江城日誌・慶応4年前編

江城日誌前編

四月廿一日
今巳半刻大総督宮増上寺內真乗院御出馬城內江御転陣之事
御転陣後諸総督参謀等参集之事

四月廿二日 大総督宮より諸道参謀諸隊長へ御口上書之写

今般賊徒追討として海陸軍を総て東下し各戦闘勲労有り昨日当城へ転陣いたし候者全諸道総督を始参謀各藩之協力勉励に寄る処なり
実に今日迠尽力之趣ハ委曲追々可逐奏聞候
乍併未だ全成功にも不至且府下恭順を唱へ候得共人心居合不相付中々安意ノ出来候訳に無之者衆皆所知也猶此上各心を一にし勉励して速に逐成功一日も早く可奉安宸襟諸道総督を始參謀各藩之隊長士卒に至迠我不肖朦昧を輔け共に努力して天朝之御為に尽忠可有之候当城へ入候上者早速万民鎮撫安堵之大号令を可発ハ勿論也其綱目ハ
如何して可然哉各見込無隔意為聞可申且諸道手配之計策も同断見込可申出委曲承度候事

四月廿三日御軍議に付諸道総督参謀隊長
等登城隊長より差出候書付之写

御城内持場所々御究被仰付遊軍於有之者四方応接仕候樣被仰付度候事
軍監并斥候役被為置度候事
水道御取調被仰付水源へ御人数御指出取締被仰付度候事

兵狼米并野菜等日積を以諸隊へ御渡被仰付其手〱にて炊候様被仰付度候事
但炊道具人数に応じ夫々御渡被仰付度候事
押借押買いたし候もの共於有之者早々其筋へ申出候樣被仰付度候事
四月

四月廿四日田安中納言へ達書之写
国財之儀ハ元来政権へ附属いたし候もの之処去冬徳川慶喜より大政返上に相成候付ては今般金銀銭製局現在有物共朝廷に御引上に相成候間此旨役々へ可相達旨御沙汰候事

四月

平川和太郎より届書之写
去十四日十五日より賊徒の形情切迫に相成候に付十六日夜小山宿より兵を進め候処敵大勢にて苦戦尽力いたし其夜賊徒一里程引退翌十七日新田宿迠押行候処敵ハ小山駅へ押来候に付総軍径に向ひ戦争に及び候処何分賊徒大勢に付尽力相戦候得共勝算無御座候間兵を纏め宇都宮へ引退申候結城へ向ひ候人数も屡々の戦争にて十七日ハ結城より小山駅之途中にて戦争に及ひ是又難戦にて引揚十八日先下舘より来り候賊兵を支へんと及出兵候処翌十九日賊兵弥加り候間遂に支兼一ト先引退き応援之兵を待ち再事を成んと自焼して夕刻宇都宮を引払ひ古河迠引退き弾丸手当手負人労士之処置いたし候上明日ハ再宇都宮へ発向之積りに御座候此段御届申上候以上
四月
再啓討死手負等別紙差上申候猶諸藩ハ取調之上跡より可申上候以上

四月十七日小山駅にて戦争之節
討死 彦根藩 小泉弥一右衛門
手負 同隊 九人
討死 渡辺九郎右衛門隊三人
手負 同隊 三人
討死 大番隊長 青木貞兵衛
同 同隊 四人
手負 同隊 二人

同十九日宇都宮戦争之節
手負 小泉弥一右衛門隊二人
討死 渡辺九郎右衛門隊一人
手負 同隊三人
討死 佐野小銃隊一人
手負 同隊一人
同十六日十七日十九日戦争之節
討死手負 須坂藩 二十三四人
间 岩村田藩 二十人計り
手負 中軍 二人
討死 壬生藩 一人
同 笠間藩 四人
以上

四月廿七日有馬兵庫頭家来より届書之写

四月廿一日壬生城より官軍御出張に付御先手に相進候処翌廿二日曉於野州安塚村戦争に相成申候其節手負討死等左之通
討死 士分 原田留三郎
同 寺村好太郎
同 足軽 鈴木角之丞
同 熊倉元吉
深手 士分 広瀬長次郎
浅手 西村要蔵
深手 長多勘蔵
同 林崎九右衛門
同 久保鶴吉
浅手 大竹作弥
同 渡部佐太郎
右之通御座候以上
四月
有馬兵庫頭家来
辻元收蔵

四月廿九日笠間藩より届書之写
当月八日東山道御総督御軍監より野州宇都宮藩為御使者日光辺不容易形勢に付藩力相応之人数早々差出候様以書村御達有之同月十二日越中守人数宇都宮へ差出候処同月十五日隊長之者御呼出有之野州古河駅へ浮浪のもの屯集に付人数差向候樣依御達翌十六日御官軍彦根藩壬生藩并弊藩古河表へ出張仕候処跡より以御使番総州結城表へ浮浪多人数屯集罷在候に付人数相廻し候様御差図有之依而小山駅より結城之方へ凡十町余り罷越候途中に於て浮浪徒の方大砲一声相響夫より杉森或ハ畑中より大小砲一度に打出暫時及戦争候処則別紙之通戦死手負のものも有之難及力戦結城宇都宮の方へ人数引揚候処猶又雀之宮宿へ差出候様御差図に付御軍監一同繰出十七日暁石橋宿より結城小山の方へ差向候様又々御差図に付相進候処引取東裏にて又々戦争相成是又半時余も相戦候得共追々人数も相疲候に付御軍監に御届之上笠間表へ帰陣仕侯事に御座候以上
戦死手負名前
討死 番頭 川崎忠兵衛
討死 目付 藤江右膳
同 戦士 中村庄三郎
同 大砲方 秋元金吾
同 戦士 川崎保蔵
同 大砲方 川俣善七郎
浅手 物頭 喜多右門
同 大砲方 加藤益三
同 医師 原松栄
同 戦士 堀勇輔
深手 大砲方 村尾源介
右之通御座候以上
四月

閏四月二日田安中納言へ御沙汰之写
昨今之時勢に付格別苦慮尽力之事件深感思食候尚此上見込之儀者無忌憚申出万端
可抽誠忠旨大総督宮御沙汰候事
閏四月 大総督府 参謀

真田信濃守より届書之写
兼而御届申上候通先月廿五日当国飯山表に屯集之賊徒共安田村渡船場辺において戦争之節討取并私人数手負打死左之通
討取三大
但安田渡船場に於て小統にて水中へ打落し申候
右之外討留并為手負候賊徒有之候得共川を隔候戦争故即時賊徒共取片付候に付員数相分不申候
鉄砲薄手負 士分大砲方 清水一郎左衛門
同 足軽物頭金児友太郎組 中島熊次郎
同 小沼長兵衛
右之通御座候尤分取物召取人等有之由に御座候疾にも敗走之賊徒為追捕越後口諸所へ人数分配差出候に付隔地に相成聢と相分り兼候間追而取調可申上此段御届申上候以上
閏四月二日
真田信濃守

閏四月八日筑前藩より届書之写

昨七日申刻頃より船橋之方にて頻りに砲声相聞候に付軍列相整押掛り候処賊兵より大砲備へ砲発致し候に付此方よりも大砲打掛申候処賊兵山中へ引取候由佐土原藩より申越候に付弊藩も右山中へ討入らんと談し居候内不意に横合又後より頻りに賊兵発砲いたし是が為に味方人数不覚を取大頭竹中与右衛門も何方引上ケ候哉行方不相分候に付精々苦戦仕候得共大砲備ひ漸く両三人差残り候事故一ト先引取申候右に付急々弊藩之内人数御差向被下度奉願候以上
閏四月
筑前藩 宋甚四郎

閏四月十二日薩藩より届書之写

閏四月七日暁四字頃上総国八幡宿より戦争相始申候処無間賊兵逃出し五井宿辺并近隣之村々へ屯集仕候賊兵も悉く散乱仕即時より急撃の追打に罷成大概十二時頃姉ケ崎宿迄追詰申候処右之所にて賊兵礟台を築立暫時ハ踏止り接戦に及び申候処是以難なく両所の台場も攻破り姉ケ崎宿も十町位者過行き追撃仕候得共皆賊兵ハ東西に逃去候夫故官軍ハ総而姉ケ崎宿へ引纏ひ宿陣仕候尤賊兵之死骸大凡二百位と申事に御座候私共隊之手負人数左之通
深手 入江直次郎
同 原田長左衛門
薄手 益満新七
同 満尾正左衛門
同 川上四郎次
深手 夫卒 権太郎
右之通戦争形行御届奉申上候以上
閏四月
薩藩 飯牟礼喜之助

閏四月十二日堀田相模守へ御沙汰之写

其方へ一応被預置候松平豊前家来従事のもの共今般改而大河内刑部太輔へ被預置候条被引渡於豊前ハ是迠之通其方へ被預置候間厳確守衛可有之事
閏四月 
東海道 副総督

閏四月十五日堀田相模守へ達書之写
今般阿部駿河守始家来謹慎被仰付陣屋并領地器械等被召上追而御処置被仰付候迄一応
其方へ被預置候間厳重取締守衛可有之事
但市在取締且公事等承届可然樣処置可有之候重大之事件におゐてハ伺書差図之上処置
可有之事

閏四月
東海道 副総督

閏四月廿四日水野出羽守へ達書之写

林昌之助始家来共其他遊擊隊人数二百人余持筒共に何分御沙太有之迄之內其許へ被預置
候旨大総督宫御沙汰候事

閏四月
大総督府 参謀

同日未刻過大監察使三条大納言殿同附属万里小路弁殿御入城之事

同日未半刻過より酉刻前迠大監察使始諸道総督下参謀会合御軍議之事