太政官日誌・明治2年70号

太政官日誌 明治二年 第七十号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十三
○六月三十日

軍務官箱館征討合記第一〈追録〉
官軍兵員
箱館府兵
伏水御親兵四百人
薩摩兵二百九十三人
長門兵七百八十一人
肥後兵三百九十六人
水戸兵二百十九人
伊賀兵百九十九人
備前兵五百四十一人
久留米兵二百四十三人
福山兵六百三十二人
弘前兵二千二百七人
徳山兵三百人
松前兵 大野兵 黒石兵百七十人
以上
箱館府兵届書写
四月十五日夜八字、青森港ニ於テ、兵隊二十人引率、朝陽艦ヘ乗組可申旨、参謀衆ヨリ御下知ニ付、急速乗艦、同時御艦三厩ニ向出艦翌十六日十二字同港着艦、甲鉄艦幷諸艦共打合評決之上、翌十七日早天三厩出艦、十一字三点松前城下港ヘ進航之処、賊数ケ所之台場ヨリ発砲ニ付、各艦交代砲発半ニ当艦城下港口ヘ特進候処、賊数ケ所之台場ヨリ厳敷砲発候得共、当艦ヨリモ城下ヲ目掛ケ撃砲候処、現ニ三発ハ城中矢倉其外ヘ相当リ、賊砲弾モ数十発、艦上相越候折柄、各艦ヨリモ城中台場等ヘ乱発、然ル処甲鉄艦ヨリ止戦之合図ニ付、一統止戦罷在候処、陸軍ト相見、数百人陸地進撃之様子、遠見候否哉、賊胸壁ヨリ撒隊繰出、砲台ノ向ヲ変シ、右陸軍ヲ砲撃致シ候ニ付、各艦ヨリモ頻ニ台場胸壁、或ハ賊撒隊ヲ砲撃候中、陸軍勇進、賊共数百、遂ニ東ヲ指シテ潰奔致シ候ニ付、当艦海岸近ク乗寄小銃ヲ以、狙撃候得共、銃弾不達候ニ付、即時兵隊引率、上陸之上、尾撃可仕ト存、揚陸仕候処、松前家巡邏兵隊ニ出会、隊長蠣崎衛士ニ応接、様子柄承合候処、賊近辺ニ一人モ無之趣ニ付、直様帰艦致候、時ニ日既ニ没シ各艦一同当港ヘ滞船之事
翌十八日、朝四字甲鉄艦ヨリ、洋中遙ニ賊艦ヲ見ル之旗号ニ付、即刻春日艦幷当艦共斥候トシテ同港出艦、海岸筋吉岡村ヨリ、福島村等探索仕候処、賊共昨夜中ヨリ今暁迄ニ、箱館路ヘ脱奔之趣ニ付、暫時同港滞艦罷在候中各艦共着艦、評決之上、兵隊召連、福島村ヘ揚陸、陸地実索仕候処、賊共同村ヨリ三里程奥、尻内峠ニ二三百屯集之趣、同村名主共ヨリ申出、当村乱妨之愁モ難計候間、是非宿陣致シ呉候様、百姓共ヨリ願出候ニ付、各艦ヨリ兵隊数十人上陸、在住半小隊ハ、斥候トシテ峠之方、沢合ヘ一里程進軍探索仕候得共、賊共遙山奥ニ屯集之趣ニ相違無之候間、夫ヨリ一同引返シ、右之趣村役人共ヘ申諭シ、兵隊一同乗艦仕候事
翌十九日ヨリ海岸筋所々砲戦、何モ大勝利ニテ、五月十一日箱館港ニ於テ、賊艦二艘ト戦争之砌、賊弾一発当艦火薬庫ヘ相当候ニ付、御艦忽破裂、其節在住隊即死、左之通ニ御座候
伍長 林六三郎
兵士 川島由太郎
菊地重太郎
浜田作蔵
宮本長吉
藤井文吉
菅原忠作
続源次郎
小沢清太郎

右海軍ヨリ巨細御届可有之候得共、不取敢此段御届申上候、以上
五月
箱館府在住隊々長 三村平太郎
箱館府士官在住隊届書写
四月廿八日、泉沢村会議所ニ於テ、参謀太田黒亥和太殿ヨリ、進撃之儀御達ニ付、第十一字泉沢村出発、同廿九日暁第三字当別村ヘ着陣、各藩打合之上、矢不来村賊陣正面ヘ向キ衆軍進撃、一同及砲発候処、彼ヨリモ砲発、第十二字頃、賊徒悉ク敗走ニ付尾撃仕、第三字有川村迄着陣、第五字箱館口有川村端ニ、終夜出張守衛罷在、同廿八日第十字有川村ヘ可揚取旨、同所会議所ヨリ御達ニ付、同所ヘ宿陣仕、五月朔日第七字、大砲在住隊七重浜村ヘ向至急出発可仕旨、有川村会議所ヨリ御達ニ付、即刻出発、第十二字頃七重浜村ヘ着陣、街道正面ヘ大砲二門幷備前藩一小隊守衛在住隊之儀ハ追分口、備前藩半小隊、在住隊出張之積リ談論中、七重浜村ヘ賊徒襲来、数十人抜刀ニテ切入、接戦ニ相成リ、衆寡難敵頗苦戦ニテ、有川村口迄揚取申候、其節戦死手負在之通
死 黒沢伝之丞隊 小林四郎
河内友吉
時宇之助
手負 後遂ニ死ス 黒沢信太郎
代島倫蔵
行方不知 人夫十三人
右之通御座候間、此段御届申上候、以上
五月
〈士官大砲隊在住隊〉長兼 黒沢伝之亟
箱館府士官大砲隊届書写
五月十二日第十二字、赤川村会議所ヨリ、至急同村迄出張可仕旨御達ニ付、第一字大野村出発、第五字赤川村ヘ着陣、同十四日第四字鍜冶村之内ヘ出発可致旨御達ニ付、砲台相構フ、同十五日敵襲来ニ付、及発砲候、同十六日第十一字、諸軍ヨリ五稜郭ヘ向ケ発砲致シ同夜第十一字賊襲来候処、持場ヲ可揚取旨御達ニ付、赤川村ヘ滞陣罷在候、依之此段御届申上候、以上
五月
〈士官大砲隊在住隊〉長兼 黒沢伝之亟
箱館府新兵隊届書写
四月廿八日夕六字、泉沢村会議所ヘ参営、其時参謀太田黒亥和太殿御達、明廿九日暁三字当別村ヘ惣軍出兵、当隊同様正面衝兵被命、即夜十一字泉沢村出発、第三字三十分前当別村ヘ着、夫ヨリ同所丸山下峠広野ニテ、惣軍相揃、直様各藩矢不来天神ノ広野左堺峰山、賊ノ台場ヲ指テ進軍発砲、然処賊ノ応砲少シ右ニ付参謀太田黒亥和太殿指揮、当隊ハ左舟掲山渓々隈ニ賊潜伏探索、堺峰山ノ台場、左ノ方ヘ進兵可致旨被命、即時舟掲山ヘ登リ、笹堀ヘ下リ、吉堀ヨリ登リ候処、其前賊兵台場ヲ棄テ走ル、夫ヨリ富川上蛇流野ヘ下ル、折節賊兵五十人程、有川村差テ敗走、各藩続テ追討、当隊之儀ハ、其場ニ出合ヒ同ク追討富川村着仕、暫時休息、其時有地志津摩差図ニテ、富川村上山谷賊兵探索致シ、有川村ヘ出兵之旨被命、直様進軍、尢大野藩モ進ム、然ニ潜賊無之、漸ク第一字有川村着、同所宿陣、夕七字ヨリ在住隊士官大砲隊当隊トモ、同村七八丁離レ、追分ノ沙塘辺迄出兵斥候被命、猟小屋一宇為篝火焼払、徹夜番兵、廿日暁六字有川宿陣ヘ、三隊共引揚申候事
五月朔日第一字大野村一ノ渡村二俣迄斥候、二俣着之上、各藩隊長衆ヘ面会致シ、有川口戦争之次第、相咄候様、不破一学殿ヨリ被命福山藩岡田辰之助外一人幷当隊半隊指令官北野直七郎其半小隊引率、一ノ渡ヨリ二俣迄ノ途中鼻摺ト申所ニテ薩州藩隊長、備前同断、水戸同断、其所出合ヒ、有川口ノ様子申聞ケ二俣口ノ模様承リ、夕七字有川村ヘ帰陣、前文之始末、会議所ヘ相届、暫時休息、当隊ハ巡邏役相勤、在住隊大砲隊ハ七重浜ヘ出兵、其夜第一字七重浜ニ賊徒襲来、頗苦戦ノ由、当隊ハ砲声相聞キ候ヨリ、有地志津摩殿、不破一学殿ヨリ至急ノ差図ニシテ、有川橋ヨリ海辺迄、半隊長幷当隊之斥候柴田正作半小隊ニテ守衛、然ニ七重浜出兵人数、追々退軍之様子、無間払暁ニ相成、当隊之儀モ引揚、此段会議所ヘ御届申上候事
五月二日第八字、久留米藩一中隊、当隊一小隊、監軍不破一学殿、原川魁助殿同伴、為斥候七重村ヘ進撃、夫ヨリ大川村ヘ同断、然処賊ノ斥候隊三十人計、石川郷ヨリ大川村ヲ指テ襲来之由ニ付、山ノ手ハ各藩ニテ守衛、当隊ハ黒田了介殿差図ニテ、中鳥郷上ノ広野ヘ出兵、暫相待居候得共、賊兵不来、夕五字同所引揚、中鳥郷ヘ宿陣、其夜同所廻番、翌三日第四字黒田了介殿差図ニテ、夕六字迄滞陣七字七重村ヘ引取宿陣、其時村橋直衛殿ヨリ御達、当隊ハ一ノ渡村持場相極リ候得共、今夕ハ寡兵、殊ニ烈風猛雨ニ付、同所宿陣厳重ニ巡邏可致ト、同夜第一字賊兵大野ノ間道筋大川村ノ広野ヨリ七重村広野辺ヘ襲来発砲ス各藩直ニ出兵、当隊モ薩州半小隊同道シテ、同所杉林ノ上、峠下村ヘ通行ノ間道ヲ、撤兵ニテ取切相待候処、賊兵大ニ敗走、無程払暁砲声モ、追々少ク相成候ニ付、其場引揚、監軍山形与惣殿差図ニテ、夫ヨリ一ノ渡村ヘ引揚候事
五月十七日当隊銃卒四人、潜賊探索ノ為メ、湯ノ川辺迄差出候処、湯ノ川村次兵衛ト申者ノ家ニ、賊ノ品物有之即チ分取ル、如左
ミニヘトル銃十一挺
刀一本
長巻一本
胴乱六
同十八日、賊兵降ヲ乞フ者及持参器械如左
賊伝習隊差図役 小林幸五郎
外ニ 十二人
小銃十二挺
刀十三腰
銅乱十二箇
右之通御座候、此段御届申上候、以上
五月
箱館府新兵隊々長 秦斗鬼三

五月十日至急御達ニ付、新兵隊一小隊鶴之郷ヘ出兵、在住隊一小隊、夕四字ヨリ七曲ヘ出兵、徹夜守衛、其夜大野村会議所ヨリ御達ニテ、同夜第二字三十分ヨリ、有川口大野口幷海軍兵進撃、夫ニ付両隊ノ儀ハ国別川端ヘ進軍、翌十一日第八字比迄ニ、賊兵海陸共敗走第九字比ヨリ久芳昌五郎殿、栗屋富三郎殿両人ノ差図ニテ、両隊トモ元亀田村迄進撃、賊兵二百歩計隔テ、川向ヒ堤ミ陰ケ、或ハ長屋垣根ノ間ヨリ形影分明ナラズ候得共、大小砲百員計ニテ、打出候ニ付、在住隊長幷半隊長中村辰四郎左右ニ別レ、二伍十六歩ノ散兵ヲ布キ川手前ヨリ発砲、新兵隊長幷半隊長北野直七郎モ左右ニ別レ開兵発砲、第一字ヨリ夕六字迄砲戦致シ、両隊トモ追々川近ク相進候処、賊徒追々退軍日モ黄昏ニ及候間、無余儀赤川辺迄引揚、夫ヨリ直ニ箱館街道筋二箇所柵火ノ近辺ニ忍ヒ、斥候可致旨、参謀森清蔵殿ヨリ御達ニ付、徹夜見番仕候、本日戦争手負幷分捕左之通
深手 在住隊押伍官 秦殿三
新兵隊長秦斗鬼三従者 啓之助
浅手 在住隊半隊長 中村辰四郎
同伍長 御手洗林三郎
小銃弾薬六百発
新兵隊分捕
右之通御座候間、此段御届申上候、以上
五月
在住隊々長 三村平太郎
新兵隊々長 秦斗鬼三

太政官日誌・明治2年69号

太政官日誌 明治二年 第六十九号
明治己巳 自六月廿六日 至三十日
東京城第三十二
○六月二十六日〈丙寅〉

御沙汰書写
【九条左大臣弾正尹仰付ラル】
九条左大臣
弾正尹被仰付候事
【○内藤、水野謹慎被免ノ事】
内藤三郎
同姓信思儀謹慎被仰付置候処、被免候事
○ 水野和泉守
謹慎被仰付置候処、被免候事
【上杉式部任叙ノ事】
宣下状写
上杉式部
復任侍従兼式部大輔
叙従四位下
右宣下候事
【神祇宮御神祭ノ事】
御達書写
来二十八日、神祇官ヘ行幸御神祭被為在候ニ付、二十九日辰刻ヨリ午刻迄、無職之華族、中下大夫、諸官人、上士、六等官以下官員幷公議人参拝可為勝手旨、被仰出候事
但、有位ハ衣冠、無位ハ直垂着用可致、用意無之輩ハ、有位ハ狩衣、無位ハ上下着用之事
附、重軽服之輩可憚事
○二十七日〈丁卯〉

三都府幷諸開港場ヘ御沙汰書写
宇内万国、財ヲ生シ、貨ヲ集ルノ道、百物ヲ流通シ、貿易ヲ便ニスルニ在リ、凡土ニ肥瘠ノ差ヒ、地ニ寒暖ノ別アリ、則其生殖スルモノ亦自ラ従テ異ナリ、之ヲシテ有無相通シ、百貨往来セシムル者ハ商ノ事ナリ、然ルニ我皇国商律未タ備ハラス、財ヲ生スルノ道未タ隆ナラス、今也、各国相往来シ、通商開クルニアタツテ、金銭物価其平均ヲ失シ、上下ノ疲弊日ニ甚シ、故ニ商律ヲ立、貨幣ノ融通ヲ助ケ、廻漕ノ便ヲ設ケ、内外輸出入ノ多寡ヲ量ツテ、物価ヲ平準ナラシメ、万物流通財ヲ生シ、貨ヲ集ルノ基ヲ可被為開タメ、今度会計官中通商司ヲ被置、左之通御委任被仰付候ニ付、三都府幷諸開港場地方官、能々土地民情ヲ審ニシ、通商司ト熟議戮力、処置可致事
通商司御沙汰書此ニ入ル〈第六十七号ニ見ヘタリ〉右之通被仰出候ニ付、此旨相達候事
御布告書写
三都府幷諸開港場ヘ、別紙之通被仰出候ニ付、外地方官ニ於テモ総而同様相心得可申事
【南部、内藤、板倉任叙ノ事】
宣下状写
南部彦太郎
任甲斐守
叙従五位下
右宣下候事
○ 内藤三郎
任豊前守
叙従五位下
右宣下候事
○ 板倉教之助
任内膳正
叙従五位下
右宣下候事
【徴士、雇士ノ称廃止ノ事】
御達書写
藩士被徴候節、何等之職務御任用可相成旨、一応藩々ヘ御尋之上、御登用被仰付候段、先般御布令有之候処、自今徴士雇士之称被廃就而ハ廟議ヲ以テ御撰用相成候間、此旨相達候事
○二十八日〈戊辰〉
【神祇官ヘ行幸ノ事】
此日群臣ヲ被為率、神祇官ヘ行幸、辰刻御出輦、巳半刻御還輦
○二十九日〈己巳〉
【諏訪、戸田両人謹慎ノ事】
御沙汰書写
各通 諏訪伊勢守
戸田備後守
神祇官ニ於テ御拝礼中、進退無作法之儀有之、依テ謹慎被仰付候事
【松浦肥前守従四位宣下】
宣下状写
松浦肥前守
叙従四位下
右宣下候事
○三十日〈庚午〉
【宮中、府中、城中、市中巡察ノ事】
御達書写
来月二日ヨリ、弾正台大小忠巡察等、宮中府中城中市中巡察イタシ候間、為心得相達候事
但、市中巡察之節、行掛其場ニ糾弾可致事件有之候エハ、取締出張所ニ於テ糾弾イタシ、時宜ニヨリ当分取締ヘ預置候事モ可有之候間、兼テ相心得可申事
【日蝕ニ付参賀被止ノ事】
来七月朔、日蝕ニ付参賀被止候事
【開港場以外ノ地ヘ外国船廻航禁止ノ事】

列藩支配所ヨリ、是迄諸品運輸又ハ兵士往反之タメ、外国船雇入、開港場之外諸所ヘ差廻シ方願立候節ハ、御許容相成候エ共、右ハ兵馬騒乱中、時勢不得已之儀ニテ、斯ク海内御平定ノ上ハ、已来開港場ノ外、諸方之地ヘ外国船ヲ以テ運輸等相願候トモ、一切御許容不相成候、就而ハ華族之向ハ勿論、農商ニ至迄開港場ヨリ開港場ヘ運輸之趣願立置、密ニ他港ヘ差廻シ候儀、相聞ニ於テハ吟味ノ上、夫々相当ノ御処置被仰付、且積荷有之候ハヽ其品取上ケ、過料トシテ千両御取立可相成候条、此旨屹度可相心得事
但、本文之通、御定有之候エ共、地方救助之タメ等ニテ、無拠情実有之候ハヽ、其子細委曲相認メ、前以雇入候其開港場ヘ願出候ニ於テハ、篤ト評議ノ上、時宜ニヨリ、御許容相成候儀モ可有之事
【牧野、市橋任叙ノ事】
宣下状写
牧野錂太郎
任内匠頭
叙従五位下
右宣下候事
○ 市橋信一郎
任主殿頭
叙従五位下
右宣下候事

賞典追録
福原内匠
昨年賊徒掃攘中、白河民政取締勉励之段、神妙被思食、仍為其慰労、目録之通下賜候事
○ 各通 吉田遠江
原六郎
昨年賊徒掃攘中、軍事尽力之段、奇特被思食、仍為其慰労、目録之通下賜候事
○ 各通 岡本出雲守
稲波内舎人
浅田舎人
昨年賊徒掃攘中、軍事尽力之段、大儀被思食、依テ為其慰労、目録之通下賜候事

太政官日誌・明治2年68号

太政官日誌 明治二年 第六十八号
明治己巳 六月廿五日
東京城第三十一
○六月廿五日〈乙丑〉
【知藩事ノ令終ル】
知藩事ノ令今日ニ至テ終ル、御沙汰書写如左
姓名
何藩知事被仰付候事
明治二年己巳六月
□ハ太政官印ナリ
【版籍奉還聞食サル】
版籍奉還願出候面々ヘ、添御沙汰書写如左
姓名
今般版籍奉還之儀ニ付、深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採、政令帰一之思食ヲ以テ言上之通被聞食候事
版籍奉還不願出面々ヘ、添御沙汰書写如左
姓名
今般版籍奉還之儀、列藩及建言候ニ付、深ク時勢ヲ被為察、広ク公議ヲ被為採、政令帰一之思食ヲ以テ、言上之通被聞食候依之於其藩モ封土版籍返上被仰付候事
遂日知藩事被仰付、順次如左
版籍奉還願出候面々
○六月十七日
加賀金沢 前田宰相中将
薩摩鹿児島 島津宰相
駿河静岡 徳川新三位中将
尾張名古屋 徳川三位中将
紀伊和歌山 徳川中納言
肥後熊本 細川中将
筑前福岡 黒田少将
安芸広島 浅野中納言
周防山口 毛利宰相
肥前佐賀 鍋島少将
常陸水戸 徳川少将
因幡鳥取 池田中納言
伊勢津 藤堂中将
越前福井 松平越前守
備前岡山 池田少将
陸前仙台 伊達亀三郎
近江彦根 井伊中将
土佐高知 山内少将
筑後久留米 有馬中将
羽後久保田 佐竹宰相
出雲松江 松平少将
上野前橋 松平大和守
伊予松山 久松少将
大和郡山 柳沢侍従
豊前香春 小笠原豊千代丸
越後高田 榊原侍従
播磨姫路 酒井侍従
羽前米沢 上杉式部大輔
岩代白石 南部甲斐守
讃岐高松 松平讃岐守
下総佐倉 堀田相模守
備後福山 阿部主計頭
若狭小浜 酒井前少将
山城淀 稲葉侍徒
伊予宇和島 伊達侍従
加賀大聖寺 前田侍従
越中富山 前田淡路守
美濃大垣 戸田采女正
美作津山 松平中将
越後新発田 溝口伯耆守
○十九日
豊前中津 奥平美作守
対島厳原 宗少将
常陸土浦 土屋相模守
上野高崎 大河内右京亮
播磨明石 松平左兵衛督
常陸笠間 牧野金丸
下総古河 土井大炊頭
相模小田原 大久保相模守
豊後岡 中川侍従
肥前島原 松平主殿頭
三河豊橋 大河内刑部大輔
日向延岡 内藤備後守
丹後宮津 本荘伯耆守
名代隠居丹後守
羽前新荘 戸沢中務大輔
肥前平戸 松浦肥前守
伊予大洲 加藤遠江守
肥前唐津 小笠原中務大輔
三河西尾 松平和泉守
丹波笹山 青山左京大夫
上野館林 秋元但馬守
信濃松本 戸田丹波守
近江膳所 本多主膳正
上総舞鶴 井上侍従
伊勢亀山 石川日向守
磐城棚倉 阿部基之助
信濃上田 松平伊賀守
和泉岸和田 岡部美濃守
讃岐丸亀 京極佐渡守
播磨竜野 脇坂淡路守
日向飫肥 伊東左京太夫
名代嫡子修理大夫
岩代二本松 丹羽五郎左衛門
豊後白杵 稲葉右京亮
上総芝山 太田備中守
磐城三春 秋田信濃守
筑前秋月 黒田甲斐守
越前丸岡 有馬遠江守
丹波亀岡 松平図書頭
三河岡崎 本多中務大輔
名代重臣
上総菊間 水野羽後守
美濃郡上 青山大膳亮
○二十日
下総関宿 久世順吉
摂津尼崎 桜井遠江守
越前大野 土井能登守
安房長尾 本多紀伊守
越前鯖江 間部下総守
紀伊田辺 安藤飛騨守
摂津高槻 永井日向守
摂津三田 九鬼長門守
伊予今治 久松壱岐守
上野沼田 土岐隼人正
丹後舞鶴 牧野錂太郎
尾張犬山 成瀬隼人正
名代重臣
信濃高遠 内藤若狭守
紀伊新宮 水野大炊頭
丹波福地山 朽木近江守
豊後杵築 松平河内守
美濃加納 永井肥前守
但馬出石 仙石讃岐守
名代重臣
信濃高島 諏訪伊勢守
伊予西条 松平左京大夫
名代重臣
美濃岩村 松平能登守
上総久留里 黒田筑後守
下野烏山 大久保佐渡守
下野壬生 鳥居丹波守
名代弟右近
上野安中 板倉主計頭
志摩鳥羽 稲垣対馬守
伊予吉田 伊達若狭守
美濃高須 松平範次郎
名代重臣
出雲広瀬 松平佐渡守
越後村松 堀貞次郎
名代重臣
三河重原 板倉内膳正
日向土佐原 島津淡路守
日向高鍋 秋月長門守
名代重臣
陸中一ノ関 田村鎮丸
羽前上ノ山 松平豊熊
丹波園部 小出伊勢守
近江水口 加藤能登守
大和高取 植村羽前守
豊後日出 木下大和守
備中足守 木下備中守
名代重臣

○二十二日
磐城中村 相馬因幡守
名代重臣
磐城磐城平 酒井徳之助
常陸松岡 中山備中守
越後長岡 牧野鋭橘
三河刈谷 土井淡路守
武蔵岩槻 大岡主膳正
美作真島 三浦玄蕃頭
越前勝山 小笠原左衛門佐
羽後松嶺 酒井信三郎
肥後人吉 相良遠江守
豊後府内 大給左衛門尉
名代嫡子信濃守
羽後本荘 六郷兵庫頭
名代重臣
陸奥八戸 南部侍従
名代嫡子璟之丞
丹波柏原 織田出雲守
美濃今尾 竹腰伊予守
上総飯野 保科弾正忠
信濃飯山 本多乙次郎
名代父竹仙
播磨赤穂 森越後守
近江大溝 分部若狭守
名代嫡子掃部助
磐城守山 松平大学頭
名代嫡子廿二麿
上野小幡 松平摂津守
常陸石岡 松平侍従
豊後佐伯 毛利伊勢守
備中庭瀬 板倉摂津守
越後与板 井伊右京亮
上野伊勢崎 酒井下野守
三河挙母 内藤丹波守
常陸下館 石川若狭守
名代重臣
丹波綾部 九鬼大隅守
備中新見 関伊勢守
近江西大路 市橋下総守
名代嫡子信一郎
下野黒羽 大関美作守
羽前天童 織田寿重丸
名代重臣
羽後亀田 岩城亀五郎
名代重臣
下総結城 水野禊之助
磐城泉 本多兵庫助
常陸谷田部 細川玄蕃頭
上総佐貫 阿部駿河守
下野佐野 堀田摂津守
信濃竜岡 大給縫殿頭
名代重臣
羽後矢島 生駒讃岐守
但馬豊岡 京極飛弾守
○二十三日
三河半原 安部摂津守
播磨三日月 森対馬守
信濃飯田 堀美濃守
信濃岩村田 内藤志摩守
上総鶴牧 水野肥前守
伊勢神戸 本多河内守
磐城湯長谷 内藤英之助
和泉伯太 渡辺丹後守
近江山上 稲垣若狭守
名代嫡子藤五郎
近江宮川 堀田豊前守
相模荻野山中 大久保中務少輔
上総一ノ宮 加納遠江守
備中成羽 山崎志摩守
肥前福江 五島飛弾守
豊後森 久留島伊予守
三河田原 三宅備後守
武蔵六浦 米倉丹後守
下総多古 久松大蔵少輔
近江三上 遠藤但馬守
安房加知山 酒井大和守
下野大田原 大田原飛弾守
丹後峰山 京極備中守
和泉小泉 片桐主膳正
伊勢薦野 土方大和守
下野足利 戸田長門守
羽前長瀞 米津伊勢守
但馬村岡 山名因幡守
三河西端 本多対馬守
備中岡田 伊東播摩守
常陸志筑 本堂式部少輔
丹波山家 谷大膳亮
信濃須坂 堀長門守
美濃苗木 遠山美濃守
常陸牛久 山口周防守
上野七日市 前田丹後守
名代嫡子孫八郎
大和原本 平野遠江守
摂津麻田 青木民部少輔
播磨三草 丹波長門守
下野吹上 有馬兵庫頭
越後三根山 牧野伊勢守
○二十四日
讃岐多度津 京極下総守
越後椎谷 堀右京亮
大和芝村 織田摂津守
大和柳本 織田大和守
越後清崎 松平日向守
上野吉井 吉井侍従
常陸宍戸 松平主税頭
出雲母里 松平主計頭
安房館山 稲葉備後守
上総桜井 滝脇丹後守
下総高岡 井上宮内少輔
陸奥七戸 南部雄麿
越前敦賀 酒井左京亮
名代重臣
美濃高富 本荘宮内少輔
越後黒川 柳沢刑部大輔
播磨山崎 本多肥前守
豊前千束 小笠原近江守
播磨安志 小笠原信濃守
河内丹南 高木主水正
名代嫡子肥前守
三河西大平 大岡越前守
大和櫛羅 永井信濃守
常陸下妻 井上伊予守
播磨林田 建部内匠頭
越前三日市 柳沢信濃守
下総小見川 内田主殿頭
下総生実 森川内膳正
播磨小野 一柳対馬守
常陸麻生 新荘下野守
大和柳生 柳生但馬守
名代重臣
伊予小松 一柳因幡守
名代重臣
備中浅尾 蒔田相模守
上総小久保 田沼玄蕃頭
信濃松代 真田信濃守
陸奥弘前 津軽少将
名代重臣
版籍奉還被仰付候面々
○二十四日
阿波徳島 蜂須賀中納言
筑後柳河 立花少将
武蔵河越 松井周防守
下野宇都宮 戸田土佐守
美作鶴田 松平右近将監
名代重臣
越後村上 内藤豊前守
石見津和野 亀井中将
上総花房 西尾隠岐守
松前館 松前勝千代
名代重臣
肥前大村 大村丹後守
上総大田喜 大河内豊前守
伊勢長島 増山備中守
河内狭山 北条相模守
筑後三池 立花出雲守
版籍奉還願出候面々
○二十五日
遠江堀江 大沢右京大夫
下野高徳 戸田備後守
内、分末家ニテ添御沙汰書無之面々
肥前小城 鍋島紀伊守
周防岩国 吉川駿河守
伊勢久居 藤堂佐渡守
肥前蓮池 鍋島甲斐守
長門豊浦 毛利左京亮
周防徳山 毛利淡路守
備中鴨方 池田満次郎
肥前鹿島 鍋島備中守
長門清未 毛利讃岐守
伊予新谷 加藤出雲守

知藩事ヘ御達書写
一、従来支配地総高幷現米惣高、取調可申出事
但、免ハ五ケ年平均ヲ以テ取調可申出事
一、諸産物及諸税数、取調可申出事
一、公廨一ケ年之費用、取調可申出事
一、職制、職員、取調可申出事
但、重立候職員ハ、人撰可相窺事
一、藩士、兵卒員数、取調可申出事
但、従前之禄幷扶持米遣居候高、取調可申出事
一、社寺領其外、従前禄扶持米等遣居候人員並高、取調可申出事
一、現石十分之一ヲ以テ、家禄可被相定候事
但、石高外諸雑税モ可準之事
一、支配地総絵図可差出事
一、支配地人口、戸数、取調可申出事
一、一門以下平士ニ至ル迄、総テ士族ト可称事
但、家禄御定之振合ニ基キ、給禄適宜改革可致候、且一門之輩ハ、追テ位階ヲ可賜事
一、家禄相応、家令、家扶、家従以下、召仕候人員可窺出事
但、従前之知家事ハ、家令ト唱ヘ可申事
右之件々被仰出候ニ付テハ、諸務変革、来ル十月中取調可申出事
六月
別紙之通被仰出候事

地所蔵米ノ諸家ヘ御達書写
各通 一橋大納言
田安中納言
山内薫
池田但馬守
津軽式部大輔
戸田淡路守
足利左馬頭
一、従来支配地総高云々
一、諸産物及云々
一、藩士兵卒員数云々
一、社寺領其外云々
一、支配地総絵図云々
一、支配地人口云々
一、一門以下平士云々
右之件々被仰出候ニ付而ハ、来十月中取調可申出事

蔵米ノ諸家ヘ御達書写
各通 浅野近江守
池田摂津守
池田丹波守
池田相模守
上杉駿河守
松浦左近将監
細川若狭守
細川豊前守
佐竹壱岐守
一、藩士兵卒云々
一、社寺従前云々
一、一門以下平士云々
右之件々被仰出候ニ付テハ、来十月中取調可申出事

太政官日誌・明治2年66号

太政官日誌 明治二年 第六十六号
明治己巳 自六月十七日 至十九日
東京城第二十九
○六月十七日〈丁巳〉
此日ヨリ知藩事ノ御発令アリ〈後巻ニ詳記ス〉
【公卿諸候、華族ト改称ノ事】
御達書写
官武一途上下協同之思食ヲ以テ自今公卿諸候之称被廃、改テ華族ト可称旨被仰出候事
但、官位ハ可為是迄通候事
【酒井徳之助替地ノ事】
御沙汰書写
酒井徳之助
今度替地被仰付候ニ付テハ、諸事速ニ処分致シ、八月中旬迄引移可申旨御沙汰候事
【足利延喜久任叙ノ事】
宣下状写
足利延喜久
任左馬頭
叙従五位下
右宣下候事
○十八日〈戊午〉
【坊城左小弁磐城巡察使仰付ラル】
御沙汰書写
坊城左少弁
当官ヲ以三陸巡察使被仰付置候処幷磐城国巡察可致様被仰付候事
【伊東、佐竹、久松任叙ノ事】
宣下状写
伊東彦松
任修理大夫
叙従五位下
右宣下候事
佐竹常丸
任壱岐守
叙従五位下
右宣下候事
久松源三郎
任豊前守
叙従五位下
右宣下候事
○十九日〈己未〉
【増山隼人任叙ノ事】
宣下状写
増山隼人
任備中守
叙従五位下
右宣下候事
【相馬家版籍奉還上表ノ事】
相馬因幡守上表写
臣季胤聞ク、天下ハ大物ナリ、有権有力、然後之ヲ掌上ニ運ラス可シト、今也、政権朝廷ニ帰スト雖モ、列候三百、海内ニ碁布シ、土地、甲兵、総テ諸候ニ分轄シ、制度モ亦不一如此則朝廷勢力、分離ヲ免カレザルニ似タリ臣嚮ニ有罪、封土ヲ奉還ス、既ニシテ掃賊ノ微功ニ因テ、更ニ再封之命ヲ拝スト雖、藩屏ノ職ニ至テハ、臣不肖其任ニ堪ヘザルヲ是懼ル、幸ニ聞ク、各藩頃日献国ノ議アリト、臣不堪感激、即チ其ノ義挙ト同ジク、土地人民尽ク献納ス、区々タル弊邑、大海ノ一滴ニモ当ラズト雖、此ニ由テ朝廷権力兼完、制度画一ノ小補ト成ルナラバ、何ノ幸カ之ニ如ン、右不堪至願、敢テ謹テ上表ス、誠惶誠恐頓首
六月
相馬因幡守 季胤花押
弁事御中

叛逆首謀御処置書写追録
保科弾正忠
昨臘依御沙汰、取調差出候松平容保家来、叛逆首謀管野権兵衛、今般刎首被仰付候条於其方致処置、可及言上候事
但、叛逆首謀之内、田中土佐、神保内蔵介既ニ落命ニ付、不及其儀候得共、存命候ハヾ刎首可被仰付候事
五月
軍務官
○ 伊達亀三郎
昨臘依御沙汰取調差出候叛逆首謀者、但木土佐、坂英力、今般刎首被仰付候条、於其方処置致シ、可及言上候事
五月
○ 同人ヘ
別紙之通御達ニ相成候条、但木土佐、坂英力両人、刑法官ヘ願出、引取可申事
五月
○ 酒井徳之助
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、石原倉右衛門存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共、素ヨリ不可容之大罪ニ候条、家名断絶申付候事
五月
○ 上杉式部
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、色部長門存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共<以下同文>
五月
○ 丹羽五郎左衛門
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、丹羽一学、丹羽新十郎存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共<以下同文>
五月
○ 同人ヘ
其方家来丹羽丹波、昨年中奥羽私盟党与之事件、頗関係之聞有之、不届之至ニ候条、一橋大納言ヘ、永預申付候事
五月
○ 一橋大納言
丹羽五郎左衛門家来丹羽丹波、昨年中奥羽私盟党与之事件、頗関係之聞有之、不届之至ニ候条、其方ヘ永預申付候事
五月
○ 松平範次郎
松平容保家来手代木直右衛門、秋月悌次郎、其方ヘ永預被仰付候条、在所表ヘ引取、禁錮可申付候事
五月
○ 同人ヘ
別紙之通相達候条、手代木直右衛門ハ因州藩秋月悌次郎ハ刑法官ヨリ引取可申事
五月
○ 因州藩
昨年其藩ヘ御預被仰付置候手代木直右衛門今般松平範次郎ヘ、永預被仰付候ニ付、同人ヘ引渡可申事
五月
○ 阿部基之助
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、阿部内膳存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共、素ヨリ不可容之大罪ニ候条、家名断絶申付候事
五月
○ 牧野鋭橘
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、河井継之助、山本帯刀存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共<以下同文>
五月
○ 内藤三郎
昨臘依御沙汰取調差出候叛逆首謀鳥井三十郎、今般刎首被仰付候条、於其方処置致シ、可及言上候事
五月
○ 水野和泉守
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀水野三郎右衛門、今般刎首可被仰付候条<以下同文>
五月
○ 南部彦太郎
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀楢山佐渡、今般刎首被仰付候条<以下同文>
五月
○ 堀貞次郎
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、堀右衛門三郎、斎藤久七、今般刎首被仰付候条<以下同文>
五月
○ 水野禊之助
昨臘依御沙汰、取調ベ差出候叛逆首謀、水野又兵衛、茂野喜内、今般刎首被仰付候条<以下同文>
但シ、叛逆首謀之内水野甚四郎、既ニ落命ニ付、不能其儀候得共、存命ニ候ハバ、刎首可被仰付事
五月
○ 久世順吉
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、小島弥兵衛、今般刎首被仰付候条<以下同文>
但、叛逆首謀之内、木村正右衛門、丹羽十郎右衛門、行方不分明之旨申出候ニ付、其方ヘ永尋申付候事
五月

太政官日誌・明治2年65号


太政官日誌 明治二年 第六十五号
明治己巳 六月十五日
東京城第廿八
○六月十五日〈乙卯〉
【箱館五稜廓陥落ノ事】
箱館軍艦参謀届書写
十一日迄之賊情ハ、過日御届書之通ニ御座候其後十二日ニ至リ、箱館全ク我有トナリ、賊軍悉五稜郭並元津軽陣屋及弁天崎台場等之要害ニ逃込、折々我陸軍ヲ窺フ之気色相見候ニ付、終日諸軍艦ヲ以テ、陸軍ヲ助ケ発砲ス、十三日弁天崎台場猶未タ抜ケス、春日、陽春両艦ヨリ大砲一門宛ヲ揚ケ、山上ヨリ弁天崎台場ヲ砲射ス、十四日戦状前日ニ大異ナク、時々軍艦ヲ外浜ニ廻シ、元津軽陣屋ノ賊ヲ砲撃ス、此夕弁天崎賊兵、力尽勢屈降伏ヲ乞フ故ニ弁天崎ニ向ヒ砲射スルヲ止ム、十五日弁天崎ノ賊永井玄蕃、元蟠竜船将松岡岩吉、川村録四郎等以下二百四十人降伏ス、十六日暁三字ヨリ、陸軍元津軽陣屋ノ賊ヲ攻撃ス、海軍之ヲ応援ス、一挙忽抜ク、十一二日頃ヨリ甲鉄艦ノ七十斤砲ヲ以、五稜郭ヲ射撃ス、毎発多ハ命中、賊大ニ窮ストイフ、十七日薩藩田島敬蔵、五稜郭ノ賊徒ト応接之後、賊魁榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭輔、荒井郁之助懇願申出候趣ニ付、九字頃参謀増田虎之助、軍監前田雅楽、陸軍ニテハ参謀黒田了介、軍監村橋直衛、岸良彦七、有地志津摩等亀田ニ出張、面会之上、歎願之趣意聞取候処、謝罪降伏申出候ニ付、実効箇条相立候ハヾ、可奉伺天裁旨申聞、賊徒ハ五稜郭ヘ差返ス、同夜松平太郎、安富才輔両人陣門ニ罷出、降伏之実効、左之通相立度段申出ル
明十八日朝第六字ヨリ七字迄之間、首謀榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭輔、荒井郁之助軍門ニ降伏之事
午後一字ヨリ二字ノ間、兵隊以下不残出郭降伏之事
午後四字ヨリ五字迄之間、兵器悉皆差出、五稜郭ヲ差上可申事
十八日暁ヨリ、軍監前田雅楽、軍使器械請取方等ヲ引連、亀田会議所ヘ出張、出先軍監岸良彦七、有地志津摩打合、各藩兵隊ヘ降伏人護送之達ヲ致シ、第七字、賊魁榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭輔、荒井郁之助等軍門ニ降ル、軍監ヨリ申渡候箇条左之通
一、首謀之者陣門ニ降伏之事
一、五稜郭ヲ開キ、寺院ニ謹慎罷在、追而可奉待朝裁事
一、兵器悉皆差出可申事
右之通申渡候条、可得其意者也
五月
陸海軍 参謀
首謀四人双刀取揚ケ、長州一中隊ヲ以テ函館寺院ヘ護送ス、一字過兵士三百人、創傷者五十人、歩兵六百五十余人、合テ千余人ヲ、薩州一中隊、伏水一小隊、備前一中隊、長州一中隊、大野一中隊、松前三小隊、水戸二分隊黒石一中隊等ヲ以テ函館ヘ護送ス、四字過大小砲始武器悉皆取揚、五稜郭ヲ請取、伏水一中隊、水戸一中隊、松前一中隊繰込候事
右之次第ニテ、函館ハ全平定ニ相成候、モロランニ三百計賊徒有之趣、是モ追々降伏可致候若強抗致候ハヾ、早速討取可申候、不取敢右之段御届申上候也
五月
海軍 参謀
軍監
五月十一日海陸軍進撃之節、春日艦ニテ
即死 二等揖取 前田嘉七郎
深手 上床良吉
春口伝助
浅手 同艦乗込松前藩 清瀬磋平
右之通御届申上候也
五月
海軍 参謀
箱館陸軍参謀届書写
四月六日、海陸軍青森港進発候処、天気不宜ニ付平館ヘ滞泊、八日同所出発、九日朝乙部村揚陸之処、賊徒二三十人山上ヨリ発砲、松前兵隊直ニ之ヲ掃攘ス、夫ヨリ海陸軍互ニ進ム、陸軍一ツハ長州一中隊、砲二門、福山一中隊、津軽一中隊、松前三中隊、大野一中隊海辺江差口ニ進ミ、一ツハ長州一中隊、福山一中隊、砲二門、松前一中隊、津軽一中隊、山道鶉村口ニ進ミ、夕三字江差之賊落去ル、此夜山道兵隊鶉村ニ泊シ、海辺兵隊江差ニ泊シ、十日両道進軍、海辺兵隊又小堀ヨリ別レテ、福山一中隊、津軽一中隊、松前一中隊、大野一中隊、木古内越ニ進ム、鶉村口、木古内口両道、人家一切無之、道路険悪追々架橋営屋進軍ス、十一日鶉村口長州一中隊繰込無事、木古内口無事、海辺称部田村ニテ賊徒襲来、終夜戦争不利ニシテ、暁天小砂子村迄引揚、賊亦追撃セス、十二日備州四斤砲二門、臼砲二門木古内口ヘ出張、外ニ伊州一中隊、筑後一中隊海辺ヘ進ミ、十三日海辺無事、鶉村口進撃、二股迄進ミ、二股ヨリ二里余、台場三ケ所乗取、此処ヨリ一里大台場アリ、賊兵守備厳重ナリ、終夜攻撃遂ニ落ス、地勢守備不宜、暁天二股迄引揚、木古内口津軽一中隊小戦、十四日木古内口進撃不利、十五日津軽一中隊、松前一中隊、松前口ヘ出張、十六日無事、十七日海辺進撃、賊軍大敗、福山城落去、津軽一中隊、松前一中隊、福山一中隊、備前三小隊、安野呂口ヘ出張、安野呂ヨリ落部ニ至リ道程十三里、道路極難人足ノ通スベキ所ニ非ス、日夜新道開拓進軍、十八日諸口無事、薩州一中隊、長州一中隊、木古内口ヘ出張、薩州一中隊、徳山一中隊、備州一中隊長州砲二門、鶉村口ヘ出張、水戸一中隊、松前一中隊、海辺ヘ出張、十九日新兵隊一小隊在住隊一小隊、海辺ヘ出張、二十日木古内口薩州、長州、大野、福山兵隊、備州砲二門、臼砲二門進撃、同所砲台乗取、札刈村迄進撃賊ノ運送之路ヲ絶ツ、賊三面ヨリ襲来、我兵少ク引揚、廿一日諸口無事、廿二日木古内口松前口進軍、両道ノ兵隊合併ス、廿三日海陸軍進撃、海軍賊艦ト打合、六字頃ニ至リ戦ヒ不決、津軽一中隊、砲ニ門館村ヘ出張、此日夕七字ヨリ二股戦争、終夜ニシテ廿四日勝敗猶未決、水戸一中隊鶉村口出張、廿五日松前一小隊、熊石辺為探索出張、廿六日ヨリ廿八日迄諸口無事、廿九日津軽大砲隊安野呂口ヘ出張、黒石一中隊松前城下ヘ出張、此夜十二字泉沢雷発、海陸軍一同、矢不来攻撃、六字十五分天神森台場三四ケ所乗取、七字二十分左リ方山上ノ台場十三四箇所攻落、此日、各藩猛烈奮戦、直ニ有川迄追討、同所滞陣、口々厳重守衛、五月朔日海軍賊ノ千代田形ヲ分捕此日賊矢不来ノ敗ヲ聞テ、二股砲台ヲ棄去ル依テ薩州、水戸、備州一ノ渡迄出張、二日二股口ノ諸兵進テ大野村ニ至ル、此日有川口ノ兵隊ト合併ス、七重浜斥候所ヘ賊兵夜襲ス、我兵不利、追分迄引揚、三日斥候隊繰出候処其夜大風雨ニ乗シ賊兵夜襲ス、四日暁二字、賊二中隊許ニテ大川村ニ襲来、薩州一中隊防戦暫時ニシテ追払フ、五日、六日無事、七日海軍弁天崎台場並賊艦ヘ砲撃ス、八日朝四字賊二大隊許ニテ大川村ヘ襲来、薩州一中隊、長州二中隊、筑後一中隊、徳山一中隊防戦、八字比ニ至リ賊兵敗走、石川村迄追撃、九日十日諸口無事、十一日払暁有川口ノ兵隊、伊州一中隊、津軽一中隊、徳山一中隊、長州、備州臼砲一門宛山背泊ヨリ上陸、薩州一中隊長州一中隊、筑後一中隊、松前一中隊、備州福山、松前、臼砲一門宛寒川ヨリ揚陸、暁三字三十分海陸軍大挙追撃、函館、大川村、桔梗野、海岸四道相進ミ、台場数箇所ヲ落ス、一昼夜之間砲声不止、十五日赤川村ヘ賊徒二百七十人降伏シ来ル、弁天台場ノ賊徒、永井玄蕃其外陣門ニ降ル、十一日ヨリ今日迄出先斥候、処々ニ小戦ス、十六日暁三字ヨリ、箱館七重浜、桔梗野ノ三道之兵、元津軽陣屋攻撃四字比攻落ス、夕刻賊ノ使者来ル、十七日朝松平太郎、榎本釜次郎、亀田斥候所ニ来リ歎願ス、十八日朝七字松平太郎、榎本釜次郎、荒井郁之助、大鳥圭輔陣門ニ降伏ス、監軍有地志津摩、斥候不破一学、海軍々監前田雅楽立合ヒ、左之書付相渡〈書付ハ軍艦参謀届書ノ内ニ出ス、今略之〉降伏相済ミ、長州一中隊警衛、不破一学騎馬ニテ箱館寺院ニ送ル、午後二字兵隊小者千八人降伏、各藩兵隊ヲ以テ箱館寺院ヘ護送、五字五稜郭及兵器請取候、此段不取敢御届申上候也
五月
陸軍 参謀

太政官日誌・明治2年63号

太政官日誌 明治二年 第六十三号
明治己巳 自六月三日 至八日
東京城第二十六
○六月三日〈癸卯〉
【版籍奉還上表ニ付南部家ヘ御沙汰】
御沙汰書写
南部雄麿
今度土地人民版籍奉還可致之旨、及建言候条全ク忠誠之志、深ク叡感被思食候、追而何分之御沙汰可被為在候得共、版籍之儀ハ一応取調可差出旨、被仰出候事
○四日〈甲辰〉
【柴田長川御預ノ事】
御沙汰書写
松平荘九郎
柴田長川儀、其方ヘ御預相成候間、此段申達候事
但、永田半蔵ヨリ受取可申事
【版籍奉還上表ニ付保科家ヘ御沙汰】
保科弾正忠
今度土地人民版籍奉還云々〈南部雄麿御沙汰書同文〉
【諸官員月給御渡方ノ事】
御達書写
諸官六等官以下之官員、其官々知事、副知事之見込ヲ以、撰挙致シ、府藩県ヘ直ニ相達候ニ付テハ、是迄月給御渡方之儀、其官々ヨリ当官ヘ相届、当官ヨリ会計官ヘ申遣来候処、向後ハ其官々ヨリ直ニ会計官ヘ、毎月十八日迄取調可申出候事
但、進追共達済之分、毎月十ノ日毎ニ、当官ヘ届出候儀ハ、可為是迄之通事
【蝦夷開拓ニ付鍋島中納言ヘ勅書】
鍋島中納言ヘ勅書写
蝦夷開拓ハ皇威隆替ノ関スル所、一日モ忽ニス可ラス、汝直正深ク国家ノ重ヲ荷ヒ、身ヲ以テ之ニ任セン事ヲ請フ、其憂国済民ノ至情、朕嘉納ニ堪ヘス、独恐ル、汝高年遽ニ殊方ニ赴ク事ヲ、然レ共、朕之ヲ汝ニ委ス、始テ北顧ノ憂ナカラン、仍テ督務ヲ命ス、他日皇威ヲ北彊ニ宣ル、汝方寸ノ間ニアルノミ、汝直正懋哉
明治二年己巳六月四日
○五日〈乙巳〉
【佐竹、戸田任叙ノ事】
宣下状写
佐竹中将
任参議
叙従三位
右宣下候事
○ 戸田故越前守
任侍従
叙従四位上
右贈宣下候事
【賞典ハ凡テ御蔵米下賜ノ事】
御沙汰書写
今般賞典ニ付、下賜候石高之儀ハ、御蔵米ヲ以テ被下候間、為心得相達候事
但、分積之儀ハ、追而御沙汰可有之事
○六日〈丙午〉
【正金地方ニ流出シテ三都府困窮ノ事】
御達書写
御一新之際、莫大之軍費ハ勿論、上下疲弊ヲ極メ、生産富殖之道ニ差障候ヨリ、格別御仁恤之御主意ヲ以、上下融通之為、金札御布行相成、府藩県共石高ニ応シ、貸渡被仰付偏ニ生産富殖之道ヲ開キ候様トノ御趣旨ニ被為在候処、拝借金札ヲ三都府ニオイテ、正金ト引換候而己ナラス、甚ニ至而ハ厚キ御趣意ニ戻リ、金札通用ヲ拒候処ヨリ、其通用スル処、僅ニ三都府ニ不過、又諸国ヨリ都府ヘ物産ヲ輸入スト雖モ、其国許ニオイテ通用差障候故、金札ヲ嫌ヒ、正金ト引換持去、自ラ三都府之正金四方ニ散シ、金札而己ニ相成遂日物価沸騰ニ及ヒ、都府之人民困窮今日之甚ニ至候、右ハ兼而御厳令モ有之候処、地方官之諭令、不行届ヨリシテ、右様之次第ニ立到候ニ付而急々是ヲ救之道、一時都会ニ集ル処ノ金札ヲ、府藩県石高ニ配当シ、正金ニ換ヘ、是ヲ以テ都会之人民ニ引替渡候外無之然ル時ハ金札普ク海内ニ被行、物価平均、正金々札同様、流通可致様可相成、依之別紙之通リ、被仰出候間、府藩県共、厚御趣意ヲ奉戴シ、御布令ニ基キ、国民ヲ説諭シ、期限通無遅延差出可申事
但御主意柄、篤ト了解シ難キ者ハ、東京会計官ヘ可伺出事

今般別紙之通、被仰出候ニ付而者、府藩県共高一万石ニ付、金札二千五百両ツヽ、石高ニ応シ割渡相成候間、右員数正金、三都会計官出納司エ、御布令当日ヨリ左之期限通、可相納事
三十里以内ハ三十日
五十里以内ハ三十八日
七十五里以内ハ四十六日
百里以内ハ五十四日
百二十五里以内ハ六十二日
百五十里以内ハ七十日
百七十五里以内ハ七十八日
二百里以内ハ八十六日
二百里以外ハ九十四日

正金上納ニ付金札渡方左之通
東京会計官納之向ハ、金札六月十五日迄ニ半高、残リ半高七月五日限、被相渡候事、京都大阪両所会計官納之向ハ、金札六月廿日迄ニ半高、残リ半高七月十日限被相渡候事
【織田賢司、同数馬謹慎被免ノ事】
御沙汰書写
織田寿重丸
末家織田賢司、織田数馬儀、謹慎差免候間、此旨可申達事
但、其藩ニ引取、扶助可致事
【辻七郎右衛門御預ノ事】
板倉教之助
板倉伊賀家来辻七郎左衛門儀、其藩ヘ当分御預ケ被仰付候事
【松前勝千代、福山入城ノ事】
松前藩届書写追録
去月十七日、松前福山城御進撃之処、速ニ御恢復、翌十八日参謀原川晦輔見分之上、福山城当分御預被仰付候旨、重臣之者ヘ相達、直様家来共警衛罷在候、然ル処清水谷侍従殿同廿七日津軽青盛出帆、翌廿八日江差ヘ入港同所観音堂ヘ御着陣相成候、就而者福山ヘ御入城ニモ可相成候哉、参謀衆ヘ家来共ヨリ相伺候処、同所ヘ者御巡視無之候間、私始家族共入城不苦旨、被相達候趣、家来共ヨリ弘前表ヘ申越候、依之一昨八日私並母、敦千代共同所出立、昨九日暁七時青盛港出帆、同日昼九時松前表ヘ着船、即福山ヘ入城仕、難有仕合奉存候、右ニ付固向等之儀、夫々手配申付置候、此段御届申上候、以上
五月十日
松前勝千代
弁事御中
○七日〈丁未〉
【大久保、前田任叔ノ事】
宣下状写
大久保岩丸
任相模守
叙従五位下
右宣下候事
○ 前田稠松
任淡路守
叙従五位下
右宣下候事
○八日〈戊申〉
【前田淡路守侍従ニ任ズ】
宣下状写
前田淡路守
任侍従淡路守如元
叙従四位下
右宣下候事
【金札御割渡ニ付御達ノ事】
御達書写
金札御割渡、正金上納ニ付而ハ、過日御通達之儀候間、早々御請書可指出候事
但、主人上京在邑等ニ而、重臣名代之向、主人ヘ申聞候而者日合モ相懸候間、先以御請書指出置、尚重臣ニ差次候者急行御趣意貫徹候様可相達候事
【有宿ノ入牢諸入費ノ事】

士農工商共、犯科入牢之者、衣類扶持方服薬代等無宿之者而己被下候処、以来有宿無宿ニ不拘、諸入用被下候旨、当三月中相達候趣モ有之候処、有宿之者入牢ニ付、諸入用之儀ハ従前之通可取計候、此段更ニ相達候事

太政官日誌・明治2年60号


太政官日誌 明治二年 第六十号
明治己巳 六月二日
東京城第二十三【賞典三
○六月二日〈壬寅〉
御沙汰書写
○ 細川中将
戊辰之春、兵ヲ東方ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労、目録之通下賜候事
○ 蜂須賀中納言
戊辰之夏、兵ヲ東方ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 同人
其方家来稲田九郎兵衛儀、手兵ヲ出シ、大総督ヲ護衛シ、東下以来、不一形尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 鍋島少将
其方家来鍋島上総、昨秋兵隊ヲ率ヒ、羽州ヘ出張、毎戦尽力之段叡感被為在、仍為其慰労、目録之通、下賜候条、此旨可相達事
○ 市橋下総守
戊辰之春、山道之軍ニ属シ、兵食ヲ運輸シ、又白川若松ニ進ミ、励精尽力、頗苦辛ヲ極候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労、目録之通下賜候事
○ 長崎振遠隊
戊辰之秋、羽州ニ出兵、毎戦尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 松平少将
戊辰之夏、山道之軍ニ属シ、毎戦尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 本多乙次郎
戊辰之夏、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 堀美濃守
戊辰之春、山道之軍ニ属シ、又転シテ北越ニ進ミ、各所戦争尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 大給縫殿頭
戊辰之夏、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 牧野金丸
戊辰之夏、各所戦争ヲ遂ケ、且兵食運輸、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 大田原飛弾守
戊辰之夏、賊鋒之衝撃ニ当リ、各所戦争、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 松平主殿頭
戊辰之秋、兵ヲ羽州ニ出シ、各所戦争、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 池田相模守
戊辰之春、伏水一戦、続テ宗藩ト恊力、各所戦争、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 山内薫
戊辰之夏以来、宗藩ト協力、各所戦争、尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 鍋島紀伊守
戊辰之夏、宗藩ト協力各所戦争、尽力之段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 戸田淡路守
戊辰之夏、兵ヲ北越ニ出シ、宗藩ト協力、各所戦争ヲ遂候段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 木下備中守
戊辰之秋、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 鳥居丹波守
戊辰之夏、山道之軍ニ属シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 相良遠江守
戊辰之夏、兵ヲ東方ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 久松壱岐守
戊辰之夏、兵ヲ東方ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 奥平大膳大夫
戊辰之夏、兵ヲ東方ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 内藤若狭守
戊辰之夏、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 有馬兵庫頭
戊辰之夏、山道之軍ニ属シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 酒井前少将
戊辰之秋、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 内藤志摩守
戊辰之春、山道之軍ニ属シ、又転シテ北越ニ進ミ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 森対馬守
戊辰之秋、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 一柳因幡守
右同文各所ノ二字ヲ省ク
○ 加藤遠江守
戊辰之秋、兵ヲ東方ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 佐竹常丸
戊辰之秋、既ニ方向ヲ決シ、宗藩ト協力、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 池田摂津守
戊辰之春、既ニ方向ヲ決シ、宗藩ト協力、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 堀右京亮
戊辰之夏、北越之軍ニ属シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 朽木近江守
戊辰之秋、兵ヲ北越ニ出シ、各所戦争ヲ遂候段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 井伊右京亮
戊辰之夏、北越之軍ニ属シ、各所戦争ヲ遂候段神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 本堂式部少輔
小身ヲ以テ、賊境ニ接近シ、早ク方向ヲ決シ官軍ヲ駿府ニ迎ヘ、探索奔走不一形、終始尽力之段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 岡田錖之助
戊辰之春、山道之軍ニ属シ東下、各所戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 諏訪伊勢守
戊辰之春、山道之軍ニ属シ、兵食運輸、且戦争ヲ遂候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 柳沢甲斐守
戊辰之秋、兵食ヲ主宰シ、仙台口ヘ出張シ、不一形尽力、行届候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 松平大学頭
賊地ニ介在スト雖モ、隠然方向ヲ定メ官軍之兵食人馬ヲ弁シ候段、神妙ニ被思食、仍為其慰労以下同文
○ 芦野雄之助
小身ヲ以テ賊境ニ接近スト雖モ、陰ニ方向ヲ定メ官軍之兵食人馬ヲ弁シ候段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 吉井左兵衛督
戊辰之夏、近境ニ於テ、戦争ヲ遂候段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 立花出雲守
戊辰之秋、宗藩ト協力、戦争ヲ遂候段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 大久保与七郎
小身ヲ以テ、早ク方向ヲ定メ、兵ヲ東京ニ出シ、奔走尽力之段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 松下嘉兵衛
小身ヲ以テ、早ク方向ヲ定メ、於函嶺、戦争ヲ遂候段、神妙被思食、仍為其慰労以下同文
○ 堀田相模守
戊辰之夏、各所ニ出兵、戦争之段、神妙ニ被思食候旨、被仰出候事
但、死傷之者ヘ、別紙目録之通、金子下賜候間、夫々分配可致事
○ 戸田長門守
戊辰之夏、山道総督之指揮ニ従ヒ出兵、戦争之段、神妙ニ被思食以下同文
但、死傷之者ヘ、別紙目録之通以下同文
○ 徳川中納言
戊辰之春、東方出兵、戦争之段、神妙ニ被思食以下同文
但、死傷之者ヘ、別紙目録之通以下同文
○ 堀田摂津守
右同文
○ 松平摂津守
右同文
○ 大久保中務少輔
戊辰之夏、函嶺之役、出兵之段、奇特被思食候旨、被仰出候事
但、死傷之者ヘ、別紙目録之通以下同文
○ 徳川少将
戊辰之秋、北越ニ出兵、各所戦争之段、神妙被思食以下同文
但、死傷之者ヘ、別紙目録之通以下同文
○ 石川日向守
戊辰正月、桑名追討、嚮導相務候段、奇特被思食以下同文
○ 松平大和守
戊辰之夏、出兵戦争候段、奇特被思食以下同文
○ 松井錦之進
戊辰之夏、各所出兵之段、奇特被思食以下同文
○ 土岐隼人正
戊辰之夏、山道総督之指揮ニ従ヒ出兵、戦争之段、奇特被思食以下同文
○ 松平左兵衛督
戊辰之夏、北越出兵戦争之段、奇特被思食以下同文
○ 井上河内守
戊辰之春、海道之軍ニ属シ、各所出兵之段、奇特被思食以下同文
○ 大河内刑部大輔
戊辰之春、海道之軍ニ属シ、輜重運輸、尽力之段、奇特被思食以下同文
○ 一柳対馬守
戊辰之夏、北越ニ出兵、戦争ヲ遂候段、奇特被思食以下同文
○ 戸田備後守
戊辰之夏、宗藩ニ合シ、出兵戦争之段、奇特被思食以下同文
○ 柳沢信濃守
戊辰之秋、出兵戦争之段、奇特被思食以下同文
○ 津軽式部少輔
戊辰之秋、宗藩ニ属シ、出兵戦争之段、奇特被思食以下同文
○ 松平範次郎
戊辰之春、山道之軍ニ属シ、出兵之段、奇特被思食以下同文
○ 足利延喜久
戊辰之秋、出兵戦争之段、奇特被思食以下同文
○各通
米倉丹後守
池田満次郎
加藤能登守
西尾隠岐守
新田満次郎
昨年賊徒掃攘之砌、出兵候段、大儀被思食候旨、被仰出候事

太政官日誌・明治2年58号

太政官日誌 明治二年 第五十八号
明治己巳 六月二日
東京城第二十一【賞典一】
○六月二日〈壬寅〉
詔書写
朕惟、復皇道之衰、済天下之溺、一資汝有衆之力、而其建節巌彊、宣威遠方、艱苦尽瘁無所不至、朕切嘉奨之、乃頒賜以酬有功、顧前途甚遠矣、厥克翼賛大成、朕益有望汝有衆、汝有衆其懋哉
明治二年己巳六月二日
御沙汰書写
兵部卿宮
戊辰正月、征討ノ命ヲ奉シテ、鳥羽ニ出馬、其後諸軍ヲ率ヒ、北越ニ進ミ、広ク謀議ヲ容レ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、竟ニ今日平定之功ヲ奏シ候段叡感不斜、依テ為其賞、千五百石下賜候事
○ 太宰帥宮
戊辰二月、征東之命ヲ奉シ、諸軍ヲ率ヒ、関東ニ出馬、広ク謀議ヲ容レ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、竟ニ今日平定之功ヲ奏シ候段叡感不斜、依テ為其賞、千二百石下賜候事
○ 九条左大臣
戊辰ノ春、奥羽鎮撫之命ヲ奉シ、諸藩反覆之際ニ処シ、不容易艱難ヲ経、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、竟ニ奏功ニ及候段叡感不斜、依テ為其賞、八百石下賜候事
○ 沢三位
戊辰ノ春、九条左大臣ヲ輔翼シ、奥羽出張、諸藩反覆之際ニ処シ、不容易艱難ヲ経、大義ヲ以、諸藩ヲ説諭シ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、竟ニ奏功ニ及候段叡感不斜、依テ為其賞、八百石下賜候事
○ 醍醐少将
戊辰ノ春、九条左大臣ニ参議シ、奥羽ヘ出張諸藩反覆之際ニ処シ、不容易艱難ヲ経、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、竟ニ奏功ニ及候段叡感不浅、依テ為其賞、六百石下賜候事
○ 柳原右少将
戊辰正月、海道進軍、桑名城ヲ収メ、遂ニ甲府ヲ経テ、東京ニ到リ、又総房ニ出馬、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡慮不浅、依テ為其賞、三百石下賜候事
○ 岩倉新侍従
戊辰正月、諸軍ヲ督シテ、山道ヨリ進ミ、兵士ト甘苦ヲ共ニシ、又総野ノ間ニ出馬シ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡感不浅、依テ為其賞、三百石下賜候事
○ 四条少将
戊辰之夏、東京ニ来リ、続テ仙台ニ向ヒ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡感不浅、依テ為其賞、三百石下賜候事
○ 西園寺中納言
戊辰之春、山陰総督トシテ出馬、続テ北越督府ニ参議シ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡感不浅、依テ為其賞、三百石下賜候事
○ 正親町中将
戊辰之春、大総督ニ参議シ、東京ニ到リ、続テ白川口ニ出馬、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡感不浅、依テ為、其賞三百石下賜候事
○ 久我大納言
戊辰之秋、兵ヲ督シテ、海路北越ニ至リ、又転シテ羽州ニ進軍、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ職掌ヲ遂候段叡感不浅、依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 壬生少将
戊辰之夏、北越総督ニ参議シ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡感不浅、依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 橋本中将
戊辰正月、兵ヲ督シテ、海道進軍、桑名城ヲ収メ、東京ニ到リ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ職務尽力之段叡感不浅、依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 岩倉勘解由長官
戊辰正月、岩倉侍従ト共ニ、山道進軍、兵士ト甘苦ヲ同シ、又総野之間ニ出馬シ、日夜勉励、兵気ヲ鼓舞シ、職掌ヲ遂候段叡感不浅依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 西四辻少将
戊辰之春、大総督ニ参議シ、日夜勉励之段、叡感被為在、依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 高倉贈参議
戊辰正月、兵ヲ督シテ、北陸道進軍、日夜勉励、終ニ疾ヲ以テ、陣中ニ薨去、深ク不憫ニ被思食、仍テ為祭粢、二百石下賜候事
○ 四条侍従
戊辰正月、伏水ノ役勅ヲ奉シテ、山崎ニ出馬、続テ北陸道進軍、日夜勉励之段叡感被為在、依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 鷲尾侍従
丁卯之冬勅ヲ奉シテ、高野ニ出張、戊辰之夏、東京ニ到リ、続テ白川口ニ出馬、疾ニ依テ奏功ニ致ラスト雖モ、日夜勉励之段叡感被為在、依テ為其賞、二百石下賜候事
○ 穂波三位
戊辰之春、御旗ヲ監シ、又大総督ニ参議シ、職務勉励之段叡感被為在、依テ為其賞、百石下賜候事
○ 万里小路権右中弁
戊辰之夏、東京ニ到リ、御旗ヲ監シ、又大総督ニ参議シ、職務勉励之段叡感被為在、依テ為其賞、百石下賜候事
○ 大原少将
戊辰之夏、海軍ヲ督シ、海路航行、東京ニ到リ、職務勉励之段叡感被為在、依テ為其賞百石下賜候事
○ 河鰭侍従
戊辰之春以来、御旗ヲ監シ、職務勉励之段叡感被為在、依テ為其賞、百石下賜候事
○ 沢主水正
官軍ノ急ヲ聞キ、兵ヲ督シテ羽州ニ到リ、兵気ヲ鼓舞シ、危難ヲ救ヒ、日夜勉励之段叡感被為在、依テ為其賞、百石下賜候事
○ 各通 烏丸宰相
五条少納言
平松甲斐権介
戊辰正月、伏水之役、鳥羽ニ出馬、続テ大阪ニ進ミ、尽力候段叡感被為在、仍テ為其賞五十石下賜候事
○ 島津宰相中将
島津少将
積年勤王之称首ト為リ、大兵ヲ挙ケ、断然力ヲ朝廷ニ尽シ、戊辰ノ春、伏水一戦、大ニ賊胆ヲ破リ、天下人心之方嚮ヲ決シ、続テ東北諸道ニ出兵、毎戦取捷、竟ニ今日平定ノ偉功ヲ奏シ、奉安宸襟候段、洵ニ国家ノ柱石ニ被思食叡感不斜、仍テ為其賞、官位昇進、禄十万石下賜候事
宣下状写
島津宰相中将
任権大納言
叙従二位
右宣下候事
○ 島津少将
任参議
叙従三位
右宣下候事
御沙汰書写
毛利宰相中将
毛利少将
積年勤王之称首ト為リ、精忠不屈之大義ヲ以テ皇運ヲ一方ニ維持シ、戊辰之春伏水一戦、大ニ賊胆ヲ破リ、天下人心之方向ヲ決シ続テ大兵ヲ東北諸道ニ出シ、毎戦取捷、竟ニ今日平定之偉功ヲ奏シ、奉安宸襟候段、洵ニ国家ノ柱石ニ被思食叡感不斜、仍テ為其賞、官位昇進、禄十万石下賜候事
宣下状写
毛利宰相中将
任権大納言
叙従二位
右宣下候事
○ 毛利少将
任参議
叙従三位
右宣下候事
御沙汰書写
山内中納言
山内少将
丁卯之冬、奉勅出兵、太政復古之盛業ヲ賛ケ、其後伏水一戦、続テ大兵ヲ東北ニ出シ、殊死奮励、毎戦奏功、藩屏之任ヲ尽シ候段叡感不斜、仍テ為其賞、四万石下賜候事

太政官日誌・明治2年53号

太政官日誌 明治二年 第五十三号
明治己巳 自五月廿一日 至廿三日
東京城第十六
○五月廿一日〈壬辰〉
【皇道興隆、知藩事被任、蝦夷地開拓ヲ御下問ノ事】
已刻、行政官及ヒ六官、学校、待詔局、府県五等以上官員直垂着用、大広間参候、順次列坐
聖上御帳台ニ出御、勅語アリ、輔相勅意ヲ伝宣ス、議長乃チ御下問書読上、畢テ入御、御下問書、人別ニコレヲ賜フ、其件三条
一、皇道興隆ノ件
一、知藩事被任之件
一、蝦夷地開拓之件
未刻、非役堂上、麝香間詰諸候勅問儀、前ノ如シ宮大臣名代重臣、於大広間、議長御下問書読上
御下問書写
我皇国天神天祖、極ヲ立、基ヲ開キ給ヒシヨリ列聖相承、天工ニ代リ、天職ヲ治メ、祭政維一、上下同心、治教上ニ明ニシテ風俗下ニ美シク皇道昭々、万国ニ卓越ス、然ルニ、中世以降、人心偸薄、外教コレニ乗シ皇道ノ陵夷、終ニ近時ノ甚キニ至ル、天運循環、今日維新ノ時ニ及ヘリ、然トモ紀綱未タ恢張セス、治教未タ浹洽ナラス、是皇道ノ昭々ナラザルニ由トコロト、深ク御苦慮被為遊、今度祭政一致天祖以来、固有之皇道、復興被為在、億兆ノ蒼生、報本反始ノ義ヲ重シ、敢テ外誘ニ蠱惑セラレス、方嚮一定、治教浹洽候様、被為遊度思食候、其施為之方、各意見無忌憚、可申出候事

版籍返上之儀、追々衆議被聞食候処、全ク政令一途ニ出ルノ外無之、依而府藩県三治ノ制ヲ以テ、海内統一、可被遊御旨趣ニ付、改而知藩事ニ被任候思食ニ候間、所存無忌憚可申出候事

蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門、直ニ山丹満州ニ接シ、経界粗定トイヘトモ、北部ニ至テハ、中外雑居致候処、是迄官吏之土人ヲ使役スル、甚苛酷ヲ極メ、外国人ハ頗ル愛恤ヲ施シ候ヨリ、土人往々我邦人ヲ怨離シ、彼ヲ尊信スルニ至ル、一旦民苦ヲ救フヲ名トシ、土人ヲ煽動スル者有之時ハ、其禍忽チ箱館、松前ニ延及スルハ、必然ニテ、禍ヲ未然ニ防クハ、方今ノ要務ニ候間、箱館平定之上ハ、速ニ開拓教導等之方法ヲ施設シ、人民繁殖ノ域トナサシメラルベキ儀ニ付、利害得失、各意見無忌憚、可申出候事
○廿二日〈癸巳〉
【二件勅問ノ事】
巳刻、在府諸侯ヘ皇道興復、蝦夷開拓ノ事件ヲ勅問、其儀昨日ノ如シ
未刻、中下大夫、諸官人、上士惣代、諸侯名代重臣、於大広間、議長御下問書読上

輔相ヨリ岩代国巡察使ヘ達書
一、民政ハ治国ノ大本、至重ノ事トス、御一新以来、専ラ億兆其所ヲ得テ、生業勉励候様トノ御趣意ノ所、陸前岩代等ノ地ニ至テハ、去年兵革打続、平定ノ今日ニ至リ御仁恤之御趣意、未タ貫徹セス、万民相危疑シテ、物情騒然タリ、実ニ大政ノ隆替ニ関渉シ、不相済事ニ付、今般巡察使トシテ被遣候ニ付テハ、地方官及ヒ出張諸有司ト戮力協心、専ニ御趣意ヲ奉体シ、風土民俗ヲ熟察シ、撫育ノ道懇切ニ其力ヲ尽シ、能ク民心ヲ得、上下ノ情ヲ貫徹セシムヘキ事
一、判県事以下、即今民政役所在職ノ者、精撰減少ノ事、委任スル所ナリ、宜ク人材適否ヲ熟知シ、冗官ナカラシムベキ事
一、年貢諸上納ハ、先旧貫ニ従ベシ、但シ土地不当ノ石盛、過分之税等ニテ、下民困窮閣カタキ件ハ、篤ト取調ラベ可申出、私ニ租税ヲ免除スベカラザル事
一、鰥寡孤独、廃疾等、無告之窮民、篤ト詮議ノ上、速ニ救助スベシ
但シ、一時賑恤勿論ト雖共、貧民ニ差等アリ、救助ノ道随而不一、兼而三等ニ分チ置、漸次産業ニ基キ、貧民少ナカラシムルノ制ヲ立ヘキ事
一、戦地夫役ヲ勤メ、或ハ死傷シ、或ハ兵燹等ニテ、家産ヲ失フ者、其節一時ノ救助アリト雖トモ、今日ニ至リ困迫ノ者ハ、前条ニ準スベキ事
一、刑律ハ詳細検覈ノ上施行スベシ、苟モ軽忽ノ取計有之時ハ、唯懲悪ニ足ラザルノミナラス、却テ民心携弐ヲ致ス事ニ付、深ク心ヲ用ヒ、処置宜キヲ可致事
一、諸有司ハ素ヨリ、所役人ニ至ル迄、音物贈答最モ厳禁トス、厳密ニ心ヲ着ベキ事
一、前条之外、重大ノ事件ハ、一々可窺出、小事件ニ至テハ、総テ委任スル所ニ付、処置済之上、追而届出ベキ事
右之条々宜相守者也
輔相
○廿三日〈甲午〉
【松前藩戦記】
松前藩届書写
去月九日、昼九半時前、御軍艦乙部村ヘ着岸之処、賊二小隊余、岸上深林ヨリ打出候ニ付弊藩軍事方、松崎多門半小隊引率、直ニ上陸接戦、柳崎村辺迄追払、暫ク休息、厚沢部郷ヘ進ミ、引続長州、福山、大野並弊藩遊撃隊軍事方蠣崎多浪差添、七部坂ヲ上リ、御軍艦駒井政五郎殿之令ニ依リ、半隊ヲ分チ、隊長新井田早苗山道ニ進ミ、蠣崎多浪、副長竹田泰三郎、半隊ヲ分チ、本道ニ進ミ候処、賊土場ノ深林中ニ在リ、賊ハ要地、我ハ難地ニ付先海軍ヲ以テ、深林ヲ打チ、賊見ルヽヲ待チ然後陸軍ヲ進メハ便ナリト、弊藩使番田沢舜道、来リ報候ニ付、駒井政五郎殿ヘ申入、先ツ各藩陸軍ヲ差止置候内、長州、福山ハ進テ土場ニ至リ、半ハ巳ニ渡川ノ時、弊藩モ漸進田沢ヨリ真先ニ進ミ、田沢之台場ヲ乗取リ、生虜分取等有之、八番隊ハ乙部村ニ在陣、奇兵隊半隊ハ熊石村ヘ出張、残リ半隊、糾武隊一番隊半隊、二番一小隊、遊撃隊等、田沢、泊両村ヨリ敗賊ヲ駆逐進軍、夕七時前、遂ニ江刺ヘ繰込候処、長兵既ニ江刺役所ヘ乗入、賊徒敗走、其夜不残官軍江刺ヘ一泊、翌十日暁、弊藩一小隊山道大留村、一小隊半、海浜松前口、一小隊半、木間内口ヘ出兵被命、朝六時出発、沿道進軍、松前口之兵ハ、軽挙暴進、敗賊ヲ追撃、往々生虜分取等有之、夕七時、遂ニ八騎ヲ以テ、賊二百人ニ江良町ニ迫リ、飛檄ヲ以テ、其旨相達候処、総長下国東七郎、亦急遽駆進、後継致候内、賊徒清部茂草之方ヘ逃去候ニ付、江良町村ニ一泊、翌十一日朝、清部村ヲ経、茂草村ニ至テ止ル、夕七半時、根部田村辺迄、賊兵襲来之趣、土人報知ニ付、蠣崎多浪半小隊ヲ引連レ、斥候トシテ罷出、途中トツチヨウ野ニ於テ、果シテ賊ノ夜襲ニ逢ヒ、乃チ防戦ニ及ヒ、一人ヲ飛シテ報知候、夜六半時、総長下国東七郎、札前ヨリ八番遊撃之二小隊ヲ下知シテ、一ハ山上、一ハ海浜ヨリ繰出ス、賊既ニ山野ニ撒兵ヲ以テ、味方半小隊ヲ取囲ミ、短兵接戦ニ付、二小隊ヲ以テ、山手浜手ヨリ邀戦、四時迄奮闘、賊要地ヲ占メ、三面ヨリ挟撃ニ付、頗苦戦、且弾薬乏ク候間、茂草村ヘ引揚、長州徳山ト合併、茂草野山手ニ手負ヲ除クノ外二小隊ヲ以テ、暁迄戦闘之処、弾薬既尽、不得巳長州徳山ト、十二日暁引揚、十三日上ノ国ヘ引揚ケ、熊石ヨリ来進ノ奇兵隊、一小隊ヲ塩吹村ヘ出ス、十四日蠣崎多浪、村山左富兵隊引率、上ノ国ヲ発シ、石崎村ニ宿陣、十五日石崎村出発、小砂子、原口中間ノ山野ニ於テ、筑後兵一小隊、弊藩一小隊、山険ニ依リ陣ス、十六日蠣崎多浪二小隊ヲ原口ヘ繰込ム、参謀三刀屋七郎殿、命令ニ違ヒ候趣ニテ忽兵隊繰返可申ト被達候ニ付、小砂子ヘ帰陣此日、塩吹村ヘ警守ニ出置候一小隊、原口村ヘ至ル、別ニ斥候五人江良町村ニ出ス、賊二人縛取ス、十七日朝二小隊ハ小砂子、一小隊ハ原口出発、札前村ニ於テ、福山城攻入之順序、弊藩二小隊半、筑後一中隊、伊州一中隊津軽一小隊、徳山一中隊、長州一中隊、進ムベシト、参謀衆之令ニ依リ、弊藩一層気力ヲ増シ進軍、就中小砂子出発ノ遊撃隊ハ、根部田ヨリ中ノ岱ヘ登リ、深谷ヲ渉リ、山麓ヲ沿テ、猛激戦闘、遂ニ追崩シ、福山城下ニ突入西ノ城門ヨリ先登、夕七時城郭攻略、東門下ニ陣ヲ構ヘ、潜伏ノ賊ヲ捜索、終夜星ヲ看テ宿陣、翌十八日元町役所ヘ転陣、七時参謀川原晦輔殿達ニテ、福山城当分御預被仰付、夜五時大阪丸入港、弊藩一中隊上陸、十九日昨夜上陸ノ一中隊、福島ヘ出張、廿二日又二小隊、箱館ニ向テ出発、僅一小隊ヲ留テ、福山城ヲ守ル、大野口、木子内口ヘ出張兵隊ハ未タ戦争ノ模様モ不申越候ニ付申越次第、御届可仕旨、江刺在陣之参謀衆ヘ申上置候旨、申越候間、去月十一日ヨリ十七日迄、戦争之節、死傷姓名録相添、御届申上候、以上
五月廿三日
松前勝千代家来 石川七郎

四月十一日、札前野ニ於テ
死 遊撃隊兵士 杉村玄英
同 平野安五郎
同 遠藤駒蔵
八番隊兵士 溝口寛蔵
同 田村粂五郎
奇兵隊兵士 福井佐五六
傷 遊撃隊々長 新井田早苗
同半隊司令士 野坂林作
同兵士 山岡喜八郎
武川市逸
梶原弥学
鈴木兵三郎
川崎松五郎
八番隊兵士 清水金吾
石道宇之作
秋山織次郎
奇兵隊兵士 下国郁太郎
高橋覚三
前田研吾
総長下国東七郎家来 斎藤善太郎
同夜、茂草野ニ於テ
死 遊撃隊兵士 小西浩太郎
田中長作
八番隊軍監 村上温次郎
同兵士 藤田璉蔵
鈴木順蔵
同十七日、立石野ニ於テ
死 遊撃隊兵士 工藤元三郎
傷 遊撃隊副長 竹田泰三郎
同兵士 関根藤六
奇兵隊兵士 西沢駒吉
右之通御座候、以上
五月廿三日
松前勝千代家来 石川七郎
○既ニ刊行スル無号日誌軍艦参謀届書写二巻ハ第五十四号第五十五号ニ挿序ス

太政官日誌・明治2年52号

太政官日誌 明治二年 第五十二号
明治己巳 五月十九日
東京城第十五
○五月十九日〈庚寅〉
【徳山藩、長岡奪還記】
徳山藩届書写追録
昨辰五月十一日ヨリ同十四日迄、越後榎木峠戦争、死傷之内、届落之分
死 無敵剛之進
井上三郎
傷 水津孫兵衛
六月十九日、長岡戦争之節
死 坂井栄太郎
同廿二日、半蔵金並亀貝村ニ於テ
死 下田小太郎
河田源太郎
畠中孫介
作馬友槌
傷 由津定吉
同廿四日、陣ケ峰ニ於テ
傷 冷泉貞次郎
同廿八日、同所
傷 江良和一
七月朔日、西ノ股ニ於テ
傷 桜井辰九郎
同廿二日、赤田山ニ於テ
死 阿川五郎
長岡城恢復概略
弊藩一小隊、長岡落城後、与板領赤田山塁ヲ守衛仕居候処、長岡口、栃尾口進撃ニ付、田ノ口ト申処ヘ、繰込候様、会議所ヨリ指揮有之候間、七月廿三日守場ヲ揚ケ、同夜与板ヘ一泊、翌廿四日長岡ヘ繰込候処、廿五日筒場十二潟、其他之諸口、暁天ヨリ進撃相成候手筈ニ決定仕候間、同日早朝発陣可仕覚悟ニテ宿陣罷在候処、同夜子刻頃ヨリ、筒場、十二潟ニ当リ、大砲小銃共、烈シク砲声相聞、無間処々ニ火ノ手揚リ候ニ付、定テ約束ノ通リ従是進撃放火相成候事ト、相考候、豈図ンヤ彼ヨリ襲来、福島宮下村辺ノ敗報、相聞候ニ付、迅速弊藩一小隊、荒町口ヘ繰出シ、尚別ニ一小隊、足軽町口至極掛念之場所ニ付、繰出置候処、賊既ニ両口ニ迫リ、頻リニ砲戦候得共、何分夜中ノ事ニテ、或田畑ヨリ打出シ又ハ民家ヨリ狙撃シ、前後意外ノ変ニテ、同所婦女子人足等ヲ初、騒動不一方、其上隘路ノ戦争ニテ、動モスレハ腹背ニ敵ヲ受ケ、所詮防禦ノ目途モ無之、殊ニ死傷モ不少候ニ付一歩引揚、勝地ニ依リ、食留可申ト存シ、且戦且退、下条村迄引揚候処、翌廿五日、諸兵隊纏メ次第、恢復相謀候ニ付、一応妙見迄繰込候様、本陣ヨリ申来候ニ付、一小隊ヲ金倉山ヘ上セ、一番小隊、妙見川端ヲ厳重固守ス然処、賊徒追々繰出シ、又対塁数日之中、本藩兵隊、其他諸兵隊、半蔵金其外ヨリ繰込、人数十分相加リ、同廿九日暁天、山手、川手両道ヨリ進撃相決シ、其節川手ノ先鋒、本藩一小隊、弊藩一小隊、又本藩予備一小隊、右三手暗夜ニ乗シ、田間ヘ潜伏致シ居、別ニ本藩散兵ニ布列シ、賊塁ヲ正面ヨリ撃立テ、潜伏ノ三手モ機ニ投シ、不意ニ起リ、賊塁ヲ乗取リ、夫ヨリ十日町賊ノ巣窟ヘ進撃候処、暁眠未醒、賊等大ニ周章敗走ス、我軍勝ニ乗シ直ニ長岡城ヲ囲ム、其節弊藩ハ草生津ノ渡ヲ相固居候賊ト相戦、頗ル苦戦ノ央、川向之諸隊渡来リ、大ニ勢ヲ得、益奮戦、終ニ落城ニ及ヒ、味方益勝ニ乗ジ池島辺迄追撃、日既ニ暮ル、依テ同所ニテ固守ス、右長岡恢復ノ大略ニ御座候、其節死傷左之通
死 藤井向衛
大崎源吾
原新兵衛
北村忠蔵
傷 佐々木熊槌
白井友次郎
吉富次郎
立花隣平
藤野孫四郎
七月廿三日黄昏、柏崎ヨリ乗船、同夜半出帆翌廿四日黎明、佐渡ヘ着港、同夜四時佐渡揚碇、翌廿五日朝、新発田領大夫浜ヘ着艦、即刻揚陸、本道本藩一小隊、薩州一小隊、間道薩州一小隊、弊藩一小隊相進、佐々木村ニテ合併、同夜四時頃新発田城下ヘ着、同廿八日発陣、夕七時頃保田ヘ着、近方敵情探索仕候処、赤坂之要地ニ、賊徒厳重土塁ヲ築立、相固居候趣ニ付、八月朔日朝六時保田出発、赤阪進撃トシテ、本道先鋒弊藩一小隊、徴兵一小隊、薩州一小隊、山手ノ間道、本藩一小隊新発田兵隊、夫々約束ヲ定メ相進ミ、賊塁ニ近寄リ、斥候一伍差出シ、余ハ二分ニ致シ、左右路傍ノ松樹ニ隠レ相進、最早斥候兵ハ、賊塁ヲ距ル五六問、左右ノ兵モ切近相進候処間モナク、賊ヨリ発砲シ、斥候兵即チ之ニ応ス、左右兵直ニ抜刀相迫候処、左右ノ賊塁ヨリ、砲丸雨注、我兵撤兵益奮進、右手ノ賊塁先ツ落去リ候ニ付、左山手ノ賊塁ヲ烈シク撃立候内、漸ク徴兵繰込候ニ付、右ノ内半隊ハ本道ヨリ、半隊ハ左リ山手ニ為進、互ニ進撃ス、四時頃、賊等悉ク敗走致シ候ニ付、赤坂口ヘ繰上ケ候芸州其外ノ兵ヲ以テ、厳重守ヲ置キ、弊藩人数ハ保田ヘ凱陣仕候、猶村松外近辺ノ敵情、相探候処、五泉ヘ賊少々屯集之趣ニ付、同三日朝六時、保田発陣之兵隊、本藩一小隊、薩州二小隊、弊藩一小隊ニテ、五泉ヲ進撃ス、然ニ賊既ニ退去、四時頃ヨリ同所発陣、村松城下屯集ノ賊ヲ掃攘仕候
右八月朔日、津川口赤阪戦争之節、死傷左之通
死 島弥太郎
傷 有光浄徳
傷 村野源之亟
同 小石市介
傷 広瀬弥十郎
同 豊浦隼人
八月朔日、弊藩二小隊、各藩兵隊ト同ク、見附駅ヘ繰込、翌二日本藩一小隊、薩州三小隊松代一小隊、新発田二小隊、弊藩二小隊、加茂口本道ヨリ、月岡村迄繰出ス、折柄大崎渡口ヘ、薩州ヨリ斥候トシテ、一小隊繰出候処賊兵三条駅ヨリ、加茂ヘノ帰路ニ付、敵情相伺候処、大ニ狼狽ノ体ニテ、備モ立兼候様、相見候内、九時頃、賊ヨリ発砲ニ付、薩州、松代、弊藩申合、五十嵐川堤ニ拠リ、戦争ニ及ヒ、弊藩一小隊ハ渡口ヘ繰出シ、別ニ一小隊、川下本城寺村ヘ繰出候処、賊荷物運送ノ路相絶ヘ、弥必死防戦之様子ニテ日暮レ、猶引去リ不申、終夜相戦、翌三日朝六時、西大崎村ヘ引取屯集ス、実ハ加茂駅ヲ根拠ト致シ処々ニ台場ヲ構ヘ居申候、本藩弊藩ハ三条駅ヘ直ニ乗込、種々賊情探索致シ候処、賊大ニ狼狽致シ、弾薬怪我人等残シ置、引取候様子ニ御座候間、本藩ト申合、三条駅外ヘ備ヲ立宿陣罷在候、右二日戦争之節、弊藩杉村良平手負申候、同四日大崎ヨリ弊藩一小隊、新発田一同、山手進撃、薩州ハ本道相進ミ、保田村山手ヘ、賊台場ヲ構ヘ、屯集罷在候ニ付、諸隊進撃、夜ニ入リ賊猶不去、翌五日暁頃、賊漸敗走ニ付、直ニ加茂駅ヘ人数繰込、其侭同所ヘ滞陣罷在候
同廿二日ヨリ廿五日迄、於津川対塁中
死 河津八郎
松田新兵衛
傷 岩崎喜代之助
富田幾太郎
同廿八日、柳津戦争之節
傷 豊島儀八
九月四日、会津領、立ノ原戦争之節
傷 友田太郎
中村隣平
百合野賢二
同十日、会津領、荒町ニテ戦争之節
傷 水沢孫兵衛
同十三日、於若松城下
傷 渡辺金次郎
同十四日、日光街道押出シ、若松城西、諏訪社ノ賊進撃ニ付、北陸道官軍、本藩四小隊弊藩二小隊、新寺ノ守ヲ引受、固守罷在候処翌十五日、城南山手青木村ヘ賊屯集、高田ヨリ城内ヘ、運送之便ヲ取候ニ付、薩州、佐土原等ノ兵隊ニテ、青木村之賊掃攘シ、城ヨリ高田ノ往来ヲ断切候間、新寺ヨリ応援ノ兵、差出置呉候様、薩州ヨリ申来候、其節本藩一小隊、弊藩二小隊、都合三小隊、中野村ヘ繰出シ、薩藩川南某ヘ対面、模様聞合候処、青木村ニハ格別賊居リ不申候由ニ付、兵隊ハ中野村ヘ纏メ置、私共一同地利研究之為メ、彼是奔走之内、俄ニ鯨波ヲ揚ケ、砲声烈敷、相聞候ニ付、迅速馳付候処、賊ヨリ襲来ニ因テ薩州、佐土原ヘ一同、激敷救応ス、賊一旦潰敗シテ、又復川土手ヲ楯トシテ、厳敷防戦ニ付、如何之模様ニ候哉、山手薩州、佐士原等之人数引揚候間、三面敵ヲ受ケ、玉薬之運送モ絶ヘ、不得已四町許、隔チ候村ヘ繰引為仕候処、賊勢益熾ニ付、弥必死防戦仕候得共、賊勢猶不屈、頗ル猛烈押来候ニ付、士卒一同抜刀切込候処、賊少敷辟易仕候間、我軍四五間村ヲ外レ、地利ニ拠リ守備仕候処、賊兵抜刀ニテ又寄セ来リ、転戦防禦致シ候得共、味方殆ント危シ、最早必死ノ場所ト覚悟シ、切込、賊五六人ヲ斃候処漸散乱致シ候ニ付、日暮ヲ待チ、元ノ守場ヘ引揚、固守仕候、其節死傷左之通
死 下田恂介
水野清蔵
関中力平
原吉太郎
渋谷虎吉
傷 吉城要蔵
東雲三蔵
西川勇吉
吉田栄蔵
江本六郎
片野喜次郎
胡桃田喜介
広瀬弥十郎
松林十吉
広石勝蔵
河野新蔵
斎藤常太郎
阪戸新蔵
吉田股一郎
小使正吉
九月十八日、於若松城下
死 倉光新吉
枝川定吉
傷 荒木常次郎
右之外、処々戦争ニ相加リ、或ハ対塁之撃合ヒ等ハ、数度有之候得共、戦闘中繁擾ニテ、逐一細録不得仕候、唯死傷ヲ記置候概略而己御届奉申上候、以上
辰十一月
福原往弥
品川省吾
梶山鼎介
右之通御座候間、此段御届奉申上候、以上
五月 毛利左京亮家来 内藤良造