太政官日誌第三
慶応四年戊辰二月
【朝典一定の建言】
臣等謹而按するニ、古之能々天下の大事を定むる者ハ必先ツ天下の大勢を観て、緩急機に従ひ、処置宜を得候故ニ唯功徳の一時に光被するのみならず、万世不抜の業、是に於て相立候、今や皇上始て大統を継せ給ひ、御政権復一に帰し凡百の宿幣も更始一新し、天下万姓目を拭ひ治を望むの秋なり、即在朝の百官自ら奮発し、内ハ皇上の御徳化を輔け奉り、外ハ皇威を万国に張り、臣子之分を尽さん事を欲す、就中今日の急務ハ皇国と外国の交際を講明せずして、不叶儀に奉存候、近頃朝廷始て外国事務の官職を設られ、其人を御撰挙遊され、専ら御力を尽され候は、天下の人をして、方向する処を知らしめ給ハんとの御趣意にて皇威を万国に赫輝せしめ候ハ、此時に可有之と、不堪感銘奉存候、乍併古語にも、人心不同ハ面の如しと中候而、在上在下の人、未だ各々隈々の議を執て、疑惑なき事能ハす、又或ハ漢土人の如く、自ら尊大にして、外国人を禽獣の如く蔑視、終には彼に打負、却て駆使せられ候様に成行き候覆轍を、践むに至るへき哉と甚憂慮仕候、依而熟考仕候処、今日之先務ハ上下協同一和し、宇内之形勢を弁し皇国一大革して、開業すへき所以方向確定すへき儀、第一と奉存候、是迄皇国ハ一方に孤立し、世界の事情に不達、只愉安を以て志とし、荏苒衰微を致し、彼カ為に制せらるへき次第ニ立至候と、各国に航行し衆善を包取、気運日々に開け、政治文明、兵食充備、天下に縦横致し候と比較いたし候得ハ盛衰之原由も判然相分り可申哉に奉存候元より膺懲の重典も無くて不叶儀にハ候得共控御之術其方を得候へハ、遠人も懐き服し候道理にて、尤無罪之人を膚懲致し候訳には無之候
中古朝廷にも、玄蕃の官を置せたまひ、鴻臚館を建させられ、遠人を御綏服被成候事も相見へ居、其後天正慶長の間には、蛮夷共屡西国に渡来交易致し候、若し其来港不致節ハ、大将軍より書簡を以て促され、猶遅綏に及候時にハ、此方より大軍を発し、攻撃に可及なそと申遣し候儀も有之候処、島原の一乱以来、始て幕府より鎖国の令有之候、乍併漢土和蘭に於てハ、猶交易差許候得ハ一切に外国人ハ攘ひ斥け候と申訳には更に無之処、近年攘夷之論盛に相起り、諸侯之内、偶攘斥致し候茂有之候得共、素より一藩の力を以て、不可為ハ諭するに足らず、且先年幕府より、十年を期して、成功を奏し可申抔と申上候ハ、陽に其名を仮り、陰に其私を行ひ候詐術にて、先帝日夜御苦慮被為遊候御儀とハ、同年之論にハ無之と奉存候、然れハ今日皇国之衰運を挽回し皇威を海外に耀し候儀、万々一刀両断之朝裁を以て、井蛙管見之僻論を去り、先ツ在廷枢要之御方々より御豁眼に被為成、上下同心して交際之道無二念開せられ、彼カ長を取リ我カ短を補ひ、万世之大基礎相据られ候様奉専祷候、仰願くハ皇上之御英断、能く天下之大勢を御観察被為遊、是迄犬羊戎狄と相唱候愚論を去り、漢土と斉しく視させられ候朝典を一定せられ、万国普通之公法ヲ以テ参朝をも被命候様、御賛成被為在、其旨海内へ布告して、永く億兆之人民をして、方向を知らしめたまひ度儀と、偏に奉懇願候、誠恐誠惶頓首頓首
二月七日 越前宰相
土佐前少将
長門少将
薩摩少将
安芸新少将
細川右京太夫
【長門少将言上の事】
臣広封謹而奉言上候、先般越前宰相一同建言之儀、癸丑已降天下之勢、屡変遷、遂ニ今日之御時体ト相成候而者、目下之御処置、右建言之処一着落仕候外、無御座ト奉存、連署奉言上候、抑既往ヲ推究仕候処、幕府一且其術ヲ失候而ヨリ、御国是屡変換、開鎖之論一定不仕、天下是カ為ニ肝脳塗地候者不可枚挙、悲歎之至ニ奉存候、然処臣広封父子、追々陳述仕候通、癸丑已来偏ニ皇威御更張、国是御一定ヲ奉企望、只管叡慮ニ奉基、名義条理相立候様ニト不願微力、藩屏之任一途心懸罷在候内、戌午下田条約被差許候ニ付而者、即チ開国ニ御一定ト奉存、一藩方向相立居候処、壬戌ニ至リ父子上京親ク奉伺候得者、和宮御東下一条ヲ奉始叡旨専ラ鎖国ニ被為在候御事、奉拝承、殊ニ癸亥ニ至、大樹家上洛奉勅攘斥之布告相成候ニ付、弥以艱難危急者臣子之分ニ付天恩之万一ヲ奉報度ト決心仕、人民ヲ鼓舞激励シ、身ヲ以テ自先シ候処、臣広封父子之微誠貫徹不仕、遂ニ孤立之姿ト相成、闕下ニ拝趨不得仕次第ニ立至候得共、元来臣広封父子進退趨合一已私見ニ出候儀毫厘モ無之、偏ニ叡慮遵奉之心得ニ御座候処、幕府布令前後齟齬ヨリシテ御国是従而変換シ、臣広封父子禍難ニ陥溺仕候様相成、此余者社稜ト共ニ灰滅仕候外無之ト覚悟罷在候処、乾綱新張、今日之御盛時ニ遭遇シ再生之鴻恩ヲ奉蒙、感泣之至ニ奉存候、然処、四境閉塞以来、国外之情態甚迂闊ニ打過候得共、外国交際之儀其他種々被為尽廷議候御様子略伝承仕リ、今般上京、親シク先年来之御行懸等、精細相窺候得者、既ニ開港勅許、海外各国江御布告被為有、既ニ御国是御確定、開国之御規模披為立候御儀、続而王政御一新、万機御親裁之秋ト相成候付而者、内外之形勢前日之比ニ無之、即チ国家之御安危、皇威之御隆替、辱クモ御聖徳ニ関係仕、今後之御挙措、最重大之儀ト奉存候ニ付、外国御交際者、宇内公義之係ル所、内国一家之紛擾ヲ以、宇内之公義ヲ害候様ニ而者、万国ニ対シ可愧儀ニ御座候間、乍恐神武之御聖業ヲ御体認被為遊、専ラ天下之耳目ヲ一新シ、人心之方嚮ヲ相定メ、確乎不抜之聖断ヲ以テ天下ニ臨御被為遊、外者宇内万国ニ並立シテ不被為愧、内者列聖之神霊ニ被為封御遺憾無之様、不堪懇願之至、誠恐誠惶頓首謹言
二月 長門少将