太政官日誌 明治二年 第百号
明治己巳 九月十八日
東京城第六十三
○九月十八日〈丙戍〉
浦高札案
定
一、御用船ハ申ニ及バズ、諸廻船トモニ、遭難風時ハ、見付次第速カニ助船ヲ出シ、破損セザル様、精々力ヲ尽スヘキ事
一、船破損ノ節、其所近キ浦方ノモノ、手伝イタシ、可成丈荷物、船具等取揚ベシ、其海上ヨリ取揚ル所ノ荷物ノ内、浮荷物ハ二十歩一、沈荷物ハ十歩一、取揚候モノヘ可遣之事
但、川船ハ浮荷物ハ三十歩一、沈荷物ハ二十歩一可遣之、惣テ歩一ハ其品相当ノ代金ヲ以テ、可相渡事
一、同断ノ節、深海ノ沈船、又ハ沈船ニモ至ルベキ程ノ水船、或ハ浅キ場所ノ沈船ヨリ荷物陸揚イタシ候モノ共ヘ、前々ヨリ歩一渡来候処、自今相当ノ賃銭可遣之、其余諸働人足幷諸入費等、所役々仕来候分、是又相当ノ賃銭入費トモ可渡遣事
附、所役人取締イタシ、無益ノ人足差出候儀ハ勿論、可成丈入費カカラザル様可心付、総テ過当ノ賃銭等貪取、アルヒハネダリ箇間敷儀有之ニオヰテハ、可為曲事事
一、難風ニ逢、沖ニテ荷物ハネステ候時ハ、着船ノ湊ニオヰテ、其所ノ府藩県役人、庄屋等出会、遂穿鑿、船中残リノ荷物、船具等取調、証文可差出事
附、船頭浦々ノモノト申合、荷物ヲ盗ミ取、ハネタリト偽リ、後日ニ顕ハルヽニ於テハ、船頭ハイフニ及バズ、申合セシ輩ニ至ルマテ、厳重咎可申付事
一、流寄ノ船幷荷物等ハ、浦方ノモノ見付次第可揚置、六ケ月ヲ過、持主不相知時ハ、揚置モノ可取之、タトヒ持主相知ルヽトイフトモ、六ケ月ヲ過ル後ハ、差返スニ及バズ
但、其所府藩県役所ノ可請差図事
一、湊ニ長ク船ヲ懸ケ置モノアラバ、其子細且何方ノ船ト相尋、日和次第早々出船イタサスベシ、若出船イタシガタキ次第有之ニオヰテハ、其趣篤ト聞糾シ、其所府藩県役所ヘ可申出事
一、貢米ハ船具、水主不足ノ悪船ニ積ベカラズ、且日和能キ節、破船セシムル時ハ、船主、船頭可為曲事、総テ船中ニ於テ、理不尽成儀申募リ、又ハ私曲ヲ工ムモノ有之ニ於テハ申出ベシ、同類タリトモ其料ヲユルシ、褒美可遣事
一、貢米積船ハ、船足定ノ所ニ極印ヲ打、船頭、水主ノ人数ヲ減少セザル様申付、運漕セシムル筈ニ候間、湊ヘ懸リ候ハヾ、船足ハ極印ノ通ニテ、船頭、水主人数モ、送状ノ通無相違哉、所役人ニテ相改、若極印ヨリ船足深入ノ船ハ、積入ノ俵数取調、送状ニ無之荷物積入候カ、又ハ水主人数令減少候ハヾ、私ニ積入候荷物ハ取揚置、水主人数不足ノ分ハ、其所ニテ慥成水主ヲ雇ハセ出船致サスベシ、其上ニテ右ノ趣、其所ノ府藩県役所ヘ可申出事
明治二己巳年九月
英国王子参内略記追録
七月廿二日、王子横浜ヘ着艦、寺島外務大輔艦ニ就テ之ヲ労ス
廿四日第八字、英国甲鉄船「オーシン」ニ於テ、祝砲廿一発、神奈川砲台〈英国ノ旗章ヲ掲ク〉及各国軍艦ニテモ亦祝砲各二十一発、「カラチア」〈王子所駕ノ艦名〉ニテモ〈菊ノ御旗ヲ掲ク〉応発数ノ如シ、第十一字、王子上陸、公使館ヘ着ス
七月廿五日、領客使伊達従二位、随使中島中弁、客館ニ到リ宣旨ヲ伝フ、第十字、王子延遼館ニ至ル、途中金川県兵護送シテ、横浜ヨリ川崎ニ至リ、同所ヨリ延遼館迄、別手組之ヲ護送ス
掌客宮本外務権少亟等、品川駅迄出迎、外務卿、領客使等延遼館ニテ出迎、兵部卿宮延遼館ヘ到リ、王子ヲ労問シ、且宣旨ヲ伝フ、外務卿モ亦就テ之ヲ労ス、王子ヘ附従シ来ル者左ニ
アドミラル。テ、ヲノールレーブル、シルペンリー、カツペル
デ、ヲノールブル、イー、シーヨルク
リユーテナンド、ヱーピーヘーグ
リユーテナンド、ロミニー
リユーテナンド、ラムスヱイ
リユーテナンド、フール
ミストル、チヱウヱリール
外ニ日本在留之英人
シルハルリー、ハークス
ミツトホル
アレキサンドルフオンシーボルト
七月廿八日第一時、王子参内、領客使大原正四位出迎、公使「シルハルリー、ハークス」水師提督書記官「ミツトホル」等陪従ス廷内御接待次第、略之
王子帰館後、又兵部卿宮ヲシテ労問セシム
八月朔日、三条右大臣、岩倉大納言、徳大寺大納言、大久保参議、広沢参議、副島参議、松平民部卿、鍋島従二位等延遼館ニ到リ、王子ヲ慰問ス
八月三日第十字、王子川蒸気船ニ駕シテ、品川沖ニ至リ、本艦ヘ移リ、横浜ニ還ル、外務卿送テ乗船場ニ到リ、兵部卿宮、大久保、広沢両参議等同船、品川沖ニ至リ、領客使、随使同船、送テ横浜ニ至ル
八月十一日三字半、王子乗艦、横浜ヲ発ス、祝砲ヲ放ツ、着艦ノ時ノ如シ
接客官員
領客使二人
伊達従二位
大原正四位
随使二人
中島中弁
町田外務大亟
掌客一人
宮本外務権少亟