太政官日誌・明治2年76号

太政官日誌 明治二年 第七十六号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十九
○六月三十日〈庚午〉

軍務官箱館征討合記第七〈追録〉
徳山藩届書写
四月十一日夜ヨリ十二日暁迄、蝦夷赤神、両垂石両所ニ於テ戦フ、遂ニ不利、死傷如左
死 兵士 佐伯三保三
戸倉太一郎
秋元喜一郎
池田満之進
小者 権吉
傷 嚮導 朝日宮次郎
松島景三
兵士 岡村初衛
藤川駒之允
石田三寿蔵
田原進
竹広耕作
小者 万太郎
同十七日、折戸台場ニ於テ戦ヒ、我兵大ニ利ヲ得テ、松前城ニ突入ス、死傷如左
死 兵士 瀬来道次郎
傷 川島善之亟
同廿四日薄暮、二股台場攻撃、遂ニ利ナシ、五月八日朝、賊徒大川村台場ヘ襲来、我兵能ク戦ヒ、大ニ利ヲ得ル、死傷如左
死 参謀 林与
兵士 島田卓熊
宇田新三郎
傷 嚮導 岡澄江
兵士 野村堅司
同十一日暁、箱館ヲ襲ヒ、三度戦ヒ、皆利ヲ得タリ、死傷如左
死 兵士 中村寛三郎
傷 長官 寺田三郎
兵士 河原猛次郎
田中清蔵
橋本勝蔵
同日朝神山台場ヲ襲ヒ、大ニ利ヲ得ル、死傷如左
死 兵士 古志蔵人
傷 棟居友雄
山田剛蔵
岡幾三郎
大沢太五郎
分捕左之通
小銃七十挺
タス六十六
弾薬少々
右函館ニ於テ分捕仕候、折戸ニ於テ分捕之品委細書附ヲ以テ、松前会議所ヘ御届申上候也
五月
徳山藩
大野藩届書写
四月四日、津軽青森ニ於テ松前口先鋒被命、同五日十二字弊藩兵隊、マンシー艦ヘ乗組、同六日同所開帆、同八日迄平館ニ碇泊、同日午刻後同所出帆、翌九日朝九字過乙部村ヘ着艦、兼テ御達ノ順序ニテ、松前藩上陸、引続弊藩兵隊上陸ノ半途、海岸通リ賊徒潜居罷在松前兵隊ト戦争相始リ、頻ニ砲声相聞候ニ付水夫ヲ急ガセ直ニ上陸、松前兵申合、弊藩半隊ヲ以テ、裏手山道ヨリ進撃ニ及ヒ候処、賊徒忽敗走シ、柳田村渡船場ノ綱ヲ断切、此村ニテ致防戦居候、其内各藩兵隊上陸仕、追々川場迄繰込ニ相成、監軍方指揮ニ依テ、福山一中隊、弊藩一中隊ハ、一里許川上ヨリ渡川福山藩ハ山道ヨリ、弊藩ハ川添柳田村ヘ押寄候処、賊徒逃去候ニ付、差急江差ノ方ヘ繰込候処、最早賊徒引退候ニ付、同所ニ宿陣相固罷在候
同十日御達ニ付、大留村口ヘ進軍仕候処、間道通路難相成候得共、上ノ国村ニテ御指図ヲ相待、翌十一日福山一中隊、松前一小隊、津軽一中隊、弊藩一中隊、湯ノ岱前後ノ村々ニ宿陣、同十二日津軽藩ハ最早篠小屋ト申所迄相進、今朝賊徒ト手合セ致候趣ニ付、早々繰出候様御達ニ付、同日十一字湯ノ岱村ヨリ、同所迄兵隊繰込宿陣仕候
同十三日御達ニテ、暁十二字一番津軽一中隊二番弊藩一中隊、三番松前一小隊、四番福山一中隊、木古内村ヘ進撃之途中、兼テ哨知有之候山上之野堡ヨリ、大小砲ニテ烈敷致砲発候ニ付、弘前兵直様答砲、弊藩兵隊ハ弘前兵ノ背後ヨリ、急歩前進堡下ニ向ヒ、三字三十分ヨリ六字迄、厳敷砲撃致シ候処、賊徒平地ノ野堡ヨリ、発砲致候得共、聊モ不屈、猶相進終ニ山腹迄押寄候処、賊徒処々ノ野堡ニ拠リ頻ニ打立、且霧深ニテ聢ト見分カタク、味方ノ応援モ無之、頗苦戦罷在候内、一先引揚候様御指図ニ付、乍残念繰打ニテ、開発村迄引揚申候、然処此辺地勢不宜候間、湯ノ岱村迄惣軍引揚候様、御指図ニ付、同村手前中沢村迄引取申候、其節死傷如左
死 一番隊中 岡鍛
二番隊中 渡辺忠三
山本太三郎
傷 木村和介
伊藤作四郎
関口賢治
四月十九日、今朝各藩兵隊笹小屋迄繰込、翌二十日暁第三字同所進軍、昨夜御達之通、福山一中隊、備前大砲隊、弊藩一中隊、中道通相進候処、山手野堡ニテ戦争相始候ニ付、弊藩一番隊直ニ山上ヘ走登リ、薩州藩、福山藩ト合併打立候処賊徒大ニ敗走、札狩村迄追討二番小隊ハ木古内村迄打入候処、尻内村ニ屯集ノ賊徒襲来ノ姿ニ付、備前砲隊ト合併、尻打口ヲ相固メ申候、且泉沢村迄逃去候賊徒共裏手之山道ヨリ、木古内村ヲ夾撃候様子ニ付札狩村迄進撃之兵隊、一ト先引揚、且弊藩一中隊ハ山上ノ野塁ヲ相固メ候様、御達有之、各藩兵隊モ夫々分配致シ候得共、弥夾襲之勢相見ヘ、加之山手間道ヲ断切候モ難計ニ付、一ト先稲尾峠迄引揚候、同廿二日総軍木古内村ヘ繰込、同所ニ宿陣仕候、其節分捕如左
弾薬一箱
短ミニー銃一挺
銃槍三本
七連銃弾薬一箱
シナイテル銃弾薬百箇計
櫃書類入 一荷
四月廿八日泉沢村ニ宿陣、於同所会議所ヨリ明廿九日暁、当別村ヘ相揃、賊徒追討之旨、御達有之、同夜十一字泉沢村進軍、当別村ヘ参着、翌廿九日暁四字、昨日兵賦之通、松前一中隊、弘前一中隊、弊藩一中隊、長州一中隊、松前臼砲一門、海手ヨリ相進候処、茂辺地村岡上ノ堡ニ賊兵相見ヘ候ニ付、松前藩ハ同村手前岡上ヨリ相進、弘前藩幷弊藩ノ兵隊急歩ニテ同村ヘ駈込、直ニ野塁ヲ見掛ケ駈躋リ、弊藩ニテ右野堡ヲ乗取、夫ヨリ弘前藩幷弊藩共、兵隊ヲ散布シ相進候処、山上山下ノ野塁ヨリ、賊兵大小銃ヲ以テ、烈敷致発砲候ニ付、是ヨリモ厳敷進撃候内、各藩兵隊追々進入、終ニ山下ノ塁ヲ乗取、弊藩直ニ山上中腹ノ塁ニ打向ヒ相進候処、右野塁ヨリ頻ニ打立、死傷多ク有之候得共、益奮戦、終ニ右野塁ヲモ乗取リ、依之賊徒大ニ散乱、堡砦ヲ棄テ逃去候ニ付、総軍山上ヨリ海岸迄散漫、尾撃シテ、富川村野堡ヘ押寄候処、賊兵暫時相拒候得共、不能支シテ敗走、有川村迄追撃仕候、其節死傷分捕如左
死 二番隊中 広木沼左衛門
傷 小隊司令官 堀寛
半隊司令 田村謙蔵
伍長 長岡戒三
小早川釜三郎
高野大助
一番隊中 〈後ニ死ス〉寺田竹次郎
同上 長瀬嘉和太
同上 鷹見政雄
同上 吉田留五郎
溝口恭太郎
宇野作次郎
田村万次郎
平尾金太
田島銀次郎
井上甚太郎
富永栄八郎
服部六郎
二番隊中 〈後ニ死ス〉和田実之助
野沢林兵衛
分捕品
日ノ丸大隊旗一流
弾薬箱〈雷管入ル〉一箇
四斤砲弾薬三箱
馬具三通リ
糧米四十俵
梅干二樽
ミニーヘル五挺
草鞋三千足
大砲車台一ツ
刀二本
銃槍十四本
弾薬庫一戸
五月十一日、昨夕御達之通、暁三字後七重浜村進軍、浜手本道一番水戸一中隊、二番弘前一中隊、三番弊藩一中隊、四番薩州半小隊臼砲二門、撒兵ニ敷キ相進候処、山手並海岸共数ケ所ニ塁ヲ築キ、数刻致防戦候得共、味方大小砲ヲ以テ頻ニ打立候ニ付、浜手ノ賊兵敗走、亀田村マテ追撃、然処山手ノ方ハ賊高所ヨリ大小砲ヲ以テ打下シ、且山下ニモ散漫致シ居、大ニ苦戦ニ付、弊藩一中隊猶又山下賊兵ノ側面ヘ相進、烈敷打立候処、賊敗走、既追撃可致頃ニ至リ、浜手通散乱ノ賊兵、弊藩兵隊ノ側面ヘ相廻リ、致発砲候ニ付、直ニ方向ヲ換ヘ、此賊ヲ打挫キ、再ヒ亀田村向迄追退ケ、弘前兵隊ト同村ヲ相固申候、其節手負如左
深手 小隊司令 多湖半弥
半隊司令 堀多膳
一番隊中 大生清記
浅手 一番隊中 山崎保之介
松田一作
有吉栄助
二番隊中 野尻孫吉
五月十六日、昨夕御達ノ通、亀田村津軽元陣屋攻撃ニ付、暁二字、同村ヘ弘前一中隊半、弊藩一中隊、長州一小隊、薩州砲二門、相揃候処、無程大小砲声相聞、既ニ桔梗野口ヨリ進撃相成候ニ付、監軍方指揮ニ依テ、陣屋表ヘ相進候内、賊兵不能禦、陣屋ヲ棄テ逃去、続テ各藩兵隊ヲ繰込、暫時胸壁ヲ相固メ、猶又御指揮ニ依テ、五稜郭口中道通相固申候、同十八日、降伏ノ賊徒各藩ヘ御分配、箱館迄護送被命候、其数ノ内二百人ハ弘前一中隊、弊藩一中隊ニテ、会津元陣屋迄警衛相送申候此段御届申上候、以上
五月
大野藩隊長 中村雅之進

太政官日誌・明治2年75号

太政官日誌 明治二年 第七十五号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十八
○六月三十日〈庚午〉

軍務官箱館征討合記第六〈追録〉
柳川藩届書
去十七日朝十字頃、江良町宿ヘ賊屯集罷在候ニ付、弊藩一小隊、長州藩合併ニテ進軍仕候処、海軍ヨリモ砲発致シ、賊徒敗走、終ニ札前村迄追討仕、於同村暫時休兵、一字頃ヨリ諸藩一同、進軍仕候処、立石村ト申処ヘ、賊台場ヲ構ヘ、厳ニ防禦致シ候ニ付、長藩合併ニテ、弊藩一中隊二手ニ分ケ、一手ハ台場ノ正面ニ向ヒ、一手ハ左手ノ山上ニ攀登リ候処賊亦厳シク発砲致シ、頻ニ激戦ニ及ヒ、終ニ賊徒追下シ、直ニ松前城搦手ヨリ、伊州藩一同乗込申候、当日討死手負、左之通御座候
死 参謀 佐々金平
深手 斥候 曽我静軒
吉村百助隊 大藪良太郎
岡本重太郎隊 小西順蔵
右之段於松前、御届仕候趣申越候ニ付、尚亦御届申上候、以上
四月
筑後藩 堀江但馬

五月十一日、箱館表ヘ急襲、中央ヨリ進撃候様御達ニ付、十日夜十字頃、豊安丸ヘ乗込、翌十一日早天、観音山麓ヨリ揚陸、直ニ絶頂迄馳登リ、一小隊ハ浜手一本木ノ方ヘ相進候処、大森浜ニ当リ、砲声相聞ヘ候ニ付、其方ヘ進軍、中途ニテ各藩合併相進、正面ヨリ砲撃仕候処、賊不支敗走致シ候間、其侭同所ヘ屯集仕、尚亦各藩合併弁天崎台場ヘ攻撃、頻ニ発砲仕候エ共、頗ル要地、殊ニ賊必死ヲ極メ防戦、更ニ敗色相顕レ不申、然ル処薄暮相成候ニ付、薩州、伊州共ニ合併台場取囲ミ、其夜ヨリ十三日迄、昼夜折々戦争、其後砲声相止、終ニ賊徒降伏仕候、其節藩弊手負並分捕之品、左之通ニ御座候
深手 吉村百助隊 大藪良太郎
安達善太
太石勘次
浅手 北島茂太郎
林田瀬兵衛隊 余語次吉
川野市次
臼砲一門
ヱンヒル十八挺
刀一本
右之通御座候間、此段御届申上候、以上
五月
筑後藩 吉村百助
堀江但馬
福山藩届書写
四月九日、弊藩三中隊乙部村上陸、一番中隊ハ厚沢口ヘ、二番中隊ハ江差口ヘ進ミ、三番中隊ハ乙部村ニ残居候様、御達相成、厚沢口ヘ進軍仕候二中隊、同十二日稲倉石ヘ着、同十三日各藩ト共ニ進軍、三道ヨリ下ノ二股台場ヲ攻撃仕候処、勝利ニ付、直ニ追撃、山嶺ノ砲台ヲ終夜攻撃ニ及ヒ、一先稲倉石迄引揚申候、其後廿三日迄戦争無之、廿三日薄暮ヨリ、三番中隊各藩ト共ニ、前日ノ砲台ヘ進撃翌廿四日夜半過迄打合、勝敗不決、遂ニ上ノ二股迄引揚、本月二日迄各藩交代、番兵相勤候、賊廿九日矢不来ノ敗ヲ聞テ、朔日夜半二股砲台ヲ棄去候ニ付、同二日夕、諸兵進テ大野村ニ至リ、一番中隊ハ七重村ヘ出張、同三日峠下村ヘ繰込、夫ヨリ軍川辺ノ番兵相勤、三番中隊ハ同日千代田ヘ出張、同十一日亀田浜ヘ進軍、十五日迄戦争無之、翌十六日元津軽陣屋攻撃ノ御達有之、三字陣屋正面ヘ押寄本門ヨリ切込、暫時ニ攻落シ、賊数多打捨申候、同十八日賊徒降伏ニ付、五稜郭ノ賊ヲ函館ヘ護送仕、同所ニ屯営罷在候、江差口ヘ進軍仕候二番中隊ハ、十日木古内ヘ進軍候様御達ニ付、トカフ村迄進ミ、同十二日笹小屋迄繰込、翌十三日一字進軍、砲台並本道ヘ進撃ノ処、戦不利ニシテ各藩ト共ニ、湯ノ岱村迄引揚申候、同十九日再ヒ笹小屋迄進軍、砲台進撃ノ御達ニ付、翌廿日暁一字各藩ト共ニ三道ヨリ進軍、弊藩ハ中道ヨリ進ミ、砲台ヘ取掛候処、山ノ手ヨリ進ミ候薩藩、既ニ砲台ヲ撃破候ニ付、共ニ敗賊ヲ追撃、木古内ヘ衝入札刈マテ追詰候、此日地内村ノ賊再ヒ大挙シテ左右ヨリ相逼リ候ニ付、一先山上ヘ兵ヲ引揚、尚亦号砲ニテ諸勢峠マテ引取候処、木古内再入ノ賊、其夜当別村マテ引揚候趣ニ付、廿二日再ヒ木古内ヘ進軍、夫ヨリ泉沢迄繰込候、同廿八日矢不来ノ台場進撃之御達ニ付、翌廿九日三字当別村ヘ相揃、各藩三道ヨリ進軍、富川山上ノ砲台ヲ攻撃、勝利ニシテ有川マテ追撃、同所ヘ宿陣、所所斥候巡邏等相勤五月十八日迄峠下村ニ屯営、本地平定ニ付、翌十九日有川マテ引揚申候、四番中隊ハ四月十六日江差ヘ揚陸、十七日安野呂口ヘ進ミ、同廿四日新道切開キ、本月四日落部村ヘ進軍八日七重村ヘ進ミ、同十一日海陸三道ヨリ攻撃ニ付、赤川口ヘ進軍候様御達ニ付、暁三字ヨリ神山村ヘ相進ミ、山上ノ砲台ヲ攻撃、一小隊ハ権現堂口ノ胸壁ヲ攻撃候処、九字過賊引色ニ相成候ニ付、直ニ乗入進撃仕候、其夜ヨリ同所屯営仕罷在候処、本地平定ニ付、十九日有川村ヘ引揚申候
右ハ三口戦争ノ概略ニ御座候、尤各藩ト合併仕候儀モ御座候エ共、其藩々ヨリ御届可仕儀ト奉存候、此段御届申上候、其節死傷左之通ニ御座候
四月十三日、於二股口
死 一番中隊兵士 川崎克之助
傷 佐原宗太郎
吉田弼
同月同日、於木古内口
死 二番中隊兵士 西原未次郎
傷 井本徳次郎
中島鶴大
同吹手 馬屋原新太郎
同月廿日
死 三上三蔵
同月廿四日
死 三番中隊兵士 小田休之助
高橋茂
傷 後死 中村富之助
藤沼源吾
斎藤弥兵衛
箱田七右衛門
浅見亦平
佐藤嘉右衛門
橋本長次郎
小島武三郎
柏原精一
塩田幾衛
波多野誠之助
山上歓之助
同月廿九日
死 半隊長 岡村昌之助
傷 二番中隊兵士 森陽之助
阿部鍉吉
五月十一日、於赤川口
死 四番中隊兵士 大出忠太郎
傷 金沢周之助
五月十六日、於元津軽陣屋
死 半隊長 大瀬斉
傷 軍監 青木勘右衛門
中隊長 岩野猪太郎
三番中隊兵士 佐藤定次郎
岩田済
木村利吉
後藤市助
小林仲之助
原好之助
中木初右衛門
村田栄作
児島豊治
右之通御座候、以上
五月
阿部主計頭内 岡田伊右衛門
弘前藩届書写
去月十三日、木古内口ヘ弊藩一中隊先鋒、大野、松前、福山諸藩、暁第一字ヨリ攻撃、勝利ヲ不決、第八字各藩引揚申候、同日手負左之通
浅手 笹権六郎隊 当麻武右衛門
同十七日、松前城攻撃ノ節、弊藩半小隊柳川徳山兵隊ト共ニ、御櫛山ヲ乗取申候、同十三日鶉越口、下二股ニ於テ、弊藩一中隊夜十一字長州福山二藩ト交代、賊ト終夜銃戦、翌廿四日賊徒各藩ノ合章ヲ偽リ、谷間ヨリ不意ニ突出、一旦披靡頗ル苦戦ニ及ヒ候エ共、抜刀接戦、追々守返シ追払申候、同日撃取幷手負左之通
首一級 米橋左太夫隊 武田虎彦
乳井直太郎
石嚮良蔵
深手 米橋左太夫隊 石山増三郎
手塚徳三郎
吉村悠弥
岩淵徳之進
白取直之進
三浦次郎右衛門
平沢与吉
浅手 広田平作
小友健三郎
浅利万之助隊 林栄作
同廿九日、茂辺地屯集ノ賊徒攻撃ノ節、海手弊藩一中隊、正面一中隊、預備一中隊、暁第三字当別村ニ相揃、第四字各藩順次進軍、海手弊藩平沢定之助、中山覚蔵一中隊、邱林ヲ攀登、直ニ天神林ニ向テ平原ヘ散布攻撃ス、第八字比天神林並胸壁二ケ所、矢不来台場一ケ所乗取申候、其節死傷左之通
深手 隊長 木村杢之助
小隊司令士 中山覚蔵
中山覚蔵隊 大森豊三郎
帰営ノ後死 島村亀吉
対島忠蔵
伊崎小作
木村初弥
平沢定之助隊 田中左馬吉
工藤勇馬
斎藤百次郎
野添七三郎
伊藤銀吾
浅手 八木沢文右衛門
葛西文次郎
斥候 大沢直四郎
成田省吾
正面ノ弊藩笹権六郎、石山真太郎一中隊、山之手ヘ相登候処、賊山上砲台ヨリ頻ニ連発、砲声甚激烈ニ候エ共、各藩共ニ憤戦、一斉ニ相進ミ、賊徒台場ヲ棄テ遁ル、其節山手之砲台一ケ所石山真太郎乗取申候、其節死傷左ニ
討死 斥候 藤田虎之助
深手 笹権六郎手半隊司令士 成田捨蔵
同隊帰営ノ後死 神勇蔵
太田忠兵衛
木村志馬之助
角田邦太郎
石山真太郎手嚮導 鳴海鉄九郎
相馬小十郎
羽賀貞助
参軍 棟方常次郎
浅手 木崎勇
建部初太郎
預備高杉左膳小山内織部一中隊ハ、新手ヲ以追討可致旨、参謀太田黒亥和太殿差図ニ因テ即刻相進、小山内織部一小隊ハ迅速富川村ニ至リ、暫時味方ヲ待合候処、賊徒逆寄ニ付、撒布防戦、賊勢引退候間、尾撃シテ薩州一分隊ト共ニ、直ニ有川村ニ進入ス、賊徒村端踏止リ候エ共奮進、遂ニ追払有川村ヲ乗取申候其節弊藩手負左ニ
深手 小山織部手半隊司令士 小友千賀之助
本月十一日、函館急襲之御達有之、弊藩平沢定之助、田井市之亟一中隊、前夜第九字飛竜艦ヘ乗船、暁第三字比箱館山背泊ヘ着、朝五字揚陸、海岸通ゟ山背泊稲荷堂前ヘ相進、各藩一斉弁天岬台場屯集之賊ヲ攻撃候エ共、砲台嶮塁賊厳シク防戦、速ニ乗取見込無之ニ付市中潜伏ノ賊徒先撃払、応援ヲ相絶ノ心得ニテ、一本木関門迄相進候処、第十二字比、弊藩旧陣屋屯集之賊、大砲発射、忽二中隊余大森浜ヘ襲来ニ付、一中隊ヲ以之ニ当リ、防戦ノ処、長州藩応援トシテ相共ニ攻撃、中ノ橋程近ク進候エ共、味方不得地勢候間、長州藩談合セ引揚申候、午後三字賊兵再襲来ニ付、長州、伊州、松前藩ト共ニ進テ攻撃致シ候処賊兵引去ニ付、味方モ一本樹柵際迄引揚申候其節死傷左ニ
深手 帰営後死 工藤末吉
田井市之亟隊 阿保左一郎
浅手 斥候 小林朝五郎
平沢定之助隊 神春弥
工藤良之助
岡民之助
同日、亀田口弊藩笹権六郎石山真太郎一中隊先鋒ニテ、暁第三字七重浜ヨリ進軍御差図ニ因テ、中隊ノ内ヨリ斥候隊差出シ、引続進撃早晨七重浜先胸壁幷亀田新道台場トモ乗取、猶各藩一斉撃戦候エ共、桔梗野口幷山手賊徒モ台場手厚防禦致居候ニ付、猶本道深ク相進不申様御差図ニ付、此所数刻撃合、第十一字比山手中央ノ味方相進候ニ付、俄ニ本道奮進攻撃致シ候処、賊徒敗走、亀田村迄尾撃致シ候、其節手負左ニ
深手 笹権六郎隊 小山又之助
今寿三郎
三上恒之助
浅手 七戸亀吉
弾薬方 早川定蔵
石山真太郎隊 相馬貞太郎
同日、桔梗野口弊藩高杉左膳、小山内織部一中隊先鋒ニテ、暁二字三十分七重浜ヲ進発、天明桔梗野ヘ着、賊ノ胸壁正面ヘ向テ撒布、松前、長州、薩州等諸隊、左右ヘ布陣ス、第五字廿分ヨリ九字三十分迄、攻撃之処、味方弾薬乏シク、砲声次第ニ打絶又、加之足場甚悪シク、賊ハ胸壁ニ因リ、弾丸雨注追々死傷モ打重リ候間、弊藩一中隊決死ノ覚悟ニテ、抜刀奮戦、直チニ胸壁ニ斬入候処、賊勢畏懼逃走、追詰三人ヲ斬、台場胸壁悉ク乗取申候第十字廿五分直ニ亀田村ヘ相進、本道ノ兵ト相合シ申候、其節死傷左ニ
戦死 小隊司令士 高杉左膳
高杉左膳隊 若林栄八
小山内織部嚮導 諏訪久吉
中田勝之亟
佐藤純吉
斎藤東八
須藤万之助
深手 高杉左膳隊嚮導 羽賀市之亟
石郷岡運吉
川村幸吉
佐藤要馬
小山内織部斥候 小笠原重次郎
同隊 青木惣次郎
藤田善助
太田巳之吉
浅手 兼平礼蔵
中村直太郎
原子多作
午後第三字右一中隊ノ内、半隊宛ヲ以、箱館口ヘ大斥候ニ出候処、弊藩旧陣屋ヨリ賊勢二百人余押寄候ニ付、同口之長州藩ヨリ応援之儀示談ニ預リ、直ニ撒布攻撃之処、賊勢引去候エ共、味方地勢不宜、第三字引揚申候、其節死傷左ニ
戦死 軍監岩田平吉手人 三浦銀弥
深手 小山内織部隊 高杉良作
同日藤山村出張弊藩兵隊、朝六字大川村進発大砲隊司令士神豊三郎臼砲一門ヲ以、赤川村本道、左ノ山上ヘ登リ、福山藩ヘ応援攻撃ス第十字比賊徒台場ヲ棄テ逃走致シ候、対馬官左衛門、喜多村弥平次一中隊ハ、亀田野ト上山村トヘ分進攻撃、長州砲隊応援ス、賊之弾丸雨注ノ間ヲ進テ、戦闘線ヲ詰申候、第一字比監軍ノ差図ニテ各藩ニ休息、三字比各藩一斉攻撃、夕六字マテ相戦ヒ、上山村マテ揚取申候、其節死傷左ニ
戦死 坂本友弥
対馬官左衛門隊 高杉権六郎
浅手 一戸竜太郎
喜多村弥平治隊 石戸谷沢太郎
石郷岡仙之進
小者 大助
同十六日弊藩旧陣屋攻撃之節、亀田口幷箱館口ヨリ相進候弊藩三中隊、暁第三字進撃候得共、賊兵忽チ逃走、平沢定之助一小隊ハ先鋒諸隊ニ引続、陣屋ヲ乗取申候、其節戦死左ニ
戦死 喇叭手 竹中範平
右之通ニ御座候、此段御届申上候、以上
五月
津軽藩惣隊長 杉山上総

太政官日誌・明治2年74号

太政官日誌 明治二年 第七十四号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十七
六月三十日〈庚午〉

軍務官函館征討合記第五〈追録〉
岡山藩届書写
四月廿五日、上二股ヘ引揚候様御達ニ付、晩四字同所着陣、其後五月朔日迄、同所ニ野陣罷在、廻番等相勤申候、同日晩四字御達ニ付直ニ雷発、同所出張、弊藩兵隊ト合併、其後同様進退仕候、同廿四日晩十字、弊藩兵隊一小隊半、二股迄出張可致旨、御達ニ付、同夜十二字江差表雷発、翌廿五日昼三字、上二股ヘ着陣、暫時休憇、五字中二股迄出張可致旨被申付、直ニ雷発、六字三点同所ヘ到着仕、五月朔日迄、賊接近之台場ヘ、各藩交番守衛相勤、同日十二字、賊塁ヲ捨脱走之由、土民ヨリ注進ニ付、弊藩幷薩水両藩合併、大斥候被申付、直ニ雷発、所々台場打攻、晩六字一ノ渡村迄進軍、同所ヘ宿陣、夕番兵巡邏等相勤、同二日大川村マテ出張被申付、先鋒弊藩一小隊半、徳山一中隊幷薩長砲隊、十一字大川村ヘ着陣、暫時休憩、其節兼而先進ノ弊藩兵隊ト合併、已後進退同様仕候、一字御達有之、弊藩一中隊、長藩一中隊、赤川村迄、為大斥候出張可致旨被申付、直ニ雷発、石川村マテ進軍致候処、賊之斥候ト出合、互ニ発砲、賊直ニ逃去申候ニ付、同所山手ヘ、長藩相固メ、本道ハ弊藩ニテ守衛致候、八字薩州福山両藩ト交代引上申候、同所ニテ昼夜交番巡邏番兵相勤、同三日大川村迄、斥候出張可致旨被申付、七字同所ヘ進軍、昼三字引揚之御達ニ付、七重村迄引取、尚又大野村迄引揚此夜巡邏番兵等相勤、同四日七重村ヘ出張被申付、同七日巡邏番兵相勤、同日二字大川村山手台場、筑後藩ト交代可致旨御達ニ付直ニ出張、台場二ケ所守衛、同所山中央ヨリ本道浜手長藩守衛、同八日四字頃賊襲来、本道浜手ニ於テ発砲、戦争相始ル

山手ヨリモ賊勢凡一大隊計リ襲来、互ニ発砲致候得共、地形悪シク、対陣迄ニテ白眼合居候内、本道大勝利、賊潰走、山上之賊モ共ニ敗走致候ニ付、中央之長藩ト合併、直ニ追討致候得共、賊早足ニ逃失候ニ付、遂ニ討コト不能、本道之兵モ追討意之侭ニテ、最早引揚之様相見候ニ付元台場マテ九字三点引取申候、同十日七重村会議所ヘ御呼出ニテ、明暁三字山下本道ヘ整列、海陸進撃之御達有之、尤台場ハ筑後藩ヘ相渡候様被申付、同十一日暁三字本道ヘ整列山道ヨリ進撃可致旨被申付、直ニ雷発、先鋒弊藩一中隊、徳山藩一中隊、長藩臼砲二門、進軍之処、赤川村山手台場ヘ賊相見ヘ候ニ付直ニ撒隊ニテ進撃発砲致候処、賊不応敗走、一二之台場乗取申候、夫ヨリ五字、神山村新五稜郭ト唱候台場之北山手ヨリ、弊藩一小隊進撃致候処、賊大小砲厳敷打立、其上東ノ山手ヘ撒隊相廻シ、挟撃之勢ニ相成候ニ付、徳山藩半隊合併、殆苦戦ニ及居候処、本道進撃之福山藩一小隊、戮力攻撃致候中、尚又本道之兵長藩権現台場ヲ乗取、直ニ賊之跡ヲ絶之勢相見候ニ付、賊郭ヲ保事不能、六字三点遂ニ潰走、弊藩幷徳山藩、福山藩右両藩ト同時ニ乗取申候、其節弊藩死傷左之通ニ御座候
死 精鋭隊士 隠岐賢太郎
青木鉉次郎
九番小隊 小坂友右衛門
傷 精鋭隊士 橋本新五郎
蜂谷勝太夫
鼓手 香河義一郎
三番小隊 島村磯右衛門
中山寿太郎
四番小隊 片岡新次郎
六番小隊 安藤滝右衛門
其後新五稜郭守衛被申付、徳山藩同様相勤、尤弊藩ニハ神山権現台場共守衛仕候、同十三日朝三字、同所台場ヘ賊兵隊之頭吉沢勇四郎ト云者、降伏罷出候ニ付、早速召捕一応吟味之上、赤川村会議所ヘ差出申候、同十四日夜十一字、同台場先ヘ賊二人降伏、謝罪状持参之上、湯川村ヨリ罷越候旨申ニ付、実効相顕候様申聞候処、早速一人罷帰リ、翌十五日朝七字銃器幷大小共持参、其節降伏人員、器械等、左之通御座候
砲兵隊九十六人
見国隊二十六人
衝鋒隊百三十六人
小銃二百二十挺
大小百十八本
銅卵二百十五
サーペル十九挺
右之通相改、赤川村会議所ヘ差出申候、同日十字五稜郭砲撃ニ付、福山、弘前両藩砲隊、為護衛兵、弊藩一小隊幷徳山藩一小隊差出候様御達ニ付、直雷発、鍛冶村迄進軍、砲撃致候得共、賊不応ニ付、二字打止申候、其後斥候衆差図ニテ、弊藩一小隊五稜郭近傍迄、為狙撃進軍、発砲致候処、郭内ヨリモ三四発相応シ、其侭打止候ニ付引上申候、同十六日朝十一字、権現台場ヘ降伏人罷越幷持参之銃器大小等、左之通御座候
衝鋒隊差図役 石川勇
神尾大七
士官 友部鈴三郎
内田辰五郎
坂本友衛
岩永健次郎
佐野佐一郎
俗事方 有賀茂
佐々木直次郎
岩山藤一郎
額兵隊八人
陸軍隊九人
衝鋒隊三十四人
伝習士官隊十三人
一聯隊一人
小銃三挺
大小四十二本
右之通相改、赤川村会議所ヘ指出申候
函館府本牢番 賊砲兵隊会計方 樋口善次郎
右之者、去十四日晩四字、権現台場先、百姓体ニテ微行致候段、土民ヨリ相届候ニ付、早速召捕、糺問仕候処、是迄賊徒ニ随従、種々悪行相働候旨、白状ニ及候ニ付、一通御達申上候、十六日斬首仕候、同人其節所持之品、左之通御座候
蝦夷山川地利取調図二十三冊
歩操軌範七冊
同図一冊
四書集註六冊
小学本註二冊
四書不足本二十二冊
雑書二箱
大小一腰
右之通相改、赤川村会議所ヘ指出申候、同十八日賊徒降伏ニ付、持揚引揚候様御達ニ付、兵隊一同赤川村ヘ引払宿陣仕候事
右ハ厚沢辺進軍戦争概略、不取敢御届申上候
五月
池田侍従内 滝川左近

四月十五日弊藩一小隊、江差ヨリ安野呂村口ヘ繰出候様、会議所ヨリ御達ニ付、則出兵仕候、同十六日猶又二小隊同村ヘ繰出候様被申付、前日之一小隊合併仕候、夫ヨリ先地ヘ進軍仕候処、道絶ヘ山岳屹立、草木繁茂、進軍難仕ニ付、同廿一日ヨリ道開キニ取掛リ、落部村迄十里余之間相拓キ、漸五月四日同村ヘ出軍仕候、同七日十番隊一小隊、シユクノツヘ村ト申処ヘ着陣仕、同村ニ間道多ク有之ニ付、番兵守衛可仕旨被命、同所ヘ滞陣仕候、七番隊、八番隊二小隊、大野村迄直ニ繰込居候処、同十一日七重村迄進軍可仕様被命、同村ヘ繰込、此日進撃諸口ノ官軍既ニ五稜郭接近之地迄追詰候ニ付、赤川辺迄繰詰候様、会議所ヨリ御達ニ付、晩六字比ヨリ発途繰詰候処、戦未止、不取敢発砲仕、日暮引揚、会議所ヘ相伺、即夜ヨリ五稜郭固メノタメ、野陣番兵仕事
シユクノツヘ村ヘ残リ候十番隊、十三日引払有川村迄繰込候処、十六日津軽御陣屋攻撃仕候様被命、朝二字三十分雷発、御親兵合併、陣屋門前迄繰詰候得共、賊防禦ノ道更ニ無之三十間許隔テ、正面ニ大砲相据候ニ付、道之両方ニ兵ヲ伏シ発砲致シ候哉否、味方抜刀斬込候得ハ、忽賊兵敗奔、御親兵福山等ト相共ニ乗取申候、其節手負左之通
第一大隊十番小隊 吉田正蔵
小倉直介
大隅金治
久山七五三之介
四月廿一日、江差港滞陣ノ弊藩兵隊百人、木古内口ヘ進軍可致旨会議所ヨリ御達ニ付、炭沢迄繰詰露陣候処、木古内村屯集之賊徒引払候旨報知有之ニ付、廿二日四字木古内村ヘ進軍、夫ヨリ札苅村、釜谷村、三石村、当別村等ヘ順ニ繰込、廿九日朝三字整列、矢不来村山上屯集之賊徒攻撃可致旨、会議所ヨリ御達ニ付、即進撃仕候、一小隊ハ長藩合併ニテ相進ミ、一小隊ハ正面天神森之台場ヘ各藩共々相向ヒ、五字ヨリ発砲、賊山ノ手等三方ノ台場ヨリ、大小砲盛ニ打出候得共激進、四字遂ニ賊敗走ス、一小隊ハ始ヨリ、山手台場五ケ所ニ拠リ防戦仕、大野藩松前藩共ニ台場接近ノ場所ヘ相進ミ、互ニ不屈発砲候得共、賊佚シテ困却ノ色、更ニ不相見、苦戦ニ相成候処天神森落去ニ付、其兵隊尚亦山手ヘ繰揚ケ、各藩死力ヲ尽シ激戦、弊藩大砲二門引上ケ、六七発ノ内ニ賊困却、台場ヲ打捨敗走ス、夫ヨリ兵糧相用、峰頭ヨリ賊ノ後ヲ討立々々、有川村迄相進申候、尚亦半小隊程海岸ヘ相進候処、残賊所々台場ニテ防戦仕候ニ付、各藩一同ニテ討敗リ、北ヲ追テ亦有川村迄相進申候、此日弊藩死傷左之通ニ御座候
死 糾武隊補助 黒田秀太郎
岡田豊之助
傷 斥候隊 佐藤来伝太
第二大隊五番小隊 藤田卯三郎
遠藤久之助
五月朔日会議所ヘ御呼出、廿九日於矢不来村勉励奮戦仕候趣ニ付、参謀衆ヨリ御賞詞幷御酒肴料金百両頂戴仕候
同日為大斥候、七重浜マテ二小隊、松前一小隊、在住隊半隊繰出候様、会議所ヨリ被命、則繰出黄昏到着、番兵巡邏等差出置候処、一字頃賊不意ニ襲来、互ニ発砲、暫時打合候処兼テ後ノ民家ヘ潜伏罷在候哉、前後ヨリ相挟ミ、接戦格闘候得共、迚モ可禦地理ニ無御座一先囲ヲ切抜、有川口引揚候、其節戦死左之通ニ御座候
死 糾武隊士 春田卯三郎
富田伊兵衛
村川善十郎
三木孫右衛門
宇治文吉
同三日、大野村ヘ出張候様、会議所ヨリ被命直ニ有川村繰出シ、大野村着陣、同所番兵巡邏、長州藩ト申合セ相勤候、同十一日晩六字頃、七重浜新道台場ヘ、応接ニ二小隊繰出候様御達ニ付、直ニ大野村出立、夕八字頃右台場ヘ着、水戸藩ト交代、徹夜発砲仕相守リ候同十三日夜一字頃、賊ノ斥候弊藩持場ヘ小銃打掛候ニ付、相応シ候処、瞬間引取申候、同十八日、津軽旧陣屋攻撃ニ付、夜十二字整列、押伍兵ニテ相進候様被命、五稜郭ヨリ右ノ陣屋ヘ往復ノ道ヲ絶切リ、埋伏番兵仕候、同十八日三字、五稜郭本道ヘ出張ノ処、黒石一小隊、弊藩三小隊ニテ、降伏人三百十六人護送仕、函館実行寺ヘ到着、於同寺、右降伏人兵器悉ク請取、会議所ヘ引渡シ、夜九字頃、筑後藩ト番兵交代、函館市中ヘ宿陣仕候、右ハ木古内口、安野呂口両道進軍戦争概略、不取敢御届申上候、以上
五月廿日
池田侍従内 滝川左近
四月廿三日、江差港滞陣ノ弊藩人数ノ内、二十人陽春艦ヘ乗組候様、会議所ヨリ御達有之ニ付、同廿四日豊安丸ヘ乗込出帆致シ、同廿八日於泉沢ニ、陽春艦ヘ乗替申候、其後矢不来沖幷函館弁天先等ニテ、陸軍応援致シ候事

四月十二日、弊藩乗組廿人ノ内七人、大砲一門、為護衛上陸仕、同日残十三人海軍乗込御免、函館ヘ上陸、弊藩大砲隊ト合併仕候、同十四日尻沢部ヘ出張可致御達ニ付、同所ヘ繰込候処、賊艦一艘落来候ニ付、打掛候処、速ニ散乱仕候、同十五日一本木口ヘ、出張可致御達ニ付、同所ヘ繰込候処、整列三字ヨリ津軽旧陣屋ヘ攻撃可致旨被命、同十六日浜手ヨリ討入候処賊敗走、右陣屋ヘ乗込申候、同十八日ヨリ右陣屋守衛番兵仕、同十九日引揚、函館ヘ宿陣仕候
右者陽春艦乗組戦争概略、不取敢御届申上候以上
五月
池田侍従内 滝川左近

太政官日誌・明治2年73号

太政官日誌 明治二年 第七十三号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十六
○六月三十日〈庚午〉
軍務官箱館征討合記第四〈追録〉
岡山藩届書写
四月十二日、江差表ヘ着岸仕候処、木古内口ヘ砲隊至急進軍仕候様、御達御座候ニ付、同所一字頃雷発、翌十三日早暁、湯之岱迄着陣仕候処、於木古内表、戦争相始候ニ付、速ニ同所ヘ相進候様御達ニ付、九字進軍仕、ザトウタヲシト申辺迄、相進居申候処、追々各藩引揚ニ相成候ニ付、弊藩同様中之沢村迄、引揚申候、同十九日同所繰出シ、晩六字頃笹小屋ヘ着陣、同夜十二字雷発、暁四字前開発村迄相進、直ニ正面台場ヘ、大砲二門相進砲撃仕、臼砲一ツ右之山手ヨリ、長藩合併ニテ賊ノ台場ヘ発砲仕、夫レヨリ木古内村ヘ打入申候、左臼砲一門、左ノ山手ヘ薩藩合併相廻リ台場裏発砲仕候処、賊徒速ニ敗走致シ、札刈村ヘ進討仕、十二字過木古内ヘ引揚居申候処追々松前口敗走之賊徒落来リ、前後ヨリ挟撃之勢、相見ヘ候ニ付、各藩共山上台場ヘ引揚発砲仕候得共、迚モ防戦之地ニ無之ニ付、引揚候様御達御座候ニ付、同所五字頃引揚、直ニ同夜一字三点中ノ沢村ヘ引取申候、然処木古内ヘ、知内村ヨリ引揚候賊徒、当別辺迄モ逃去趣ニ付、同廿三日速ニ木古内ヘ繰込候様御達ニ付、同所迄相進、猶又札刈村ヘ繰込、同所ヘ宿陣、臼砲二門、釜谷村迄繰出候様御達ニ付、速ニ進軍仕候処、三ツ石村辺ヘ、賊徒屯集ニ付、同所迄相進候処、賊当別村山上台場迄引揚候ニ付、至急臼砲二ツ、山上ニ繰出シ発砲仕候、晩五字過御達ニ付、休戦ニ相成候、仍テ薩州、水戸、弘前、松前藩幷弊藩臼砲一門番致居申候処、各藩談合仕、同村可守之地利ニ無之ニ付、一先三石村迄、各藩トモ同様引揚申候、同廿四日五字過、賊襲来ニ付、即刻臼砲二門山上ヘ繰出、大砲二門海岸ヘ繰出居申候処、賊徒発砲ニ及候得共、各藩繰出ニ付、即刻賊逃去、同廿九日朝三字進軍当別村山上ヘ繰出、大砲二門同所ヘ相扣居申候処、五字頃天神之森台場ヨリ、賊頻ニ及発砲、至急同手ヘ打掛リ、正面ヘ相進ミ、数発砲撃仕候処、右台場落去ニ相成、即刻山上台場五ケ所ヘ繰揚候処、賊大小銃烈敷打立、飛丸如雨来候エ共、不屈相進、砲撃致候処、賊殆困却仕、遂ニ台場ヲ打捨敗走仕、直ニ有川村迄進討致申候、同日暁一字三点臼砲二門、当別村ヨリ間道進軍、然処闇夜且又険阻之山越ニテ、時刻聊相後レ、八字過矢不来台場之後ヘ出候処、最早賊徒敗走、海外台場ニテ戦争之模様ニ付、直様駆降リ、横合ヨリ砲撃、即刻打散シ、機ニ乗シ有川村マデ追打仕、賊何レヘカ逃去候、同所ニテ砲隊相揃、三ツ谷村マテ引揚申候、其節手負左之通御座候
砲手 岡本寿次郎
一 生捕一人、会議所ヘ差出申候
分捕之品左之通
一 小銃弾薬二箱
一 雷管二千発
五月二日有川村宿陣之処、御達ニ付、赤川辺迄繰込掛ケ、大川村迄相進候処、賊赤川村迄出張致居候ニ付、七重村ヘ引揚申候、同三日晩尚又御達ニ付、富川村ヘ引揚申候、同十一日暁二字、七重浜村台場迄、出張可致御達ニ付、相進申候、尤預備兵ニ付、同所ヘ相扣居申候処、黄昏亀田村手前迄繰込候様御達ニ付直ニ繰込、同所ニ野陣仕候、同十二日亀田村新道台場ヘ、進軍之御達ニ付、同所転陣仕候処、砲台相設候様被申付、二ケ所築立申候、同日五稜郭幷津軽旧陣屋ヨリ、大砲数発相放味方ヨリモ、昼夜トモ打立申候、同十四日迄折々砲発仕候、同十五日惣砲撃之御達有之、終夜発砲、同十六日暁三字ヨリ、津軽旧陣屋攻撃ニ付、十二字新道台場ヘ、各藩相揃、大砲一門相進候様被申付、第一分隊相進、無間進撃ニ付、為応援五稜郭本道ヘ相廻リ、長州砲二門、松前砲一門合併、同所ニテ数発々砲仕候、無程右陣屋落居ニ付、先持場新道台場ヘ引揚居申候処、猶又大砲一門亀田村本道、為守衛出張可致旨御達ニ付、第三分隊分配砲台相設、警衛仕候、同十八日賊徒不残降伏ニ付、五稜郭賊出切次第、箱館ヘ引揚之御達ニ付、則引揚申候
五月十日夜八字、富川会議所前ヘ、臼砲二門相揃、九字富川浜乗船、同十一日四字過、臼砲一門大森浜上陸、山後中央ニ相進候処、賊徒山上台場ニ居候ニ付、各藩幷弊藩攻撃ニ及候処、賊不残弁天台場ヘ退キ申候間、山手ヨリ薩州藩合兵ニテ砲撃致シ、浜手相廻リ、砲発仕居申候処、箱館町裏浜手ヘモ相進、猶又海岸山手ニテ、伊州藩合併仕候テ守衛、同所ニテ砲撃仕候、同所六字引揚、山手中央ニテ薩州藩合併砲発仕、九字頃同所引揚、同夜天神町、十字頃ヨリ同所ニテ番兵仕、翌暁三字頃、賊台場ヨリ東浜手押出放発致シ候ニ付、常磐町東端、聊砲台御座候処、早早相進呉候様、薩州藩ヨリ申越候ニ付、三字過相進砲発仕候、十三日ヨリ山手台場町口砲台昼夜守衛仕、同十四日晩七字過迄、折々砲発仕候、同十五日夜八字過、ボウド一本木口辺マテ進軍仕様、御達ニ付、早急同所ヘ繰込申候、同十九日朝四字ヨリ、箱館表ヘ引揚候様御達ニ付早々引揚申候
臼砲一門弁天台場口ヘ相進、山手ヨリ砲撃仕候処、五稜郭口ヨリ賊徒襲来、戦争之模様ニ付、直様五稜郭口ヘ相進、各藩幷弊藩共砲撃致候処、賊速ニ敗走、一本木関門外迄、追討仕候処、賊浜手ヘ相廻防戦仕候、是又速ニ打散シ申候、直ニ同所ヘ砲台相設、野陣相張、同日ヨリ十五日迄、昼夜之差別ナク、折々及戦争候、同十六日朝三字、同所ヨリ津軽旧陣屋ヘ進撃、徳山藩、松前藩、弊藩合兵ニテ、浜手ヨリ砲撃仕、陣屋ヘ乗込、及剣争官軍頗奮戦ニ付、諸方ヘ散乱仕候、長州藩一中隊福山藩砲隊、弊藩共、陣屋守衛可致様被申付同十九日迄守衛居申候、同日朝四字ヨリ、箱館表引揚申候様御達ニ付、右之通引揚申候、其節死傷左之通
傷 令官 夏井三之丞家来 寺見周次郎
死 夫卒 一人
分捕之品左之通
一、小銃弾薬六箱
一、合薬一箱
一、十二斤榴弾十五員
一、小銃十二挺
右之通所々戦争概略、御届申上候、以上
五月
池田侍従内 生形半右衛門

四月十四日、弊藩一中隊、鶉村ヘ出張致候様御達ニ付、同晩四字、江差表雷発、同夕四字同村ヘ宿陣、同十五日館村守衛被申付、松前藩ト交代同所ニ宿陣、同十六日夕十字、トロ村ト申所ヘ疑敷者参候旨、土民ヨリ注進候ニ付、直ニ巡邏之者罷越、早速召捕、糾問致候処、賊之間諜ニ粉無御座ニ付、翌十七日鶉村会議所ヘ差出申候、同十八日御達ニ付、徳山藩ト交代仕、直ニ雷発、昼三字稲倉石ヘ宿ス同廿日、中二股ヘ繰込候様、御達ニ付、直ニ雷発、昼三字同所着陣、尤賊境故、弥以厳重番兵巡邏等相勤サセ、同廿三日斥候、台場守衛之処、前山上台場築造ニ付、一小隊為護衛繰出、参謀衆相見エ地形見定、四ケ所ノ台場出来ニ付、直ニ守衛、同晩五字福山藩ト交代下山之折柄、砲声相聞候ニ付、直様賊之台場正面ニ向ヒ攻撃、終夜発砲、無絶間及烈戦、夕八字頃御達ニ付、一小隊同正面之兵ト合併同様攻撃、翌廿四日八字迄、激戦致候ニ付、福山藩ト交代、一先休憇致候様、参謀衆差図ニ付、一同引揚、兵糧相用候折柄、賊徒頻ニ発砲、抜刀ニテ相迫候ニ付、正面之兵少々引色ニ相見候ニ付、直ニ進撃、抜刀奮戦、遂ニ賊散乱逃去申候、其後十字頃、賊谷側ヲ回リ後ヲ断ノ勢相見候ニ付、同所防禦可致旨被申付、迅速打向発砲、余程苦戦ニ及候エ共、死力ヲ尽シ打散シ候ニ付、尚又正面ニ迎ヒ、薩長ト合併攻撃候エ共、地勢険阻、進撃致兼、切歯持場ヘ引揚、徳山藩ト交代、暫時休憇之折柄、尚又賊勢盛之由ニ付、徳山藩ト合併、日夕二字迄発砲勉励候中、御達ニ付、中二股迄一同引揚申候、廿三日暁ヨリ終日二夜、無絶間戦争中、死傷左之通
死 精鋭隊長 岩田七郎兵衛
同隊兵士 谷川幾三郎
傷 同 萩野梅太郎
同 入江兼太郎
同 井上安之進〈重傷、於東京大病院、五月朔日死〉
同 安井坂次郎
同 楠原四方之助
同 西村常次〈重傷、於東京大病院、五月二日死〉
九番小隊 坪田安左衛門
同 日名政次郎
山田市右衛門家来 川勝左衛門
松山岩三郎家来 金馬八郎次
那須半兵衛家来 伊丹光蔵
右之通戦争概略、不取敢御届申上候
五月
池田侍従家来 滝川左近

太政官日誌・明治2年70号

太政官日誌 明治二年 第七十号
明治己巳 六月三十日
東京城第三十三
○六月三十日

軍務官箱館征討合記第一〈追録〉
官軍兵員
箱館府兵
伏水御親兵四百人
薩摩兵二百九十三人
長門兵七百八十一人
肥後兵三百九十六人
水戸兵二百十九人
伊賀兵百九十九人
備前兵五百四十一人
久留米兵二百四十三人
福山兵六百三十二人
弘前兵二千二百七人
徳山兵三百人
松前兵 大野兵 黒石兵百七十人
以上
箱館府兵届書写
四月十五日夜八字、青森港ニ於テ、兵隊二十人引率、朝陽艦ヘ乗組可申旨、参謀衆ヨリ御下知ニ付、急速乗艦、同時御艦三厩ニ向出艦翌十六日十二字同港着艦、甲鉄艦幷諸艦共打合評決之上、翌十七日早天三厩出艦、十一字三点松前城下港ヘ進航之処、賊数ケ所之台場ヨリ発砲ニ付、各艦交代砲発半ニ当艦城下港口ヘ特進候処、賊数ケ所之台場ヨリ厳敷砲発候得共、当艦ヨリモ城下ヲ目掛ケ撃砲候処、現ニ三発ハ城中矢倉其外ヘ相当リ、賊砲弾モ数十発、艦上相越候折柄、各艦ヨリモ城中台場等ヘ乱発、然ル処甲鉄艦ヨリ止戦之合図ニ付、一統止戦罷在候処、陸軍ト相見、数百人陸地進撃之様子、遠見候否哉、賊胸壁ヨリ撒隊繰出、砲台ノ向ヲ変シ、右陸軍ヲ砲撃致シ候ニ付、各艦ヨリモ頻ニ台場胸壁、或ハ賊撒隊ヲ砲撃候中、陸軍勇進、賊共数百、遂ニ東ヲ指シテ潰奔致シ候ニ付、当艦海岸近ク乗寄小銃ヲ以、狙撃候得共、銃弾不達候ニ付、即時兵隊引率、上陸之上、尾撃可仕ト存、揚陸仕候処、松前家巡邏兵隊ニ出会、隊長蠣崎衛士ニ応接、様子柄承合候処、賊近辺ニ一人モ無之趣ニ付、直様帰艦致候、時ニ日既ニ没シ各艦一同当港ヘ滞船之事
翌十八日、朝四字甲鉄艦ヨリ、洋中遙ニ賊艦ヲ見ル之旗号ニ付、即刻春日艦幷当艦共斥候トシテ同港出艦、海岸筋吉岡村ヨリ、福島村等探索仕候処、賊共昨夜中ヨリ今暁迄ニ、箱館路ヘ脱奔之趣ニ付、暫時同港滞艦罷在候中各艦共着艦、評決之上、兵隊召連、福島村ヘ揚陸、陸地実索仕候処、賊共同村ヨリ三里程奥、尻内峠ニ二三百屯集之趣、同村名主共ヨリ申出、当村乱妨之愁モ難計候間、是非宿陣致シ呉候様、百姓共ヨリ願出候ニ付、各艦ヨリ兵隊数十人上陸、在住半小隊ハ、斥候トシテ峠之方、沢合ヘ一里程進軍探索仕候得共、賊共遙山奥ニ屯集之趣ニ相違無之候間、夫ヨリ一同引返シ、右之趣村役人共ヘ申諭シ、兵隊一同乗艦仕候事
翌十九日ヨリ海岸筋所々砲戦、何モ大勝利ニテ、五月十一日箱館港ニ於テ、賊艦二艘ト戦争之砌、賊弾一発当艦火薬庫ヘ相当候ニ付、御艦忽破裂、其節在住隊即死、左之通ニ御座候
伍長 林六三郎
兵士 川島由太郎
菊地重太郎
浜田作蔵
宮本長吉
藤井文吉
菅原忠作
続源次郎
小沢清太郎

右海軍ヨリ巨細御届可有之候得共、不取敢此段御届申上候、以上
五月
箱館府在住隊々長 三村平太郎
箱館府士官在住隊届書写
四月廿八日、泉沢村会議所ニ於テ、参謀太田黒亥和太殿ヨリ、進撃之儀御達ニ付、第十一字泉沢村出発、同廿九日暁第三字当別村ヘ着陣、各藩打合之上、矢不来村賊陣正面ヘ向キ衆軍進撃、一同及砲発候処、彼ヨリモ砲発、第十二字頃、賊徒悉ク敗走ニ付尾撃仕、第三字有川村迄着陣、第五字箱館口有川村端ニ、終夜出張守衛罷在、同廿八日第十字有川村ヘ可揚取旨、同所会議所ヨリ御達ニ付、同所ヘ宿陣仕、五月朔日第七字、大砲在住隊七重浜村ヘ向至急出発可仕旨、有川村会議所ヨリ御達ニ付、即刻出発、第十二字頃七重浜村ヘ着陣、街道正面ヘ大砲二門幷備前藩一小隊守衛在住隊之儀ハ追分口、備前藩半小隊、在住隊出張之積リ談論中、七重浜村ヘ賊徒襲来、数十人抜刀ニテ切入、接戦ニ相成リ、衆寡難敵頗苦戦ニテ、有川村口迄揚取申候、其節戦死手負在之通
死 黒沢伝之丞隊 小林四郎
河内友吉
時宇之助
手負 後遂ニ死ス 黒沢信太郎
代島倫蔵
行方不知 人夫十三人
右之通御座候間、此段御届申上候、以上
五月
〈士官大砲隊在住隊〉長兼 黒沢伝之亟
箱館府士官大砲隊届書写
五月十二日第十二字、赤川村会議所ヨリ、至急同村迄出張可仕旨御達ニ付、第一字大野村出発、第五字赤川村ヘ着陣、同十四日第四字鍜冶村之内ヘ出発可致旨御達ニ付、砲台相構フ、同十五日敵襲来ニ付、及発砲候、同十六日第十一字、諸軍ヨリ五稜郭ヘ向ケ発砲致シ同夜第十一字賊襲来候処、持場ヲ可揚取旨御達ニ付、赤川村ヘ滞陣罷在候、依之此段御届申上候、以上
五月
〈士官大砲隊在住隊〉長兼 黒沢伝之亟
箱館府新兵隊届書写
四月廿八日夕六字、泉沢村会議所ヘ参営、其時参謀太田黒亥和太殿御達、明廿九日暁三字当別村ヘ惣軍出兵、当隊同様正面衝兵被命、即夜十一字泉沢村出発、第三字三十分前当別村ヘ着、夫ヨリ同所丸山下峠広野ニテ、惣軍相揃、直様各藩矢不来天神ノ広野左堺峰山、賊ノ台場ヲ指テ進軍発砲、然処賊ノ応砲少シ右ニ付参謀太田黒亥和太殿指揮、当隊ハ左舟掲山渓々隈ニ賊潜伏探索、堺峰山ノ台場、左ノ方ヘ進兵可致旨被命、即時舟掲山ヘ登リ、笹堀ヘ下リ、吉堀ヨリ登リ候処、其前賊兵台場ヲ棄テ走ル、夫ヨリ富川上蛇流野ヘ下ル、折節賊兵五十人程、有川村差テ敗走、各藩続テ追討、当隊之儀ハ、其場ニ出合ヒ同ク追討富川村着仕、暫時休息、其時有地志津摩差図ニテ、富川村上山谷賊兵探索致シ、有川村ヘ出兵之旨被命、直様進軍、尢大野藩モ進ム、然ニ潜賊無之、漸ク第一字有川村着、同所宿陣、夕七字ヨリ在住隊士官大砲隊当隊トモ、同村七八丁離レ、追分ノ沙塘辺迄出兵斥候被命、猟小屋一宇為篝火焼払、徹夜番兵、廿日暁六字有川宿陣ヘ、三隊共引揚申候事
五月朔日第一字大野村一ノ渡村二俣迄斥候、二俣着之上、各藩隊長衆ヘ面会致シ、有川口戦争之次第、相咄候様、不破一学殿ヨリ被命福山藩岡田辰之助外一人幷当隊半隊指令官北野直七郎其半小隊引率、一ノ渡ヨリ二俣迄ノ途中鼻摺ト申所ニテ薩州藩隊長、備前同断、水戸同断、其所出合ヒ、有川口ノ様子申聞ケ二俣口ノ模様承リ、夕七字有川村ヘ帰陣、前文之始末、会議所ヘ相届、暫時休息、当隊ハ巡邏役相勤、在住隊大砲隊ハ七重浜ヘ出兵、其夜第一字七重浜ニ賊徒襲来、頗苦戦ノ由、当隊ハ砲声相聞キ候ヨリ、有地志津摩殿、不破一学殿ヨリ至急ノ差図ニシテ、有川橋ヨリ海辺迄、半隊長幷当隊之斥候柴田正作半小隊ニテ守衛、然ニ七重浜出兵人数、追々退軍之様子、無間払暁ニ相成、当隊之儀モ引揚、此段会議所ヘ御届申上候事
五月二日第八字、久留米藩一中隊、当隊一小隊、監軍不破一学殿、原川魁助殿同伴、為斥候七重村ヘ進撃、夫ヨリ大川村ヘ同断、然処賊ノ斥候隊三十人計、石川郷ヨリ大川村ヲ指テ襲来之由ニ付、山ノ手ハ各藩ニテ守衛、当隊ハ黒田了介殿差図ニテ、中鳥郷上ノ広野ヘ出兵、暫相待居候得共、賊兵不来、夕五字同所引揚、中鳥郷ヘ宿陣、其夜同所廻番、翌三日第四字黒田了介殿差図ニテ、夕六字迄滞陣七字七重村ヘ引取宿陣、其時村橋直衛殿ヨリ御達、当隊ハ一ノ渡村持場相極リ候得共、今夕ハ寡兵、殊ニ烈風猛雨ニ付、同所宿陣厳重ニ巡邏可致ト、同夜第一字賊兵大野ノ間道筋大川村ノ広野ヨリ七重村広野辺ヘ襲来発砲ス各藩直ニ出兵、当隊モ薩州半小隊同道シテ、同所杉林ノ上、峠下村ヘ通行ノ間道ヲ、撤兵ニテ取切相待候処、賊兵大ニ敗走、無程払暁砲声モ、追々少ク相成候ニ付、其場引揚、監軍山形与惣殿差図ニテ、夫ヨリ一ノ渡村ヘ引揚候事
五月十七日当隊銃卒四人、潜賊探索ノ為メ、湯ノ川辺迄差出候処、湯ノ川村次兵衛ト申者ノ家ニ、賊ノ品物有之即チ分取ル、如左
ミニヘトル銃十一挺
刀一本
長巻一本
胴乱六
同十八日、賊兵降ヲ乞フ者及持参器械如左
賊伝習隊差図役 小林幸五郎
外ニ 十二人
小銃十二挺
刀十三腰
銅乱十二箇
右之通御座候、此段御届申上候、以上
五月
箱館府新兵隊々長 秦斗鬼三

五月十日至急御達ニ付、新兵隊一小隊鶴之郷ヘ出兵、在住隊一小隊、夕四字ヨリ七曲ヘ出兵、徹夜守衛、其夜大野村会議所ヨリ御達ニテ、同夜第二字三十分ヨリ、有川口大野口幷海軍兵進撃、夫ニ付両隊ノ儀ハ国別川端ヘ進軍、翌十一日第八字比迄ニ、賊兵海陸共敗走第九字比ヨリ久芳昌五郎殿、栗屋富三郎殿両人ノ差図ニテ、両隊トモ元亀田村迄進撃、賊兵二百歩計隔テ、川向ヒ堤ミ陰ケ、或ハ長屋垣根ノ間ヨリ形影分明ナラズ候得共、大小砲百員計ニテ、打出候ニ付、在住隊長幷半隊長中村辰四郎左右ニ別レ、二伍十六歩ノ散兵ヲ布キ川手前ヨリ発砲、新兵隊長幷半隊長北野直七郎モ左右ニ別レ開兵発砲、第一字ヨリ夕六字迄砲戦致シ、両隊トモ追々川近ク相進候処、賊徒追々退軍日モ黄昏ニ及候間、無余儀赤川辺迄引揚、夫ヨリ直ニ箱館街道筋二箇所柵火ノ近辺ニ忍ヒ、斥候可致旨、参謀森清蔵殿ヨリ御達ニ付、徹夜見番仕候、本日戦争手負幷分捕左之通
深手 在住隊押伍官 秦殿三
新兵隊長秦斗鬼三従者 啓之助
浅手 在住隊半隊長 中村辰四郎
同伍長 御手洗林三郎
小銃弾薬六百発
新兵隊分捕
右之通御座候間、此段御届申上候、以上
五月
在住隊々長 三村平太郎
新兵隊々長 秦斗鬼三

太政官日誌・明治2年69号

太政官日誌 明治二年 第六十九号
明治己巳 自六月廿六日 至三十日
東京城第三十二
○六月二十六日〈丙寅〉

御沙汰書写
【九条左大臣弾正尹仰付ラル】
九条左大臣
弾正尹被仰付候事
【○内藤、水野謹慎被免ノ事】
内藤三郎
同姓信思儀謹慎被仰付置候処、被免候事
○ 水野和泉守
謹慎被仰付置候処、被免候事
【上杉式部任叙ノ事】
宣下状写
上杉式部
復任侍従兼式部大輔
叙従四位下
右宣下候事
【神祇宮御神祭ノ事】
御達書写
来二十八日、神祇官ヘ行幸御神祭被為在候ニ付、二十九日辰刻ヨリ午刻迄、無職之華族、中下大夫、諸官人、上士、六等官以下官員幷公議人参拝可為勝手旨、被仰出候事
但、有位ハ衣冠、無位ハ直垂着用可致、用意無之輩ハ、有位ハ狩衣、無位ハ上下着用之事
附、重軽服之輩可憚事
○二十七日〈丁卯〉

三都府幷諸開港場ヘ御沙汰書写
宇内万国、財ヲ生シ、貨ヲ集ルノ道、百物ヲ流通シ、貿易ヲ便ニスルニ在リ、凡土ニ肥瘠ノ差ヒ、地ニ寒暖ノ別アリ、則其生殖スルモノ亦自ラ従テ異ナリ、之ヲシテ有無相通シ、百貨往来セシムル者ハ商ノ事ナリ、然ルニ我皇国商律未タ備ハラス、財ヲ生スルノ道未タ隆ナラス、今也、各国相往来シ、通商開クルニアタツテ、金銭物価其平均ヲ失シ、上下ノ疲弊日ニ甚シ、故ニ商律ヲ立、貨幣ノ融通ヲ助ケ、廻漕ノ便ヲ設ケ、内外輸出入ノ多寡ヲ量ツテ、物価ヲ平準ナラシメ、万物流通財ヲ生シ、貨ヲ集ルノ基ヲ可被為開タメ、今度会計官中通商司ヲ被置、左之通御委任被仰付候ニ付、三都府幷諸開港場地方官、能々土地民情ヲ審ニシ、通商司ト熟議戮力、処置可致事
通商司御沙汰書此ニ入ル〈第六十七号ニ見ヘタリ〉右之通被仰出候ニ付、此旨相達候事
御布告書写
三都府幷諸開港場ヘ、別紙之通被仰出候ニ付、外地方官ニ於テモ総而同様相心得可申事
【南部、内藤、板倉任叙ノ事】
宣下状写
南部彦太郎
任甲斐守
叙従五位下
右宣下候事
○ 内藤三郎
任豊前守
叙従五位下
右宣下候事
○ 板倉教之助
任内膳正
叙従五位下
右宣下候事
【徴士、雇士ノ称廃止ノ事】
御達書写
藩士被徴候節、何等之職務御任用可相成旨、一応藩々ヘ御尋之上、御登用被仰付候段、先般御布令有之候処、自今徴士雇士之称被廃就而ハ廟議ヲ以テ御撰用相成候間、此旨相達候事
○二十八日〈戊辰〉
【神祇官ヘ行幸ノ事】
此日群臣ヲ被為率、神祇官ヘ行幸、辰刻御出輦、巳半刻御還輦
○二十九日〈己巳〉
【諏訪、戸田両人謹慎ノ事】
御沙汰書写
各通 諏訪伊勢守
戸田備後守
神祇官ニ於テ御拝礼中、進退無作法之儀有之、依テ謹慎被仰付候事
【松浦肥前守従四位宣下】
宣下状写
松浦肥前守
叙従四位下
右宣下候事
○三十日〈庚午〉
【宮中、府中、城中、市中巡察ノ事】
御達書写
来月二日ヨリ、弾正台大小忠巡察等、宮中府中城中市中巡察イタシ候間、為心得相達候事
但、市中巡察之節、行掛其場ニ糾弾可致事件有之候エハ、取締出張所ニ於テ糾弾イタシ、時宜ニヨリ当分取締ヘ預置候事モ可有之候間、兼テ相心得可申事
【日蝕ニ付参賀被止ノ事】
来七月朔、日蝕ニ付参賀被止候事
【開港場以外ノ地ヘ外国船廻航禁止ノ事】

列藩支配所ヨリ、是迄諸品運輸又ハ兵士往反之タメ、外国船雇入、開港場之外諸所ヘ差廻シ方願立候節ハ、御許容相成候エ共、右ハ兵馬騒乱中、時勢不得已之儀ニテ、斯ク海内御平定ノ上ハ、已来開港場ノ外、諸方之地ヘ外国船ヲ以テ運輸等相願候トモ、一切御許容不相成候、就而ハ華族之向ハ勿論、農商ニ至迄開港場ヨリ開港場ヘ運輸之趣願立置、密ニ他港ヘ差廻シ候儀、相聞ニ於テハ吟味ノ上、夫々相当ノ御処置被仰付、且積荷有之候ハヽ其品取上ケ、過料トシテ千両御取立可相成候条、此旨屹度可相心得事
但、本文之通、御定有之候エ共、地方救助之タメ等ニテ、無拠情実有之候ハヽ、其子細委曲相認メ、前以雇入候其開港場ヘ願出候ニ於テハ、篤ト評議ノ上、時宜ニヨリ、御許容相成候儀モ可有之事
【牧野、市橋任叙ノ事】
宣下状写
牧野錂太郎
任内匠頭
叙従五位下
右宣下候事
○ 市橋信一郎
任主殿頭
叙従五位下
右宣下候事

賞典追録
福原内匠
昨年賊徒掃攘中、白河民政取締勉励之段、神妙被思食、仍為其慰労、目録之通下賜候事
○ 各通 吉田遠江
原六郎
昨年賊徒掃攘中、軍事尽力之段、奇特被思食、仍為其慰労、目録之通下賜候事
○ 各通 岡本出雲守
稲波内舎人
浅田舎人
昨年賊徒掃攘中、軍事尽力之段、大儀被思食、依テ為其慰労、目録之通下賜候事

太政官日誌・明治2年68号

太政官日誌 明治二年 第六十八号
明治己巳 六月廿五日
東京城第三十一
○六月廿五日〈乙丑〉
【知藩事ノ令終ル】
知藩事ノ令今日ニ至テ終ル、御沙汰書写如左
姓名
何藩知事被仰付候事
明治二年己巳六月
□ハ太政官印ナリ
【版籍奉還聞食サル】
版籍奉還願出候面々ヘ、添御沙汰書写如左
姓名
今般版籍奉還之儀ニ付、深ク時勢ヲ被為察広ク公議ヲ被為採、政令帰一之思食ヲ以テ言上之通被聞食候事
版籍奉還不願出面々ヘ、添御沙汰書写如左
姓名
今般版籍奉還之儀、列藩及建言候ニ付、深ク時勢ヲ被為察、広ク公議ヲ被為採、政令帰一之思食ヲ以テ、言上之通被聞食候依之於其藩モ封土版籍返上被仰付候事
遂日知藩事被仰付、順次如左
版籍奉還願出候面々
○六月十七日
加賀金沢 前田宰相中将
薩摩鹿児島 島津宰相
駿河静岡 徳川新三位中将
尾張名古屋 徳川三位中将
紀伊和歌山 徳川中納言
肥後熊本 細川中将
筑前福岡 黒田少将
安芸広島 浅野中納言
周防山口 毛利宰相
肥前佐賀 鍋島少将
常陸水戸 徳川少将
因幡鳥取 池田中納言
伊勢津 藤堂中将
越前福井 松平越前守
備前岡山 池田少将
陸前仙台 伊達亀三郎
近江彦根 井伊中将
土佐高知 山内少将
筑後久留米 有馬中将
羽後久保田 佐竹宰相
出雲松江 松平少将
上野前橋 松平大和守
伊予松山 久松少将
大和郡山 柳沢侍従
豊前香春 小笠原豊千代丸
越後高田 榊原侍従
播磨姫路 酒井侍従
羽前米沢 上杉式部大輔
岩代白石 南部甲斐守
讃岐高松 松平讃岐守
下総佐倉 堀田相模守
備後福山 阿部主計頭
若狭小浜 酒井前少将
山城淀 稲葉侍徒
伊予宇和島 伊達侍従
加賀大聖寺 前田侍従
越中富山 前田淡路守
美濃大垣 戸田采女正
美作津山 松平中将
越後新発田 溝口伯耆守
○十九日
豊前中津 奥平美作守
対島厳原 宗少将
常陸土浦 土屋相模守
上野高崎 大河内右京亮
播磨明石 松平左兵衛督
常陸笠間 牧野金丸
下総古河 土井大炊頭
相模小田原 大久保相模守
豊後岡 中川侍従
肥前島原 松平主殿頭
三河豊橋 大河内刑部大輔
日向延岡 内藤備後守
丹後宮津 本荘伯耆守
名代隠居丹後守
羽前新荘 戸沢中務大輔
肥前平戸 松浦肥前守
伊予大洲 加藤遠江守
肥前唐津 小笠原中務大輔
三河西尾 松平和泉守
丹波笹山 青山左京大夫
上野館林 秋元但馬守
信濃松本 戸田丹波守
近江膳所 本多主膳正
上総舞鶴 井上侍従
伊勢亀山 石川日向守
磐城棚倉 阿部基之助
信濃上田 松平伊賀守
和泉岸和田 岡部美濃守
讃岐丸亀 京極佐渡守
播磨竜野 脇坂淡路守
日向飫肥 伊東左京太夫
名代嫡子修理大夫
岩代二本松 丹羽五郎左衛門
豊後白杵 稲葉右京亮
上総芝山 太田備中守
磐城三春 秋田信濃守
筑前秋月 黒田甲斐守
越前丸岡 有馬遠江守
丹波亀岡 松平図書頭
三河岡崎 本多中務大輔
名代重臣
上総菊間 水野羽後守
美濃郡上 青山大膳亮
○二十日
下総関宿 久世順吉
摂津尼崎 桜井遠江守
越前大野 土井能登守
安房長尾 本多紀伊守
越前鯖江 間部下総守
紀伊田辺 安藤飛騨守
摂津高槻 永井日向守
摂津三田 九鬼長門守
伊予今治 久松壱岐守
上野沼田 土岐隼人正
丹後舞鶴 牧野錂太郎
尾張犬山 成瀬隼人正
名代重臣
信濃高遠 内藤若狭守
紀伊新宮 水野大炊頭
丹波福地山 朽木近江守
豊後杵築 松平河内守
美濃加納 永井肥前守
但馬出石 仙石讃岐守
名代重臣
信濃高島 諏訪伊勢守
伊予西条 松平左京大夫
名代重臣
美濃岩村 松平能登守
上総久留里 黒田筑後守
下野烏山 大久保佐渡守
下野壬生 鳥居丹波守
名代弟右近
上野安中 板倉主計頭
志摩鳥羽 稲垣対馬守
伊予吉田 伊達若狭守
美濃高須 松平範次郎
名代重臣
出雲広瀬 松平佐渡守
越後村松 堀貞次郎
名代重臣
三河重原 板倉内膳正
日向土佐原 島津淡路守
日向高鍋 秋月長門守
名代重臣
陸中一ノ関 田村鎮丸
羽前上ノ山 松平豊熊
丹波園部 小出伊勢守
近江水口 加藤能登守
大和高取 植村羽前守
豊後日出 木下大和守
備中足守 木下備中守
名代重臣

○二十二日
磐城中村 相馬因幡守
名代重臣
磐城磐城平 酒井徳之助
常陸松岡 中山備中守
越後長岡 牧野鋭橘
三河刈谷 土井淡路守
武蔵岩槻 大岡主膳正
美作真島 三浦玄蕃頭
越前勝山 小笠原左衛門佐
羽後松嶺 酒井信三郎
肥後人吉 相良遠江守
豊後府内 大給左衛門尉
名代嫡子信濃守
羽後本荘 六郷兵庫頭
名代重臣
陸奥八戸 南部侍従
名代嫡子璟之丞
丹波柏原 織田出雲守
美濃今尾 竹腰伊予守
上総飯野 保科弾正忠
信濃飯山 本多乙次郎
名代父竹仙
播磨赤穂 森越後守
近江大溝 分部若狭守
名代嫡子掃部助
磐城守山 松平大学頭
名代嫡子廿二麿
上野小幡 松平摂津守
常陸石岡 松平侍従
豊後佐伯 毛利伊勢守
備中庭瀬 板倉摂津守
越後与板 井伊右京亮
上野伊勢崎 酒井下野守
三河挙母 内藤丹波守
常陸下館 石川若狭守
名代重臣
丹波綾部 九鬼大隅守
備中新見 関伊勢守
近江西大路 市橋下総守
名代嫡子信一郎
下野黒羽 大関美作守
羽前天童 織田寿重丸
名代重臣
羽後亀田 岩城亀五郎
名代重臣
下総結城 水野禊之助
磐城泉 本多兵庫助
常陸谷田部 細川玄蕃頭
上総佐貫 阿部駿河守
下野佐野 堀田摂津守
信濃竜岡 大給縫殿頭
名代重臣
羽後矢島 生駒讃岐守
但馬豊岡 京極飛弾守
○二十三日
三河半原 安部摂津守
播磨三日月 森対馬守
信濃飯田 堀美濃守
信濃岩村田 内藤志摩守
上総鶴牧 水野肥前守
伊勢神戸 本多河内守
磐城湯長谷 内藤英之助
和泉伯太 渡辺丹後守
近江山上 稲垣若狭守
名代嫡子藤五郎
近江宮川 堀田豊前守
相模荻野山中 大久保中務少輔
上総一ノ宮 加納遠江守
備中成羽 山崎志摩守
肥前福江 五島飛弾守
豊後森 久留島伊予守
三河田原 三宅備後守
武蔵六浦 米倉丹後守
下総多古 久松大蔵少輔
近江三上 遠藤但馬守
安房加知山 酒井大和守
下野大田原 大田原飛弾守
丹後峰山 京極備中守
和泉小泉 片桐主膳正
伊勢薦野 土方大和守
下野足利 戸田長門守
羽前長瀞 米津伊勢守
但馬村岡 山名因幡守
三河西端 本多対馬守
備中岡田 伊東播摩守
常陸志筑 本堂式部少輔
丹波山家 谷大膳亮
信濃須坂 堀長門守
美濃苗木 遠山美濃守
常陸牛久 山口周防守
上野七日市 前田丹後守
名代嫡子孫八郎
大和原本 平野遠江守
摂津麻田 青木民部少輔
播磨三草 丹波長門守
下野吹上 有馬兵庫頭
越後三根山 牧野伊勢守
○二十四日
讃岐多度津 京極下総守
越後椎谷 堀右京亮
大和芝村 織田摂津守
大和柳本 織田大和守
越後清崎 松平日向守
上野吉井 吉井侍従
常陸宍戸 松平主税頭
出雲母里 松平主計頭
安房館山 稲葉備後守
上総桜井 滝脇丹後守
下総高岡 井上宮内少輔
陸奥七戸 南部雄麿
越前敦賀 酒井左京亮
名代重臣
美濃高富 本荘宮内少輔
越後黒川 柳沢刑部大輔
播磨山崎 本多肥前守
豊前千束 小笠原近江守
播磨安志 小笠原信濃守
河内丹南 高木主水正
名代嫡子肥前守
三河西大平 大岡越前守
大和櫛羅 永井信濃守
常陸下妻 井上伊予守
播磨林田 建部内匠頭
越前三日市 柳沢信濃守
下総小見川 内田主殿頭
下総生実 森川内膳正
播磨小野 一柳対馬守
常陸麻生 新荘下野守
大和柳生 柳生但馬守
名代重臣
伊予小松 一柳因幡守
名代重臣
備中浅尾 蒔田相模守
上総小久保 田沼玄蕃頭
信濃松代 真田信濃守
陸奥弘前 津軽少将
名代重臣
版籍奉還被仰付候面々
○二十四日
阿波徳島 蜂須賀中納言
筑後柳河 立花少将
武蔵河越 松井周防守
下野宇都宮 戸田土佐守
美作鶴田 松平右近将監
名代重臣
越後村上 内藤豊前守
石見津和野 亀井中将
上総花房 西尾隠岐守
松前館 松前勝千代
名代重臣
肥前大村 大村丹後守
上総大田喜 大河内豊前守
伊勢長島 増山備中守
河内狭山 北条相模守
筑後三池 立花出雲守
版籍奉還願出候面々
○二十五日
遠江堀江 大沢右京大夫
下野高徳 戸田備後守
内、分末家ニテ添御沙汰書無之面々
肥前小城 鍋島紀伊守
周防岩国 吉川駿河守
伊勢久居 藤堂佐渡守
肥前蓮池 鍋島甲斐守
長門豊浦 毛利左京亮
周防徳山 毛利淡路守
備中鴨方 池田満次郎
肥前鹿島 鍋島備中守
長門清未 毛利讃岐守
伊予新谷 加藤出雲守

知藩事ヘ御達書写
一、従来支配地総高幷現米惣高、取調可申出事
但、免ハ五ケ年平均ヲ以テ取調可申出事
一、諸産物及諸税数、取調可申出事
一、公廨一ケ年之費用、取調可申出事
一、職制、職員、取調可申出事
但、重立候職員ハ、人撰可相窺事
一、藩士、兵卒員数、取調可申出事
但、従前之禄幷扶持米遣居候高、取調可申出事
一、社寺領其外、従前禄扶持米等遣居候人員並高、取調可申出事
一、現石十分之一ヲ以テ、家禄可被相定候事
但、石高外諸雑税モ可準之事
一、支配地総絵図可差出事
一、支配地人口、戸数、取調可申出事
一、一門以下平士ニ至ル迄、総テ士族ト可称事
但、家禄御定之振合ニ基キ、給禄適宜改革可致候、且一門之輩ハ、追テ位階ヲ可賜事
一、家禄相応、家令、家扶、家従以下、召仕候人員可窺出事
但、従前之知家事ハ、家令ト唱ヘ可申事
右之件々被仰出候ニ付テハ、諸務変革、来ル十月中取調可申出事
六月
別紙之通被仰出候事

地所蔵米ノ諸家ヘ御達書写
各通 一橋大納言
田安中納言
山内薫
池田但馬守
津軽式部大輔
戸田淡路守
足利左馬頭
一、従来支配地総高云々
一、諸産物及云々
一、藩士兵卒員数云々
一、社寺領其外云々
一、支配地総絵図云々
一、支配地人口云々
一、一門以下平士云々
右之件々被仰出候ニ付而ハ、来十月中取調可申出事

蔵米ノ諸家ヘ御達書写
各通 浅野近江守
池田摂津守
池田丹波守
池田相模守
上杉駿河守
松浦左近将監
細川若狭守
細川豊前守
佐竹壱岐守
一、藩士兵卒云々
一、社寺従前云々
一、一門以下平士云々
右之件々被仰出候ニ付テハ、来十月中取調可申出事

太政官日誌・明治2年66号

太政官日誌 明治二年 第六十六号
明治己巳 自六月十七日 至十九日
東京城第二十九
○六月十七日〈丁巳〉
此日ヨリ知藩事ノ御発令アリ〈後巻ニ詳記ス〉
【公卿諸候、華族ト改称ノ事】
御達書写
官武一途上下協同之思食ヲ以テ自今公卿諸候之称被廃、改テ華族ト可称旨被仰出候事
但、官位ハ可為是迄通候事
【酒井徳之助替地ノ事】
御沙汰書写
酒井徳之助
今度替地被仰付候ニ付テハ、諸事速ニ処分致シ、八月中旬迄引移可申旨御沙汰候事
【足利延喜久任叙ノ事】
宣下状写
足利延喜久
任左馬頭
叙従五位下
右宣下候事
○十八日〈戊午〉
【坊城左小弁磐城巡察使仰付ラル】
御沙汰書写
坊城左少弁
当官ヲ以三陸巡察使被仰付置候処幷磐城国巡察可致様被仰付候事
【伊東、佐竹、久松任叙ノ事】
宣下状写
伊東彦松
任修理大夫
叙従五位下
右宣下候事
佐竹常丸
任壱岐守
叙従五位下
右宣下候事
久松源三郎
任豊前守
叙従五位下
右宣下候事
○十九日〈己未〉
【増山隼人任叙ノ事】
宣下状写
増山隼人
任備中守
叙従五位下
右宣下候事
【相馬家版籍奉還上表ノ事】
相馬因幡守上表写
臣季胤聞ク、天下ハ大物ナリ、有権有力、然後之ヲ掌上ニ運ラス可シト、今也、政権朝廷ニ帰スト雖モ、列候三百、海内ニ碁布シ、土地、甲兵、総テ諸候ニ分轄シ、制度モ亦不一如此則朝廷勢力、分離ヲ免カレザルニ似タリ臣嚮ニ有罪、封土ヲ奉還ス、既ニシテ掃賊ノ微功ニ因テ、更ニ再封之命ヲ拝スト雖、藩屏ノ職ニ至テハ、臣不肖其任ニ堪ヘザルヲ是懼ル、幸ニ聞ク、各藩頃日献国ノ議アリト、臣不堪感激、即チ其ノ義挙ト同ジク、土地人民尽ク献納ス、区々タル弊邑、大海ノ一滴ニモ当ラズト雖、此ニ由テ朝廷権力兼完、制度画一ノ小補ト成ルナラバ、何ノ幸カ之ニ如ン、右不堪至願、敢テ謹テ上表ス、誠惶誠恐頓首
六月
相馬因幡守 季胤花押
弁事御中

叛逆首謀御処置書写追録
保科弾正忠
昨臘依御沙汰、取調差出候松平容保家来、叛逆首謀管野権兵衛、今般刎首被仰付候条於其方致処置、可及言上候事
但、叛逆首謀之内、田中土佐、神保内蔵介既ニ落命ニ付、不及其儀候得共、存命候ハヾ刎首可被仰付候事
五月
軍務官
○ 伊達亀三郎
昨臘依御沙汰取調差出候叛逆首謀者、但木土佐、坂英力、今般刎首被仰付候条、於其方処置致シ、可及言上候事
五月
○ 同人ヘ
別紙之通御達ニ相成候条、但木土佐、坂英力両人、刑法官ヘ願出、引取可申事
五月
○ 酒井徳之助
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、石原倉右衛門存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共、素ヨリ不可容之大罪ニ候条、家名断絶申付候事
五月
○ 上杉式部
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、色部長門存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共<以下同文>
五月
○ 丹羽五郎左衛門
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、丹羽一学、丹羽新十郎存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共<以下同文>
五月
○ 同人ヘ
其方家来丹羽丹波、昨年中奥羽私盟党与之事件、頗関係之聞有之、不届之至ニ候条、一橋大納言ヘ、永預申付候事
五月
○ 一橋大納言
丹羽五郎左衛門家来丹羽丹波、昨年中奥羽私盟党与之事件、頗関係之聞有之、不届之至ニ候条、其方ヘ永預申付候事
五月
○ 松平範次郎
松平容保家来手代木直右衛門、秋月悌次郎、其方ヘ永預被仰付候条、在所表ヘ引取、禁錮可申付候事
五月
○ 同人ヘ
別紙之通相達候条、手代木直右衛門ハ因州藩秋月悌次郎ハ刑法官ヨリ引取可申事
五月
○ 因州藩
昨年其藩ヘ御預被仰付置候手代木直右衛門今般松平範次郎ヘ、永預被仰付候ニ付、同人ヘ引渡可申事
五月
○ 阿部基之助
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、阿部内膳存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共、素ヨリ不可容之大罪ニ候条、家名断絶申付候事
五月
○ 牧野鋭橘
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、河井継之助、山本帯刀存命候ハバ、刎首可被仰付之処、既ニ落命之旨申出候得共<以下同文>
五月
○ 内藤三郎
昨臘依御沙汰取調差出候叛逆首謀鳥井三十郎、今般刎首被仰付候条、於其方処置致シ、可及言上候事
五月
○ 水野和泉守
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀水野三郎右衛門、今般刎首可被仰付候条<以下同文>
五月
○ 南部彦太郎
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀楢山佐渡、今般刎首被仰付候条<以下同文>
五月
○ 堀貞次郎
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、堀右衛門三郎、斎藤久七、今般刎首被仰付候条<以下同文>
五月
○ 水野禊之助
昨臘依御沙汰、取調ベ差出候叛逆首謀、水野又兵衛、茂野喜内、今般刎首被仰付候条<以下同文>
但シ、叛逆首謀之内水野甚四郎、既ニ落命ニ付、不能其儀候得共、存命ニ候ハバ、刎首可被仰付事
五月
○ 久世順吉
昨臘依御沙汰、取調差出候叛逆首謀、小島弥兵衛、今般刎首被仰付候条<以下同文>
但、叛逆首謀之内、木村正右衛門、丹羽十郎右衛門、行方不分明之旨申出候ニ付、其方ヘ永尋申付候事
五月

太政官日誌・明治2年65号


太政官日誌 明治二年 第六十五号
明治己巳 六月十五日
東京城第廿八
○六月十五日〈乙卯〉
【箱館五稜廓陥落ノ事】
箱館軍艦参謀届書写
十一日迄之賊情ハ、過日御届書之通ニ御座候其後十二日ニ至リ、箱館全ク我有トナリ、賊軍悉五稜郭並元津軽陣屋及弁天崎台場等之要害ニ逃込、折々我陸軍ヲ窺フ之気色相見候ニ付、終日諸軍艦ヲ以テ、陸軍ヲ助ケ発砲ス、十三日弁天崎台場猶未タ抜ケス、春日、陽春両艦ヨリ大砲一門宛ヲ揚ケ、山上ヨリ弁天崎台場ヲ砲射ス、十四日戦状前日ニ大異ナク、時々軍艦ヲ外浜ニ廻シ、元津軽陣屋ノ賊ヲ砲撃ス、此夕弁天崎賊兵、力尽勢屈降伏ヲ乞フ故ニ弁天崎ニ向ヒ砲射スルヲ止ム、十五日弁天崎ノ賊永井玄蕃、元蟠竜船将松岡岩吉、川村録四郎等以下二百四十人降伏ス、十六日暁三字ヨリ、陸軍元津軽陣屋ノ賊ヲ攻撃ス、海軍之ヲ応援ス、一挙忽抜ク、十一二日頃ヨリ甲鉄艦ノ七十斤砲ヲ以、五稜郭ヲ射撃ス、毎発多ハ命中、賊大ニ窮ストイフ、十七日薩藩田島敬蔵、五稜郭ノ賊徒ト応接之後、賊魁榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭輔、荒井郁之助懇願申出候趣ニ付、九字頃参謀増田虎之助、軍監前田雅楽、陸軍ニテハ参謀黒田了介、軍監村橋直衛、岸良彦七、有地志津摩等亀田ニ出張、面会之上、歎願之趣意聞取候処、謝罪降伏申出候ニ付、実効箇条相立候ハヾ、可奉伺天裁旨申聞、賊徒ハ五稜郭ヘ差返ス、同夜松平太郎、安富才輔両人陣門ニ罷出、降伏之実効、左之通相立度段申出ル
明十八日朝第六字ヨリ七字迄之間、首謀榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭輔、荒井郁之助軍門ニ降伏之事
午後一字ヨリ二字ノ間、兵隊以下不残出郭降伏之事
午後四字ヨリ五字迄之間、兵器悉皆差出、五稜郭ヲ差上可申事
十八日暁ヨリ、軍監前田雅楽、軍使器械請取方等ヲ引連、亀田会議所ヘ出張、出先軍監岸良彦七、有地志津摩打合、各藩兵隊ヘ降伏人護送之達ヲ致シ、第七字、賊魁榎本釜次郎、松平太郎、大鳥圭輔、荒井郁之助等軍門ニ降ル、軍監ヨリ申渡候箇条左之通
一、首謀之者陣門ニ降伏之事
一、五稜郭ヲ開キ、寺院ニ謹慎罷在、追而可奉待朝裁事
一、兵器悉皆差出可申事
右之通申渡候条、可得其意者也
五月
陸海軍 参謀
首謀四人双刀取揚ケ、長州一中隊ヲ以テ函館寺院ヘ護送ス、一字過兵士三百人、創傷者五十人、歩兵六百五十余人、合テ千余人ヲ、薩州一中隊、伏水一小隊、備前一中隊、長州一中隊、大野一中隊、松前三小隊、水戸二分隊黒石一中隊等ヲ以テ函館ヘ護送ス、四字過大小砲始武器悉皆取揚、五稜郭ヲ請取、伏水一中隊、水戸一中隊、松前一中隊繰込候事
右之次第ニテ、函館ハ全平定ニ相成候、モロランニ三百計賊徒有之趣、是モ追々降伏可致候若強抗致候ハヾ、早速討取可申候、不取敢右之段御届申上候也
五月
海軍 参謀
軍監
五月十一日海陸軍進撃之節、春日艦ニテ
即死 二等揖取 前田嘉七郎
深手 上床良吉
春口伝助
浅手 同艦乗込松前藩 清瀬磋平
右之通御届申上候也
五月
海軍 参謀
箱館陸軍参謀届書写
四月六日、海陸軍青森港進発候処、天気不宜ニ付平館ヘ滞泊、八日同所出発、九日朝乙部村揚陸之処、賊徒二三十人山上ヨリ発砲、松前兵隊直ニ之ヲ掃攘ス、夫ヨリ海陸軍互ニ進ム、陸軍一ツハ長州一中隊、砲二門、福山一中隊、津軽一中隊、松前三中隊、大野一中隊海辺江差口ニ進ミ、一ツハ長州一中隊、福山一中隊、砲二門、松前一中隊、津軽一中隊、山道鶉村口ニ進ミ、夕三字江差之賊落去ル、此夜山道兵隊鶉村ニ泊シ、海辺兵隊江差ニ泊シ、十日両道進軍、海辺兵隊又小堀ヨリ別レテ、福山一中隊、津軽一中隊、松前一中隊、大野一中隊、木古内越ニ進ム、鶉村口、木古内口両道、人家一切無之、道路険悪追々架橋営屋進軍ス、十一日鶉村口長州一中隊繰込無事、木古内口無事、海辺称部田村ニテ賊徒襲来、終夜戦争不利ニシテ、暁天小砂子村迄引揚、賊亦追撃セス、十二日備州四斤砲二門、臼砲二門木古内口ヘ出張、外ニ伊州一中隊、筑後一中隊海辺ヘ進ミ、十三日海辺無事、鶉村口進撃、二股迄進ミ、二股ヨリ二里余、台場三ケ所乗取、此処ヨリ一里大台場アリ、賊兵守備厳重ナリ、終夜攻撃遂ニ落ス、地勢守備不宜、暁天二股迄引揚、木古内口津軽一中隊小戦、十四日木古内口進撃不利、十五日津軽一中隊、松前一中隊、松前口ヘ出張、十六日無事、十七日海辺進撃、賊軍大敗、福山城落去、津軽一中隊、松前一中隊、福山一中隊、備前三小隊、安野呂口ヘ出張、安野呂ヨリ落部ニ至リ道程十三里、道路極難人足ノ通スベキ所ニ非ス、日夜新道開拓進軍、十八日諸口無事、薩州一中隊、長州一中隊、木古内口ヘ出張、薩州一中隊、徳山一中隊、備州一中隊長州砲二門、鶉村口ヘ出張、水戸一中隊、松前一中隊、海辺ヘ出張、十九日新兵隊一小隊在住隊一小隊、海辺ヘ出張、二十日木古内口薩州、長州、大野、福山兵隊、備州砲二門、臼砲二門進撃、同所砲台乗取、札刈村迄進撃賊ノ運送之路ヲ絶ツ、賊三面ヨリ襲来、我兵少ク引揚、廿一日諸口無事、廿二日木古内口松前口進軍、両道ノ兵隊合併ス、廿三日海陸軍進撃、海軍賊艦ト打合、六字頃ニ至リ戦ヒ不決、津軽一中隊、砲ニ門館村ヘ出張、此日夕七字ヨリ二股戦争、終夜ニシテ廿四日勝敗猶未決、水戸一中隊鶉村口出張、廿五日松前一小隊、熊石辺為探索出張、廿六日ヨリ廿八日迄諸口無事、廿九日津軽大砲隊安野呂口ヘ出張、黒石一中隊松前城下ヘ出張、此夜十二字泉沢雷発、海陸軍一同、矢不来攻撃、六字十五分天神森台場三四ケ所乗取、七字二十分左リ方山上ノ台場十三四箇所攻落、此日、各藩猛烈奮戦、直ニ有川迄追討、同所滞陣、口々厳重守衛、五月朔日海軍賊ノ千代田形ヲ分捕此日賊矢不来ノ敗ヲ聞テ、二股砲台ヲ棄去ル依テ薩州、水戸、備州一ノ渡迄出張、二日二股口ノ諸兵進テ大野村ニ至ル、此日有川口ノ兵隊ト合併ス、七重浜斥候所ヘ賊兵夜襲ス、我兵不利、追分迄引揚、三日斥候隊繰出候処其夜大風雨ニ乗シ賊兵夜襲ス、四日暁二字、賊二中隊許ニテ大川村ニ襲来、薩州一中隊防戦暫時ニシテ追払フ、五日、六日無事、七日海軍弁天崎台場並賊艦ヘ砲撃ス、八日朝四字賊二大隊許ニテ大川村ヘ襲来、薩州一中隊、長州二中隊、筑後一中隊、徳山一中隊防戦、八字比ニ至リ賊兵敗走、石川村迄追撃、九日十日諸口無事、十一日払暁有川口ノ兵隊、伊州一中隊、津軽一中隊、徳山一中隊、長州、備州臼砲一門宛山背泊ヨリ上陸、薩州一中隊長州一中隊、筑後一中隊、松前一中隊、備州福山、松前、臼砲一門宛寒川ヨリ揚陸、暁三字三十分海陸軍大挙追撃、函館、大川村、桔梗野、海岸四道相進ミ、台場数箇所ヲ落ス、一昼夜之間砲声不止、十五日赤川村ヘ賊徒二百七十人降伏シ来ル、弁天台場ノ賊徒、永井玄蕃其外陣門ニ降ル、十一日ヨリ今日迄出先斥候、処々ニ小戦ス、十六日暁三字ヨリ、箱館七重浜、桔梗野ノ三道之兵、元津軽陣屋攻撃四字比攻落ス、夕刻賊ノ使者来ル、十七日朝松平太郎、榎本釜次郎、亀田斥候所ニ来リ歎願ス、十八日朝七字松平太郎、榎本釜次郎、荒井郁之助、大鳥圭輔陣門ニ降伏ス、監軍有地志津摩、斥候不破一学、海軍々監前田雅楽立合ヒ、左之書付相渡〈書付ハ軍艦参謀届書ノ内ニ出ス、今略之〉降伏相済ミ、長州一中隊警衛、不破一学騎馬ニテ箱館寺院ニ送ル、午後二字兵隊小者千八人降伏、各藩兵隊ヲ以テ箱館寺院ヘ護送、五字五稜郭及兵器請取候、此段不取敢御届申上候也
五月
陸軍 参謀

太政官日誌・明治2年63号

太政官日誌 明治二年 第六十三号
明治己巳 自六月三日 至八日
東京城第二十六
○六月三日〈癸卯〉
【版籍奉還上表ニ付南部家ヘ御沙汰】
御沙汰書写
南部雄麿
今度土地人民版籍奉還可致之旨、及建言候条全ク忠誠之志、深ク叡感被思食候、追而何分之御沙汰可被為在候得共、版籍之儀ハ一応取調可差出旨、被仰出候事
○四日〈甲辰〉
【柴田長川御預ノ事】
御沙汰書写
松平荘九郎
柴田長川儀、其方ヘ御預相成候間、此段申達候事
但、永田半蔵ヨリ受取可申事
【版籍奉還上表ニ付保科家ヘ御沙汰】
保科弾正忠
今度土地人民版籍奉還云々〈南部雄麿御沙汰書同文〉
【諸官員月給御渡方ノ事】
御達書写
諸官六等官以下之官員、其官々知事、副知事之見込ヲ以、撰挙致シ、府藩県ヘ直ニ相達候ニ付テハ、是迄月給御渡方之儀、其官々ヨリ当官ヘ相届、当官ヨリ会計官ヘ申遣来候処、向後ハ其官々ヨリ直ニ会計官ヘ、毎月十八日迄取調可申出候事
但、進追共達済之分、毎月十ノ日毎ニ、当官ヘ届出候儀ハ、可為是迄之通事
【蝦夷開拓ニ付鍋島中納言ヘ勅書】
鍋島中納言ヘ勅書写
蝦夷開拓ハ皇威隆替ノ関スル所、一日モ忽ニス可ラス、汝直正深ク国家ノ重ヲ荷ヒ、身ヲ以テ之ニ任セン事ヲ請フ、其憂国済民ノ至情、朕嘉納ニ堪ヘス、独恐ル、汝高年遽ニ殊方ニ赴ク事ヲ、然レ共、朕之ヲ汝ニ委ス、始テ北顧ノ憂ナカラン、仍テ督務ヲ命ス、他日皇威ヲ北彊ニ宣ル、汝方寸ノ間ニアルノミ、汝直正懋哉
明治二年己巳六月四日
○五日〈乙巳〉
【佐竹、戸田任叙ノ事】
宣下状写
佐竹中将
任参議
叙従三位
右宣下候事
○ 戸田故越前守
任侍従
叙従四位上
右贈宣下候事
【賞典ハ凡テ御蔵米下賜ノ事】
御沙汰書写
今般賞典ニ付、下賜候石高之儀ハ、御蔵米ヲ以テ被下候間、為心得相達候事
但、分積之儀ハ、追而御沙汰可有之事
○六日〈丙午〉
【正金地方ニ流出シテ三都府困窮ノ事】
御達書写
御一新之際、莫大之軍費ハ勿論、上下疲弊ヲ極メ、生産富殖之道ニ差障候ヨリ、格別御仁恤之御主意ヲ以、上下融通之為、金札御布行相成、府藩県共石高ニ応シ、貸渡被仰付偏ニ生産富殖之道ヲ開キ候様トノ御趣旨ニ被為在候処、拝借金札ヲ三都府ニオイテ、正金ト引換候而己ナラス、甚ニ至而ハ厚キ御趣意ニ戻リ、金札通用ヲ拒候処ヨリ、其通用スル処、僅ニ三都府ニ不過、又諸国ヨリ都府ヘ物産ヲ輸入スト雖モ、其国許ニオイテ通用差障候故、金札ヲ嫌ヒ、正金ト引換持去、自ラ三都府之正金四方ニ散シ、金札而己ニ相成遂日物価沸騰ニ及ヒ、都府之人民困窮今日之甚ニ至候、右ハ兼而御厳令モ有之候処、地方官之諭令、不行届ヨリシテ、右様之次第ニ立到候ニ付而急々是ヲ救之道、一時都会ニ集ル処ノ金札ヲ、府藩県石高ニ配当シ、正金ニ換ヘ、是ヲ以テ都会之人民ニ引替渡候外無之然ル時ハ金札普ク海内ニ被行、物価平均、正金々札同様、流通可致様可相成、依之別紙之通リ、被仰出候間、府藩県共、厚御趣意ヲ奉戴シ、御布令ニ基キ、国民ヲ説諭シ、期限通無遅延差出可申事
但御主意柄、篤ト了解シ難キ者ハ、東京会計官ヘ可伺出事

今般別紙之通、被仰出候ニ付而者、府藩県共高一万石ニ付、金札二千五百両ツヽ、石高ニ応シ割渡相成候間、右員数正金、三都会計官出納司エ、御布令当日ヨリ左之期限通、可相納事
三十里以内ハ三十日
五十里以内ハ三十八日
七十五里以内ハ四十六日
百里以内ハ五十四日
百二十五里以内ハ六十二日
百五十里以内ハ七十日
百七十五里以内ハ七十八日
二百里以内ハ八十六日
二百里以外ハ九十四日

正金上納ニ付金札渡方左之通
東京会計官納之向ハ、金札六月十五日迄ニ半高、残リ半高七月五日限、被相渡候事、京都大阪両所会計官納之向ハ、金札六月廿日迄ニ半高、残リ半高七月十日限被相渡候事
【織田賢司、同数馬謹慎被免ノ事】
御沙汰書写
織田寿重丸
末家織田賢司、織田数馬儀、謹慎差免候間、此旨可申達事
但、其藩ニ引取、扶助可致事
【辻七郎右衛門御預ノ事】
板倉教之助
板倉伊賀家来辻七郎左衛門儀、其藩ヘ当分御預ケ被仰付候事
【松前勝千代、福山入城ノ事】
松前藩届書写追録
去月十七日、松前福山城御進撃之処、速ニ御恢復、翌十八日参謀原川晦輔見分之上、福山城当分御預被仰付候旨、重臣之者ヘ相達、直様家来共警衛罷在候、然ル処清水谷侍従殿同廿七日津軽青盛出帆、翌廿八日江差ヘ入港同所観音堂ヘ御着陣相成候、就而者福山ヘ御入城ニモ可相成候哉、参謀衆ヘ家来共ヨリ相伺候処、同所ヘ者御巡視無之候間、私始家族共入城不苦旨、被相達候趣、家来共ヨリ弘前表ヘ申越候、依之一昨八日私並母、敦千代共同所出立、昨九日暁七時青盛港出帆、同日昼九時松前表ヘ着船、即福山ヘ入城仕、難有仕合奉存候、右ニ付固向等之儀、夫々手配申付置候、此段御届申上候、以上
五月十日
松前勝千代
弁事御中
○七日〈丁未〉
【大久保、前田任叔ノ事】
宣下状写
大久保岩丸
任相模守
叙従五位下
右宣下候事
○ 前田稠松
任淡路守
叙従五位下
右宣下候事
○八日〈戊申〉
【前田淡路守侍従ニ任ズ】
宣下状写
前田淡路守
任侍従淡路守如元
叙従四位下
右宣下候事
【金札御割渡ニ付御達ノ事】
御達書写
金札御割渡、正金上納ニ付而ハ、過日御通達之儀候間、早々御請書可指出候事
但、主人上京在邑等ニ而、重臣名代之向、主人ヘ申聞候而者日合モ相懸候間、先以御請書指出置、尚重臣ニ差次候者急行御趣意貫徹候様可相達候事
【有宿ノ入牢諸入費ノ事】

士農工商共、犯科入牢之者、衣類扶持方服薬代等無宿之者而己被下候処、以来有宿無宿ニ不拘、諸入用被下候旨、当三月中相達候趣モ有之候処、有宿之者入牢ニ付、諸入用之儀ハ従前之通可取計候、此段更ニ相達候事