太政官日誌第十四
慶応四年戊辰閏四月
【野州一円平定】
薩州藩ヨリ届書之写
東山道為先鋒、弊藩ヨリ差出置候人数ノ内、野州辺賊徒乱入致シ官軍為応援一小隊、並長州一中隊、大垣一中隊、被差出候処、先月廿日、岩井駅ニ於テ、賊兵千五百人許ト及戦争、互工大小砲打合、頻リニ攻撃ニ及候処、纔半時許ノ間ニ、賊兵散々敗走、賊首百余級打取、大ニ勝利ヲ得、分捕数多有之弊藩手負討死、別紙一印之通ニ御座候
同月廿三日、壬生城ヨリ弊藩一小隊、大垣一中隊、宇都宮城へ楯篭居候ヲ打破リ、追々相進、堀涯迄押詰候折柄、賊兵裏路ヨリ抜出、官軍ノ後ヲ絶切、前後ニ敵ヲ受.難戦ニ及候故、伏兵ヲ設、前ノ賊兵ヲ支へ置、後ノ賊兵ヲ打挫キ、三時余ノ戦ニテ、味方ヲ一所ニ相円メ、兵糧相遣ヒ候処へ、兼テ岩井駅ニ於テ相戦居候右三藩之兵、結城ヲ相発シ、本街道ヨリ押来リ、因州ノ兵隊ハ、壬生路ヨリ相進両道ノ応接、諸勢会戦ニ及候ニ付、大ニ力ヲ得、又々進撃致シ候処、終ニ賊兵及敗走官軍大勝利ニ相成賊首百数十級討収、分捕モ数多有之、宇都宮城ヲ乗取リ、藩士モ追々帰城ニ相成、野州辺都テ鎮定致シ、賊兵日光へ逃去候由、其節弊藩手負討死、別紙二印之通御座候
右之通両戦共官軍大勝利ヲ得候趣、申越候間、不取敢御届申上候、以上
閏四月八日
島津修理太夫内
新納嘉藤二
〇一印
○討死
河野壮八
夫卒
藤助
○手負
深手
野崎喜左衛門
浅手
瀬戸山吉兵衛
同
鵜木五左衛門
〇二印
○討死
上田友輔
川北六左衛門
永山覚太郎
加納次右衛門
築地宗次郎
松井十郎兵衛
鵜木吉次郎
岩水平右衛門
西田要之丞
草野貞太郎
伊地知助五郎
岩切彦次郎
佐藤彦五郎
足軽
井上伊右衛門
同
内藤金治
○手負
島津式部
有馬藤太
野津七二
美代藤之丞
野崎善之進
野崎吉之丞
税所竜右衛門
上原八郎
菱刈七之助
有川陽之助
松元清右衛門
横山勇蔵
安田仲左衛門
脇元喜之助
伊藤正次郎
市成彦右衛門
宇宿彦之丞
山下喜之助
日高郷左衛門
伊集院小藤次
矢野八次郎
深手
廻源五左衛門
同
川上彦八郎
同
鎌田喜之助
薄手
川崎兵十郎
同
大迫新八郎
同
河野伊兵衛
足軽
宇都岩太郎
種子田左門
下部一人
【宇都宮ノ戦】
長州藩ヨリ届書之写
東山道千鋒へ、兼テ宰相家来出張兵之内一中隊、総野国辺へ為応援被差出、四月廿三日朝五ツ時、下総国結城々下発之、宇都宮へ進候処、同日朝四ツ時頃ヨリ、壬生通宇都宮へ進候薩兵、其外安塚ト申所ヨリ賊徒ニ行逢ヒ、追々進撃、城下迄迫候処、賊裏ニ出、及苦戦漸切抜引取候途中へ、右弊藩中隊出会、薩州大垣、因州等、諸手軍議相決シ、八ツ時ヨリ再ヒ賊ノ根拠宇都宮城へ押寄候処、城下口へ賊ノ斥候隊二三十人、東照宮ト書記有之旗ヲ立、備居候ニ付、暫時ニ打敗相進候処、城並東南之裏ニ当リ、八幡、明神ト云フ二山ニ、賊勢盛ニ備居候ニ付、城大手、搦手、彼二山正面等ヨリ、同時ニ厳シク打掛、余程激戦ニテ、終ニ暮六ツ時、城及ヒ二山共攻落、残兵日光辺敗走ニ及ヒ、大勝利ヲ得、賊死人百数十人有之候官軍ノ内於弊藩者、嚮導河村源之允、鼓手永田峰太郎ト申者、両人戦死仕候段、出先ヨリ遂注進候ニ付、此段不取敢御届申上候、以上
閏四月
長門宰相内
寺内暢三
大垣藩ヨリ届書之写
東山道先鋒へ出張為仕置候采女正人数之内、去月廿二日、野州小山駅迄相進候処、賊兵壬生城へ襲来、甚危急之趣、因州勢ヨリ申来候ニ付、不取敢同所へ駆付候得共、既ニ戦争後ニ御座候、然ル処、賊兵宇都宮城ニ楯篭居候由ニ付、翌廿三日朝、薩州勢ト合兵、進軍之処、城下七八丁手前ニテ及接戦、頗ル苦戦ニ御座候得共、遂ニ討退ケ、賊兵不残城内へ引篭候ニ付、直ニ二之丸迄討入候、然ル処、薩州、長州、弊藩三手之斥候隊モ、城外ニテ一小戦致シ、同所へ落合来候ニ付、軍議ヲ決シ薩州勢ハ搦手ヨリ攻寄、長州勢ト弊藩人数ハ大手へ向ヒ、及発砲、夫ヨリ必死ヲ極メ、諸手救応、吶喊奮撃、因州勢モ応援致シ、遂ニ向背ヨリ城中へ乗入、賊兵ハ尽ク日光山ノ方へ落行申候、乃日暮ニ至リ、総軍凱歌ヲ奏シ候由、尤討取分捕ハ、取調ノ上追チ可申達之旨、急便ヲ以申越候、当手之討死手負ハ別紙之通ニ御座候、此段於出先御総督府へ御届可申上事ニハ御座候得共、不取敢御届申上候、以上
閏四月十日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
柴崎秀左衛門
○討死
大砲隊
大島孝次郎
同
高木辰之助
先手組
岩佐幸之助
○手負
大砲隊
深手 高橋養之助
壮士隊
同 粟田祢保次
兼用隊
同 山田喜太郎
同
同 清水藤太郎
同
同 大橋源之助
先手組
同 小寺庄次郎
附記
【武蔵、下総、下野戦録】
結城城主水野日向守、去ル三月廿五日、徳川彰義除ヲ率ヒ、居城ニ帰入セントス、家老小幡兵馬、小幡兵八郎、鈴木半之丞、其外同志ノ者六十人、日向守舎弟ヲ奉シ、兵隊ヲ城下口ニ繰出シ、彰義隊ヲ抗拒ス、然ニ交戦暫時ニシテ正義党打負、兵馬縛首、兵八郎討死、其余散乱、或ハ上京シ、或ハ板橋東山道御本陣へ事状ヲ報告ス、其頃又宇都宮ヨリ、賊徒稍切迫ニ及フヨシ注進有之官軍ノ援兵ヲ乞フ、仍チ東山道御手ヨリ、彦藩、須坂藩、堀藩、並元徳川旗本岡田某ニ手〈五千石位〉兵隊等御繰出シニ相成、都合百五十人許、長州祖式金八郎、岩倉殿御内香川敬三両人、参謀トシテ、之ヲ引率シテ、四月朔日、千住往還ヨリ押出ス、同月二日、流山ニ賊徒屯集ノ由ニテ乃押寄セ、小銃ヲ打懸ケ、攻戦候処、賊徒程ナク分散シ、賊長近藤勇ヲ擒ニシ、板橋ニ檻送ス、其ヨリ追々日光道中ニ進ミ、同月五日結城城ニ迫リ官軍ヨリ結城ヲ放火シ候処賊兵及水野日向守ト共ニ遁レ走ル、其ヨリ官軍兵隊ヲ分チ、祖式金八郎、須坂藩ヲ率ヒ、結城ニ篭城シ、香川敬三、彦藩岡田手ヲ率ヒ、宇都宮ニ応援トシテ楯篭ル、然ル処、四月十日頃、江戸深川辺ニテ、旗本撤兵隊等大ニ金銀ヲ募リ、利根川ヲ泝リ、関宿辺ヨリ上陸シ日光道中両道ヨリ押登リ、且賊兵艸風隊、彰義隊、七聯隊等、其外数種ノ大旗ヲ押立、漸々結城、宇都宮ニ迫ル、仍テ結城ヨリハ武井宿、宇都宮ヨリハ小山宿ニ兵ヲ繰出ス、同十六日、両所一度ニ交戦ト相成、双方死傷少々コレアリ、遂ニ官軍少勢ニシテ利ナク、軍ヲ班メテ一同ニ宇都宮ニ引揚ル、賊軍継テ宇都宮ニ迫リ、十九日、攻撃頗ル急ナリ官軍及ヒ宇都宮藩戮力拒戦スト雖トモ、賊大軍ニチ遂ニ支へカタク、宇都宮落城ニ及ヒ、藩主館林ニ走リ、一藩近郷ニ散乱ス官軍亦絹川ヨリ、関宿辺ニ下ラント欲シ、先ツ彦藩兵隊舟ニ乗リ、其外跡舟ニ乗込ミ、既ニ纜ヲ解カントスル所へ、向堤薮ノ中ヨリ、賊兵銃丸雨ノ如ク打懸ケ官軍之力為メニ混雑一形ナラス、彦藩創ヲ被ルモノ甚多シ、小山宿武井宿ノ戦ヨリ、常州笠間、野州壬生等官軍ニ応スト雖トモ、悉ク剣槍隊ニテ、遂ニ賊ノ為ニ撃破ラル、其由板橋御本陣へ注進有之、早速薩長ノ兵隊、救応可致ノ旨御令ヲ蒙リ、薩藩五番隊、六番隊、長州二番中隊、大垣二小隊、十八日板橋宿ヲ発シ、十九日幸手宿ニ宿陣ノ処、賊兵千人許江戸ヨリ敗走、今夜岩井宿ニ止宿シ、関宿ヲ取切、利根川ヲ絶ントスルノ状、間諜帰報ニ付、其夜八ツ時頃、直チニ整隊、薩五番隊、長二番中隊、垣二小隊、先関宿ヨリ押出シ、翌廿日辰刻、岩井宿ヲ距ル事一里許ノ処ニ至ル、賊兵モ是所迄押来リ、直チニ攻撃、一時余リ官軍大ニ打勝チ、賊兵悉ク散乱ス官軍北ルヲ遂フ、賊長山中光司、渡辺綱之介〈会人〉岩井宿ヲサシテ走ル、我兵渡辺ヲ狙撃スレトモ遂ニ中ラス、此日薩藩一人討死、手負一人、長藩田中甚吉討死ス、賊兵麦畑ニ斃ルヽ者六十人余、是夜岩井宿滞陣、翌廿一日境宿ニ一泊、廿二日結城ニ入ル、廿ニ日宇都宮ヨリ賊兵壬生ニ向テ繰出ス、薩六番隊、土藩、因藩亦壬生城ヨリ出テ、安塚ニ迎へ戦ヒ官軍勝利、是日大風雨ニテ、砂石車軸ヲ流ス、遂ニ深ク追ハス、軍ヲ班メチ壬生ニ帰ル、廿三日早朝、賊徒再ヒ壬生城ニ向チ兵隊ヲ繰出ス、是日薩垣先鋒亦安塚辺ニテ相戦フ、賊軍稍ク退縮官軍進テ宇都宮城外ニ逼ル、然処、賊徒間道ヨリ後ニ廻リ、糧道ヲ絶シ、三方ヨリ合撃シ、飛丸如霰、薩垣大ニ苦戦、此日因藩後継ノ約アリ、然レトモ未至詮方ナク大砲ヲ以テ一方ニ打向ヒ、続テ小銃ヲ以テ無二無三ニ衝撃シ、程ナク一道ヲ開ヒテ出、各水ヲ飲ミ、汗ヲ拭フ、時ニ薩五番隊長藩二番中隊、大垣二小隊、雀宮宿ヨリ駆来リ、賊ノ斥候隊之ヲ見テ、一発ニモ不及城内ニ走リ入リ、中央ニ会藩東照宮ト書シ、大旗ヲ押立テ、隊長ト相見ユル者、亦同様手旗ヲ持テ、其兵ヲ指揮シ、官軍ニ向フ、官軍急遽糧ヲ伝ルニ暇ナク、之ヲ望ンテ直チニ攻懸ル薩六番隊、大垣小隊之カ為ニ力ヲ得、再ヒ奮テ城ニ打向フ、此城下ニ明神山、八幡山ノ両山在リ、賊兵固ク之ヲ守ル、官軍攻撃、愈勉ムト雖トモ、更ニ落城ノ目途ナク、日ハ将ニ西山ニ没セントス、官軍乃チ意ヲ決シ、大砲火箭透間ヨリ城内ニ打懸テ、鬨ヲ作テ一斉コレニ迫リ、斃ルヽ者ヲ顧ミス、殊死シテ攻撃ス、賊勢之カ為ニ辟易シ、城内両山、一時ニ潰ユ、黄昏終ニ宇郡宮ヲ回復ス
一、是日再ヒ城内ニ攻懸リシ時、因藩亦駆付、河田佐久馬、大ニ奮テ兵隊ヲ励マス、仍テ因兵頗ル力戦ス
一、賊徒諸所ノ敗兵、悉ク宇都宮城へ輻湊ス、仍チ此戦賊最大軍ニテ、早朝ヨリ交撃、日中殊ニ励シク、煙燄天ニ張リ、是カ為ニ人面黄色ニ見ユルニ至ル
一、今朝苦戦ノ時薩六番隊討死十五人、手負二十人余、大垣二小隊手負二十人余、内三人即死
一、城攻ノ時薩五番隊討死一人、手負二人、因藩手負三人、内二人即死、長藩討死二人也
一、賊討死無算、死骸城内ニ埋メシ所、三ヶ所城外ニ一ヶ所、落城之時、急遽ニシテ其侭斃レシ者凡百人許ト云
慶応四年辰四月
長州第一大隊二番中隊々長 楢崎頼三