太政官日誌 明治二年 第廿五号
明治己巳 二月廿四日
○二月二十四日〈丙寅〉
【松平三河守版籍奉還ニ付上表ノ事】
松平三河守上表写
臣慶倫頓首頓首、臣愚謹案スルニ、唐柳宗元封建郡県公私之論、固ヨリ実ニ其説ニ服候、况ンヤ今日御隆際ニ当リ、人臣タル者王土王民ヲ私有スル道理無御座候、則長薩肥土其余藩々、版籍返上之旨趣尤ニ奉存候、臣恐懼亦謹而版籍ヲ上リ、右藩々一轍之奉仰朝裁度奉存候、此段宜御執奏奉願候、臣慶倫誠恐誠懼、頓首頓首
二月
松平三河守 慶倫花押
弁事御中
御沙汰書写
松平三河守
今度土地人民版籍奉還可致之旨、及建言候条云々〈以下第十号、池田中将ヘ御沙汰書同文〉
【浅野隊ヘ御沙汰ノ事】
浅野少将兵隊 創傷之者
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被創傷云々〈本月九日、毛利宰相中将兵隊ヘ御沙汰書同文〉
【越後府兵指揮ノ事】
越後府知事
府兵並戍兵等、指揮管轄可致旨御沙汰候事
【福羽五位議事取調仰付ラル】
福岡五位
以当官、議事取調兼勤被仰付候事
【御東幸御留守警衛ノ事】
酒井雅楽頭
御東幸御留守中大宮御所御警衛被仰付置候処、御模様有之ニ付被免桂宮御警衛、更ニ被仰付候事
○ 真田信濃守
御東幸御留守中中宮御所御警衛被仰付置候処、御模様有之ニ付被免候事
○ 松平図書頭
御東幸御留守中桂宮御警衛云々〈以下前同文〉
【有馬中将賜暇ノ事】
有馬中将
願之趣無拠次第ニ付御東幸供奉被免、往来五十日之御暇下賜候、依テハ藩政改革一新之見留相付候上ハ、右日限ニ不至トモ、成丈ケ早々東京ヘ参向可有之旨御沙汰候事
【御東幸ト人馬賃銭ノ事】
御布告書写
今般御東幸並大小侯伯、中、下大夫、上士之面々、東京ヘ被召寄候ニ付、一時人馬相嵩リ、駅々一層之衰微ニ相成候而ハ、大ニ御綏撫之御趣意ニモ相戻候、就而ハ是迄之定賃銭ニテハ、駅々ニ於テハ多分之足賄相立、助郷一同難渋ニ可及ニ付、諸道共当二月廿九日ヨリ四月晦日限リ、諸家人馬遣高並御定賃銭被相改、別紙之通御規定相成候事
二月
駅逓司
別紙御東幸中人馬賃銭定
当時御定賃銭六倍五割増相改、元賃銭之上ヘ九倍増、都合十倍増御定之事
但、日限中、国産蔵物ニ至ル迄、総而十倍賃銭之事
是迄相対雇賃銭之儀、追々申達候エ共、兎角旧習不相改、尚当時御定之上、倍増ヲ請取候旨相聞、以之外之事ニ候、今般格別之御仁恵ヲ以、十倍増被仰出候上ハ、精々雇賃銭引下可申、若過分之賃銭於請取之ハ可処厳科候間、心得違無之様可致事
○
御東幸ニ付、大小侯伯、中大夫、下大夫、上士之面々、東下之節人馬遣高定
大藩供連百人迄
継人馬
東海道当日七十人十五匹
外街道当日卅五人八匹
東海道平日卅五人八匹
外街道平日十八人四匹
中藩供連七十人
継人馬
東海道当日五十人十匹
外街道当日廿五人五匹
東海道平日廿五人五匹
外街道平日十三人三匹
小藩供連五十人
継人馬
東海道当日卅五人七匹
外街道当日十八人四匹
東海道平日十八人四匹
外街道平日九人二匹
中大夫供連十人
継人馬
東海道当日八人一匹
外街道当日五人
東海道平日五人
外街道平日三人
下大夫供連八人
同
東海道当日六人一匹
外街道当日四人
東海道平日四人
外街道平日二人
上士供連六人
同
東海道当日六人
外街道当日三人
東海道平日三人
外街道平日二人
以上
二月
駅逓司
右之通御定相成候条、通行之向々、急度相守可申事
二月
行政官
【御滞輦中太政官東京ニ移ル】
東京御滞輦中、太政官彼表ヘ御移ニ相成候ニ付、諸願伺等、来ル四月朔日ヨリ東京ヘ可差出、就テハ諸藩公用人ヲモ可差出置旨、被仰出候事
○
今般御東幸御滞輦中、太政官東京ヘ御移シニ相成候、付テハ諸願伺等、総テ東京ヘ可差出之処、社寺之分、畿内並山陽、山陰、南海西海之諸道、東海道ハ伊勢迄、東山道ハ美濃飛弾迄ニ有之候者、是迄之振合ヲ以、京都ヘ可伺出旨、被仰出候事
○
今般御東幸ニ付御滞輦中、太政官東京ヘ御移ニ相成候、付而ハ諸願伺等総テ東京ヘ可差出之処、宮堂上諸官人等御留守弁事ヘ可申出、普通之儀ハ御留守議参ニテ差図ニ及ヒ、格別之儀ハ、弁事ヨリ東京ヘ伺之上、可申達ニ付、此旨可相心得候事〈中、下大夫、上士京詰ノ面々ヘ御達同文〉
御留守官員
議定 鷹司前右大臣
参与 岩下佐次
権弁事 東園宰相中将
宮堂上諸官人 山本中将
宇田栗園
録事 斎藤素軒
権弁事 寺院 滋野井中将
東京往復 西本清介
新庄作右衛門
世古恪太郎
録事 白浜久太夫
丸山兵衛二郎
長岡治三郎
史官 河喜多新甫
山田筑後