鎮将府日誌 第十一
慶応四年戊辰九月
筑前藩届書
仙台領駒ケ峰ヨリ十丁余、本通之左山手江番兵所相構ヘ、厳重守衛為致候処、八月廿日早暁、松原相隔候山合ヨリ、烟霧ノ深キニ紛レ賊兵不意ニ襲来、巡邏之兵咎之砲発、其砲声聞ヤ否ヤ、宿陣所ヨリ直ニ兵隊繰出シ、本道ニ向ケ接戦、此時最早賊多兵ニテ、諸手江分チ相迫リ候ニ付、神速左右之山ヘ繰揚ケ、分隊烈ク防禦、賊等数度ノ敗走ヲ憤リ、死ヲ決而襲来候ト相見ヘ、何分解散不致、頗ル苦戦ニテ、数刻ヲ移ス、時ニ長州藩、芸州藩之応援、左右之山手ヨリ横撃、為是賊兵狼狽漸逃走、是ヲ見テ本道ヨリ、一同尾撃シテ賊ヲ斃ス事若干、生捕亦数人、小銃弾薬等棄散而敗績、追而新地ヘ至リ、暮六字頃駒ケ峰ヘ凱陣今日討死、手負左之通ニ御座候
深手 軍監帰営後死 庄野五兵衛
討死 大砲隊 三好安之丞
討死 銃隊 白木喜平次
同 同 中村幸作
同 使番役三木五六郎家来 木村卯之助
深手 銃士帰営後死 立花長之丞
深手 銃隊司令官 頭山左仲
同 銃士 中村槌之丞
同 銃士 岡清兵衛
同 同 雀井甚平
同 銃隊 牛尾亀次郎
同 同 八島次三郎
同 同 白柿駒三郎
同 同 友納善兵衛
同 同 下沢政次郎
同 同 蓑原増次郎
同 同 淵上関之助
同 同 松田嘉一郎
手負 銃士 神代助左衛門
同 銃隊 大木昇
同 同 江藤卯三郎
同 同 古川孫四郎
同 小川専左衛門家来 嘉平
八月 筑前藩 根本源五左衛門
小川専左衛門
芸州届書二通
弊藩黒木村ニ宿陣、因州藩初野村口守居候処去ル十六日、賊徒初野村ヘ襲来、因州勢及取合候得共、賊多勢故、持兼候段申来候折、御使番ヨリモ援兵被申聞候ニ付、軍監伊藤源助殿ト申合、直ニ出勢仕候処、因州勢巳ニ引揚、賊頻ニ放火進来候ニ付、及取合候処、賊三面ヨリ発砲、殊ニ田畑無楯ノ地ニテ、頗ル激戦仕、駸々相進候処、因州勢モ亦来リ、遂ニ与之追払、至于旗巻峠口、此口ハ先ツ止戦之心得ニテ、兼テ因州藩持口ニ付、同藩江相願置、本道脇山手難戦之趣ニ相聞候ニ付本道駒ケ峰迄相進ミ申候処、巳ニ止戦相成候間、最早引揚ケ候様、御使番被申聞候ニ付直ニ引揚、黒木村ヘ帰陣仕候、右之節、銃手小田吾三郎深手負仕候、此段御届申上候以上一昨廿日本道諸口トモ、賊挑来リ、直ニ取合相成候処、本道難戦ニ付、出勢候様、御使番被申聞候旨、軍監伊藤源助殿被申聞則出勢候処、途中改而山手ヘ出勢候様、被申聞候趣ニ付、繰込候処、賊徒所々負山倚楯、致抗戦候、則長州藩ト申合、厳ク相進ミ、相伝ケ原ト申所迄押寄候得共、未タ諸口相進不申ニ付、見合居候処、本道苦戦ニ付、賊ノ横合ヘ進撃候様、源助殿被申聞直ニ相伝ケ原ヲ平押ニ相進候処、賊大ニ致敗走候ニ付、新地迄追撃仕候、其内肥後勢モ相進申候得共最早薄暮相成候ニ付、三藩申合、止戦仕候、其節手負左之通
上野梅吉
小川清七
大谷甚平
山原玉蔵
右御届申上候以上
八月廿二日 芸州藩 川合三十郎
藤田次郎
長州藩届書三通
八月七日、二中隊為援兵、大坪村ノ間道ヨリ、石上村ニ至候処、賊兵所々ニ屯集、暫ク及戦争、追々塚野村辺迄尾撃之処、遂ニ賊支ル不能、大ニ敗走、追撃シテ駒ケ峰ヘ至候処、已ニ薄暮ニ及候間、不得追撃中村ヘ引取申候、此段御届仕候以上
当月十一日朝四字ヨリ、中村城出陣、浜手ヨリハ因州、肥後、山手間道ヨリハ徴兵隊、久留米藩進撃、本道ヨリハ弊藩二中隊、大砲隊筑前小隊、同大砲隊、因州、筑後、中村五藩大砲隊、不残相進ミ、駒ケ峰ヘ相向候処、賊台場ヲ数ケ所ニ築キ、堅固ニ相守候間、手配等致候内、賊台場ヨリ放発、味方ヨリモ発砲、互ニ放合之間ニ、二中隊ヲ二手ニ分ケ、一中隊ハ右手ヨリ進ミ、一中隊ハ左山上ノ台場ヘ突込、暫時ニ三四ケ所台場ヲ乗取候得共賊三方ヨリ頻ニ打立、甚苦戦、味方続ク兵モ更ニ無之、昼十二字頃迄二中隊ヲ以テ烈ク相戦候折、正面ヨリ台場落兼候間、援兵トシテ弊藩三小隊繰出シ候ニ付、賊之後面ヘ突出候処、芸藩其外正面ヨリ相進ミ候ニ付、賊死傷甚ク堪兼、諸陣屋江放火シ、悉ク潰散致候間一里余モ尾撃候処、近辺賊兵一人モ相見ヘ不申故、駒ケ峰ヘ引揚、諸藩申合セ、所々番兵等差出シ、人数ハ固所江宿陣仕候
即死 杉山蔀
同 佐々川次郎
同 飯田政之進
同 弘中精助
深手 帰営後死 原源左衛門
同 弘直人
同 田中梅之進
同 井上四郎
同 高橋一郎
同 西郷小源
同 滝原練造
同 伊藤清之進
同 志賀忠蔵
同 井上太々槌
同 岡本十郎
同 村田卯一郎家来 阿武富吉
薄手 山田太一郎
同 板垣多門
同 山川久助
同 堀菊平
深手 大砲隊 長友兵衛
同 大隅政人
同 夫卒 千蔵
当月十六日、一中隊為援兵駒ケ峰ヘ進軍、暫時相戦候処、追々賊敗走ニ付、浜手通リ追撃シテ、磯浜近辺ニ至候処、筑後藩相固居候ニ付、中村ヘ引取申候
手負 磯村亀吉
右御届仕候以上
八月 長州藩軍監 飯田竹次郎
肥後藩届書二通
去十一日当藩兵隊、於奥州原竈砲戦、死傷モ不少趣、先般御届申上置候処、右ハ相馬藩一小隊嚮導ニテ、後陣因州勢参着、江ヲ隔、大小砲連発、敵ヨリモ応砲、時機ヲ量リ、四小隊追々ニ江ヲ渡リ、因州勢モ続テ押渡リ、進撃仕候処、敵諸口ヨリ応援重候趣ニ相見ヘ厳ク致防禦、且江ヲ隔テ候テ、弾薬運送等不自由ニ付、頗ル及苦戦、殊ニ地理不案内敵ハ数多胸壁ニ拠発砲、徒ニ人数ヲ損候ニ付一ト先江後ニ繰揚、挑合候内、各藩ノ攻口モ既ニ戦争相始リ、是又苦戦、敵終ニ相破、所々火ノ手揚リ、敵ノ砲声次第ニ減候間、因州勢倶ニ不透、猶二小隊江ヲ渡リ、進撃致シ候処、早及落去候ニ付、今泉ヘ野陣ヲ張、相押申候、敵之死亡所々江埋置候跡有之候得共、多少不相分由、尤当藩戦死、手負等、最前於出先御届仕置候通ニテ、猶取調申候処、相洩候分左之通
深手 物頭格分隊司令士帰営其夜死 森山章之丞
戦死 大河原次郎九郎家来 岩下喜一郎
手負 横田治部右衛門隊 吉見寿七郎
同 同 高野修五郎
同 同 小島勝太郎
同 同 佐村嘉伝
同 同 柿山浅右衛門
同 同 大賀八之允
同 同 早瀬源七
同 同 伊藤安兵衛
同 同 山田又蔵
同 同 野口勝助
同 足軽弾薬才料 藤木民蔵
同 米田虎之助家来銃隊 中井藤作
同 大河原次郎九郎家来 矢野善次郎
右之通御座候、且又舟津亭四郎、野口一太儀モ、深手ヲ負候処、其後死去仕候、此段御届仕候以上
去十六日、当藩持場奥州今泉口ヘ敵兵寄来候間、人数繰出、発砲防禦、段々進撃仕候処、敵兵敗走跡ヲ詰、打取モ有之、当藩手負左之通
銃隊 日吉孫四郎
右之趣出張之者ヨリ申越候、此段御届仕候以上
八月廿九日 長岡左京亮内 島田次兵衛
大洲藩届書
一昨廿日暁ヨリ、今泉駒ケ峰戦争相始リ候ニ付、朝四ツ時頃、御使番ヨリ御指揮有之、弊藩一小隊、今泉、伊州、応援トシテ出張、残リ一小隊ハ、駒ケ峰本道筑州応援トシテ出張所々砲戦、何レモ御勝利ニ相成、諸手一同ニ相進、賊軍大ニ敗走、薄暮ニ至リ、諸手凱歌之上、弊藩、伊州応援ノ兵隊ハ、御使番ノ御指図ニテ、今泉伊州御固場ニ滞陣、警衛罷在候、駒ケ峰ノ応援ノ兵隊ハ、御使番ノ御指図ヲ以、本営ヘ引取申候、弊藩手負、分捕、左之通ニ御座候、右之段荒々御届申上候以上
深手 帰営後死 大野伝太夫
薄手 松本一郎
薄手 軍夫一人
大小一腰
拾匁筒一挺
冑一ツ
八月廿二日 大洲藩 加藤赳之丞
吉川藩届書二通
八月十一日、諸藩三手ニ分レ、駒ケ峰ヘ進撃被仰付候処、弊藩一中隊之儀ハ、西山村押トシテ、出張被仰付候ニ付、今日ハ進軍不仕候、然処、十二字頃宗藩本道ニ相進候一中隊、一旦敵塁ヲ攻落シ候得共、継兵無之殆苦戦ニ付、応援之儀申越候ニ付、直様一小隊西山ヨリ繰出シ、途中頻ニ急キ越シ候処、途中ニ於テ御使番ヨリ、駒ケ峰ノ方ハ十分之利ヲ得候得共、山ノ手徴兵、久留米兵、只今苦戦危急ニ付、暫相翼ケ候様被相頼候、味方先手ノ方無覚束相考候得共、無拠一小隊、右手ノ山上ニ繰上ケ、一二発致シ候得共伊州兵等モ已ニ立交リ、且敵間余程遠ク候ニ付、宗藩ヨリ申越候儀、無覚束、本道ヘ直様駆抜候処、已ニ駒ケ峰関門打破リ、悉ク及放火、敵大敗ニ相成候ニ付、人数引円メ、其夜ハ同所番兵相勤候、右ニ付当日手ニ合兼怪我人等、一向無之候事
昨十六日十字過、賊襲来之様子ニテ、駒ケ峰黒木ニ当リ、砲声相聞候ニ付、長州二中隊、浜手本道ヘ為応援致出張候御沙汰ニ付、弊藩一中隊、直様支度相調、駒ケ峰ニ駆付候処、本道筋近辺ハ、筑後兵打合ヒ中ニ付、山ノ手ヨリ横合ニ出ント、筑後兵ヘ牒合シ、間道ヨリ賊ノ背面ノ曠野ノ畔小高キ所ヘ進出候処、賊不意ヲ衝レ狼狽ノ体ニ而、或ハ逃出シ候モ有之候ヘトモ、一小隊計踏止リ、僅十五六歩ノ所ニテ、頻ニ数発放合候内、賊兵味方合印ヲ疑ヒ候哉、白ノ流旗ヲ以、茂林ノ中ヨリ麾キ候、此方ヨリ合図幟ヲ指上候処、愈互ニ発放、厳ク相成候得共、味方右一小隊、既ニ山上ニ登リ、続テ久留米兵半小隊計、一同放発仕候ニ溜リ得ス、忽本道ヘ向ヒ致潰散、中ニモ八九人計剣槍相提、致進入候得共、無難切捨申候、然処、後面ノ原中ヨリ、賊一中隊乃至二中隊計、散兵ヲ以、我帰路ヲ妨ントスル勢ニ相見候ニ付、筑後兵ヲ留置、再ヒ間道ヲ経テ、後面ノ山路ヨリ、賊ノ横合ニ廻リ出候内、賊筑後兵ヘ向ヒ進来候ニ付、筑後兵ヨリ致砲発候得共、弾薬手薄ノ様子ニテ、其所ニ潜伏致候ヘハ、賊疑ヒヲ生シ候ヤ進来ラス、弊藩後面ニ廻リ出候時ハ、既ニ悉引上候模様ニ付、直様本道筋七八町計押出シ候得共、最早賊一人モ不相見候ニ付、駒ケ峰ヘ引上ケ、兵隊相円メ、雨中旁何分兵士モ相疲レ、変ル様子モ無之候ニ付、浜手相進候一中隊申合、直様中村ヘ引取申候
手負 司令士 二宮富太郎
討取賊徒一人賊隊長青木清三郎
右之通御届仕候以上
八月十七日 吉川駿河守内 有福新輔
下田町名主并小田原軍監ヨリ届書二通
今廿九日未下刻、当港ヘ軍艦一艘致入津、早速為見届町役人一人乗組罷出、様子相伺候処、徳川家咸臨丸ニテ、何方ニ於テ怪我有之候哉、大破損ニテ、檣等モ切折レ、蒸気等モ損シ候様子、当港入ノ節モ、一向煙リ等不出、煙筒等モ相見得不申候、何方ヨリ何方ヘ御通艦被成候哉、并乗組人数等伺申上候得共、一向事実御答無之、唯艦名丈ケハ、元徳川家軍艦俗事役ノ加藤保太郎ト申御方、兼テ見知候故、御同人ヨリ承リ申候、呑水百石急々御注文被仰付候、バツテーラ等モ一艘モ無御座、何分怪敷奉存候間、此段不取敢以飛脚、御注進奉申上候以上
一筆啓上仕候、然者自下田表、別紙之通注進申越候、定而脱走乗込、於何方歟敗軍候船ト奉存候、仍而不取敢豆州松下兵隊ノ内二十人余、当城ヨリ三十人、下田表ヘ繰出、成丈揚陸セシメ、可討取手配仕候、若又不可討儀モ御座候ハヽ、当所ハ最早繰出候事ニ付、早々御申越可被成下候以上
八月晦日 安永又吉
大村益次郎殿
吉村長兵衛殿
御沙汰書
増田虎之助
石井富之助
徳川藩脱艦、下田港ヘ漂着候ニ付、為取始末被差遣候旨御沙汰候事
但軍監安永又吉、中島四郎ト申談、可取扱候事
九月
翔鶴丸
徳川脱艦、下田港ヘ漂着候条、依而同艦取始末中、下田港警衛可致旨御沙汰候事
九月
肥前藩 帰国之兵隊
徳川脱艦、下田港ヘ漂着候条、依而同艦取始末中、其藩帰国之兵隊ヲ以テ、下田ヘ揚陸、警衛可致旨御沙汰候事
九月
高崎藩届書
右京亮領分、下総国海上郡銚子陣屋詰役人共ヨリ、用向有之、今暁用状相達候内、去ル廿六日夜、同郡飯沼村内黒生浦江、何レノ船トモ不相分、難船一艘漂着ノ旨、村役人ヨリ届出候間、早速詰役人ノ者罷出、様子柄相糾候処、乗組ノ者何レモ心体労居リ、言舌等聢ト不相分候得共、徳川家臣ニハ、船名美賀保丸ト相唱候旨申聞候、然ル処、風波荒ク、人数高取調ハ勿論、何分応接等モ不行届候ニ付、一先引取、猶此上風波沈静次第、巨細相糾可申越段申越候、右者兼而御触達御座候脱走艦名之内ニ付、急速御届仕候、尤御触達之趣者、早速彼地ヘ申遺候得共、途中行違相成候儀ト奉存候、此段申上候以上
九月朔日 大河内右京亮家来 深井繁之助
御沙汰書
林半七
其方事、軍監被申付、美賀保丸為取始末銚子湊ヘ被差越候旨御沙汰候事
九月
志筑藩兵士二十人
銚子湊ヘ出張可致旨御沙汰候事
九月
佐倉藩兵隊百人
今度徳川家脱艦、銚子表ヘ漂着之趣、右為取調軍監林半七被差遣候条、神速出兵、指揮可相請旨御沙汰候事
九月
斥候隊長 森鐘次郎
右同文
九月