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東京城日誌・明治元年13号

〓不明 くさかんむり蘷(キ)に近い字

東京城日誌 第十改十三
明治元年戊辰十二月
十二月十日松前藩届書
去十月十八日、徳川脱走賊艦、鷲ノ木村ヘ揚陸、函館府ヲ陥没、同廿五日、知府事清水谷侍従様津軽青森ヘ賊鋒御避被成候後、十一月朔日、何国之船ニ候哉、軍艦壱艘、福山ヨリ東南白神洋ヘ相見得候ニ付、熕台ヨリ号炮相発候処、右軍艦忽然津軽藩旗章ヲ指立候故、発炮暫差扣居候処、右軍艦次第ニ漕寄、港内一周、二十町程之距離ニテ、福山城ヘ一声炮発、又忽然旭日之旗章ヲ差立候ニ付、右旭日之旗章ヘ対シ、炮発如何ト遅疑仕候得共、定テ賊徒ノ黠計ト見切候間、則城外三熕台、一時打出候処、賊艦ヨリモ打出、双方ヨリ炮戦中、弊藩十八斤長熕、賊之艦腹ヲ貫、火焔忽漲起、四十八斤長熕、賊之艦舳ニ当リ、賊艦殆傾覆、困厄之体ニテ逃去、白神岬ヲ過ル時僅ニ一声炮発、其侭遠洋ニ去、夫ヨリ右賊艦同日未之上刻、福山ヨリ五里福島村海岸ヘ又々相廻リ候ニ付、此処兼テ出張守居候弊藩陣代蠣崎民部、総隊長鈴木織太郎両人、尽力防戦、申之下刻頃賊艦竟ニ敗走ニ及候事
同夜賊陸軍先鋒百五十人余、知内村出立、ハキチヤリ迄侵入候ニ付、弊藩隊長渡辺〓々、副隊長目谷小平太、一小隊ヲ引率、小舟ニ棹サシ、小田西村ヨリ上陸、間道進撃、暗夜ニ乗シ知内村賊之宿陣所ヘ忍込ミ、戸間板隙ヨリ透見候処、賊徒十分懈怠、酣飲之体ニ付、臨時之計ヲ以、高声ニテ大隊進メノ令ヲ掛、一時炮発、続テ短兵急接討入候処、賊徒周章狼狽、暫時ニ六十人余切倒申候内ニ、金帽紫衣之者有之、是ハ賊中長官之者ニ候哉、又外国人二人死骸有之、是ハ仏人之由、其他賊徒手負之者多分ニ有之候様子、味方十分之勝利ヲ得、路ヲ旧路ニ取、引揚申候
抑今般戦争之儀者、賊軍三千有余人、弊藩人数僅ニ七百余人之内、処々分配守禦有之朔日ヨリ十五日迄、十戦以上ニ候得共、三百人ヲ以対戦仕候者唯一度ニテ、其他ハ小人数ニテ窮戦仕候事故、賊之首級ヲ収并分取等ニ不及、且味方人数死傷之儀モ未分明ナラス、何レ後日取調之上、委曲可申上候得共、先以相知レ候而巳不取敢御届奉申上候間、毎戦此意味ヲ以御照覧奉希上候、右戦争中死傷左之通
手負 副隊長 目谷小平太
浅手 銃士 浅利宇八郎
戦死 銃卒 荒井幾三郎
深手 同 三浦此治
手負 同 三浦清八郎
同 同 加藤健次郎
浅手 同 穂高長蔵
同 同 海野兼三郎
同二日、福島ヨリ二里程東、一之渡ヲ十五丁程相隔、野戦炮台築立、三斤短迦農一挺、百目筒一挺、都合二門備置、賊兵相待候処、賊徒先鋒多人数襲来ニ付、且戦且退、十分引寄短迦農ヨリ十五六連放、多分打倒候処、賊辟易之体ニテ、道ヲ転シ、山手ヨリ押来候ニ付是又憤戦仕候得共、賊勢増加、弊藩小人数、防戦行届兼、福島村内山崎ト申処迄繰揚申候同日申之下刻、賊兵凡三百人余、再度同所ヘ押来候ニ付、弊藩一小隊、鎗剣隊両隊及百目筒一挺備置、頗防戦候得共、衆寡難敵、福島村迄引揚申候、其日之討死左之通
討死 安田純一郎手
討死 農兵 治助
同 同 一人
同夜酉之中刻、賊徒一手ハ山崎ヨリ、山之手相廻、一手ハ河筋通、陸続同所ヘ来襲ニ付、総隊長鈴木織太郎手二小隊、山崎ヨリ引揚候人数ト合併、三小隊ニテ苦戦中、賊徒ヨリ放火被致、不得止人数引揚候、其夜死傷左之通
手負 総隊長 鈴木織太郎
戦死 戦士 宮島承之丞
手負 徒士 吉村源一郎
同四日、賊徒乱進、吉岡辺村落放火仕候
同五日、賊脱艦二隻、福山港ニ相迫、陸地ハ福島村ヨリ山道ヲ経テ、女山ヘ出、野越并及部両道ヨリ、絡繹侵入候ニ付、連闘苦戦之折柄、城中号令粛然上下一致、社稷ト存亡ヲ与ニセント決定有之候処、隊長安田拙造父子成者アリ、妄ニ賊兵之強大ニ仮詑シ天朝恩賜ノ封土ヲ捨、祖先万艱之城地ヲ忘レテ、於江刺志摩守ヘ慫慂、他境ヘ移遷之事件取計、紛々相唱候ニ付、激昂死憤之勢ニテ、防戦罷在候士気モ、是カ為ニ一時怠惰、却テ瓦解土崩之勢ヲ醸成ニ至リ候ニ付、城中勤王有志之長、鈴木織太郎、田崎東等数人、江刺ヘ赴キ、拙造父子ヲ誅戮仕候隙、賊徒則是虚ニ乗シ、切迫攻撃ニ及候ニ付、空シク敗軍ニ及ビ候、其節賊徒小舟ニテ、及部村海辺ヘ漕寄セ候処、此処ニ備置候野戦迦農六門ヲ以テ打出候初弾、賊ノ小舟ニ当リ覆没、舟中ノ賊無残溺死仕候、右様憤励相働候得共、人疲勢屈遂ニ自焼落城ニ及候段、奉恐入候仕合、私共ニ於テ遺憾難尽奉存候、右落城ノ節死傷左之通
切腹〈於城中〉 隊長 田村量吉
戦死 大砲掛リ 蠣崎竜衛
同 戦士 蠣崎吉右衛門
同 砲台掛リ 池田修也
深手 戦士 牧田津盛
浅手 戦士 因藤洋次郎
手負 斥候 岡田耕造
同 同 蠣崎勘之丞
浅手 戦士 駒木根千次郎
戦死 医師 藻寄自然
〈負銃瘡切腹自刎〉 銃卒 難波藤次郎
手負 同 佐藤繁次郎
手負 同 熊谷延太郎
同 同 鈴木和作
同十二日暁七ツ時、義馬内固所ヘ、百姓体ノ者三人、僧一人、合テ四人関内ヘ入候ヲ取押吟味ノ処、賊ノ間諜ニ相違無之、依之直様断頭仕候内、賊兵三百人程、直ニ襲来リ候ニ付、守兵十七人ニテ苦戦防禦仕候得共、衆寡難敵、防戦ノ術極リ、人数引揚申候、右戦争中死傷左之通
戦死 足軽 両人
手負 同 一人
同十四日、弊藩三小隊ニテ、大滝ノ嶮ヲ固候処、払暁賊徒四百人程攻掛リ候ニ付、隊長氏家丹宮尽力防戦候得共、賊徒間道ヨリ山上ヘ押登リ、挟打仕候ニ付、防戦難相叶、人数引揚申候、右戦争中死傷左ノ通リ
戦死 隊長 氏家丹宮
同 徒士 田中作右衛門
手負 足軽 五人
同日午刻、鶉村ヘ義馬内ヨリ押来候賊徒、両手ニ相別レ、一手ハ三百人程鶉村ニ屯集、一手ハ館村ヘ押行候ニ付、今井興之丞手二小隊南ノ山手ヨリ進軍、一手ハ水牧梅干手二小隊北山ノ手ヨリ押向ヒ、一時挟撃仕、尤南ノ方ヨリ押向候一手ハ、地勢モ宜、十分攻撃仕候得共、北ノ方ヨリ差向候一手ハ、地形甚不宜苦戦仕候趣、尤午ノ上刻ヨリ、申ノ上刻迄戦争仕候故、弾薬尽果、難渋之折柄、賊ノ別手一小隊、山腰ヨリ帰路ヲ絶切候ニ付、人数引揚申候、此戦争中死傷左ノ通リ
深手 徒士 岡羊平
手負 同 石川新吉
戦死 水牧梅干隊徒士 西村定次郎
同 銃卒 小林甚兵衛
同 従者 寅吉
同日義馬内ヨリ押来候一手ノ賊徒、三小隊程館村ヘ押寄候ニ付、弊藩人数五十人ニテ防戦刻苦尽力仕候処、賊徒鶉村ノ方ヘ敗走仕候、此戦争中討死左ノ通リ
戦死 鈴木文五郎隊 三浦巽
同十五日、志摩守儀病養中、押而出馬指揮尽力仕候得共、諸手之形勢切迫ニ相成、尤其以前館村本営ヘ三小隊差置、謀士三上超順、隊長今井興之丞、尾山八百里、増田鼓平等相守居候ニ付、一旦右ヘ引揚防戦、社稷ト存亡ヲ与ニ可仕儀、上下一決ニ付、鶉村ノ賊軍押ノ為メ、兵隊差向候処、館ノ本営ヘ、賊軍三百人程厳シク相迫候ニ付、勉励苦戦仕候得共、追々賊勢増加、遂ニ本営没落仕候趣、注進有之而已ニテ、戦争之始末、死傷等詳ニ相知不申候、右様諸手敗軍、館本営モ没落、可寄之嶮要モ無之、且江刺表近海ニハ、賊艦砲声雷動、陸地之賊軍大挙之気色相見得、形勢差迫候ニ付、俄虫村柵門ヘ押之人数、隊長水牧梅干、池田繁右衛門、其外諸隊合併二百人余残置、志摩守儀ハ五小隊召連、深夜積雪ヲ犯シ、俄虫村引揚、乙部村着陣、翌十六日ヨリ三日程ニテ熊石村着陣、此地ニテ志摩守始老少并家来伏剣、四歳ニ相成候嫡子勝千代儀ハ、民間ニ潜匿為致候儀、既ニ決断仕候得共再相考候処、三百年来世々相守候封土、一朝賊有ト相成候テハ、上奉対天朝重ク奉恐入候故、小ヲ曲テ大ヲ伸ル之義ニ従、天兵御進撃奉懇願、再挙回復可仕ト、上下議論決定、新田主税兵隊三百人余差残、志摩守并勝千代、其他老少相携、家来七十人余召連、去月十九日夜、熊石村ヨリ出帆、同月廿一日夜、津軽領平館ヘ落船、弘前迄罷越、薬王院ヘ謹慎罷在候、此段御届奉申上候
十二月十日 松前志摩守家来 谷十郎

鎮将府日誌・明治元年20号


鎮将府日誌 第二十
明治元年戊辰九月
天童藩歎願書
臣信敏恐懼頓首奉歎願候、先頃奥羽各藩ニ相従、出兵等仕、自然奉抗官軍候事ニ立至候処、此度上杉弾正ヨリ、厚キ叡慮ノ程奉伝承、恐懼至極奉存候、素ヨリ勤王ノ外他事無御座候得共、臣若年暗昧、且遠境隔絶事情ニ通徹不仕、一旦名分順逆ヲ誤、奉悩宸襟、恐懼至極、先非悔悟、何共可奉申上様無御座随而者臣始家来末々迄、恭順謹慎罷在、謝罪仕候、此上奉仰朝裁候、何分宜敷御処置被成下度、偏ニ奉歎願候、誠恐誠惶頓首
九月十八日 織田兵部少輔
○同廿三日御沙汰書
高七十俵 安藤伝蔵
自今朝臣被召加、本禄如旧下賜候事
明治元戊辰年九月
○同廿五日
高五千石 内藤駒次郎
右同文
高六千五百石 曽我主水
右同文
高千百石 玉虫八左衛門
右同文
高五千石 水野式部
本禄如旧下賜候事
高四千石 久永相模守
右同文
高三百俵 布施十兵衛
右同文
○同廿七日
高千五百石 安藤左京
自今朝臣被召加、本禄如旧下賜候事
明治元戊辰年九月
高四千五百石 菅谷主税介
右同文
同日御達書
今般御東幸ニ付而者、兼而御布告之通、金銀紙幣取交通用、勿論之儀ニハ候得共、遐邑僻境ニ於テハ、未相弁向モ可有之候間、御領ハ府県、私領ハ領主、地頭ヨリ、不洩様早々可相触候事
九月
黒羽藩届書
慶応四年八月廿一日於白川表、館林人数ト致合併、急速三斗小屋ヨリ、会津ヘ進撃可致旨依御達、同廿二日、館林三小隊、弊藩三小隊、合テ六小隊、第六字同所出発、於途中両藩同等ニ分隊シテ、内四小隊北ノ湯泊〈行程六里余〉残リ二小隊ハ大沢泊リ〈行程四里余〉外ニ兼而領中取締トシテ、小谷村ニ出兵之一小隊、同所ニテ合併仕候、同廿三日北ノ湯一泊之四小隊、尚分隊シテ、二小隊ハ大丸山ヲ越、賊ノ番兵ヲ打散シ、三斗小屋湯所ニ向、又二小隊ハ那須村ノ賊兵ヲ打散シテ、那須岳ヲ越、而シテ双方南北ノ山路ヲ、昇降五里ノ間、険阻ノ狭道、辛クシテ鉄鎖ヲ伝、漸進テ那須岳越ヘ、先鋒僅ニ三四伍手、臼砲三門、渓谷内ノ三斗小屋際、川向ヘ進ミ候処、彼番兵ノ報知ヲ得テ、墻壁ニ兵ヲ配リ待居、忽及砲戦、暫苦戦ノ処、大丸越ノ二小隊、忽敵ノ左ノ山ヨリ、横合ヲ烈ク打立候ニ付、賊兵南北ニ散乱シ、及敗走、続テ両道ノ兵村内ヘ打入、少々追打仕候、同日大沢泊ノ三小隊、小谷村ノ賊一小隊程、屯集ノ報知ニヨリ、進テ及戦争候処、忽逃去候ニ付、横沢村ニ進、尤黒羽表ヨリ、領内為鎮撫二小隊、廿二日出発、瀬縫村江一泊ニテ、此日同所ヲ発、半俵村ニ屯集ノ賊半隊程ヲ打散シ、兼テ軍議ニ付横沢ニ進ミ、合併シテ五小隊ニ至、直ニ同所ヲ発、板室村江致進撃候処、彼不戦シテ逃去申候、依之亦同所ヲ発、那須岳右ノ方谷合ノ本道ヲ進ミ、三斗小屋ニ向候得共、大沢村ヨリ同所迄行程七里ニテ、日没ニ及、不得止板室ヨリ二里進テ、沼ケ原ニ野陣仕候、同廿四日沼ケ原ニ野陣ノ五小隊、同所ヲ発、三斗小屋村江繰込申候、同日両藩合併四小隊ヲ以、三斗小屋一里程隔関奥ノ境、大峠江進候処、賊墻壁ヲ捨逃去候ニ付、番兵一小隊ヲ残シ、三斗小屋ヘ帰陣仕候、同廿六日館林二小隊半、弊藩三小隊半、合併仕、野際村ヘ進撃ノ処、大峠ヨリ一里程先、中峠ノ嶮岨単行ノ要地ニ、賊五十人程墻壁ヲ設相待居、及戦争候得共、彼ハ利地ヲ備居候事故、容易ニ不相破候間、以奇兵左右ノ山ヘ登リ、難処苦辛而攀登リ、賊ノ横ヲ打候故、俄ニ相破レ候ニ付、軍勢ヲ纏、再同所ヲ発、一里程進候処、賊亦駒返坂ノ要地ニ、二百人余大砲ヲ設置、相拒候ニ付、散兵ヲ以山上山下ニ相配、打立候処、大砲ヲ捨、野際村ニ火ヲ放、退散仕候間、同村ニ進ミ、敵情相探候得共、相川村其外村々ニ、多人数屯集ノ趣、味方至テ寡兵、殊ニ疲労不少候ニ付、惣勢相纏、三斗小屋ヘ帰陣仕候、尤二小隊鎮撫ノ兵ハ板室村横沢村等江ノ残賊、運送ノ諸物ヲ妨候ニ付、同村ヘ引揚、鎮撫為仕申候、合戦中討取、分捕、味方殺傷、別紙ヲ以此段御届申上候以上
賊兵討取八人〈但関山村ニテ〉
小銃五挺〈但同所ニテ〉
賊兵討取五人〈但本郷村ニテ〉
戦死 渡辺福之進平士 鮎瀬文蔵
同 安藤小太郎隊平士 平山文之丞
同 風野六之丞隊平士 井上金太郎
同 五月女三左衛門家来 高野忠兵衛
手負 笠井健平
同 安藤小太郎隊平士 稲沢寅蔵
同 渡辺福之進隊平士 谷地辰之助
同 益子四郎家来 永井三代次郎
右河原町裏ニテ死傷
賊兵討取四人
手負 渡辺福之進隊平士 吉成松次郎
右飯寺村ニテ
戦死 渡辺福之進隊属長 佐藤熊太郎
戦死 風野六之丞平士 渡辺啓次
手負 同 大野勇蔵
同 松本道之助
右関山村ニテ
戦死 一番隊長 高橋亘理
手負 安藤小太郎隊平士 渡辺次三郎
右若松城郭討入之節
賊兵十六人〈但三斗小屋半俵小谷三村ニテ〉
小銃五挺
忽砲一門
臼砲二門〈但三斗小谷野条半俵ニテ〉
賊兵討取十二人〈但会津領中峠駒込坂両所ニテ〉
戦死 一番小隊長 益子四郎
手負 益子四郎隊平士 川島磊
手負 同 伊藤弁治
右小谷村ニテ
戦死 高橋亘理隊平士 波多野八郎
手負 同 秋元倉之助
右三斗小谷村ニテ
戦死 渡辺福之進隊平士 鈴木茂右衛門
同 興野源太左衛門隊平士 井上鉄太郎
手負 高橋亘理隊平士 福田台助
同 五月女三左衛門附属 青木縫之助
戦死 安藤小太郎隊長 益子理右衛門
右会津領中峠駒返阪ニテ
九月 大関泰次郎家来出兵隊長 五月女三左衛門
肥前藩届書
八月廿二日白川進発、勢至堂右間道、滝新田通リ致進軍候処、追分峠其外屯集ノ賊徒、器械弾薬等打捨、若松ノ方ヘ逃去候ニ付、追撃同廿五日早朝若松到着、則在陣ノ参謀ヘ相達候処、天寧寺関門口ヨリ、湯本口迄相固候様被相達候ニ付、翌廿六日早朝、薩州藩ニ致交代候、同日昼頃若松城東南ノ隅、大窪山辺、薩州藩致巡邏候処弾薬庫有之、殊ニ攻城ノ要地ニ付、取固可申談判相極メ、薩州藩兵隊、弊藩四小隊、大砲二門差向、一同右場所相固申候、且又本月五日、各藩談判之上、越後口ノ為応援弊藩ヨリ四小隊、大砲一門差出候処、賊徒少々致防戦、左右山手ヘ逃去候ニ付進撃、舟渡迄相進、川向越後口ノ官軍ヘ相通シ候而、坂下駅ニ引揚、同所一泊、翌六日若松ヘ致帰陣候、廿五日以後持口、其外所々ノ小戦ニテ、手負左之通御座候打取、分捕等有之候得共、取調未届合候ニ付、此段荒増不取敢御届申上候以上
深手 倉永助五郎
薄手 田中源次
薄手 高木徳次郎
深手 足軽 峰初瀬右衛門
薄手 足軽 藤川勝太
九月九日 肥前藩 多久与兵衛
○九月廿四日御沙汰書
福原内匠
其方儀、当分之処、白川越附六万石租税、取締可致旨御沙汰候事
九月 大総督府参謀
○同廿六日
柳川藩
飛竜丸、当分之内、其藩江御預被成候事
九月
長州藩江
其藩江被預置候飛竜丸、柳川藩江可引渡旨御沙汰候事
九月
安田源之丞
其方事、御雇被成可為軍監旨御沙汰候事
九月廿六日
増田虎之助
参謀試補被申付、奥州二本松江出張可致旨御沙汰候事
九月
筑後藩
其藩兵隊、奥州磐城平江出張可有之旨御沙汰候事
九月
肥前藩届書
弊藩兵隊、藤原口ヨリ若松進撃ノ途中、討死手負、左ノ通致候、戦争ノ次第、且賊ノ死傷分捕等ハ、追テ可申上旨、出先ノ隊長ヨリ申越候、此段御届申上候
手負 南部俊蔵
同 池田忠九郎
同 伊東伊平太
同 立川勘左衛門
同 足軽 長尾兵蔵
右九月二日火玉峠ニテ
手負 角千左衛門
討死 内川源六
討死 早田長兵衛
右同月三日関山ニテ
手負 新郷友助
同 足軽 古川善作
討死 足軽 真崎作次
手負 同 木塚忠兵衛
手負 夫卒 一人
右同月五日、若松城下材木町裏手ニテ以上
九月 肥前藩 深川亮蔵
佐土原藩届書
九月十五日、奥州会津青木村戦争ノ節、死傷左ノ通
戦死 長官 新納八郎二
同 監軍 鶴田力之進
同 監軍 槍本源吾
同 戦兵 籾木勇太郎
同 戦兵 池田数之進
同 同 植村善右衛門
同 同 瀬戸口権太郎
同 同 立山源太郎
同 同 大町五兵衛
同 同 厚地熊太郎
同 同 間世田助市
同 同 原友次郎
同 同 谷山弥平次
同 同 児玉直蔵
同 同 工藤和田右衛門
同 夫卒 二人
深手 隊長 藤井隼人
深手 戦兵 堤惣次郎
同 同 小野新蔵
同 同 神崎伝兵衛
同 同 長友彦右衛門
同 同 槍本政次郎
同 同 図師惣兵衛
同 同 高山権左衛門
同 同 大町善右衛門
同 同 森源太郎
同 同 柳田権太郎
同 宇宿代吉家来 一人
同 市木五郎兵衛家来 一人
同月十七日、右同所賊徒追討之節死傷
戦死 監軍 三雲為一郎
深手 戦兵翌日死 郡司伊織
右之通会津出兵許ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候以上
九月廿七日 佐土原藩 樺山舎人
彦根藩届書
九月十四日八字ヨリ、賊城進撃ニ付、弊藩分隊人数、桂林寺口、融通寺口等ヨリ、諸藩一同進入仕候処、賊烈敷防戦致候得共、急速進闘、終ニ外郭乗取、十二字頃止戦仕候、其節分取并味方死傷、別紙ノ通ニ御座候趣、若松表出先ヨリ申越候条、此段御届申上候以上
臼砲一門 舶来ミニヘル玉三千位
討死 陣場方取調役 小倉健輔
同 青木十郎次隊 本山長五郎
同 陣場方軍夫 文吉
手負 使番 今村彦四郎
右九月十四日、若松城攻之節、分取并味方死傷ニ御座候以上
九月十八日 彦根中将内 河手主水
○御沙汰書
賊徒追討官軍進発已来、所々奮戦、堅キヲ抜キ、鋭ヲ挫キ、其忠勇義烈、達天聴叡感被為在、猶又諸軍現地ノ勲功、被為知食、臣子ノ亀鑑ニ被備度叡旨ヲ以テ今般別紙ノ通、予メ勲功ノ等級御定ニ相成候条、督府、列藩及参謀、軍監、長官等、現地ノ事蹟精密取調、偏頗彼我ノ見ヲ去リ、公正至当ノ議ヲ以テ、諸軍各部其等級ヲ判シ、姓名書差出候様被仰出候事
但御褒賞ノ儀ハ、大総督宮及諸道総督帰京被奏成功之上御沙汰有之候事
八月 行政官
勲功式三等
総督<副総督参謀等之ニ準ス>
上功
能ク衆議ヲ容レ、画策籌謨其宜ヲ得、以テ大ニ四方ヲ鼓舞シ、終ニ天下平定ノ績ヲ底スモノ上功トス
中功
能ク一方ヲ維持シ、以テ強敵ヲ挫キ、終ニ天下平定ノ業ヲ助ルモノ、中功トス、又諸隊ニ抜ンテ、賊衝ヲ奪、全軍長駆ノ勢ヲ逞セシムルノ類、之ニ準ス
下功
以多当寡勝負亡獲相等キ者、下功トス、又営塁要地等ヲ固守シ、全軍ノ潰敗ヲ維持スル類、之ニ準ス
一司令官<諸隊長之ニ準ス>
上功
使令其宜シキヲ得、其隊ヲシテ同心協力、進退坐起、自ラ法ニ合シ、以テ大敵ヲ破リ、要地ヲ抜キ、全捷ヲ取ルモノ上功トス
中功
寡ヲ以テ衆ヲ挫キ、諸隊之カ為ニ勇奮振起、其力ヲ終ニ全軍ニ及ボスモノ、中功トス
下功
率先勇進スト雖モ、隊下死傷多キモノ、概シテ下功トス、或ハ強敵ヲ受、所部ヲ指揮シ、営塁要地等ヲ固守スル者、之ニ準ス
一兵士
上功
奮戦衆ニ超ヘ、堅キヲ摧キ、鋭ヲ挫キ、其身銃丸鋒鏑ニ罹ルモノ、上功トス、又勇進シテ衝敵、斫塁、終ニ命ヲ殞スモノ、或ハ率先奮激、終ニ敵ヲ敗リ、良ヲ獲ルノ類、或ハ其他敵ノ大砲要器ヲ撃壊シ、輜重糧食ヲ捕拿スル者、亦之ニ準ス
中功
励戦衆ニ先タチ、或ハ一隊ニ殿シテ、力戦部伍ヲ収メ、其身重創ヲ被ルノ類、概シテ中功トス
下功
敵軍披靡勢ニ乗シ、追撃シテ首級ヲ獲ル者、下功トス、又力戦創ヲ被ルモノ、之ニ準ス
追補
筑波小次郎
右芸州軍監被仰付置候処、昨日戦争ノ節手負申候、此段御届申上候以上
七月廿七日 因州藩

(以下OCR追加)

補正
鎮将府日誌第六ノ十一葉目ニ在ル長州藩届書ノ内討死ノ土屋素輔ハ大屋ノ書誤ナリ
同第五巻ノ十五十六葉目二在ル同藩届書村田次郎助大谷武太郎小橋清太郎右三人手負ノ所書誤テ即死ノ部ニ混ス且武太郎ヲ誤テ竹次郎ニ作ル

鎮将府日誌・慶応4年6号


鎮将府日誌 第六
慶応四年戊辰八月
○八月十二日御沙汰書
一橋大納言
田安中納言
先般藩屏之列ニ被召加候上者、兵隊戦士等禄高相応之備、不可欠事ニ候、然処、是迄之形ニ而者、兵士不足ニ而、万一御奉公之道ニ可差支被思食候、依而宗家亀之助家来之儀者、由緒モ別段之儀ニ付、扶助行届難ク或ハ暇差遣候者勝手ニ召抱候様被仰付候間、非常之節、藩屏之任ニ不背様、篤ト可相心得旨、被仰出候事
但召抱候者ハ、出所、名前、年齢等、夫々相記、時々鎮将府ヘ可届出候事

【○】
徳川亀之助 重役中
其藩士朝廷之御奉公、又ハ御扶助等、相願候者ハ、鎮将府ヘ可願出旨、兼テ御沙汰ニ相成候処、此度城中取締向厳重被仰出候ニ付、明後十四日ヨリ日比谷門内元社寺裁判所ニテ為取扱候間、同所ヘ願書差出可申事
八月
宇都宮藩届書
八月七日、藤原村ヘ屯集之賊徒、風雨ニテ鬼怒川暴漲、援兵ノ不便ヲ計候哉、同日明ケ六ツ時前、西船生村ノ内、字道谷原見張之猟師一人、賊徒同所辺ヘ押寄候趣、俄ニ注進申来候ニ付、西船生村内字新屋見張所ヘ、詰居候弊藩一番小隊、戸田内匠、彦坂孝次郎隊士之内、大橋亘理、大円元三郎、鳥居裕之助、鳥居鎌三郎、渡辺桂之進、大沢富三郎、石原鋥次郎、不取敢同村地内字新田迄出張候処、賊徒同所北之方、松林之中ヨリ、数十丸発砲ニ及ヒ、頗ル苦戦候得共、味方人少ニ付、不得止新屋、新田両所之間ニ有之候砥沢川迄引揚ケ、援兵ト合シ進撃候処、弊藩拾一番小隊戸田保、鳥居章之進ノ隊、賊之右ノ方ヘ廻リ、八番小隊川村多膳、羽太忠助隊、同様左ノ方ヘ繰出シ、三方ヨリ取包、惣兵半時程及戦争候処、賊徒一時ニ敗走、死傷ヲ担ヒ高徳道ノ方ヘ引退候ニ付、厳敷追慕ヒ候ノ所大渡江宿陣之肥前兵隊ハ、賊徒舟ヲ截流シ、渡船難出来、鬼怒川ヲ隔テ、道谷原辺ヘ大砲打掛ケ、味方之兵勢ヲ助ケ、賊徒川上ニ向ヒ引退候節、高徳口辺ヲ目当ニ、頻ニ発砲ニ及ヒ候、弊藩人数ハ高徳口手前字ヲソ沢川辺迄三十町余追討候得共、地利不便、伏兵等之憂難計、且兵隊一同朝餉未相用候ニ付、同所ヘ弊藩五番小隊松浦東馬、辻熊之丞、隊卒備置、其他ハ朝四ツ時西船生村ヘ引揚候処、無程同村地内字西小屋辺ヨリ、猶亦賊徒押来候趣注進有之候ニ付、早速ヲソ沢口其外ヘ手配致シ、西小屋ヘ兵隊繰出シ候処、賊徒同所ニテ少々発砲候而巳ニテ即時及退散、其後高徳村ニ陣取候賊徒大凡三百人余、死傷八九人ヲ舁キ担ヒ、不残藤原村ヘ引取候趣注進有之候ニ付、昼八ツ時頃兵隊不残西船生村ヘ引揚申候、尤賊徒最初襲来ノ節、新屋新田等ヘ放火、民家都合拾八軒焼失、尚又引退候節、道谷原ヘ放火、十三軒焼失仕候、西船生村ヘ宿陣之肥前勢二小隊ノ内、一隊ハ同宿ヲ守リ、一隊ハ為応援新田迄出張、戦争ニハ及不申候、弊藩人数手負并分取、生捕等委細別紙之通御座候、此段御届申上候以上
八月十二日 宇津宮藩 木村喜太郎
薄手 一番士分隊 大橋亘理
即死 夫卒 利平
即死 夫卒 次郎左衛門
手負 同 覚之丞
被生捕 同 長左衛門
生捕 会津夫卒 亀松
分捕 臼砲弾薬一箱
以上
田安中納言願書
徳川亀之助家名相続被仰付、続而領地ヲモ下賜、右為御礼早々上京可仕旨、先般被仰出候処、亀之助儀幼年ニテ、何分上京仕兼候ニ付、松平確堂儀、為名代上京仕候様、亀之助家来共ヨリ御内慮奉伺候由ニ付何卒暫時之間、願之通リ被仰付被下置候様、於私モ奉懇願候、且確堂儀者、兼テ私同様静寛院宮御方御守衛被仰付并亀之助後見ヲモ仕居候儀ニ付、右御礼相済次第、早々東下仕、御守衛後見共、猶相勤候様仕度、此段従私奉願候以上
八月
田安中納言
慶頼花押
附札
可為願之通事

高田藩届書
去月廿五日暁八ツ半時頃、長岡城賊兵方ニテ乗取候後、日夜之迫合ニ有之候処、同廿九日午ノ刻、妙見山ニ罷在候官軍、草生沢ヨリ長岡城下ニ討入、火ヲ掛ケ候処賊兵居兼、浦瀬村ヨリ福井ノ台場ヘ引取候処、同日八ツ時頃ヨリ、弊藩榊原若狭隊合兵ニテ、藤沢村ヨリ進撃ニ相成、信濃川ヲ越、若狭隊筒場村台場ヘ繰込、同所ニテ申合、右筒場村ヨリ御進軍相成、続テ右合兵ノ若狭隊、富山隊繰込、十四五間程モ進撃致シ、右之節隊長榊原若狭討死、其外ニモ討死、手負有之候段、不取敢申越候、猶委細ノ儀ハ、取調之上可申上候得共、先此段御届申上候以上
八月十四日 榊原式部大輔家来 鶴見八左衛門
長州藩届書
去廿四日棚倉発軍、石川宿陣、翌廿五日石川発軍、蓬田宿陣、翌廿六日暁二字頃蓬田発軍田母神街道ヲ通行シ、三春ヘ差向ヒ、中津川ヨリ土州弊藩間道ヲ進ミ、模様ニ依リ衝撃セントスルノ所、秋田万之助叔父主税名代トシテ途中迄迎出降伏致シ候、夫ヨリ参謀并各藩隊長二人ツヽ城内ヘ罷越シ、居城并器械人民等受取直様警衛藩被差置、不取敢城下ヘ宿陣、其夜二本松勢、国境七草村辺ヘ守兵差出候由、風聞有之候間弊藩一小隊馳向候処最早薩士両藩ニテ追払申候、翌暁四字頃帰陣同廿七日朝九字頃三春出軍、小浜ニ差向ヒ、賊兵ヲ追払、其夜当駅宿陣、翌廿八日兵隊休息、翌廿九日暁、五字頃、薩州、備前、弊藩相揃、小浜発軍、二本松ヲ衝撃スル処、城下前大隈川アリ、賊川ヲ渡リ拒撃候得共、無間追払、機ニ乗シ、川ノ上流下流ヲ打渡リ、薩州、備前、弊藩合撃、敵ノ砲台ヲ急撃シ、暫時ノ間ニ乗取、一手ハ敵ノ背面市中ヘ廻リ候故、賊兵大ニ狼狽、此所ニ被討者数不知直様城ヲ屠ントスル処、賊兵城内ヘ楯籠、拒撃候得共、烈撃ニ難堪、致敗散候故、直様城門ヲ打破、無二無三ニ飛入、賊兵死傷如麻、遂ニ八字頃仙会両道指テ落去申候、城中并器械宝物等、無残致放火候、諸路ヘ番兵相備ヘ、当地ヘ致宿陣候、弊藩死傷左之通ニ御座候、賊死骸市邸并街路ニ横リ候者夥敷、孰レ相調ベ、参謀衆ヨリ委細可申上候得共、不取敢右御届申上候以上
即死 白井小四郎
深手 守永弥之助
深手 十川庄太
同 小橋伝槌
同 岡村甲右衛門
同 徳富雅七
浅手 中川喜代蔵
同 林喜一郎
即死 陪卒 松蔵
深手 同 善吉
深手 同 佐助
同 同 与吉
七月廿九日
長州隊長 有地品之丞
林英次郎
口羽兵部
原田良八
岩国藩届書三通
去月廿六日宗藩兵隊ニ属シ、十二字久浜発陣広野近辺ヨリ砲声相聞、先手苦戦之様子ニ付不取敢進軍為致候処、相馬街道条弁天坂之切所ニ、賊砲台相構ヘ、頻リニ致砲発、因芸兵今朝以来頗ル苦戦ト相見候ニ付、宗藩軍監令ニ従ヒ、当兵隊第一ニ進行中ニ付、直様駈合セ候処、因兵ヨリ交代之儀申越候ニ付直様右手ノ封嶺、敵間六十間内外之処ヘ取登リ、一中隊頻リニ砲発致シ候内、手負等モ有之候得共、遂ニ敵兵落去之様子ニ相見、台場等追落シ、木戸村右手ノ山上ニテ追留仕候、同村ヘ賊等火ヲ放チ、弥敗北之模様ニ付、宗藩兵一同相進候ニ付、当兵隊モ木戸村外レニ人数等相円メ、致番衛候、弊藩手負人数左之通
一番小隊兵士 森脇慊輔
寺本虎太
今田安太郎
二番小隊兵卒 川戸十郎介
藤兼喜八
捕虜 仙台臣伊達藤五郎陪卒 渡辺堅蔵
狙撃 農兵
以上二人翌朝致斬首候
去月廿八日朝五字井出村出発、宗藩隊ニ従ヒ熊野町ヘ向ケ進撃、千代岡、新田原迄差掛リ候処、賊数箇所ニ砲台ヲ構ヘ、追々大砲打出候、当中隊、当日第二番進行ノ定ニ付、街道筋砲台左側ヘ向ケ、一番小隊取懸リ、賊ヨリモ大小砲銃烈ク打出候ニ付、漸々致進撃候処、一面ノ平野ニテ、賊ハ屈竟ノ胸壁ヲ構居頗ル難儀ノ場合ニ付、乃半隊引分ケ、右半隊ハ右側ヘ向ケ相進ミ、左ハ不相変進撃、遂ニ敵塁ノ下辺迄相迫リ、隊長其余長官三人、胸壁ヘ駆上リ候得共、最早弾薬モ相尽、不得止一分隊抜刀ニテ致接戦候ニ付、賊モ殆ド致辟易候得共、何分多人数ノ事故、引包ミ、小銃等打交セ相防、味方壱人、敵三四人乃至五六人ニ相当リ激戦、長官ヲ始討死、手負有之候得者、賊兵モ得溜リ不申、狼狽敗走致候ニ付テ、引続追討、遂ニ賊塁ハ乗取賊兵モ多分討取候様子ニ御座候、左候而賊熊ノ町ヘ火ヲ放チ、致敗走候ニ付テ、左手ノ山通追撃、夕五字新山ニテ追留、因藩ト交代、富岡ニ泊迄引取、致休戦候事
二番隊ノ儀ハ、千代岡原ヨリ宗藩隊ト一同、街道筋ヨリ極左手砲台ヘ向ケ進撃、賊大小砲銃烈ク打出シ候処、塁壁間近ク打寄、銃戦暫時手負等モ有之候処、遂ニ砲台ヲ追落シ、乃チ山伝ヒ新山ニテ一番小隊ト集会、此所ニテ追留、一同富岡迄引上申候事
討死 一番隊長 佐々木助七郎
同 補助長官 森脇孫太郎
同 使役 土屋素輔
同 一番小隊兵 佐武泰
同 二宮嘉源治
同 小河内邦人
同 藤井桃一郎
手負 一番隊兵士 大塚慊三郎
手負 宇野吉太郎
同 井上三郎兵衛
深手 二番小隊兵卒 三浦卯市
浅手 大田又兵衛
本月朔日山手進軍ノ令ヲ奉シ、六字出発、宗藩鋭武隊一同、間道ヲ経、敵営浪江駅ノ後面ニ出、銃撃、直ニ敵営ヘ討入候、賊等不意ニ尾襲セラレ、進退途ヲ失ヒ、忽チ本道、或ハ東面ノ間道ヲ経テ敗走ス、本道進撃ノ正兵モ互ニ相進ミ、大勝利ヲ得テ、兵ヲ浪江ニ円メ宿陣ス
右戦争略状、如此ニ御座候以上
八月四日 吉川駿河守内 有福新輔
徴兵七番隊届書
本月六日、当隊為先鋒、鹿島宿ヘ相進、同宿ヨリ間道八幡迄進軍、其夜同所ニ相宿、翌七日八幡出発、中村城下観喜寺迄相進、猶又黒木村迄繰出、中村藩ヨリ依註進、間道山ノ手ヘ相進候処、賊兵カヤ倉村ヲ放火シ、深ク山林之中ニ潜伏、形跡不相顕候ニ付、処々探索候処、大坪村外レ山上ヨリ、忽発砲致候ニ付、一番阿部十郎隊ハ、右ノ方山手ニ進ミ、二番速水湊隊、稲田ノ中ニ、三番児島一郎隊ハ、山ノ半腹ヨリ攻撃、頻ニ相進候得共速水隊稲田ノ中ニテ小楯モ無之、難進相見候処、児島隊賊兵之左山上ヨリ、間近ク相迫リ砲撃、速水隊正面ヨリ喊声ヲ発シ、一時ニ相進候ニ付、賊兵敗走、人家ヲ放火シ、遯逃致シ候間、児島隊、速水隊尾撃仕候、是ヨリ先左ノ方山上人家等江賊兵相集、烈敷発砲、阿部隊コレト打合、頻ニ相進候処、児島隊賊兵ノ右ヨリ相応シ、阿部隊急ニ進撃シ、賊兵辟易、器械等打捨脱走致候、依之猶又追撃可仕処、夕刻ニモ及候ニ付、兼テ御指図之通、黒木村迄凱還仕候、尤羽黒ト申山中ニ、賊屯集之趣ニ相聞候ニ付、斥候小林善太郎、土井総司、幡八郎、吉井誠助等、中村之人数ヲ促シ罷越、少々砲撃モ有之候、前顕大坪戦争ニ付、討死、手負并器械分捕等、左之通ニ御座候、此段御届申上候
一、螺旋銃一挺
一、玉薬少々
一、袴一具
右一番阿部十郎隊分捕
一、螺旋銃二挺
一、火縄筒一挺
一、刀脇差一腰
一、槍一本
右三番児島一郎隊分捕
討死 二番速水湊隊 川田敬蔵
薄手 一番阿部十郎隊 難波滝三郎
手負 右ニ同 箕田源吾
以上
八月 徴兵七番隊取締 武田文三
尾州藩届書
当月九日暮六ツ時頃、仁井田村ヨリ弊藩本営ヘ注進有之候ニ付、巡邏旁正気隊一小隊程、総括天野小藤ニ引卒并本営附ノ者、小監察等為見届差添出張、賊徒ノ模様探索仕候処、長沼ヘ百人程九日ニ繰込、町森屋ニ弐百人程致屯集居候趣、且同夜九ツ半時頃、三百人計今泉村迄押来候由、村役人致注進候ニ付不取敢進撃仕候得共、賊兵一人モ居合不申候間、全訛言ト存、翌十日早朝仁井田村ヘ引揚申候、然処、四ツ時頃又々賊兵押出シ候趣、注進頻ニ有之、先手館ケ岡村迄来居候趣、慥ニ申参候ニ付、早速同村ヘ馳付候処、賊兵小人数ニテ、会津ト名乗立向ヒ候ヲ、忽四人切斃シ、一人生捕、打洩シノ賊追払、近辺山々探索致サセ候処、賊徒不相見候間、九ツ半時頃再ビ仁井田村ヘ引取、猶所々ヘ斥候差出置候処、八ツ時頃賊兵今泉村ヘ向ヰ襲来リ、三枝勘解由陣屋ニ放火、砲声夥敷旨申来候ニ付、即剋進撃致候様申越候ニ付、直様司令士水野覚太夫、島津九右衛門一小隊繰出シ両隊申合、館ケ岡村ト今泉村ノ間ヨリ二手ニ分ケ、一小隊ハ本道ヲ押シ、正気隊ハ山手ニ向、今泉村ノ砲声ヲ目当ニ相進候処、八ツ半時頃、右ノ山手ニ潜伏有之候賊兵百人計、本道ヘ向ヒ候小隊ヘ、不意ニ打掛ケ候ニ付、此方ヨリモ及砲発候処、賊兵頻リニ打立、砲声断間無之候ニ付、時ヲ計ヒ応戦候得共、小人数故苦戦ノ間、漸ク正気隊賊之後ヘ、山手ヨリ押登、打懸リ候得ハ、賊兵忽チ散乱、山中ニテ見分リ兼候間、小隊平押ニ相進ミ候折、再ビ山手ヨリ頻ニ打懸ケ、本道ノ兵隊ト討合中、又正気隊横合ヨリ撃懸リ候得ハ、忽チ今泉村ヲ指シ退走致シ候ニ付、追行候得者七ツ半時頃同村所々放火致シ逃去申候、味方戦死無之、手負左之通御座候、賊兵討取、生捕、前顕之外ニ手負拾六七人モ可有之候得共、最早及日晡、山中ニテ慥ニ相分リ兼候ニ付、両隊共引揚、夜五ツ時頃須加川駅ヘ帰陣仕、此段右表ニ罷在候隊長、富永孫太夫ヨリ報知有之候、依之御達申上候以上
浅手 正気隊惣括 天野小藤二
同 銃隊 大橋島之助
深手 銃隊 永井鎌三郎
浅手 正気隊 暮地太郎
八月 尾州藩隊長 津田帯刀
伊州藩届書
今八月十一日、本道椎木口ヘ進撃ニ相成長州藩隊長ヨリ、応援被頼候ニ付、正十二字ヨリ繰出、椎木口関門迄急歩行進仕候処、左手間道ヘ進候筑後藩徴兵隊苦戦ニ付、左間道江参呉候様被頼候付、賊兵ノ左間道ヘ転進仕候処、小川ノ向岸小高キ山ヘ、凡三丁計ノ間、一文字ニ散蔓砲発ニ候ニ付、一小隊ヲ顕シ砲発為仕、并二丁計ノ間ヲ置キ、中村藩兵隊ヲ顕シ、弊藩一小隊ヲ奇兵ニ仕候テ、俄ニ砲発仕候処、賊兵大ニ周章、持場ヲ打捨敗走仕候、其処ニ筑後藩モ右手ヨリ攻撃ニ相成候ニ付、賊兵六七丁モ退キ、第二番ノ屏風ノ如キ小高キ山ニ、又候三丁計ノ間散蔓仕候由ニ付、同所ヘ筑後藩押ノ兵ニ、残リ居候様相談致シ、直ニ第二番ノ持場ニ攻撃仕、凡林中ヲ四五丁計進ミ候処、賊ノ方ヨリ発砲仕候ニ付前面ニ水田ヲ隔テ、暫ノ間互ニ砲発不少候テ、機ヲ見計ヒ、右手ノ山林真中ヨリ、弊藩五六員、徴兵隊同様相進ミ、余ハ芸州藩同様前面発憤猛進仕候処、賊ノ弾丸如雨来ル中ヲ、弥攻撃仕、遂ニ前面第二番ノ賊塁ヲ、弊藩先登ニテ乗取申候、尤此持場ニテ、賊ノ白旗六七本モ立置御座候得共、皆々持去リ候、其節既ニ黄昏ニ相成、御差図モ御座候ニ付、小野村迄引上申候、今日手負左之通御座候
深手 小隊令士 深井武吉
浅手 中隊令士岡本勇隊 石橋勘吾
深手 兵士 神田助左衛門
同 同 田中政五郎
浅手 同 飯田良蔵
同 同 森田直次郎
同 同 平松嘉一郎
右之通御届申上候以上
八月十一日 伊州藩隊長 藤堂監物

鎮将府日誌・慶応4年5号


鎮将府日誌 第五
慶応四年戊辰〈自八月十二日 至十三日〉
○八月十二日土州藩届書
去月廿四日暁五字、三春城為進撃、薩長、彦根、大垣、忍、館林、黒羽并弊藩人数三百計発棚倉、宿石川
同廿五日六字石川ヲ発、蓬田ニ向候処、賊兵既ニ致退去候ニ付、当地ニ宿陣仕候
同廿六日二字蓬田発、途中津川ニ至リ、諸隊ハ本道ヨリ進撃、長州并弊藩ハ間道ヨリ進ミ三春城之搦手ニ廻リ候処、城主秋田万之助、後見秋田主税、途中迄罷出、降伏謝罪之儀申立候ニ付、入城之上、土地、人民、兵器等受取、当城下ニ宿陣仕候
同廿七日二字前、仁井町之敗賊、松沢ト申処ニ止宿仕候由ニ付、薩藩并弊藩二小隊ヲ繰出白岩、塩崎、糠沢辺ニテ少時戦争、賊兵ヲ斬獲シ、三春迄帰陣仕候、同十二字、彦根、大垣、忍、館林、黒羽、弊藩人数、二本松為進撃、本宮ニ進発候処、賊逢隈川ヲ隔、致発砲候得共、飛丸ノ内ヨリ無難ニ川ヲ渡リ賊兵ヲ追払、同所ニ宿陣仕候
同廿八日、中畑、須賀川并玉ノ井出張ノ会兵等、朝七字比襲来候ニ付、弊藩人数暫時賊ヲ追、玉ノ井迄進撃仕、同所放火致シ罷帰候処白川街道ヨリ彦根、館林持場ヘ襲来ノ賊兵、勢甚猖獗ナルニ付、弊藩人数為応援、八十人計リ繰出候処、賊烈敷及防戦候得共、終ニ賊ヲ追崩、薩藩兵隊共々進撃仕、高倉駅ヲ放火、二字過帰陣仕候
同廿九日六字、諸軍本宮ヲ出、二本松ニ進撃候処、賊兵大壇ト申処ニ関門ヲ構ヘ、柵ヲ結ヒ、山林ノ内ヨリ厳シク発砲、薩藩并弊藩人数、一手ハ左ノ山ヨリ城之背ヘ廻リ、一手ハ正面ニ進ミ、一手ハ右ノ山ヨリ林中之賊ヲ追ヒ、三方共烈敷致突撃候処、賊兵潰乱敗走候ニ付、追撃之折柄、小浜ヨリ進ミ候兵隊参リ合セ、一時ニ城内江乱入致シ候処、賊防禦之術ナク、自焼之上、仙会之方ヘ致退去候右数度戦争之節、弊藩手負、打死、討取、生捕等、左之通ニ御座候
生捕二人
打取三十八人計
右松沢、白岩辺戦争之節、如斯御座候
討死 美正貫一郎
同 井上源太右衛門
手負 隊長 山地忠七
同 谷神兵衛
同 別府侃助
同 五十嵐幾之助
同 武舞鞆衛
同 中野準次郎
同 弘田多記知
同 米倉丹蔵
打取凡七十人計
生捕二人
右於本宮駅両度戦争之節、如此御座候
手負 行宗進之助
同 松井洒兵衛
同 沢田悦弥太
同〈帰営後絶息〉 江口精馬
同 中間 一人
生捕六人
討取〈各藩相混候義ニ付相記不申候〉
右二本松攻城之節、如此御座候以上
八月二日 土州藩 板垣退助
忍藩届書
去月廿四日朝第五字、御軍議之通、黒羽、弊藩殿被仰付、棚倉表出兵、石川表着陣、翌廿五日同所出発、蓬田村ヘ着陣、翌廿六日暁二字、同所発陣、秋田万之助降伏ニ付、惣軍三春城下ニ乗入、同廿七日本宮宿打入ノ先鋒黒羽、弊藩ヘ被仰付、十一字同所進発、斥候三人差出候処、阿武隈川ノ手前ヨリ、川ヲ隔打合候趣、本隊ヘ注進、直ニ同所ヘ人数手配、砲発仕候、然処土州間道ヨリ川端迄相進候間則相進及戦争候得共、右川渡兼候ニ付、諸藩ヨリ両三人宛、川ヲ游越シ、船ヲ奪ヒ、人数打渡、本宮宿ヲ乗取、土州、黒羽、弊藩一同進撃仕、賊兵二百人程半里余リ致追討、郡山辺ヘ賊徒敗走仕候、同廿八日朝第七字、二本松街道黒羽、弊藩番兵所ヘ、賊兵多人数襲来、及戦争、直ニ打払候処、郡山街道ヘ引退、敗走仕候ニ付、凱陣仕候、同廿九日、二本松ヘ進軍ニ付、殿被仰付、為斥候五字頃一分隊差出、然処於半途、諸藩小荷駄ヘ賊兵三十人程襲来候ニ付、不取敢以大砲追払、彦根、大垣、館林、黒羽、弊藩一同、二本松ヘ乗入申候、此段御届申上候以上
八月七日 忍藩 山田求馬
大垣藩届書
采女正分隊人数、先月廿四日棚倉ヨリ進撃、順序之通、追々相進、去月廿六日暁二字、各藩蓬田発足、三春ヘ進撃之処、城主降伏之趣ニテ、士商共一向騒擾之様子モ無之、口々関門等警衛モ有之、夕方諸藩隊長一人宛城中ヘ繰込、無故障引渡シニ相成、同夜同所ニ宿陣、同廿七日十二字、本宮ヘ為進撃、各藩三春出進、途中糠沢村賊徒屯集、各藩斥候隊ニテ忽追払、弊藩人数之儀ハ、後陣ニ罷在、右ニ者相当リ不申候、同日同所宿陣、同廿八日暁五字過、賊徒本宮南口ヨリ、三方ニ凡千人計襲来、各藩持場、北仙台口ハ忍、黒羽西山手間道者弊藩、右ノ方土藩、南ノ方彦根館林、各藩持場ヘ駆附、以大小砲及戦争一遂ニ討払、一里計モ追撃、賊多分死傷有之、当手ニテ現ニ討取候賊二人ニ御座候、其節弊藩死傷無之候、同廿九日五字過、二本松為進撃、本宮発足、諸隊之後列進軍、尤モ弊藩斥候隊一分隊之人数ハ、諸隊ト同様相進ミ、及砲発候処、先鋒官軍、既ニ城中討入ニ相成リ、所々放火、二字過頃落城ニ相成申候、尤モ弊藩斥候隊之内、一人戦死仕候
斥候隊於二本松死 銃卒 菱田巳之吉
生捕一人
但博徒於本宮斬首
右廿六日ヨリ之戦状御座候以上
八月八日 大垣藩 戸田三弥
因州藩届書
昨廿九日七半時過、為応援浪江村近辺迄出張仕候処、漸ク夜ニ入、賊情相分不申、長州藩ト申合セ、終夜同所番兵、折々砲戦仕、今朝五ツ時頃、長州藩ト交番仕、引揚申候、其節手負左之通
浅手 中村新之丞隊 山根梅三郎
右御届申上候以上
八月朔日 因州 和田壱岐
備前藩届書
去月廿四日、平表雷発、同夜合戸泊リ、同廿六日払暁、上三坂ヨリ和田通リ進軍、為大斥候一小隊、薩州藩ト併合、八ツ作ヘ駆向候処、賊兵険要ニ拠リ、致防禦候ニ付、引続前衛兵隊為繰詰、左右ヨリ攻撃追崩候得共、尚又仁井町仮砲台ニテ致支撑候ニ付、是又即時追払申候、尤本軍ハ御達之通、田原井通リ進撃、仁井町ニテ合隊、昼食相喫、直ニ三春城攻撃ノ手配ニテ、全隊二手ニ分レ、一手ハ一小隊計、薩佐両藩ニ併合、広瀬通リ進撃、一手ハ柳川、大村両藩合隊ニテ、浮台通リ進軍、柳橋ニ宿陣致候処、三春ハ既ニ帰順ニ付、翌廿七日三春一泊、同廿八日、小浜ヘ繰出シ、薩并弊藩申談、同廿九日五時整列、二本松ヘ発向、各藩斥候合併ニテ繰出シ阿武隈川ニ相臨候処、既ニ賊兵五六十人計渡船致シ、邀撃ノ色相見候ニ付、其侭砲戦相始メ、引続各藩本隊繰詰、致攻撃候内、斥候隊ヨリ歩行ニテ渡川相始メ、続テ全隊押渡リ賊兵大敗、北ルヲ追立、城下ヘ押詰、大手、搦手、一時ニ攻撃、賊兵死力ヲ尽シ候得共官軍大勝利、遂ニ十字頃落城、乎詰接戦モ所々ニテ致シ、賊兵死傷不少、本丸外郭、士屋敷共延焼、焦土ト相成申候、就中弊藩十一番隊長市原金三郎モ、城内竹田門通リニテ賊兵三人ニ出合、内一人三浦某ト名乗、槍ニテ突掛リ候ニ付、剣ニテ接戦、立地打取申候当日死傷左之通
戦死 銃隊 朝倉芳之助
〈重創帰営ノ上落命〉 同 長尾亀八
手負 同 時岡右太郎
同 同 松田松三郎
同 夫卒 常五郎
右之通御届申上候以上
八月一日 備前侍従内 伊庭内記
田安藩等届書
慶喜儀、去月廿一日、銚子浦ヨリ乗船、海路無滞、廿三日夕駿府宝台院ヘ着仕候旨申越候、依之此段御届申上候以上
八月 田安中納言
松平確堂
京師ヨリ来状
東北游撃軍将久我大納言、昨朔日発途相成候間、為御心得申入候也
八月二日 議定
大総督府参謀御中
○八月十三日御沙汰書
四条少将
奥羽追討平潟口総督被仰付候事
但仙台追討総督被免候事
八月
同日陸路白川ロ海路平潟ロノ
諸軍ヘノ御沙汰書
奥羽ハ時季既ニ寒冷、且諸軍ノ憤戦ニ而、最早会賊孤立、滅夷之秋至レリ、依而海陸之諸軍、合併戮力致シ、速ニ会津ヘ攻撃可有之旨御沙汰候事
但会津平定之後者、更ニ策ヲ定メ、最前御沙汰之通、速ニ仙台討伐勿論之事
八月
同日御布告書
今般会津追討被為在候ニ付、奥羽之諸藩江早々人数差向候様被仰出候処、更不奉朝命、却テ官軍ニ敵シ候ニ付、不得止追討被仰出候、戦ハ実ニ万民ヲシテ、塗炭ノ苦シミニ陥ラシメ、決而所好ニ無之間、先非ヲ悔ヒ、志ヲ改メ、帰順致シ候輩ニ於テハ聊御咎メ無之候、百姓商人ハ勿論、給人共ニ至ル迄、吾家ニ帰リ、各其業ヲ勤メ、安堵可致候、然トモ志ヲ不改、万々一官軍ニ敵スル者ハ、不愍ナガラモ、無拠征誅政シ候是等ハ実ニ不忍事ニ付、前条之次第、篤ト勘考致シ、心得違無之様可致者也
八月
相馬ヨリ来状
聖上益御機嫌能、恐悦奉存候、随而貴君方、弥御勇健珍重存候、日々御用繁奉恐察候、扨中村藩モ昨六日夜歎願書差出、主人因幡軍門江降伏仕候間、尚実効相立候様申渡、領主因幡儀、不取敢寺院ニ謹慎申付置候、何分追テ御沙汰可有之旨申置、則今七日第十二字頃、無異入城仕候、此段御報知申上候、誠官軍段々勝利、恐悦至極奉存候、且中村藩願書壱通、且又是迄戦争諸藩届書等差出候御落手可給候種々申入度義モ有之候得共、只今戦争甚多忙、先開城之段、差急令注進度余ハ尚跡ヨリ可及言上候、仍早々如此候也
八月七日〈中村城中ニテ認ム〉
二白、去廿六日御差立ニ相成候御書翰、去五日浪江ト申駅ニテ令拝見候、尚御返事ハ跡ヨリ可申上候、三条公江モ、宜御伝声希入候也
四条少将
大総督府参謀御中
中村藩歎願書
僻陋小邑之微臣、謹奉申上候、臣父子及ヒ家来共、兼而勤王之宿志ニ而、先般王政御一新ニ付、別而壱意王命遵奉仕、既ニ討会之師ヲ差出候処、豈図ン仙米両藩、賊ト通意、謝罪之処喝ヲ以テ、隣并小国ヲ欺キ、剰ヘ暴威ヲ以、同盟ヲ要スルニ至リ、驚愕無極乍去是非排群邪、勤王之道鼓舞可致筈ニ候得共、僕隷相挙而、臣父子之賊之為ニ韲粉殲滅セラルヽヲ懼レ、一時苟且之為、賊ヘ陽従致シ、遂ニ天怒灼々、今日ニ至リ、社稷勦絶之御所置無疑事ニ奉恐怖候、何程小藩不得止ト申条、如斯之形勢ニ立至候而者、一国之民命、一々御断滅被遊候共、遺憾無之事ニ者御座候得共、全ク無拠情実モ有之、前条大義ニ反候失計、悔悟仕、今御軍門ヘ降伏仕、謹而社稷返上、一匹夫ト相成、無罪之人民共、生命御救助被成下候様奉哀訴候、仰願クハ朝廷、天地覆載之以御仁徳、無罪之民命ヲ御宥恕被成下、且帰順実効ヲ以、重罪ヲ相償ヒ候様被仰付候ハヾ、無限奉感戴候、此段血泣号慟、御軍門ヘ降伏、謹奉仰天裁候、誠恐誠懼謹言
八月 相馬因幡季胤判
御総督府御参謀中様
芸州藩届書二通
先月廿八日朝、北田村出立、富岡駅着陣仕、夫ヨリ長藩申合、弊藩ヨリハ、往還筋ヘ大砲一門繰出シ候処、千代岡原ニ至リ、賊徒三処ノ砲台ヨリ放発仕候ニ付、直ニ激発相掛リ候得共、何分賊勢ハ多人数、殊ニ三面ヨリ砲発候間、殆ド苦戦仕、駸々相進、砲台近ク相成砲隊長高間省三、砲手ノ者十二三名ヲ率ヘ、砲台ヘ乗入、賊徒ヲ切払ヒ、熊野駅迄繰込申候、同廿九日、熊野駅ヨリ浪江駅通リ、山手進撃仕候途中、賊徒防戦候ニ付、間近相進、砲隊長高間省三、直ニ切入候ニ付、賊徒放火逃去申候ニ付、直ニ新山駅迄繰込申候、昨朔日、新山駅ヨリ浪江駅ヘ進撃相成、諸藩夫々本道并山手、浜手ヘ手配、相掛リ申候、弊藩ニテハ二小隊、大砲一門ヲ以、本道筋ニ先鋒進撃仕候処、賊徒浪江駅口并山手之砲台ヨリ発砲拒戦仕候ニ付、一小隊ハ右山手砲台ヘ、半小隊ハ左山上ヘ向ケ、半小隊并大砲一門正面ノ駅口ヘ討込候処、賊徒ハ愈劇発防戦仕、殊ニ味方ハ少人数ニテ、雨中ノ事ニ御座候間頗ル苦戦仕、遂ニ砲台ヘ切込追払、浪江駅ヘ繰込申候、右等戦闘ノ節、死傷左之通御座候
即死 大砲隊長 高間省三
同 銃手 木村徳三郎
深手 大砲隊伍長 岸本権平
同 同砲手 伊達廸吉
同 二番隊大伍長 長沼藤四郎
同 同銃手 福永久蔵
薄手 大砲隊大伍長 高橋謙益
同 同砲手 村上貞吉
同 同 荒田才三郎
同 一番隊長 加藤種之助
同 同銃手 小林虎之助
同 籏手 中村半三郎
同 同 陣場松右衛門
同 同 田中広蔵
深手 夫卒 郷介
先月廿六日、広野駅戦争之節、倉卒中御届落仕候分、左之通御座候
薄手 二番隊 織田吾三郎
同 同 伊藤卯三郎
同 同 武田松三郎
同 鼓手 松本甚之助
八月二日 芸州藩 川合三十郎
藤田次郎
長州藩届書三通
七月廿六日朝七字頃ヨリ、於広野村近辺、芸因両并ニ弊藩ノ一中隊ヲ以始戦、昼十二字頃最激戦ノ聞ヘ有之、即弊藩兵挙テ久浜ヨリ進軍、一中隊ハ条弁天坂之砲台ノ正面ヲ押シ、一中隊ハ左ノ山手ヨリ相進候テ、側面ヨリ撃懸、一中隊ハ海岸ヨリ進ミ、一中隊ハ条弁天坂之右側面ヘ出テ、烈敷打懸候処、賊無間敗走、直ニ右手ヨリ相進候一中隊尾撃、処々ノ伏兵ヲ撃払、木戸村近辺ニ到処、此村放火退去申候
手負 高日与一
即死 揚井利作
即死 綿貫啓蔵
同 嚮導 村田次郎助
同 大谷竹次郎
同 小橋清太郎
即死 夫卒 要蔵
右御届仕候以上
七月廿八日昼十二字、新田原ヘ進軍、一中隊ハ左手ノ砲台江当リ、一中隊ハ右手ヨリ相進ミ、中隊散兵ヲ以、中央数ケ所ノ砲台ヘ攀登リ、及接戦候処、賊無間敗走、尾撃シテ山中処々潜伏之賊兵撃払候テ、熊野之前山ニ至候処、此村放火シテ退去申候
手負 司令士 田坂耕蔵
同 半隊司令 三樹山輔
同 山本光蔵
同 畑秀太郎
同 古谷弥輔
同 大隅政人
即死 山本新三郎
手負 嚮導 水沢安之丞
同 山本耕助
同 嚮導 長安四三二
同 植木清之助
同 玉井安槌
同 司令士 粟屋六蔵
同 久岡忠吉
右御届仕候以上
八月朔日朝七字、二中隊ヲ以、芸因両藩ノ為援兵、本道ヨリ浪江村ヘ相進、一中隊左ノ山手ヨリ相進、敵ノ後ヘ突出、内一小隊ハ砲台之北手ヨリ進ミ、一小隊ハ半隊ニ分ケ、半隊ハ砲台之正面ヨリ攀登、少敷間アツテ、其北手ノ一小隊ニ合併、尾撃シ、別半隊ノ田道潜行シテ、本道芸因ト相戦候賊兵之後ヘ突出、閧声ヲ発シテ、僅二三発宛放チ候処、賊兵狼狽ヲ極メ、道ニ不寄シテ退散致シ候、此段御届仕候以上
八月 長州藩 飯田竹次郎

鎮台日誌・慶応4年3号

鎮台日誌 第三
自六月十四日至同月十九日
○六月十四日御沙汰書
徳川亀之助
其方家来在府在邑共謹慎之者并脱走之輩姓名夫々取調、当六月限差出候様可致旨御沙汰候事
六月
同十五日四条少将京師ヨリ着城之事
○同十六日御沙汰書
大田原鉦丸
其藩過日己来数度之戦争城下其外為兵火致焼失、士民共ニ雨露ヲ侵シ巡邏防戦之労人馬之継立ニ至迄、諸民之苦役不一形不愍ニ被思食候、依而今般金五千両下賜候事
六月
大平八郎
白川復城之節、棚倉海道間道筋案内、且白坂宿人馬継立無滞致周旋、前後骨折奇特之至ニ候、依而手銃一挺下賜候事
六月
○同十六日到着、沢三位ヨリ文通
此度長藩藤村禄平ト申者差登候間、去四月以来仙台之条々委細御聞取願入候、実ニ何レヨリモ通路梗塞、誠苦心仕候、万事御聞取何卒秋田野代へ蒸気船御廻シ之様御都合奉希入度、猶可然奉待御沙汰、仍早々如此御座候、別紙入高覧候也
六月
別紙
一、四月十日羽州城内へ発向可致指揮様総督府ヨリ御達ニ相成此段御請申上候
一、同十二日仙台表出立
一、同十七日羽州上之山城下ヘ着
一、同十九日天童城下ヘ着
一、同廿三日新庄城下ヘ着、此日酉半刻薩長両藩兵隊清川口ヘ操出シ
一、同廿四日卯刻ヨリ戦争相始未半刻兵隊繰出
一、閏四月四日庄内勢天童城下ヘ押寄放火防禦不行届之註進有之候ニ付、同七日巳刻柳沢繰出シ、賊軍追々引去リ、尤筑州并山形人数モ合兵相成、終ニ本道寺迄追退ケ、同十四日惣軍新庄表ヘ帰陣之事
一、同廿二日ヨリ仙台国境厳重ニ相固メ総而通行差止候事
一、同廿三日矢島秋田勢并生駒勢、増田辺ニ而朝四ツ時戦争、百宅ヘ操引イタシ候事
一、同廿四日上杉人数凡三百人余、山形ニテ宿陣イタシ、廿六日上之山ヘ繰上候趣、尤仙台モ合兵之風聞ニ御座候
一、同廿九日新庄表ヲ発陣
一、五月三日仙台米沢之兵、新庄ヘ押出候事
一、同月六日院内口ヨリ庄内人数少々押出シ探索等致シ居候趣
一、同十一日森岡宿ヘ着
一、同十六日秋田領内大館駅ヘ着、此所ニテ廿七日迄滞陣
一、同廿二日大館発陣、同日能代ヘ着仕候、此所ニテ滞在仕居候
○同十七日御沙汰書
三雲為一郎
軍監被免候事
大音竜太郎
御雇ヲ以当分上野岩鼻知県事被仰付候事
○同十八日御沙汰書
芦野出張
館林藩
其藩過日来宇都宮為応援致出張、尚芦野辺守衛候処、近日白川可有進撃候間、当分之内芦野辺可為守衛旨御沙汰候事
六月
水野出羽守家来 吉田喜左衛門
右之者事兼而御預之林昌之介其外賊徒沼津ヲ脱走之節隊長ヲモ乍勤卑怯之所置、武士道ヲ失ヒ候段不届之至、依之追放可申付旨被仰出候事
六月
【○】
同十九日穂波三位、西四辻大夫、岩倉八千丸発城帰京之事
○同廿日御沙汰書
上杉源四郎
自今朝臣ニ被仰付本禄如旧下賜候事
○同廿日御布告書
近来大総督宮様御内、或ハ官軍抔ト称シ中間体之者市中之商売并途中往来之人ヲ苦メ産業之妨ニ相成候趣相聞、不都合之事ニ候、自然右様之儀有之而者、縦令宮之御印有之候共無用捨直ニ召捕、刑典ヲ以処置可致候間、諸藩末々之者ニ到迄心得違無之様、急度可達者也
六月
同日御沙汰書
村松忠四郎
今般被召出知県事被仰付候事
同日御布告書
自今開板書物之儀、都而草稿ヲ以学校官ヘ差出改之上彫刻可致、若内々板行致候者於有之者、吟味之上屹度御沙汰可有之候事右之趣不洩様可触知者也
六月
同廿日結城藩ヨリ届書
三月中脱藩之奸賊共彰義隊ヲ率ヒ、同月廿五日在所結城表ヘ押寄乱入及砲発候ニ付、一同尽力遂防戦候節討死手負等別紙之通御座候、尤其節歎願中之折柄ニ付右討死手負其外人数書等モ夫々ヘ差出置候得共、混雑中之事ニテ未ダ表立御届不申上候ニ付、自然埋没之体ニ相成不愍之至奉存候、全勤王之誓願ニ相斃候儀ニ付、延引ニ及ヒ候得共、弔魂之為此段申上置候以上
水野摂津守家来 鈴木与八郎
根本忠司
三月廿五日防戦之節討死手負
討死 小場兵八郎
吉田市兵衛
柳田良蔵
三宅児太郎
篠宮権右衛門
小林忠助
野本栄左衛門
深疵 岡本紋右衛門
水野富太郎
太田辰吉
吉川甚内
柳田欽之助
近藤左司馬
赤野間亥助
宮内三男
皆川完兵衛
小谷野逸平
醍醐鵜太郎
天海作右衛門
松尾柳助
右之通御座候以上
六月十九日
○同廿二日御沙汰書
去三月上武野三州之農民蜂起イタシ不容易形勢ニ付、各藩持場ヲ定鎮撫可致候様、東山道総督ヨリ申達、則及鎮静候処、此度改而為軍監兼当分知県事大音竜太郎被遣候条上毛一国御領民改而総而知県事之指揮タルベク候、尤非常之変動有之節者、同人ヨリ各藩ヘ出兵可申達候間、此段相心得是迄鎮撫之村々ヘモ此旨可申達候事
六月
同廿二日徳川亀之助ヨリ願書
此度領知下賜候ニ付而者、家来共之内暇申出候者モ多分可有之候得者、農商又者浪人之名義ニ而何レノ御場所ニ住居致シ候而モ不苦又者農商人別入無差支様仕度可然其筋々ヘ被仰渡被下候様奉願候以上
六月
徳川亀之助
後見 松平確堂
斉民
附紙
依願農商ト相成候者ハ以来其処之府県ヨリ支配可致事
浪人名義之儀者一切不相成候事
○同廿四日御沙汰書
四条少将
大総督府参謀被仰付候事
同日薩藩ヨリ届書
一昨十七日関田口ヨリ賊兵押寄候付、九面村辺相固候弊藩人数ト、九ツ時ヨリ互ニ発砲及戦争大村佐土原人数モ追々繰出致攻撃候処、八ツ時分賊兵致敗走候付、新町迄之間一里半程モ致追討七ツ時分兵隊引揚申候、左候而弊藩手ヘ討留候賊兵拾人御座候、外ニ賊兵一人弊藩末野玄意生捕之候、其外林藪等ヘ射捨候者御座候得共調方不行届候、尤弊藩手負戦死之儀者、別紙之通御座候、此段御届申上候以上
戦死 都城戦兵 瀬戸山源兵衛
手負 久保田少作
同 財部左十郎
同 旗手役 高松庄兵衛
右之通御座候
六月十九日 薩州 島津左衛門

東京城日誌・明治元年14号


東京城日誌 第十四
明治元年戊辰十二月
十二月七日御沙汰書写
各通 佐竹右京大夫

津軽越中守
真田信濃守
相馬因幡守
溝口伯耆守
大河内右京亮
秋田信濃守
秋元但馬守
土屋相模守
牧野金丸
松平大学頭
其方儀、今般奥羽御領之内、民政取締被仰付候ニ付テハ、兵乱之余、人民愁苦之情状、追々被聞食、深ク被為痛聖念候ニ付、兼テ民政相心得候家来精撰之上、彼地出張申付朝廷之御政体ニ基キ、人民撫育ニ、厚ク心ヲ用ヒ、御一新之御趣意、洽ク貫徹致シ候様可取計旨御沙汰候事
但出張地所之儀ハ、府県掛ヘ可伺出事
別紙
今般家来之者、奥羽出張之上ハ、新県御取建之場所ヘ、検分ヲ遂ケ、見込可申出候様可致事
十二月
同日御布令書写
医師之儀ハ、人之性命ニ関係シ、実ニ不容易職ニ候、然ルニ近世不学無術之徒、猥リニ方薬ヲ弄シ、性命ヲ誤リ候者、往々不少哉ニ相聞、大ニ聖朝仁慈之御旨趣ニ相背キ、甚以不相済事ニ候、今般医学所御取建ニ相成候ニ付テハ、屹度規則ヲ相立、学之成否、術之工拙ヲ篤ト試考シ、免許有之候上ナラデハ、其業ヲ行フ事不相成様被遊度思食ニ候条、於府藩県、兼テ此旨相心得、治下医業之徒ヘ、改テ申聞置、各其覚悟ヲ以益学術ヲ研究可致旨、布令有之様被仰出候事
十二月
同日新荘藩届書写
九月十七日、秋田表堺戦争之末、同所之弊藩四小隊ハ、直ニ本道ヘ押出シ、角館ヨリ川筋大河原ト申辺迄屯在之五小隊ハ、角館ヨリ六郷ヘ出、夫ヨリ本道并浅舞通リ手分仕相進ミ同二十二日、弊邑金山ヘ為大斥候二小隊繰込、於同所残賊共捕押、夫々所置仕、夫ヨリ荘内表ヘ進軍之儀、参謀方ヨリ指揮有之、同二十六日、弊邑曲川口間道ヨリ三小隊、同古口本道ヨリ五小隊、攻入候手筈ニテ、右両所ヘ出張之処、荘内降伏謝罪之歎願御聞請ニ相成、曲川口之三小隊ハ、荘内分家松山之城ヘ入候手配之処、右間道越口之辺ニ陣所有之人数モ屯シ候趣ニ付、探索之者差出、翌二十七日、薩長小倉秋田并弊藩三小隊繰入可申ト、斥候差出候処、陣所之辺ニ高札建捨有之、今般降伏謝罪御取受ニ相成候ニ付、主人城外ニ謹慎罷在候趣、記有之、何之仔細モ無之由申聞候ニ付、一同押出、同領坂本ト申処ヘ一先着、藩々申談之上、薩藩弊藩先陣ニテ、城中ヘ繰入、御引上ケ之城郭器械等相改、尤城郭器械共、薩長ニテ取扱申候、同二十八日、四藩并弊藩共、再応為改入城、異条無之ニ付、直々酒田亀ケ崎之城ヘ進兵、前条同様之手筈ニテ、長州小倉先陣之上、城器御引上ニ相成、右両藩ニテ取扱申候、同二十九日、酒田港海辺之胸壁十二ケ所、薩長小倉弊藩ニテ請取之、酒田市中ニ滞陣罷在候処、十月二日、吹浦口ヨリ肥州、雲州、秋田三藩之人数、追々繰込ニ付、曲川口之人数ハ新荘表迄繰上ケ候様、会議所ヨリ通達有之、以後新荘表ヘ帰陣仕候、本道之五小隊ハ、同二十七日、荘内鶴ケ岡ヘ進兵、手配之上、村上口ヨリ進入之薩州ト、弊藩左右ニ分レ相備大手ヨリ郭内ヘ繰入、城器御引上ケ、請取方等之儀ハ、遊撃軍将参謀方ニテ取扱、尤弊藩兵隊ハ、市中宿陣罷在、薩藩申談、右一条相済、松山口官軍、本陣ヨリ依指図凱陣仕候
中務大輔儀者、九月二十五日、久保田表出立十月朔日、領邑新荘ヘ凱陣、城地焼亡ニ付、郭外之別邸ニ宿営罷在候
右之趣、在所表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候以上
十二月七日 戸沢中務大輔家来 近藤治米
同十日御沙汰書写四通
真田信濃守
松平容保家来之者共、其藩并榊原式部大輔ヘ御預被仰付候間、両藩申合、取締可致旨御沙汰候事
但請取方之儀ハ、万事軍務官ヘ可伺出、御預中両藩之内ヘ、地所ヲ以三万石御渡可相成候間、扶助方行届候様可致事
十二月
榊原式部大輔
右同文、其藩并真田信濃守ヘ以下同文
但書同文
十二月
伊達亀三郎
其方父伊達慶邦、嫡子宗敦儀、過日被仰渡之通、城地被召上、於東京謹慎被仰付候処、出格至仁之思食ヲ以、家名被立下、更ニ其方ヘ二十八万石下賜、仙台城御預被仰付候条、以後藩屏之職ヲ重シ、勤王尽忠可有之旨御沙汰候事
十二月
伊達亀三郎重臣 伊達藤五郎
伊達将監
其藩儀、過日被仰渡之通、城地被召上慶邦父子、於東京謹慎被仰付候処、出格至仁之思食ヲ以、家名被立下、今般慶邦実子亀三郎ヘ、更ニ二十八万石下賜、仙台城御預被仰付候処、幼弱之儀ニ付、及成長候迄、其方両人後見被仰付候間、更始維新之叡旨ヲ奉体認、幼主ヲ輔翼シ専藩屏之職任相立候様、励精尽力可致旨
御沙汰候事
十二月

同日諸藩ヘ御沙汰書写
一公議所開議之期日、来巳年二月十五日ト被仰出候事
一公議人人員之議ハ、是迄大藩三人、中藩二人、小藩一人之御規則ニ候処、以来各藩一人宛可差出事
一公議人之儀ハ、是迄其藩論ニ可代人才差出候様、被仰出有之候得共、右ハ執政、参政之内ヨリ一名致撰挙可差出事
一是迄主人在職之藩々、公議人差出ニ不及様被仰出置候得共、以来主人在職之有無ニ不拘、各藩総テ可差出事
右之通被仰出候事
同十二日御沙汰書写三通
伊達亀三郎
同姓慶邦儀、其藩ヘ引取、於東京謹慎可為致事
但引取方之儀ハ、諸事軍務官ヘ可伺出事
十二月
同人
同姓宗敦儀、格別之思食ヲ以、於国許謹慎被仰付候旨、更ニ御沙汰候事
但書前同文
十二月
軍務官
別紙写之通、伊達亀三郎ヘ被仰渡候ニ付慶邦父子引渡方之儀、諸事於其官取計可有之事
十二月
同十四日御沙汰書写十二通
阿部基之助
同姓正静儀、過日御所置被仰付、家名被立下候ニ付、其方ヘ更ニ六万石下賜、棚倉城御預被仰付候、以後藩屏之職ヲ重シ、勤王尽力可有之旨御沙汰候事
十二月
阿部駿河守
阿部基之助ヘ、別紙之通被仰付候間、此旨可相達事
十二月
太田備中守
今般領知替被仰付候処、居城モ無之場所ニテ、失費相掛リ、可為難儀候間、厚御手当モ被成下度処、当今御用途多之折柄戦功之者御賞誉筋モ未タ不為行届候得共、出格之訳ヲ以、現米千石、金壱万五千両宛、三ケ年之間下賜候事
十二月
水野出羽守
同文、現米千石、金壱万五千両宛下賜候事
但先般下賜候分ハ、御差引相成、残於会計官被相渡候事
十二月
本多紀伊守
同文、現米八百石、金壱万二千両宛下賜候事
但書同文
十二月
滝脇丹後守
同文、現米二百石、金三千両宛下賜候事
但書同文
十二月
井上河内守
同文、現米千二百石、金壱万八千両宛下賜候事
十二月
田沼玄蕃頭
同文、現米二百石、金三千両宛下賜候事
十二月
西尾隠岐守
同文、現米七百石、金九千五百両宛下賜候事
十二月
軍務官
八王子元同心、以後其官可為支配旨御沙汰候事
十二月
久世順吉
同姓久世広文儀、過日被仰渡候通、領知之内五千石被召上、隠居被仰付候処今般其方ヘ家名相続被仰付、四万三千石下賜候条、以後藩屏之職ヲ重シ、勤王尽忠可有之旨御沙汰候事
十二月
松前志摩守
去ル十月以来、徳川脱籍之賊徒、領内侵入之折柄、闔藩勇奮、以寡当衆、不一形及苦戦、君臣一体、百折不挫、只管勤王之大義ヲ重シ、一家之危急ヲ不願、折衝禦侮、藩屏之職ヲ尽シ候段、武門之覚悟不過之叡感不斜候、今度格別之思食ヲ以、直垂地一領、金三千両下賜候、尚益勉励尽力、敵愾之士気ヲ皷舞シ、他日官軍之進撃ヲ待、可奏成功旨御沙汰候事
十二月
既ニ刊行スル
奥羽越諸藩御処置之冊第十号ニ叙ス
奥羽分国之冊第十一号ニ叙ス
外国書面応酬之冊第十二号ニ叙ス
第十号ヲ第十三号ニ改ム

東京城日誌・明治元年9号

東京城日誌 第九
明治元年戊辰〈十一月 十二月〉
十一月五日泉岳寺江勅宣写
大石良雄
汝良雄等、固執主従之儀復仇、死於法、百世之下、使人感奮興起、朕深嘉賞焉、今幸東京、因遣使権弁事藤原献、弔汝等之墓且賜金幣

明治元年戊辰十一月五日
十一月二十九日久保田藩届書写
奥州箱館ハ、清水谷殿御鎮台所ニ御座候処、徳川脱走ノ賊艦四艘、去ル十九日朝五ツ時、同所脇角田ヨリ、陸路十二里計リ隔リ候鷲ノ木村海岸ヘ着、直ニ賊徒上陸、同二十二日戦争ニ相成候処、地理案内之者有之哉、夫々手配候得共、間道ヨリ襲来、兎角衆寡難敵、終ニ郭外迄被相迫、兵士及苦戦、防禦行届不申、不得止次第ニ相成候処、幸此刻弊藩蒸気船カヽノミ、箱館ニカヽリ居候ニ付御同殿右船ヘ御乗移、同二十四日夜、津軽青森迄一ト先御引揚ニ相成候故、応援ノ兵隊繰出シ申候、此段不取敢御届申上候以上
十月晦日 秋田中将
十二月朔日御布令書
来ル八日還幸御治定之事
但御道筋東海道之事
同日東海道府県ヘ御達書写
御東幸之節、府県ニ於テ御警衛不備置向モ有之、甚以不都合之事ニ候、今般還幸之節ハ、最寄藩ヘ県令相応之人数差出シ、屹度御警衛可致様、此段相達候事
但無益之多人数差出ニ不及候事
十二月
同日御沙汰書写
大久保岩丸
今般御誓約相済、帰邑御暇ヲ賜候、尚前途皇国御維持之儀、深御苦慮被為遊候ニ付厚ク藩屏之職ヲ重シ、励精尽力可致様御沙汰候事
十二月
同二日御布令書
今般東北略平定之成績
神宮ヘ被為告度、海路還幸之思食ニ被為在候処、御艦不相調、東海道還幸被為遊候ニ付テハ、陸路日数モ相掛リ、殊ニ来ル二十五日
先帝小祥忌之正辰ニ被為当、最早余日モ無之ニ付、来年更ニ御参拝被為遊候旨、被仰出候事
十二月
同日中下大夫以下ヘ御布令書写二通
今般還幸被為遊候得共、諸官被立置候ニ付、中大夫以下之面々、諸願伺届等、都テ東京弁事ヘ可差出事
十二月

跡目相続、隠居家督、養子縁組等之儀ニ付、間々不正之筋モ有之哉ニ相聞、以之外之事ニ候、以来願出候節ハ、於触頭其筋合篤ト取糾シ候上、証書相添、願書差出可申、万一不都合之儀於有之ハ、屹度可被及御沙汰事
但触頭相勤候者ハ、同勤之証書相添、諸官出仕触頭無之輩ハ、官長之証書相添、差出可申事
十二月
同三日諸侯ヘ御沙汰書写
諸侯嫡子叙任之儀、往々願出候者モ有之候処、向後不被仰付候間、為心得此段相達候事
但功労有之者ハ格別之事
十二月
同日御沙汰書写三通
徳川新三位中将
静寛院宮、明春上京被仰出候間、此段相達候事
十二月
溝口伯耆守
今般御誓約相済、帰邑御暇賜候条云々、去ル朔日大久保岩丸ヘ御沙汰書同文
十二月
秋田信濃守
其方儀、今度御誓約相済、御暇賜候云々、第四号十一月十日、秋元但馬守ヘ御沙汰書同文
十二月
同四日御布令書写二通
当夏御発弘相成候金札之儀、東北未タ粉乱中ニ付、御割渡不相成候処、今般平定ニ付テハ石高割賦ノ内、当節ヨリ御渡相成候間、早々請取、洽ク施行可致様御沙汰候事
但委細之儀ハ、会計官ヘ可承合事

金札之儀ハ、世上融通ノ為メ、御発行ニ相成候処、近来往々分合ヲ付ケ、取引致シ候者有之、大ニ物価紛乱ノ基ヲ生ジ、甚以不弁ニ成行候、以来ハ時之相場ヲ以テ、通用可致様御沙汰候事
十二月
薩州藩 堀直太郎
久々之軍旅云々、十月三十日、寺島秀之助江御沙汰書同文、金百両下賜候事
十二月
同六日御沙汰書写
佐竹次郎
其藩儀、祖先勤王之遺意ヲ承述、父子協心確然一方ニ固守、藩屏禦侮之任ヲ不辱、終ニ東北平定之功ヲ奏シ候段叡感不浅候、今般参覲ニ付、官爵任叙被仰付候事
十二月
同人
任修理太夫
叙従五位下

宣下候事
十二月
別紙
同人
紫組掛緒被許候事
十二月
同日諸藩公議人江御達書写
万民ヲ保全シ、永世不朽之皇基ヲ確定スルハ、固ヨリ万機公論ニ出ルニ在テ、即チ御誓文之大本ニ候、依テ当夏、議政、行政之御制度相立、各府藩県ヨリ、徴貢士之法御設相成候儀、即御政体之通リニ候、然処春来兵禍引続候ヨリ、御誓文之御趣意、或ハ未ダ周達セザルモ有之候処、当今遂ニ四方鎮定、弥前条之通、広ク会議ヲ起シ、万機公論ニ決スベシトノ御趣意ヲ以、今般改テ被仰出東京旧姫路邸ヲ以テ当分公議所ト御定相成、来春ヨリ開議致シ候様被仰出候間、各彼我之私見ヲ去リ、公明正大之国典確立之処ニ熟議ヲ遂ゲ、御誓文之御趣意致貫徹候様御沙汰候事
但開議期日御規則等ハ、追テ御沙汰可有之候事
別紙之通被仰出候ニ付、当年之儀ハ、御暇ヲ賜候間、勝手次第帰藩可致候、尤来正月中無遅滞東京ヘ可罷出様御沙汰候事
十二月
同日御沙汰書写四通
宇和島藩
其藩是迄鉄砲洲外国人居留地取締被仰付置候処、今般更ニ被仰付候条、厳重可取計様御沙汰候事
但持場勤向等之儀ハ、東京府ヘ可承合事
十二月
松平播磨守
其方儀、今度御誓約相済、御暇ヲ賜候云々、去ル二日、秋田信濃守ヘ御沙汰書同文
十二月
松平主税頭
其方儀、今般品川駅警衛被仰付候条、相応人数差出、取締方精々行届候様可致旨御沙汰候事
但堀右京亮ヘモ同様御沙汰相成候ニ付、申合可取計、尚心得方之儀ハ、同所知県事ヘ可承合事
十二月
堀右京亮
右同文
但松平主税頭ヘモ同様云々、前同文
十二月

東京城日誌・明治元年8号

東京城日誌 第八
明治元年戊辰十二月

各国公使参朝概略
一前日三国公使ヘ、明日九ツ時〈西洋第十二字〉可参内之旨、外国知官事ヨリ、書翰ヲ以テ通達ス
一当日公使参朝之節、外国判官事一人宛、各国公使旅館迄被遣、公使同道ニテ参朝ス
但外国知官事、塀重門内ヘ掛リ、弁事塀重門外ヘ、外国判官事、公使下馬所迄出迎、公使并随従之士官、中仕切門内〈二重橋外〉ニテ下馬、同道之判官事モ亦同シ
附知官事始、掛リ諸役員、朝服着用
一知官事、弁事、判官事、公使ヲ休息之席ヘ誘引シ、議定、参与、出会ス
一賜茶菓程合ハ、外国判官事取計ヒ、配膳ハ給仕ニテ取扱フ
一各国公使相揃候段、知官事ヨリ非蔵人ヲ以注進
一輔相出会
一天皇出御
一伶人奏楽
一出御之旨ヲ知官事ヘ通達ス
一知官事公使ヲ誘引ス
但御入側ヨリ、御本間ニ至リ着座、訳官随従ス
一公使拝天顔
一公使名披露、訳官ヨリ輔相ヘ申述、輔相ヨリ言上ス
一公国使書ヲ奉リ、国王之命ヲ言上ス、訳官之ヲ述ヘ、輔相言上ス
一有勅語
一輔相勅語ヲ伝ヘ、訳官公使ニ告
一公使奉答ス
一訳官、公使ノ奉答ヲ輔相ヘ述、輔相言上ス
一公使随従ノ士官、進テ拝天顔
一随従士官名披露、前ニ同シ
一輔相、伝勅意
一礼畢リ、公使退ク、知官事、弁事、塀重門迄之ヲ送ル
一伶人徹楽
一知官事、議定、参与、高輪交接所ニ至リ、公使ヲ饗ス
十一月二十二日、伊太里国特派全権公使コントデラトール、コンシユルゼネラールロベッキ、船将ラツクリヱラ、士官コビアンキ、ボルレツチ参朝
公使口上書
我カ国王皇帝陛下之近傍ニ於テ、我ヲ特派全権公使之任ニ命シタル書翰ヲ陛下ニ献呈ス、我王皇帝陛下ヘ対シ、親睦ナル情誼之厚キヲ表セン事ヲ望ミ、我ヲシテ奏聞ナサシム、我ニ於テ実ニ無限之栄ト云フヘキナリ、日本国之盛大栄華ナル事、伊太利亜国ニ於テモ、能ク知ル処ニシテ、仁徳公照ナル皇帝陛下之政庁ヘ、懇親ノ深キヲ表シ、弥日本国之盛美宏大ヲ祈願ス

国書
天恵民望之伊太利王ウィクトールマヌエル第二世、盛威卓絶ナル我親友日本之御門ヘ
陛下英邁公平、総テ仁徳ヲ以テ、壮美宏大ナル日本国之威儀栄華ヲ盛ニセラル、ヲ見、陛下之政庁ニヲイテ、我等カ最懇親ナル情誼之厚キヲ、顕然表センコトヲ望ミ、是カタメ人選之上
陛下之近傍ニオヒテ、我特派全権公使ノ任ヲ充テシメンガタメ、レコーントウィクトルサリエテラトールヲ命シタリ、彼レハ貴族ヨリ出タルモノニシテ、事ヲナス着実、且能我ニ服事シテ、性質之賞誉スヘキコト、我ニ取リ大ニ信任スヘキ証ナレハ
陛下之厚意アル恩眷ヲ蒙リ
陛下政府之敬愛ヲ得ルニ至ルヘシ
将又日本ト伊太利亜ト、取極メシ条約ニヨリ、友睦之情誼、日ヲ逐テ愈厚キニ至リ、両国之人民ヲシテ、日々大益ヲ得セシムル等之事ニオイテ、聊カ尽サヽル処ナシ、依之コーントサリエテラトール、我ニ代リテ
陛下好意ニ、彼カ述ルコトヲ尽ク信用シ給ハルヘシ、就中両国之稗益ヲ盛ニシ、永世不易之交誼ヲ全フシ
陛下ニ対シ、敬恭之意深キヲ述ル時ハ、別テ信用シ給ハンコトヲ、我
陛下ニ希フナリ
紀元千八百六十八年五月十日
フロランス之皇宮ニオイテ
陛下之親友
ウイクトールマヌエル
勅答
貴国帝王安全ナル哉、朕常々貴国帝王健剛及両国交際ノ深カランコトヲ祈ル、此度貴国帝王ニ於テモ、其情誼ヲ厚クセンカ為、貴国ノ事務ニ通達セル、英俊ナル卿某ニ、其事ヲ委任シ、今又貴国帝王ヨリ、懇切ナル一書ヲ投セラル、朕深ク之ヲ喜受ス、朕平日両国ノ交情懇厚ナルヲ欲ス、今貴国帝王、卿ヲシテ其事ヲ任シ我国ニ在ラシム、朕必其能調熟スルヲ信ス、宜シク朕カ懇厚ナルノ深意ヲ亮察シ貴国帝王ニ之ヲ細告セヨ、朕又深ク卿ニ懇接ノ情ヲ尽スヘシ、能勉励尽力シテ、永ク其職ニ在テ、両国交際ノ永久不易ノ基ヲ立テン事ヲ希望ス
同日仏蘭西国全権公使メキシミヲウトリー、海軍総督テシアイー、同上等士官ツブリクアルマン、船将トルムネク、一等書記官モンテペルロー、二等同タシヱーデラパセクー、三等同ベアールン、一等通弁官シブスケ参朝
公使口上書
仏国日本トノ懇親友睦ナル交誼ヲ、猶厚フセンコトヲ願フノ証トシテ、余カ淑徳ナル主君仏国帝、其新任目代之吏ヲシテ、全権ミヽストルノ権アラシメンコトヲ望ミ、即
陛下近傍ニオイテ、其任ヲ充ルタメ余委任スルノ書翰ヲ、爰ニ
陛下ヘ拝呈スルハ、余カ大幸ナリ
余カ国帝之望ミニ従ヒ、両国之交際益厚キニ至ラン様、勉励尽力シ、国帝陛下偏ニ日本国之幸福ヲ祈ラルヽノ趣意ニ答ルノミナリ
陛下全国ヲシテ、静治平寧ナラシムル盛大之権ヲ掌握セラルヽニオヒテハ、海外トノ貿易ヲ盛ニ開カシメ、欧羅巴人之諸事ヲ安全ナラシメ、海外各国トノ交際、愈深キニ至ラシムルノ諸件ニオイテ、大ニ之ヲ補翼セラレンコト、余カ政府ニオヒテモ、確然疑ヲ容レサルナリ
只願クハ、余カ任セラレシ職務ヲ、容易ニ遂クル様
陛下余ニ厚意恩恵ヲ加ヘ給ハンコトヲ望ム
同国全権ミヽストルウートレーヨリ差出ス国書ノ写
天恵民望之仏蘭西国帝ナポレオン、淑徳英明ナル日本之
御門ヘ
日本并ニ仏蘭西国ト取結ヒシ懇親ナル交際之、益深カランコトヲ望ミ、両国ヲシテ一和セシムルノ条約ヲ、誠実ニ施行セン事ヲ意見鑑センカタメ、我今
陛下ト、直ニ通信ノ路ヲ開キ、我国抜擢中之一人ニシテ、我カ深ク信任スル、コンマンドールデレシオンドノールヲ帯有セル、オーチ、ジヨールヂ、マキシム、ウートレーヲ以、我カ国全権ミヽストル之職ヲ委任シ、陛下之近傍ニ差送ルナリ彼カ性質俊哲ニシテ、実地練磨之才力ヲ備ヘ、頗ル国務ニ勉励スル、総テ我依頼スルノ証ナレハ、必然
陛下之愛敬ヲ受クルニ至ルヘシ、是我允准シテ委任スル処ナリ、故ニ
陛下好意ヲ以テ、我ミヽストルヘ恩遇ヲ加ヘ給ヒ、総テ仏国遊歴之人及ヒ貿易ヲ営ムモノヽ身事并ニ其利益ニ関係セル事件ニ付、我カ方ヨリ申通スル事アリテ、彼ヨリ書信又ハ話上申述ルコトハ、総テ信用シ給フヘシ、就中尊位ノ幸福ヲ祈リ
陛下聖霊ノ高志貫達スルヲ願ヒ、両国ノ帝位ヲシテ、一和友睦ナラシメ、永久不易之交際ヲ全フセンヲ望ム等之事ニ付、彼申述ル事アラハ、別テ深ク信シ給ハンコトヲ、我陛下ニ希フ
遍ク人事ヲ管轄シ給フ、神明無限、恩恵祥福ヲ
陛下ニ降授センコトヲ希フ
陛下之朋友 ナポレオン
仏国帝陛下之 外国事務執政 ムーテイヱ
勅答
伊太里ニ同シ
同日和蘭陀国公使ポルスブルツク、書記官ケレインチース参朝
公使口上書
余カ尊敬スヘキ国主タル、和蘭国王陛下ノ委任状ヲ、日本皇帝陛下ニ捧ル事、余最栄トスル所ナリ、和蘭王国ト日本帝国トノ間ニ存保セシ和親交際ハ、既ニ二百五十年ニ余リ、和蘭王国ニヲイテモ、貴国ノ常ニ栄華ナルヲ知レリ、余自ラ十二年之間、其徴ヲ見聞セリ
皇帝陛下常々幸福ニシテ、当国ノ永ク栄華ナランヲ、余今真意ヲ以テ希望ス

国書
神ノ恵ヲ受ケタル和蘭王オランイナスサウハムリュキセンビユルフ上公等々々衛廉第三、謹テ我善良ナル兄友、全盛賢明ノ君主日本御門
帝王陛下ニ、我尊敬恭愛之微衷ヲ表シ并ニ我和蘭王国ト日本帝国トノ間ニ、古来相伝セル、親密懇篤ナル交誼ヲ保持シ、更ニ之ヲ隆盛増大ナラシメシコトヲ冀ヒ其証ヲ
帝王陛下ニ奉呈セントノ微志ヲ以テ、今般
帝王陛下ノ左右ニ、我ミヽストルレシテント職ヲ差出シ置クヘキニ決定シ、之ニ依テ和蘭勲級獅子会ノ顕員ド〇デ〇カラーフフアン〇ポルスブルークヲ、此職ニ抜擢仕候、就テハ右ポルスブルーク儀ハ、此書翰ヲ持シテ帝王陛下ニ拝謁シ帝王陛下ノ御手ニ捧ケ奉ルノ光栄ヲ荷ヒ可申ト奉存候、抑右ポルスブルーク儀ハ、才能行儀衆ニ勝レ、職ヲ奉シテ怠ラサルコトヲ、兼々洞知罷在候事ニ御座候ヘハ、此度申付候役儀ヲモ、必遺失ナク相勤メ帝王陛下ノ叡慮ニモ相叶候様ニ、精勤可仕ト相察申候間帝王陛下ニモ、無御隔意御待遇被成下且私ヨリ兼テ申付置候条例ニ基キ帝王陛下ヘ申出候件々ヲ始トシ、凡我誠実ノ心情ヲ以テ帝王陛下ノ御為、御政道ノ御利益、日本国泰平全盛ノ御為筋等ヲ申上候節ニハ、殊更御信用被成下度奉希候、其他皇天上帝ノ帝王陛下ヲ愛護寵眷アラン事ヲ黙祈シ奉リ候而已、干時千八百六十八年第七月十八日、海牙ノ王宮ニ於テ認ム
帝王陛下ノ良友悌弟
自記 衛廉
外国事務宰相
自記 ルースト〇ファン〇ソムビュフ

勅答
勅答伊仏ニ同シ
同月二十三日英吉利国公使シルハリヱスパルケス、アダムス、ミトフオルド、ガワ、フレチヤ、サトウ、ウイリス、海軍ケピテン、ステンホップルーシモント、コルスワル、マレイ、マテン、ウヱブ、スミス、フオルサイス、ウイトレイ、陸軍コルネル、ノルマン、バテ、カー、ブリンクレ参朝
公使口上書
我主君タル英国皇帝安全ナリ
陛下、我皇帝之事ニ付、厚キ勅諭アリ、我皇帝ニ於テモ、定テ喜悦スベシ
陛下勅諭之通リ、幸ニ是迄在来両国之交際永久ナラン事、我皇帝モ希望スル所ナリ
陛下今般東京御着輦之事ヲ拝祝ス且又主土不残鎮静之折柄
陛下御仁政、且国内之衆議ヲ以テ、此以後改テ強大同一、泰平ナラシメン事ヲ願フ、将又余之儀ニ付、懇篤之勅詔、深ク感謝スル所ナリ貴国之朝廷ニ於テ、洪恩深キ我皇帝之公使職ヲ勤ムル事、是又欣然無相違所ナリ
勅答
貴国帝王安全ナルヤ、朕常ニ祈ル、貴国帝王健剛及両国交際ノ益深カラン事ヲ、朕今東京ニ臨ミ、親シク公使ニ遇フ、蓋両国之交際益親厚永久ナラン事ヲ欲ス、宜ク此意ヲ亮察スヘシ、且公使無恙職ニ在リ、亦朕ノ深ク喜悦スル所也
同日亜米利加国公使ウワルケンホルブ、船将カルトルプロウン、領事官総栽ストール、書記官ボルトメン参朝
公使口上書
合衆国大統領、日本帝国ニテ亜米利加合衆国政府之代人タル事ヲ、余ニ任セシ時、是迄之両国和親交際ヲ存保スヘキ命ヲ受ケタリ、第一ニ日本ト条約ヲ取結シハ合衆国ニシテ、右ハ合衆国政府ニ於テ、当帝国及其政府ノ幸福ヲ前進スルニ最益アルモノト考フ、余当国ニ来着セシ以来世界中之最大ナル蒸気商船ニテ、両国之間ニ月々通信スルニ因リ、両国之益尚接近セルニ至レリ、其益既ニ増シ、且国ニ大ナル財勢ヲ開キ、分明開化スルニ従テ連続スヘシ、両国之間ニ今存スル交際ヲ、尚懇篤ニセン事、且両国之間ニ、速ニ生スル大ナル益ニ尽力スル事、常々余カ職掌ニシテ、之レ最希望スル所ナリ、余カ政府ニ代リテ、当今ノ太平及幸福ヲ
皇帝陛下ニ敬賀ス、日本全国全ク静謐シ、太平幸福ヲ全フスル期、速ニ来ランヲ祈ル
勅答
貴国大統領安全ナルヤ、朕常ニ貴国平穏ニシテ、両国交際ノ益深カラン事ヲ祈ル今東京ニ臨ミ、始メテ公使ニ遇ヒ、益両国交際盛大ニシテ、万里比隣ノ思ヲナセリ、宜ク此意ヲ亮察スヘシ、且公使無恙職ニ在ル、朕ノ深ク喜悦スル所也
同日孛漏生国公使フホンブラト、書記官ケンプルアン参朝
独乙北部聯邦公使口上書
一我孛国、日本国ト懇親ヲ結ヒシ以来、公使実ニ今日始テ日本国
皇帝陛下之
天顔ヲ拝スルヲ得ル、何ノ福カ是ニ過キン
一此時ニ因テ、我孛国皇帝陛下ノ日本皇帝陛下ヘノ懇親ナル情願ヲ、外臣フオンブランドニ因テ通スルヲ得ルハ、皆外臣之幸福ナリ
一我孛国皇帝陛下ハ、日本国
皇帝陛下ニ、其親睦ノ情思ヲ徴センガ為メ、正ニ新条約ヲ結ンテ、以愈両国ノ交ヲ厚フセント願ヘリ
一外臣フオンブランド公事ニ勉励シ以テ
皇帝陛下ノ親信ヲ賜ランヲ欲ス、是志願ナリ、仰
皇帝陛下ノ聖察ヲ請フ、若シ然ラザルトキハ、外臣独逸北部聯邦ト日本国トノ幸福ノ為メ、公事ヲ務ル能ハサルベシ
勅答
貴国帝王安全ナルヤ、朕常ニ貴国帝王健剛及両国交際ノ深カラン事ヲ祈ル、今東京ニ臨ミ、始テ公使ニ遇フ、益両国交際永久ノ為ニ新条約ヲ結ヒ、親睦ヲ厚クシ且公使ニ懇接ノ情ヲ尽サント欲ス、宜ク朕カ此意ヲ亮察スヘシ、且公使恙ナク職ニ在リ、亦朕ノ深ク喜悦スル所也

東京城日誌・明治元年7号


東京城日誌 第七
明治元年戊辰十一月
十一月廿四日御沙汰書写
徳川中納言
此度脱艦追討之儀、徳川新三位中将ヘ被仰付候処、幼若之儀ニモ有之、慶喜自分出張仕度段、願之次第モ候得共御沙汰ニ難被及ニ付、養子民部大輔ヘ出張被仰付候間、速ニ奏功、奉安宸襟候様、尽力可致旨御沙汰候事
十一月

松平確堂
此度脱艦追討之儀、徳川新三位中将ヘ被仰付候処、幼若之儀ニモ有之候ニ付、慶喜自分出張、実効相立、奉安宸襟度段願之趣、心事不得止儀ニ被思食候得共、慶喜出張之儀ハ、難被及御沙汰候ニ付徳川民部大輔ヘ出張被仰付候間、同人申合セ、速ニ奏功、奉安宸襟候様、尽力可致旨御沙汰候事
十一月
同日松前藩届書写二通
去月十八日、賊軍脱艦四艘、鷲ノ木村海岸ヘ碇泊、追々揚陸之様子相見候趣、同十九日夜函館府ヘ急報有之候ニ付、知事清水谷侍従様御指揮ニテ、先ツ府兵一小隊并七重村住宅之者二十人余、津軽藩二小隊被差向、同二十一日、又々津軽藩、福山藩、大野藩等ノ兵隊并弊藩二小隊、大野村、七重村両道ヲ進軍二十四日迄互ニ及戦争候得共、味方地利ヲ失フニ因テ、敗軍ニ相成、翌二十五日、清水谷侍従様、津軽青森迄、暫時御避ケ被成候ニ付、弊藩兵隊モ、同様青森迄罷越候趣、且其節弊藩死傷人数、姓名等迄、函館府判事方ヨリ通達有之候分、左之通リ
戦死 士 犬上譲次郎
同 足軽 菊池多作
同 足軽 日角収造
同 同 高畑喜六
手負 同 佐久間熊太
同 同 平沼勘六
同 同 田中為五郎
同 同 吉田善太郎
同 同 津田新太郎
右之通御座候以上
十一月二十四日 松前志摩守内 石川七郎

志摩守領分、羽州村山郡東根陣屋収納米、在所表ヘ積下リ候ニ付、右川下手配トシテ、酒田表ヘ家来出役致シ候処、去月二十五日頃ヨリ、松前表賊徒共、追々襲来、双方打合候処賊船損所出来ノ趣ニテ、一旦退帆致シ、猶其後二艘乗寄セ候得共、城下ヨリ烈シク砲発致シ候ニ付、函館府ヘ引取リ候由、其節在所吉岡村ニ居合候旅船、右見聞致シ、去ル三日同所出帆、酒田湊ヘ着船、申聞候由、猶庄内飛島ニ、旧旗下乗組ノ軍艦一艘碇泊、隊長ノ者申候ニハ、松前ハ乗取候共、唯今迄ハ南部其外頼モ有之候得共、当時ハ右等ノ儀ハ出来不申、地方ヨリ兵糧運送無之テハ、長ク居止リ難相成、然ル上ハ、佐渡島乗取候様可致、依之函館ヘ居合候人数、不残引上ケ、差向ケ可申哉ニ申居候ニ付、無程函館ノ賊共引上ベク哉ノ旨、右旅船ノ者共相咄シ候趣領分東根表百姓磯右衛門ト申者、酒田表出役家来迄申出候由、申越候ニ付、御届申上候、以上
十一月二十四日 松前志摩守家来 石川七郎
同二十五日御沙汰書写十五通
独礼賜天拝 薩州 大山格之助
春来久々之軍旅、励精尽力、殊ニ賊中ニ孤立シ、千辛万苦、遂ニ東北平定ノ功ヲ奏シ候段叡感不浅候、今度凱旋ニ付、不取敢為御太刀料、金三百両下賜候事
十一月

独礼賜天拝 肥前 前山精一郎
同 薩州 和田五郎左衛門
同 筑州 大野忠右衛門
同 長州 桂太郎
久々之軍旅、励精尽力、速ニ東北平定之功ヲ奏シ候段叡感不浅候、今般凱旋ニ付、不取敢為御太刀料、金百両下賜候事
十一月
右各通

肥前 鍋島孫六郎
同 執行玄蕃
小倉 平井小左衛門
因州 和田壱岐
久留米 有馬蔵人
久々之出張、励積尽力之段、神妙被思食候、今般凱旋ニ付、不取敢為慰労、賜酒肴候事
十一月
右各通

薩州兵隊
長州兵隊
小倉兵隊
肥前兵隊
筑前兵隊
久々之軍旅云々、以下十月十九日薩州兵隊御沙汰書同文
十一月
右各通

同日府県ヘ御布令書写
今般東京ニ於テ、議事体裁取調所御取建相成候ニ付テハ、追々御体裁相立候上ハ、府県議員モ、徴集、会議被仰出候間、兼而其心得可有之旨御沙汰候事
十一月

同日諸侯ヘ御布令書写
諸侯家督相続并任叙等被仰付候節大宮御所ヘ献上物、向後於京都可差出事
十一月

同日御沙汰書写
長州 遊撃隊
奥州青森松前之間ヘ出張被仰付候事
十一月

同二十七日御布令書写
東京臨幸、万機御親裁被為遊、蒼生未ダ沢ニ不霑ト雖モ、内地略及平定候ニ付神宮ヘ御成績ヲ被為告度、来月上旬一先ツ還幸被為遊候、猶明春再幸之思食ニ付、百官有司可得其意旨、被仰出候事
十一月

同日御沙汰書写三通
徳川新三位中将
其方儀今度御誓約相済、帰国御暇ヲ賜候、猶前途皇国御維持之儀、深ク御苦慮被為遊候ニ付、厚ク藩屏之職ヲ重シ、励精尽力可有之様御沙汰候事
十一月

戸田土佐守
分家戸田鋠之丞領知、不取敢其藩ヘ御預被仰付置候処、今般御規則相立候ニ付、御引上ニ可相成筈ニ候得共、先般城地焼亡彼是費弊モ不少趣ニ付、出格之訳ヲ以テ、当年物成其藩ヘ被下、来巳年ヨリ御引上被仰付候間、此段相達候事
十一月

東条源右衛門
老体苦労之段、被為聞食、御暇ヲ賜候、依之金二万匹下賜候事
十一月
同二十八日
浜殿ニ行幸、御乗艦御試被為遊候事
同二十九日御沙汰書写七通
軍務官
昨日於浜殿、御乗艦御試被為遊候処、艦中諸事行届候段御満足ニ被思食候、依之酒肴下賜候、猶前日被仰出モ有之、海軍之儀ハ、当今之急務ニ候得者、益以講究精励可有之様御沙汰候事
十一月

大村益次郎
昨日於浜殿軍艦試御被為遊候処、艦中諸事行届候段御満足ニ被為思食候、依之此品下賜候事
十一月

谷村小吉
中島四郎
右同断
十一月
但各通

戸田土佐守
松平摂津守
大田原飛騨守
今般御誓約相済、帰邑御暇ヲ賜候、尚前途皇国御維持之儀、深ク御苦慮被為遊候ニ付テハ、厚ク藩屏之職ヲ重シ、励精尽力可致様御沙汰候事
十一月
右各通

東京城日誌・明治元年6号

東京城日誌 第六
明治元年戊辰十一月
十一月十八日御布令書写
外桜田御門
日比谷御門
数寄屋橋御門
鍛冶橋御門
呉服橋御門
常盤橋御門
神田橋御門
一ツ橋御門
雉子橋御門
清水御門
田安御門
半蔵御門
右郭内出火之節、即刻参内、可奉窺天機、尤右御郭外ト雖モ、風筋ニ依リ、参内可有之事
十一月
(摺り消し6行分)

同日御沙汰書写二通
林半七
今般羽州酒田出張被仰付候ニ付テハ、重大之事件ハ、御指揮可窺出ハ勿論之儀ニ候得共、細事ニ至リ候テハ、都テ御委任候間、便宜処置可有之旨御沙汰候事
十一月
同十九日御沙汰書写二通
各通 肥前兵隊
館林兵隊
大村兵隊
芸州兵隊
久々之軍旅云々、以下十月十九日薩州兵隊ヘ御沙汰書同文
十一月
戸田長門守
其方儀、今度御誓約相済、御暇賜候条、帰邑之上ハ云々、以下去ル十日秋元但馬守ヘ御沙汰書同文
十一月
同日御布告書写
今般議事体裁取調所、御取建ニ相成、諸藩公議人、同所ニテ管轄候様、被仰出候間、其旨相心得、以後建言届窺等、同所ヘ可差出候事
十一月
同二十日御沙汰書写
大関泰次郎
任美作守
叙従五位下

宣下候事
十一月
堀恭之進
任長門守
叙従五位下

宣下候事
十一月
大田原鉦丸
任飛騨守
叙従五位下

宣下候事
十一月
酒井知三
任下野守
叙従五位下

宣下候事
十一月
山口長次郎
任周防守
叙従五位下

宣下候事
十一月
大久保三九郎
任佐渡守
叙従五位下

宣下候事
十一月
井上辰若丸
任伊予守
叙従五位下

宣下候事
十一月
前橋少将
其方儀、先般野州辺賊徒出没、地方不穏候ニ付、上野全国鎮撫被仰付、民政其外諸取締向、行届候様尽力可致段御沙汰有之候処、彼地追々平定ニ及候ニ付、今度被免候事
十一月
阿州藩
城中取締被仰付置候処、今度被免候事但城中取締中、勤労之者ヘ、金百両下賜候間、夫々配分可致候事
十一月
同二十一日御沙汰書写
大関美作守
其方儀、今般御誓約相済、御暇賜候条、帰邑之上ハ、云々、以下去ル十日、秋元但馬守ヘ御沙汰書同文
十一月
蜂須賀中納言
当今時事多端之折柄、願之趣容易ニ御許容難被仰付儀ニ候得共、国情無余儀次第被聞食、格別之思食ヲ以テ、暫時御暇賜候事
但発途日限等之儀、追テ御沙汰候事
十一月
同日松前藩届書写
去月十九日、松前地ヘ賊徒押入之儀、津軽藩早追笹森勇太郎外一人ヨリ、申聞候ニ付、其段去ル三日、先御届申上置、早速私附属之者両人、在所迄差下シ候途中、去ル六日、秋田久保田ニ於テ、同所迄在所表ヨリ、去ル二日出帆、急早ニテ罷登リ候飛脚之者両人、出会候ニ付、模様承合候処、箱館詰諸家陣屋御人数引払相成、同所御裁判所之儀、当家一手御固被仰付、依之人数差出置候処、賊徒共鷲ノ木村ヨリ上陸之由ニテ、去月廿二日、箱館ヘ押向候様子ニ付、当家人数先陣ニテ、同所居合之諸藩出兵被仰付候得共、賊勢烈シク、同二十三日戦争有之候ニ付、兼テ箱館為御警衛、同所ヨリ三里程西ノ方ヘ、隔リ罷在候戸切地陣屋ヨリ出兵仕、猶福山表ヨリ、追々出兵相成候得共、賊勢益烈シク、苦戦罷在候趣、尤其前、福山近海ヘ、賊徒蒸気船ニテ乗入、城中ヘ砲発致シ候ニ付、双方打合候ノ処、賊船ヘ相当リ、損所出来候様子ニテ退帆、其後城下ヨリ、五里程東ノ方、福島村ト申処ヘ、猶乗寄セ、此処ニ於テモ討合ニ相成、遠海ヘ馳去リ、其後箱館附、鷲ノ木村ヘ乗寄リ候哉ノ趣ニ付、秋田、津軽両藩ヘ急速援兵申入ノ為メ、罷越候得共、是レ以テ諸方ヘ出張有之由ニ付、急速援兵之儀、如何可有御座哉之旨、在所表ヘ差下候附属ノ者一人、今九日罷帰、伝聞ノ趣申聞ニ御座候、尤清水谷様御儀、諸藩並当家人数御警衛申上、去月二十四日箱館表ヨリ蒸気船ニテ、津軽青森ヘ御移陣、此程同国浪岡ト申処ヘ、御動座ノ由、当家人数ノ儀ハ、右蒸気船拝借帰国被仰付候趣ニ御座候、右松前ノ儀ハ孤島ノ儀ニモ御座候得者、援兵手延罷在候内諸家脱走ノ潜賊共、追々寄合候様ニテハ、此上不容易儀ニ可有御座候間、松前最寄諸藩ヘ、急速援兵被仰付候様仕度奉存候、依之此段申上候以上
十一月 松前志摩守家来 石川七郎