慶応4年39号

太政官日誌第丗九
慶応四年戊辰秋七月

【尾州藩ノ分捕品】
尾州藩届書写
従先月上旬到中旬、越後国三島郡片貝駅並同国古志郡榎峠ニ於テ戦争之節、弊藩へ分捕之物品、別紙之通御座候、仍而此段御届申上候
六月廿八日
尾張大納言内
尾崎将曹

一、弾薬長持 二棹 一、篭長持 雑物入 二棹
一、荷弾薬箱 四ッ 一、藁包 十二筒
一、小銃 八挺 一、麾配 一本
一、旗 一本 一、陣羽織 一ッ
一、陣鍋 七ツ 但紋所瓜ノ内ニ瓜ノ花
右片貝駅戦争之節分捕
一、小銃 二挺 一、ブリキトース 玉六ツ 一、両掛 一荷 一、灯灯篭 一ッ
但シ中ニ品物有之
一、藁包 一ツ
但シ衣類入
右榎峠戦争之節分捕
右之通ニ御座候
六月廿八日
尾張大納言中
尾崎将曹

【長州藩ノ戦死、手負】
長州藩届書写
四月廿四日羽州庄内領清川口ニテ戦死手負左之通
第四大隊
戦死 竹内藤槌 同 吉松亦助
同 松本茂太郎 同 内田百合熊
手負 藤村禄平 手負 安村桜太郎
同 山本市之進 同 藤井雅太七
同 黒瀬初熊 同 河村増之進
同 伊藤太一
右之通、奥州白川口出先ヨリ、遂注進候ニ付、不取敢其侭差出、御届申上候、以上
七月
長門宰相内
寺内暢三
杉原治人

【白川、黒川ノ戦並大垣藩ヘ感状ノ事】
大垣藩届書写
昨十ニ日朝五字、白川城四方口々ヘ賊兵共襲来イタシ、采女正人数持場、仙台口並会津口右両道山々ヨリ、頻ニ撃懸リ候ニ付、烈敷防戦、且進撃致シ候処、追々賊山々ヘ散乱、仙台街道ハ薩藩、弊藩、会津街道ハ薩土藩ト合兵追討仕、二字頃人数引揚申候、尤手負左之通御座候
銃隊
香村造酒允 川崎志津右衛門
安藤杢太郎 三輪隆太郎
国崎末太郎 広沢乙四郎
銃卒 桑原重吉 夫卒 一人
兼而白坂宿ヘ分隊之人数、同日八時頃黒川口ヨリ賊進来、大小砲烈シク打懸候ニ付、黒羽藩ト合兵、同様防戦、且進撃仕候処、賊山手之方ヘ散乱、則追撃仕、十二字頃人数引上申候、尤手負左之通御座候
銃隊 大野代次
右者諸藩ヨリ御届司相成候得共、先弊藩ヨリモ不取敢御届奉申上候、以上
六月十三日
戸田釆女正家来
戸田三弥

右之通、出張先ニテ大総督府ヘ御届申上候旨申来候間、此段御届申上候、以上
六月廿九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介

奥羽之賊徒狼狽、白川城之要地ニ盤居シ、益兇暴ヲ恣ニシ、官軍ニ相抗シ候折柄、去ル朔日、奮戦ヲ遂ケ、寡兵ヲ以テ忽チ賊徒ヲ掃攘シ、遂ニ城地ヲ乗取リ、大ニ賊胆ヲ破リ候条、深感賞候、尚成功之次第ハ、速ニ可達奏聞候、此上愈抽忠誠、掬躬尽力、可有之候、仍感状如件
慶応四戊辰年六月
大総督御書判
大垣藩隊長中
別紙之通、当月朔日大御総督府ヨリ御感状御渡ニ相成候旨、出進先ヨリ申来候ニ付御届申上候様采女正申付越候、此段御届申上候、以上
六月廿九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介

【官軍苦戦ノ事】
薩州藩届書写
副総督沢殿、四月廿三日新庄ヘ御着陣之処、賊自朝敵ト名乗、即日当領内境目ヘ先状等差出候ニ付、実ニ不堪憤恚、即夜副総督手勢ヲ以、速ニ討入之令ヲ被発、当地ヘ八里程有之候最上川ヲ下リ、半町程有之候湯村ト申所ヨリ上陸、山谷之嶮岨ヲ進行候処、直ニ賊軍寄大鼓ヲ打、兵ヲ繰出シ、川ヲ隔テ砲台ヨリ大砲繰打ニ打出シ、長薩之惣計百二三十ニ限リ候兵、携臼砲二門、其外ハ小銃而巳ヲ以、大凡千人内外之賊兵ト接戦、終ニ川原迄押出シ猶敵兵ヲ挫キ候処、賊ニ之台場ヲ捨、杉山ニ引入、大小銃隙間ナク打出候ヘ共、両藩弥奮戦、終ニ川ヲ押渡、四方ニ分隊イタシ、陣屋迄押付候、今早朝ヨリ昼八時過比迄及苦戦、然ル処、城下許ヨリ繰出賊兵、遥之山岡ヘ相見エ、無二之死地ト相成候ニ付、両藩共必死ヲ決シ、敵陣ヘ打入可申旨談候ヘ共、今総督ヲ御一人孤域ニ残置、賊之為致死亡候テハ奉対天朝大罪之至ト衆議一決シ、一先兵ヲ引揚、土陽村ニ至リ、夫ヨリ古口ト申所ヘ宿陣、翌廿五日朝新庄ノ本営マテ引揚.人数ヲ整頓罷在候之処、同日庄内勢六十里越ト申所ヘ繰イタス、味方全無勢ニテ、最上川ヲ守候弊藩兵士、川路七次郎、篠崎東次郎、指揮役申付有之候処、四月廿九日川越ニ戦争、閏四月四日、賊千人許川ヲ越、天童ヘ打入、城下不残致放火候、仙台人数二万ニ及候ヘ共、一向応援之兵一人モ不差出候、夫ヨリ、新庄ヨリ五里有之候楯岡ト申所ヘ賊兵押寄候、不得止副総督ニハ、城下ヨリ一里有之山寺ヘ潜メ上置、同五日両藩押出候処、賊軍大ニ恐怖シ五六里ヲ隔テ引退キ候ニ付、追討トシ山形上山両藩、同七日ヨリ天童ヘ繰出、同八日米沢伊勢守ノ陣屋ヲ焼キ、賊ヲ追撃、大砲等少々分捕之段、同九日注進有之候、実ニ暫時累卵之危キニ至候段、出兵先ヨリ、閏四月九日付ヲ以申越候ヘ共、疎漏之儀モ御座候ニ付、今一往報知之上、可申上ト扣置候ヘ共、干今報告無御座候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新約嘉藤二

【江戸上野山ノ戦】
同藩届書写
五月十五日上野屯集之賊徒、御誅伐被仰出候ニ付、当朝未明ヨリ、大下馬ヘ人数相揃、西郷吉之助指揮シテ、御下知奉待居候処、六ッ時過湯島ノ賊兵ヲ打払候様御達相成、直様大下馬ヲ発シ、湯島ヘ繰出候処、賊兵不相見候ニ付、暫同所ヘ相扣ヘ、本郷ヨリ横合ニ打掛候、長州其他之兵ヲ相待候内、早砲声相響候ニ付、何方ヨリ戦相初候歟ト、斥候差出候処、黒門口ヘ差向候一番遂撃半隊、小倉壮九郎、足軽隊川路正之進等八十人許ニテ、上野ノ正面ニ押出シ、砲戦イタシ候段、相聞エ候ニ付、直様大砲隊飯牟礼喜之助、砲五門ヲ以テ黒門口ト御徒町ヘ押出、又小銃一番隊鈴木武五郎、三番隊篠原冬一郎、一番遊撃隊半隊一同ニ押出シ、町口ノ台場容易難乗落、此方ニモ畳ヲ積重、俄ニ砲台ヲ構ヘ、猶本郷ヨリノ懸リ口ト相応候賦ニテ、猶予イタシ居候内、肥前勢ヨリ横合ニ大砲ヲ放掛、続テ肥後、久留米モ同様打掛候内、賊兵ヨリ味方之後ヘ火箭ヲ打込、町家燃上リ、漸々後ヨリ焼来候ニ付、不忍池之涯ヨリ町家ヲクヽリ、敵合近ク押付候ヘ共、黒門ノ台場、堅固ニシテ容易ニ不落、追々火ハ廻リ最早本郷ノ味方ト相応スルニ不及、策ヲ決シテ正面ヨリ突入候処、藤堂因洲ノ兵モ同時ニ駆込、堅固ニ相守居候黒門ノ台場、終ニ乗落シ、山内ニテ良久砲戦諸所放火ニ及ヒ候、一番隊鈴木武五郎ハ、山内ヘ突入、直ニ取テ返シ、黒門口ヲ相固メ居候処、残賊跡ニ廻リ候得共、直ニ打払申候、本郷ヨリ打掛候長洲大村、佐土原等ノ兵ハ、根岸辺ニテ難戦ニ及ヒ、夫故互ニ救応不相叶由、其日ノ戦、朝六字頃ヨリ五時頃迄ニ終リ申候、戦死、手負等相応御座候段、江戸表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新内嘉藤

紀州藩届書写
五月十八日大川橋辺ニテ戦争之節、弊藩人数之内、手負、討死、左之通御座候
戦士 兵士 亀井卯吉
<右ノ足首打抜レ申候> 島本亀右衛門
<戦争ノ節、イツレニテ討死仕候哉、相知レ不申候> 山崎熊八
右之通申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
紀伊中納言内
中島三郎右衛門
大橋左衛門

同藩届書写
五月十六日暁天、大川橋弊藩人数於固所ニ、敗走之賊兵ト相見ヘ、尤帯刀ニテ頬ヲ被打候者一人召捕、段々及詰問候処、上野寺内ニ住居仕候、森光太郎ト申者之由、全残兵ニテ御座候ニ付、於同所梟首仕、其段江戸表ニ於テ御使番中ヘ御届申上候旨申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
紀伊中納言内
中島三郎右衛門
大橋左衛門

【奥州太田川大谷地附近ノ戦】
薩州藩届書写
昨廿五日朝五時頃ヨリ、二番、四番半隊、大垣、長州二十人ツヽ、賊四方間近相見エ候風聞御座候ニ付、奥州街道太田川宿迄、地形探案トシテ差越申候処、同所ヘ仙台凡百人程致屯集候ニ付、直ニ打払申候処、致退散候間、同所ヘ又々致屯集候テハ、攻撃難渋之場所柄ニ付、焼払、夕七時白川ヘ引取、戦死、手負別紙之通御座候、以上
五月廿六日
二番隊
四番隊
戦死 東郷助之丞 深手 竪山荘八
別紙之通出兵先ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新納嘉藤

同藩届書写
昨廿七日三字頃ヨリ、北ノ方十八町位御座候会津街道筋大谷地村ヲ根拠トシテ、追々賊山上ニ兵ヲ分配シ、襲来候ニ付、二番隊、四番隊、足軽隊、大垣一小隊、土州二小隊、左右ヘ相分レ、及進撃申候処、五字過ニ至リ、賊退散イタシ、大谷地村迄致追討候処、已ニ夜ニモ入候ニ付、大谷地村ハ白川ノ要口ニ付焼払ヒ、六字過ニ兵隊都テ引揚申候、討取ノ死骸十五六位モ御座候哉、山中諸所ニテノ戦ニテ、取調不相調候、四斤半大砲一挺、弾薬等分捕御座候、尤怪我人別紙ノ通ニ御座候、敵千人許モ御座候哉、山中諸所ニ致屯集候、此段成行不取敢御届申上候、以上
五月廿八日
島津式部
二番隊
四番隊
浅手 二番隊 西吉左衛門
同 美坂彦八
深手 松崎覚次
別紙之通、出兵先ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新納嘉藤二