慶応4年7号

太政官日誌第七
慶応四年戊辰三月

【徳川慶喜御処分の事】
徳川慶喜御処分之儀、於朝廷者、諸事御寛容ニ被思食御沙汰被仰出候処、旧冬鎮定を名とし下坂之上軍配ニ及ひ候次第、始終言行相違、正月三日以来之拳動、叛逆顕然、其罪天下万民之所共知ニ候、故ニ不被為得止大号令御発表、終ニ御英断を以て御親征被仰出、勤王之諸藩、私情を捨て、公義ニ基き、諸兵大総督ニ付属し、已ニ賊城に相臨ミ候折柄、恭順謝罪之実効も更ニ無之尚先供之行違等を口実といたし、剰江停軍相願候次第朝廷を奉軽蔑候所為にて、不届之至ニ候、対天下後世、決而御許容難被遊候儀に可有之、仮令御許容被為在候而茂、前条暴入之轍ニ出候哉茂難計、御条理上者勿論、彼之情実、万々御採用難相成、却而人心之疑惑を生し候而者、此御時合不容易儀ニ付、大義名分篤と勘弁いたし、以来私ニ文通等之儀於有之者、逆徒ニ均しき筋ニ候間、屹度御沙汰可有之候事
三月

【甲州勝沼、武州羽丹生ノ戦】
東山道先鋒諸藩より届書写
東山道出兵本藩人数、信州上諏訪ニおゐて依命致手分、甲州路罷越、本月五日甲府ニ到着、即日城代佐藤駿河守江及談判、府城受取候、然ニ翌六日朝、賊徒共府城より三里許東ニ着陣候由相聞、石和駅迄斥候差出候得者勝沼駅ニ致屯駐候ニ付、因州、高遠二藩及本藩之兵、同時押寄候処、駅中ニ関門を設け官軍を差障候体ニ付押破り、其番兵を迫払、夫より惣勢を三手に分ち、一ト手ハ因州一小隊、本藩大砲隊<隊長北村長兵衛>本街道より進ミ一ト手ハ因州、高速之兵、本藩小隊<隊長小笠原謙吉>川を渡り、右ノ方より進ミ、一ト手ハ本藩小隊<隊長谷神兵衛>左ノ山を攀ち、敵背へ出候様、約束を定置、操出候処、賊徒共街道の橋を撒し砲台を築き罷在、忽ち互ニ発砲、賊徒ハ民家ニ放火し谷を隔て防戦、長兵衛隊及苦戦候折柄、因州勢其応援之為め左ノ山ニ登り、又因州、高遠之兵及譲吉隊右ノ山ニ登り、双方より発砲合撃いたし、賊徒共一時計リ防禦候得共、神兵衛隊急ニ敵背へ出賊三人討取、大音を揚け、山上より余賊を追下候故、賊衆落胆要害を棄て候ニ付、三面より追撃いたし、神兵衛隊砲台を奪ひ、賊徒共敗れ、少々退又防戦仕候得共、亦敗走し、官軍進て鶴瀬駅ニ至リ、賊徒ハ遂ニ笹子峰を踰へ遁去候ニ付、笹子の要害ハ因州ノ生兵へ托し、甲府守衛之儀ハ真田家江引渡、本藩軍勢ハ江戸へ致進発候趣、彼表軍監共より達越候ニ付、此段御達仕候討取候首級擒獲いたし候賊ノ姓名等ハ別紙ニ相認差上申候、以上

一、賊徒 保々忠太郎
柴田監物
市川五郎
市川幸八郎
中川権五郎
原田金之丞
疋田喜一郎
佐々井安左衛門
秋鹿慶之助
右之者共真由家江引渡申候
会藩 山崎壮助
右当斬梟首仕候
一、首三級
右谷神兵衛隊討取、但賊ノ隊長加々爪某と申者の首、清太郎躮小橋某討取申候
一、首一級
右小笠原謙吉討取申候
一、施条砲一挺
玉廿四五計
一、小銃十二三挺計
一、合羽駕篭二荷
雑物入共
一、大小二腰
右本藩兵分捕仕候
一、長持十荷計
右因州及本藩兵互ニ分捕仕候
一、味方 手負二人
右北村長兵衛隊小川弼太郎銃丸ニ中リ手を傷き小笠原謙吉隊今井和助、譲吉を助け、賊と戦被傷申候
右之通ニ御座候、以上
三月十五日 山内土佐守

辰三月六日午刻、於甲州勝沼駅、大橋鳥居坂戦争いたし、戦死、手負、分捕器械、左之通
一、即死一人
一、手負-人
右天野祐治隊中之者ニ候
一、大砲一挺
一、小銃三挺
一、大砲胴卵一ツ
一、太鼓負皮一ツ
一、大炮玉葉扱
右藤田束、天野祐冶手ニ而分取仕候
一、小銃三挺
右佐分利九允組士之内ニ而分捕仕候
一、小銃三挺
右馬場金吾、足立真蔵分捕仕候
右之通御座候、此段御届申上候、以上
三月 因州 和田壱岐
当月八日武州羽丹生村辺ニ歩兵屯集之由ニ付薩州、長州並弊藩人数、為斥候操出候処、梁田宿ニ集リ居候ニ付、一同出進、翌九日朝六ッ半時過より及砲戦、九ツ時頃迄ニ賊徒尽く敗走、討取分捕等も多分有之趣、急便を以申越候、於出先御総督御本陣江も御届申上候趣ニ者御座候得共、此段不取敢御届申上候、以上
三月十七日 戸田采女正
因州
土州
薩州
長州
大垣
右甲州勝沼駅、武州羽丹生村両所ニおゐて、賊徒屯集、砲銃を以て要地ニ拠リ官軍を相抗し候処、遂勇戦忽及掃撃、殊ニ初戦之儀三軍之気鋒をも興し、現地之情実達叡聞、御満足ニ被思食候、猶此上擢精忠、速ニ賊巣令平定、可奉安宸襟旨被仰出候、此段戦士江可相達御沙汰候事
三月十九日