江城日誌・慶応4年14号


江城日誌 第十四号
慶応四戊辰年五月

五月廿九日
○小田原出張軍監より之伺書へ〈第十三号ニ出〉附札之写
一、其地ニ而、和船雇入、可相廻候事
一、此方より斬罪之儀ハ先見合、加賀守へ三ケ条之趣、吃度及糾問、書付差出候上、当府へ可伺出候事
一、伊州出張之兵隊、当分之間、其表ニ滞陣被仰付、三雲為一郎為軍監被差残候条、小田原函嶺等、取締被
仰付候事
今更此方より催足、実功為立候ニハ不及候得共、乍慎為相勤不苦候事
一、家中之者一統帰家謹慎被仰付候事
一、城中用意米其侭差置、加賀守家来共へ可被為任置、官軍兵隊兵食之儀ハ、是迄之通り、江川太郎左衛門より仕向被仰付候事
五月
○御沙汰書之写
今川侍従
品川侍従
前田侍従
六角主税
前田愿十郎
岡田錖之助
大久保与七郎
勝田鋼吉
坪内嘉兵衛
座光寺盈太郎
菅沼左近将監
右本禄如旧下賜候事

五月三十日
○奥州出張黒羽藩より届書写
去月廿二日、白川表御参謀より、奥州旗宿迄出兵可致旨御差図ニ付、同日領分追分村迄三小隊、外ニ施条砲一門繰出し、翌廿三日、旗宿まで操入、同廿四日払暁、賊兵棚倉表よりの間道越、追分村三軒之処、二軒放火焼失、且賊三十人余襲来、村方の者一人為手負候段、同村見張之者より旗宿本陣へ注進有之、依て夫々手配り罷在候処、卯半刻頃棚倉往還より賊兵多少不相分候得共、凡七十人程ニて砲発有之、不取敢戦争ニ及、追々賊兵敗走、中野番沢村入口迄二十四町程之処迄追払、賊兵散乱いたし候間、人数旗宿へ引上候得共、同所東西葉山続、殊ニ奥州へ之間道多く、地利不宜、何分一手ニてハ、番兵難届、就てハ白坂宿へ兵隊繰入、其段早速御参謀方へ御届仕候処、追而白川表へ繰入ニ相成候迄同所へ警衛致し候様御差図ニ付、大垣藩一同警衛罷在候、同廿六日卯半刻頃、右宿最寄ニ而、天王山と申森林ニ、賊兵五小隊屯集致し、砲発、依之大垣藩二小隊、当家三小隊并大砲一門両勢を以砲戦、午刻過、賊兵敗走ニ及び、討死、生捕、分捕等猶追而取調之上、御届可申上候得共、不取敢右之段御届申上候以上
五月
黒羽藩隊長 五月女三左衛門

江川太郎左衛門
頃日箱根辺之残賊、豆州網代辺屯集之趣ニ相聞候ニ付、人数繰出し、早々掃攘可致旨、御沙汰候事
五月
○奥州出張薩藩より届書写
昨廿七日三字頃より、北の方十八町位御座候、会津街道筋、大谷地村を根拠として、追々賊山上へ兵を分配し襲来候ニ付、二番隊四番隊足軽、大垣一小隊、土州二小隊位左右へ相分れ、進撃候処、五字過ニ至り賊退散いたし、大谷地村迄致追撃候処、既ニ夜ニ入候ニ付、大谷地村白川之要口ニ付焼払、六字過ニ、兵隊都て引揚申候、討取候死骸、十五六位も御座候哉、山中諸処之戦にて、聢と取調不行届、凡右内外ニ御座候、敵ハ山中諸処ニ屯集いたし、千人内外も御座候趣ニ御座候、此段不取敢御届申上候以上
五月
○忍藩より届書写
下総守領分、武州秩父郡大宮郷へ、去る廿三日怪鋪体之者立入候ニ付、取押取調候処彰義隊滝川渡、其外共都合十二人、飯能にて被討洩候者ニ付、斬首仕候以上
五月
○小田原より届書写
林昌之助始脱走之賊徒、日金道より熱海、真鶴辺を心差候様子ニ付、討手として箱根宿より三小隊、分配仕差向申候
一昨廿七日、箱根ニ而及戦争候節
一、首級七ツ孕石帯刀ニ討取申候
一、生捕一人是ハ林昌之助下僕之由ニ御座候
別通
一、首二級
但豆、相境日金ニ而打取申候
一、首九級
但相州底倉村、字堂ケ島ニ而打取申候
右之段御届申上候
五月廿九日 大久保加賀守家来 郡権之助

湯本村
箱根宿
同権現社領江
此度兵火焼失ニ付、右村々へ御救米、軒別ニ一俵宛、合七十八俵被下置候事
六月

御牧重太郎
右者先達而、豆相軍監附属として、小田原表へ出張被仰付置候処、箱根ニ而戦死いたし候趣ニ御座候、此段御届申上候以上
六月 佐土原藩