太政官日誌第四十三
慶応四年戊辰秋七月
【越後長岡付近ノ戦】
高田藩届書写
弊藩家老竹田十左衛門儀、長岡在大黒村ニ塁壁ヲ築キ、近村ニハ薩、加、富山藩等、何レモ同様守衛罷在候処、去月十四日ヨリ敢テ戦争ト唱候程ノ儀ニモ無之候得共、無虚日小迫合ニ及、日々討死、手負等有之候、然ル処廿一日ニ相成、賊兵之拳動可疑件々有之候ニ付、人数整列相待居候処、果テ黄昏、賊徒多人数襲来、各藩ニ向ヒ大小砲頻ニ打掛候間、当手ヨリモ厳敷応撃罷在候内、賊徒福島村ヲ放火シ、富山勢ノ後口ヨリ発砲ニ及ヒ、富山藩ニハ下条村迄揚取候故、弊藩持場大黒村ヘ大小砲烈敷打掛、前後ニ兵ヲ引受、頗苦戦ニ及トイヘトモ、弥奮発力戦ニ及居候内、筒場村ヨリ薩藩繰出シ、暁方長岡表ヨリ長藩援兵トシテ進軍、会戦ニ及候間、大ニ力ヲ得、尚烈敷攻撃候処、賊徒敗散、百足村ノ方ヘ逃去候、其節々敵方訂死、手負、多分有之様子ニ見ヘ申候、弊藩討死、手負、別紙之通ニ御座候、廿ニ日黎明、薩長二藩ノ援助無之者、実ニ塁壁難保程之苦戦ニ御座候、同日四ツ時過一同揚取候旨申越候、此段御届申上置候様申付候、以上
七月二日
榊原式部大輔家来
香西又五郎
六月十四日 討死 銃隊足軽 大塚平八
軍夫一人
手負 銃隊差図役 吉田験蔵
徒目付 越山岩蔵
隠密方
小堀寿作
銃隊足軽 笠原儀八
同
栗間作太郎
同十五日 手負 軍夫 一人
同十六日 手負 銃隊足軽 数見新吉
同十七日 手負 銃隊足軽 鷲野三之丞
同十九日 手負 銃隊指図役 栗原甚三郎
銃隊足軽 福島六右衡門
竹田十左衛門家来
中西万吉
同廿一日 討死 銃隊足軽 伊藤底次郎
同 加藤才次郎
手負 目付軍役 栗原市右衛門
手負 以下銃隊足軽 長崎八十吉
平田次郎
大塚伊佐吉
市川忠蔵
吉越桂之進
荻野喜兵衛
荒川又次郎
山岸啓蔵
佐藤留吉
南雲利八
関原孫市
右之通ニ御座候、以上
【越後久保、椿沢ノ戦】
大垣本支両藩届書写
過日御届申上置候通、於北越桂沢村赤坂峠、弊藩並末家淡路守人数一小隊半ニテ一戦仕、其後連旬防戦罷在候処、去ル朔日暁、薩、長、松代藩合兵栃久保村、椿沢村ノ両山ヘ分隊進撃、弊藩並淡路守一小隊半人数ハ、栃尾街道右手ノ山ヘ進撃、賊徒所々ニ台場ヲ築キ及発砲候得共、直ニ衝撃、賊兵ヲ打散シ、二箇所ノ台場ヲ乗取、栃久保七ケ谷村境迄尾撃仕候、其節賊三人打斃シ、其他死傷不少、尤左手ノ山ヘ、淡路守半小隊、長藩ト合兵、椿沢村山道ヨリ進撃ノ処、抜剣接戦賊兵敗走、是亦二ヶ所ノ台場乗取申候、当日死傷左ノ通御座候、此段御届申上候、以上
七月三日
戸田釆女正家来
喜多村寛司
討死 銃卒 田中千蔵
深手 銃卒 同加蔵格之助
同 山田祐蔵
薄手 田辺三津二
以上
右之通、於出先参謀衆ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候ノ旨申越候間、此段御届申上候、以上
七月十七日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
淡路守人数、本家采女正人数ヘ合兵、於北越桂沢村赤坂峠、去月中旬一戦仕、既ニ御届申上置候通御座候、其後連日防戦罷在、去ル朔日暁、弊藩半隊、本家半隊合兵栃久保村之山ヘ進撃之処、賊所々ヘ台場ヲ築キ、及発砲候ニ付、直チニ攻撃、賊兵ヲ討散シ、二ヶ所之台場乗取、栃久保七ケ谷村境迄尾撃仕候、其節面タリ賊三人討斃シ其他死傷不少候、弊藩又半隊ハ長藩ト合兵、椿沢村山之間道ヨリ進撃、抜剣接戦、終ニ賊兵敗走、是又台場二ケ所乗取申候、委細之儀ハ采女正ヨリ御届可申上候、当日弊藩死傷、別紙之通御座候、此段戦地ヨリ申越候間、不取敢御届申上候、以上
七月十七日
戸田淡路守家来
有竹衛門
覚
討死 銃隊司令役 浅羽守雄
深手 銃隊伍長 木村嘉吉
右之通御座候、以上
七月十七日
戸田淡路守家来
有竹衛門
【信越各地ノ戦】
須坂藩届書写追録
去四月二十日脱藩之賊徒、越後路ヨリ信州飯山表ヘ侵入ニ付、本多豊後守ヨリ早馬ヲ以テ援兵申越候ニ付、弊藩有合ノ人数、即日差出シ、飯山ヨリ半里許手前、八洲村ヘ宿陣罷在候処、援兵一旦断リ相成候ニ付、一ト先在所須坂近境迄引揚候処、松代藩出兵ト出会談判之上、直ニ中野表ヘ出張、同廿五日暁、安田口ニ於テ尾州松代諸藩、賊徒ト砲戦相始リ、弊藩ニハ尾州、松代、差図ニヨリ、赤岩渋口間道ヲ厳重ニ固メ罷在候処、賊徒竟ニ越後路ヘ敗走、諸藩富倉峠ヨリ追撃、弊藩ニハ松代、上田、椎谷諸藩ト、千隈川東西ヨリ進軍、後四月七日、諸藩ト西大滝ニ移陣ス、同二十二日北越寺石村ヘ進軍、同二十七日小千谷ニ移陣ス、五月三日官軍賊徒ヲ片貝村ニ破ル、弊藩椎谷藩ト後詰ス、十九日小千谷ヨリ川東相川枝郷小相川ヘ出張ノ官軍賊徒ヲ一戦ニ破リ、其節弊藩ニテ檎獲一名、即刻監軍ヘ差出シ斬首ス、同廿八日与板村戦争、諸藩山手ノ方進討、平地ノ方長崎一小隊、大砲三門、弊藩一小隊、元込小銃ニテ烈戦、賊徒終ニ十町余敗走ニ及候処、賊勢又漸ク加リ、兵威煽シニ盛リ返シ、追々手詰ト相成、味方頗ル苦戦ニ及候ニ付、弊藩隊長清須入馬並ニ兵士数名抜刀叱咤シ、激励奮闘、敵数名慥ニ打留候得共、酣戦中首級ヲ揚ルノ暇モ無之、繰引ニ信濃川際原村マテ引揚、暫時休息之処ヘ賊兵尾撃候ニ付、昼後ヨリ又々戦争、翌廿九日朝迄烈戦、賊徒竟ニ敗走ニ及候、其節味方深手々負並生捕、分捕、別紙写ノ通ニ御座候、其後笠脱山ヘ陣替、六月三日迄戦争間断ナク候エトモ、賊徒多クハ敗走ニ及候段、今般従在所表申越候間、乍延引此段御届申上候、以上
辰七月
堀恭之進内
南保善右衛門
覚
浅手 士分 高橋勘兵術 同 吉池平造
深手 足軽 小布施早助 同 西沢久作
浅手 同 土屋市蔵 広田熊太郎
以上
右ハ五月廿八日、於与板村戦争ノ節、弊藩手負ノ者.如此御座候
生檎 一人
但会賊脱走人、監軍ヘ伺候処依御差図斬首
弾薬箱 一ツ
弾薬箪笥 一棹 但玉千発入
右同日、於原村戦争ノ節分取仕候、以上
辰七月十三日
【須坂隊ヘ感状ノ事】
御総督府ヨリ御褒詞写
長岡落城後、連戦無虚日、殊ニ悍強ノ賊ト対塁、連旬不得休息、遂苦戦候段、実不堪感激候、因馳一夫、聊慰軍労候、直様朝延ヘ可及奏聞候也
五月
永花押
公花押
須坂隊長中
右在陣中、隊長ヘ御総督府ヨリ御使ヲ以御褒詞被成下、其外笠脱山宿衛中、兵士ヘ度々御酒肴ヲ賜リ、重畳難有仕合ニ奉存候、此段御礼可申上旨、今般恭之進ヨリ申付越候ニ付、此段不取敢申上候、以上
七月十三日
堀恭之進内
南保善右衛門