太政官日誌第五十九
慶応四年戊辰秋八月
【三春開城ト二本松落城ノ事】
八月十九日大垣藩届書写二通
采女正分隊人数、去月廿四日棚倉ヨリ進撃、順序之通追々相進、去月廿六日暁二字、各藩蓬田発足、三春ヘ進撃之処、城主降伏之趣ニテ士商共一向騒擾之様子モ無之、口々関門等警衛モ有之、夕方諸藩隊長一人宛城中ヘ繰込、無故障引渡相成、同夜同所ニ宿陣、同廿七日十二字、本宮ヘ為進撃各藩三春出発、途中糠沢村賊徒屯集、各藩斥候隊ニテ忽追払、弊藩人数之儀ハ後陣ニ罷在、右ヘハ相当リ不申候、同日同所宿陣、同廿八日暁五字過、賊徒本宮南口ヨリ、三方ニ凡千人計襲来、各藩持場、北仙台口ハ忍、黒羽、西山手間道ハ弊藩、右之方土藩、南之方彦根、館林、各藩持場ヘ駆付、以大小砲及戦争、遂ニ打退ケ、一里計モ追撃、賊多分死傷有之、当手ニテ現ニ討取候賊二人御座候、其節弊藩死傷無之候、同廿九日五字過二本松為進撃本宮発足、諸隊後列進軍、尤弊藩斥候隊一分隊之人数ハ諸隊ト同様相進及発砲候処、先鋒官軍既ニ城中討入ニ相成、所々放火、二字過頃落城相成申候、尤弊藩斥候隊之内、一人戦死仕候
斥候隊於二太松死 銃卒 菱田巳之吉
於本宮博徒一人生捕、則及斬首候
右廿六日ヨリ之戦状、御届申上候、以上
八月
戸田釆女正家来 戸田三弥
右之通、出先御総督府ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候旨申越候間、此段御届申上候、以上
八月十九日
戸田采女正家来 壮合渚之介
去月奥州路ヘ為増人数繰出候内、酒井弥右衛門手之者共、去月廿七日本宮ヘ進候処、翌廿八日朝六字頃ヨリ戦争相始リ、十二字頃終リ、其節討取十二人、内一入ハ生捕ニ御座候趣、以書状申越候、此段モ御届申上候、以上
八月十九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
【越後川辺ノ戦】
同日上田藩届書写
越後表之儀、先般御届申上候後、川辺村之方六月十六日後モ、不絶戦争有之、就中同十九日夕八時過ヨリ、大口村ヘ賊襲来、加長勢ト戦争相始リ、大小砲声烈敷響キ、賊必死之勢頗烈戦之様子ニ付、弊藩人数横合ヨリ及応援奮戦夜半ニ至リ、賊敗走仕候、同廿一日、賊八十人程福島并亀貝、稲葉等所々及放火、其勢ニ乗シ、筒場、十二潟、大黒等ヘ襲来仕、弊藩持場川辺村之方ヘモ烈敷打掛、諸手何レモ奮戦候得共、夜半後ニ至リ火勢弥熾ニ賊勢益烈敷、翌廿二日ニ至リ候テモ戦争無止、官軍殆ト危急之処、長州新手之人数繰込、及応援候ニ付、夕刻ニ至リ賊遂ニ敗衄、不残逃去申候、尤弊藩戦死別紙之通ニ御座候、扱又乙吉村之方ハ、其後賊襲来候様之儀無御座候、右之通出陣先家来共ヨリ申越候条、可申上旨伊賀守ヨリ申付越候、前書之次第、去月中旬申越候飛脚之者不快ニテ、半途ヨリ帰国仕候ニ付、今般猶又申越候、右ニ付去ル七日御届ト前後仕候、此段乍延引御届申上候、以上
八月十九日
松平伊賀守家来 赤座寿兵衛
去ル六月十九日、川辺村戦争之節、戦死
小銃隊 竹内林右衛門
同月廿二日、同所宿陣ニテ、病人共療治仕居候節、飛丸ニ中リ、廿四日死ス
医師 林亮斉
右之通ニ御座候、以上
八月十九日
【奥州原街道ノ戦】
同日阿波藩届書写
去月朔日暁四字頃、賊徒多勢湯本口并弊藩人数之内持場原街道ヘ襲来仕候ニ付、暫砲戦仕候得共、賊兵進出仕候故、大砲繰出シ、取交ヘ激戦相及候内、薩藩、土藩ト進撃ニ相及候手筈申合、五字頃進入戦争仕候処、賊兵支兼敗色相見エ候ニ付、兵隊分配仕、一手ハ正面之野山ヘ攀上リ、一手ハ薩藩、一手ハ土藩ト同手ニ相成進撃仕、賊兵敗走ニ相及、羽太村熊村、馬船村辺迄進撃仕候処、賊兵民家ヘ放火仕、退散ニ相及候故、八字頃兵隊相纏、持場ヘ引揚申候、弊藩人数之内、一人モ手負無御座、賊二人切捨、其余打留候者モ有之候得共、多少不分明ニ候、分取之品々、左之通御座候旨、出先隊長上田甚五左衛門ヨリ申越候ニ付、不取敢此役御届申上候、以上
七月七日
蜂須賀阿波守家来 疋田友衛
分捕品々覚
一、小銃 二挺 一、大小刀 二腰
一、小旗 白地ニ赤ノ日丸 二流 一、袖印 仙台藩 一ツ 一、胴乱 一ツ
以上
別紙写之通、於東京御総督府御届申上候旨申来候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十九日
蜂須賀阿波守内
根本熊次郎
【奥州及位口ノ戦】
同日小倉藩届書写
七月十日夜九ツ時、弊藩人数三小隊院内出発、翌未明本道及位口ヨリ、肥前大砲一門先ニ立、弊藩小銃ヲ以横矢ヲ打、次第ニ進撃、及位村内ヨリ賊之台場ヘ打出、賊徒忽敗走ニ付、尾撃仕候処、絶頂辺之台場ヨリ頻ニ拒戦仕候ニ付、尚又烈敷攻立候得共、至極之険難要害之場所ニテ其功相立不申、且又最前新庄藩ヘ、応援之約束申置候得共、無其聞、八ツ時半頃迄力戦仕、次第ニ兵隊疲労ニ付、賊之巣窟及位村放火、兵隊繰引、下山、一先院内迠引揚申候、此段不取敢御届申上候、尤死傷、分捕、左之通ニ御座候
分捕
一、臼砲 <榴弾四発添○此榴弾ヲ以忽賊之台場へ打込申候>一門
一、頭形兜 一ツ 一、火縄 一束
一、韮山笠 二枚 一、風呂敷包 一ツ
一、胴乱 ニツ 一、幕 半張
一、和筒 三挺 一、インヒユル 一挺
一、垂駕 一挺
一、討死 徳永吉太郎隊 上田篤兵衛
一、手負 葉山平右衛門隊 高木太兵衛
一、同 松島六治
一、同 志津野源之丞隊 安成昇兵衛
一、同 同 木村旋蔵
右之通ニ御座候、以上
月日
小笠原豊千代丸人数頭 平井小左衛門
右之通、於羽州表御総督ヘ御届申上候段、申越候ニ付、此段御届申上候、以上
八月十九日
小笠原豊千代丸内
丹羽六兵衛
入江宗記
【奥州釜ノ子、西須賀川ノ戦】
同日彦根藩届書写三通
当月廿四日、弊藩固メ場所釜ノ子駅ヘ、賊襲来候様子ニ付、直ニ大隈川辺ヘ出張、手配致シ候処、九ツ半時頃賊勢四五百人押寄、頻リニ発砲、一旦川中央迄モ進来候処、大小砲ヲ以撃退ケ、薄暮止戦仕候、其節味方手負、別紙之通ニ御座候、此段御届申上候、以上
七月廿八日
井伊掃部頭家来 河手主水
三浦半蔵隊 平塚市左衛門
青木十郎次隊 中川喜多郎
右手負ニ御座候
七月廿六日払暁、弊藩先手分隊田毎神村出発三春ヘ進軍仕候処、開城降伏相成候間、同夜先鋒館林、弊藩人数ニテ城受取リ申候、其節残賊散乱致候内、別紙之通生捕、分捕仕候趣、三春出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上
八月五日
井伊掃部頭家来 河手主水
生捕一人<福島藩遠藤謹吾>搦取人 久保田松之進
同一人<仙台藩佐々木賢之助>同 田中外次郎
同四人仙台藩<加藤九三郎 佐藤金太夫 芳賀宇佐次 佐藤左門>
以上
一、小銃 四挺 一、弾薬 一箱
一、弾薬 三包
右分取ニ御座候
七月廿七日、弊藩先手分隊三春陣払、各藩同様二本松ヘ進軍仕候処、本宮駅入口阿武隈川渡船、賊徒共悉引揚置候ニ付、筏組立、同夜九時頃一同渡船、翌廿八日未明、須賀川会津口等諸道ヨリ賊徒襲来候ニ付、弊藩人数会津口両路ヘ進撃、追却仕候処、後西須賀川口苦戦之趣ニ付、急速返援、半道計尾撃、終ニ未ノ半刻止戦仕候、其節討取、生捕并弊藩死傷、別紙之通御座候趣、本宮出先ヨリ申越候条、此段御届申上候、以上
八月五日
井上掃部頭家来 河手主水
一、首 仙台藩 八級 一、生捕 同 五人
右討取生捕ニ御座候
一、討死 貫名徳次郎隊 木田余喜一郎
一、軍事局付 田中外次郎
一、手負 貫名徳次郎隊 中川織之進
磯島新七
平山信太郎
大砲隊 大塚路之介
常盤平蔵
堀部弥次郎隊
寺田権三郎
右討死、手負ニ御座候
考正
第四十四巷、第一葉前面ノ、飯田藩届書トアルハ、椎谷藩ノ誤リナリ