慶応4年47号

太政官日誌第四十七
慶応四年戊辰秋七月

【越後雪嶺ノ戦】
飯田藩届書写 追録
越後筋賊徒為追討、応援人数一小隊、四月中差出候ニ付、兼テ御届申上置候処、閏四月廿六日、越後国雪嶺戦争之節、弊藩兵隊錦旗御警衛ニテ出張、同日夕先鋒ト入替リ相進候処、賊徒散走致候ニ付、小千谷陣屋迄相進、五月三日片貝へ賊兵押寄候趣ニ付、御総督府監軍岩村精一郎殿一同、松代藩一小隊、弊藩一小隊、尾藩人数出張之処、途中薬師嶺へ賊勢相迫リ候趣ニ付、直ニ同所ヘ向ヒ、松代隊ハ山之左ヨリ、弊藩隊ハ山ノ右ヨリ、散兵ヲ以テ攻登候処、賊兵大砲小銃相防<此時中川雄之助傷>賊ハ高ニ在テ楯ヲ取リ、味方ハ卑ニ在テ攻撃甚難戦ニ付、暫発砲ヲ止メ、草萱ノ下ヲ潜、敵ノ間近へ出、一同奮励、鬨ヲ造攻撃致シ候処、賊兵忽敗走致シ候ニ付、松代隊、弊藩隊一同追撃、此時生捕、分取等有之、塚之山駅迄相進、申半刻頃、一同人数小千谷陣屋へ引揚、同月九日、妙見ト申所へ賊徒押来候趣ニ付、三仏生村へ繰出、千曲川ヲ隔、烈敷砲戦、敵味方共手負有之、弊藩手負別紙ニ申上候、右之趣出兵ノ者ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候様美濃守申付越候、以上
六月八日 堀美濃守家来 淡路藤橘
五月三日薬師嶺戦争之節
生捕 会津金田百十郎隊之由 中村小七
分捕
一、弾薬
一、弾薬入長持 一棹
一、ボウト 一挺
但松代藩弊藩隊ニテ分捕
手負 物頭 中川雄之助
五月九日三仏生村戦争之節
手負 中川雄之助組 吉川信太郎
山村亀次郎
右之通ニ御座候、以上
六月八日 堀美濃守家来 淡路藤橋

長府藩届書写 追録

五月四日越後国榎峠、片貝、両所ニテ戦争之時
傷、一番小隊 柳井虎蔵
同 八日榎峠ニテ
傷 六月四日死 三番小隊 吉崎常吉
上原二九郎
弘中柳三
里本作一
河村理右衛門
坂田信太郎
坂井次郎
同 十日榎峠ニテ
死 一番小隊 堀尾六郎
同 十三日榎峠ニテ
傷 一番小隊 森勘介
三番小隊 西島九郎
永富喜代太郎
同 十八日榎峠ニテ
傷 一番小隊 重山登
同 十九日越後長岡城進撃之時
傷 隊長 木村安八郎
二番小隊 青木直蔵
沼田寛市
四番小隊 広瀬虎吉
同日今市ニテ
傷 半隊長 本庄誠一郎
同 廿四日杉沢ニテ
傷 二番小隊 梅林芳介
同 廿六日小栗山ニテ
死 二番小隊 後藤酒兵衛
吉田喜三郎
傷 大石幾太郎
村山三平
同 廿七日越後国与板領、金ヶ崎ニテ
死 隊長 勝原国介
同日与板ニテ
死 五番小隊 箙梅吉
沢津信吉
平野耕蔵
山名孫八
傷 石光槌蔵
同 廿八日与板ニテ
傷 五番小隊 立花常次郎
内海百合熊
大塚三太郎
坂本伊三郎
中村利七
西山庄蔵
岡本勝熊
二十九日死 岡村常吉
同 廿九日与板、陣ケ峰ニテ
死 江見謙介
同日差出村ニテ
死 二番小隊 国重直人
傷 今知政人
四番小隊 花岡惣之進
長橋六郎
六月朔日
傷 隊長 原田謙吉
同二日越後国長岡領今町ニテ
死 軍監 熊野直介
同九日与板陣ケ峰ニテ
死 一番小隊 石井兵蔵
同十二日越後国元長岡領大口ニテ
死 中隊長 滝川六郎
同日与板陣ケ峰ニテ
死 一番小隊 榎本誠三
同十四日大黒村ニテ
傷 二番小隊 咲花小五郎
福本英之進
大藤清吉
平井金蔵
同十九日十二潟ニテ
死 砲隊 長綱滝吉
右北越出先之者ヨリ遂注進候間、其侭不取敢御届申上候、尤諸口激戦中多端ニ付、先死傷而己申越候、猶戦争之次第ハ取調之上追テ御届可奉申上候、以上
六月
毛利宗五郎内
時田少輔

高田藩届書写追録
弊藩家老村上主殿、出雲崎駅外要地ヘ人数分配、張陣罷在候処、本月十二日暁、中軍参謀衆ヨリ達ニ付、則番頭柴田武四郎、竹尾隼人手、井之鼻村迄繰出候処、久田村加州、松代二藩之持場ヘ賊徒押寄、両藩接戦ニ及居候間致応援候様、尚又達ニ付、直様進軍、隼人手ハ久田村、武四郎手ハ近傍城山ト申処ヘ繰込、加州藩合兵、烈敷及砲撃候処、賊徒敗走、山田、島崎辺ヘ散乱致シ候ニ付、一先久田村ヘ揚取申候、此日手負別紙之通ニ御座候
一、家老竹田十左衛門手ヨリ分隊、番頭鈴木右近、富田三右衛門、兼テ大津村ニ固守罷在候処、過日素志申立候趣モ有之候ニ付、本月十二日参謀山県狂介被申聞候ハ、永々之守衛ニ付テハ、志顧之趣致承知候ニ付、今日之戦争先鋒ニ進ミ、十分之奮発可致、就テハ沢田村ヘ繰込、乙茂村在陣之伊藤善次郎ヘ申談、何レヘ成共進軍候様達ニ付、直様沢田村ヘ繰込ミ、其段申込ミ候処、久田、乙茂、両村之衝路、赤坂辺ヘ進軍候様申聞候ニ付、即同所ヘ繰込、加州藩ト合シ、手配方示合罷在候内、賊徒多人数寄来候ニ付、加藩及ヒ鈴木右近、富田三右衛門手並大砲一門、直ニ山上ヘ繰上ケ、大小砲繰替繰替打立、及奮戦候処、賊兵敗散、室上山之方ヘ逃去申候、是日味方訂死手負等無御座候
一、同十九日卯之刻、主殿隊中軍参謀衆ヨリ海陸進撃ノ手配達シ有之候ニ付、直様人数井之鼻迄繰出シ、薩州藩ト合兵、久田村台場ヘ進軍之上、各藩人数海陸山上ト分配、時機見計居候内、軍艦ヨリ砲撃シ、大銃賊塁ヘ着発賊徒狼狽、敗走之体ニ付、其機ニ乗シ、三方ヨリ大小砲頻ニ打立候処、賊等砲塁ヲ捨、山田或ハ山陰等ヘ敗潰致シ、未之下刻参謀衆ヨリ達ニ付、諸藩一同揚取申候、此日討死、手負無御座候
右之趣、先所ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候、以上
六月廿九日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
一、手負 用使足軽 亀山繁太郎
右之通ニ御座候

富山藩届書写追録
福井、百束、両村之際ニ屯集之賊徒、本月廿一日申刻ヨリ大黒村固守之官軍ト及砲戦候ニ付、弊藩五番一小隊、持場福島村ヨリモ発砲、烈ク及戦争候、然ルニ夜半ニ至リ賊兵亀貝村ヨリ窃ニ襲来、村家ニ放火致、尾撃候ニ付、台場保護之兵隊及砲戦候得共、前後苦戦ニ相成、薩長両藩之兵士、為応援繰込、厳シク発砲、弊藩兵隊モ必死及砲戦、台場ヲ守返シ申候、弊藩出番分隊三拾人許、長岡市上巡邏罷在、同夜箇場辺ニ焔火起候ニ付、一入謹厳致巡邏候処、従本営之申談ニ付、持場ヘ出張、直ニ亀具村ヘ繰出、奮進砲戦、賊兵福島村ヘ致敗散候、同分隊拾人余稲葉村ヘ進撃、賊兵敗走、猶更松代藩ト戮力致進撃、字ナ諏訪ノキト申地所ニテ憤戦、追々相進、佐五右衛門新田之堤ニテ大ニ痛撃、長藩ニ相与ミシ、益発砲官軍三面ヨリ打立、賊兵狼狽致潰走候、賊兵若干打留候得共、進撃切迫中印ヲ揚不申候、爾後分隊之者共組合任指揮、佐五右衛門新田堤ヘ引揚、半隊充同所堤一ヶ所、同所村祠之辺一ヶ所、厳守罷在申候、右之節死傷人名等左ニ申上候
戦死 五番隊司令土 森田三郎 田島庄治
玉島太七 杉谷治助
即死 医者 放石荘安 人夫一人
深手 林茂理衛 山田金次郎
柳原喜三郎 福松善四郎
桜木志蔵 四番隊 佐藤幸太
人夫二人
分捕
小銃 内一挺元込 四挺 胴乱 一ツ
ニラ山笠 一蓋 皮笠 一蓋
大砲弾薬箱 二ツ
右等之趣御届申上候、以上
辰六月 前田稠松内 浅尾嘉左衛門
奥羽征討越後口
御総督府

慶応4年46号

太政官日誌第四十六
慶応四年戊辰秋七月

【江戸ヲ東京ト改称ノ事並鎮将府創設ノ事】
詔書写
朕今万機ヲ親裁シ、憶兆ヲ綏撫ス、江戸ハ東国第一ノ大鎮、四方輻湊ノ地、宜シク親臨、以テ其政ヲ視ルヘシ、因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン、是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ、衆庶此意ヲ体セヨ
辰七月
慶長年間幕府ヲ江戸ニ開キシヨリ、府下日々繁栄ニ趣キ候ハ、全ク天下ノ勢斯ニ帰シ貨財随テ聚リ候事ニ候、然ルニ今度幕府ヲ被廃候ニ付テハ、府下億万ノ人口、頓ニ活計ニ苦ミ候者モ可有之哉ト、不便ニ被思召候処、近来世界各国通信之時態ニ相成候テハ、専ラ全国ノ力ヲ平均シ皇国御保護之御目途不被為立候テハ不相叶御事ニ付、屢東西御巡幸、万民疾苦ヲモ被為問度探キ叡慮ヲ以テ御詔文之旨、被仰出候
孰レモ篤ト御趣意ヲ奉戴シ、徒ニ奢靡ノ風習ニ慣レ、再ヒ前日之繁栄ニ立房リ候ヲ希望シテ、一家一身之覚悟不致候テハ、遂ニ活計ヲモ失ヒ候事ニ付、向後銘々相当之職業ヲ営ミ、諸品精巧、物産盛ニ成行キ、自然永久之繁栄ヲ不失様、格段之心懸可為肝要事
東京在勤
一、鎮将
右東国事務ヲ総裁ス
一、議定
一、参与
右立法ノ権ヲ執議政官之体ニ法ルヘシ
一、判事分課
諸侯 軍務 社寺 刑法 会計
一、弁事 史官 筆生
右行法之権ヲ執行政官之体ニ法ルヘシ
右鎮将被差置、東国政務御委任被仰付候ニ付、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、陸奥、出羽、十三国管轄致シ、諸侯之事件ニ至ル迄、総テ取扱可致事、尤大事件ハ奏聞ヲ遂ケ候様被仰付候事
一、東京府
知府事 掌府内事務
判府事
権判府事
京摂ハ申ニ不及、諸府県ニ至ル迄、政務一定之規則被為立候御趣意ニ付、彼是齟齬不致様被仰出候事
但於諸藩モ御趣意ヲ奉体認、右政体ニ法リ、追々改革、終ニ天下一定之規則相立候様之心懸、可為肝要候事
七月
一、今般東京ニ於テ、当分鎮将府被立置、駿河以東十三ヶ国<駿、甲、豆、相、武、房、上、下総、常、上、下野、奥羽>可為支配被仰出候間、此段相達候事
七月
一、駿河以東十三ヶ国諸侯、及中、下大夫、上士等、上京並帰国共、一々鎮将府へ可届出事
一、同上諸願届等之儀、総テ鎮将府へ可差出事
一、駿河以東十三ケ国諸藩公務人、一両人ツヽ東京へ可相詰事
但相詰候ハヽ、早々鎮将府へ可届出事
右之通被仰出候事
七月

【護良親王御祭典ノ事】
御布告写二通
来ル廿三日護良親王祭日ニ付、於河東繰練場神座相設ケ、祭典式被仰出候事
右ニ付辰ノ刻ヨリ申ノ刻迄之内、議定一人参与一人、弁官事一人並ニ各官知事、京都府知事、参拝之事
但各官知事並ニ知府事差支候ハヽ、副知事、判事、参拝之事、其余諸官銘々参拝可為勝手事
一、諸人参拝之儀、被差許候事
一、詩歌献供並諸藩練兵式備神覧候儀、御免被仰出候事
但シ神前詰之者へ、夫々相断、不及混雑様可致事
七月

【御用堤灯取締ノ事】
百姓町人共、聊之由緒ヲ以テ、宮堂上方へ入込、用達又ハ館入杯相唱ヘ、提灯等ニ御用ト記シ、或ハ紋印ヲ付ケ、権威カマシキ振舞イタシ候者、往々有之哉ニ相聞エ、兼テ御布令之趣モ弁へナカラ、右様之所為不届ノ至ニ候、若以来相改メサル者ハ、見付次第召捕へ、御詮儀可有之候、屹度相心得候様被仰出候事
七月

【米、仙、征討御治定ノ事】
奥羽参謀大山格之助ヨリ来状写 節録
一、昨七月朔日、盛岡ヨリ九条殿並ニ醍醐殿、当久保田城へ御着陣、尤肥前小倉之兵隊随従沢殿ニハ当領内野代港ト申処ヨリ、同日御一所へ御着陣ニテ、六ヶ月目、始テ御対顔、且諸兵既ニ黙然トシテ、拭涙之外他事無之候、然ル処、当久保田ヨリモ、列藩会盟等種々相拒ミ候ニ付、翌二日、久保田侯御呼出ニテ御議論ニ相成候処、主人ニハ弥無他心決心ニテ、即チ出兵ノ御請致候ヘ共、尚諸役人共種々申出候趣有之、不得止ニ付、五藩申合庄内征討先鋒願出候ニ付、則被命候処、国中一昨三日ヨリ、正議党凡三百人計リ会集、君公へ相迫リ、是非先鋒他ニ不譲旨ヲ以、追々人数相増、昼夜相詰候ニ付、昨四日朝、久保田侯参陣、是非当藩ヘ懇願仕度、無左候テハ、是ヨリ早々激党打入之旨ヲ以申立候ニ付、尚当藩ヘモ被仰付、国中大ニ振リ立、然ル処仙台重役両人、相馬、新庄之役人ヲ引テ当地へ出張、御三卿之儀ハ、早々当地ヨリ御出船ニテ御帰京、且薩長之人数ハ、兼テ御約定之通、早々追払ヒ候様相促シ之使者ニ候処、昨四日断然之決策ニ相成、悉ク誅戮ヲ加ヘ、幸ヒ宜シト則軍門ニ梟首シ、弥以正議一徹ニ相成、既ニ久保田国境へ相廻リ居候、米沢、仙台、且庄内、明日ヨリ征討、昨日御治定ニテ実ニ官軍如水魚、不日奥羽モ平定ニ近カル
ヘク候、合衆国諸部ニモ順逆ヲ弁シ候者往々有之、不日奇妙之一左右可申上候 以下略之
七月五日 大山格之助
岩下佐治右衛門様 侍史

【賊使梟首ノ事】
賊使罪状並姓名
会津容保、積年暴逆、奉悩宸襟候ノミナラス、慶喜反逆之謀主ニ候処、仙台彼ニ左袒シ、逆威ヲ恣ニシ、剰奉劫輪王寺入道親王、討姦ヲ名トシ、尊氏之悪例ニ習ヒ候段、実ニ天地不可容之逆賊タルニ依テ、此度総督府ノ厳命ヲ奉シ、大義ヲ唱ヘ候ニ付、先ツ其賊使ヲ誅戮、軍門ニ令梟首者也
梟 仙賊近習 志茂又右衛門
同人家来二人
生捕 足軽 高橋一平
梟 士 山田富次
内野順治
家来一人
生捕 但木土佐家来 小島虎之進
足卒 棟形一七郎
別紙之通申越候間、此段御届申上候、以上
七月廿五日 薩摩少将内 内田仲之助

慶応4年39号

太政官日誌第丗九
慶応四年戊辰秋七月

【尾州藩ノ分捕品】
尾州藩届書写
従先月上旬到中旬、越後国三島郡片貝駅並同国古志郡榎峠ニ於テ戦争之節、弊藩へ分捕之物品、別紙之通御座候、仍而此段御届申上候
六月廿八日
尾張大納言内
尾崎将曹

一、弾薬長持 二棹 一、篭長持 雑物入 二棹
一、荷弾薬箱 四ッ 一、藁包 十二筒
一、小銃 八挺 一、麾配 一本
一、旗 一本 一、陣羽織 一ッ
一、陣鍋 七ツ 但紋所瓜ノ内ニ瓜ノ花
右片貝駅戦争之節分捕
一、小銃 二挺 一、ブリキトース 玉六ツ 一、両掛 一荷 一、灯灯篭 一ッ
但シ中ニ品物有之
一、藁包 一ツ
但シ衣類入
右榎峠戦争之節分捕
右之通ニ御座候
六月廿八日
尾張大納言中
尾崎将曹

【長州藩ノ戦死、手負】
長州藩届書写
四月廿四日羽州庄内領清川口ニテ戦死手負左之通
第四大隊
戦死 竹内藤槌 同 吉松亦助
同 松本茂太郎 同 内田百合熊
手負 藤村禄平 手負 安村桜太郎
同 山本市之進 同 藤井雅太七
同 黒瀬初熊 同 河村増之進
同 伊藤太一
右之通、奥州白川口出先ヨリ、遂注進候ニ付、不取敢其侭差出、御届申上候、以上
七月
長門宰相内
寺内暢三
杉原治人

【白川、黒川ノ戦並大垣藩ヘ感状ノ事】
大垣藩届書写
昨十ニ日朝五字、白川城四方口々ヘ賊兵共襲来イタシ、采女正人数持場、仙台口並会津口右両道山々ヨリ、頻ニ撃懸リ候ニ付、烈敷防戦、且進撃致シ候処、追々賊山々ヘ散乱、仙台街道ハ薩藩、弊藩、会津街道ハ薩土藩ト合兵追討仕、二字頃人数引揚申候、尤手負左之通御座候
銃隊
香村造酒允 川崎志津右衛門
安藤杢太郎 三輪隆太郎
国崎末太郎 広沢乙四郎
銃卒 桑原重吉 夫卒 一人
兼而白坂宿ヘ分隊之人数、同日八時頃黒川口ヨリ賊進来、大小砲烈シク打懸候ニ付、黒羽藩ト合兵、同様防戦、且進撃仕候処、賊山手之方ヘ散乱、則追撃仕、十二字頃人数引上申候、尤手負左之通御座候
銃隊 大野代次
右者諸藩ヨリ御届司相成候得共、先弊藩ヨリモ不取敢御届奉申上候、以上
六月十三日
戸田釆女正家来
戸田三弥

右之通、出張先ニテ大総督府ヘ御届申上候旨申来候間、此段御届申上候、以上
六月廿九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介

奥羽之賊徒狼狽、白川城之要地ニ盤居シ、益兇暴ヲ恣ニシ、官軍ニ相抗シ候折柄、去ル朔日、奮戦ヲ遂ケ、寡兵ヲ以テ忽チ賊徒ヲ掃攘シ、遂ニ城地ヲ乗取リ、大ニ賊胆ヲ破リ候条、深感賞候、尚成功之次第ハ、速ニ可達奏聞候、此上愈抽忠誠、掬躬尽力、可有之候、仍感状如件
慶応四戊辰年六月
大総督御書判
大垣藩隊長中
別紙之通、当月朔日大御総督府ヨリ御感状御渡ニ相成候旨、出進先ヨリ申来候ニ付御届申上候様采女正申付越候、此段御届申上候、以上
六月廿九日
戸田釆女正家来
壮合渚之介

【官軍苦戦ノ事】
薩州藩届書写
副総督沢殿、四月廿三日新庄ヘ御着陣之処、賊自朝敵ト名乗、即日当領内境目ヘ先状等差出候ニ付、実ニ不堪憤恚、即夜副総督手勢ヲ以、速ニ討入之令ヲ被発、当地ヘ八里程有之候最上川ヲ下リ、半町程有之候湯村ト申所ヨリ上陸、山谷之嶮岨ヲ進行候処、直ニ賊軍寄大鼓ヲ打、兵ヲ繰出シ、川ヲ隔テ砲台ヨリ大砲繰打ニ打出シ、長薩之惣計百二三十ニ限リ候兵、携臼砲二門、其外ハ小銃而巳ヲ以、大凡千人内外之賊兵ト接戦、終ニ川原迄押出シ猶敵兵ヲ挫キ候処、賊ニ之台場ヲ捨、杉山ニ引入、大小銃隙間ナク打出候ヘ共、両藩弥奮戦、終ニ川ヲ押渡、四方ニ分隊イタシ、陣屋迄押付候、今早朝ヨリ昼八時過比迄及苦戦、然ル処、城下許ヨリ繰出賊兵、遥之山岡ヘ相見エ、無二之死地ト相成候ニ付、両藩共必死ヲ決シ、敵陣ヘ打入可申旨談候ヘ共、今総督ヲ御一人孤域ニ残置、賊之為致死亡候テハ奉対天朝大罪之至ト衆議一決シ、一先兵ヲ引揚、土陽村ニ至リ、夫ヨリ古口ト申所ヘ宿陣、翌廿五日朝新庄ノ本営マテ引揚.人数ヲ整頓罷在候之処、同日庄内勢六十里越ト申所ヘ繰イタス、味方全無勢ニテ、最上川ヲ守候弊藩兵士、川路七次郎、篠崎東次郎、指揮役申付有之候処、四月廿九日川越ニ戦争、閏四月四日、賊千人許川ヲ越、天童ヘ打入、城下不残致放火候、仙台人数二万ニ及候ヘ共、一向応援之兵一人モ不差出候、夫ヨリ、新庄ヨリ五里有之候楯岡ト申所ヘ賊兵押寄候、不得止副総督ニハ、城下ヨリ一里有之山寺ヘ潜メ上置、同五日両藩押出候処、賊軍大ニ恐怖シ五六里ヲ隔テ引退キ候ニ付、追討トシ山形上山両藩、同七日ヨリ天童ヘ繰出、同八日米沢伊勢守ノ陣屋ヲ焼キ、賊ヲ追撃、大砲等少々分捕之段、同九日注進有之候、実ニ暫時累卵之危キニ至候段、出兵先ヨリ、閏四月九日付ヲ以申越候ヘ共、疎漏之儀モ御座候ニ付、今一往報知之上、可申上ト扣置候ヘ共、干今報告無御座候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新約嘉藤二

【江戸上野山ノ戦】
同藩届書写
五月十五日上野屯集之賊徒、御誅伐被仰出候ニ付、当朝未明ヨリ、大下馬ヘ人数相揃、西郷吉之助指揮シテ、御下知奉待居候処、六ッ時過湯島ノ賊兵ヲ打払候様御達相成、直様大下馬ヲ発シ、湯島ヘ繰出候処、賊兵不相見候ニ付、暫同所ヘ相扣ヘ、本郷ヨリ横合ニ打掛候、長州其他之兵ヲ相待候内、早砲声相響候ニ付、何方ヨリ戦相初候歟ト、斥候差出候処、黒門口ヘ差向候一番遂撃半隊、小倉壮九郎、足軽隊川路正之進等八十人許ニテ、上野ノ正面ニ押出シ、砲戦イタシ候段、相聞エ候ニ付、直様大砲隊飯牟礼喜之助、砲五門ヲ以テ黒門口ト御徒町ヘ押出、又小銃一番隊鈴木武五郎、三番隊篠原冬一郎、一番遊撃隊半隊一同ニ押出シ、町口ノ台場容易難乗落、此方ニモ畳ヲ積重、俄ニ砲台ヲ構ヘ、猶本郷ヨリノ懸リ口ト相応候賦ニテ、猶予イタシ居候内、肥前勢ヨリ横合ニ大砲ヲ放掛、続テ肥後、久留米モ同様打掛候内、賊兵ヨリ味方之後ヘ火箭ヲ打込、町家燃上リ、漸々後ヨリ焼来候ニ付、不忍池之涯ヨリ町家ヲクヽリ、敵合近ク押付候ヘ共、黒門ノ台場、堅固ニシテ容易ニ不落、追々火ハ廻リ最早本郷ノ味方ト相応スルニ不及、策ヲ決シテ正面ヨリ突入候処、藤堂因洲ノ兵モ同時ニ駆込、堅固ニ相守居候黒門ノ台場、終ニ乗落シ、山内ニテ良久砲戦諸所放火ニ及ヒ候、一番隊鈴木武五郎ハ、山内ヘ突入、直ニ取テ返シ、黒門口ヲ相固メ居候処、残賊跡ニ廻リ候得共、直ニ打払申候、本郷ヨリ打掛候長洲大村、佐土原等ノ兵ハ、根岸辺ニテ難戦ニ及ヒ、夫故互ニ救応不相叶由、其日ノ戦、朝六字頃ヨリ五時頃迄ニ終リ申候、戦死、手負等相応御座候段、江戸表ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新内嘉藤

紀州藩届書写
五月十八日大川橋辺ニテ戦争之節、弊藩人数之内、手負、討死、左之通御座候
戦士 兵士 亀井卯吉
<右ノ足首打抜レ申候> 島本亀右衛門
<戦争ノ節、イツレニテ討死仕候哉、相知レ不申候> 山崎熊八
右之通申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
紀伊中納言内
中島三郎右衛門
大橋左衛門

同藩届書写
五月十六日暁天、大川橋弊藩人数於固所ニ、敗走之賊兵ト相見ヘ、尤帯刀ニテ頬ヲ被打候者一人召捕、段々及詰問候処、上野寺内ニ住居仕候、森光太郎ト申者之由、全残兵ニテ御座候ニ付、於同所梟首仕、其段江戸表ニ於テ御使番中ヘ御届申上候旨申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月二日
紀伊中納言内
中島三郎右衛門
大橋左衛門

【奥州太田川大谷地附近ノ戦】
薩州藩届書写
昨廿五日朝五時頃ヨリ、二番、四番半隊、大垣、長州二十人ツヽ、賊四方間近相見エ候風聞御座候ニ付、奥州街道太田川宿迄、地形探案トシテ差越申候処、同所ヘ仙台凡百人程致屯集候ニ付、直ニ打払申候処、致退散候間、同所ヘ又々致屯集候テハ、攻撃難渋之場所柄ニ付、焼払、夕七時白川ヘ引取、戦死、手負別紙之通御座候、以上
五月廿六日
二番隊
四番隊
戦死 東郷助之丞 深手 竪山荘八
別紙之通出兵先ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新納嘉藤

同藩届書写
昨廿七日三字頃ヨリ、北ノ方十八町位御座候会津街道筋大谷地村ヲ根拠トシテ、追々賊山上ニ兵ヲ分配シ、襲来候ニ付、二番隊、四番隊、足軽隊、大垣一小隊、土州二小隊、左右ヘ相分レ、及進撃申候処、五字過ニ至リ、賊退散イタシ、大谷地村迄致追討候処、已ニ夜ニモ入候ニ付、大谷地村ハ白川ノ要口ニ付焼払ヒ、六字過ニ兵隊都テ引揚申候、討取ノ死骸十五六位モ御座候哉、山中諸所ニテノ戦ニテ、取調不相調候、四斤半大砲一挺、弾薬等分捕御座候、尤怪我人別紙ノ通ニ御座候、敵千人許モ御座候哉、山中諸所ニ致屯集候、此段成行不取敢御届申上候、以上
五月廿八日
島津式部
二番隊
四番隊
浅手 二番隊 西吉左衛門
同 美坂彦八
深手 松崎覚次
別紙之通、出兵先ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新納嘉藤二

慶応4年38号

太政官日誌第丗八
慶応四年戊辰秋七月

【中、下太夫御誓約ノ事】
今般本領安堵朝臣ニ被列候中大夫、下大夫御誓約被仰付面々左ノ如シ
御誓約御請書
勅意宏遠、誠以テ感銘ニ不堪、今日之急務、永世之基礎此他ニ出可カラス、臣等謹テ叡旨ヲ奉戴シ、死ヲ誓ヒ、黽勉従事、冀クハ以テ宸襟ヲ安ンシ奉ラン
慶応四年六月
大沢侍従基寿
京極侍従高福
畠山侍従義勇
榊原越中守照求
最上駿河守義連
日野大学資訓
中条兵庫信汎
織田主計信任
山名主水助義済
松平与次郎敬信
平野内蔵助長裕
戸川主馬助達敏
栃木主計助之綱
金森左京近明
五島銑之丞盛明
伊藤鑑之助祐敦
知久左衛門五郎頼謙
小笠原兵庫介長裕
右中大夫六月十五日御誓約
栃木和泉守綱美
水野但馬守忠昌
高木伊勢守守庸
小笠原加賀守長穀
松井信濃守康功
能勢日向守頼富
一色丹後守直記
池田右近将監頼誠
小出大和守秀実
小出播磨守秀道
牧相摸守義道
松平上総介
板倉小次郎勝運
内藤甚郎正義
横田権之助栄松
三枝政三郎守道
石川靭負総範
水野国之助貞尚
永井左門直剛
酒井冨之助
花房助兵衛職居
上田鐐次郎義命
大給求馬桑恵
船越柳之助
柴田七九郎
青山内記幸勧
武田兵庫信敬
一柳信次郎直明
小出主水
巨勢鉱之助利国
近藤利三郎政敏
青木九十郎直永
仙石右近久徴
甲斐庄帯刀正光
石河蔵人貞昭
堀田主計一義
藤掛左京永武
滝川斧太郎利勇
蒔田鏺太郎広徳
水谷主水勝昌
浅野友三郎長煕
根来栄三郎盛富
片桐鋠三郎貞明
大河内孫三郎
本多邦之助成功
長谷川都五郎勝竜
木下辰太郎秀舜
浅野隼人長発
栃木勇太郎為綱
秋月幾三郎種事
松平主税勝覚
菅沼直七郎貞基
酒井鉄三郎忠誠
右下大夫七月三日御誓約
池田鎗三郎
伊藤常五郎
酒井織部忠尚
庄田八十之助安与
久保島修理通孝
市橋伝七郎長賢
森宗兵衛政徳
竹中万寿蔵重任
京極要之助高驥
小出織部秀粲
内藤甚十郎忠良
青木寅之助義権
松井伊織康功
永井大之丞直穀
谷歳人衛久
桑山舎人元吉
曽我勝太郎純祐
土方兼三郎雄道
大島鉄太郎義和
多羅尾織之助光弼
松浦左京恒
谷鐐歳衛通
島田新三郎直行
安倍政太郎信徳
戸川右近達利
本多岩次郎忠保
今井彦次郎好近
織田熊三郎信一
村越三十郎顕民
桑山修理正範
安部主殿信清
土方靭負久已
丹羽小左衛門正親
渡辺鎮之丞厚
武島顓之助直方
片桐内蔵助信成
桜井鏗之助忠正
安部関次郎信喜
小堀権十郎政安
小出助四郎秀庸
桑山録太郎重信
角南哲三郎忠愛
渡辺嘉一郎鏡
中島与五郎隆成
松平太郎左街門信汎
右下大夫七月四日御誓約

宇和島侯上書写
伊達陸奥守儀、松平肥後追討ニ付、重キ御沙汰之旨有之、速ニ朝命奉戴、既ニ出馬仕候処、肥後降伏謝罪之名ヲ口実トシテ、奥羽諸侯ヲ連合、窃ニ彼之凶暴ヲ資ケ候哉ニモ相聞ヘ候ハヽ、前後御不審不少、勿論其状確実ニ候ハヽ、其罪難容、屹度御処置之品可被仰付候処、斯迄順逆ヲ不弁次第、万一国論一定セザルヨリ所致歟ト被思召、追而事跡明細御検覈相成候迄、先家来中入京被差留、屋敷被召上候旨御沙汰之趣、奉敬承候而如何ニモ愕然之至、絶言語、奉恐入候、乍然於陸興守者、当春以来度々格別之蒙聖諭、加之左京大夫儀依願帰国仕候節モ、更ニ懇々切々之以御書付御沙汰被成下、非常之朝恩ニ浴シ候得ハ、父子共服膺遺失不仕勅旨可奉遵守、乍然僻遠之国土、頑固之人心ト承居候故、陸奥守之教令貫徹不仕、家臣共之内、近隣会藩之煽動説ニ迷乱惑溺仕終ニ今般奉蒙御不審、不容易次第ニ押移候儀ト、如何ニモ切歯憤痛之至ニ不堪、就中奉悩宸襟、且聖治之障碍ト相成、何分安心不仕候間、乍不及臨機之処置ヲ以天諭奉戴、悔悟為仕度、仍テ外国知官事重職被免、暫時御暇被仰付度、奉歎願候、敬白
六月
宗 城

【宇和島侯ヘ御達書写】
宇和島宰相
其方同姓伊達陸奥守父子、大義順逆ヲ誤リ候趣、相聞ヘ候処、先般左京大夫帰国之節御沙汰之旨有之、曩祖政宗朝臣之法流ヲ失墜不致候様、御懇篤被仰付候ニ付テハ、陸奥守父子ニ於テ服膺不致筈決而無之候処、偏陬之臣民、陸奥守父子之心志ヲ取誤リ、会賊煽動之勢ニ靡キ、或ハ賊徒譎詐之好説ニ昏迷致シ、終ニ今日之場合ニ立至リ候儀ニ候哉ト、陸奥守形跡ニ於テ甚如何ニ被思食候ニ付テハ、先家来之者入京御差止、屋敷被召揚候而猶事実御検覈被為在候旨被仰出候処、其方儀年来、王事ニ鞅掌致シ、別而朝廷当路ニ有之、陸奥守一藩之形跡痛憤ニ不堪、且右等不容易御不審ヲ蒙リ候次第、遐クハ政宗朝臣忠武之遺訓ヲ破リ、迩クハ陸奥守父子之志節ヲ濁穢シ、東奥藩鎮之巨室、浮浪残賊之為ニ愚弄セラレ、千載之汚名ヲ取リ、社稷ヲ累卵ニ処シ候儀、全ク傍観坐視ニ不忍剰ヘ方今東北之形勢、不一方被為悩宸襟、殊更聖治之障碍ト相成候儀、其方心身無所措、仍而ハ臨機之所置ヲ以テ聖旨ヲ奉戴シ、陸奥守父子臣下ニ至ル迄、悔悟為致度志願之趣被聞召届候間、当官之侭進退任其意、速ニ充分之見込貫徹致候様、可仕旨御沙汰候事
六月
駅逓司
布告之写三通
○諸街道人馬賃、渡船賃引上ノ事
近来駅郷及疲弊候ニ付、諸街道共、人馬、賃銭、当辰五月ヨリ来巳五月迄、元賃銭ヘ六倍五割増被仰出候、付テハ、東海道勢田、今切、渡船賃之儀モ近々之割増ニ不拘、元賃銭之上ヘ三倍五割増、其余諸海道渡船、川越等、都テ二倍増ヲ以.是又来巳五月迄定賃銭ニ被仰出候条、此旨相心得、川場御用無滞相勤可申事
辰六月
駅逓司
○駅逓司印鑑ノ事
征討之将軍京都発向之節者、当御役所御印鑑ヲ被請、他国滞陣中、幕下之士諸方ヘ往来之節ハ、其将軍府之印鑑ヲ人馬帳ニ押、可被致通行筈ニ付、諸藩御用出兵之向モ、其藩定遣高之外、過分之人馬入用之節ハ、御用之廉ヲ以、当御役所御印鑑ヲ被請、可被致通行左モ無之多分之人馬触当候テハ、於宿々大ニ疑惑ヲ生シ、継立方却テ不都合之儀モ可有之第一前条御布告之御趣意ニモ相触候儀ニ付、尚又為心得申達候事
辰六月
駅逓司
○諸藩通行印鑑ノ事
諸藩共、諸道通行之節、以来、新規被仰出候ニ付、二寸二分之印鑑ニテ可被致通行、尤印鑑七月廿五日限、当御役所ヘ被差出、駅々ヘモ可被差出置候事
辰六月
駅逓司

【江戸鎮台府管轄諸国】
駿河 甲斐 伊豆 相模 武蔵 安房 上総 下総 常陸 上野 下野 陸奥 出羽
右十三州鎮台支配ニ被仰出候事
七月

【陸軍局入塾被差許ノ事】
中下大夫及上士ヘ御達書写
今般御暇被下置候ニ付テハ、銘々帰邑、在所取締、兵備充分勿論ニ候、然ル処、子弟以下若年之面々、遠在僻邑ニ有之候テハ、文武研究如何可有之哉、方今之形勢、別而鋭意奮発御用ニ相立候様、才能切磋可致ニ付テハ、嫡子以下部屋住之分ハ不及申、当主トテモ年齢三十未満之面々ハ、滞京修行願出候ヘハ、当分陸軍局ヘ入塾、稽古可被仰付候間、其段相心得可申、左候ヘハ、追々人才御登庸之便利ニモ可相成候ニ付、右様被仰出候御旨趣難有奉体認、有志之面々ハ早々可申出候事但身柄ニヨリ、多人数召連、在京致居候而者、修行難相成ニ付、本人ニ候トモ、在留修学之向ハ、入塾之上、諸藩塾生同様相心得、格外之省略ニテ入塾可致、賄等之儀ハ陸軍局ニテ承合可申候事
七月

慶応4年45号

太政官日誌第四十五
慶応四年戊辰秋七月

【越後島崎、今町、新潟山ノ戦】
高田藩届書写五通 追録
弊藩家老村上主殿隊、去月廿八日島崎表戦争ノ情態ハ、去ル三日不取敢御届申上置候通ニ御座候、其節討死手負ノモノ取調候処、左ノ通ニ御座候、此段尚御届申上候様、申付候、以上
討死 銃隊差図役 伊藤光次郎
物頭建部造酒之助組足軽 松村金左衛門
同 山本儀平
銃隊足軽
小出平次郎
手負 物頭久野文左衝門足軽 大島忠三郎
討死 軍夫四人
右之通ニ御座候、以上
六月六日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
弊藩家老村上主殿隊、兼テ右地ニ滞陣罷在候処、去月晦日出雲崎ノ兵隊ヲ以、小島谷、島崎ノ賊ヲ進撃候様、参謀衆ヨリ達ニ付、去ル朔日夕七ツ時頃、出雲崎ヘ繰込、同ニ日暁八ノ時頃、薩、長、加、富山、松代、与板並弊藩ノ人数、出雲崎表出発、山腹、山間、浜手ト、兵ヲ三道ニ分配シ、加州藩並弊藩分隊ハ山田村ヘ進軍候処、島崎進軍ノ薩長ヨリ、同所ヘ繰込候様達ニ付、村田村ヘ掛リ昼四ツ半時頃島崎ヘ繰込、暫時軍議ノ上、加藩、弊藩ハ山田村ヘ進軍ニ評決シ、則押行候途中ニテ、尚又島崎ヘ繰込候様申来、馳向候処、島崎進軍ノ薩長加三藩苦戦、且山田村ヨリ賊徒等味方ノ後ヘ相廻リ、砲発甚ダ難戦、殊ニ黄昏ニ相成候ニ付、揚取候様達ニ付、惣勢出雲崎ヘ夜中揚取候処、賊徒島崎、小島谷村陣屋ヘ火ヲ掛ケ引取申候、此節ニ手負別紙ノ通ニ御座候、此段御届申上候様申付候、以上
六月七日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
手負 村上王殿隊、鈴木三之丞組足軽
関野平吉
銃隊足軽 前山定吉
右之通御座候、以上
本月朔日、弊藩一族榊原若狭隊ヘ、長岡参謀衆本営ヨリ中野島村ヘ繰込候様達ニ付、今町表参謀衆ヘモ相届、早速同村ヘ繰込申候、尤半小隊又ハ四半小隊ツヽ分隊、横山村、猫小屋村等相守、横山出張ノ分ハ中野村、猫小屋村出張ノ分ハ亀カイ村、真弓村辺迄、度々斥候差出、見張厳ニ致シ居候処、同日夕ヨリ賊兵トモ三林村、鬼木村辺、所々見分致シ候趣ニ付、其夜一小隊繰出シ、厳敷守衛罷在候翌二日猫小屋村、横山村見張所江台場築立守衛致シ、又信濃川東今町口ヘ弊藩一小隊、川堤ノ辺ヘ尾藩一小隊、見附返シヘ上田藩一小隊繰詰メ、賊方堤ノ下ニ屯集罷在候ニ付、梢昼過ル頃、尾藩ヨリ打掛、引続薩藩ヨリモ同様ニ付、弊藩ヨリモ大小砲打掛、賊兵相支候得共、堪兼少シ引退候ニ付、進撃致候、然ル処、賊兵村際薮蔭ヨリ頻ニ打掛リ候故、一ト先元ノ台場ヘ揚取、烈敷発砲致シ候内、追々賊兵集来、弥厳敷打掛候ニ付、一同尽力奮戦致シ候処、川向尾州勢モ引揚候様子ニテ、賊兵向堤ノ上ヨリ押廻リ、弊藩台場後口ノ方ヘ打掛候間、一時余モ力戦致シ候得共、何分寡兵ニテ、援兵モ無之候ニ付、余儀ナク一町計モ揚取候処、長藩三好軍太郎以下、応援トシテ二十人余繰込候ニ付、盛返シ、又々烈戦、賊兵ヲ三方ニ引受、一時余防戦致シ候得共、昨夜ヨリ休暇モ無之、尽力候故、心身共ニ相労シ候ニ付、一ト先揚取候事ニ長藩申合、追々繰引致シ候、横山村ノ方出張長藩弊藩ノ人数、黄昏迄防戦ノ上、長藩ニテモ引上ケ候間、弊藩ニテモ人数相纏、引揚申候得共、今町口ヘモ賊兵襲来、本営ノ方ヘ揚取兼、先ツ見附ヘ揚取候上、其段本営ヘ相届申候、然ル処、夜五ツ時頃、下条村ヘ繰詰候様達ニ付、直様同所ヘ薩州半小隊一同繰込申候、是日当手ノ討死、手負、別紙ノ通御座候旨、注進申越候此段不取敢御届申上置候様申付候、以上
六月十四日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
討死 榊原若狭隊
物頭原三郎兵衛組足軽
池田由右衛門
同 安松勘四郎組足軽
松井清作
手負 大砲方 為貝吉弥
以下物頭安松勘四郎組足軽 上田善弥
岩佐八十八
深入致候ニ付、行方不知 立本孫八郎
右之通御座候、以上

弊藩家老竹田十左衛門儀、去月十九日長岡落城後、人数所々ヘ分隊致シ、残兵引纏メ、見附宿ヘ出張、同廿七日巳ノ刻迄、小栗山ニ出張ノ薩藩人数ト交代致シ、厳守罷在候処、同廿八日賊兵多勢襲来、大小砲頻ニ撃掛候ニ付味方ヨリモ薩長藩並弊藩一同相応シ、廿九日夜迄烈敷奮戦ニ及候得共、何分賊兵多人数、所々ヨリ打掛、且砲架相損候故、無拠一ト先新潟村山手ノ方ヘ揚取申候、同晦日見付新潟山ニテ戦争ニ及ヒ、其夜九ツ時頃ニハ悉ク苦戦、本月朔日、同ニ日ニモ同様接戦ニ及候、総テ去月廿八日ヨリ、日々夜々ノ苦戦ニテ、討死、手負、別紙ノ通御座候旨、注進申越候、尤薩長両藩始メ、諸藩尽力奮戦ノ次第ハ、委細参謀衆ヨリ可奉申上奉存候、此段先御届申上候様申付候、以上
六月十四日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
五月廿八日
深手揚取後死去
竹田十左衛門隊、使番 彦坂蔀
手負 銃隊足軽 中沢金平
同 亀井栄吉
同 廿九日
手負 隠密方 藤村熊之丞
同三十日
手負 大砲方 辻矢太郎
同 富塚弓庫
銃隊足軽 市村久松
六月朔日
討死 銃隊足軽 池田賢助
同二日
手負 隠密方 山田熊吉
右之通ニ御座候、以上
弊藩家老伊藤弥惣隊ノ内、物頭設楽宰助、坂田藤江、組足軽引率シ、兼テ川崎村ヘ繰込罷在候処、去月廿九日達ニ付、今町村ヘ繰込、尚又坂口筋固候様沙汰有之、本月二日同所ヘ進軍候処、上田藩半小隊モ繰込来、一同厳守罷在候処、同日夕八ツ時頃、賊徒坂井村ヘ押寄、大小砲打掛候ニ付、速ニ相応シ砲撃ニ及居候内、長藩桂権吾罷越、安野口苦戦ニ付、援兵トシテ人数ノ内引分ケ、差遣呉候様談シ有之、当手モ少勢ニハ候エトモ、組足軽ノ内十人引分差遣候処、尚又同人口上ヲ以、今マ十人モ差遣呉候様申越候ニ付、則差遣候処、安野口ニオイテ戦争ニ及ヒ、右二十人ノ内討死、手負、別紙ノ通リ御座伊旨申越候、委細戦争ノ始末ハ、長藩ヨリ御届可申上候得共、此段御届申上置候様申付候、以上
六月十五日
榊原式部大輔家来
丹羽六太夫
伊東弥惣分隊
討死 以下物頭設楽宰助組足軽 戸塚源次郎
手負 島田隣之助
<此者共深入致候ニ付行方不知> 森山友之丞
粟岡曽兵衛
手負 軍夫二人
右之通ニ御座候、以上

【武州飯能ノ戦】
久留米藩届書写 追録
五月廿一日、武州青梅ヘ賊徒致屯集候ニ付、追討被仰付、即刻日新隊丈出兵、田無村ヘ一泊、同所ニテ斥候兵差出候処、賊徒者全飯能ニ屯集ノ由申出候間、扇町谷迄相進、廿二日一泊、廿三日筑前、備前、大村、佐土原兵隊申合、軍配致シ、日新隊之儀ハ筑前大砲隊ト合隊仕、賊巣窟中山智観寺ヘ相進候処、双柳林木中賊兵潜伏、砲撃仕候ニ付、野砲小隊ニテ討敗リ、直ニ智観寺ヘ進撃、瞬息ノ間、同寺放火シ、能仁寺ヘ相進ミ候処、同寺並飯能既ニ大村、備前、佐土原兵隊ニテ放火致シ候央、残賊竹林中ヨリ道路ヲ梗塞、発砲候ニ付、各藩発砲、賊兵遁逃候間、昼九ツ半時頃ヨリ、扇町谷ヘ帰陣仕候、右之段江戸表ヨリ申越候間、不取敢御届申上候、以上
六月廿二日
有馬中務大輔内
三沢善左衛門

【越後方丈山ニテ官軍苦戦ノ事】
富山藩届書写
予而、矢田村領爺ケ山台場、固守罷在候弊藩宮崎久兵衛一小隊、水野徳三郎一小隊、本月廿四日黎明、賊兵攻撃ノ模様有之由、斥候ノ者申聞、乙茂村農夫モ為注進罷越、賊兵島崎ノ方ヘ二百人計、村田妙法寺辺ヘ繰込、落水村ヘモ三百人計攻来候体ノ旨申聞候ニ付、上下両台場ヘ、両小隊ノ兵致分配、固守罷在候、無程賊兵方丈山ヘ襲来候ニ付、砲戦罷在右ノ事実久田浜手固守ノ宗藩斉藤与兵衛方ヘ演述、参謀役ヘモ及案内候様申達置、然ル処賊兵落水山ヘモ多勢繰込、弊隊ヘ致横衝、且村岡山賊軍台場ヨリモ大砲等打出、三面ヨリノ飛丸、勢甚猛烈弊藩両小隊トモ先達以来死傷病等有之、漸一小隊計ノ人員ニテ、粉骨戦争、追々死傷、依テ申遣置候得共、応援ノ兵隊繰出モ無之、衆寡難敵甚苦戦ニ陥リ、殊更松林際ヨリ窃ニ襲来、爺ケ山下本道ノ台場ヘ攻入候ニ付、拳隊死所ト相極、憤激及砲戦候、上ノ台場ヨリモ烈ク及砲発、賊隊潰崩浮心塚方ヘ致散走候ニ付、猶又上下両台場謹厳固守、烈致発砲候故、賊兵死傷若干有之候得共、戦争急迫中打留ノ印誰々モ難認候、未之刻過、薩長両藩ノ兵隊、宗藩斉藤与兵衛半隊、為応援罷越及砲戦候、無程賊兵方丈山ヘ引退候体ニ付、斥候差出、参謀役ノ任指揮、薩長両藩ヘ上ノ台場引渡シ、弊藩モ相加リ宗藩斉藤与兵衛ヘ下ノ台場引渡、諸隊戮力固守罷在申候、右等ノ節死傷人、分捕、左ニ申上候
戦死 隊長 水野徳三郎
以下宮崎久兵衛隊
戦死 林与八郎 小佐善太郎
極深手 板賀甚太郎 水上鉦太郎
中村吉蔵 長谷川清助
深手 鹿島乙次郎 藤江由太郎
浅手 小島熊之助
以下水野徳三郎隊
戦死 今村久太郎 深手 山田兵蔵
寺田九右衛門 古田徳太郎
浅手 森田岩之助 深見浅之丞
水上津太夫 水野徳三郎家来 谷村清八
分捕
鉄砲 二挺 弾薬 舶来二個
刀 一腰 脇差 一腰
小銃弾薬 千発計
右等之趣御届申上候、以上
辰六月
前田稠松内
浅尾嘉左衛門
奥羽征討越後口
御総督府

慶応4年44号

太政官日誌第四十四
慶応四年戊辰秋七月

【越後信濃川畔原村ノ戦】
飯田藩届書写
去五月廿八日昼八時頃、当関原宿ニテ六七町先、脇之町街道ヘ繰出シ、模様次第相進候様官軍ヲリ御沙汰有之候ニ付、右之通相進候処与板藩一人参リ、只今同所殊之外危ク相成、諸藩手薄ニ付、早々進ミ呉候様申聞候ニ付、一同々所ヘ相進候処、薩藩、長藩之外諸藩引取、人数、行逢候処、賊徒多人数ニテ難叶、与板城下一先引取候方宜敷ナトヽ申居候得共、薩藩、長藩ノ者ニ面会仕候処、幸少人数ニモ有之候間、早々進ミ候様被申聞、同城下町外ヨリニ町程先、信濃川瑞原村ト申処ヘ案内有之、同所ニテ薩藩十五六人程之人数ニテ敵ヲ引請、戦争被致居、外人数ハ引取申候、同所少シ脇ニテ弊藩打合居候処、須坂人数モ猶亦少々同所ヘ参リ打合仕候、夜四ツ時頃迄ニ相成、追々一同疲レ候処、松代藩一小隊進ミ参弊藩ト組合及戦争暁七時迄ニ追々賊徒逃去官軍御勝利ニ相成申候間、同廿九日暁六時過松代、須坂、弊藩人数相進候処、三四丁先ニ賊両人鉄砲疵ニテ斃居候、右之外何方ヘ逃去候哉、一人モ見請不申候、其節分捕、別紙之通ニ御座候旨、出張之家来共ヨリ申越候、此段御届申上候、以上
七月二日
堀右京亮
分捕
一、二匁玉 但箱入 百八拾
一、大砲玉 <但内三ツ石火矢箱入>拾
一、百目玉 但箱入 二拾九
一、小銃玉 <但引出シ付箱入>百六拾
一、雷管 五百 一、螺 一ツ
一、鉄鞭 二本 一、カントウ提灯 一ツ
去月十八日、関原宿於会議所、官軍ヨリ家来之者御呼出ニテ、左之通
一、御守 拾八枚
一、御供物
一、御神酒
一、片久寿 一袋
一、白砂糖 一袋
右従朝廷被下之旨御達有之、難有仕合奉存候、此段出張家来之者ヨリ申越候ニ付、御届申上候、以上
堀右京亮

【田野口、彦根ヘ感状】
田野口藩届書写
六月十八日、北陸道御鎮撫使ヨリ御書付ヲ以テ、長岡落城後、連戦無虚日、殊悍強之賊ト対塁、連旬苦戦仕候段朝廷ヘ可被及奏聞之旨、弊藩出兵隊長ヘ御労詞被成下、難有奉存候、右之趣申上候様、縫殿頭申付越候、此段御届申上候、以上
七月十二日
大給縫殿頭家来
海保三蔵
彦根藩届書写
別紙之通、従大総督府、野川日光出張家来共へ御達御座候ニ付、不取敢六月廿二日斥候之二小隊発遣仕置、芸州肥前兵隊、追々着陣仕候ニ付其地引渡、同月廿八日総軍同所発途奥州白川口へ相進候由報知候、此段御届可申上様、中将申付越候、以上
七月十二日
彦根中将内
横内平右衛門

【彦根藩白川口へ応援ノ事】
彦根藩
此度芸州藩、其表へ出張被仰付候間、交代之上、白川口為応援、同所へ出張可有之旨御沙汰候事
六月十四日
大総督府
下参謀

【越後桂沢附近ノ戦】
大垣藩届書写
過日戦争後、昼夜無差別、時々刻々賊ヨリ発砲ニ付、防戦之処、一昨廿一日桂沢村山上、且田井村山腹ニ、大砲ニ門ヲ新築シ厳重手配之様子ニテ、夕刻ヨリ烈敷及発砲、夜半雨中ニ乗シ、追々砲台先ヘ進撃仕候間、兼而合兵松代、弊藩並末家淡路守人数持場数ヶ所ヨリ、大小砲ヲ以テ激発防禦仕、漸ク暁方ニ至リ、賊勢相挫キ申候、彼ハ以前ノ場所ニ固守仕候、右之節死傷左ノ通ニ御座候、此段不取敢御届申上候、以上
六月廿二日
戸田釆女正家来
戸田右馬允
死 陣場方 長屋定平
傷 銃率 末松金吾
以上右之通、於出先参謀衆ヘ御届申上候段、在所表ヘ申越候間、此段御届申上候、以上
七月十三日
戸田釆女正家来
柴崎秀左衛門
飯山藩届書写
兼テ越後表ヘ出兵之者、閏四月廿六日夜、魚沼郡堀之内宿辺相固、往来差止居、廿七日暁八ツ半時頃ヨリ、右固人数同所引払、四日町渡船場上土堤迄出張仕候処、賊徒ヨリ及砲発双方暫打合候内、小出島人家焼亡、賊兵不残致敗走候ニ付、直様四日町ヘ乗移、廿九日迄同所相固、松本藩ト代合、堀ノ内宿ヘ引取申候、其節分捕並手負左之通
一、鎗 一筋 一、小銃 一挺
一、旗 二流
重傷 物頭 本多丑蔵
右之通、参謀役ヘ出先ノ者ヨリ御届申上候段、今便在所表ヨリ申越候間、乍延引此段御届申上候、以上
七月十四日
本多豊後守家来
中島小一郎

【越後与板城陥ル】
与板藩届書写
五月十九日長岡落城後、其残賊蒲原郡屯集之賊徒ニ合シ、追々与板ヘ押シ来可申形状ニテ、同廿四日地蔵堂駅ヨリ、大河津村辺ヘ進来候ニ付、不取敢金ヶ崎村、遠之浦村、塩ノ井坂原村等ヘ人数及分配候処、何分寡兵之儀、防禦ノ手配難相立ニ付、長岡、関原之官軍ヘ援兵ヲ乞候処、同廿七日為応援、長州勢、飯山勢、与板ヘ繰込ニ相成、戦策評議中、賊徒俄ニ金ヶ崎ヘ向ケ、襲来之報告有之、長州、飯山勢、直ニ岩方村迄繰出ニ相成候処、既ニ金ヶ崎ニハ戦争、互ニ発砲ニ及ヒ、乍寡兵必死奮戦、暫時相支候得共、何分当手ハ四十人、賊ハ数百人、衆寡難敵、且応援之兵モ未タ到ラス、殆ト難戦ニ及ヒ、無拠岩方村迄引揚候折柄、富山勢モ救応駆付、各藩軍議之上、本与板村迄引錫、諸隊合兵防戦ニ及ヒ候処、既ニ黄昏ニ及ヒ、賊兵モ引退キ候ニ付、其夜同所ニ野陣ヲ張リ罷在候、翌廿八日薩州始メ、追々援兵之官軍相加リ、夫々手配リ申合せ、朝六ツ半時比ヨリ、塩ノ井口ヘ進撃戦争、引続キ本与板村口、若之浦村口、出雲崎街道大坂塔場辺、原村口等所々大戦争ニ相成、各藩奮戦、終ニ一旦賊軍追退ケ候得共、衆多之賊兵山谷之要害ニ拠リ、出没転戦、賊勢再熾地、且味方不利之地勢ニテ、殆危急可及勢ニ付、夕刻ニ至リ繰引ニ引揚、城北兜巾堂山、町瑞稲荷祠辺、原村等ニテ、各藩発憤勇撃、賊徒ヲ打退ケ申候、其後追々官軍援兵来リ助ケ当時十一藩<薩州、長州、尾州、富山、飯山、高田、松代、高遠、須坂、大垣、椎谷>之兵隊繰込ニ相成、防禦手配リ聊遺算無之、日夜対塁、時々小戦争有之官軍多クハ勝利、賊徒襲来之便ヲ失ヒ候ヘ共、又退去之機モ相見エ不申、応援之藩々ニ於テハ、即今専ラ持重、鋭気ヲ養ヒ、不日兵勢相増候上、一時進撃勦絶ニ可及トノ由ニ有之候
一、去月十四日、長岡口官軍川東之一戦勝利長岡残賊多分降伏之由ニ御座候、右者廿七日以来之大略、如斯御座候、以上
七月朔日
小野司之介
松下源左衛門
松下志摩殿
井伊右京亮在所、与板近傍戦争之概略、別紙之通申越候ニ付、来書之侭御届申上候、其節死傷左之通御座候
浅手 松下源左衛門隊銃士 甲田織之進
同 大砲方 岩本久八
右ハ五月廿七日、金ヶ崎戦争之節手負ニ御座候
討死 松下源左衛門隊軍事方 松下俊之助
深手 同 大砲方 加藤長左衛門
浅手 富永清八郎
大河内金太夫
右ハ五月廿八日、本与板村戦争之節、死傷ニ御座候、此段御届申上候、以上
七月十四日
井伊右京亮内
横山信六

【与板藩ヘ感状】
御総督府ヨリ御褒詞写
去ル十日已来、於所々賊軍追討、昼夜苦戦之趣相聞、令感佩候、依之為犒軍聊酒肴差贈候、此段惣軍ヘ可申達者也
辰五月
隆平
永祐
与板隊長ヘ
長岡落城後、連戦無虚日、殊悍強之賊ト対塁、連旬不得休息、遂苦戦候段、実不堪感激、因馳一夫、聊慰軍労候、尚直様朝廷ヘ可及奏聞候也六月十八日
永花押
公花押
与板隊長中
私在所与板表ニ於テ御総督府ヨリ別紙之通リ家来共ヘ厚キ御沙汰ヲ蒙リ、且酒肴賜リ候段申越、於私厚難有奉存候、右御礼申上候間、宜御執奏可被成下候、以上
七月十四日
井伊右京亮

【野州大原口ノ戦】
宇都宮藩届書写
野州塩谷郡藤原、大原両村ヘ賊徒多人数屯集仕候ニ付、防禦之為、兼テ御届申上置候通弊藩人数追々繰出シ、肥前兵ト軍議仕、去月廿五日早天、弊藩人数八小隊、肥前藩兵隊ト一同、高徳村ヘ進軍仕、同村ヨリ大原村ノ方ヘ六七町相進、斥候差出候処、同所胸壁ヨリ、賊徒発砲仕候ニ付、直様兵隊相進メ、砲戦ニ及ヒ候処、賊又右ノ山上ヨリ、頻ニ発砲ニ及候ニ付、大砲ヲ以テ攻撃、暫時砲戦ニ及候処、敗走仕候ニ付、引続追駆ケ、大原口ヘ進撃、烈敷戦争仕候折柄、間道ヘ相廻候肥前隊並弊藩四小隊、同村胸壁裏手ノ方ヨリ鬨ヲ作リ進ミ入、発砲候処、賊兵色メキ動揺仕候間、其機ニ乗シ、両藩前後奇正之隊相進ミ、攻撃仕候処、賊兵敗走、大原宿内ヘ引揚、防戦仕候ニ付、直ニ追撃、放火ニ及候処、賊徒猶又敗走シ、兵ヲ引テ藤原村ヘ退去候ニ付、引続進撃可仕処、折悪暴風大雨之上、日暮ニ及候ニ付、大原村ノ賊営、胸壁不残打毀シ、肥前隊ハ小佐越、大渡両村ヘ兵ヲ引揚、弊藩諸隊ハ西船生村ヘ宿陣仕候
一、翌廿六日、大原村辺ヘ為斥候、弊藩一小隊差出候処、昼九時頃、於同村肥前兵隊ニ出会倶ニ進軍、藤原村賊ノ胸壁数十間ニ相追リ、及発砲候処、賊兵相応シ、頻ニ砲戦仕候ヘ共不便之場所、且其節人少ニ付、不得止七時過人数引揚申候、両日死傷之儀ハ、別紙之通ニ御座候、其節討取之首級並分取等之儀ハ追テ取調可申上旨、在所表ヨリ申越候ニ付、不取敢此段御届申上候、以上
七月十七日
宇都宮藩
大塚数馬

戦死 銃率 高瀬久馬造
浅手 士分 中神鎬之進
銃卒隊司令士 前原京兵衛
木村喜太郎家来
内山久吉
夫一人
右廿五日戦争死傷ニ御座候
深手 士分隊司令士 中神璋蔵
浅手 同 嚮導 小島鐐吉
戦死 安形靭負太郎
斉田権兵衛
田中五太夫
彦坂新太郎
深手 井上乾次郎
浅手 渡辺桂之進
加藤鉞次郎
右廿六日戦争死傷ニ御座候、以上
七月十七日
宇都宮藩
大塚数馬

【棚倉城陥ル】
大垣藩届書写二通
去ル廿四日、薩、長、土、忍、黒羽並弊藩人数分隊、棚倉城ヘ出兵途中、関山ヨリ賊及砲発候ニ付、味方ヨリモ相応シ候処、賊忽散乱仕候、夫ヨリ追々押寄候処、賊ハ右以前城下ニ火ヲ掛ケ、無一支モ逃去申候依之昼十二字頃、容易ニ棚倉城乗取申候
翌廿五日、釜ノ子辺ニ賊潜居ノ由ニ付、右藩ノ分隊進撃、追散候由、出先ヨリ申越候ニ付、此段不取敢御届奉申上候、以上
六月廿三日
戸田釆女正家来
戸田三弥
今朝六字頃、采女正人数持場会津口ヘ、賊少々襲来、彼ヨリ放砲候ニ付、暫時戦争仕、土州藩ト合兵ニテ、大谷地村向迄追討仕、九字頃人数引揚申候、此段御届奉申上候、以上
六月廿六日
戸田釆女正家来
戸田三弥
右之通、出先御総督府ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候旨、申越候間、此段御届申上候、以上
七月廿三日
戸田采女正家来
柴崎秀左衛門

慶応4年43号

太政官日誌第四十三
慶応四年戊辰秋七月

【越後長岡付近ノ戦】
高田藩届書写
弊藩家老竹田十左衛門儀、長岡在大黒村ニ塁壁ヲ築キ、近村ニハ薩、加、富山藩等、何レモ同様守衛罷在候処、去月十四日ヨリ敢テ戦争ト唱候程ノ儀ニモ無之候得共、無虚日小迫合ニ及、日々討死、手負等有之候、然ル処廿一日ニ相成、賊兵之拳動可疑件々有之候ニ付、人数整列相待居候処、果テ黄昏、賊徒多人数襲来、各藩ニ向ヒ大小砲頻ニ打掛候間、当手ヨリモ厳敷応撃罷在候内、賊徒福島村ヲ放火シ、富山勢ノ後口ヨリ発砲ニ及ヒ、富山藩ニハ下条村迄揚取候故、弊藩持場大黒村ヘ大小砲烈敷打掛、前後ニ兵ヲ引受、頗苦戦ニ及トイヘトモ、弥奮発力戦ニ及居候内、筒場村ヨリ薩藩繰出シ、暁方長岡表ヨリ長藩援兵トシテ進軍、会戦ニ及候間、大ニ力ヲ得、尚烈敷攻撃候処、賊徒敗散、百足村ノ方ヘ逃去候、其節々敵方訂死、手負、多分有之様子ニ見ヘ申候、弊藩討死、手負、別紙之通ニ御座候、廿ニ日黎明、薩長二藩ノ援助無之者、実ニ塁壁難保程之苦戦ニ御座候、同日四ツ時過一同揚取候旨申越候、此段御届申上置候様申付候、以上
七月二日
榊原式部大輔家来
香西又五郎

六月十四日 討死 銃隊足軽 大塚平八
軍夫一人
手負 銃隊差図役 吉田験蔵
徒目付 越山岩蔵
隠密方
小堀寿作
銃隊足軽 笠原儀八

栗間作太郎
同十五日 手負 軍夫 一人
同十六日 手負 銃隊足軽 数見新吉
同十七日 手負 銃隊足軽 鷲野三之丞
同十九日 手負 銃隊指図役 栗原甚三郎
銃隊足軽 福島六右衡門
竹田十左衛門家来
中西万吉
同廿一日 討死 銃隊足軽 伊藤底次郎
同 加藤才次郎
手負 目付軍役 栗原市右衛門
手負 以下銃隊足軽 長崎八十吉
平田次郎
大塚伊佐吉
市川忠蔵
吉越桂之進
荻野喜兵衛
荒川又次郎
山岸啓蔵
佐藤留吉
南雲利八
関原孫市
右之通ニ御座候、以上

【越後久保、椿沢ノ戦】
大垣本支両藩届書写
過日御届申上置候通、於北越桂沢村赤坂峠、弊藩並末家淡路守人数一小隊半ニテ一戦仕、其後連旬防戦罷在候処、去ル朔日暁、薩、長、松代藩合兵栃久保村、椿沢村ノ両山ヘ分隊進撃、弊藩並淡路守一小隊半人数ハ、栃尾街道右手ノ山ヘ進撃、賊徒所々ニ台場ヲ築キ及発砲候得共、直ニ衝撃、賊兵ヲ打散シ、二箇所ノ台場ヲ乗取、栃久保七ケ谷村境迄尾撃仕候、其節賊三人打斃シ、其他死傷不少、尤左手ノ山ヘ、淡路守半小隊、長藩ト合兵、椿沢村山道ヨリ進撃ノ処、抜剣接戦賊兵敗走、是亦二ヶ所ノ台場乗取申候、当日死傷左ノ通御座候、此段御届申上候、以上
七月三日
戸田釆女正家来
喜多村寛司
討死 銃卒 田中千蔵
深手 銃卒 同加蔵格之助
同 山田祐蔵
薄手 田辺三津二
以上
右之通、於出先参謀衆ヘ御届申上候段、在所表ヘ申来候ノ旨申越候間、此段御届申上候、以上
七月十七日
戸田釆女正家来
壮合渚之介
淡路守人数、本家采女正人数ヘ合兵、於北越桂沢村赤坂峠、去月中旬一戦仕、既ニ御届申上置候通御座候、其後連日防戦罷在、去ル朔日暁、弊藩半隊、本家半隊合兵栃久保村之山ヘ進撃之処、賊所々ヘ台場ヲ築キ、及発砲候ニ付、直チニ攻撃、賊兵ヲ討散シ、二ヶ所之台場乗取、栃久保七ケ谷村境迄尾撃仕候、其節面タリ賊三人討斃シ其他死傷不少候、弊藩又半隊ハ長藩ト合兵、椿沢村山之間道ヨリ進撃、抜剣接戦、終ニ賊兵敗走、是又台場二ケ所乗取申候、委細之儀ハ采女正ヨリ御届可申上候、当日弊藩死傷、別紙之通御座候、此段戦地ヨリ申越候間、不取敢御届申上候、以上
七月十七日
戸田淡路守家来
有竹衛門

討死 銃隊司令役 浅羽守雄
深手 銃隊伍長 木村嘉吉
右之通御座候、以上
七月十七日
戸田淡路守家来
有竹衛門

【信越各地ノ戦】
須坂藩届書写追録
去四月二十日脱藩之賊徒、越後路ヨリ信州飯山表ヘ侵入ニ付、本多豊後守ヨリ早馬ヲ以テ援兵申越候ニ付、弊藩有合ノ人数、即日差出シ、飯山ヨリ半里許手前、八洲村ヘ宿陣罷在候処、援兵一旦断リ相成候ニ付、一ト先在所須坂近境迄引揚候処、松代藩出兵ト出会談判之上、直ニ中野表ヘ出張、同廿五日暁、安田口ニ於テ尾州松代諸藩、賊徒ト砲戦相始リ、弊藩ニハ尾州、松代、差図ニヨリ、赤岩渋口間道ヲ厳重ニ固メ罷在候処、賊徒竟ニ越後路ヘ敗走、諸藩富倉峠ヨリ追撃、弊藩ニハ松代、上田、椎谷諸藩ト、千隈川東西ヨリ進軍、後四月七日、諸藩ト西大滝ニ移陣ス、同二十二日北越寺石村ヘ進軍、同二十七日小千谷ニ移陣ス、五月三日官軍賊徒ヲ片貝村ニ破ル、弊藩椎谷藩ト後詰ス、十九日小千谷ヨリ川東相川枝郷小相川ヘ出張ノ官軍賊徒ヲ一戦ニ破リ、其節弊藩ニテ檎獲一名、即刻監軍ヘ差出シ斬首ス、同廿八日与板村戦争、諸藩山手ノ方進討、平地ノ方長崎一小隊、大砲三門、弊藩一小隊、元込小銃ニテ烈戦、賊徒終ニ十町余敗走ニ及候処、賊勢又漸ク加リ、兵威煽シニ盛リ返シ、追々手詰ト相成、味方頗ル苦戦ニ及候ニ付、弊藩隊長清須入馬並ニ兵士数名抜刀叱咤シ、激励奮闘、敵数名慥ニ打留候得共、酣戦中首級ヲ揚ルノ暇モ無之、繰引ニ信濃川際原村マテ引揚、暫時休息之処ヘ賊兵尾撃候ニ付、昼後ヨリ又々戦争、翌廿九日朝迄烈戦、賊徒竟ニ敗走ニ及候、其節味方深手々負並生捕、分捕、別紙写ノ通ニ御座候、其後笠脱山ヘ陣替、六月三日迄戦争間断ナク候エトモ、賊徒多クハ敗走ニ及候段、今般従在所表申越候間、乍延引此段御届申上候、以上
辰七月
堀恭之進内
南保善右衛門

浅手 士分 高橋勘兵術 同 吉池平造
深手 足軽 小布施早助 同 西沢久作
浅手 同 土屋市蔵 広田熊太郎
以上
右ハ五月廿八日、於与板村戦争ノ節、弊藩手負ノ者.如此御座候
生檎 一人
但会賊脱走人、監軍ヘ伺候処依御差図斬首
弾薬箱 一ツ
弾薬箪笥 一棹 但玉千発入
右同日、於原村戦争ノ節分取仕候、以上
辰七月十三日

【須坂隊ヘ感状ノ事】
御総督府ヨリ御褒詞写
長岡落城後、連戦無虚日、殊ニ悍強ノ賊ト対塁、連旬不得休息、遂苦戦候段、実不堪感激候、因馳一夫、聊慰軍労候、直様朝延ヘ可及奏聞候也
五月
永花押
公花押
須坂隊長中
右在陣中、隊長ヘ御総督府ヨリ御使ヲ以御褒詞被成下、其外笠脱山宿衛中、兵士ヘ度々御酒肴ヲ賜リ、重畳難有仕合ニ奉存候、此段御礼可申上旨、今般恭之進ヨリ申付越候ニ付、此段不取敢申上候、以上
七月十三日
堀恭之進内
南保善右衛門

慶応4年42号

太政官日誌第四十二
慶応四年戊辰秋七月

【奥州白坂駅ノ戦】
黒羽藩届書写
本月十二日卯中刻頃、西原、黒川口ヨリ賊兵五十人程襲来、及発砲、尚追々賊兵相加凡二百人余ニ相成、頻リニ双方砲戦、依之味方三方ヨリ進撃仕、午刻ニ至リ遂ニ勝利ヲ得八町余追討仕、大垣藩並弊藩ニテ賊一人討取其余為手負候ヘ共、多少難相分、且味方手死人等一切無御座候、此段不取敢御届奉申上候、以上
六月十二日
大関泰次郎家来
奥州白坂駅出兵隊長
五月女三左衛門
先達テ御届申上候、去五月廿六日奥州白坂駅戦争、得勝利候節、討取、分捕、味方討死、手負等取調候処、左之通ニ御座候
一、賊兵討取十一人
但右之分見届候処ニ御座候、且手負共廿人余有之、死者外ニモ有之ヨシ、追々生捕候者申立候事
分捕
一、臼砲 一門 一、小銃 六挺
一、胴乱 二掛 一、刀 二本
一、脇差 二本 一、弾薬箱 一脊
弊藩討死、手負
討死 二番隊 小室新吉
深手 病院ニテ死ス 三番隊 後藤勇助
手負 分隊令司 薮知次郎
同 一番隊銃士 堀江玉之助
同 沢辺左平冶
同 二番隊 渡辺幸助
同 三番隊 久米勇蔵
右之通ニ御座候、以上
六月十二日
太関泰次郎家来
隊長五月女三左衛門
右之通、於江戸表御届申上候趣、申来候ニ付、此段御届申上候、以上
七月四日
大関泰次郎家来
公務人 小山勘解由

【松代藩ヘ感状ノ事】
北陸道総督府ヨリ真田信濃守ヘ御口達書之写
其藩勉励苦戦、毎々勝利之段、追々相聞エ候、是全ク信濃守平日之世話行届候ヨリ、兵士紛骨之労ヲ甘シ、実ニ一方之御依頼ニ相成、深御満足ニ被思召候、猶益尽力可奏勝利旨、被仰出候事去月十二日、於越後国高田表、家来之者被召呼、北陛道御総督府御三卿御逢之上、別紙之通御口達被成下、難有仕合奉存候、右之趣、在所表ヨリ申越候間、此段申上候、以上
七月四日
真田信濃守内
北沢幟之助

北陸道総督府ヨリ松代藩隊長ヘ御感状書之写
長岡落城後連戦無虚日、殊悍強之賊ト対塁連旬不得休息、遂苦戦、別而粉骨之段、実不堪感激、因馳一夫、聊慰軍労候、尚直様朝廷ヘ可及奏聞候也
六月十八日
永花押
公花押
松代隊長中
去月十八日、於北越出張先、北陸道御総督府ヨリ別紙之通御感状被成下、難有仕合奉存候旨、在所表ヨリ申越候、此段御届申上候、以上
七月四日
真田信渡守内
北沢幟之助

【奥州勿来附近ノ戦】
大村藩届書写
奥州御征討蒙仰、六月十三日品川出帆、同十六日常州平潟港ヘ著船之処、仙台兵隊五十人程、出兵致シ居候ヘ共、不及一戦遁逃、同十七日、仙台兵、磐城平兵、林昌之助残賊、都合二百五十計押寄候ニ付、薩藩並弊藩人数繰出候ヘハ、賊徒既ニ遁逃、遥ニ関田口ヘ小楯ヲ設ケ、薩兵勿来関辺山上ヨリ相進ミ、海浜之官道ニハ、賊兵七八名巌ヲ小楯トシ発砲之央薩兵、弊藩大砲隊モ繰出、野戦砲、五六発ヲ機トシ、薩兵共正面ヨリ相進、賊兵野戦砲小銃、打交放発候ヘ共、一歩モ不留一気直入之処、賊徒小楯ヲ棄遁逃、此方ニハ官道、海浜ノ両道ヨリ、且撃、且呼、関田ヨリ二十町モ追駆、賊徒畏縮、路傍ノ民家ヘ放火逃去、山上ノ薩兵モ馳付候ヘ共、孤軍長駆、日暮兵疲候故、相談ノ上、同時凱陣仕候、此日官軍討取賊徒並弊藩手負左之通
一、官軍討取賊徒十一人
一、弊藩手負 薄手 土橋晋一郎
右之通、出先之者ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、以上
七月九日
大村丹後守家来
一瀬伴左衛門

【奥州金山、棚倉ノ戦】
長州藩届書写
六月廿三日諸藩会議、同廿四日三字ヨリ白川発軍、関山前ヨリ二手ニ分レ、薩土関山ノ右番沢道ヲ進ミ、薩、大垣、忍、弊藩本道ヨリ進ミ候処、関山麓郷戸村ニ於テ賊砲台ヲ設、凡百人許モ屯集、撃取、山上ヨリハ大砲ヲ打掛候ヘ共、暫時ニ追散ス、賊死体七八人置逃去候、直様本道ヲ進、金山宿前ヨリ三手ニ分レ、本左右道ハ薩、土、大垣、忍、黒羽、弊藩等ニテ進入、賊金山大手ヘ砲台ヲ築キ、大砲小銃ヲ以テ撃戦之処、弊藩僅十四五人計左リ田ノ中ヨリ横撃、頻リニ進撃シケレハ、賊兵不時ニ逃去リ、終ニ七字頃金山乗取候、賊兵仙台、会津、棚倉等、都合八百許人、夫ヨリ各藩申合、棚倉道ヨリ二手ニ分レ、薩、大垣、黒羽、間道ヨリ進、土、忍、弊藩、本道ヨリ進、棚倉ヨリ二十丁許前、松原ヘ賊砲台ヲ設ケ、伏兵左右ヨリ夾撃ストイヘトモ、直ニ追散ス、即時棚倉城下口ヘ進入ノ処、関門前ヨリ大砲二三声発ス、城内其外放火シ終ニ一字頃、賊兵水戸、会津両道ヲ差シ逃れ逝去候由、其節弊藩ニ於テハ第四大隊之内、小林清吾第一同揚井安右衛門、山中正之進、手疵ヲ負候段、出先ヨリ遂任進候ニ付、不取敢此段御届申上候、以上
七月十日
長門宰相内
寺内暢三
杉原治人

【奥州関山付近ノ戦】
忍藩届書写
六月十ニ日払暁、仙台道、会津道ノ方ニ当リ大小砲台相響、且棚倉道並大沼辺ト覚舗方ニ亦砲台有之候ニ付、直ニ斥候差出候処、諸口ヘ賊兵襲来、既ニ戦争相始リ候旨告有之、折節長藩ヨリ繰出シ之諜合有之候ニ付、人数繰出候処其節棚倉道合戦、坂、弊藩守衛口ヘ関山辺ヨリ、賊勢凡二百人計、隊伍ヲ整、旌旗ヲ押建、大砲二門ヲ発シ、押寄来候ニ付、砲発防戦中、弊藩応援之人数馳加リ、奮戦数刻ニ及候処、賊兵終ニ敗走ス、此時賊兵一人陣前ニ来ルヲ、鈴木仙助敵ト見ルヨリ、初太刀切掛ケ、直ニ居合候者ニテ討果シ、小銃一挺、佩刀一本分捕致候、又黒羽道之方ニハ長藩一人並ニ弊藩野間米作、山北右十郎三人ニテ賊一人生捕、帰陣後遂吟味候処、棚倉藩宮田八十吉ト及白状候ニ付、長藩申談、斬首ニ及候段、奥州白川表出張先ヨリ申越候、右戦争之次第、委敷儀ハ長藩ヨリ御届可相成候ヘ共、不取敢此段御届申上候、以上
七月十二日
忍少将内
芳賀三太夫

【信州飯山ノ戦】
松代藩届書写 追録
信濃守儀、兼テ御届申上候通、去月廿五日信濃国飯山城下ニ屯集之賊徒ト及一戦候節、討取並信濃守人数之内手負、討死、左之通ニ御座候、討取三人
但於安田渡船場、小銃ニテ水中ヘ打落申候、右之外打留並為手負候賊徒有之候ヘ共、川ヲ隔候戦争、且紛擾之間、即時賊徒共取片付候ニ付、員数相分不申候
討死 物頭金児友太郎組足軽 小沼長兵衛
手負 同 中島熊次郎
薄手負 士分大銃方 清水一郎左衛門
右之通ニ御座候、尤生捕分捕等モ有之由ニ御座候ヘ共、未タ員数不申越、委細相分兼候儀ニ御座候、此段御届申上候、以上
閏四月十日
真田信濃守内
長谷川深美

【越後芋坂雪峠ノ戦】
同藩届書写 追録
先般御届申上候信濃守人数、於飯山表賊徒ト一戦、追払候後、引続尾州藩並同国諸藩之人数、一同越後国新井駅迄繰入候処、高田藩ト談判之儀有之、同所ニ逗留罷在候内、加州、富山、薩州、長州等右藩々之人数、北陸道山ヨリ高田表ヘ追々到著ニ相成候処、会津並関東脱走之賊徒共中、越後辺所々屯集之由相聞候ニ付、御監軍並諸藩会議之上、去月廿六日、先陣高田藩、二陣尾州藩、松本藩、三陣弊藩魚沼郡千手駅之方ヘ相向ヒ候処、賊徒二三百人、芋坂ト申処之険阻ニ拠リ土畳ヲ築キ、大小砲ヲ備ヘ、巌重守備ヲ設ケ候処、弊藩斥候隊先ニ相進、砲戦ヲ始メ、統テ諸隊相進、平原ヨリ高キニ向ヒ、地形不便ニテ、一同奮励攻撃、頗苦戦罷在候内、兼テ致分配置候弊藩之別隊、山ヲ繞リ賊兵ノ横ヨリ巌敷及砲撃候間、賊徒狼狽、忽チ散乱、要害ヲ捨遁去リ、尚又雪峠ノ険ニ拠リ、大小銃破裂丸等頻ニ打出、相支ヘ候ヘ共、諸手一同合撃ニ及ヒ暫時ニ追払ヒ、賊徒悉小千谷之方ヘ致敗走候間、尚直ニ池ケ原ト申所迄相進候処、自已ニ暮ニ及ヒ且雨後泥途暗夜、旁以諸手人数相纏候処、弊藩別隊人数並松本藩ニテ、尚又夜中追掛ケ翌廿七日朝小千谷ニ至リ、同所陣屋ニ打入候処、賊徒已ニ落去リ候ニ付、弊藩人数ニテ陣屋請取、倉庫等封印、居民モ安堵仕居候様、申諭等致シ罷在候処、追々諸軍モ到着ニ相成、此上益相進ミ、長岡城下ヨリ下越後ノ方ヘ、諸手一同打入可申、会議之趣、出張重臣之者ヨリ申越候、右戦闘中討死手負並賊徒討取、生捕、分取等之儀、尚取調御届可申上候得共、先前条之趣御届申上候様、信濃守申付越候ニ付、此段御届申上候、以上
五月十五日
真田信濃守内
北沢幟之助

慶応4年41号

太政官日誌第四十一
慶応四年戊辰秋七月

【出征諸藩重役ヘ御沙汰ノ事】
七月七日諸道征討藩々重臣被召出御沙汰書写
薩州重役
長州重役
土州重役
積年王事ニ勤労、殊ニ当春以来所々出兵国力ヲ竭シ、士卒ヲ励シ奮勇鋭進之段、全ク其藩主精忠無二之夙志ヨリ、従事報効有之事ニ候ヘ共猶其方共モ朝命奉戴、闔藩士気振興鼓舞行届候儀ト、深ク叡感被為在候依之此品下賜候、愈以其藩主ヲ輔翼シ可遂忠節旨御沙汰候事
七月
備前重役
因州重役
尾州重役
右同文処々出兵ヲ追々出兵ニ作ル
大垣重役
彦根重役
松代重役
当春以来追々出兵為皇室竭国力、不辞艱難、士卒奮励之段、全ク其藩主忠誠ヨリ従事報効有之事ニ候ヘ共、於其方朝命云々以下同文
加州重役
高田重役
当春以来追々出兵為皇室竭国力、日夜励精之段、全其藩主忠藎ヨリ従事報効有之事ニ候ヘ共、於其方共モ朝命奉戴、帥先尽力指揮行届候儀ト叡感被為在候、依之此品下賜候、愈以云々以下同文

【養老ノ典ヲ被為挙事】
同日府県ヘ御布告
今般養老之典被為挙、八十八以上之者ヘハ毎年二人扶持、百歳以上ハ三人扶持下賜候、依テ夫々府県ニテモ一々取調、右之通可執行被仰出候事
同諸藩並中、下大夫、上士ヘ御布告
今般養老之典被為挙、府県ニ於テ八十八云々同上下賜候付テハ諸藩並中下大夫、上士ニ至ル迄、右之御趣意奉体認夫々所置可致旨被仰出候事

諸寺院願立伺等規則
諸寺院願立、伺等之儀、山城国中ハ京都府、諸国ハ府藩県ヘ可申出候、若其難決儀ハ府藩県ヨリ弁事官ヘ可申出候事
但官位並参内願等朝廷ヘ関係候事ハ執奏ヘ可申出、若執奏無之分ハ直々弁事官ヘ可願出事
七月

沼津藩重臣ヘ御達書写
水野出羽守
重臣ヘ
出羽守儀、先般御預ケ被仰付置候賊、林昌之助令脱去、其末箱根戦争ニ及候始末柄ニ付出羽守ヘ御糾問之筋有之、重役御呼立有之候処、最前小田原平定、出羽守謹慎御免被仰付候ニ付テハ更ニ御糾問ニ不及候間、早々帰国致シ関門守衛之儀、充分厳備致候様、出羽守ヘ可申聞旨被仰付候事
七月

【忠死霊魂祭奠ノ事】
忠死霊魂祭奠被仰出御書付写
当春以来征討奮戦忠死之霊、来ル十日、十一日両日於河東繰辣場、祭奠式被仰出候事
右ニ付十日巳ノ刻ヨリ申ノ刻迄、十一日辰ノ刻ヨリ未ノ刻迄ノ内、諸官参詣可為勝手事右刻限之内、諸人参拝被差許候並有志之輩詩歌ヲ供シ且兵隊繰練式等、慰霊魂候儀可為勝手事
但霊前詰之者ヘ夫々相断、不及混雑様、可致候事、且従朝廷御祭奠金下賜候ヘハ、他方ヨリ料物奉納之儀、被止候事
七月

【諸兵休泊賄料ノ事】
諸道宿駅ヘ布告写
御用出兵之向々休泊之節、米銭共夫々御定ヲ以、御払被下置候、付テハ代料相当之膳部、差出候ヘ共宿方ニ於テ別段足シ賄相立候儀ハ無之筈之処、従来之旧弊ニ泥ミ、不申付料理等差出、却テ宿方難渋之趣、申触候者モ有之哉ニ相聞、不埒之事ニ候、方今軍用御多端之御中ニハ被為在候ヘ共下民之難渋ハ深ク御厭被遊候御趣意之程、難有拝戴仕、代料相当之膳部差出候而、足シ賄等費之不相立様可致、勿論通行之向ヘ対シ不敬之儀ハ堅ク致間敷事
辰七月
駅逓司

【加茂社ヘ行幸仰出サル】
当月下旬加茂下上社ヘ行幸被仰出候事
七月十二日

【米穀ノ流通ヲ図ル事】
諸府県ヘ御布告写
古人ノ説ニ大乱ノ後必ス飢饉アリトイヘリ、且洪水大旱ハ古来聖明ノ世ト雖トモ免レサル処也、今春ヨリ霖雨滂沱、水災農民ノ患ヲナシ気候不順、既ニ苗蝗ノ害アリ、此上七八月ノ末ニ至リ万一大風有之トキハ米価倍々騰貴シ諸藩ハ鎖津ヲ致シ、好商ハ買占等ヲ専ラニセハ窮民ノ難渋一方ナラズ、鰥寡孤独、何ヲ以テ餓死ヲ免レン、民ノ上タルモノ預メ策ヲ(編者日、「樹テ」脱カ)スンハアラス況ンヤ皇政一新、億兆ノ民ハ再ヒ父母ヲ得ルノ念ヲ生スル時ニ当リ、賑恤ノ典一日怠ルヘカラサルヲヤ、依之府県ノ諸役人、専ラ心ヲ此事ニ尽シ、其支配所民口ノ多少ニ応シ預メ米穀ノ流通ヲ謀リ、鎖津買占等ノ所業ヲ禁シ、或ハ彼地ヨリ此地ニ輪シ此地ヨリ彼地ニ送リ、互ニ有無相助ル等、今ヨリ目算ヲ立ヘシ、其上不足ノ見込ナレハ機会ニ応シ非常ノ取計モアルヘケレハ府県ノ諸役人、能々相考ヘ早々言上致スヘシ
七月

【大阪開港ノ事】
同月十五日御布告写
大阪地、是迄外国人開市相成候処、今度改テ開港ト被仰出候事

【羽州庄内ヘ出兵ノ事】
鍋島上総ヘ御沙汰書写
鍋島上総
其方武術抜群、且兵隊精錬之趣、達天聴、先般御沙汰被仰出候処、此度上着御満足被思食候、就テハ東北脱走ノ賊徒、散乱蔓延会津庄内等ノ賊軍ニ合シ近隣之小藩ヲ剽却シ、恣ニ王土ヲ掠メ王民ヲ苦シメ、大逆無道至ラサル処ナシ、斯ル形勢ニテ自然遷延誤時機、及冴寒候テハ、万民ノ艱苦不容易儀ニ付、深キ思召ヲ以今度其方羽州出陣被仰付候条、迅速発向、彼地出張之総督ヲ輔翼シ諸軍ト戮力、直ニ賊ノ巣窟庄内ヲ屠リ奥越ノ官軍ト相応シ速ニ北地平定、可奉安宸襟御沙汰候事
七月
大山格之助ヘ御沙汰書写
大山格之助
此度別紙勅諚写之通、鍋島上総早急出陣被仰付候条、諸事無伏臓遂示談、同心合力、速ニ平治ノ功ヲ奏シ可奉安宸襟御沙汰候事
七月

久保田藩ヘ御達書写
佐竹右京大夫
賊徒益猖獗、恣ニ近隣ノ小藩ヲ剽掠シ無辜ノ蒼生已ニ塗炭ニ陥ラントス、斯ル形勢ニテ自然遷延失時機、及冴寒候テハ、禍乱止ム時ナク、国事艱難不容易儀ニ付、肥因及諸兵隊迅速出兵被仰付候間、其藩ニモ国内ノ兵ヲ挙ケ、諸軍ト同心戮力、直ニ賊ノ巣窟庄内ヲ屠リ奥越ノ官軍ト相応シ、従来祖先勤王忠節ノ遺志ヲ体シ、屹度勉励尽力速ニ平治ノ功ヲ奏シ、可奉安宸襟候様御沙汰候事
七月

盛岡藩ヘ御達書
南部美濃守
其藩ニモ、国内ノ兵ヲ整ヘ、総督府ヘ応シ迅急出兵、諸軍ト同心教力、賊徒巣窟ヲ屠リ、奥越ノ官軍ニ相応シ、平定ノ功ヲ奏シ可奉安宸襟御沙汰候事
七月

弘前藩ヘ御達書写
津軽越中守
同前文
奥羽出張総督参謀及諸兵隊ヘ御沙汰書写
但シ各通
九条左大臣
沢三位
醍醐少将
大山格之助
当春出陣後、賊徒猖獗、殊ニ仙台其他諸藩反覆候ニ付テハ、賊軍ノ中ニ孤立シ、千辛万苦益大義ヲ重シ勉励候条、其忠情篤志神妙ニ被思召候、此後時月遷延及冴寒候テハ不容易儀ニ付、此度肥因及諸兵隊迅速被差向候間、諸軍ヲ鼓舞シ、同心戮力、直ニ賊ノ巣窟庄内ヲ屠リ奥越ノ官軍ト相応シ、速ニ平定ノ功ヲ奏シ、可奉安宸襟御沙汰候事
七月
薩州兵隊
長州兵隊
当春出陣以来賊徒猖獗、殊ニ仙台其他諸藩反覆候ニ付テハ、賊軍ノ中ニ孤立シ、勇奮義烈、総督ヲ保護シ勉励候段、達天聴、其誠忠神妙ニ被思召候、此後時月遷延及冴寒候テハ、艱苦不容易儀ニ付、肥因及諸兵隊迅急被差向候間、諸軍ト同心合力、速ニ賊徒巣屈庄内ヲ屠リ、奥越ノ官軍ニ相応シ、北地ヲ令平定、可奉安宸襟御沙汰候事
七月
肥前兵隊
小倉兵隊
当春ヲ除キ、余同前文

【奥越ノ官軍拝金ノ事】
九条左大臣
当春以来、賊軍中ニ於テ梳風沐雨、久敷金穀輸送ノ道モ相絶、兵士ヲ引率シ、現地ノ艱難其情探ク御憫察被為遊、乍些少思召ヲ以テ金七百両拝領被仰付候事
七月
沢三位
同前文、但拝金五百両
醍醐少将
同前文、拝金三百両
参謀
同前文、拝金二百両
薩州兵隊百余人
筑前兵隊百余人
長州兵隊百余人
当春以来賊軍中ニ於テ、険阻跋渉、金穀運輸之道モ久敷相絶ヘ、現地ノ艱難、其情深ク御憫察被為在、乍些少金七百両思召ヲ以テ其隊ニ下賜候事
七月
肥前兵隊三百五十人
前同文 当春以来ヲ出陣以来ニ作ル但シ拝金二千両
小倉兵隊百余人
同前文、但拝金七百両

【戦地窮民慰撫ノ事】
諸軍ヘ
賊徒掃攘、只管奥羽平定ヲ被為急候ハ、忝クモ至尊新ニ万民ノ父母ト被為成、普天率土一夫其所ヲ不得モ、尚難被為忍、況ンヤ世乱流離ノ窮民、深ク御不便ニ被思召候、出先ニ於テモ御主意奉体認、小民ヲ憫ミ、附順ノ志ヲ安堵セシメ候様、厚ク可心得御沙汰候事
七月

【越後ヘ薩兵急派ノ事】
薩州藩ヘ御達書写
関東ヘ被差向候兵隊三百人、至急ノ御儀有之候間、取急越後表ヘ出進可致旨御沙汰候事
八月

慶応4年40号

〓=金へんに百

太政官日誌第四十
慶応四年戊辰秋七月

【会津口官軍苦戦ノ事】
薩州藩届書写
今朝七字頃ヨリ、仙台、会津、石川、棚倉、湯元ノ五道ヨリ、会仙棚倉相馬之賊徒、人数凡二三千位ニテ、山上又ハ街道筋ヨリ襲来致候ニ付、五番、六番、小隊並臼砲隊ハ大垣固メ居候、会津、湯元ノ両街道ノ為応援繰出シ、二番隊ノ内三分隊者、棚倉街道長州固メ居候横合ヘ押出シ、最初ハ防戦ノ賦御座候処、賊徒山ニ寄、進兼候ニ付、迚モ埒明兼候処ヨリ、追々進撃致、四番隊ニハ原街道固メ居二希隊一分隊ハ本街道ヘ同断ノ処、賊徒襲来モ無之然ル処、諸所ヨリ襲来ノ賊徒、追々敗走致候ニ付、四番隊ニモ半隊繰出シ、追撃之処、賊兵散々ニ敗北シ、三字比止戦、実ニ山中之戦ニテ存分ノ狙撃モ出来兼候得共百人位ハ討取モ有之候半ト存申候、在候テ、味方手負戦死、別紙ノ通御座候間、総督府ヘ御届相成候儀トモ、可然様御取計被下度奉願候、肥後藩モ未タ着陣不致、甚切迫ニ付、折角相待居申候、左候テ、其地御繰出シノ模様如何ニ御座候哉、此地甚切迫ノ事情ニ付、一日モ早ク御出軍相成候様、御働被下候様、呉々モ願居候、先ハ此段御届旁如斯御座候、以上
五月廿六日
島津式部隊中
追而黒羽藩ニモ、去ル廿三日旗宿ト申所ニテ賊徒追払、且今日モ於白坂、大垣二小隊、黒羽三小隊ニテ及戦争、賊徒悉ク退散候ニ付、同藩ヨリ総督府ヘ御届旁出府ノ役承候ニ付、右ヘ相頼御届申上候間、当地ノ形勢等、委敷御聞取可被下候
戦死
樺山清五郎 有馬十郎次
手負
田代五郎左衛門 三原七左衛門
郷田猪之助 伊勢佐七郎
大迫市郎左衛門
斉藤藤太 江田正之丞
税所笑右衛門 相良為二郎
染川彦八 比志島孫太郎 畠山盛之助
夫卒 金五郎
別紙ノ通、出兵先ヨリ申越候間、此段御届申上候、以上
七月二日
薩摩少将内
新納嘉藤二

【越後口官軍苦戦ノ事】
加賀藩届書写二通
賊徒下塩村迄進来、挑戦候ニ付、本月二日弊藩箕輪知太夫一隊並一砲門三手ニ分チ致進撃候処、賊熊ノ袋村ニ放火、逃去候ニ付、我軍勝ニ乗シ、大沢村迄退躡、申刻過致帰陣候、尋テ十二潟村ヘ陣ヲ転シ同七日朝掛斥候候処、賊軍ヨリ及射放候付、惣軍コレニ応シ、更ニ一手ヲ分チ、池ノ島村ヨリ致横撃、遂ニ長州兵ト相合シ、大口村迄致追撃候処、賊狼狽不能支、自ラ営ヲ焼テ致逃散候、依而一旦本営ヘ引揚候処、申刻過賊重テ襲来候ニ付、直ニ致射撃、互ニ及砲戦候内、半夜賊徒悉ク及敗散候ニ付、惣軍致休戦候、右二日等戦争概略事情、不取敢御届申上候、尚其節死傷左之通御座候、以上
辰六月
加賀宰相中将内
神戸直次郎
奥羽征討越後口
御総督府
七日
戦死 越原善太郎
手負 夫卒一人
以上
官軍森立嶺ノ険ニ拠リ、防戦尽術候処、本月八日朝辰牌過、賊三道並間道ヨリ驟然襲来候ニ付、惣軍三手ニ分チ、長州、飯田二藩兵ハ右ヘ長藩並弊藩小川仙之助半隊ハ左ヘ同半隊ハ本道ヘ相備、同一砲門ヲ以、間道ヲ致防禦候処、賊勢猖狂、我軍殆危急ニ迫リ候ニ付、一同敢死鏖戦、遂ニ間道ノ賊ヲ山壑ニ撃下シ、更ニ本道ヨリ相進、一ノ貝村マテ致追撃候処、賊敗績、尽ク致四散候、右八日戦争概略事情、不取敢御届申上候、其節死傷左之通御座候、以上
辰六月
加賀宰相中将内
神戸直次郎
奥羽征討越後口御総省府
八日
戦死 市村牛九郎 沢田〓三郎
松本吉平 高桑長四郎
手負 高桑太三郎 大杉直之助
福岡喜三郎 青木信三郎
神田喜作 太田伊三郎
杉村保之助 夫卒一人
以上
前月七日、八日、越後大沢村等ニ於戦争之次第、別紙写之通、御総督府ヘ及御届候旨、申越候、此段御届申上候、以上
七月二日
加賀宰相内
里見亥三郎

上田藩届書写
越後表之儀、先日御届仕候後ハ、暫時止戦罷在候処、去ル五月廿八日御達ニ付、一隊ハ下条村ヨリ、一隊ハ宮内村ヨリ、双方長岡ヘ繰込、一隊ハ市中巡邏被仰付、一隊ハ御預人警固仕候、右御預人ノ儀ハ、当見張所ヘ長岡領曲方村庄屋、野口伊右衛門外同盟ノ者十四人相語合、長岡家名御立被成下候様、歎願申出候ニ付、其侭留置、右ノ趣御本営ヘ相伺候処、御差図有之候迄、警固被仰付、則相勤罷在候処、同廿九日夜、俄ニ御達ニテ、一隊ハ見付ノ方ヘ、一隊並砲隊ハ今町之方ヘ、同時ニ進軍仕、暁七ッ時、中之条村ヘ着く仕候処右同所ニ暫致休憩候様、長州藩ヨリ談ニ付、即滞陣罷在候、其翌晦日御達ニテ、今町ヘ繰込候ノ処、又々御達ニテ半隊並大砲隊ハ紫野村ヘ進軍、田之尻ノ間道相固、又半隊ハ坂井口高田藩ノ応援トシテ罷出候処、去月朔日御達替ニテ、薩州ノ応援被仰付、片桐村ヘ移陣仕候処、賊致退去候ニ付、先引戻他ヘ相廻リ呉候様、右藩ヨリ談シニ付、即引掲候処坂井口戦争中ニテ、為斥候分隊ツヽ差出、高田藩ヘ協力候様被仰付、分隊代リ々差出申候其翌二日昼坂井口ヘ賊相迫、高田藩並当方応援ノ半隊戦争仕候処、又紫野村ニ罷在候当方半隊、真向、田之尻ヨリノ間道裏手ノ森中ヘ賊兵相集、追々坂井口ヘ繰掛リ候趣ニ付、即及発砲取合候内、御達ニハ、長州藩ハ坂井村ヘ間道ヨリ高田並当方ノ応援隊及大砲隊右本道ヨリ相進候様、又紫野村ノ半隊ハ、右各藩相進候ハヽ、同様真向ノ森ヘ致進軍候様被仰付、其用意致シ候内、既ニ長州勢進軍之処、無程退却ノ趣ニ付、不取敢斥候差出、聞繕致シ候内、中ノ島村一円兵焚ニ相掛リ、安田並今町等同断ニテ炎燄天ヲ焦シ、砲声甚烈シク相響、各藩追々人数引揚ニ相成、賊破竹ノ勢ニテ相迫候趣.斥候ノ者ヨリ注進有之、当方纔ノ人数、兎テモ難支勢ニ付、引続キ見付迄引揚、要所相守罷在候、兼テ見付ヘ相進候一隊ハ、札山、金山等ヘ出張、指出村帯織村等之賊ト、不絶戦争罷在候、然ル処、同三日御達ニテ、是亦見付ヘ退軍、双方合併仕、二小隊共浦瀬迄引揚候処、又々御達ニテ同夜長岡マテ引揚宿陣仕候、翌四日朝御達ニテ一隊並大砲隊ハ、川辺村ヘ相進ミ、築堡等相設、固守罷在、外一隊ハ同日夕乙吉村、橡尾村ヘ進軍仕候処、同八日夕加州御人数、賊之為ニ被囲、難戦之趣ニテ.応援之儀申越候ニ付、即山続ヨリ賊ノ横合ニ出、賊ヲ眼下ニ見下シ、不意ニ進撃仕候処、賊驚愕一支モ不仕、解囲潰走仕候、一隊並大砲隊ハ同七日ヨリ引続十五日迄、昼夜両口ニテ苦戦罷在候処、同十四日賊暁霧ニ乗シ、薩州之陣所ヘ急襲致シ、既ニ薩州御人数モ敗走、賊遂ニ台場等相奪、当方人数ノ後ヘ相迫候ニ付、一且引揚、右藩ヘ応援致シ候内、当手之方ヘモ相向候ニ付、応援ノ方引分、分隊ニ致シ防戦候内、村端両三軒焼亡、然ル内薩州御人数モ盛返シニ相成候勢ニ付、応援之方引揚、一纏ニ致シ、賊ヘ相当リ、遂ニ追退ケ、台場等悉ク取戻申候、右防戦之砌、別紙之通、去ル七日大砲方一人手負有之、同十四日小銃組一人討死仕候、尚当時戦争中ノ由ニテ、去月十六日朝越後表出立、出陣先家来ヨリ申越候段可申旨、在所表伊賀守ヨリ申付越候ニ付、此段先不取敢御届申上候、以上
七月三日
松平伊賀守家来
赤座寿兵衛
去月七日、川辺村戦争之節
深手 大砲方 小島万兵衛
同十四日、同所戦争之節
討死 <物頭都筑壮之助組>若林熊蔵

松本藩届書写
越後国ヘ出兵罷在候弊藩人数之儀、監軍岩村精一郎殿御差図ニ依テ、同国魚沼郡今泉付、小出島宿、堀之内宿、三ヶ所ヘ一小隊ツヽ分配、滞陣罷在候処、関原御会議所ヨリノ御指揮ヲ以テ、六月五日、今泉村ノ一小隊水野伊左衛門手、大島村ヘ転陣.小出島、堀ノ内両宿ニ滞陣罷在候鶴見六野右衛門、神方新五左衛門手ノ二小隊ハ、一旦今泉村ヘ移、夫ヨリ隣村並柳付ヘ罷越、参謀代高野弘馬方ト軍議之上、新五左衝門手ハ須原村ヘ進転、加州勢ト連兵、大原村ニ塁ヲ築相備、六野右衛門手ハ破振間川ヲ越ヘ、細野村ヘ相進、塁ヲ築守衛罷在、右伊左衛門手ノ一小隊ハ、大島村ニ於テ加州勢ト申談、最寄巡邏罷在候処、監軍岩村精一郎殿ヨリ、古志郡半蔵金村ヘ進転可致旨、同八日御達ニ付、即刻出立、同九日朝五時頃同村ヘ繰詰、尾藩、松代藩等申談.字チヤカクラ山中腹、福山、中ノ俣迄辺ヨリノ通路ヲ絶チ切、塁ヲ設、相備罷在候処、同廿二日暁ヨリ賊兵襲来、尾藩、松代藩両隊ヘ撃掛候砲声相聞エ候ニ付、伊左衛門儀分隊引連為斥候罷越候処、長州勢ト取合居候賊兵ヲ目掛、巌敷発砲、尚長藩ヘ分隊合兵イタシ烈敷進撃、然ル処、前件備置候兵隊ヘ、賊兵頻ニ撃掛候ニ付、伊左衛門儀ハ其隊ヲ励シ、接戦昼九ツ時頃ニ至リ、賊兵散乱致候ニ付、一旦兵ヲ引揚候処、賊兵敗兵ヲ集メ防戦ノ由相聞エ候ノ間、尚又長州勢半隊合兵イタシ、巌敷闘撃ニ及ヒ、賊兵引去候ニ付、申ノ刻過兵ヲ引揚申候旨、出張先家来ヨリ申越候ニ付、此段申上候様、丹波守ヨリ申付越候ニ付、不取敢御届申上候、以上
辰七月三日
戸田丹波守家来
関杢右衛門