明治元年140号

太政官日誌第百四十
明治紀元戊辰冬十一月

【越後口徴兵隊戦記】
十一月十四日徴兵隊届書写
七月廿六日夜八ツ時、笹岡ヘ進撃、先鋒被仰付、新発田進撃、則長州五番隊長野村道蔵ト申合、長州兵者間道ヨリ降岡陣ケ峰ヘ進撃当隊ハ本道ヨリ進撃仕候処、下一分村ヘ、賊ノ斥候出張之内、一人生捕、追々進撃、賊ノ地雷線ヲ切、砲台ヲ乗取、賊巣堤村光円寺ヲ半隊ニテ囲ミ、一戦直ニ放火、賊敗走、丸屋林砲台ヘ退キ、長州兵ハ正面ノ山上ヨリ砲発当隊ハ半隊ヲ以、横合小栗山際ヨリ砲戦、益進撃候処、賊敗走桔梗ケ峰ヘ逃去、当隊一同鬨声ヲ発シ、直様砲台ヲ乗取申候、尤其節半隊令官綾部弟蔵手負仕、賊討取、生捕、分捕別紙之通御座候、此段御届申上候、以上
七月廿七日
徴兵五番隊長 森斉輔
別紙
討取 四人
生捕 三人
分捕
ミニヘール 廿五挺 天幕 二張
大砲弾薬箱 四ツ 長持 一棹
薬鑵 二ツ 臼砲 二挺
地雷火 一ツ ナタ 十四挺
切捧 十五本 マンリキ 六十五挺
小鍬 十五挺 唐鍬 三挺
斧 五挺 大唐鍬 四挺
矢 内二本ハ小 四本 莚包 一ツ
ゴザ 二巻 筒 一ツ
水桶 二ツ 鎗 一本
米四斗俵 八百八俵余 大小 一腰
右之通御座候、以上

会津領草水村ニ、賊屯集ニ付、八月朔日朝七ツ時、長州報国隊先鋒、当隊二番手トシテ、保田出陣、本道ヨリ相進候処、長州ハ及砲戦已ニ砲台ヲ乗取候趣ニ付、当隊モ頻ニ進撃仕兵ヲ分チ、半隊ハ正面ヨリ進撃、半隊ハ赤坂山ヨリ、賊砲台ノ横合ヨリ手強ク進撃仕候処賊散々敗走、各隊一同右砲台ヲ乗取申候、尤討取、手負等ハ無御座候、此段御届申上候、以上
八月朔日
徴兵五番隊長 森斉輔

越後之国蒲原郡丸山村ヨリ、石間村ヘノ間道宝珠山ニ賊屯集ニ付、当隊先鋒被仰付、則長州振武隊ト申合、八月十日暁七ツ時ヨリ、当隊ハ賊之砲台正面ヘ進ミ、長州振武隊ハ、右之山手ヨリ相進候処、昧爽之頃、長州振武隊、賊之砲台横合ヨリ切込、砲台数ケ所乗取申候処ヘ、当隊モ山上ヘ登リ、両隊申合、直ニ石間村ヘ打入り候処、賊杉生ヨリ発砲、則隊ヲ分チ、三方ヨリ打立候処、賊一旦ハ敗走、依テ次第ニ相進候内、遂ニ賊左右之山上ヘ登リ、頻ニ発砲、味方ハ谷間、何ノ寄所モナク、甚苦戦ニ相成候ニ付、繰引ニテ、一先宝珠山ヘ両隊共、引揚申候、尤手負左之通ニ御座候
手負 伍長宮津藩 森岡久吉 園部藩 松本森之助
庭瀬藩 難波槌三郎
行衛不知 通人足小頭 秀吉 通人足 半七
右之通、不取敢御届申上候、以上
八月十日
徴兵五番隊長 森斉輔

越後国薄原郡会津領、赤谷口ヨリ進撃トシテ当隊間道二番手被仰付、八月十四日未明ヨリ、入鳥越迄、相進候処、賊徒ヨリモ進撃ト相見ヘ、味方台場近ク、押寄候ニ付、互ニ及砲戦候処、賊敗走、猶抜平ノ方、谷間道ヨリ一ツ之山ヲ攀登り候処、右抜平ニ、賊砲台二ケ所ヲ築キ、未タ手配中ト相見候処、当隊一斉連発、頻ニ打立候処、散々敗走候間、直ニ其砲台ヲ乗取、賊巣放火、鬨ヲ上ケ、又々進撃、賊砲台数ケ所ヲ乗取、相進候テ本道ノ各隊ト合併、一同赤谷迄進撃、同所一泊仕候、同十五日、赤谷ニテ軍配、当手二番手被仰付、朝五時同所出立、本道相進候処、綱木村ニ賊屯集ニ付、進撃致シ、直ニ砲台乗取、荒
谷村手前ヘ進候処、賊左右之山上ヨリ、頻ニ暴発、則半隊ハ左ノ山手ヘ進撃、二時程ノ間及砲撃候処、賊次第ニ敗走、遂ニ荒谷村進撃同所一泊仕候
同十六日、荒谷ニテ軍配、当手二番手被仰付、昧爽同所出立、本道相進候処、行地郡ヲ打越シ、諏訪峠ニテ、賊之番兵拾人モ相詰居候哉、是亦容易ニ乗取、諸隊直ニ津川ニ進撃候処、当隊賊ノ台場正面ヘ進、二時余及砲戦候エ共、賊ハ大河ヲ隔テ、確乎タル台場ヨリ頻ニ暴発、味方ハ何ノ寄ル処モナク、桑畑或ハ小杉林ニ、身ヲ置候事故、甚苦戦ニ及居候処、諸隊一先止戦ニ相成候間、繰引ニテ峠中央ヘ引揚申候、右数度ノ戦争、尤討死、手負左ノ通御座候
手負 第二押伍杵築藩 伊藤文平
右者八月十五日、荒谷戦争之節
討死 伍長宮津藩 小山栄吉
手負 守旗官宮津藩 沼野蔵吉 伍長杵築藩 渡辺作五郎
伍長宮津藩 川勝門造 福知山藩 石坪国助
終ニ死 峰山藩 松田友次郎 宮津藩 柴沼両三郎
当隊附軍曹 片野虎太家来 文次郎
右者八月十六日、由川戦争之節
分捕
ボート身筒 一挺 和製拾匁筒 一挺
同三匁五分筒 八挺 ゲベール 五挺
米四斗俵 四十三俵
右之通、不取敢御届申上候、以上
八月十七日
徴兵五番隊長 森斉輔

会津領高田村ニ、賊屯集ニ付、当隊赤留口新道先鋒被仰付、九月十八日未明、赤留村迄相進候処、賊斥候一小隊余モ出張、則当隊斥候ヨリ炮発致シ、賊散々ニ逃去、尚追討、村外迄相進候処、高田口之賊、砲台ヨリ頻ニ防戦、並ニ右翼ノ大ナル松林ヘ手配致シ候ニ付当隊雁行ニ散布、暫ク砲戦、松代兵隊ハ、右松林ヘ進撃、当隊ハ正面ヘ進撃、尚古道先鋒ト合隊ニテ、高田ヲ乗取申候、尤其夜高田守衛仕候、此段御届申上候、以上
九月十八日
徴兵五番隊長 森斉輔

手負 戦兵 槐島八郎左衛門
右五月晦日、与板台場ニ於テ
戦死 斥候兵 榎本新十郎
深手 小隊長 野元助八 斥候役 高柳幸左衛門
戦兵 川村宗之亟 旗隊 吉利正兵衛
右六月二日、於島崎手負、病院ニテ死
深手 戦兵 矢野宗太郎 中島助治郎
苗田紋九郎 加世田彦一
桑波田養徳 四本宗之亟
楽隊小頭 大河手喜八郎 小荷駄方付役 西田新蔵
浅手 小頭 土岐半助 湯地源左衛門
戦兵 鎌田与八郎 和田壮右衛門
野間清兵衛
右六月二日、於島崎、内一人病院ニテ死
深手 小頭 伊集院源五 戦兵 伊地知市左衛門
右七月廿五日、与板台場ニ於テ、内一人病院ニテ死
戦死 戦兵 樺山伊十郎
右六月十九日、於出雲崎死
此外於諸所、進撃応援等致シ候エ共、戦死手負等無御座候、猶又取調委敷ハ、追而御届申上候、以上
十一月十四日
小隊長 徴兵一番隊 赤松重之介

【長、肥両隊ヘ御沙汰ノ事】
同月十五日御沙汰書写二通
各通
肥前兵隊
長州兵隊
久々遠路跋渉、攻撃奏効、既ニ東京ニ於テ云々
<但シ、本月四日薩州兵隊ヘ 御沙汰書同文>

【箱館事件ニ付松前藩ヘ御沙汰ノ事】
〇松前敦千代
其方儀、是迄在京之処、今般脱走之賊徒、箱館松前辺ニ嘯集、不容易時態ニ立至リ候趣、報知有之ニ付、御暇願之儀、被聞食届候条急速帰邑、奮励尽力、勦絶之功ヲ奏シ候様御沙汰候事

【治河使設置ノ御布告】
同日御布告書写二通
天下一新、更始之御政体被為立、第一兆民生ヲ安シ、業ヲ楽ミ、人心ヲシテ倦サラシムル御趣意之折柄、倉卒戎馬之事起リシヨリ不被為得已次第モ可有之候得共、今日戡定之功ヲ奏シ、稍平穏ニ赴候上ハ、愈国本ヲ強クシ皇基ヲ振起スヘキ御良図可有之処、既ニ畿内ノ地ニシテ、澱河及諸川水溢暴漲、沿河之民其害ヲ蒙リ、殆ト流離ニ至リ候エ共、未ダ其堤防ヲ修シ、田宅ヲ復スル事能ハス、天災之所致、不得已ト雖モ、其実ハ旧習ニ慣レ、愉安怠惰ノ罪ナリ、且又浪華港ヨリシテ澱河ノ運送ハ、一日モ不可欠儀ニ付、益其道ヲ拡張シ、蒸気船ヲモ仕掛候ニ至ルヘシ、纔ニ浚築ヲ加ヘ、一時ノ災害ヲ防キ、或ハ従来遡通ノ三十石ト唱ヘ候運船ヲ而已頼ミ居候ハ実ニ狭少之陋習ニテ、今日維新之御偉業ニ不相副候、況ヤ眼前ノ民苦ヲモ不顧シテハ、決而不被為済次第ニ付、太政官及府藩県共ニ同心戮力、深ク御趣意ヲ体認スヘク、且其主者ヲ立、今般新ニ治河使ヲ被置候ニ付、速ニ沿襲之陋弊ヲ一洗シ、民害ヲ除キ、水利ヲ興シ、天下之人心ヲシテ倦サラシムルノ要務専ラ勉励可有之旨御沙汰候事
但、治河之儀ニ付、過日相達候エ共、右之通更ニ被仰出候事

【新嘗祭執行ノ事】
来十八日 新嘗祭、於神祇官代、被為執行候ニ付、十七日暮六ツ時ヨリ、十九日朝五ツ時迄、仏事類鐘等停止、被仰付候事
十一月

既ニ刊行スル箱館賊艦事件三冊ハ、第百四十一、四十二、四十三号ニ挿序ス