江城日誌 第十二号
慶応四戊辰年五月廿五日
五月廿五日
水野出羽守
本多紀伊守
滝脇丹後守
今般徳川亀之助、駿府城主ニ被仰付候間兼而用意可有之旨、御沙汰候事
五月
右各通
五月廿六日
北陸道総督府より之来状書抜
抑於北越小千谷長岡道、去ル十日ヨリ攻撃、薩、長両藩、加州、高田、信州、尾州等進撃、賊軍強勢ニ而、苦戦打続候得共、去ル十九日、長州勢千曲川打越乗入、引続諸藩進撃ニ而、同日巳刻後長岡城町在共焼亡仕候、残賊之儀も、廿日朝迄ニ尽く散乱いたし、八十里越と云奥州地へ之間道へ引栃尾と云所へ相集候様相聞候、追々追撃之手配いたし居申候、此度之戦、官軍之死傷不少賊之死傷ハ又倍々有之趣、近来之大戦ニ御座候、長岡落城ニ付、追々右城下江操込居申候、先右迄不取敢御注進申上候巳上
五月廿二日
○
薩藩より之届書
去ル朔日、白川城攻落し候節、取討之賊兵死骸、追々取調相成候処、都合六百八十二人ニ相及候段、彼表出張之同藩ヨリ申参候間此段御届申上候、以上
五月廿六日
薩摩藩
五月廿七日
軍監木呂子善兵衛、越後表為監察、急速出張被仰付、薩州、長州以下戦争之藩々へ下賜候御感状持参、今廿七日出立之事
○薩州へ下賜候御感状之写
会津其外之賊徒共、北越所々之要地ニ盤踞し、兇暴猖獗、以て官軍ニ抵抗する之折柄屡遂勇戦、殊ニ去ル十日より、十九日ニ至り、連日之苦戦、頻りニ賊徒を掃撃し、遂ニ長岡城を乗取候段、深感賞候、成功之次第ハ速ニ可遂
奏聞猶此上一際抽忠勇、勉励尽力可有之、仍て感状如件
五月
○長州へ同断
会津其外之賊徒共、北越所々之要地ニ盤踞し、兇暴猖獗、以て官軍ニ抵抗する之折柄屡遂勇戦、殊ニ去ル十日より、連日之苦戦頻りニ賊徒を掃撃し、遂ニ十九日千曲川を打越先登し、長岡城を乗取候段、深く感賞候、成功之次第ハ、速ニ可遂
奏聞猶此上一際抽忠勇、勉励尽力可有之、仍て感状如件
五月
右各通
徳川江御沙汰之写
一、徳川亀之助方ニ而扶持いたし候分相除、朝臣ニ相願候もの共、姓名格式等相認可差出候事
五月
○
一、町奉行組与力同心之輩、自今鎮台府附被召出、禄高扶持米等是迄之通被下置候事
五月
○
品川侍従
今川侍従
前田侍従
同源十郎
六角主税
名代弟 六角由太郎
右自今朝臣ニ被仰出候事
五月
○
市政裁判所より伺之写
今般市政裁判所被建置候ニ付而ハ、向後於市中乱妨之者有之候節ハ、士と雖とも、御作法通り、裁判所手先之者を以、取締候心得ニ御座候、此段奉伺候以上
五月
掛紙
可為伺之通事
五月廿八日
武州飯能出張之筑後藩ヨリ御届之写
去ル廿三日、賊徒飯能中山江屯集、其外最寄村々ニ罷在候趣ニ付、藩々申合、筑前藩一同押寄、討入候得共、賊徒逃去候ニ付、同寺焼払、飯能村へ押寄候処、賊徒森陰、民家抔より砲発致し候ニ付、分隊仕、藩々一同打払申候、此段御届申上候
五月廿七日