太政官日誌・明治元年133号

太政官日誌第百丗三
明治紀元戊辰冬十一月

【薩州兵ヘ御沙汰ノ事】
十一月四日御沙汰書写三通
薩州兵隊
久々遠路跋渉、攻撃奏功、既ニ東京ニ於テ被為慰軍労候エ共、今般凱至ニ付、不取敢賜酒肴候事
但、春来兵事ニ付、大宮御所云々
〇薩州兵隊
飯牟礼喜之助 服部平八
奈良原長左衛門 東江巳之助
汾陽尚次郎 津田八之進
川上孫七 亀沢源右衛門
桂宗右衛門 柴山矢八
深柄彦五郎 伊地知弥兵衛
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被創傷云々
〇薩州兵隊
飯牟礼猪之助 野村文左衛門
鎌田織平 伊地知新四郎
川上竜助 稲雨八次
町田幸次郎 面高真七郎
伊地知四郎 和田市五郎
樋口八太郎 伊藤善之助
柏原甚左衛門 永田新兵衛
長崎金兵衛 鬼丸半介
大廻直心 久留仙右衛門
若山次兵衛 宇野源太
市木英之丞 小田原六郎左衛門
園田良助 面高武輔
有高誠之丞 僕与介

高崎苓助 松崎祐斎
山口伝左衛門 和田軍吉
宮原銀助 中原左郎兵衛
実吉友助 実吉禎造
馬渡十蔵 石神宅右衛門
松崎源左衛門 完野八太郎
田中宗五郎 中尾休右衛門
逆瀬川正之進 大山藤之亟
佐藤賢二郎 友野雄介
森川勇之進
征討出張、遠路跋渉、日夜攻撃、遂被創傷云々
十一月

【羽州上淀川、峰之山附近ノ戦】
同日小倉藩届書写三通
弊藩人数、堺口先鋒願之通被 仰付、去十三日夜半、角館出発、翌十四日船岡村ヘ到着仕同十五日游兵ニテ同所滞陣、翌十六日先鋒被仰付、弊藩一小隊、大砲一門、因州一小隊、大砲一門、佐土原一小隊ニテ、本道攻撃之処、上淀川向賊徒、台場ヲ築防戦仕候ニ付、味方川岸之林叢、或土居等ヲ楯ニ取発砲、尚又弊藩之兵ヲ分隊仕、賊之左右ヨリ烈敷攻掛候処黄昏ニ及ヒ、旦賊徒益相加候様子ニ付、味方弥必死ヲ究メ、弊藩人数一人ニテ、二百五六十或三百発、一昼一夜烈発仕、鶏鳴ニ至リ、賊少々引色ニ相見ヘ候間、益手強打スクメ候処、次第ニ砲声相弛候付、十七日暁天ヨリ追討之手筈仕候内、長藩繰出候付、弊藩人数合併、峰之山通進軍仕候処、賊兵退走之途中、処々流血有之、死傷多ク御座候ト見請申候、続テ早急刈和野駅ヘ進撃、残賊ヲ追払、荘賊一人生捕、大小銃、弾薬等分取仕、同所ニテ兵糧ヲ喫候内、楢岡、神宮寺等之賊モ不残退散之由ニ付、同夜刈和野ヘ滞陣仕候、尤生捕分捕之儀ハ、出先参謀局ヘ差出置候、十六日戦争之節、手負之者一人御座候
深創 戦士 原田弥太郎
賊一人 戦士 岡部六蔵 討取之
同一人 足軽 村本栄蔵 討取之
分捕
臼砲 一門 大砲 一門
小銃弾薬 十八箇 七連砲弾薬 百個
火縄筒 五十七挺 槍 十九本
大小太鼓 五ツ 火縄 一駄
幕 二張 旗竿 四本
荘内米 十五俵 具足 二領
銃剣 百本 干飯 五斗
蝋燭 四十斤余 投松明 一箱
陣笠 六枚 葛篭 八箱
右去十三日以後、進軍之次第、前文之通御座候、此段御届申上候、以上
九月廿六日
小倉人数頭 平井小左衛門
右之通、於出先御届申上候旨申越候付、此段御届申上候、以上
十一月四日
小笠原豊千代丸家来 高田浅之助

【羽州増田口田子内、天倉ノ戦】

去十三日、弊藩高木悦蔵儀、佐竹河内組下人数指揮候様、参謀局ヨリ被 仰付、人数百二十人引率、即夜横津村賊徒之陣営ニ夜襲仕、及攻撃、賊徒退軍ニ付其侭尾撃、廿日増田口通リ田子内村ニテ、接戦ニ相成、賊敗走ニテ其夜天倉ヘ潜居之由ニ付、村之前後ヨリ押掛リ、及接戦候、尤分隊ニテ小安村ヘモ押寄、同様攻撃仕、賊終ニ敗走ニ付、尚更尾撃仕、当攻口之賊悉追払申候、尤処々ニテ討取、分取等有之、左之通
首二級 隊長 高木悦蔵 討取之
同二級 平士 石井文四郎 討取之
同二級 粟原主税 討取之
同二級 石井庄太郎 討取之
小頭 兵右衛門
同二級 足軽 彦七 討取之
弁蔵
分捕
米 六拾八俵 幕 七張
弾薬 百九十九箱 弾薬 二十八箱
和銃 十八挺 大砲 二挺
雑具 十篭 臼砲 二挺
大砲弾薬 十二 火縄 二十把
箭 百八十本 革箱 二箱
旗 三流 破裂玉 五箱
太鼓 一ツ インヒル銃 七挺
大小 一腰
右之通御座候、以上
九月廿一日 小倉人数頭 平井小左衛門
右之通、於出先御届申上候旨申越候付、此段御届申上候、以上
十一月四日 小笠原豊千代丸家来 高田浅之助

【羽州松山、亀ケ崎両城請取ノ事】

去廿三日、庄内討入清川口、薩州、佐土原、長州、新庄、小倉先鋒被 仰付、同廿六日新庄ヘ繰込候処、清川口ヘハ、最上口ノ 官軍多勢繰込ニ相成候付、松山口進入被 仰付、翌廿七日新庄領庭月村ヨリ、松山城ヘ進軍仕候処、同所開城降伏ニ依テ、五藩立合之上、城並器械等相改、請取相済、翌廿八日同所出発、酒田亀ケ崎城ヘ進軍、右同所夫々請取方相済、同所ヘ滞陣仕候処、新屋口ヨリ、追々進軍之肥前其外各藩ヘ、十月二日引渡、新庄領ヘ引揚之御沙汰ニ相成候ニ付、翌三日酒田出発、同六日新庄ヘ人数引揚、着陣仕申候、此段御届申上候、以上
十月七日
小倉人数頭 平井小左衛門
右之通、於出先御届申上候旨申越候付、此段御届申上候、以上
十一月四日
小笠原豊千代丸家来 高田浅之助

【摂津丸、丁卯丸新潟攻撃ノ事】
同日摂津丸船将届書写
去廿四日柏崎出艦、佐渡小木港ヘ碇泊、同廿五日越後松ケ崎ヘ一同着船、午前八字ヨリ十一字迄、諸兵隊上陸為致、賊地進撃之次第、山田市之允ヨリ、昨廿六日御届申上候ニ付相省候
摂津艦、丁卯艦之儀者、陸兵応援之為メ、新潟ヘ廻船之処、英国商艦二艘碇泊、同地ヘ互市致候様子ニ付、直ニ及談判、賊徒屯集之地故、当港速ニ退船候様申諭置候、丁卯艦之儀者御用ニ付、再度松ケ崎ヘ廻艦致シ、諸蒸気船之警衛候、同夜新潟港辺ニ銃砲相響候付、陸兵声援之為メ、沿海ヲ砲撃致シ候、今朝八字三十分、賊徒台場ヨリ御鑑ヘ発砲ニ及ヒ候付、直ニ連発、互ニ打合候内、賊之砲弾、御艦左舷ヨリ右舷ヘ打貫候砌、水夫菊四郎ト申者戦死仕候、其後午前十字三十分、丁卯艦松ケ崎ヨリ航来、相共ニ致繰打居候内、御艦之儀者急御用ニ付、松ケ崎ヘ廻艦致シ、丁卯艦ハ新潟沖ヘ相残リ居、臨機応援之積ニ御座候、同港不日攻落可申、委細ハ追々注進可仕候得共、一先此段御届仕候、以上
七月廿七日
先月廿八日午前八字、松ケ崎沖ヘ蒸気船一艘相見候付、丁卯艦一同進発仕候処、英国商船新潟ヘ差向候間、同所迄追掛、右英船ヘ、御艦士官ヨリ当港戦争之地ニ付、早々退帆致シ候様申諭置、正十字ヨリ午後一字迄、賊之砲台ニ差向ヒ、互ニ発砲仕候内、急御用ニ付、松ケ崎ヘ廻艦仕候、然処今午前三字、水夫儀助ト申者、川口ニ碇泊致居候売船ヘ申付、孥ニ仕立、賊地探索之為メ差出置候処、同五字上陸之節、賊徒両三人、小銃ヲ差向ケ相咎候得共、偽言ヲ以テ罷通リ、右売船問屋ニ至リ探索候処、賊徒白山ト申所ト海岸ト両所ニ、凡三百余人屯集仕居候由ニ付、海岸台場辺見廻候処、大砲七門処々ニ相備候付、其内一門ハ砲手居合セ不申候付、砲車押鉄取ハヅシ持帰、午後三字ニ帰艦仕候、右前後川ヨリ出帆致候商船数艘相留メ、御艦士官ヘ差向ケ、彼地之様子、且舟中相改見聞仕候処、右儀助見聞之事ニ符合候、即刻御艦士官磯兼虎之助ヲ以、新発田表参謀ヘ報知致シ、陸軍至急ニ進撃有之度、左候エバ海軍一同応援可仕段申遣候処、同日午刻八字、陸軍ヨリモ明廿九日未明、一同進撃之筈ニ付、海軍応援之儀申来候同夜十二字、丁卯艦一同新潟ヘ進軍、同廿九日午前二字賊之砲台ヘ差向ヒ、砲戦相始リ、同十字、新潟市中放火相見候間、尚厳敷両艦ヨリ繰打仕候処、賊徒台場ヲ棄テ遁亡候様子見受候付追撃仕候、陸軍モ追々進撃相見ヘ候付、発砲相止メ、英船ヘ賊徒逃込候モ難計候間、暫時取囲、其後端船ヲ以テ陸地ヘ押上リ候処、賊徒一人モ居不申候、川内碇泊之商船ヘ、潜伏モ難計候付、一々相改、帰艦仕候、此段御届申上候、以上
八月
右両条、其時越後出張御本営ヘ御届仕候エ共此段御届申上候、以上
十一月四日
御軍艦摂津丸船将 兼坂熊四郎
〇校正
太政官日誌第廿八号ニ、越後国片員村戦争之事件報知之内、書誤リ左之通
第一葉ノ前面ニ、小谷村ハ、千谷村ノ誤
同後面ニ、飯山之兵隊ハ、松代ノ誤
右之通御座候、以上
正月十二日
徳川三位中将公用人 横井内匠