太政官日誌・慶応4年80号

太政官日誌第八十
慶応四年戊辰秋九月

九月七日御沙汰書写三通
秋田中将
其方儀、祖先勤王忠節之遺志ヲ承述シ、闔藩奮起、賊中ニ孤立シ大義ヲ唱ヘ賊使ヲ戮シ、自ラ出馬醜類ヲ進撃シ、近隣諸藩ヲ鼓舞セシメ候趣、達宸聴叡感不斜候、依之別紙之御二品賜候、益以諸軍ト戮力、賊巣ヲ平ケ、速ニ可奏成功様御沙汰候事
九月
別紙
御召古
冬御直衣 一領
御剣 一口
以上
○九条左大臣
今般箱館表ヘ兵隊御差向ニ相成候ニ付、沢三位、醍醐少将両人之中一人、為総督出張可為致並参謀、軍監等撰任、令引連候様可取計旨御沙汰候事
但久我大納言ヘモ同様御達ニ相成候間、申合可取計事
○久我大納言
今般箱館表ヘ以下同文
但九条左大臣ヘモ同様御達ニ相成候間、申合可取計事

【奥州相馬口ノ戦】
同日安芸藩届書写
奥州相馬口出張弊藩、川合三十郎隊、七月廿八日朝、奥州北田村出立、富岡駅ヘ着、夫ヨリ長州藩ト申合大砲一門繰出シ千代岡原ト申所ニ至リ候処、賊徒ニ三ケ所ノ砲台ヨリ発砲イタシ候ニ付奮激相掛リ候得共、何分賊ハ多人数、故ニ苦戦ナカラ相進ミ砲台近辺ニ相成、隊長高間省三、砲手十二三人引卒砲台ヘ乗入、賊徒ヲ切払、遂ニ熊野駅迄繰込同廿九日、熊野ヨリ浪江通進撃、途中賊徒相支候ニ付、間近ク相進、省三直ニ切込候処賊放火逃去候ニ付、直ニ新山迄繰込、八月朔日、諸藩本道、山手、浜手、夫々手配進撃、弊藩ハ本道先鋒ニテ相進候処、賊徒共浪江口ニテ大ニ防戦、殊ニ味方少人数且雨中ニテ苦戦ニ候得共、遂ニ賊ノ砲台ニ切込、追払候而浪江駅ヘ繰込申候、其節死傷左ノ通御座候趣出先ヨリ申越候間、不取敢御届申上候、猶巨細之儀ハ取調御届可申上候、以上
討死
隊長 高間省三 銃手 木村徳三郎
手負 十三人
九月七日
安芸少将家来
熊谷兵衛

【仙台藩軍師原捨右衛門ノ事】
同日備前藩届書写
奥州地戦争之趣者、追々御届申上候通ニ御座候、猶又取調候処、生捕ノ分相洩居由候間此度御届申上候
六月廿八日、泉城ヘ宿陣之節、同夜番兵巡邏之砌、賊徒遊撃隊一人、仙台藩二人生捕、翌日平城ヘ進撃之節、斬首仕候
七月六日払暁湯本見張番所ヘ、賊徒襲来之節、賊一人生捕、糾問仕候処、仙台藩出先軍師原捨右衛門ト名乗、年齢四十二歳之由、依之大義順逆申聞条処、頗悔悟之趣ニテ同藩出先早々帰順可致旨書面相認候ニ付、即平城ヘ相届申候、其後参謀衆ヨリ差図モ有之ニ付、格別ニ割腹差許候上、梟首仕候
七月十三日、平表落城之翌暁、平藩一人、仙藩一人、生捕斬首仕候
七月廿四日仁井町屯集之賊攻撃之節、前衛隊ニテ賊徒一人生捕、斬首仕候右之通御座候、以上
九月七日
備前侍従家来
沢井宇兵衛

【奥州小野、今泉附近ノ戦】
同日伊賀藩届書写二通
去月十一日、本道椎木口ノ長州隊長ヨリ応援申来候ニ付、正十二字ヨリ繰出シ椎木口関門迄急進仕候処、左手間道ヘ進候筑後藩徴兵隊苦戦ニ付、左リ間道ヘ参リ候様、頼ミ来候ニ付、賊兵則左手間道ヘ転進仕候処、小川ノ向ヒ小高キ山凡三丁許ノ間、一文字ニ散漫砲発候ニ付、一小隊ヲ顕シ発砲為仕候並二町計ノ間ヲ置キ、中村藩兵隊ヲ顕シ、弊藩一小隊ヲ奇勢ニ仕立、俄ニ発砲仕候処、賊兵大ニ周章、持場ヲ棄テ敗走仕候処ヘ、筑後藩右手ヨリ攻撃ニ相成候ニ付、賊兵六七町モ退キ屏風ノ如キ小高キ山ニ再ビ三丁許ノ間散兵仕候由ニ付、同所ヘ筑後藩押ヘノ兵ニ残シ置キ、直ニ二番ノ持場ヘ攻撃仕、林中ヲ凡四五町進候処、賊ノ方ヨリ発砲仕候ニ付、前面ニ水田ヲ差置キ、少時互ニ発抱、機ヲ見テ右手ノ山林中ヨリ、弊藩五六人、徴兵隊同様相進ミ、余ハ芸州藩同様、前面奮進仕候処、賊ノ銃丸如雨、益攻撃仕、遂ニ前面第二番ノ賊塁ヲ弊藩先登ニテ乗取申候、其節既ニ黄昏ニテ御差図モ御座候故、小野村迄引上ケ申候、右戦争ノ節、手負左ノ通御座候
深手
小隊司令士 深井武吉 戦士 神田助左衛門
同 田中政五郎
浅手
中隊司令士岡本勇家来 石橋功吾 戦士 飯田良蔵
同 森田直次郎 同 平松嘉一郎
右之通、此段御届申上候、以上
九月七日
伊州藩
去月廿日朝五字三点頃、賊襲来、駒ケ峰ノ方ニテ頻リニ砲声相聞ヘ候ニ付、弊藩モ山手、海岸、固場四ケ所ヘ兵隊分配仕候処、最早賊徒襲来発砲候ニ付、従是モ砲戦仕、第四ノ固場ハ烈敷砲戦、且短兵ニテ仕入、賊四人討取益三町計リモ進撃、猶又賊二人討取候処、二之固場ニテ小隊司令士一人戦死、第三ノ固場ニテ大砲支配一人重傷、頗ル苦戦ニハ候得共左右ヨリ烈敷発砲、十二字頃迄相戦候、何分衆寡不敵、諸手共ニ繰引ニ今泉村落台場迄引揚、後路断絶ノ憂モ有之ニ付、左後沼中之弁天山ヘモ兵隊分配仕置候処、毎々賊徒同所ヲ相伺候得共遂ニ不果、総テ浜手ヘ相廻リ候故、前条村落台場ニテ喰留メ、十二字過ヨリ夕三字迄砲撃仕候処、本道ノ方ヨリ長州藩、賊ノ裏手ヘ為応援進撃、原釜之方ヨリ加藤藩、為応援進来ニ付、三藩吶喊突入、中村モ相加リ追撃仕候処、賊徒忽瓦解ニ付、追進、海辺ニ罷在候賊之後ヲ絶切、前後ヨリ相迫候処、賊徒大ニ因窮、四十人計、海中ヘ溺死仕候様見受候、尚又海手、山手ニテ凡六十人計モ斬伏申候、右ノ外討取多分可有之候得共、何分手広ノ山嶮、巨細難相分、且時刻夕景ニモ相成、御使番ヨリ御差図モ御座候ニ付、諸藩共引揚申、原之持場ヘ番兵差置、今泉村ヘ宿陣仕候、其節死傷左之通御座候
討死
小隊可令士 服部作左衛門 侍組 野口吉太郎
岡本勇隊 田中芳三郎 服部作左衛門隊 小西角次郎
同上 石崎吉次郎
深手
大砲支配 丹羽九八郎 侍組 玉置伝八
同上 宮崎釜之助 同上 鳥井鋳太郎
同 野口銑吉 同 滋野半助
使番 田中吉三郎 藤堂仁右衛門隊 樋口辰之進
同 森菊右衛門 藤堂監物家来 松浦秀太郎
同 渡辺常太郎 岡本勇組 板倉徳次郎
同 林宗五郎 同 野田仁三郎
同 小林忠兵衛 服部作左衛門組 北村又三郎
同 川本芳松 平井東馬組 小林又次郎
同 藤井正助 同 天野亀三郎
同 松村松之助 同 大森彦之助
大砲組 西村源之進 同 毛利松之助
浅手
侍組 森川要助 同 鷹取万三郎
藤堂仁右衛門家来 吉村維之進 藤堂監物家来 西田清七
岡本勇組 松田鉄三郎 同 杉田伊三郎
同 小林音次郎 同 丸岡定次郎
小林多七 大砲組 別所佐兵衛
雑人 源八 同 徳蔵
同 初蔵
右之通御座候、此段御届申上候、以上
九月
伊州藩
奥州ニ於テ戦争ノ次第、別紙ノ通出張ノ者ヨリ相達候ニ付、此段御届申上候、以上
九月七日
伊賀中将家来
藤井鼎助

【野州高徳口ノ戦】
同日宇都宮藩届書写
去ル八月七日、風雨ニ乗シ、鬼怒川暴漲、援兵之不便ヲ計リ候哉、藤原村屯集ノ賊徒、明ケ六ツ半時前西船生村辺ヘ押寄候趣、同所道谷原見張ノ猟師一人、俄ニ注進有之候ニ付西船生村ノ内、字新屋見張所ヘ詰居候弊藩一番小隊、戸田内匠、彦坂孝次良隊士ノ内大橋亘理、大円元三郎、鳥居裕之助、鳥居鎌三郎、渡辺桂之進、大沢富三郎、石原銓次、不取敢同村地内、字新田迄出張候処、賊徒同所北ノ方松林ノ中ヨリ発砲ニ及ヒ頗ル苦戦候得共、味方人少ニ付、不得止、新屋、新田両所之間ニ有之候砥沢川迄引揚、援兵ト合進候処、弊藩十一番小隊、戸田保、鳥居章之進ノ隊、賊之右ノ方ヘ廻リ八番小隊川村多膳羽太忠助隊、同様左ノ方ヘ繰出シ三方ヨリ取包、惣兵半時程及戦争候処、賊徒一時ニ敗走、死傷ヲ担ヒ、高徳道ノ方ヘ引退候ニ付、急追候処、大渡村ヘ宿陣ノ肥前兵隊ハ賊徒等舟ヲ截流シ渡船難出来、鬼怒川ヲ隔テ道谷原辺ヘ大砲打掛ケ、味方ノ兵勢ヲ助ケ、賊徒川上ニ向ヒ引退候節、高徳口辺ヲ目当ニ頻ニ発砲ニ及ヒ候、弊藩人数ハ高徳口手前字オリ沢川迄三十町余追討候得共地理不便、伏兵ノ憂ヒ難計、且兵隊一同未朝餉不相用候ニ付、同所ヘ弊藩五番小隊、松浦東馬辻熊之丞隊卒備置、其他ハ朝四ツ時比西船生村ヘ引揚候処、無程同村地内字西小屋辺ヨリ猶又賊徒押来候趣、注進有之候ニ付、早速オリ沢口其外ヘ手配イタシ、西小屋辺ヘ兵隊操出シ候処、賊徒同所ニテ少々発砲候而己ニテ即時退散ニ及ヒ、其後高徳村ニ陣取候賊徒、大凡三百人余、死傷八九人ヲ舁キ担ヒ、不残藤原村ヘ引取候趣、注進有之候ニ付、昼八ツ時頃、兵隊不残西船生村ヘ引揚ケ申候、尤最初賊徒襲来ノ節、新屋、新田等ヘ放火、民家都合拾八軒焼失、猶又引退候節、道谷原ヘ放火、十三軒焼失仕候、西船生村ヘ宿陣ノ肥前勢二小隊ノ内、一隊ハ同宿ヲ守リ一隊ハ為応援新田迄出張、戦争ニハ及ヒ不申候、弊藩人数手負並分取、生捕等別紙ノ通ニ御届申上候趣、在所表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
九月七日
戸田故越前守家来
大塚数馬
即死 西船生村百姓 利平 治郎左衛門
手負 覚之丞
賊徒ヘ被生捕候 長左衛門
薄手 一番士分隊 大橋亘理
右之通ニ御座候、以上
九日七日
戸田故越前守家来
大塚数馬
生捕 会津蔵入百姓 夫人 亀松
臼砲弾薬箱 一ツ
内 破裂玉 三ツ フランーローケル ニツ
打薬 ホイス 細工諸道具
火門針 二本 但三番格山川隊卜札有之
右之通御座候、以上
九月七日
戸田故越前守家来
大塚数馬