太政官日誌・明治2年95号

太政官日誌 明治二年 第九十五号
明治己巳 自九月二日 至八日
東京城第五十八
○九月二日〈庚午〉
【京師大学校御建替ノ事】
御沙汰書写
留守長官
一、京師大学校御建替ニ付皇学所、漢学所当分御廃之事
一、是迄之御用掛リ、不残被免候事
一、是迄皇学所祭典執行之学神、一ト先神祇官ヘ返座之事
一、学神追テ神祇官ヨリ可被渡候事
一、学政向小事ハ、長官専決可致、重事ハ伺之上可取行事
【会津降人北海ヘ移住ノ事】

兵部省
元会津降伏人、格別之寛典ヲ以テ、北海ヘ移住被仰付候事
【奥羽按察使派遣ノ事】
右大臣ヨリ委任状写
按察使
民政ハ治国ノ大本、至重之事トス御一新以来、専ラ億兆其所ヲ得テ、生業勉励候様トノ御趣意之処、三陸、磐城、両羽等之地ニ至テハ、去年兵革打続、平定ノ今日ニ当リ、万民猶未タ安堵セス御仁恤ノ御趣意貫徹ニ至ラス、実ニ太政之隆替ニ関係候間、今般按察使トシテ被遣候、付而ハ藩県ノ政績ヲ熟察シ地方官ト戮力協心、専ラ御趣意ヲ奉体シ、政教治化、其道ヲ尽シ、上下之情ヲ貫通セシム可ク候事
右大臣
○三日〈辛未〉
【哇布島ヘ使節差遣ノ事】
御沙汰書写
上野監督正
為御国人召還、以当官、哇布島ヘ使節被仰付候事
【東本願寺北海道開拓ノ事】

東本願寺光勝
今般北海道新道切立、願之通被仰付候付、開拓使之揮指ヲ受ケ、可致尽力旨御沙汰候事
【増上寺北海道支配地ノ事】
増上寺
日高国之内、静内郡
右其寺支配被仰付候事
【北海道開拓使ヘ御沙汰ノ事】
開拓使北海道 出張之面々ヘ
今般北海道出張、不容易艱難、太儀之事ニ候其成否皇威之汚隆ニ関係候間、各同心戮力シテ、勉励従事可奏其功旨御沙汰候事
○四日〈壬申〉
【僧官免許差止ノ事】
御沙汰書写
各通 仁和寺門跡
大覚寺門跡
勧修寺門跡
従来其寺ニ於テ、永宣旨ヲ以テ僧官差免来候得共、今般御一新ニ付、向後被廃止候間、此旨相達候事
但、是迄許置候向ハ、一代切可為其侭事
○五日〈癸酉〉
【兵部省北海道支配地ノ事】
御達書写
兵部省
石狩国之内、浜益郡、忍路コツ、ツイシカリ札幌郡
後志国之内、忍路郡、余市郡、美国郡、古平郡
右其省支配被仰付候事
○七日〈乙亥〉
【前橋、磐城平両藩知事帰藩ノ事】
御沙汰書写
各通 前橋藩知事
磐城平藩知事
今般帰藩被仰付候ニ付テハ、兼テ被仰出候御趣意ヲ奉体シ、可尽職任旨御沙汰候事
【庄内藩北海道支配地ノ事】

庄内藩
胆振国之内、虻田郡
右其藩支配被仰付候事
【澳国ト条約締結ノ事】
御布告書写
今般澳太利国ト、条約御取結相成候ニ付、此旨相達候事
○八日〈丙子〉
【弾例書写】
一、親王及諸司ノ奏任、非職ノ五位以上ノ犯解官〈親王ハ徒罪〉以上及判任以下、庶人ノ父母ヲ殴チ、判逆ニ連累スルモノハ奏弾ス、自余ハ直ニ刑部省ニ糾移ス
一、判任以下ノ解官以上ハ、台ニ於テ糾弾シ自余ノ犯ハ、本司及府藩県ノ司ヲ召シテ糾弾ス、又市井庶人ノ非違ハ、巡察視ル所ヲ審ニシ、是ヲ府官ニ移シテ糾サシム、藩県同之
但、本司及ヒ府藩県ノ司ハ、判官以上ヲ召ス可シ
一、応須糾劾シテ、犯罪未タ其実ヲ審ニセス拠状ヲ勘問スヘキハ、刑部省ニ移シテ推拷セシメ、委ニ事由ヲ知テ、事大〈解官以上〉ナラハ奏弾ス、又罪条既ニ明著ニシテ、勘問ニ及ハス、或ハ告密ニ渉リ、事急卒ニ出ルモノ等ハ、直ニ刑部省ニ告テ捕縛セシメ、其推拷スル所ヲ得テ、事大ナラハ奏弾ス、其直ニ省ニ告テ捕縛セシメ、推拷セシムルノ時解官以上ノ罪ハ、大忠以下一人、省ニ臨テ是ヲ聴ク、又台ヨリ発スルノ罪ニアラスト雖モ、大獄ニハ大忠以下監臨スル事、既ニ布令アルカ如シ
一、刑部省死囚ヲ決セハ、断案ヲ台ニ移ス可シ、若寃枉灼然タルアラハ、決ヲ停メテ奏聞ス、又死罪既ニ奏報ストイヘトモ、猶寃枉ヲ訴シテ、事可疑アラハ、推覆シテ、以状奏聞ス可シ
一、犯罪発覚スル所ヲ論セス、杖罪以下トイヘトモ、科断ハ一々刑部省ニ附スヘシ
一、親王、大臣以上官人、及ヒ華族ヨリ庶人ニ至ル迄、車馬、兵仗、衣服、従者ノ数法則ニ違、華麗僣奢ニ過ルモノハ糾弾ス、吉凶ノ礼法ヲ超ルモノモ又同
一、官司枉判アレハ、所由ヲ追テ糾正ス、又官人本司ニ於テ政ヲ行フニ、怠慢シテ欠有ラハ是ヲ糾劾ス
一、納表匱官人ノ害政、及ヒ抑屈ヲ告ルノ書ハ、弁官右大臣ニ上リ〈不可披見〉後台ニ受テ其所訴ヲ案察シ、理当ハ奏聞シ〈事大小ヲ論セス〉不当理ハ之ヲ弾シテ、刑部ニ移ス
一、京中ノ巡察ハ、毎町坊令一人ヲ従ヘテ巡視ス、若急卒捕縛スヘキモノアラハ、巡邏ノ兵ヲシテ縛セシメ、先勘問シテ所司ニ移ス
一、巡察弾正、時々京中便地ヲ点シ、坊令ヲ従ヘ、戸主ヲ会集セシメ、巡察是ニ臨ンテ京府官人及坊令等百姓ヲ枉害セルカ、時勢其宜キヲ得サルカ、孝順義節ノ顕ハレサルモノ有カ、如何ヲ尋ヌ可シ、藩県同之
一、巡察時々囚獄ヲ検校シ、獄司ノ非違ヲ糾弾ス
一、人罪ヲ告ルモノアラハ、宜ク三審ノ法ヲ用ユヘシ、告密モ又令文ニ拠ル
一、奏弾ハ太政官ヲ歴スシテ、直ニ奏聞スト雖モ、時宜ヲ計リ、尹若クハ弼、右大臣ト共ニ奏ス可シ、尹弼アラサレハ大忠、右大臣ニ就テ奏ス、但シ、右大臣ノ外、職事預聞事ヲ得ス
一、親王及参議以上ノ罪ヲ糾劾ス可ンハ、時宜ニ従テ制ヲ立ツヘシ、其朝堂ノ非違ハ、式ノ例ニ准ス、但、参議以上ハ尹弼アルニアラサレハ、弾スルヲ得ス
一、四位以下ノ糾弾ハ、悉ク台ニ召ス
一、参議以上身病アレハ、家令ヲ召シテ勘問ス、家令本主ニ告テ猶不肯答ハ、忠以下其家ニ向テ対弾ス、四位以下病アレハ、其愈ルヲ俟テ台ニ召ス
但、急卒ノ事アレハ此例ヲ用ヒス
一、台喚三度ニシテ参セス、幷ニ勘事ヲ弁申セサルモノハ、罪ニ処スヘシ
一、非常巡察ヲ藩県ニ発シ、政事ヲ覆問シ、非違ヲ糾弾ス可ンハ詔使ノ例ニ准スヘシ
一、叛逆告密アルニアラサル以外ハ、内奏スル事アルヘカラス
但、勅問ニ出ルモノハ此限ニアラス
一、弾正私ヲ挟テ、事実ナラサルモノヲ弾セハ、反坐ノ法ニ准スヘシ
一、尹若シ犯スコトアラハ、弼以下忠以上、共ニ議判シテ奏弾ス、其台中ノ官人非違アラハ、各相弾ス
一、朝議法律ニ関ルモノハ、弾正悉ク預知ルヘシ、儀式衣冠等ノ制度モ又同シ
右依天裁決定如件
明治二年八月
弾正台

太政官日誌・明治2年94号

太政官日誌 明治二年 第九十四号
明治己巳 自八月廿八日 至二十九日
東京城第五十七
○八月廿八日〈丁卯〉
【本願寺僧徒北海道教化ノ事】
御沙汰書写
開拓使
今般本願寺東門主ヨリ、北海道新道切立之儀且有志之僧徒、新開村落ヘ移住、人民教諭為致度段、願之通被差許、万事其府ヘ可伺出旨申渡候間、此段相達候事
但、北海道土地支配被仰付候藩々ヘ、為心得其府ヨリ可相達事
【山口藩北海道支配地ノ事】

山口藩
今般支配被仰付候三郡之内、宗谷郡之儀ハ御用之地所モ有之候ニ付、開拓使ヘ可伺出事
【金沢外八藩北海道開拓ノ事】

各通 金沢藩
鹿児島藩
静岡藩
名古屋藩
和歌山藩
熊本藩
広島藩
福岡藩
山口藩
右之藩々ヘ各通御達書写
北海道開拓之儀ハ、兼而被仰出候通リ、即今之急務ニ而、追々御手ヲ被為着候処、何分全国之力ヲ用ヒズンバ、成功無覚束、依之今般別紙地所、其藩ヘ支配開拓被仰付候間、桔据経営、実効相立候様可致事
【金沢外八藩北海道支配地ノ事】

金沢藩
北見国之内、宗谷郡、利尻郡、枝幸郡
右三郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 鹿児島藩
十勝国之内、当縁郡、広尾郡、河西郡
日高国之内、様似郡、浦河郡
右五郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 静岡藩
十勝国之内、十勝郡、中川郡、大津河東郡、上川郡
右四郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 名古屋藩
北見国之内、斜里郡、網走郡
右二郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 和歌山藩
北見国之内、紋別郡
右一郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 熊本藩
根室国之内、目梨郡、標津郡
右二郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 広島藩
北見国之内、常呂郡、釧路国之内、網尻郡
右二郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 福岡藩
後志国之内、久遠郡、奥尻郡
右二郡、其藩支配ニ被仰付候事
○ 山口藩
石狩国之内、樺戸郡、雨竜郡
天塩国之内、増毛郡、留萌郡
右四郡、其藩支配ニ被仰付候事
【東京、京都両府救助米ノ事】

東京府
米三千石
○ 京都府
米七百石
右窮民救助トシテ、月々大蔵省ヨリ相渡候条施行可致事
○二十九日〈戊辰〉
【鍋島侯賞典半高返納ノ事】
御沙汰書写
佐賀藩知事 鍋島直大
賞典ハ深重之叡旨ヲ以、被仰出候事ニテ願之趣不被及御沙汰段、先達テ相達候得共猶又再往懇願之旨趣、全至誠之所致、神妙之至被思食候、就而ハ北海道開拓ハ皇威隆替之所係、方今至重之御急務ニ候処、今年諸道不登、庶民凍餒之勢ニテ、目下救荒之典モ難被為捨置、旁以御用途必至御差迫リ之折柄不被為得止、乍不本意当年限リ賞典半高返納被聞食、開拓御用途ニ可被為充行旨、被仰出候事
【相馬侯陞叙ノ事】
中村藩知事 相馬季胤
民政ハ国家之基本、至重之要務ニ候処、其藩年来治教撫育隣藩ニ抽テ、先般福島辺取締被仰付候節モ、兵乱後人心紛擾之処、鎮静向格別ニ行届候段、神妙ニ被思食候、依之位階一級ヲ被進候事
○ 中村藩知事 平季胤
叙正五位

宣下候事
【咸臨、昇平二船開拓使所轄ノ事】
開拓使
咸臨丸、昇平丸、自今其府所管ニ被仰付候間、大蔵省ヨリ請取可申候事

二十四藩触頭ヘ御達書写
公議人ハ、執参中ヨリ可相勤旨、従前之御規則ニ有之、今般御改正、正権大参事、即チ執参ニ相当候間、此段為心得相達候事

太政官日誌・明治2年93号

太政官日誌 明治二年 第九十三号
明治己巳 追録
東京城第五十六
○追録
【香春藩、羽州戦記】
香春藩羽州戦争届書写
七月十二日辰下牌、我藩一小隊、塩根坂間道ヲ繞リ、肥前藩一小隊、大砲一門、我藩二小隊、塩根坂本道ニ向フ、賊已ニ夜ニ乗シ逃ル進テ金山駅ニ至ル、時ニ薩長ノ飛報至リ、我兵急速新荘ニ至ラン事ヲ求ム、乃夜ヲ冒シテ馳セ、子牌新荘ニ達ス、同十四日仙台、荘内湧屋ノ賊、山形ヨリ兵ヲ返シ、清川ニ趨リ、鳥越村ヨリ両道来襲ス官軍各藩、預メ兵ヲ左右杉林中ニ伏シ、本道ハ肥藩、其正面ニ当リ、我分隊之ヲ横撃ス、賊我単寡ヲ視、急進来犯ス、左右ノ伏ニ遇ヒ、忽狼狽敗走ス、既ニシテ賊大衆清水村其他間道ヨリ、巳ニ城下ニ逼ル、我兵転シテ賊ノ正面ヲ支フ、此地平衍、賊兵充満、晡鏖戦益烈、砲煙天ニ漲リ物色ヲ弁セス、賊ノ弾丸、近ク城中ニ撤ス、居民驚擾、我兵殊死シテ戦フ、時ニ肥藩援ヲ求ル甚急、我隊長徳永吉太郎馳至リ、力戦囲ヲ解ク、忽後面ニ砲声ヲ聞キ、諸隊頗ル危疑ヲ生ス、其它形状常ニ非ス、於是旋帰ノ令至ル、乃兵ヲ収メ、太田村ニ退ク、新荘藩ノ飛騎至リ云、賊勢猖獗、扞禦無策、自カラ城ニ火シテ退ン、諸君同ク退クベシト、既ニシテ城中火起ル、戸沢侯、城ヲ開テ出、我藩長藩ト更番、断後院内峠ニ退ク
同二十八日辰中牌、賊雄勝峠ヘ来侵ス、我兵長秋新三藩ト防戦、又新藩ト兵ヲ分チ、本道及ヒ山上ニ布置ス、賊果シテ両道来リ攻ム、本道山上大小銃雨射ス、賊気衰ルヲ伺ヒ、本道ノ兵疾撃、進テ箒沢ニ入ル、賊支ル能ハス悉ク及位村ニ走ル、時已ニ黄昏、尾撃ヲ得ス七色木ニ退ク、山上ノ兵警備ヲ撤セズ、伏ヲ設ケ、賊ノ来襲ニ備フ、此日賊同時雄勝峠、銀山、役内沢ノ三道ヲ犯ス、役内沢ノ守兵、薩肥両藩援ヲ求ル甚急、長藩全隊已ニ行、我分隊大砲手ト継進ム、銀山ノ守兵、我藩、長肥秋三藩ト合シ、百五十人ニ充タズ、各所間道、砲台ヲ築キ、賊ノ衝路ヲ扼ス、已牌賊正面ヲ犯シ、防戦時ヲ移ス、賊ノ奇兵、左右山上ヨリ我砲台ヲ下瞰シ、縦横乱射、戦甚困ム徳永吉太郎隊下ヲ率ヒ奮戦、終ニ賊兵ヲ敗ル申中牌賊鏡沢ニ走ル、夜半役内沢ノ飛報至リ雄勝峠、銀山、皆兵ヲ撤セシム、翌廿九日横堀村ニ退ク、各藩役内沢ノ進取ヲ規ス、我兵肥秋新分隊ト役内沢、銀山ノ間道ヲ襲ハントシ、復進テ下院内ニ至ル、其夜横堀村ヨリ、復撤帰ノ報アリ、乃兵ヲ収テ至レバ、全軍横手ニ退クノ議決ス、即横堀村ヲ発シ、各藩更殿シ、横手ニ帰ル
八月八日昧爽、薩藩我藩本道ヨリ、秋田藩川下ヨリ、長崎振遠隊、肥藩浅舞村ヨリ、長藩新藩馬鞍村ヨリ、四道進テ賊ヲ撃ツ、賊岩崎村ニ屯シ、前路ヲ要スト聞キ、我兵二小隊、已ニ岩崎川ヲ済ル、一賊ヲ見ズ、其潜伏ヲ疑ヒ土人ニ問フ、土人無之ト答、後隊継テ済ラントス、賊林薄中ヨリ突出、悍撃甚烈、前隊背水ノ死地ニ陥リ、腹背敵ヲ受ケ、外ニ救援ナシ、衆皆死ヲ決シ、吶喊奮闘、賊数人ヲ殺ス、後隊遂ニ済ルヲ不得、川ヲ隔テ乱射シ、其勢ヲ助ク、前隊進テ岩崎村ヲ焼ク、賊敢テ逼ラズ、間ニ乗シ兵ヲ収メ、下流ヨリ退ク、浅舞川下ノ軍、同時皆退ク、我兵合シテ要地ニ拠ル、賊猶尾躡ス、撃テ之ヲ却ク、後賊ノ日記ヲ得テ之ヲ閲ス、此日仙台伊達弾正、兵千人ヲ率ヒ至リ、直ニ進戦、賊勢大ニ張ルト云、翌九日馬鞍村ヨリ長藩ノ飛報至リ、応援且弾薬ヲ求ム、即時一小隊、新荘藩二十八人ト伍ヲ合シ、弾薬ヲ輸送シ、馬鞍村ニ趨リ、追撃シテ明沢村ニ至ル、初更屯所ニ帰リ、長藩退去スルヲ待チ、薩藩ト次ヲ逐テ退キ、横手ニ入ル
同十三日、賊大久保村ヨリ、角間川ヘ来侵ス秋藩、我藩二小隊本道ヨリ、肥藩、新藩二小隊其左右ヨリ賊ヲ逆ヘ挟撃、賊大ニ敗走、初賊ノ至ル、我藩、秋藩ト各半小隊ヲ分チ、大久保村ヲ襲ヒ、其虚ヲ擣ク、賊我寡兵ヲ視、猝カニ出テ横撃、我兵健闘、賊浅舞村ヨリ陸続沓至官軍諸隊皆退ク、我兵孤立、復勝算ナシ、退テ本道ノ正兵ト合ス、其夜秋藩屯所強首ヨリ援ヲ求ム、初更一小隊之ニ趁ク、翌十四日、大曲村角間川〈時ニ賊ノ拠ル処トナル〉ノ賊ヲ撃ントシ、我兵一小隊、振遠隊ニ応援シ、進テ間道ノ賊ト戦フ、既ニシテ本道ノ正兵退ク、乃兵ヲ収メ、正兵ト合シ、神宮寺ニ帰ル、我兵前後死傷如左
七月十四日、於新荘
傷 西川定右衛門
同廿八日、於銀山
死 小山勇
八月八日、於岩崎川
傷 林与次助
中山半槌
吉元伝蔵
宮田荘右衛門
同十三日、於角間川
隊長
傷 後死 志津野源之丞
右之通戦状概略御届申上候
辰八月
人数頭 平井小左衛門
右者去辰年、羽州出兵中戦状御届落之分、此度御届申上候、以上
巳九月
香春藩公用人 栗原正人

太政官日誌・明治2年92号

太政官日誌 明治二年 第九十二号
明治己巳 自八月廿二日 至二十五日
東京城第五十五
○八月廿二日〈辛酉〉
【招魂社祭資ノ事】
御沙汰書写
招魂社
高一万石
為祭資、永世被宛行候事
【板倉伊賀家来取締ニ付岡山藩ヘ御沙汰】
〇岡山藩
板倉伊賀家来幷城地取締被仰付置候処、今般御処置相済候ニ付、被免候事
○二十三日〈壬戍〉
【仙台藩北海道開拓ノ事】
御沙汰書写
伊達建千代麿
北海道開拓之儀ハ、方今之急務、追々御処置モ有之候処、於其藩ハ、彼地之風土熟知之者モ不少趣、相聞候ニ付、士族ヲ始メ、農工商ニ至ル迄、開拓志願之者相募リ、自費ヲ以テ漸次移住為致候様、精々尽力可致旨御沙汰候事
但、移住人員幷開拓之目的相立、申出候ハハ、地所割渡可申事
○ 伊達藤五郎
北海道開拓之儀ハ、方今之急務ニ付、追々御処分モ有之候得共、重大之事柄、全地一時ニ御手ヲ可被為着、目的モ難相立折柄、其方儀不憚艱難、自分彼地ヲ跋渉シ、開拓致度志願之趣、神妙之至ニ被思食、北海道開拓御用被仰付候条、家来其外有志之徒相募リ、自費ヲ以漸次移住、屹度実効相立候様、尽力可致旨御沙汰候事
但、地所之儀ハ、追而御沙汰可有之事
○ 開拓使
仙台藩伊達藤五郎儀、家来引連、北海道転住自費ヲ以テ開拓致度志願之趣、達上聞、御用被仰付候間、土地割渡可致事
但、本藩減禄之末、無拠自費ヲ以テ転住、其情実可憐事ニ付、相応之地所可相渡、且詮議之上可申出事
○二十四日〈癸亥〉
【皇后東京ヘ行啓ノ事】
御布告書写
来ル九月中皇后東京ヘ行啓被仰出候事
【諸官員東京移住差許ノ事】

二官六省、其外諸官員、東京ヘ家族引寄候儀可為勝手事
但、御定之御手当被下候事
【按察使諸官員等級ノ事】

按察使諸官員等級之儀、開拓使同様被仰付候事
【中宮御迎ノ事】
御沙汰書写
大原正四位
九月中宮東京ヘ行啓ニ付、為御迎、急速上京被仰付候事
○二十五日〈甲子〉
【諸道不作ニ付節倹救恤ノ詔書】
詔書写
朕登祚以降、海内多難、億兆未タ綏寧セス、加之今歳淫雨農ヲ害シ、民将ニ生ヲ遂ル所ナカラントス、朕深怵惕ス、依而躬ラ節倹スル所有テ、以テ救恤ニ充ントス、主者施行セヨ
御布告書写
詔書被仰出候通、兵馬之後、庶民未タ安堵ニ至ラサル折柄、当年諸道不作、物価日増ニ謄貴、無告之窮民ハ勿論、一同之難渋差迫リ殊更東京ハ近来衰微之砌、人口ハ従前之通莫大ニテ、遊民最多ク、漸次産業ニ基クヘキ、御施法モ未タ行届カセラレサル中、今日ノ姿ニ相成、且又京都ニ於テハ、即今御留守ト相成、自然職業ヲ失ヒ、困窮ニ立至リ候者モ不少、全ク時勢之変遷、無拠次第トハ申ナカラ必至難渋、彼是以テ深被為悩宸襟、格別之御節倹被遊、既ニ餔饌供給ヲモ御減少被為在、窮民御扶助被遊候、就而ハ於諸官モ、官禄之内ヲ以テ、救恤ニ被充候様願出候段、神妙之儀ニ被聞食候、右ハ御不本意ニ被為在候得共、願之趣、至誠貫通セサルモ御残念ニ被思食、当年之所、夫々減少、返上之儀御許容相成、両京救荒ニ可宛行旨御沙汰候事
但、救荒ハ一時之変ニ処スル事ニテ、総而遊手徒食之者無之様仕法立、最可為急務事
【親王家並社寺菊御紋ノ事】

親王家ニテ、菊御紋用来候処、向後十六葉之分ハ不相成、十四五以下、或ハ表菊等品ヲ替ヘ、御紋ニ不紛様可致旨、被仰出候事

社寺ニテ、是迄菊御紋用ヒ来ル者不少候処、今般御改正相成、社ハ伊勢、八幡、上下加茂等、寺ハ泉湧寺、般舟院等之外ハ、一切被差止候旨、被仰出候事
但、格別由緒有之社寺ハ、由緒書ヲ以テ可伺出候事
【諸寺院下馬下乗札取払ノ事】
従前諸寺院ニ掲来有之候下馬下乗等之札、向後取払候様、被仰出候事
但、格別由緒有之寺院ハ、其所々之都府藩県ニテ取調、可伺出候事
【非役華族等東京移住差許ノ事】
非役華族幷諸官人口向取次以下、総テ東京ヘ家族引寄セ候儀、可為勝手事
但、相当之御手当被下候事
【柏崎県取建ノ事】

越後国柏崎県被取建候事
【内宮外宮正遷宮ノ事】

来月四日戍刻内宮正遷宮、同七日同刻外宮正遷宮
右両夜東庭代下御被為遊御拝候事
【伊勢例幣ニ付御潔斎ノ事】

就伊勢例幣、従来八月廿九日晩、到来月十二日朝御神事、従九日晩御潔斎被為遊候、重軽服者僧尼参朝可憚事
但、御潔斎迄ハ、政府出仕之輩、服者不憚候事
【北海道開拓長官ヘ御沙汰】
御沙汰書写
東久世開拓長官
北海道開拓ハ皇威隆替之所係、方今至重之急務ニ候、今般彼地ヘ出張、数百里外殊方之寒彊ニ、其事務ヲ管督候事、不容易艱難、一入苦労ニ被思食候、就テハ向後土地墾闢、人民蕃殖、北門之鎖鑰、厳ニ樹立シ皇威御更張之基ト可相成様、勉励尽力可有之旨御沙汰候事
【伊達藤五郎北海道支配地ノ事】

伊達藤五郎
胆振国之内、有珠郡
右一郡、其方支配ニ被仰付候事
○ 開拓使
胆振国之内、有珠郡
右一郡、伊達藤五郎ヘ支配被仰付候間、引渡可申事
【救荒ニ付島津、毛利賞秩半高返納ノ事】

鹿児島藩知事 島津忠義
山口藩知事 毛利広封
賞典ハ深重之叡旨ヲ以被仰出候事ニ付、願之趣不被及御沙汰段、先達而御達相成候処、猶又再三懇願之旨趣、全至誠之所致、神妙之至被思食候、就而ハ即今諸道不登庶民凍餒之勢ニテ、救荒目下之御急務ニ候処、御用途必至御差迫之折柄、旁以乍御不本意、当年限リ賞秩半高返納被聞食、救荒ニ可被為充行旨被仰出候事
但、叙位返上ハ不被及御沙汰候事
【柏崎県支配地ノ事】
〇柏原県
其県被取建、支配地之儀ハ、水原県之内半方割渡候様、被仰付候間、同県ヨリ受取可申事
○ 水原県
今般柏崎県被取建、其県支配地之内、半方引渡候様、被仰付候事
【岩代国巡察使廃止ノ事】

岩代国巡察使
右被廃候事

太政官日誌・明治2年89号

太政官日誌 明治二年 第八十九号
明治己巳 八月十五日
東京城第五十二
○八月十五日〈甲寅〉
【箱館征討合記続一】
館藩届書写〈追録節略〉
(編者曰、本文ハ第七十七号、軍務官箱館征討合記第八、館藩届書写ノ第二トナルモノ也)
四月九日昼十二字頃、御軍艦乙部村ヨリ凡十町許近海ヘ乗入、弊藩軍事方松崎多聞、一番麓逸学隊之内、半小隊ヲ引テ端船ニ乗候節、津軽藩斥候之者両人、土地不安内ニ付同伴頼合有之、夫ヨリ揚陸之処、賊二小隊許リ、東南坂上茂林中ヨリ発砲ニ付、直ニ及接戦候処右斥候何レヘ去リ候哉、忽相見得不申、弊藩兵隊追々上陸、左右ノ山道ヨリ及攻撃候処、賊敗走、其節賊長ト覚シキ者、兵士橋本次五右衛門ニ狙撃セラレ、落馬逃去、引続各藩幷弊藩兵隊尾撃、柳崎村渡場マテ追崩、然ル処賊大砲ヲ備相固候間、其段使番水野奇也ヲ以後陣ヘ報知、暫時休息、夫ヨリ前面幷川上、中崎ノ方ヨリ相進ミ、戦争ニ及ヒ候処、賊亦潰走致シ候ニ付、直ニ江差ヘ進軍候エ共、別段守備ノ賊モ無之、同所ニ宿陣、乙部沢ヨリ向ヒ候一番半小隊ハ、厚沢部、鶉村マテ押詰宿陣致シ候旨、軍事方松崎多門、尾山徹蔵、今井晦輔等ヨリ、総長松前右京迄急報有之、同日同刻弊藩軍事方蠣崎多浪儀、遊撃隊新井田早苗ヘ差添、乙部村坂ヲ上リ候処、御軍監駒井政五郎殿ヨリ令有之、半隊ヲ分テ早苗山道ヘ進ミ、半隊ハ多浪幷副長竹田泰三郎附添本道ニ進ミ候処、前陣ヨリ使番水野奇也駆来リ、渡場ニ賊二百人程、茂林欝蓊之中ニ在リ賊ノ要地ハ吾ノ難地ニ付、先ツ海軍ヲ以茂林ヲ撃、賊ノ形ヲ見スヲ待テ、然後ニ陸軍ヲ進ハ便ナリト報知ニ付、駒井政五郎殿ヘ申立候処、則上言ノ如ク致シ候間、先各藩トモ陸兵ヲ差止可置ノ命令ニ付、暫ク弊藩ノ兵ヲ止置然ル処、長州藩、福山藩等進テ渡場ニ到リ、半已ニ渡川候間、弊藩モ出発、田沢村ヨリ真先ニ進ミ、同村ノ台場ヲ乗取候上、敗賊ヲ駆逐シテ、四字頃江差ヘ繰込候処、長藩既ニ江差役所ヘ乗入、賊ノ守兵一人モ不相見候ニ付同所ニ宿陣仕候段、軍事方多浪ヨリ、総長下国東七郎迄急報有之、同日同刻弊藩八番氏家左門隊ハ、乙部村ヘ在陣、奇兵蠣崎衛士隊半小隊ハ、熊石村ヘ出兵、二番厚谷清隊、糾武松崎辺隊ト奇兵半隊ハ江差口ヘ出兵被仰付則田沢村ヨリ山ノ手ヘ進ミ候処、東奔ノ賊遥ニ見エ候ニ付、致尾撃候処、悉ク逃散候ニ付続テ江差表ヘ繰入宿陣ノ旨、二番隊長清ヨリハ右京迄、糾武隊長辺、奇兵隊副長松前伊予ヨリ東七郎迄、報知有之
四月十日暁、弊藩一小隊ハ山道大富村、一小隊半幷大砲一門海浜松前口、一小隊半ハ木間内口ヘ出兵被仰付、明ケ六字大富ヘハ糾武松崎辺隊ヘ、軍事方福井淳蔵差添、松前口ヘハ奇兵半小隊、遊撃新井田早苗隊ヘ、総長下国東七郎、軍事方蠣崎多浪、村山左富差添、木間内口ヘハ一番半小隊、二番厚谷清隊ヘ、総長松前右京、軍事方松崎多門差添出発、松前口ヘ向候兵ハ、軽挙暴進、走賊ヲ追撃、夕四字頃、遂ニ八騎ヲ以テ、賊二百人ニ、江良丁ニ迫リ、飛檄ヲ以テ其旨総長東七郎ヘ報知東七郎モ亦急遽駆進、後継致シ候内、賊徒又々清部、茂草ノ方ヘ逃去候付、暮六字、江良町村ニ至リ宿陣仕候、此日於同村、大砲隊ニテ賊一人生捕
四月十一日朝六字、江良町村出立、清部村ヲ経、茂草村ニ至リ候処官軍追々繰込、僻邑茅屋手狭ニ付、長州藩ハ茂草村ニ屯シ、徳山藩半ハ進テ赤神村ニ屯ノ手筈ニ付、弊藩又進テ札前村ニ屯集致シ候処、兼而乙部村ヘ御差留ノ八番氏家左門隊、松前口出兵被仰付、此日札前村迄駆付、凡テ二小隊半ニ相成候
同日夕五字頃、根田村辺ニ賊屯集ノ趣、土人ノ報知ニ付、奇兵半小隊ヘ、軍事方蠣崎多浪差添、斥候ニ差出候処、賊兵一人モ相見エ不申候付、札前村野合トツチヨウト申所ニ於テ撒兵ヲ布、予備罷在候処、俄ニ賊一大隊計ニテ、山腰、海浜両方ヨリ来襲シ、頗ル苦戦ノ旨急報有之、夜七字頃、東七郎儀、八番、遊撃ノ二小隊ヲ下知シテ、一ハ山上、一ハ海浜ヨリ繰出シ候エ共、賊既ニ山野ニ撒兵ヲ以テ味方ノ半小隊ヲ取囲ミ、短兵急ノ接戦最中ニ付、頻ニ山手、浜手ヨリ邀撃、此時大砲隊ヨリモ数発打出シ、十字過マテ奮戦候得共、賊要地ヲ占メ、前面、頭上両方ヨリ挟撃候ニ付追々駆引不便ノ場合ニ相進候故、地勢見計ヒ戦争ノ心得ニテ、松前口官軍総轄三刀谷七郎治殿ト熟議ヲ遂、一旦人数休息為致、尚又差図有之、長州、徳山ノ勢ト合兵、茂草村野合ニオイテ、暁ニ及マテ連戦候得共、弾薬尽果、不得止長州、徳山ト倶ニ、小砂子村迄引揚申候
前段小砂子村迄引揚ノ兵隊、尚又上ノ国マテ引揚候様御達ニ付、十三日夜十二字頃迄上ノ国ヘ着陣、然ル処、熊石村マテ出張ノ奇兵半小隊モ、松前口ヘ出兵被仰付、前同日上ノ国ヘ着ニ付、前ノ半小隊ト合シ、一小隊ヲ以テ汐吹村ヲ警守為致、尚八番、遊撃ノ二小隊ヘ〈札前、茂草両所ノ死傷ヲ除キ、闕乏ノ侭〉蠣崎多浪、軍監村山左富差添、出兵為致候処、十四日朝七字上ノ国出発、石崎村ニ宿陣、同十五日石崎村出発、小砂子、原口中間ノ山野ニ於テ、筑後藩一小隊弊藩一小隊、山険ニ依テ陣ヲ布キ、三丁程前ニ当リ、筑後一小隊、弊藩隊、高山ノ頂ニ登リ、賊ノ襲来ヲ予備シ、夜八字頃、険ニ依リ高ニ居候弊藩二小隊トモ、小砂子ヘ宿陣、十六日朝七時、蠣崎多浪右ノ二小隊ヲ原口ヘ繰込、兵隊到着ノ旨、御監軍三刀谷七郎治殿ヘ届出候処、命令ニ違ヒ候趣ニテ、忽兵隊繰返可申段御達有之、小砂子村ヘ帰陣ノ旨、多浪ヨリ東七郎報知有之
四月十七日小砂子村宿陣、八番、遊撃ノ二小隊ヘ多浪、左富差添、明六字同所出発、札前村迄相越候処、福山城攻入進撃之順序、弊藩一小隊半、筑後藩一中隊、伊州藩一中隊、津軽藩一小隊、徳山藩一中隊、長州藩一中隊タルヘキ旨、参謀衆ヨリ被達候ニ付、其旨奇兵隊ヘモ報知ニ及、則遊撃闕乏一小隊幷大砲隊司令士田中孫平治、此所ヨリ合兵ニテ相進、根部田字石揚ケト申所ヨリ、中ノ岱ヘ登リ、夫ヨリ深谷ニ出没、高山ノ麓ニ随テ、激戦進撃、遂ニ追崩、長駆シテ城下ニ突入、西ノ城門ヨリ先登、夕四字城郭攻略、其節多浪白隊旗ヲ三重ノ櫓ヘ、孫平治ヲ以差立、沖合ニ罷在御軍艦ノ砲発ヲ相止申候、其後八番闕乏一小隊ハ、本道ヲ疾歩シテ、城下市中ヘ繰込候処、最早城郭攻略ノ様子ニ付、緩歩シテ後門ヨリ乗込候者、多浪、左富ヨリ東七郎マテ急報有之
四月十六日、原口村野合字ニタコ沢ト申処ヘ出兵候様、参謀衆ヨリ被達候ニ付、同所ヘ守衛斥候トシテ、大野岩見、西沢駒吉、布施忠蔵、畑中権兵衛、日野間悦三、右之者江良町村ヘ差出置候処、賊ノ斥候両人、同所ニテ打留メ、尚賊ノ間諜両人ヲ生捕、参謀所ヘ差出翌十七日原口村ニ宿陣、奇兵一小隊ハ、山道ヨリ可進旨御達ニ付、山伝ヒ江良町村マテ繰込候処、各藩城下近相迫候由ニ付、疾歩シテ立石野ヘ相進候処、同所砲台ニ於テ、陸軍隊嚮導一人、奇兵隊長内周蔵生捕イタシ、金賀友太郎ヘ相渡候、各藩幷弊藩兵隊酣戦ニ及、賊既ニ砲台ヲ棄逃去候間、山手ヨリ進ミ、福山城ノ後門ヨリ乗入、尚銃士西沢駒吉儀、参謀ノ嚮導トシテ、一人前進シ、遊撃隊ノ中ニ加リ、立石野ニヲイテ手負致シ候旨、隊長蠣崎衛士ヨリ東七郎マテ急報有之
四月十七日、旧城回復ニ付、東門下ニ陣所ヲ構、長州大砲隊幷奇兵隊、吉岡峠ニ出兵候様御達ニ付、同所ヘ罷越、沢中ニ於テ高木為蔵小柳民五郎両人ニテ、賊ノ歩兵小頭加藤何某ト申者生捕、夫ヨリ天明ニ吉岡峠ヘ相進ミ、砲台二ケ所乗取、夫ヨリ暁五時、吉岡村ヘ斥候トシテ、小笠原幸平、佐々木斎宮、松江宇八、遠藤慎七郎差出、賊五人生捕、同所砲台一ケ所乗取、昼十二字頃津軽藩交番、吉岡峠迄出張、半小隊ヲ丸山ヘ斥候、其余ノ兵士ハ城下潜伏ノ遺賊ヲ捕捉、終夜星ヲ看テ天明ニ達ス、翌十八日朝十字、元町役所ヘ転陣、夕五字参謀原川魁輔殿達セラレ、同人同道吟味ノ上、福山城当分御預被仰付候
四月十四日、青盛ニ於テ、各藩兵隊乗船ノ儀御達有之、同十六日朝十字頃江差表ヘ着岸、直様揚陸之処、弊藩一中隊安野呂口ヘ出兵被仰付、則三番南弁司隊、四番佐藤男破魔隊ヘ軍事方下国美都喜、明石廉平差添、翌十七日朝八字江差表出立、同十八日松前表ヘ、各藩運送残ノ弾薬ヲサカ艦ニテ差廻候ニ付、弊藩一中隊乗艦可致旨御達ニ付、七番松尾源太郎隊一手、江差表ヘ差残シ、五番竹内学隊、六番松崎数矢隊ヘ、総長尾見雄三始軍事方差添夕三字頃江差出帆、夜九字頃松前ヘ着岸、直様上陸、翌十九日前段五番、六番ノ一中隊箱館口ヘ出立、同廿一日八番、奇兵ノ二小隊、又々箱館ヘ出立、続テ総長尾見雄三儀モ大砲隊ヲ引、福山表出発致シ候、木間内口ヘ出兵一中隊ノ内、九日鶉村ヘ宿陣ノ半小隊ハ、館村ヘ出進、十日江差出発ノ一小隊半ハ、十二日稲倉石ヘ着ノ処、翌十三日上二股ヘ出兵被仰付候処、賊稲倉石ヨリ四里半程サキ、天狗岳ト申処ヨリ八九丁隔リ、三枚岳ト申山ノ半腹ヘ、陣家ヲ構ヘ罷在候ニ付、長州、福山、弊藩ノ兵隊、夫々分配攻撃、翌十四日七字ニ至ルマテ、劇戦仕候処、一先稲倉石ヘ揚取ノ御下知有之、同所ヘ帰陣ノ趣、軍事方今井晦輔ヨリ、総長松前右京マテ急報有之
大富口出兵被仰付候弊藩、糾武、松崎辺隊四月十二日黄昏、笹小家ヘ着ノ処、先鋒津軽藩一中隊、前日ヨリ宿陣ニ付、敵地ノ動静承合、夫ヨリ夜ニ入リ、半里程向ヘ進ミ、番兵相勤、翌十三日木古内攻撃、弊藩一小隊ハ右手沢口固被仰付、路頭ニ撒兵ヲ排シ候処、又々御下知有之、戦場ヘ相進ミ、先手津軽藩ノ右手ヘ出、賊ノ塁下ニ迫リ候処、賊暁霧濛々ノ中ヨリ、大砲小銃烈敷致射放候間、苦戦数刻ニ及ヒ候エ共、継援ノ便モ無之、且深霧ニテ地形ヲ難弁折柄、再ヒ御下知ニ因テ、笹小家マテ帰陣ノ趣、隊長松崎辺ヨリ急報有之
稲倉石滞陣弊藩一中隊ノ内、四月廿四日下二股ヘ一小隊、出兵ノ儀御達ニ付、朝六字出発先日ノ戦場ヘ繰入、山ノ中段ニ撒兵ヲ排シ、薩州、福山、津軽ノ兵隊ト合シ、昼二字ヨリ戦争、夜十二字ニ及ヒ、追々兵士相労レ、一旦揚取候様御下知ニ因テ、廿五日ノ暁三字、天狗岳ヘ帰陣ノ趣、軍事方尾山徹蔵ヨリ、総長松前右京マテ急報有之
木間内口出兵一番、二番ノ両隊、下二股ニ於テ両度苦戦ノ後、同所賊ノ番兵所ニ相対シ候高山絶頂ニ於テ、番兵可仕旨御下知有之、則天狗岳ヲ発シ、右ノ山巓ヘ転陣、警備ノ処、四月晦日夜中、賊徒重塁ヲ棄テ奔竄ノ趣、翌朔日夕方報知有之否尾撃シテ、遂ニ五月二日早朝、大野村続本郷ヘ着、所々番兵巡邏等相勤、五月廿日御下知ニ付、箱館表ヘ繰入申候江差在陣七番松尾源太郎隊、四月廿三日同所参謀衆ヨリ、後顧ノ患無之様、金山越間道探索可致旨、被達候ニ付、即刻出発、同所巡邏仕居候
五月十一日、江差表ヘ帰陣被仰付、翌十二日同所ニテ生捕ノ賊百三十七人監護、福山表ヘ相渡候後、箱館表ヘ出兵可致旨、御下知ニ付、夕刻出発、同十五日福山着、翌十六日同所出発、同十八日有川村ヘ着、滞陣ノ処、同十九日御下知ニ因テ、箱館表ヘ繰込申候
七月
館藩
校正
第八十三号、八葉前面、水原県ヘ御沙汰書信濃川ノ儀ハ云々ノ一通ハ、御発令御取消ニ相成候ヲ、誤テ上梓ス
第八十五号、一葉後面ノ、弾正小忠ハ、少忠ノ誤リナリ
同五葉前面ノ光明天皇ハ孝明天皇ノ誤也
同十二葉、前面、紅註ノ中、華族幷三等ノ下ニ官字ヲ脱ス
第八十六号、四葉後面ノ、御詮儀ハ御詮議ノ誤リナリ
第八十七号、三葉前面ノ、任従四位ハ叙従四位ノ誤ナリ

太政官日誌・明治2年87号

太政官日誌 明治二年 第八十七号
明治己巳 自八月十一日 至十三日
東京城第五十
○八月十一日〈庚戊〉
【租税、監督、通商、鉱山四司移管ノ事】
御達書写
民部省
租税、監督、通商、鉱山之四司、自今其省管轄被仰付候事
○ 大蔵省
租税、監督、通商、鉱山之四司、自今民部省管轄ニ被仰付候ニ付、此旨相達候事
○十二日〈辛亥〉
【尾崎鋳五郎弔金下賜ノ事】
島原藩士 尾崎啓蔵
其方忰鋳五郎儀、勤王之志厚ク、先年大和義挙ニ加リ、死ヲ遂ケ候後、其方儀藩籍ヲ放レ、流離艱難、不便之事ニ候、当時旧藩復籍之由ニ候エ共、格別之訳ヲ以、為弔金百両被下置候事
【水藩蝦夷開拓ノ事】
〇水戸藩知事徳川韶武
今般蝦夷開拓之儀、御布令ニ付、其方儀亡祖父斉昭朝臣之遺志ヲ継キ、自ラ彼地ニ跋渉シ開拓之方ヲ相竭シ度旨、諸藩ニ先チ願出候段深ク御満足ニ被思食候、速ニ人民ヲ移従シ開拓取掛可申候、尢地所之儀ハ、開拓使ヨリ割渡可申候事
○十三日〈壬子〉
【島従五位ニ陞叙並目録下賜ノ事】
御沙汰書写
島従五位
去年大総督着陣間ナク、鎮将府被置候以来、引続キ東京府ニ在職、日夜勉励、多端之御用相弁ヘ、今般更ニ北海道開拓判官ニ選任被仰付候処、尋常ナラサル事務、鋭意遵奉、且数百里不毛之寒地ニ踄リ、聊不憚艱難、鞠躬尽力可致之心底、神妙之至ニ被思食、出格之訳ヲ以テ叙位並ニ目録之通、被下置候事
○ 島従五位
任従四位
右宣下候事
目録五百両
【桃生県、石巻県ト改称ノ事】
御達書写
〇桃生県
其県自今石巻県ト可称事

印鑑定寸
府藩県二寸四分
寮二寸二分
司二寸
右之通被相定候事
追録軍務官箱館征討合記
久留米藩届書
今朝四字二点頃、大川村ヘ当リ、砲声相聞候ニ付、直ニ兵隊相揃、会議所ヘ伺之上進軍、同村前ニテ、長州藩、徳山藩申談、一小隊ハ浜ノ方原野ヘ繰出シ、一小隊ハ正面ヘ相進候処、賊徒頻ニ発砲致シ候エ共、長州藩一同追々相進候内、薩州藩モ馳付、共ニ合併ニ相成進撃仕候処、賊軍次第ニ敗形相顕候ニ付、愈相進、終ニ者浜之方ヘ相向ヒ、一小隊モ一同ニ相成、三藩相共ニ進撃、桔梗野迄追討、九字二点頃引揚申候、右戦争中、切捨拾三人、生捕二人、小銃ニテ打留候儀ハ、三藩相混シ判然不仕候、其節弊藩手負、分取左之通
手負 林田瀬兵衛隊 余語次吉
小銃 九挺

去ル四日之暁、賊徒大川村ヲ襲候節、弊藩斥候半小隊、七重村外ヘ、前夜ヨリ差出置候処薩州藩一同ニ相成砲戦、無程賊軍遁去申候、其節手負左之通
薄手 喇叭方 川野市次
右之段、不取敢御届申上候、以上
五月
筑後藩 堀江但馬

四月廿八日、伊州藩幷弊藩一中隊、当別村ヘ繰出候様御達ニ付、夕一字頃発軍、六字頃同所着陣、直ニ伊州藩合併ニテ、斥候差出置候処、七字頃ニ至賊襲来、放砲ニ及ヒ候ニ付、此方ヨリモ砲撃仕候処、賊退散仕候、同廿九日暁一字三十分、薩州藩幷弊藩合併ニテ、当別ヨリ間道進軍、然ルニ闇夜、殊ニ頗ル険阻之山越ニテ、時刻相後レ、八字頃矢不来台場之後山ニ出候処、最早賊徒敗走、海岸之台場ニテ防戦之模様ニ付、直様馳降、横合ヨリ三藩一同砲撃、即時ニ打散シ、機ニ乗シ、有川村迄尾撃仕候処、賊孰モ逃去致シ候、仍テ同所ヘ兵ヲ纏メ、三谷村迄引揚申候、右者各藩ヨリ御届可仕ト奉存候エ共、大略御届申上候以上
五月
筑後藩 吉村百助
校正
第七十五号、軍務官征討合記第六、柳川藩届書トアルハ、久留米藩ノ誤ナリ

太政官日誌・明治2年85号

太政官日誌 明治二年 第八十五号
明治己巳 追録
東京城第四十八
【神祇官ヘ行幸御神祭ノ事】
六月廿八日辰刻、神祇官ヘ行幸有之天神地祇ヲ始神武天皇ヨリ御代々御神祭之次第如左
行幸御行列
使番同同
戸田左兵衛大尉
帯刀
使番同同
水口弾正小忠
帯刀
押小路大外記
帯刀 板垣四位〈帯刀帯刀〉副島四位〈従者同上〉
大久保四位〈従者同上〉後藤四位〈従者同上〉木戸四位〈従者同上〉
東久世中将〈従者同上〉
〇亀井中将〈従者同上〉
〇毛利宰相〈従者同上〉
池田中納言〈従者同上〉
〇蜂須賀中納言〈従者同上〉
〇鍋島中納言〈従者同上〉
徳大寺大納言〈従者同上〉
〇岩倉大納言〈従者同上〉
〇高松左兵衛権佐〈従者同上〉
〇東園侍従〈従者同上〉
藤井左兵衛権尉
長谷少納言〈従者同上〉
富小路右京大夫〈従者同上〉
時岡神祇少史
小野越後守 平岡掃部権助
三条西少将〈従者従者〉
御板輿
高辻三位〈従者従者〉
石田左兵衛大尉 山科出雲守
石山左兵衛督〈従者同上〉
萩原二位〈従者同上〉
飛鳥井前大納言〈従者同上〉
醍醐大納言〈従者同上〉
三条右大臣〈従者同上〉
東園宰相中将〈従者同上〉
坊城右大弁宰相〈従者同上〉
戸田大和守〈従者同上〉
五辻弾正大弼〈従者同上〉
田中五位〈従者同上〉
土方五位〈従者同上〉
中島直人〈従者同上〉
御衣櫃 山田中務
同簀薦〈二人〉
御茶湯櫃 非蔵人帯刀
御水器〈床子床子床子〉
御薬櫃〈御医 帯刀 御医 帯刀〉
簀薦〈二人〉
壬生官務帯刀
佐々木主水帯刀
〇御拝次第
先、設神座
天神地祇一座
御歴代皇霊一座
従神武天皇、至光明天皇
次、安置御霊代
次、神祇官知事以下着座
次、祓除
次、神降
神降詞奏天神地祇、知官事勤之
掛巻毛畏支天御祖大御神等乎始奉〈利弖〉天神地祇、八百万神等此乃神籬尓降坐〈世刀〉畏〈美毛〉白須
同上奏御歴代皇霊、同上
掛巻毛畏支橿原宮尓天下知食〈志々〉天皇乎始奉〈利弖〉御代々々乃天皇乃大神霊、此乃神床尓降〈世刀〉畏美畏〈美毛〉白須
此間奏楽五常楽急
次、奏祝詞知官事勤之
祝詞奏天神地祇
掛巻毛綾尓恐支天御祖大御神等乎始奉〈利弖〉天神地祇八百万神等乃大御前尓、神祇知事准大臣藤原忠能、恐美恐〈美毛〉白〈左久〉今日乃生日乃足日尓大御神等乎斎美清〈麻波礼留〉神床尓座世奉〈利弖〉其我斎場尓祇候弖拝美祭留事波政乃廃〈礼多留乎〉興志古尓復須事波専大御神等乃恩頼尓依留事〈奈留賀〉故尓其政乎改正志定治〈牟留〉事乃由乎奉告〈留止之弖〉礼代乃物乎如横山置高成弖恐美拝美伊都伎祭留事乎弥高々尓聞食弖弥益々尓守利幸〈波閉〉給〈閉止〉恐美恐〈美毛〉白須
同上奏御歴代皇霊
掛巻毛畏支橿原宮尓天下知食〈志々〉天皇乃御代〈与利〉弥継々尓天津日嗣知食〈志々〉天皇乃大神前尓神祇知事従一位准大臣藤原忠能畏美畏〈美毛〉白〈左久〉今日乃足日尓大御霊乎斎美清〈麻波礼留〉神床尓座世奉利其我斎場尓祇候弖拝美祭留事波政乃廃〈礼多留乎〉興志古尓復須事波専大御前乃恩頼尓依留事〈奈留賀〉故尓其政乎改正志定治〈牟留〉事乎弥高々尓聞食弖弥益々尓守利幸閉給〈閉止〉恐美恐〈美毛〉白須
次、供神饌知官事以下列立拝送品類記下
此間奏楽万歳楽
出御
次、御幣物献供
御拝、奏祝詞輔相勤之
祝詞奏天神地祇
掛巻毛綾尓恐支天御祖御大神乎始奉〈利弖〉天神地祇八百万神乃宇豆乃大御前尓恐美恐〈美毛〉白〈左久〉今般東京尓再来〈利弖〉更尓百官人八十伴緒乎集〈閉尓〉集〈閉弖〉去年乃春乃御祭尓誓比立〈都留〉五事乎以弖長〈閉尓〉動久事旡久変留事旡久大御政乃大支基礎乎思議〈良志米〉改定〈牟留〉命乃随〈未尓〉皇神等乎伊都伎祭留御事波即知政〈尓志弖〉此乎以弖万機毛祭事乎基刀正志明〈良米弖〉官乃名刀其職〈刀乎〉古今尓考定米藩々県々乃政毛専同状〈尓弖〉公民乎諭教〈布留〉道尓至〈留麻弖尓〉論比議〈良志米多留尓〉已命乃御心乃如久取総〈夫留〉大御政乃基〈波毛〉速尓調比定〈万礼留波〉全久人々乃忠臣尓労支成〈世留〉事云〈万久毛〉更ニ〈奈礼杼〉専皇神等乃御恩頼尓依〈礼利止〉辱美思〈布賀〉随尓今〈与利〉後皇大御国乃大御稜威乎宇宙間尓輝〈賀左志牟倍久〉掟〈多留尓〉就〈弖毛〉大神等乃御幸〈比尓〉依〈良受弖波〉得有〈良奴〉事〈叙刀〉只管尓頼美思〈比弖〉神代乃昔常世往久枉事多〈奈利志〉時、高天乃原尓事始〈米世留〉天乃八湍乃河原乃故事乃随尓八百万乃神毛相宇豆〈奈比〉坐弖勇美進牟己命乃御心乎心〈刀弖志〉臣等〈波毛〉武久雄々〈志久〉明久清支真心乎以弖事不過万民庶毛大御令事乎戴支持知受祁捧〈祁弖〉大地乃厚久青海乃広久天下国乃限利島乃崎落受地刀敷支施〈古志〉海刀行回〈良志米〉猶毛皇神等乃御心尓協比坐奴事有〈良婆〉取直志善事尓改〈米志米〉大御政乱〈留々〉事旡久頽〈留々〉事无久弥栄尓栄〈志米〉給〈閉刀〉斯久奉告留事乃由乎天津神、地津神々八百万神等聞食弖天下乃公民尓至〈留麻弖尓〉内外乃国乃禍无久平〈加尓〉安〈加尓〉在〈志米〉給〈閉刀〉申須事乎弥高々尓聞食〈世刀〉恐美恐〈美毛〉申須
同上奏御歴代皇霊
掛巻毛綾尓恐支橿原宮尓天下知食〈志志〉天皇乎始米奉利御代々々乃天皇等乃大神霊乃宇豆乃大前尓恐美恐〈美毛〉白〈左久〉今般東京尓再来〈利弖〉更尓百官人八十伴緒乎集〈閉尓〉集〈閉弖〉去年乃春乃御祭尓誓比立〈都留〉五事乎以弖長〈閉尓〉動久事无久変留事无久大御政乃大支基礎乎思議〈良志米〉改米定〈牟留〉命乃随〈未尓〉皇神等又御代々々乃天皇等乎伊都伎祭留御事波即知政〈尓志弖〉此乎以弖万機毛祭事乎基刀正志明〈良米弖〉官乃名刀其職〈刀乎〉古今尓考定米藩々県々乃政毛専同状〈尓弖〉公民乎諭教〈布留〉道尓至〈留万弖尓〉論比議〈良之米多留尓〉已命乃御心乃如久取利総〈布留〉大政乃基〈皮毛〉速尓調定〈万礼留波〉全久人々乃忠心尓労支成〈世留〉事云〈万久毛〉更〈奈礼杼〉専皇神等又御代々々乃天皇等乃御恩頼尓依〈礼利刀〉辱美思〈布賀〉随〈未尓〉今〈与利〉後皇大御国乃大御稜威乎宇宙間尓輝〈賀左志牟倍久〉掟〈多留尓〉就〈弖毛〉御幸〈比尓〉依〈受弖波〉得有〈良奴〉事〈叙刀〉只管尓頼美思〈比弖〉神代乃昔常世往久枉事多〈奈利志〉時高天原尓事始〈米留世〉天乃八湍乃河原乃古事乃随尓八百万乃神毛諸共尓相豆〈奈比〉相阿奈〈奈比〉坐弖勇美進牟已命乃御心乎心〈刀弖〉之臣等〈波毛〉武久雄々〈志久〉明久清支真心乎以弖事不過万民庶毛大御令事乎戴支持知受祁捧〈祁弖〉大地乃厚久青海乃広久天下国乃限利島乃先落受地刀敷支施〈古志〉海刀行回〈良志米〉猶毛御心尓協比坐奴事有〈良婆〉取直志善事尓改〈米志米〉大御政乱〈留々〉事无久頽〈留々〉事無久弥栄尓栄〈志米〉給〈閉刀〉斯久奉告留事乃由乎天津神地津神八百万神等毛諸共尓聞食弖天下乃公民尓至〈留万弖尓〉聞食〈世刀〉恐美恐〈美毛〉申須
次入御
次、百官群臣進拝
次、撤神饌列立如初
此間奏楽慶徳
次神昇
神昇詞知官事奏之
掛巻毛畏支天御祖大御神等乎始奉〈利弖〉天神地祇八百万神等本乃御坐尓帰利鎮〈万利〉坐〈世弖〉畏〈美毛〉白須

掛巻毛畏支橿原宮尓天下知食〈志々〉天皇乎始米奉〈利弖〉御代々々乃天皇乃大神霊本乃御坐尓帰利鎮〈万利〉坐〈世刀〉畏美畏〈美毛〉白須
次、各退坐
次、撤神坐


神饌之品

洗米

鰭広物
鰭狭物
奥津藻
辺津藻
甘菜
辛菜


右二座各同供
御所ヘ差出候神饌之品

洗米

鰭広物
鰭狭物
奥津藻
生菓
神饌頒賜告書
今日参拝之面々、神饌分賜候間、明廿九日午刻ヨリ申刻迄ニ、当官ヘ申出候事〈但、華族幷三等以上、重臣ヲ以申出候事〉
○廿九日
先、設神座
天神地祇一座
御歴代皇霊一座
従神武天皇至孝明天皇
次、安置御霊代
次、知官事以下着座
次、祓除
次、神降
神降詞如前日
次、供神饌拝送如前日
次、御幣物献供
次、奏祝詞
祝詞奏天神地祇
天皇我大御詔乎奉〈波利弖〉神祇知事従一位准大臣藤原忠能此乃天御祖乃大御神等乎始奉利天神地祇八百万神等乃御前尓慎美敬〈比毛〉白〈左久〉昨日〈与利乃〉大祭事尓引継〈比弖〉今日刀云布日尓神直日大直日乃直利会布神事仕奉〈流加良波〉総弖天下毛安久穏〈比尓〉内外乃難比本末乃争比無〈久弖〉安御世乃足御世刀守幸閉給〈閉刀〉海川野山乃味物乎種々礼代刀取持捧〈祁弖〉恐美惶〈美毛〉白須
同上奏御歴代皇祖
天皇我大御詔奉〈波利弖〉神祇知事従一位准大臣藤原忠能此乃橿原宮尓天下知食〈志々〉天皇乎始奉利御代々々乃天皇等乃大神霊乃御前尓慎美敬〈比毛〉白〈左久〉昨日〈与利乃〉大御祭事尓引継〈比弖〉今日刀云布日尓神直日大直日乃直利会布神事仕奉〈流加良波〉総弖天乃下毛安久穏〈比尓〉内外乃難比本末乃争比旡〈久弖〉世尓産利出流穀物畑物熟調〈比弖〉公民安〈祁久〉大御世正〈志久〉治〈利弖〉安御代乃足御世刀守幸閉給〈閉刀〉海川野山乃味物乎種々礼代刀取持捧〈祁弖〉恐美惶〈美毛〉白須
次、群臣進拝
次、撤神饌列立如初
次神昇
次、各退座
次、撤神座

神饌之品

洗米
鮮魚
乾魚
海草
野菜
生菓
作菓
右二座各同供

太政官日誌・明治2年81号

太政官日誌 明治二年 第八十一号
明治己巳 自七月朔日 至十日
東京城第四十四
○七月朔日
日蝕
○二日〈壬申〉
【氷川、日枝両社ヘ奉幣使参向ノ事】
御達書写
大宮県
一宮氷川神社ヘ、奉幣使来ル五日東京出立、参向相成候、其前神祇官官員、為検分可罷越候間、此旨為心得相達候事
○ 東京府
神明宮日枝神社ヘ、奉幣使来ル五日参向相成候、其前神祇官官員、為検分可罷越候間、此旨為心得相達候事

知藩事ヘ御沙汰書写
太政御諮詢之為メ、会同衆議苦労ニ被思食候、先達来御下問之件々、尚御斟酌之上、追々御施行可被為在候、此度帰藩被仰付候間、各御趣意ヲ奉体シ、可尽職任旨御沙汰候事

知藩事未被仰付藩々ヘ御沙汰書写
太政御諮詢ノ為メ、会同衆議苦労ニ被思食候、先達来御下問之件々、尚御斟酌之上、追々御施行可被為在候、依而今般帰邑被仰付候事
【西園寺、両岩倉辞表ノ事】
御沙汰書写
各通
西園寺中納言
岩倉新侍従
岩倉勘解由長官
勤学中官位辞表被聞食候事
【酒井、田村任叙ノ事】
宣下状写
酒井信三郎
任大学頭
叙従五位下
右宣下候事
○ 田村鎮丸
任右京大夫
叙従五位下
右宣下候事
○三日〈癸酉〉
【無頼ノ党与取締ノ事】
御布告書写
近年来奸曲無頼之徒、所々徘徊、不作法之所業不少候処、昨年兵乱後ヨリ、党与益繁ク、暴行相募リ、種々良民之害ヲ働キ候事、上州辺殊ニ甚敷趣相聞エ、以之外之事ニ候、右等之者共、尽ク追捕不致候テハ、庶民之疾苦、不一形次第ニ付、地方府藩県申合、召捕方厳重手配致シ、万一手ニ余リ候節ハ、討捨候而モ不苦候間、速ニ捕獲ヲ遂ケ、良民安堵候様可致旨、被仰出候事
【蜂須賀外五位帰藩ノ御沙汰】
御沙汰書写
各通
蜂須賀中納言
池田中納言
毛利宰相
亀井中将
鍋島少将
池田少将
先達而来御諮詢之件々、尚御斟酌之上、追々御施行〈以下諸藩ヘ御沙汰書同文〉
○ 各通 同人ヘ
昨年来、職務励精尽力之段、叡感不浅候、今度帰藩被仰付候ニ付、目録之通下賜候事
【諏訪、戸田謹慎被免ノ事】
〇各通 諏訪伊勢守
戸田備後守
謹慎被免候事
○四日〈甲戍〉
【水野日向御預ノ事】
御沙汰書写
丹羽五郎左衛門
水野日向儀、其藩ヘ御預ケ被仰付候事
但、水野禊之助ヨリ、受取可申事
○ 水野禊之助
同姓日向儀、今度丹羽五郎左衛門ヘ御預ケ相成候間、引渡可申事
○五日〈乙亥〉
【会津降人手当ノ事】
御沙汰書写
榊原侍従
先般其藩ヘ、御預被仰付置候会津降伏人為手当、一人ニ付二人扶持宛、被下候事
但、受取方之儀ハ、会計官ヘ可伺出候、尢兼テ相達候地所、三万石御渡之儀ハ、被止候事
【都築、南ヘ下賜ノ事】
〇各通
都築荘蔵
南貞介
勤仕中格別励精之段、神妙之事ニ候、依之金二百両下賜候事
○六日〈丙子〉
【徳川外二侯ヘ帰藩ノ御沙汰】
御沙汰書写
徳川三位中将
御留守御警衛被仰付置候処、今般知藩事被仰付候ニ付、帰藩可致旨御沙汰候事
○ 本多中務大輔
御留守中大宮御所御警衛被仰付置候処、今般知藩事〈以下前同文〉
○ 酒井侍従
御留守中中宮御所御警衛被仰付置候処、今般知藩事〈以下前同文〉
【高松三位謹慎ノ事】
〇高松三位
江州大戸川村附替ヲ名トシ、梅園家来篠田政之進取次ヲ以テ、村方ヲ欺キ、賄賂ヲ請ケ候始末、不埒之至ニ候、屹度御沙汰ニ可被為及処御憐愍ヲ以テ、謹慎被仰付候事
【中井弘蔵ヘ下賜ノ事】
〇中井弘蔵
勤仕中格別励精之段、神妙之事ニ候、依之晒布二疋、金千両下賜候事
○七日〈丁丑〉
【知藩事奉命ノ御沙汰】
御沙汰書写
各通 松平図書頭
北条相模守
水野羽後守
此度知藩事被仰付候処、辞表之趣、全ク皇国維持之衷情ヨリ出候儀ト叡感被為在候エ共、人情時勢御斟酌之上、被仰付候儀ニ候得ハ、奉命可致旨御沙汰候事
○八日〈戊寅〉
【官位御改正ノ事】
御達書写
今般官位御改正ニ付、従来之百官幷受領被廃候事
但、位階四位ヨリ初位ニ至ル迄、上下之称被廃候事
一、是迄拝叙之位階ハ可為其侭、尢無官之輩華族ヨリ諸官人末々ニ至ル迄、位階ヲ以テ可称事
但、正従ヲ以テ可称事
一、華族之面々、叙爵年限加級中置之儀ハ、追テ御沙汰可有之事
一、神職之輩、職号是迄之通リ、無職之輩ハ位階ヲ以テ可称事
一、僧官是迄之通可相心得事
【弁事伝達所改称ノ事】

弁事伝達所、同役所、向後弁官伝達所、同役所ト被称候事

行政官支配同附、向後弁官支配同附ト可称事

【華族帰邑日限ノ事】
華族帰邑出立日限、今一応御沙汰可有之旨兼而御達シ之処、職制御改革被仰出候付而者、勝手ニ出立可致旨、被仰出候事
但、諸街道人馬継立方、差湊ヒ、自然差支之程モ難計候間、人馬継立高並出立日限、前以民部官ヘ可伺出候事
【諸藩公議人、公用人ノ事】

諸藩公議人、公用人、是迄通り東京ニ可差置事
【諸藩役々人撰ノ事】

藩々重立候役々人撰之儀、来ル十月迄ニ取調可申出旨、兼テ被仰出有之候エ共、大参事ヨリ権少参事ニ至ル迄、取調出来之分ハ、早々可伺出候事
但、帰藩之上取調、伺出候儀モ可為勝手事
【松江、蓮池両隊ヘ御沙汰ノ事】

各隊 松江藩兵隊
蓮池藩兵隊
昨年来長々之滞陣、苦労被思食、仍而為慰労、酒肴料金五百両下賜候事
○九日〈己卯〉
【浜殿石室ヲ延遼館ト命名ノ事】
御達書写
浜殿石室ヲ延遼館ト号シ候様被仰出候事
【大原四位領客使仰付ラル】
御沙汰書写
大原正四位
領客使被仰付候事
【英国王子渡来ニ付取締ノ事】

各通 品川県
神奈川県
近日英国王子渡来ニ付、諸取締向、其県ニ於テ夫々取計可申、委曲ハ外務省ヘ可打合事
○十日〈庚辰〉
【銭相場ノ事】
御布吉書写
天下一般銭相場、金一両ニ付十貫文ニ、御定ニ相成候間、此旨相達候事

太政官日誌・明治2年78号

太政官日誌 明治二年 第七十八号
明治己巳 六月三十日
東京城第四十一
〇六月三十日〈庚午〉

軍務官函館征討合記第九〈追録〉
黒石藩届書写
去ル十六日元津軽陣屋ヘ乗入、夫ヨリ五稜郭本道ヘ繰込ミ候処、弊藩持場近辺明家ニ、銃服類雑物共捨有之候ニ付、最寄民家ノ者ヘ相尋候処、同所ニ賊徒共住居罷在候趣ニ付、右品取束御届申上候処、預リ置可申旨、御達御座候、則左ニ
刀一本
木脇差一本
笠一蓋
桑折七ツ
風呂鋪包一ツ
右之通御座候、此段御届申上候、以上
五月
黒石藩 唐牛撫四郎
去ル十六日暁、元津軽陣屋攻撃之砌、弊藩人数一中隊、本道左ノ方ヨリ進軍、暫時御親兵隊ヘ引続、陣屋乗入申候、其節手負左ニ
薄手 三浦乙蔵
高屋富次郎
右之通御座候、此段御届申上候、以上
五月
黒石藩 唐牛撫四郎
弊藩人数、松前城下在陣中、肖川ヘ為御用聞参軍幷斥候共七人出役罷在候処、去ル十一日函館攻撃ニ付、本家弘前兵隊笹権六郎手ヘ附属ニテ進軍仕度段、会議所ヘ伺済之上、七重浜海辺ヨリ進軍接戦、亀田近ク攻入候ノ処、賊追々敗走ニ付、其侭笹権六郎手ニ在陣罷在候、尢其節右七人ノ者共、死傷等無御座候、此段御届申上候、以上
五月
黒石藩 唐牛撫四郎
春日艦届書写
三月廿日諸艦ト同ク、南部鍬ケ崎湊ヘ揃ヒ碇泊ノ処、同廿五日朝五字三十分、忽然賊艦回天亜米利加ノ国籏ヲ揚ケ、湊内ヘ乗入、直ニ日ノ丸籏章ニ替ヘ、甲鉄艦ヘ襲掛ケ、大小砲連発、則官軍ノ諸艦及ヒ運輸船ヨリ、一同雨ノ如ク小銃ヲ発シ候処、賊艦甲板上ノ弾薬ヲ填スル能ハサルヤ、砲声タヘタヘニテ、後シリニ甲鉄艦ヲ離レ、故ニ諸艦ヨリ弥発砲ス、当艦ヨリ大砲ハ五発、終ニ賊艦湊外ヘ逃去、依テ諸艦速ニ追撃ノ用意ヲナシ、七字頃当艦湊ヲ発ス、諸艦モ続キ発シ、遥ニ蒸気艦二艘ヲ見ル、一ハ十五六里、一ハ八九里隔テタルヲ追カケ、一艘ノ蒸気僅二里程ニ近寄リシニ、賊艦アシロツト切迫ノ体ニテ、方向ヲ地方ヘ替ヘ、当艦十五六丁許ノ距離ニ追詰ラレシ処早海岸ニ乗上ケタリ、依テ当艦ヨリ砲発セシニ、乗組人数不残上陸逃去、空艦ノ体ニ付、暫ク見合候内、甲鉄、陽春続テ来リ発砲ス、然後黒田了介幷弊藩村橋直衛、池田次郎兵衛調所藤内左衛門、陸兵三十人余ヲ率ヒ、当艦ヨリ追討トシテ上陸ス、五字頃アシロツトノ火焚一人ヲ生捕テ帰艦ス、夫ヨリ直ニ運転シ回天ヲ追フ、傷者如左
浅手 水夫 佐々木吉之助
四月九日、陸軍松前領乙部村ヘ上陸、早速進撃ヲ始ム、甲鉄艦、陽春艦、春日艦、丁卯艦為応援江差村ヘ廻リ、諸台場ヘ向ケ発砲ノ処賊更ニ不応、最早逃去タル体ニテ見合候内、陸兵モ進入セシカトモ敵ナク、戦ニ不及候事同十七日海陸一同、松前攻撃ニ一決シ、朝四字五十五分、当艦弘前領三厩ヲ発シ、松前領江良町村ヘ進ム処、賊兵二三百人、大砲三門ヲ押立、同村迄繰出シ居タリ、依テ直ニ発砲賊ノ横ヲ撃ツ、賊狼狽ス、然ニ味方陸軍ノアル所ヲ分カタス、故ニ程能ク砲発シ、同村ヨリ一里余リ、原口村ノ方ヘ進艦ノ処、陸軍ヨリ約定ノ号旗ヲ押立ケレハ、艦ヨリ蒸気笛ヲ以テ之ニ答フ、夫ヨリ陸軍追々松前ノ方ヘ進入ス、当艦又江良町村沖ヘ引返シ、賊ノ軍中ヘ頻ニ発砲ス、賊兵コラヘ兼、追々松前ノ方ヘ引退ク、陸軍駆足ニテ追掛ケ、海陸共ニ追撃、賊大砲二門ヲ棄置、散々ニ敗北ス、陸兵江良町村ヨリ半里程ノ所ニ止リ休息ス、依テ当艦モ発砲ヲ止メ、哨船ヨリ士官伊地知休八ヲ以テ問合セ候処、只今進撃セシハ、長州、徳山、備前等ノ斥候隊、出張ノ侭戦シナリ、既ニ二三里モ駆足ニテ追撃、兵士大ニ労レ、暫時休息ス、追付ケ本隊続シ上ハ、直ニ松前ノ賊ヲ追撃セン、当艦応援可致様申越ス、夫ヨリ暫クアリテ官軍立石野台場八九丁程ノ処迄、押寄スルヤ否ヤ、諸艦一同繰打ニテ発砲ス、此時甲鉄、陽春、朝陽、丁卯、春日合艦ス、賊モ砲台ヲ築キ、海陸ヘ砲発防禦ス、暫クシテ官軍山手ノ方ヘ筋違ニ進撃、賊ノ砲台ヲ我横ニ見下シ発砲ス、賊不堪シテ終ニ敗走ス、諸艦モ城下ノ方ヘ廻リ、城中幷敗賊ヲ横ニ射撃ス、賊城中ニ止リ得ス、吉岡福島ノ方ヘ落去、夕刻官軍城下ヘ進入ノ旗見ユルヲ以テ発砲ヲ止メ、伊地知休八、東郷平八郎両人ヲ以テ陸軍ヘ問合セシニ、賊ハ総テ逃去、既ニ落城ノ趣ナリ、但此日賊弾一モ中ラス、当艦ノ発砲ハ凡九十五
同廿日三字頃、諸艦三厩ヲ発シ、松前領尻内村ヘ至ル、木古内村沖ニ回天、蟠竜ヲ見受、直ニ追掛、函館湊外ニテ、当艦ヨリ二十町程迄ニ近寄リ発砲ス、賊艦不応シテ湊口ヘ逃入ル、暫クシテ回天運動ヲ止メ発砲ス、当艦ヨリモ発砲三十八許、何分湊口不案内ニテ十分乗入ニ立不至、遠距離ニテ空ク弾薬ヲ費ヲ以テ休息ス、回天、蟠竜、湊内ヘ退入セシ故ニ其侭引揚ル
同廿四日七字、各艦木古内沖ヲ発シ、函館湊口ヘ乗入、富川台場前迄通船ノ処、賊ヨリ発砲、仍テ直ニ右ヘ向ヒ五六発応砲シ、湊内ヘ乗込、第一回天ヘ進撃セシ処、回天ハ勿論、蟠竜、千代田、弁天崎台場ヨリ大砲数十門斉ク発ス、故ニ賊艦ヲ悉ク打砕カント、弥激戦スト雖モ、湊内浅海ナルヲ以テ、十分ニ乗込運転発砲スル事アタハス、且遠間ノ打合ニテハ勝算モ無之ニ依テ、不得已三字三十分本艦ヨリ発砲止メノ号令アルヲ以テ、各艦泉沢沖ヘ引揚ル、此日当艦発砲百六十八、賊丸三箇ヲ受ク
同廿九日、陸兵進撃為応援、暁二字三十分泉沢沖ヲ発、函館湊口ヘ乗入、五字四十分頃ヨリ陸兵矢不来台場ヘ掛リ、発砲ヲ始、賊亦十五六ケ所ノ台場ヨリ、一斉ニ大小砲打出ス、当艦ヨリモ各台場ヘ手繁発砲スト雖モ、賊要所ニ拠リ、台場モ十分ニテ防戦ス、然レトモ官軍奮闘激戦、七字頃終ニ諸台場ヲ悉ク乗取然ニ敗賊海陸兼備ノ台場ヘ、大砲一門ヲ架シ追々ト屯集発砲ス、当艦ヨリ亦頻ニ発砲ノ内百斤砲弾丸、賊ノ砲門的宜ノ処ヘ中ルカト見ル内、屯集賊兵狼狽逃去、陸軍十分ニ進入、夫ヨリ富川台場ヘ掛ル、十字十分同所海陸台場一時ニ落去ノ内、敗賊一小隊許引返シ、同所海辺ノ台場近ク進来ル、依テ発砲、間モナク賊兵散乱、陸軍直ニ追撃有川村ニ至ル、諸艦モ止砲、富川沖ヘ漂ヒ居ル処、賊艦千代田湊内ヨリ少々乗出スヲ以テ、各艦湊ノ方ヘ進撃ス、賊艦速ニ奥湊ヘ退キ、続テ回天モ同様乗出シ、当艦ヨリ砲発ノ内、一二発ハ達スト見ル、是亦同ク退ク、依テ各艦止砲、有川村沖ヘ引揚クル、同夜甲鉄、朝陽、斥候当番ノ処、明ル五月朔日暁六字、両艦千代田形ヘ向テ砲発スルヲ以テ、直ニ有川沖ヲ発シ、千代田形ヘ進撃スト雖モ、彼艦不応、故ニ暫ク砲ヲ止ル折柄、甲鉄ヨリ哨船ヲ下シ、彼艦ヘ乗入ル処、空艦ナルヲ以テ即チ分捕シ、富川沖ヘ乗越ス、翌二日賊艦ヘ向テ暫時発砲ス
五月四日函館奥湊ヘ進撃ニ決シ、八字三十八分諸艦同発、甲鉄及当艦先鋒、湊内ヘ乗入、回天ヘ砲発四十余、甲鉄ハ浅海ヘ乗掛ケ、当艦ハ綱ノ張タル如キモノ艦足ニ懸リ、不審ニヲモフ内、本艦ヨリ退旗ヲ示スヲ以テ引退ク〈水雷抔風聞モアリ、且湊内不案内ナル故也〉十字止戦、賊ヨリ海中ヘ綱ヲ張、官艦ヲ妨ク旨、函館ノ者追々注進ス依テ函館小林重吉手船虎久丸水手ノ内、案内ヲ知リタル者ヲ当艦ヘ召寄セ、五月五日夜、切払ノ策申付、水手三次郎ヲ始メ住吉丸、子ノ日丸ノ水手ヲ、小船三艘ニテ差遣シ、暁迄探索セシカ共、短夜ニシテ事不成、翌六日夜再ヒ命シ、当艦揖取二ノ方八十二乗組セ遣ス処、夜二字頃迄ニ大綱二筋、二ケ所ヘ張タルヲ切除キ、海路開ケシ旨帰報ス、依テ明日進撃ニ決ス
同七日暁五字、諸艦有川沖ヲ発ス、甲鉄、朝陽、春日三艦ハ函館湊内ヘ進撃、陽春、丁卯二艦ハ台場ヘ掛リ、六字八方ヨリ砲発ヲ始ム賊艦回天、蟠竜幷台場ヨリ之ニ応シ打出シ、弾丸如雨、賊ノ両艦共、両舷ノ砲ヲ片舷ヘ備頻ニ連発ス、味方大ニ難苦、激烈奮闘攻撃、漸ク進軍ノ処、回天俄ニ陸地ヘ向ヒ、忽チ浅瀬ニ乗上ル、依テ当艦直ニ奥湊ヘ乗入、回天ノ艫ノ方ヘ近寄リ、手繁ク発砲、過半ハ達タルヘシ、賊ヨリ亦散弾或ハ小銃ヲ発ス、当艦之ニ応ス、然ニ賊艦ノ乗組、海中ヘ飛入、或ハ小船ヨリ逃去ト見ヘ、発砲モ絶々ニ成ル、既ニ回天破レタルヲ見届、有川村沖ヘ引揚ケ諸船将衆議シ、陸兵ト同ク速ニ進撃ヲ要ス、当日当艦ヘ賊丸ヲ受ル事、十七八ケ所、我砲発百七十余、死傷如左〈死傷ハ日誌第五十五号ニ出ツ、今削之〉同十一日海陸同ク攻撃、暁三字ヨリ弁天崎台場ヘ砲発、運送船乗組ノ陸兵、裏手ヨリ上陸スル処、賊小銃ヲ発シ、依テ為応援艦ヲ進テ砲発ス、間モナク陸軍進撃スルヲ以テ、当艦転シテ又台場ヲ攻撃ス、然ニ朝陽艦賊ノ蟠竜ト打合フ央、朝陽焼破ス、蟠竜直ニ七重浜口ノ陸兵ヘ砲発ス、依テ彼方危急ト見受、台場ヲ打捨、蟠竜ヲ攻撃シ、奥湊ヘ追入タリ、然ニ不図モ、浅海ヘ乗掛、少シ後スサリシテ発砲ス甲鉄モ追来、共ニ台場ヘモ発砲、又同ク進ミ蟠竜ヘ近寄リ攻撃ノ処、終ニ陸地ヘ乗揚ケタリト見ヘ、乗組ノ者小船ヨリ逃去候ニ付、弥烈発ノ処、台場ヨリノ一弾ヲ水平下ニ受ケ、水入懸念、且砲器大損シ、砲発シカタク、火薬モ乏シキヲ以テ、不得已砲発ヲ止メ、引揚ケ修繕ス、此日発砲二百八十余、死傷如左
死 兵卒 前田嘉七郎
大工 春日伝助
深手 旗手 上床良吉
浅手 船将 赤塚孫六
指揮官 伊東次右衛門
海岸案内松前藩 清瀬磋平
右ハ函館屯集之賊徒追討、当艦戦状如斯御座候、以上
六月
薩州春日艦将 赤塚源六

太政官日誌・明治2年76号

太政官日誌 明治二年 第七十六号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十九
○六月三十日〈庚午〉

軍務官箱館征討合記第七〈追録〉
徳山藩届書写
四月十一日夜ヨリ十二日暁迄、蝦夷赤神、両垂石両所ニ於テ戦フ、遂ニ不利、死傷如左
死 兵士 佐伯三保三
戸倉太一郎
秋元喜一郎
池田満之進
小者 権吉
傷 嚮導 朝日宮次郎
松島景三
兵士 岡村初衛
藤川駒之允
石田三寿蔵
田原進
竹広耕作
小者 万太郎
同十七日、折戸台場ニ於テ戦ヒ、我兵大ニ利ヲ得テ、松前城ニ突入ス、死傷如左
死 兵士 瀬来道次郎
傷 川島善之亟
同廿四日薄暮、二股台場攻撃、遂ニ利ナシ、五月八日朝、賊徒大川村台場ヘ襲来、我兵能ク戦ヒ、大ニ利ヲ得ル、死傷如左
死 参謀 林与
兵士 島田卓熊
宇田新三郎
傷 嚮導 岡澄江
兵士 野村堅司
同十一日暁、箱館ヲ襲ヒ、三度戦ヒ、皆利ヲ得タリ、死傷如左
死 兵士 中村寛三郎
傷 長官 寺田三郎
兵士 河原猛次郎
田中清蔵
橋本勝蔵
同日朝神山台場ヲ襲ヒ、大ニ利ヲ得ル、死傷如左
死 兵士 古志蔵人
傷 棟居友雄
山田剛蔵
岡幾三郎
大沢太五郎
分捕左之通
小銃七十挺
タス六十六
弾薬少々
右函館ニ於テ分捕仕候、折戸ニ於テ分捕之品委細書附ヲ以テ、松前会議所ヘ御届申上候也
五月
徳山藩
大野藩届書写
四月四日、津軽青森ニ於テ松前口先鋒被命、同五日十二字弊藩兵隊、マンシー艦ヘ乗組、同六日同所開帆、同八日迄平館ニ碇泊、同日午刻後同所出帆、翌九日朝九字過乙部村ヘ着艦、兼テ御達ノ順序ニテ、松前藩上陸、引続弊藩兵隊上陸ノ半途、海岸通リ賊徒潜居罷在松前兵隊ト戦争相始リ、頻ニ砲声相聞候ニ付水夫ヲ急ガセ直ニ上陸、松前兵申合、弊藩半隊ヲ以テ、裏手山道ヨリ進撃ニ及ヒ候処、賊徒忽敗走シ、柳田村渡船場ノ綱ヲ断切、此村ニテ致防戦居候、其内各藩兵隊上陸仕、追々川場迄繰込ニ相成、監軍方指揮ニ依テ、福山一中隊、弊藩一中隊ハ、一里許川上ヨリ渡川福山藩ハ山道ヨリ、弊藩ハ川添柳田村ヘ押寄候処、賊徒逃去候ニ付、差急江差ノ方ヘ繰込候処、最早賊徒引退候ニ付、同所ニ宿陣相固罷在候
同十日御達ニ付、大留村口ヘ進軍仕候処、間道通路難相成候得共、上ノ国村ニテ御指図ヲ相待、翌十一日福山一中隊、松前一小隊、津軽一中隊、弊藩一中隊、湯ノ岱前後ノ村々ニ宿陣、同十二日津軽藩ハ最早篠小屋ト申所迄相進、今朝賊徒ト手合セ致候趣ニ付、早々繰出候様御達ニ付、同日十一字湯ノ岱村ヨリ、同所迄兵隊繰込宿陣仕候
同十三日御達ニテ、暁十二字一番津軽一中隊二番弊藩一中隊、三番松前一小隊、四番福山一中隊、木古内村ヘ進撃之途中、兼テ哨知有之候山上之野堡ヨリ、大小砲ニテ烈敷致砲発候ニ付、弘前兵直様答砲、弊藩兵隊ハ弘前兵ノ背後ヨリ、急歩前進堡下ニ向ヒ、三字三十分ヨリ六字迄、厳敷砲撃致シ候処、賊徒平地ノ野堡ヨリ、発砲致候得共、聊モ不屈、猶相進終ニ山腹迄押寄候処、賊徒処々ノ野堡ニ拠リ頻ニ打立、且霧深ニテ聢ト見分カタク、味方ノ応援モ無之、頗苦戦罷在候内、一先引揚候様御指図ニ付、乍残念繰打ニテ、開発村迄引揚申候、然処此辺地勢不宜候間、湯ノ岱村迄惣軍引揚候様、御指図ニ付、同村手前中沢村迄引取申候、其節死傷如左
死 一番隊中 岡鍛
二番隊中 渡辺忠三
山本太三郎
傷 木村和介
伊藤作四郎
関口賢治
四月十九日、今朝各藩兵隊笹小屋迄繰込、翌二十日暁第三字同所進軍、昨夜御達之通、福山一中隊、備前大砲隊、弊藩一中隊、中道通相進候処、山手野堡ニテ戦争相始候ニ付、弊藩一番隊直ニ山上ヘ走登リ、薩州藩、福山藩ト合併打立候処賊徒大ニ敗走、札狩村迄追討二番小隊ハ木古内村迄打入候処、尻内村ニ屯集ノ賊徒襲来ノ姿ニ付、備前砲隊ト合併、尻打口ヲ相固メ申候、且泉沢村迄逃去候賊徒共裏手之山道ヨリ、木古内村ヲ夾撃候様子ニ付札狩村迄進撃之兵隊、一ト先引揚、且弊藩一中隊ハ山上ノ野塁ヲ相固メ候様、御達有之、各藩兵隊モ夫々分配致シ候得共、弥夾襲之勢相見ヘ、加之山手間道ヲ断切候モ難計ニ付、一ト先稲尾峠迄引揚候、同廿二日総軍木古内村ヘ繰込、同所ニ宿陣仕候、其節分捕如左
弾薬一箱
短ミニー銃一挺
銃槍三本
七連銃弾薬一箱
シナイテル銃弾薬百箇計
櫃書類入 一荷
四月廿八日泉沢村ニ宿陣、於同所会議所ヨリ明廿九日暁、当別村ヘ相揃、賊徒追討之旨、御達有之、同夜十一字泉沢村進軍、当別村ヘ参着、翌廿九日暁四字、昨日兵賦之通、松前一中隊、弘前一中隊、弊藩一中隊、長州一中隊、松前臼砲一門、海手ヨリ相進候処、茂辺地村岡上ノ堡ニ賊兵相見ヘ候ニ付、松前藩ハ同村手前岡上ヨリ相進、弘前藩幷弊藩ノ兵隊急歩ニテ同村ヘ駈込、直ニ野塁ヲ見掛ケ駈躋リ、弊藩ニテ右野堡ヲ乗取、夫ヨリ弘前藩幷弊藩共、兵隊ヲ散布シ相進候処、山上山下ノ野塁ヨリ、賊兵大小銃ヲ以テ、烈敷致発砲候ニ付、是ヨリモ厳敷進撃候内、各藩兵隊追々進入、終ニ山下ノ塁ヲ乗取、弊藩直ニ山上中腹ノ塁ニ打向ヒ相進候処、右野塁ヨリ頻ニ打立、死傷多ク有之候得共、益奮戦、終ニ右野塁ヲモ乗取リ、依之賊徒大ニ散乱、堡砦ヲ棄テ逃去候ニ付、総軍山上ヨリ海岸迄散漫、尾撃シテ、富川村野堡ヘ押寄候処、賊兵暫時相拒候得共、不能支シテ敗走、有川村迄追撃仕候、其節死傷分捕如左
死 二番隊中 広木沼左衛門
傷 小隊司令官 堀寛
半隊司令 田村謙蔵
伍長 長岡戒三
小早川釜三郎
高野大助
一番隊中 〈後ニ死ス〉寺田竹次郎
同上 長瀬嘉和太
同上 鷹見政雄
同上 吉田留五郎
溝口恭太郎
宇野作次郎
田村万次郎
平尾金太
田島銀次郎
井上甚太郎
富永栄八郎
服部六郎
二番隊中 〈後ニ死ス〉和田実之助
野沢林兵衛
分捕品
日ノ丸大隊旗一流
弾薬箱〈雷管入ル〉一箇
四斤砲弾薬三箱
馬具三通リ
糧米四十俵
梅干二樽
ミニーヘル五挺
草鞋三千足
大砲車台一ツ
刀二本
銃槍十四本
弾薬庫一戸
五月十一日、昨夕御達之通、暁三字後七重浜村進軍、浜手本道一番水戸一中隊、二番弘前一中隊、三番弊藩一中隊、四番薩州半小隊臼砲二門、撒兵ニ敷キ相進候処、山手並海岸共数ケ所ニ塁ヲ築キ、数刻致防戦候得共、味方大小砲ヲ以テ頻ニ打立候ニ付、浜手ノ賊兵敗走、亀田村マテ追撃、然処山手ノ方ハ賊高所ヨリ大小砲ヲ以テ打下シ、且山下ニモ散漫致シ居、大ニ苦戦ニ付、弊藩一中隊猶又山下賊兵ノ側面ヘ相進、烈敷打立候処、賊敗走、既追撃可致頃ニ至リ、浜手通散乱ノ賊兵、弊藩兵隊ノ側面ヘ相廻リ、致発砲候ニ付、直ニ方向ヲ換ヘ、此賊ヲ打挫キ、再ヒ亀田村向迄追退ケ、弘前兵隊ト同村ヲ相固申候、其節手負如左
深手 小隊司令 多湖半弥
半隊司令 堀多膳
一番隊中 大生清記
浅手 一番隊中 山崎保之介
松田一作
有吉栄助
二番隊中 野尻孫吉
五月十六日、昨夕御達ノ通、亀田村津軽元陣屋攻撃ニ付、暁二字、同村ヘ弘前一中隊半、弊藩一中隊、長州一小隊、薩州砲二門、相揃候処、無程大小砲声相聞、既ニ桔梗野口ヨリ進撃相成候ニ付、監軍方指揮ニ依テ、陣屋表ヘ相進候内、賊兵不能禦、陣屋ヲ棄テ逃去、続テ各藩兵隊ヲ繰込、暫時胸壁ヲ相固メ、猶又御指揮ニ依テ、五稜郭口中道通相固申候、同十八日、降伏ノ賊徒各藩ヘ御分配、箱館迄護送被命候、其数ノ内二百人ハ弘前一中隊、弊藩一中隊ニテ、会津元陣屋迄警衛相送申候此段御届申上候、以上
五月
大野藩隊長 中村雅之進