊ハ街巷ノ左右ヨリ逼迫、既ニ後ヲ断ントスルノ勢有之、此時獘藩一小隊ハ間道ニ在リ応援ノ路絶ヘ、僅カノ人数ニテ多勢之賊難支ニ付、不得已ク子べツ迄引揚候処、間道ヲ守ル一小隊モ引揚来候、此小隊間道ヲ守ル時、賊ノ為ニ前後ヲ断レ頗ル苦戦ニ及ヒ候、此所ニ津軽藩兵隊引揚、街道ノ橋ヲ切リ防戦之備有之、乃此地ヲ死所ト決シ応援ノ兵ヲ本府ヘ相願候処、薄暮獘藩之兵一小隊半進来、然ル処五稜郭ヨリ急使ニテ賊多勢、河汲之間道ヨリ五稜郭ニ迫リ、七重村ノ官軍五稜郭ヘ引揚ニ相成候付、此地ノ兵モ廻援候様御達ニ付、殿後ノ隊ヲ残シ追々繰出候処、重テ五稜郭ヨリ急使ニテ清水谷卿箱館ヘ御引揚ニ付、兵隊急速箱館ヘ引取候様御達有之、廿五日八字本府ヘ引取候処、清水谷卿ハ軍艦ニテ青森港ヘ御渡海、諸隊モ青森ヘ引揚候様御達ニ付、英国船ニ乗リ青森ヘ引渡候、尤七重ヘ向ヒ候二小隊同所ヘ到着候処、賊兵間モナク相逼リ民家ヲ楯ニシテ発砲候付、我ヨリモ応撃勝敗不決候故、兵ヲ分チ横撃致候処、賊不能支退散ニ付、三四町モ追撃之処賊林樹間ヨリ遽ニ突出、短兵接戦候内総轄ヨリ引揚之命アリ、五稜郭迄引揚候、此時討留之賊モ多分有之候得共、苦戦之場其侭指置候、河汲ニ向ヒシ半小隊ハ賊ニ不逢シテ引揚、尤当日死傷別紙之通御座候、此段御届申上候、以上
十一月

阿部元次郎家来 岡田伊右衛門


深手 小山金三郎
水沿小一郎
小島芳太
松本喜多治
〈右苦戦之場扶助致兼戦地ニ残置ク〉
若井忠蔵
島田吉太郎
〈右亀田病院ニ引取候処出帆至急ニテ其侭差置ク〉
田頭英之助
〈右亀田病院介抱人トシテ付置出帆ノ節其侭差置ク〉
生死不詳 中村親之助
丸岡久戴
赤松岩太郎
薄手 石崎慶吾
浜野源之介
渋谷広次郎
土肥忠蔵
右十月廿四日大野村七重村戦争之節死傷ニ御座候、以上
十一月

阿部元次郎家来 岡田伊右衛門

【○】野口大蔵書面之写
一、箱館恢復之策ハ、先便言上仕候通軍艦数艘、精兵一万其他器械等ヲ乞ヒ、大挙一時ニ追討之手都合ニテ、先月廿六日ヨリ、堀真五郎横浜ヨリ馳参居候得共、未タ左右相分不申、日々屈指相待居申候
一、松前表之儀、去朔日ヨリ賊徒逼迫同五日落城之趣、尤城ハ自焼ナリ、右報知モ有之候得共、可救応援之兵モ無之実ニ慨歎之至、事情不忍次第ニ御座候、尤箱館ヨリ当地ヘ罷越居候松前藩之人数ハ、異船ヲ借受送リ帰申候、仍君侯ハ自然右異船ヨリ当地ヘ被引退可申哉ト相考候
一、昨七日暁賊艦二艘〈回天、飛竜〉当港ヘ襲来、依之、当藩帆前船乗組ヨリ、如何ナル艦ニテ何之タメニ入港有之哉ト相尋候処、別紙ノ書面一通差出申候、因テ返書相認メ已ニ可遣之処、昼過当港出帆其儀不能候〈返書ハ長官之者一人陸ヘ呼寄候而、尚篤ト処置筋及糾問、時宜ニ寄テハ生捕、直ニ賊艦ハ打払可申手都合ニテ御座候事〉、然ニ昨夜平館ト申所ヨリ報告ニハ、昨夕七ツ頃同港ヘ来リ十四五人上陸候処、同所ニハ兵隊無之斥候而已罷在候故、直ニ斥候ヨリ及面談候処、賊之申出ニハ青森表ヘ歎願之趣有之罷越候処、風悪ク且買物有之上陸仕候段申出候由、尤上陸之人数ハ無程本艦ヘ帰リ候趣、全ク様子窺ノ為メ罷越候ト相見ヘ、重々切迫ノ場合何レ両三日之内ニハ海陸ヨリ襲来可仕ト、専防禦之手配仕居候当藩ハ海岸手広之所、是迄防禦筋不行届、第一可恐ハ此機ニ乗シ奥羽之残賊再起ニ御座候、不容易形勢ニ立至リ、速ニ大兵軍艦之御救応奉希候、
一、参謀大田黒モ未タ着船無之、万事不都合而已御座候間、参謀一人至急出張被仰付度奉祈候
一、先便追々願上候軍費金最早払底ニ付、尚更至急ニ御運送不被下候而者、進撃防禦之備モ附キ兼殆ト困窮仕候
右件々大意言上仕候以上
十一月八日 野田大蔵

【○】徳川脱艦布告書写
諸君御承知之通、我等既ニ身ヲ容ルヽノ地ナシ、去トテ降伏シテ謝スヘキノ罪ナシ、茲ニ蝦夷地ハ皇国北門枢要之地ナレハ此ニ開拓之基ヲ創メ、長ク外夷窺窬ノ念ヲ絶ントス、此旨先頃江戸府ニ於テ天朝ヘ歎願セシト雖共、允准ヲ蒙ルコト能ハズ、於是有志之輩緩急疾徐之機ヲ弁シ、自ラ此地ニ来リ、此旨ヲ箱館知府事殿ニ訴ントテ使ヲ馳セシメシニ、箱館府ノ小吏共胆小略浅、却テ不意ニ我等ヲ襲撃セリ、我等無拠兵ヲ出シテ防禦ナセシ処、渠等早クモ知府事殿ヲ伴ヒ箱館ヲ空フシテ遁去レリ、松前藩ニモ又我輩ノ所意ヲ察セス胡乱ニ兵ヲ我等ニ加ヘリ、我輩不得已是ニ抗敵セシ処、松前勢其所領之民家ヘ放火シ、加之其民人之財貨ヲ抄掠シ、其酸毒実ニ有不忍道者、遂ニ昨五日ニハ自ラ其城地ヲ焼テ悉ク逃去、我輩大ニ其疎暴ヲ怒ルト雖共、既ニ其民人ノ塗炭ニ苦ムヲ見ルニ忍ヒス、今正ニ其苦ヲ救ヲ以テ先務トセリ、我等素ヨリ松前家ニ恨ナシ、況於奥羽御列藩乎、然モ姦佞饒舌ノ輩、万一王命ヲ矯メ、妄ニ我輩ヲ撃ントテ、奥羽御列藩ノ兵ヲ涜サン者無コトモ亦計リ難シ、然ルトキハ御列藩ニモ我輩ノ冤罪ヲ愍ミ、我輩ノ素志ヲ察シ日本北門之為メ篤ク御尽力アラン事ヲ希フ、若シ然スシテ我ヲ目シテ賊トナシ、御出兵ニ及フ上ハ、無是非必死ヲ極メ防禦ノ手術ヲ設ケ候而已ナラス、直ニ其城地ヘモ相迫可申者也
十一月 徳川脱藩 海陸軍
奥羽越御列藩ヘ

【○】弘前藩返書写
御来翰致披見候、然者今般松前蝦夷地ヘ御来航之儀ニ付、段々之次第柄巨細ニ被申越、右者重大之事件ニ付卒爾ニ御答難相成、弘前表ヘ相達、其上可及御答候、猶又御書中之儀ニ付得ト御面談申度候間、御長官之方御一人御上陸被下度、不取敢如此候也
十一月

津軽青森町奉行 野呂謙吾
小山内又右衛門
徳川脱藩
海陸軍中

太政官日誌・明治元年141号

太政官日誌第百四十一
明治紀元戊辰冬十一月

箱館賊艦事件 一
〇十一月七日仕出野田大蔵書面写
箱館戦争之始末、去廿六日御届仕置候通ニ候処、諸藩戦争之次第、死傷姓名書取調、出来仕候間、別紙五通、御達仕候、外ニ官兵死生不詳者、如左
一、川汲口エ出張申付置候処、行方死生不相分
県兵山本希作隊 一小隊
一、大野口ヘ斥候トシテ差遣置候処、薄手負
箱館在住之者 萩原国蔵
一、七重口焚出場ヘ出張為致置候処、戦争ニ混乱シ、死生不相分
私兵庫ヨリ召連候兵糧方、山城屋重兵衛手代 馬蔵
右之通御座候、尚相違モ御座候者、追テ御届可仕候、以上
十一月七日
野田大蔵
○箱館府兵隊届書写 <五通之一>
十月廿日夜、賊徒共鷲ノ木村エ上陸致シ候ニ付、為斥候私共両隊、被為遣候旨、被仰付候ニ付、翌廿一日未明、亀田出発、夕刻大野村エ着致シ候処、賊徒共最早峠下村迄出張致シ居候旨、同所ニ宿陣、敵ノ動静窺候得共、何分確定難致、其上地理等モ探究不仕候ニ付、同所ニ出張罷在候弘前藩隊長エモ、其段申通シ置、篤与熟考仕候処、賊徒共追々人数等相増候様子ニテ、城山郷ノ方、山道押廻シ候程モ難計候ニ付、弘前藩エ談判、評決之上、私共両隊、同村之儀者弘前藩エ託シ置、翌廿二日払暁、城山郷ノ方エ向ケ、転陣候処、藤山郷ニテ、松前藩一小隊ニ出会、隊長志村進吾ニ面談ニ及ビ、合兵ニテ、城山郷エ着陣、極接近ノ場所ニ付、即時ニ斥候等差出、様子承リ候処、彼ヨリモ凡七八丁程ノ場所エ、伏兵潜居候ニ付、種々進撃之儀、勘弁仕候得共、何分白昼ニ者戦争不便ノ上、殊ニ弾薬等未タ運送不相成候ニ付、夜五時頃迄ニハ、兼而御差廻可有之、大砲二門、弾薬等モ参着可相成ト存候ニ付、松前藩エモ談判ニ及ビ、何レモ兵糧其外等手配致シ、右運送相待居候処、弘前藩二小隊、為応援、夜四ツ時頃着陣、同時弾薬大砲等モ運送相成候ニ付、弘前藩隊長菊地藤太夫エ面謁、寸時評決、弘前藩二小隊者峠ノ方、黒沢伝之丞亟隊半小隊、為斥候相進ミ、本道松前藩一小隊、黒沢伝之丞隊半小隊、為斥候三村兵太郎隊一小隊、大砲二門ニテ進撃峠下村入口、小高キ山迄押登リ候哉否、彼ヨリ発砲致シ候ニ付、味方ヨリモ、同時大小砲打掛、二時半許、砲戦ニ及ヒ候処、何分賊徒トモ多勢ニテ、勢ヒ難相応候ニ付、諸手エ相通シ、一先城山郷陣営迄、暁七ツ半時頃揚取、翌廿三日弘前、松前両藩エモ、再戦ノ儀談判ニ及ヒ候得共、必勝之目的無之、評定数刻ニテ、再進戦之儀ニ相決シ、大野村出張之軍監宮地正夫エ、右ノ趣申通候処、同所出張之兵隊ハ、已ニ有川村迄引揚候趣ニ付、賊徒共、右村エ入代候様相成候テハ、彼ヨリ挟打究竟ニテ、味方ニ都而不利ナル地形ニ付、諸藩隊長エモ、再談ニ及ヒ候処、何レモ尤ノ旨ニテ諸論中、賊徒トモ襲来、砲発致シ候ニ付、弘前、松前両藩トモ追々為引揚、私共両隊殿後致シ、同日八ツ半時頃引揚候処、賊徒トモ厳敷尾撃致シ候得共、撒兵ヲ以テ無難追払ヒ、七重村迄揚取候処、同所ニ権判府事堀真五郎殿、出張罷在候ニ付、都而軍議進退之義、同人ニ窺候処、一先大川村迄諸軍引揚、本営厳備之上、尚進撃致スべク旨御差図、同夜五ツ時過、大川村迄引揚、猶命令相待候処福山隊等モ参陣、翌廿四日、同人差図ニテ、山手上段、弘前藩二小隊、中段三村平太郎隊一小隊、下段福山藩一小隊、本道福山藩一小隊、黒沢伝之丞隊一小隊、大砲一門ヲ以テ、昼九ツ半時頃、七重村エ向ケ、衆軍進撃、諸手一同、砲発ニ及ビ候処、彼ヨリモ発砲、砲戦数刻ニ及ビ候内、諸隊トモ、賊徒ヨリ数拾人、抜刀ニテ切入、接戦ト相成候上、流弾如雨、寡ハ衆ニ難敵、頗ル苦戦ニテ、必死尽力応戦之内、日没ニ及ヒ候ニ付、互ニ休戦、本営大川村迄揚取、暫時休息中、賊徒共多勢ニテ、荒手入代リ候哉襲来、何分難相応、諸藩兵隊トモ、数日ノ疲兵、応援等モ無之上、諸方間道ヨリ、賊徒進入ノ報知有之候ニ付、可引揚旨、堀真五郎殿差図ニ依テ、同所殿後ノ儀、弘前藩エ託シ置、私共両隊同夜四ツ時過裁判所エ帰陣仕、其節両隊手負、打死、左之通御座候
深手
三浦平太郎隊嚮導役 前田一学 兵士 鈴木要助
兵士 影山源左衛門 兵士 川上登吉
浅手
兵士 阿部吉良司 伍長 関口八郎
右七重村戦争之節手負
浅手 兵士 高木安兵衛
右峠下村戦争之節手負
戦死
兵士 宮野園吉 建部作郎
桜清吉 伊藤為助
外ニ深入ニテ生死不相分 兵士四人 三村平太郎従者 卯八
右七重村戦争之節戦死
戦死 黒沢伝之丞隊 伍長 秋山幸太郎
深手 兵士 栗沢勝之助
浅手
斎藤順三郎 今泉善太郎
深入ニ付生死不相分 坂本八十八 坂本嘉七郎
斎藤東十郎
右七重村戦争之節、戦死手負
右之通御座候、猶巨細之義者、追而取調可申上候、以上
十月
箱館府在住隊 司令士 黒沢伝之丞
同 一番隊 司令士 三村平太郎

○弘前藩届書写 <五通之二>
徳川脱艦数艘、南部宮古ニ碇泊、頻ニ箱館府ヲ襲候勢有之ニ付、急速本府為御警衛、出張被申付、去十八日夜九時頃、附属兵隊四小隊引率、青森表出帆、翌十九日四時過、箱館エ着船、其段御届仕候処、則日谷地頭並尻沢辺エ、兵隊百五十人許ニテ、相固候様、御達ニ付、二小隊差出、翌廿日、賊兵鷲ノ木村エ上陸之趣ニ付、右兵隊大野村エ相配リ、七重峠相固候、残二小隊ハ弊藩陣屋ヘ相移候様、御達有之、私儀モ陣屋ニ罷在候処、廿一日夜九時頃、五稜郭ヘ相詰候様、御達ニ付、即刻繰詰、御指揮相待候処、賊兵既ニ七重峠ヲ乗取候ニ付、直ニ撃可致、大野村出張之兵隊ヘモ可申通旨、御達有之、大野口ヘ御監軍出張、奉願候処、廿二日四時過、宮地正夫殿、手塚修平殿御出張ニ相成候、私儀ハ七重村エ出張、裁判所兵隊ト申合、迅速進撃候様、御達有之、午刻頃二小隊引率、五稜郭ヨリ進発七重村エ到着之処、大野村ヨリ斥候来リ、同口進撃之手筈申聞候間、直様藤山郷ヘ斥候差出、本府兵隊、松前藩兵隊ハ、藤山郷本道ヨリ相進、私一手ハ山手ヨリ相廻、同時進撃之儀申合、夜五時頃、七重村出発、藤山郷村外ヨリ、山手エ進入候処、大野村並藤山郷本道砲声相響候ニ付、道ヲ急キ戦地エ相赴、夜半頃、峠下村左之山手ヲ下リ、本道ノ兵ト応合候得共、地所不宜、再ヒ山上ニ相登リ、兵隊ヲ散布シ、其節賊兵ハ低キ邱上ニ罷在、味方一層之高地ヲ相占メ、且山頂之樹間処々之凹ニ相潜ミ、賊ヲ見下シ、攻撃之処、打斃候賊兵、月ノ光ニテ相見ヘ候分不少、我兵気益鋭ク相成候得共、各道之兵隊引揚ト相見得、一円砲声絶果候ニ付、斥候差出候処、弥引揚之趣申出、外ニ応援之兵モ無之、不得已八ツ半頃引揚、藤山郷ニ到着候得者、本府兵隊並松前兵隊同所ニ罷在、再ヒ進撃之儀申談候処、兵隊意外之疲労候間、弥進撃之節、救応可致旨申述、七重村ニ引揚ク、同廿三日朝、軍川ト申所要害之場ニ付、配兵候様御達有之、同所ヘ分隊差配置、夕七字頃、砲声遥ニ響候処賊兵藤山郷ヘ相廻候趣、報知有之、追々松前兵隊繰下、継テ本府兵隊ニモ、引揚候由申出ニ付、直様七重村山手ヘ繰出シ、防禦之用意申付、兵隊布列致候内、堀真五郎殿ヨリ、大川郷ヘ引揚候様、御達有之、暮六時前、七重村所々ヘ、篝火ヲ焼キ捨、夜五ツ時頃大川郷ヘ引揚申候、其夜新五郎殿軍配ニテ、同所ヲ相固メ、密ニ軍議之上、進軍可致候間、諸道相固居候様、御達ニ付、七重口山道本道ヘ、各半小隊宛、番兵申付置、同廿四日朝、軍川エ差出置候斥候隊ヨリ、賊兵七重村ニ迫候由報知ス、其段真五郎殿ヘ御届之上、速ニ二小隊ヲ村端ニ配リ、山上ヘ斥候差出候処、御軍議進撃ニ相決、本道ハ本府兵隊、大野藩兵隊中道ハ本府兵隊、福山藩兵隊、山道ハ私二小隊ヲ以、四時頃進発、七重村ヘ着候節、両道ヨリ及砲戦、然ニ私兵隊山上エ相廻候得共、地形不宜、急ニ山ヲ下リ、賊ノ背ヘ相廻、及攻撃候処、頻ニ右之山手ヨリ横ニ廻リ、斥候之者エ発砲之上、弥々相進候ニ付、又々兵隊ヲ指揮シ、本府兵隊之備先キ二丁許之処、胸墻ト覚敷場所有之ニ付、其所ヘ屯集、賊ヲ距ルコト二十間許ニテ激戦ス、賊ハ五六人、七八人宛、分布潜伏而応砲シ、容易ニ退候体無之追々左右ヨリ相廻、発砲ニ付、本府兵隊ヘ、左手ヘ進撃候様頼入レ、福山兵隊ト共ニ、左右ヨリ攻撃候内、午刻頃ニ至リ、左右賊勢相加、味方弾薬乏ク、繰引ニ揚取候、其節殿後申付候兵隊、賊ト近ク相迫リ、進退不自由、終ニ短兵接戦、互ニ死傷有之候得共、勝利無覚東、直ニ引揚候、本道之兵ハ七時後、大川村ヘ帰着ス、真五郎殿ヘ軍議相伺候処、五稜郭ヲ根拠ト致シ、防戦之手配可致趣、尤私儀ハ大川村ニ相当リ、致殿後候様御差図ニ付、山手ヘ二小隊屯集、大川郷所々ニ捨篝ヲ焼キ斥候差出候得共、賊兵何等之物色モ無之、殊ニ風雪、兵隊頗ル疲レ候ニ付、夜五時頃、五稜郭ヘ引揚申候、然処、同所ニハ福山藩相固居候ニ付、陣屋ヘ引取、事変之節救応候様、御達有之、弊藩陣屋ヘ引揚休息ス、翌廿五日朝大野口斥候之者来リ、本府ヨリ御達有之、各藩一同引揚候趣、猶知府事殿ニハ、箱館ヘ御転陣之旨申出候間、直ニ五稜郭之模様、相伺候処、番兵而已罷在、兵隊ハ連々箱館表ヘ相廻ル、私儀ハ四時頃陣屋出発、九時乗船、同廿六日午刻、青森港ヘ到着仕候
一、大野村出張二小隊之儀、廿一日八時過、同村ヘ到着、即夜本府兵隊長ヨリ、速ニ進撃候様被申越候得共、夜中到着スルヤ否、賊情地形両不知、無余儀控居候処、其明ケ重テ被申越候ニハ、賊兵藤山道ヘ、相廻リ候趣ニ付、同所ヘ進軍可致、此地ハ可然相固居候様トノ義ニテ、本府兵隊ハ、則一ノ渡村出発之由、翌廿二日斥候差出、一ノ渡村端ヘ繰込、夕七時頃宮地正夫殿、手塚修平殿被参、即夜進撃可致旨、指揮ニ付、地形難易モ有之候得共、賊ニ先ンセラレテハ軍機ニ拘リ候間、夜四時頃進軍、稍峠下村ヘ近ツキ、斥候隊ヨリ賊之番兵ニ発砲シ、兵隊繰詰候処、賊兵引去候ニ付、弥相進ミ賊之宿陣ヘ討入ル、賊兵処々ヘ分敷、村之内外ヨリ発砲、追々賊左山手新道口ヘ、相廻リ候体ニ付、味方村之右中道之方ヘ、撒隊ニ布列、戦争ニ及ヒ候得共、何分地形不宜、一先要害之地ヘ引揚候儀、修平殿ヘ相届ケ、一ノ渡村四五町先、山手エ引揚、斥候差出置候得共、賊兵敢而不進来、翌廿三日修平殿御差図ニ付、クネべツ迄引揚申候、然処福山隊長、大野口総轄之命ヲ蒙リ、出張ニ付、前件之趣申述候処、同藩兵隊ハ大野村ヘ繰込、即夜修平殿ヨリ、大野村エ繰込候様達有之、直ニ繰入候途中、修平殿ニ行逢、追々賊徒相迫、村中之防戦無覚束候間、クネべツ村要所ニテ、防戦可致旨申談ニ付、又復引揚候処、翌廿四日朝五時過、福山藩、大野藩、松前藩兵隊共引揚候間、四藩申合、防戦之手順致シ、クネべツ村有川両橋ヲ断チ、弾道ニ関係致シ候村家ヲ焼払、松前、福山、大野三藩、有川ヲ相固メ候ニ付、弊藩兵隊クネべツ村ヘ相合シ、厳重警守候処、即夜九時頃、総轄ヨリ本府ヘ引揚候様、被達候間、各藩兵隊ヲ分チ、半ハ本府ヘ引揚、半ハ箱館ヘ引揚候
右之趣、御届申上候、死傷之儀者、別紙之通御座候、以上
十月
弘前藩隊長 木村杢之助

討死
笹権六郎手銃隊 金寅太郎 石郷岡廉之助家来 長之助
深手 同人銃隊 野沢常五郎
薄手
笹権六郎手銃隊 黒石源太郎 石郷岡廉之助手銃隊 重田一学
新組之者広瀬村 兼蔵<行方不詳>
右廿三日、箱館在峠下村戦争之節
討死
厚子勘吾銃隊 葛西文三郎 手塚郡平銃隊 石岡孫弥
深手 斥候 岡兵一
薄手
厚子勘吾銃隊 田村理門 手塚郡平銃隊 白戸尚世
右廿四日、箱館在七重村戦争之節
以上

太政官日誌・明治元年115号

太政官日誌第百十五
明治紀元戊辰冬十月

十月十七日御沙汰書二通
【○内藤若狭守ヘ下賜ノ事】
内藤若狭守
御東幸御留守中帰邑等之儀殊ニ御沙汰ニ難被及処無余儀願之通被聞食届御暇下賜且大原口援兵被免候条帰邑致候上ハ先達而御誓約被為在候御趣意ヲ奉体認家政向改正ハ勿論未ダ残賊平定ニモ不立至候ニ付弥以兵備ヲ厳ニシ在所表ニ於テ御指揮可奉待旨御沙汰候事
○【井上聞多佐渡知県事被免ノ事】
井上聞多
佐渡国知県事被仰付候処長崎府先職御用半途之儀有之候条知県事被免是迄之通判事在勤可致旨御沙汰候事
十月

【若松城下ノ戦】
同日宇都宮藩届書写
去月五日朝霧ヲ犯シ津川ヲ渡リ若松城下飯寺村辺迄打入候処賊徒両面ヨリ取包ミ発砲ニ及ヒ頗ル苦戦仕候四方敵地陣営未定日モ又晩景ニ及ヒ其上賊徒糧道ヲ絶候勢相見候付無拠若松城下へ引揚ケ一宿同六日再ヒ飯寺村へ繰出諸藩一同同所へ宿陣仕同八日朝四ツ時前南ノ方ヨリ賊徒俄ニ襲来候付中津藩并獘藩番兵ニテ暫時相防候内諸隊応援津川ノ方へ追討候処賊徒狼狽散乱ニ及ヒ其後同十四日各藩諸道ヨリ若松城へ攻懸リ候付獘藩七小隊并大砲二門夫々分配河原町外両道ヨリ相進ミ賊陣ヲ打払ヒ直ニ城内へ打入本丸ヨリ一町余東南ノ方へ兵隊ヲ敷キ持口相堅メ宿陣仕候翌十五日昼八ツ時過飯寺村津川向ヒノ方ヨリ賊徒俄ニ襲来飯寺ノ番兵長州并小倉勢頗苦戦死傷モ有之候様子ニ付獘藩八番一小隊早速援兵差出候得共戦争中飛脚差立勝負未相分由申越候高原口ニハ賊徒屯集道路通行相成兼白川口ヨリ便宜申越候ニ付長途之儀殊ニ日々之戦争ニテ遅報ニ及ヒ御届書混雑中ニテ調落モ御座候ニ付其分取調奉申上候猶又高原山辺へ賊徒屯集之由ニ付去月十九日獘藩兵隊塩原村へ繰出シ申候且又前段戦争ノ節討取生捕分取并獘藩死傷別紙之通東京ニ於テ御届申上候趣申越候ニ付此段御届申上候以上
十月十七日 戸田故越前守家来 大塚数馬
討取
長岡 長沢金太郎 首級一 六番 戸田小膳戸田鑑之進隊士 矢島雄吉
同 鳥井藤太郎 同一 八番隊嚮導 大屋真亀太
同 増井弥兵衛 同一 六番 戸田小膳戸田鑑之進隊士 内藤鏗之丞
同 山本敬太 同一 同 加藤鎬之進
同 篠田安作 同一 軍局小監察 古川和太夫
同 <山本帯刀家来 渡辺兵吉> 同一 同 本多七郎
同 山口辰次郎 同一 九番 中神銀之丞白井鐘之助隊司令士 保田織之助
同 名前不知 同一 軍局下役 伊藤房之助
同 雨宮兵吉 同一 九番 中神銀之丞白井鐘之助隊銃卒 小湊熊六
同 長島兵八大宮兵九郎山本帯刀従僕 同三 二番小隊七番小隊 之内
右去月八日於飯寺村戦争之節
生捕
長岡 山本帯刀 高二千石
銃隊頭 千本木臨吉 高百石
銃隊頭 鍬沢弥五郎 高七十石
寺田善右衛門 高七十五石
長門九郎右衛門 高四十石
松井松五郎 高卅五石
中川音三郎 高卅五石
篠崎重右衛門 高不知
足軽 茂呂橋政七 米二十俵
同 安田大太郎 米十六俵
同 吉田重太郎 米十五俵半
同 岡本勘十郎 宛行不知
山本帯刀家来 渡辺三平 高百石
同 中間 辰次
分捕
小銃 二十挺
鎗 一筋
刀 廿二本
脇差 七本
胴乱 十一
指図旗 一本
死傷
深手 二番隊司令士 西村吉内
同隊銃兵 根岸平八
山口増蔵
右去月五日飯寺村ニ於テ戦争ノ節
深手 軍局下役 松沼賢次
七番隊銃兵 太田順吉
長谷川直七
右同八日飯寺村ニ於テ戦争ノ節
戦死 八番隊司令士 篠原段六
八番隊附属 鳥居槙太郎
九番隊銃卒 小湊熊六
深手 同嚮導帰営途中死 上田佐輔
薄手 二番隊銃兵 山本多美七
同 竹内泰次郎
右十四日河原町門外ニ於テ戦争ノ節
戦死 一番隊士 小林友之進
深手 五番隊嚮導 大野五郎作
薄手 七番隊銃兵 横山昌次郎
五番隊銃卒 小林時八
同 荒井清八
同 保田啓三
同 高橋唐四郎
右同朔日大内峠ニ於テ戦争ノ節
戦死 一番隊士 中井直記
同 加藤鉞次郎
七番隊銃兵 藤代信蔵
二番隊銃兵 宮沢忠次
即死 軍局丸山善兵衛僕 兼吉
深手 七番隊銃兵 内田銀太郎
八番隊長羽太忠助僕 松蔵
六番隊士 佐藤銀之助
二番隊銃兵 黒瀬確助
同 田村子之助
同 吉川彦太郎
九番隊銃卒 石川幸次
同 吉田紋六
同 渡辺徳八
六番隊士 松岡金六
戸田鑑之進家来 山崎文之助
九番隊銃卒 荒木忠野右衛門
同 秋山重三郎
薄手 七番隊銃兵 高橋七蔵
六番隊士 小川鋭太郎
同 安東卓之允
二番隊銃兵 内田音次
桜井壮蔵家来 木村又吉
六番隊士 正木虎男
同 福井行蔵
分知戸田銀之丞内軍監附属 福井寅之丞
同 箕田碇之丞
同 宮崎兵馬
右同二日三日四日関山村ニ於テ戦争之節
八番隊長附属 山口弥太郎 〈但八月晦日於倉谷村手負九月十八日死去〉
右之通御座候以上
十月十七日 戸田故越前守家来 大塚数馬

同日人吉藩届書写三通
遠江守人数下野今市駅警固之為メ東京ヨリ繰出置候処会城攻撃被仰付出張戦争之次第左之通御座候
去四日大内峠ヲ越シ各藩栃沢村ニ着陣巳刻ヨリ進軍ス賊兵関山口ノ道ヲ挟ミ山上ニ潜伏待受候体ニ有之候間薩藩之兵左ノ山ヲ攀チ進ム宇都宮黒羽館林大砲数声相発候内薩兵已ニ進来合図ヲナシ発砲ス先鋒宇都宮館林黒羽次ニ中津今治獘藩共ニ進ム賊ヨリモ頻ニ発砲ス其声山壑ニ振フ官軍益進撃ス賊兵遂ニ敗潰関山村ヲ放火シテ遁走ス追撃シテ本郷村ニ至ル日已ニ暮ル官兵此ニ宿陣ス同五日芸州肥州大田原之兵着陣ス各藩斥候隊ヲ進メ継テ本隊速ニ可打入ト軍監之令ニ従ヒ辰上刻ヨリ各藩之兵相進ミ前軍已ニ戦争シ砲声頗烈シ賊支へ兼処々ニ放火シ走ル前軍川ヲ渡レハ本軍亦渡リ進ム材木町ヨリ道ヲ左ニ取リ西ノ原ニ軍ヲ止コト暫時各藩ノ小荷駄到着スル時賊兵人家或ハ林叢ヨリ小銃ヲ乱発ス弾丸雨ノ如シ人馬之ガ為ニ驚駭頗ル騒然宇都宮館林中津今治獘藩直ニ閧ヲ作リ撒開頻ニ発砲ス大ニ苦戦巳刻ヨリ申刻ニ至ル同六日日光口ノ糧道ヲ開ク為ニ本郷村ノ方へ可相進ト軍監之令ニ従ヒ薩州肥州宇都宮兵卜合シテ返リ進ム本郷村ニ至ル時賊兵山上ヨリ発砲ス宇都宮右ヨリ薩州左ヨリ獘藩中道ヨリ進撃ス甚苦戦ナレドモ賊遂ニ敗走ス是ヨリ大八五村ニ着シ宿陣終夜四方ヲ警守ス翌七日芸州肥州ト合シ輜重ヲ警衛シ若松城下ニ到着ス同九日ヨリ同十三日マテ肥州ト合シ天満村相固候同十四日総軍攻城ニ付肥州ト合シ柳原口ヨリ進撃シ川原町口ヲ打破リ諏訪通ニ至リ大砲護兵トシテ肥州ト胸壁ヲ守リ終夜発砲ス同十五日中津今治館林ト川内ヲ可相固ト軍監ノ指図アリ則守衛ス同十九日小倉藩へ持場ヲ譲リ日光警衛トシテ可引揚旨軍監ヨリ達シ有之乃チ中津今治ト合兵仕候
四日 深手 兵隊 菊池金英
五日 薄手 嚮導 守屋直蔵
兵隊 豊永倫左衛門
深水芳左衛門
六日 賊二人討取ル
十七日 賊一人生捕ル同党へ通款之書状携居候ニ付其侭軍監へ差出ス
右之通御座候間此段御届申上候以上
九月廿七日 人吉藩隊長 滝川俊蔵

九月五日会津城下戦争之節兵糧運送トシテ相越候処賊徒左右ヨリ烈ク発砲シテ兵隊ヲ隔絶致シ候ニ付無詮方本郷迄引揚候然処夜ニ入リ候テモ前隊之音信無之故各藩申合セ福永村へ宿陣シ終夜篝火ヲ焼キ警守ス翌六日ニ至リ賊兵益相迫リ候間各藩之兵糧方大池へ引揚ケ候付当手モ引揚ク賊徒農兵ヲ語合四山へ潜伏之姿ニ付中津今治ト申合セ倉沢迄引揚ケ同八日田島へ引揚ク探索之者差出候得共糧道未開如此ニテハ前隊食糧窮迫ト深痛心仕候折柄芸藩ハ白河口へ相運ヒ候趣承知致シ兵士上下七人兵糧弾薬等差送リ度芸藩へ依頼之上人数引分ケ置川島へ退ク翌九日早天田島ノ方ニ当リ砲声相響候ニ付中津藩申合探索之者差遣候処賊兵果シテ四方ヲ囲ミ閧ヲ作リ烈敷発砲候趣帰報ス然処兵隊モ無之応援之力不及候ニ付中津其外ノ藩ト共ニ今市ヲ指シ引揚ケ申候田島へ残リ居候七人之者芸州大田原宇都宮藩ト退キ撃ニ発砲候得共衆寡不敵山ヲ攀チ谷ヲ踰へ苦戦終ニ散乱仕候
〈味方ヲ離レ接戦討死仕候歟今ニ帰陣不致候〉 兵隊 犬童要三郎
薄手 兵隊 平川六平
右之通御座候間此段御届申上候以上
九月廿七日 兵糧方 赤坂伊賀蔵
隊長 滝川俊蔵

去月廿六日今市駅出発仕然而別紙之通所々攻撃若松城下ニ在陣之処野州出張軍監鍋島監物殿ヨリ日光表守備手薄候間中津今治申合セ急速人数引揚帰陣可仕様申来候ニ付軍監中村半次郎殿へ其由申出ツ夫ヨリ参謀衆へ伺ニ相成申候処落城之儀ハ且夕ニ有之候得者三藩共日光表へ人数操込候様御達ニ付去ル廿七日日光表へ帰陣仕候此段御届申上候以上
九月 人吉藩隊長 滝川俊蔵
右之通於出先モ御届申上候得共隊長ヨリ報知之始末不取敢御届申上候猶相違之儀モ御座候得者取調之上可奉申上候以上
十月十七日 相良遠江守家来 赤坂孫六

太政官日誌・明治元年114号

太政官日誌第百十四
明治紀元戊辰冬十月

【奥州関山三斗小屋中峠附近ノ戦】
十月十三日黒羽藩届書写其二
六月朔日朝第八字三斗小屋村出発音金村ニ一泊翌二日暁第四字同所出発午後三字大内村ヘ着然ル処高原口進軍ノ各藩最早日玉峠討破同所ニ宿陣ノ趣ニ付翌三日同所ニ相進情実承リ候処一里程隔関山村要地ニ賊再ヒ陣ヲ構前日戦争ノ処遂ニ不破凱陣ノ由ニ付大内村ニテ一同ニ相成薩藩其外両三藩打合連日戦争ノ各藩ハ休兵ノ事ニ取極直ニ同所ヘ相進候処狭隘ノ山道正面左右ノ山上ニ兵ヲ配リ厳重ニ相防候ニ付本道左右ヨリ大小砲打掛及戦闘候得共更ニ不退其内夜ニ入候ニ付五六町引退野陣相張敝藩人数ハ不残東裏手ノ山ニ為登守衛仕候
一同四日前夜番兵仕候山続関山村東方ノ山上潜居候賊兵ノ右翼ニ顕レ不意ニ打掛追々討退申候尤旋条砲二門ハ本道進撃ノ藩ニ相託シ申候午後第三字ニ至リ本道左右ノ賊兵相破関山村ヲ自焼シテ逃去候ニ付諸手相合シ本郷村ヘ繰込申候
一同五日各藩六字本郷村ヲ発大川岸迄進ミ敵情相探候処中瀬ニ番兵差置向フ岸ニ賊百四五十人潜伏ノ模様殊ニ深霧ニテ難見通大砲打掛候処彼ヨリモ聊カ及答砲候間方向ヲ定メ獘藩一小隊先鋒ニテ川ヲ渡リ賊ヘ打掛候処逃去追々諸隊続テ打渡若松城下日光街道河原町ヨリ相向ヒ候処市中所々ヘ賊火ヲ掛人数進ミ急キ候間町裏西方畔伝ヒニテ材木町裏通畑野打交リ居候地ヘ陣ヲ止メ薩藩并各藩一小隊宛中山口ヨリ着陣ノ参謀衆ヘ是迄討入候段且ハ進退ノ差図為承リ合差出候処第十字頃各藩整列不相成ヲ見透シ候哉町裏社木茂リ居候内ヨリ賊不意ニ発砲依之諸手分配砲戦暫時ニシテ打破候処又北面ノ高家棲中ヨリモ致発砲頻ニ襲来候得共是又打払暫時苦戦ノ内未陣所不相設輜重大川ヲ不渡分モ有之夫卒等ハ悉ク散乱致シ候間相纏メ候内南ノ方ヘ茂賊徒相廻リ候模様素ヨリ各藩軍議モ不行届各程ノ進退殊ニ兵糧ノ道ヲ被遮滞陣ニ相成兼候ニ付一ト先ツ城下ヘ官軍ニ合併ノ軍議取極メ夜ニ入同所ヘ繰込申候
一同六日辰ノ刻昨烏打入ノ各藩日光街道再ヒ取戻シ御軍議ノ上飯寺村ヘ相進ミ番兵仕候
一同八日小雨深霧ニ紛レ賊四百余人南ノ方薩藩宇都宮持口ヘ襲来及戦争候因テ陣営間近ニ付敝藩ヨリモ一小隊差出候猶東ノ方持口ヘモ五六十人襲来候ニ付速ニ打払申候
一十四日軍監衆ヨリ御達ニ付日光ヘ守衛ノ各藩第八字発軍河原町口ヨリ攻城弊藩大砲二門ヲ以相進諸藩口々ヨリ打入内城ヨリ四五町隔テ胸壁相設守衛仕候
右ノ条々御届申上候猶所々戦争ノ節討取分捕味方殺傷以別紙御届申上候以上
辰九月 大関泰次郎家来 出兵隊長 五月女三左衛門

賊兵討取 十六人
右三斗小屋半俵小谷三ヶ村ニテ
忽砲 一門
臼砲 二門
小銃 五挺
右三斗小屋野際半俵ニテ分捕
賊兵討取 十二人
右会津領中峠駒返坂両所ニテ
討死
一番隊長 益子四郎
手負
同隊平士 川島磊
同 伊藤弁治
右小谷村ニテ
手負
高橋亘理隊平士 波多野八郎
同 秋元倉之助
右三斗小屋ニテ
戦死
安藤小太郎隊属士 益子理右衛門
渡辺福之進隊平士 鈴木茂右衛門
兵野源太左衛門隊平士 井上鉄太郎
手負
高橋亘理隊平士 福田台助
五月女三左衛門附属 青木縫之助
右会津領中峠駒返坂ニテ
賊兵討取 八人
右関山村ニテ
小銃 五挺
右同所ニテ分捕
賊兵討取 五人
右本郷村ニテ
戦死
渡辺福之進平士 瀬々文蔵
安藤小太郎隊平士 平山文之丞
風野六之丞隊平士 井上金太郎
五月女三左衛門家来 高野忠兵衛

渡辺福之進平士 笠井伴平
安藤小太郎隊平士 福沢寅蔵
渡辺福之進隊平士 谷地辰之助
益子四郎家来 永井三代次郎
右河原町裏ニテ
賊兵討取 四人
右飯寺村ニテ
戦死
渡辺福之進隊属長 佐藤熊太郎
手負
大砲手 河久津千代之助
以下渡辺福之進隊平士 吉成松次郎
大野勇蔵
松本道之助
右関山ニテ
戦死 一番隊長 高橋亘理
手負 安藤小太郎隊平士 渡辺銀五郎
右若松城郭内討入之節
右之通御座候、以上
辰九月 大関泰次郎家来 出兵隊長 五月女三左衛門
今般別紙ノ通於東京府御届申上候趣申越候ニ付此段御届申上候以上
辰十月十三日 大関泰次郎家来 北村門平
北村鋼之助

【浪士脱藩人取締ノ事】
同月十四日御布告写三通
浮浪士之儀ニ付今般更ニ被仰渡候間右取扱方等之儀ハ軍務官ヘ委細承リ合 御趣意致貫徹候様精々可取計万一御趣意行違候義有之候而ハ其藩ノ越度ニ候条其心得可有之候事
十月
右府県ヘハ其藩ノ二字ヲ其府其県ニ作ル

近年有志之輩天下形勢不可已之処ヨリ往々藩籍ヲ脱シ四方ニ周流シ義ヲ唱ヘ難ニ殉シ百年偸惰之風ヲ一変シ大ニ国家命脈ヲ維持ス云々
此文日誌第四十九巻ニ見ユ

別紙之通被仰出候条御趣意柄奉体認銘々其籍ニ帰シ生活ノ道ヲ得候様於其官厚ク処分シ御仁恤之叡慮貫徹候様可取計旨更ニ被仰出候事
十月

【肥前藩ノ死傷】
同日肥前藩届書写二通
弊藩兵隊白川口ヨリ進軍ノ節喜連川兵隊十八人別段出張出来兼候故敝藩白川口進軍ニ相加リ出張仕度段願出候ニ付御総督府ヘ御届ノ上一同進軍仕候末九月十四日融通寺口戦争ノ節右ハ其藩ヨリ勿論御届ニ可相成候得共前断ノ末ニ付敝藩ヨリモ御届申上候以上
十月十四日 肥州藩 高木権太夫

敝藩兵隊奥羽表所々ニオイテ戦争死傷等最前御居申上候末今又左ノ通死傷有之候段出向家来共ヨリ申越候ニ付此段御届申上候
七月十一日羽州及位口戦争ノ節
手負
平士 石井大助
中島弥十郎
九月十四日会津融通寺口同断之節
即死 兵夫 一人
手負 司令官助 徳永伝太
深川源之助 従者 一人
以上
十月十四日 肥州藩 高木権太夫

【水谷弥之助知行所ノ事】
同月十五日御沙汰書写二通
倉敷県
備中小坂郡ニ有之候元旗下水谷弥之助知行所備前藩ニテ取締罷在候処今般其県ヘ支配被仰付候間請取可申旨御沙汰候事
十月
○ 池田侍従
備中小坂郡ニ有之候元旗下水谷弥之助知行所其藩ニテ取締罷在候処今般倉敷県ヘ支配被仰付候間引渡可申旨御沙汰候事
十月

【奥州慶徳附近ノ戦】
同日安芸藩届書写
弊藩人数客月初旬木曽原堂ケ峰滞陣之趣ハ兼テ御届申上候通ニ御座候処同十日諸藩卜同ク進撃弊藩二小隊左右ニ分チ〈左道隊長坂槌弥右道三村槌之丞〉此日朝夕両度戦争或ハ前面ヨリ攻撃或ハ背後ニ出半時之間厳敷発砲候処賊辟易敗走夫ヨリ慶徳松野西村ヘ宿陣追々相進ミ十六日坂下ヘ繰込并大鹿瀬口ヨリ相進候永原繁人引率之一小隊同日同所ヘ繰込申候尤坂槌弥一小隊会議所ヨリ御差図ニ付塔寺ヘ繰揚ケ槌之丞繁人二小隊臼砲二門ハ新屋敷ヨリ沖中田村迄相進居候処会津落城ニ付新発田表ヘ引揚候様達御座候ニ付引取申候并米沢口ヨリ相進ミ候三小隊若松城下ヘ繰込居候処是亦引取ノ儀御達ニ付二小隊ハ直ニ引取申候得共残遊撃一小隊ハ其侭城下ヘ守衛罷在申候此段御届申上候以上
十月五日 安芸少将内 寺西盛登
右之通於出先御届仕置候旨申越候得共尚亦不取敢御届申上候以上
十月十五日 安芸少将内 熊谷兵衛

太政官日誌・明治元年113号

太政官日誌第百十三
明治紀元戊辰冬十月

【羽州関川ノ戦】
十月十三日小浜藩届書写
弊藩出雲崎在陣之兵隊村上エ進軍可致旨依御達八月廿二日出発廿六日村上表エ着陣候処参謀伊藤伝之助殿米沢攻口之三面山ノ間道茎田岩崩エ明日繰出加州兵卜交替可致尤大砲二門内一門者外御用宛持人共村上ニ残一門可将去茎田岩崩此ヲ距四里夫ヨリ敵之屯所三面山迄五里地絶嶮運輸極難殊ニ敵三面村ヲ焼払入折戸村迄引退故一手ニテハ進撃難致先軍ヲ岩崩ニ止敵ノ動静ヲ察知シ他兵ヲ待合諸口一同進撃可致旨御達其日払暁村上進発荒屋村加州屯所迄行隊長エ茎田岩崩ノ模様ヲ尋候処大砲者勿論運輸極難且同藩出張ノ柳生戸エ不便故此ニ在陣卜被答同所加兵卜交代廿九日進発茎田エ本陣ヲ定即刻岩崩エ兵隊繰出地利点検并ニ昼夜巡邏罷在候処九月四日栃尾会議所ヨリ早々持場繰揚吉ケ原迄繰込候様御達有之即刻同所エ繰詰十三日村上中軍府ヨリ米沢降伏申出候付明日村上迄繰揚可申御達有之十四日八字引揚一字村上エ着陣候処四字中軍府参謀衆ヨリ庄内口大毎村迄進軍可致御達有之十六日進発十七日到着前以中軍ヨリ雷村エ出陣可致御指揮付暫時休息夜十一字出発道路嶮峻大砲ヲ残シ二字中継村エ着同村焼失ニ付野宿払暁関川雷村ヲ指繰出道路至難漸ク朝十字雷村エ着陣会議所エ御届申上候処至急関川エ可繰出御達有之即刻雷村ヲ発三字関川着五字ニ至中軍府ヨリ御呼出当村山上之堡塁高鍋兵卜交代可致尤今夜中ハ同藩人数少々相残候間今夜限相持ニ可致御達付即刻高鍋卜申合登山仕賊兵卜乍間遠砲戦候十九日早天持場ノ儀ハ関川中ノ要所過日三戦何モ彼ヨリ襲来此場破而者諸口難保精々尽力可致付テハ今朝ヨリ高鍋応接卜相心得高鍋ヨリモ一分隊ハ始終持出可申旨中軍府ヨリ御達ニ付尚又精々手配兵隊鋭気引立罷在候旨出先ノ者ヨリ申越候付御届申上候様若狭守ヨリ申越候以上
十月十三日〈酒井若狭守内〉河村専八郎

【会津城下ノ戦】
同日佐土原藩届書写
辰九月十五日長州薩州佐土原〈越後口ヨリ進軍之兵〉会津領青木村新屋村井出村辺屯集之賊徒掃撃候様被仰付候間即刻進軍三藩申合斥候差出候処遥ニ賊卜覚敷者見受候付旗ヲ以テ合図致シ候得共応答不致其侭逃去候付追掛及砲撃賊踏止リ共ニ砲戦烈敷処忽然卜賊之伏兵大ニ起リ手強攻来極而及難儀候得共各気力ヲ励シ烈戦ス賊兵引色ヲ顕シ候間弥以猛烈ニ攻撃スル処長兵俄ニ引揚味方孤軍卜相成リ時モ既ニ五字ニ及フ今朝九字頃ヨリノ戦ニテ人労レ弾薬乏敷相成候付不得已青木村へ引揚候処城中之賊後ヨリ襲来味方敵ヲ三方ニ受ケ極テ危ク既ニ難支相見得候処天寧寺固場ヨリ砲隊為応援来リ烈敷打立候付賊兵散乱城中ニ引退其余四方ニ散走ス此日戦争烈敷賊之死傷点検スルニ暇ナク弊藩死傷左之通
戦死
長官 新納八郎二
監軍 検本源吾
監軍 鶴田力之進
分隊長 籾木勇太郎
戦士 池田数之進
植村善右衛門
瀬戸口権太郎
立山源太郎
厚地熊太郎
大町五兵衛
佐藤平左衛門
間世田助市
原友次郎
谷山弥平次
児玉直蔵
工藤和田右衛門
鶴田力之進陪従 千太郎
夫卒 鉄蔵
深手
隊長 藤井隼人
戦士 高山権左衛門
郡山善左衛門
柳田権之助
堤宗次郎
神崎伝兵術
小野新蔵
森源太郎
図師惣兵衛
岩本善太郎
河野伊兵衛
宇宿代吉家来 林清吉
市来五良兵衛陪従 土蔵
同月十七日右村々賊徒為追討各藩進軍薩兵山之手ヨリ佐土原別隊〈平潟口ヨリ進軍之兵〉山下ヨリ当隊〈越後口ヨリ進軍之兵〉広場土州米沢長州之兵新屋井出村ヨリ進撃賊徒所々エ屯集各藩手ヲ分チ攻撃賊敗走総軍追撃之処既ニ日没ニ及ヒ不得巳青木村迄引揚此日死傷如左
深手
戦士 長友彦右衛門
検本政次郎
戦死
夫卒 吉蔵
夫卒 幸之助
右二箇条越後口進軍之者ヨリ申越候
九月十七日青木村攻撃之節死傷左之通
戦死
監軍 三雲為一郎
深手
戦士 郡司伊織〈翌十八日死〉
右一箇条常陸国平潟口進軍兵隊之者ヨリ申越候尤此隊七月廿六日三春口ヨリ進撃九月廿二日会津落城迄之間於諸所度々戦争ニ及候得共混雑中細事取調兼候付追而可申越旨ニ御座候右之通奥州出張各隊之者ヨリ申越候此段御届申上候以上
十月十三日 島津淡路守家来 冨田三蔵

【奥州三斗小屋附近ノ戦】
同日黒羽藩届書写
一大総督府エ御届左之通
慶応四八月廿一日白川表ニ於テ館林人数卜致合併休息三斗小屋ヨリ会津エ進撃可致旨依御達同廿二日館林三小隊弊藩三小隊合シテ六小隊第六字同所出発於途両藩同等ニ分隊シテ内四小隊北之陽泊リ〈行程六里余〉残リ二小隊ハ大沢泊リ〈行程四里余〉外ニ兼テ領中為取締小谷村ニ出兵之一小隊同所ニテ合兵仕候
一同廿三日北之陽一泊之四小隊猶分隊シテ二小隊ハ大丸ヲ越賊之番兵ヲ討散シ三斗小屋湯所ニ向ヒ又二小隊ハ那須村之賊兵ヲ打散シ那須岳ヲ越テ双方南北之山路昇降五里之間嶮岨之狭道辛而鉄鎖ヲ伝へ漸進ム那須岳越之先鋒僅三四伍手臼砲三門渓谷内三斗小屋村際川向エ進候処彼之番兵之報知ヲ得テ墻壁ニ兵ヲ配待居忽及砲戦漸苦戦之処大丸越之二小隊漸敵之左之山ヨリ横合ヲ烈敷打立候ニ付賊兵南北ニ散乱及敗走続テ両道之兵邑内ニ打入少々追撃仕候
一同日大沢泊リノ三小隊小谷村ニ賊一小隊程屯集報知進而及戦争忽逃去候ニ付横沢村ニ進尤黒羽表ヨリ領内為鎮撫二小隊廿二日出発瀬縫村ヘ一泊ニテ此日同所ヲ発シ半俵村ニ屯集之賊半隊程進ミ来候ニ付討散ス兼テ軍議ニ付横沢村ニ進合併シテ五小隊ニ至候直ニ同所ヲ発板室村エ進撃イタシ候処彼不戦シテ逃去申候依之又同所ヲ発那須岳右之方谷合之本道ヲ進ミ三斗小屋ニ向候得共大沢村ヨリ同所迄行程七里ニテ日没シ不得止事板室村ヨリ二里進テ浪ケ原ニ野陣仕候
一同廿四日浪ケ原ニ野陣之五小隊同所ヲ発シ三斗小屋へ繰込申候
一同日両藩合併四小隊ヲ以三斗小屋一里程隔関奥之堺大峠エ相進候処賊胸壁ヲ捨逃去候ニ付番兵一小隊ヲ残三斗小屋へ帰陣仕候
一同廿六日館林二小隊半弊藩三小隊半合併仕野際村ニ進撃之処大峠ヨリ一里程先中峠之嶮岨単行之要地ニ賊五十人程墻壁ヲ設相待居及戦争候得共彼ハ利地ニ備居候事故容易ニ不相破候間以奇兵左右之山ヨリ登リ難キヲ苦辛シテ攀登リ賊之横ヲ撃候故賊相破候ニ付軍勢ヲ纏メ再同所ヲ発一里程進候処賊又駒返坂之要地ニ二百人余大砲ヲ設置相拒候ニ付散兵ヲ以山上山下ニ相配リ打立候処終ニ大砲ヲ捨野際邑ニ火ヲ掛ケ退散仕候間同村ニ進ミ敵情相探候得共松川村其外村々ニ多人数屯集之趣味方至テ寡兵殊ニ疲労不少候ニ付惣勢相纏メ三斗小屋へ帰陣仕候尤二小隊鎮撫之兵ハ飯室村横沢村等エハ残賊運送之諸物ヲ妨候ニ付同村エ引揚鎮撫為仕申候右戦争中討取分捕味方殺傷別紙ニテ此段御届申上候以上
慶応四年辰九月 大関泰次郎家来 出兵隊長 五月女三左衛門

太政官日誌・明治元年112号

太政官日誌 第百十二
明治紀元戊辰年冬十月

仙台謝罪状写
〈臣〉慶邦、恐惶頓首、泣血奉歎願候、今般会津御征討之砌、名分順逆ヲ誤リ、於出先家来共抗官軍、奉悩宸襟候段、恐俱至極、〈臣父子〉之名分不相立、先非悔悟、今更何共可申上様無御座候、〈臣〉乍不肖モ、素ヨリ抗敵朝廷候存意、毛頭無御座候得共、全遠境隔絶之僻土ニ罷在、春来天下事情形勢モ、一々承知不仕、恐多モ厚叡慮之旨、具ニ不奉伺、遂ニ兼テ指揮不行届ヨリノ所置ニテ、如何ニモ重々奉恐入候次第ニ付此上ハ本城罷在候モ、甚奉恐入候間、速ニ城外退居、謹慎恭順、出張之隊長参謀〈臣〉厳敷謹慎申付、奉仰朝裁、闔藩誓天地勤王之外他志無御座候、就テハ同盟之列藩ヘモ一同御寛典之御所置被成下候様、冒万死、偏ニ奉歎願候、誠恐誠惶謹言
九月 藤原慶邦 在判

庄内謝罪状写
〈臣〉忠篤、恐惶頓首奉歎願候、抑家督以来世上不穏ニ属シ、主家徳川氏ヨリ江都取締被為委任、小藩素ヨリ可行届之儀ニ無御座候得共、澆季之場合、主家奉職、王土、至静ニ帰シ候得ハ、勤王之端末ト奉存、乍不及尽力罷在候処、当正月以来之事件、実ニ恐俱至極奉存候、尤勤王之儀ハ、少モ麁略不仕心得ニ罷在、早速天機伺トシテ、重役上京申付候処、御不審被為在候趣ニテ、途中ヨリ御差戻ニ相成候ニ付、猶仙府ヘ御下向之御鎮撫総督府ヘ、歎訴候為メ重役差上候処、是又御差戻ニ相成、〈臣〉ノ厳譴可奉伺様無御座、恐悚至極罷在候折柄、登京ノ蒙御沙汰、先詰之者草津宿迄罷出候処是又入京御指留ニテ罷帰、実ニ進退相究候仕合ニ御座候、〈臣〉乍不肖、元ヨリ抗官軍候意念、毛頭無御座候得共、兼テ指揮不行届且遠路僻地罷在候得ハ、今春以来之事情形勢モ不奉伺、家来共於出先奉抗王師、終ニ今日ノ形勢ニ立至リ候段、先非悔悟、措身之地モ無御座次第、重畳奉恐縮、勤王之外他志無御座、就而ハ城中ニ罷在候儀恐入候ニ付、早速城外ヘ謹慎恭順罷在、家来末々迄厳重謹慎申付、奉仰天裁候、此上闔国精々勉励、奉表勤王之実効至願ニ御座候間、未タ謝罪降伏不仕藩ヘ、先鋒被仰付被成下候得ハ、冥加至極、難有奉存候、仰願ハ何卒〈臣〉微衷御憐恕被成下、当春以来蒙御不審候処、幾重ニモ御寛典之御沙汰被成下候様、冒万死不憚忌諱奉歎願候、誠恐誠惶頓首々々
九月〈臣〉忠篤

【庄内降伏ノ事】
十月十二日越前藩届書写
酒井忠篤降伏謝罪ニ付、諸口進軍可致旨、御本営ヨリ御達ニ付、去月廿七日、鼠ケ関口越前守先隊、為進軍先ツ斥候一分隊中浜迄差出候処、賊塁ヨリ及発砲、軍事方奥山七郎太夫薄手負申候、又々夕方モ同様賊ヨリ烈敷致砲発候、右両度共不審之次第故、此方ヨリハ応砲モ不致、人数揚取、右之段中軍ヘ申進達候処、七時過ニ至リ、賊ヨリ百姓体之者一人、竿頭エ書状ヲ挟ミ持来リ候ニ付、取押承候処、鼠ケ関辺代官役中村坂右衛門ト申者、謝罪之為追付罷出候段申出、無程坂右衛門罷出、謝罪状差出、今日之砲発ハ庄内ヨリノ通達相後レ候故ニテ、不都合之至、奉恐入候段申出候ニ付、同廿八日進軍ニ相成候、右謝罪状ハ中軍ヘ指出置申候、右進軍途中、原見、奥野ト申所ヨリ、家来相沢唯之助罷帰、相達候ニ付、先此段不取敢御届申上候、以上
十月十二日〈越前少将内〉林矢五郎

【会津御処置ノ事】
鎮将府ヨリ御達シ会津御処置書写
婦女子 五百七十五人
奥女中 六十四人
今般容保事大典ヲ犯シ候得共、其方共ニ於テハ御構無之、依テ御扶助米二人扶持被下候事
兵卒之外下々ニ至ル者共
六百四十六人
従僕 四十二人
鳶ノ者 二十人
其方共御構無之、以来心得違無之様、各産業ヲ可勤者也
士分以下兵隊
千六百九人
其方共、事実弁ヘ無之者ト雖トモ王師ニ抗候段、皇国之大典不可許、依之百日謹慎被申付尚御扶助米二人扶持被下候事
士分以上兵隊
役人
軍事治官共
其方共、追而何分之御沙汰有之迄、御扶助米二人扶持被下候事
病院
手負怪我人之儀ハ、敵我之論無ク、頼ミ依ルベキ処無キ者ハ、不愍ニ被思召候、依テ精々令療養、平癒之後、各其本ニ可令帰旨御沙汰候事
同月十四日越前藩届書写
別紙御書付三通、御達御座候間、此段御届申上候様申付越候、以上
十月十四日〈松平越前守家来〉門野隼雄
九月廿五日於塔寺会議所御達シ
越前
新発田
右城中守防申渡候間、白河口官軍申合、不節制之儀無之様、可致候事
九月 参謀

九月廿六日於若松会議所御達シ
越前藩
右此涯松平肥後父子御預被仰付候条水戸藩申談、護衛可有之候事
九月

九月廿九日於若松会議所西国寺殿ヨリ御直達シ
村田巳三郎
右民政使来着迄之間、差当リ人民撫恤之典、相立候様、可致尽力候事
九月

【秋田戦況】
同日船越洋之助大山格之助ヨリ来状写
前略秋田表之儀、西南之口庄仙賊、或新徴組、江戸彰義隊等之賊暴侵、秋田城下三四里近ク迄相迫リ、薩人四百人計援兵罷越候得共、何分官軍小勢ニテ、一時ニ進撃六ケ敷、殊ニ地理間道多ク、凡二十里程之山野、神宮寺ト申川ヲ隔テ、賊兵分配、一向ニ久保田城ヘ突入ル勢、不絶、官軍防戦之貌ニ相成居候処、追々官兵相着候付、一同軍議ヲ決シ、有進無退ト血誓之上、去ル十五日以来、諸口共大進撃ニ及ヒ候処、賊大敗走、賊死傷七百余、死骸所々ニ堆キヲ相成シ居、実ニ大愉快之勝利ニ相成候、此勢ニ乗シ、官軍相進候処、賊意外ニ退キ、一時ニ庄内領ヘ馳セ込ミ候、段々探索致候処、此手之大敗走、加之ニ越後口、米沢口ヨリ、官軍攻撃ニ付、迚モ他エ出テ進撃難叶ト申事ニテ、賊大ニ狼狽ト申事ニ御座候、秋田ヨリノ官軍ハ両手ニ分レ一方清川口、一方海岸大師坂ト申嶮所ヲ打破リ、双方ヨリ鶴岡エ打入申候、仍而大師嶮之応援軍艦ニ、大師坂沖ヨリ砲発、既ニ明甘四日第十二時頃打合之軍議相決居申候、其上時宜ニヨリ、軍艦ヲ以酒田港エ突入ル積ニ御座候、唯今之勢ナレハ、不日四方之官軍鶴岡エ討入凱歌ヲ唱ヘ可申ト存候、屈指御待可被下、何分羽州之儀者、纔ニ津軽官軍エ属スル而已ニテ、他ハ夫々賊徒ト相成、南賊モ秋田領十里程侵入致候処、過日已来、国境迄ハ追退ケ居申候〈云々〉
九月廿三日