太政官日誌・明治2年5号

太政官日誌 明治二年 第五号
明治己巳 自正月九日 至十二日
○正月九日〈辛巳〉
【御沙汰書写】
○清涼寺雪爪東下仰付ラル
清涼寺雪爪
御用之儀有之候ニ付、至急東京ヘ可罷下旨、被仰付候事
但、到着之上、弁事ヘ可届出事
○平野、山名、本多任叙ノ事
平野内蔵助
任遠江守叙従五位下
右宣下候事
○ 山名主水助
任因幡守叙従五位下
右宣下候事
○ 本多修理
任対馬守叙従五位下
右宣下候事
○出征諸隊ヘ御沙汰ノ事
毛利宰相中将兵隊 槙峠二郎
山本信蔵
井川千之介
中原市之允
荒瀬小六
南東吾
宮崎謙治
中井久熊
杉村岩尾
池田三郎
山本梅之進
平川勇熊
野村嘉右衛門
中西忠太
岡崎仲之介
坂原軍二
河村真五
岡村貞介
斎藤直人
原田房之允
桝本勘二
原熊尾
瀬川熊二郎
横山吉五郎
高橋市之介
飯田豊槌
末永政之介
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂路創傷、今般凱至之段、別而艱労之事ニ候、此節東京御駐輦中之儀ニ付、不取敢為被慰病情、此品被下候、猶精々療養可相加事

松浦肥前守兵隊 創傷之者
右同文
【御布告書写】
○百姓町人ノ苗字帯刀一切廃止ノ事
府藩県管轄之地、百姓町人共、旧幕府ヨリ苗字帯刀差免、或ハ扶持遺シ、諸役免除等申付候儀、一切廃止被仰出候事
○勅祭ノ神社、勅願ノ寺院支配ノ事
各藩領内ニ有之社寺勅祭之神社勅願之寺院共、惣テ人民支配之儀ハ、左之通可相心得事
一、制札ハ其藩ヨリ掲示之事
一、村々役人進退共、総テ其藩ニテ可取計事
一、宗門人別帳ハ、村々ヨリ、直ニ其藩ヘ可差出事
一、年貢之儀ハ、年々其藩ニ於テ取極、可相達事
一、村々ヘ夫役用金等、地頭ヨリ勝手ニ申付間敷事
右之外、政務ニ関係致シ候儀ハ、悉皆藩ニ於テ指揮可致、全府藩県、同一治之御趣意奉体認、彼我之別無ク、可取扱旨御沙汰候事
○十日〈壬午〉
諸礼
【奥州諸藩家来入京差免ノ事】
御沙汰書写
今般奥羽諸藩御処置被仰付候ニ付而ハ、右家来之者共、是迄入京差留置候処、爾来松平容保元家来ヲ除ク外、総而入京被差免候事
【大隈四位参与職仰付ラル】
御沙汰書写
大隈四位
参与職被仰付候事
但、外国副知官事兼勤可致事
○十一日〈癸未〉
神宮奏事始
○十二日〈甲申〉
賀茂奏事始○賢所御神楽〈旧冬之分〉
【御沙汰書写】
○市橋下総守謹慎被免ノ事
市橋下総守
伺之通謹慎被仰付置候処、被免候事
○神武、崇徳両帝御陵修覆御褒賞ノ事
織田摂津守
神武帝御陵、御修覆御入用、御手伝相勤候ニ付、為御褒賞、襖御狩衣一領下賜候事
○ 同人
其方家来共神武帝御陵、御修覆御用相勤候ニ付、為御賞金子下賜候事
○ 松平讃岐守
崇徳帝御陵、御修覆御入用御手伝相勤候付、為御褒賞、襖御狩衣一領下賜候事
同人
其方家来共崇徳帝御陵、御修覆御用相勤候ニ付、為御賞金子下賜候事
各通 戸田大和守
秋元刑部大輔
其方家来共御陵御修覆御用相勤候ニ付、為御賞金子下賜候事
【津軽藩戦記一】
(津軽藩届書写其一)
○秋田表ヘ致出張候弊藩隊長共申出左之通
八月朔日、本荘善応寺ヘ到着候処、参謀局ヨリ、急ニ塩越ヘ可致出張旨、御指図ニ付、同処暮頃出立、翌二日暁七時頃平沢ヘ到着、然処秋藩渋江内膳手、荒川久太郎手、梅津小太郎手、何レモ同処迄引揚居候ニ付、南ノ方大嵩相固可申、御下知有之、即刻繰込候、於中途引返ノ御令有之、再平沢ヘ致滞陣候処、塩越詰之諸藩、不残引揚、弊藩人数ヲ以、仁賀保孫九郎家中、可致鎮護旨、御指図ニ付、尚平沢ニ滞陣、仁賀保家中不残引払之旨、同家ヨリ申出有之、引続夜中引揚、翌三日朝本荘善応寺ヘ到着否、本荘近傍薬師堂相固候之処福田村ヘ模様替ニ相成、同四日福田村出発、八時頃本荘領前郷村慶祥寺ヘ到着候得者、同処詰参謀衆ヨリ、楠栄太郎ヲ以、御指図有之弊藩先鋒秋藩応援ニテ、矢島通吉沢村ヘ討入ニ相定、同五日暁、成田求馬並田中宗右衛門両隊、慶祥寺進発、本荘藩増川右近太郎、矢作善作、筑藩大穂守之助教導ニテ、五時頃賊地吉沢村ヘ討入ノ処、賊勢西山上ヨリ致発砲候ニ付、直ニ進撃砲発、然処賊勢山林ヘ潜ミ味方地理不宜、討死、手負等有之、暫上条村ヘ引揚、再新上条村迄押出、斥候差出候得共賊勢潜伏一人モ不見得、夕八時頃、同処野合ヘ出兵ノ処、賊南ノ方山上ヨリ発砲ニ付、弊藩並秋藩諸隊致配置、厳敷砲発攻撃候エ共、勝負不決、遂ニ及暮、然ニ秋藩渋江内膳ヨリ賊勢ヘ近寄、短兵接戦致度旨、申越候付、即夜四時頃、又々賊地ヘ深致進入、頗ル及激戦殊ニ今朝ヨリノ連戦故、銃熱而不能執、亦可替之兵ナシ、不得止小勢分隊ノ上、交撃進戦ノ折柄、賊民舎ヘ致放火候得共、火焔ヲ不厭滋致進撃候処、遂苦戦ニ相成、隊長成田求馬致討死、其他討死、手負数多有之、秋藩ニモ死傷相見ヘ、猶予之体ニ付、渋江内膳ヘ示談ノ上、前郷村大竜寺ヘ引揚候節、参謀局ヨリ本荘迄引揚候様、御指図ニテ引揚申候
一、本荘瑞光寺ニ滞陣罷在、近村可致守衛御指図ニテ、分隊ニ相成候隊長和島安左衛門、八木橋彦市ノ両隊ヘ、八月四日夕刻御達ニテ明朝、諸藩於巾山可致会議間、夜中屋敷村ヘ繰込候様御指図ニ付、即夜同処出立、翌五日明ケ六時、屋敷村ニ着陣、於巾山筑藩ヘ会議畢哉否、賊勢ヨリ発砲ニ付、不取敢砲発、致攻撃候得共、勝負不決、相引ニ相成、黒沢村ヘ引揚、其後玉坂村ヘ可致出兵処、時刻後レ夜戦ニテ者違期可有之ニ付、引揚之儀、楠栄太郎ヲ以、御指図有之候間、瑞光寺ヘ引揚申候
右之節討死、手負、左之通
成田求馬手 先手足軽頭 
討死 成田求馬
銃隊 榊田幸蔵
岩崎彦蔵
豊田乙吉
岩沼小兵衛
手負 熊谷徳太郎
米田助十郎
山形栄太郎
古川豊七
石郷岡運吉
角田吉次郎
角田権内
荒川丑右衛門
田中宗右衛門手
討死 藤田文吉
浪岡三蔵
工藤善司
原田範司
関孝馬
手負 藤田孝太郎
木村志馬之助
浅野安之助
和島安左衛門手
手負 花田孫六
工藤柾司
籏手之者
討死 今之助
右之通御座候、以上
正月十二日
津軽少将公用人 赤石礼次郎