江城日誌・慶応4年4号

江城日誌 第四号
慶応四戊辰年五月十五日

五月十四日
徳川亀之助
上野山内ニ有之候祖先之霊位、重器等、今日中取片付候様、大総督宮御沙汰候事
五月十四日
○高札并市中へ御触之写
過日以来脱走之輩、上野山内其外所々屯集屡官兵を暗殺し、或は官軍と偽り民財を掠奪し、益兇暴を逞する之条、実ニ国家之乱賊たり、以来右様之者ハ、見付次第速ニ可打取若万一密ニ扶助致し、或は隠し置候者於有之者、賊徒同罪たるべき者也
五月
今般徳川慶喜、恭順之実効を表するニより祖宗之功労を被
思食家名相続被仰出、城地禄高等之儀も追々御沙汰ニ相成、末々之者ニ至迄、各其所を得ざる者無之様、被遊度との
思食ニ被為在候処、豈図んや、旗下末々心得違之輩、至仁之
御趣意を拝戴し奉らざるのみならず、主人慶喜之素志ニ戻り、謹慎中之身を以、恣ニ脱走ニ及び所々屯集、官軍ニ相抗し、無辜之民財を掠奪し、兇暴至らざる所なく、万民塗炭之苦ニ陥らんとす、故ニ今般不得止之を誅伐せしむ、素より其害を除き、天下を泰山之安きニ置き、億兆之民をして、早く安堵之思ひをなさしめん為なれバ、猥ニ離散する事あるべからず、篤と
御趣意を体認し奉り、末々之者ニ至る迄、聊心得違無之、屹度安堵致し、各其生業を営み其分ニ安すべき者也
五月

徳川亀之助江
過日以来、旗下末々心得違之者
朝廷寛仁之
御趣意を不奉拝戴、主人慶喜恭順之意ニ背き、謹慎中之身を以脱走ニ及び、上野山内其外所々屯集、官軍ニ抗衡す、実ニ不可赦之国賊也、故ニ不被為得止、明十五日誅伐被仰出候、此段為心得可相達旨、大総督宮御沙汰候事
五月
松平下総守
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并芸州兵隊被差遺候間、万事申合領内取締向ハ勿論、厳ニ軍備を整へ、賊徒落行候者有之節ハ、速ニ可打取、万一不都合之儀於有之者、屹度御沙汰ニも可被及候間、精々不行届無之様尽力可有之旨、大総督宮御沙汰候事
五月
土井大炊頭
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并肥前兵隊被差遺候間以下前同文
五月
松平周防守
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并筑州兵隊被差遺候間以下前同文
五月
○近国之藩々江御達之写
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之領内取締向ハ勿論以下前同文
○上野輪王寺宮江御送ニ相成候
御書之写
今度徳川慶喜、恭順之実効相立、家名相続之儀被仰出候ニ付、旗下之輩、愈以謹慎可在之処、心得違之徒恣ニ脱走、所々ニ屯集、人之意ニ相戻り候のみならず、屡官兵を暗殺し、民財を掠奪し、王化を妨候所業、実ニ不相済次第ニ付、速ニ誅伐ニ可及者勿論之儀ニ候得共、今日迄遷延ニ相成候者、畢竟宮御方ニハ、御懿親之儀故、於朝廷厚き
思召も被為在、於総督宮も深御配慮被遊、御使を以て御登城之儀、被仰入其後参謀をも被差遺候処、御面会も無之、猶又再応覚王、竜王両院をも被為召候得共更ニ出頭不致、此上ハ御救被成進候道も絶果、一方ならず御焦慮被遊候、乍去何分国家之乱賊、其侭被為差置候而ハ、万民塗炭之苦ニ陥り朝憲も更ニ不相立次第ニ付、誠ニ不被為得止誅伐被仰出候間、宮御方急速御立退ニ相成候様可申上旨、大総督宮御沙汰ニ候間、此段申上候、宜執達可有之候也
五月十四日
○各藩之兵隊江御沙汰之写
旗下末々脱走之輩、上野山内其外所々屯集屡官軍之兵士を暗殺し、無辜之民財を掠奪し、益暴虐を逞し、官軍ニ抗衡す、実ニ大罪不可赦之国賊也、最早
朝廷寛仁之道も絶果、断然誅伐被仰出候付而者勇闘激戦、奮て国賊を鏖殺し、億兆蒼生之塗炭を救ひ、速ニ平定之功を奏し、可奉安宸襟旨、御沙汰候事
五月

兼而御軍令にも被仰出候通、猥ニ民家を放火し、家財を掠める等、乱妨狼藉ケ間敷儀無之様、精々可相心得旨、尚改而被仰出候事
五月十四日