東京城日誌 第十二
明治元年戊辰十二月
【局外中立取消交渉ノ事】
十二月三日、岩倉右兵衛督、横浜表ヘ出張、英仏米蘭伊孛六国在留公使面会、春来戦争中各国局外中立申談候得共、最早国内平定ニ及候ニ付、中立之議廃止致候様談判、翌日以書面、各国ヘ相達
右書面左之通
以手紙致啓上候、然者当春我国内変動之際、兵庫表ニヲイテ、局外中立之儀ニ付、及御頼談、其後徳川慶喜恭順イタシ候故、右之儀取止ニ致度旨申入候、一応之御挨拶ハ有之候得共、其節国内未定之訳故ヲ以、御不承諾之事ト被察候、然ル処、此節ニ至リ、奥羽越等之叛藩都而降伏、其主人始臣下之モノマテ悔悟謝罪、各誓紙ヲ出シ、此上者如何共只朝廷之裁断ヲ仰キ候ニ付、政府ニヲイテ其願ヲ許容イタシ、右降伏之各藩主、速ニ東京江可罷出様申達候処、既ニ会津、仙台、米沢等、東京江着シ、其余モ不日ニ来着之事ニ候、依之我国内ニ於テ干戈ヲ用ヒ、政府ニ衡抗スル之藩更ニ無之、全国始而平定、政令之出ル処一途ニ帰候、就而者右局外中立ト申儀者、全ク取止メ可申事、我政府ニ於テ当然ト存候ニ付、前件夫々篤ト御了察相成、右件速ニ御取消有之度旨、及御頼談候、尚其余事細密之儀ハ、昨日御面会之節、御話申尽置候通ニ付、御納得之事ト存候、右申入度如斯御座候謹言
十二月四日 岩倉右兵衛督
各国公使 閣下
同十二日、英仏蘭公使代、東京ヘ罷出、右返書指出
英書状翻訳
貴翰致拝見候、然者西暦去年二月頃、貴国内兵乱相起候時節、余局外中立之儀ニ付、差出候布告書、此度改而取戻度旨被申越、了解イタシ候、然処今日ニ至、前文兵乱相止候ニヨリ、最早貴国内朝廷ヘ匹敵之者無之儀、判然ト存候、依而皇帝陛下政府之御求ニ応シ可申候得共、前文局外中立之儀ニ付、各国同列ト兼而差出候布告モ有之候間、不残一時ニ取戻度存候間、右相談之為、暫時猶予不致ヲ不得、右御回答旁可得貴意如斯御座候
十二月十一日 ハリヱスパルケス
岩倉右兵衛督 閣下
仏書状翻訳
去ル二月中戦争之始メニ当リ、仏国公使館ヨリ、局外中立之儀ニ付、差出セシ布告書ヲ廃スル様、余ニ請ハルヽ趣ニ付、第一月十六日附ヲ以テ、余ニ充テラレシ書翰、慥ニ落手セリ、最早右戦争相休、日本国中ニ対抗シテ戦争ヲ為スノ理アルモノナキコトヲ諾了スルハ聊カ猶予スベキニアラズ、就而者御門陛下政府之請求応スルハ、更ニ不都合ナシトイヘトモ、右局外中立之儀ニ付、各国ヨリ差出シタル布告書ヲ、一同廃スルコトニ付、余同僚等ト熟談ヲ遂クルタメ、今少々之時間ヲ得ルコト、極メテ要用ナリ、謹言
於横浜
千八百六十九年第一月廿三日
マキス、ウートレー
岩倉右兵衛督 閣下
蘭書状翻訳
客歳第二月ニ、日本ニ内乱起リシ時、余ヨリ触レタル局外中立ノ布告ヲ、今取消スベキヲ求メ給ヘル閣下ノ書翰ヲ、余謹テ落掌セリ、右戦争既ニ止ミ、日本ニ最早戦闘スルモノナキ旨ヲ承知シ、其事ニ余疑ヲ容レス、故ニ余御門陛下ノ政府ノ求ニ応セント欲スレトモ、右局外中立ノ事ヲ掲ル各布告ヲ、同時ニ取消ス事ヲ、余ガ同僚ト取極ムルニ、今暫時ヲ要スルナリ、敬白
於神奈川
千八百六十九年第一月廿三日
在日本和蘭国王陛下ノミニストル、レシデント
ド、デ、ガ、ラーフ、フアン ポルスフルツフ
岩倉右兵衛督 閣下
伊書状翻訳
客歳第二月ニ、日本ニ内乱起リシ時、余ヨリ触レタル局外中立ノ布告ヲ、今取消スヘキヲ求メ給ヘル閣下ノ書翰ヲ、余謹而落掌セリ、右戦争既ニ止ミ、日本ニ最早戦闘スルモノナキ旨ヲ承知シ、其事余ニ疑ヲ容レス、故ニ余御門陛下政府ノ求メニ応セント欲スレトモ、右局外中立ノ事ヲ掲ル各布告ヲ、同時ニ取消ス事ヲ、余ガ同僚ト取極ルニ、今暫時ヲ要スルナリ、敬白
於江戸千八百六十九年第一月廿三日
日本ニ在ル伊太利亜公使館
コーント、デ、ラ、トール
岩倉右兵衛督 閣下
孛書状翻訳
客歳第二月ニ、日本ニ内乱起リシ時、余ヨリ触タル局外中立之布告ヲ、今取消スベキヲ求メ給ヘル閣下ノ書翰ヲ、余謹而落掌セリ、右戦争既ニ止ミ、日本ニ最早戦闘スルモノナキ旨ヲ承知シ、其事ニ余疑ヲ容レス、故ニ余御門陛下政府ノ求ニ応セント欲スレトモ、右局外中立ノ事ヲ掲ル各布告ヲ、同時ニ取消ス事ヲ、余ノ同僚ト取極ルニ、今暫時ヲ要スルナリ、敬白
於横浜
千八百六十九年第一月廿三日
独逸北部同盟国
チヤルシタヱフフヱール ブラント
岩倉右兵衛督 閣下