太政官日誌第四十七
慶応四年戊辰秋七月
【越後雪嶺ノ戦】
飯田藩届書写 追録
越後筋賊徒為追討、応援人数一小隊、四月中差出候ニ付、兼テ御届申上置候処、閏四月廿六日、越後国雪嶺戦争之節、弊藩兵隊錦旗御警衛ニテ出張、同日夕先鋒ト入替リ相進候処、賊徒散走致候ニ付、小千谷陣屋迄相進、五月三日片貝へ賊兵押寄候趣ニ付、御総督府監軍岩村精一郎殿一同、松代藩一小隊、弊藩一小隊、尾藩人数出張之処、途中薬師嶺へ賊勢相迫リ候趣ニ付、直ニ同所ヘ向ヒ、松代隊ハ山之左ヨリ、弊藩隊ハ山ノ右ヨリ、散兵ヲ以テ攻登候処、賊兵大砲小銃相防<此時中川雄之助傷>賊ハ高ニ在テ楯ヲ取リ、味方ハ卑ニ在テ攻撃甚難戦ニ付、暫発砲ヲ止メ、草萱ノ下ヲ潜、敵ノ間近へ出、一同奮励、鬨ヲ造攻撃致シ候処、賊兵忽敗走致シ候ニ付、松代隊、弊藩隊一同追撃、此時生捕、分取等有之、塚之山駅迄相進、申半刻頃、一同人数小千谷陣屋へ引揚、同月九日、妙見ト申所へ賊徒押来候趣ニ付、三仏生村へ繰出、千曲川ヲ隔、烈敷砲戦、敵味方共手負有之、弊藩手負別紙ニ申上候、右之趣出兵ノ者ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候様美濃守申付越候、以上
六月八日 堀美濃守家来 淡路藤橘
五月三日薬師嶺戦争之節
生捕 会津金田百十郎隊之由 中村小七
分捕
一、弾薬
一、弾薬入長持 一棹
一、ボウト 一挺
但松代藩弊藩隊ニテ分捕
手負 物頭 中川雄之助
五月九日三仏生村戦争之節
手負 中川雄之助組 吉川信太郎
山村亀次郎
右之通ニ御座候、以上
六月八日 堀美濃守家来 淡路藤橋
長府藩届書写 追録
覚
五月四日越後国榎峠、片貝、両所ニテ戦争之時
傷、一番小隊 柳井虎蔵
同 八日榎峠ニテ
傷 六月四日死 三番小隊 吉崎常吉
上原二九郎
弘中柳三
里本作一
河村理右衛門
坂田信太郎
坂井次郎
同 十日榎峠ニテ
死 一番小隊 堀尾六郎
同 十三日榎峠ニテ
傷 一番小隊 森勘介
三番小隊 西島九郎
永富喜代太郎
同 十八日榎峠ニテ
傷 一番小隊 重山登
同 十九日越後長岡城進撃之時
傷 隊長 木村安八郎
二番小隊 青木直蔵
沼田寛市
四番小隊 広瀬虎吉
同日今市ニテ
傷 半隊長 本庄誠一郎
同 廿四日杉沢ニテ
傷 二番小隊 梅林芳介
同 廿六日小栗山ニテ
死 二番小隊 後藤酒兵衛
吉田喜三郎
傷 大石幾太郎
村山三平
同 廿七日越後国与板領、金ヶ崎ニテ
死 隊長 勝原国介
同日与板ニテ
死 五番小隊 箙梅吉
沢津信吉
平野耕蔵
山名孫八
傷 石光槌蔵
同 廿八日与板ニテ
傷 五番小隊 立花常次郎
内海百合熊
大塚三太郎
坂本伊三郎
中村利七
西山庄蔵
岡本勝熊
二十九日死 岡村常吉
同 廿九日与板、陣ケ峰ニテ
死 江見謙介
同日差出村ニテ
死 二番小隊 国重直人
傷 今知政人
四番小隊 花岡惣之進
長橋六郎
六月朔日
傷 隊長 原田謙吉
同二日越後国長岡領今町ニテ
死 軍監 熊野直介
同九日与板陣ケ峰ニテ
死 一番小隊 石井兵蔵
同十二日越後国元長岡領大口ニテ
死 中隊長 滝川六郎
同日与板陣ケ峰ニテ
死 一番小隊 榎本誠三
同十四日大黒村ニテ
傷 二番小隊 咲花小五郎
福本英之進
大藤清吉
平井金蔵
同十九日十二潟ニテ
死 砲隊 長綱滝吉
右北越出先之者ヨリ遂注進候間、其侭不取敢御届申上候、尤諸口激戦中多端ニ付、先死傷而己申越候、猶戦争之次第ハ取調之上追テ御届可奉申上候、以上
六月
毛利宗五郎内
時田少輔
高田藩届書写追録
弊藩家老村上主殿、出雲崎駅外要地ヘ人数分配、張陣罷在候処、本月十二日暁、中軍参謀衆ヨリ達ニ付、則番頭柴田武四郎、竹尾隼人手、井之鼻村迄繰出候処、久田村加州、松代二藩之持場ヘ賊徒押寄、両藩接戦ニ及居候間致応援候様、尚又達ニ付、直様進軍、隼人手ハ久田村、武四郎手ハ近傍城山ト申処ヘ繰込、加州藩合兵、烈敷及砲撃候処、賊徒敗走、山田、島崎辺ヘ散乱致シ候ニ付、一先久田村ヘ揚取申候、此日手負別紙之通ニ御座候
一、家老竹田十左衛門手ヨリ分隊、番頭鈴木右近、富田三右衛門、兼テ大津村ニ固守罷在候処、過日素志申立候趣モ有之候ニ付、本月十二日参謀山県狂介被申聞候ハ、永々之守衛ニ付テハ、志顧之趣致承知候ニ付、今日之戦争先鋒ニ進ミ、十分之奮発可致、就テハ沢田村ヘ繰込、乙茂村在陣之伊藤善次郎ヘ申談、何レヘ成共進軍候様達ニ付、直様沢田村ヘ繰込ミ、其段申込ミ候処、久田、乙茂、両村之衝路、赤坂辺ヘ進軍候様申聞候ニ付、即同所ヘ繰込、加州藩ト合シ、手配方示合罷在候内、賊徒多人数寄来候ニ付、加藩及ヒ鈴木右近、富田三右衛門手並大砲一門、直ニ山上ヘ繰上ケ、大小砲繰替繰替打立、及奮戦候処、賊兵敗散、室上山之方ヘ逃去申候、是日味方訂死手負等無御座候
一、同十九日卯之刻、主殿隊中軍参謀衆ヨリ海陸進撃ノ手配達シ有之候ニ付、直様人数井之鼻迄繰出シ、薩州藩ト合兵、久田村台場ヘ進軍之上、各藩人数海陸山上ト分配、時機見計居候内、軍艦ヨリ砲撃シ、大銃賊塁ヘ着発賊徒狼狽、敗走之体ニ付、其機ニ乗シ、三方ヨリ大小砲頻ニ打立候処、賊等砲塁ヲ捨、山田或ハ山陰等ヘ敗潰致シ、未之下刻参謀衆ヨリ達ニ付、諸藩一同揚取申候、此日討死、手負無御座候
右之趣、先所ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候、以上
六月廿九日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
一、手負 用使足軽 亀山繁太郎
右之通ニ御座候
富山藩届書写追録
福井、百束、両村之際ニ屯集之賊徒、本月廿一日申刻ヨリ大黒村固守之官軍ト及砲戦候ニ付、弊藩五番一小隊、持場福島村ヨリモ発砲、烈ク及戦争候、然ルニ夜半ニ至リ賊兵亀貝村ヨリ窃ニ襲来、村家ニ放火致、尾撃候ニ付、台場保護之兵隊及砲戦候得共、前後苦戦ニ相成、薩長両藩之兵士、為応援繰込、厳シク発砲、弊藩兵隊モ必死及砲戦、台場ヲ守返シ申候、弊藩出番分隊三拾人許、長岡市上巡邏罷在、同夜箇場辺ニ焔火起候ニ付、一入謹厳致巡邏候処、従本営之申談ニ付、持場ヘ出張、直ニ亀具村ヘ繰出、奮進砲戦、賊兵福島村ヘ致敗散候、同分隊拾人余稲葉村ヘ進撃、賊兵敗走、猶更松代藩ト戮力致進撃、字ナ諏訪ノキト申地所ニテ憤戦、追々相進、佐五右衛門新田之堤ニテ大ニ痛撃、長藩ニ相与ミシ、益発砲官軍三面ヨリ打立、賊兵狼狽致潰走候、賊兵若干打留候得共、進撃切迫中印ヲ揚不申候、爾後分隊之者共組合任指揮、佐五右衛門新田堤ヘ引揚、半隊充同所堤一ヶ所、同所村祠之辺一ヶ所、厳守罷在申候、右之節死傷人名等左ニ申上候
戦死 五番隊司令土 森田三郎 田島庄治
玉島太七 杉谷治助
即死 医者 放石荘安 人夫一人
深手 林茂理衛 山田金次郎
柳原喜三郎 福松善四郎
桜木志蔵 四番隊 佐藤幸太
人夫二人
分捕
小銃 内一挺元込 四挺 胴乱 一ツ
ニラ山笠 一蓋 皮笠 一蓋
大砲弾薬箱 二ツ
右等之趣御届申上候、以上
辰六月 前田稠松内 浅尾嘉左衛門
奥羽征討越後口
御総督府