太政官日誌・慶応4年67号

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太政官日誌第六十七
慶応四年戊辰秋八月

【西園寺、壬生両卿長岡城ヲ立退ク】
八月廿四日高遠藩届書写二通並別紙
若狭守人数、越後与板迄進軍仕、同所近傍逆谷村之上、笠脱山ヘ陣営罷在候処、六月廿四日日ノ浦ト申所ヘ賊徒屯集之趣、探索ノ者ヨリ申出、即刻一小隊繰出及進撃、六七人打斃賊兵忽散乱致シ候ニ付、以前之山上ヘ繰上、相固居候、然処殆及五十日候長陣故、暫時休兵候様、御達有之、再ヒ与板城下ヘ七月十七日引取、養兵気罷在候、同廿二日柿木村山之尾先ヘ出兵致シ候様、参謀衆ヨリ御達ニ付、則差出、長藩三好六郎隊ト交代、加州、長州越州、高田勢ト連隊同様ニ相備、木ノ芽峠ノ賊塁ト日夜連戦罷在候
一、長岡城先達而陥落後、西園寺中納言殿、壬生左衛門権佐殿御陣営被為在候処、賊軍潜込七月廿四日不意ニ放火、口々ヨリ襲来、官軍防禦至苦戦ニ候ニ付、御両卿ニモ俄ニ御動座相成、御供勢モ不相揃候ニ付、兼テ会議所ヘ差出置候弊藩野木捨三郎並椎谷藩一人、関原駅迄御供仕、御安居被為在候儀ニ御座候旨、出張先家来共ヨリ申越候趣、在所若狭守ヨリ申付越候間、此段御届申上候、以上
八月二十四日
内藤若狭守家来
三沢喜右衛門

越後表ヘ差出置候兵隊、去月二十八日川東長岡辺ニ当リ、大小砲声烈敷相響候ニ付、所々ヘ斥候差出候処、益強戦之体ニ相聞、長岡ヨリ下方ハ一円放火、其内追々注進ニテ、長岡城ハ官軍ニテ取返、賊徒ハ大敗之趣ニ御座候、二十九日夜半過頃、長州、高田等出張罷在候陣之峰ニ当リ候テ、砲声夥敷相響候ニ付、弊藩隊長青山七蔵、兵隊召列罷出候処、夜分之儀ニ付、難見極、及軍議候処、今夜所々之戦争ニテハ、兼テ対塁罷在候日之浦ノ賊塞、必狼狽之時節ニ可有之、此虚ニ乗シ、及掃攘度決評、長州之令官弘中虎之助ヘ申談候処、至極之策略ニ候エ共、従中軍御指揮無之内ハ猥ニ進軍難致間、篤ト見極候様申聞、堪居候得共、此機会ハ逃シ難ク、尚又同人ヘ談判、加州、越州、与板之隊々ヘ申合、倶ニ打掛、弊藩之戦士共先魁、賊塞ヘ乗入候処、賊徒悉ク敗走、直ニ及放火、一時ニ灰塵、遂ニ下方之賊モ、一々潰散之体ニ相見申候、其後薩州参謀方ヨリ、島崎ト申場所ハ要地ニ付、進軍仕候様、任差図及進撃候、其節分捕之品、別紙之通ニ御座候、且桑名知仁隊松浦秀八属下伊東金八郎ト申者ヲ召捕、及吟味候処、相違無之旨ニ付、会議所ヘ申達、引渡申候、右之趣出張先家来共ヨリ申越候旨、在所若狭守ヨリ申付越候間、不取敢此段御届申上候、以上
八月二十四日
内藤若狭守家来
三沢喜右衛門

別紙 越後島崎ニテ分捕
小銃ミニヘール 四挺 激発弾 ニッ
同長弾 一ツ 小銃尖弾 八十九
刀 一本 サーヘル 二本
紺木綿胴服 一ツ 黒雲才チャケツ 一ツ
胴乱 十六 陣笠 二蓋
弾薬箱 五ツ
右之通御座候、以上
八月二十四日
内藤若狭守家来
三沢喜右衛門

【崇徳帝神霊供奉ノ事】
八月二十五日高松藩ヘ御沙汰書写
松平讃岐守
来月上旬崇徳帝神霊御遷還ノ節、伏水ヨリ後列供奉被仰付候事
京極佐渡守重臣ヘ、八月廿日同様被仰付候事

【常州平潟ノ戦並奥州岩城平ノ手負】
同日下手渡藩届書写
出雲守人数、柳川藩一同常州平潟表守衛罷在候処、当七月二十八日九ツ時過、賊船三艘沖合ニ相見及発砲候ニ付、其段参謀御出張先ヘ注進仕、上陸ノ処、打留申度相待罷在候処、八ツ時頃岩城ノ方ヘ〓去申候、同二十九日朝五ツ時過、賊船一艘空砲打掛、尚脚船ニ乗組向ヒ来候ニ付、小銃連発致シ候処、忽チ舵ヲ転シ遁去、本船ヨリ頻ニ大砲打掛候得共、暫時ニテ洋中ヘ〓去申候
一、当七月十三日岩城平城攻撃ノ砌、弊藩手負左ノ通ニ御座候
深手
足軽 小畑小四郎
浅手 士分 向坂多仲 同 小山直之進
右之段、出張先ヨリ申越候ニ付、此段御届申上候、尤戦争ノ次第ハ、委細柳川藩ヨリ御届申上候通ニ御座候、以上
八月二十五日
立花出雲守内
森脩

【越後妙見、長岡、三条、月岡ノ戦】
同日徳山藩届書写
去ル七月二十九日暁、越後国長岡領妙見村ヘ在陣之本藩並弊藩兵隊、其他同所出立進撃、砲台相構居候十日町ヲ乗取、夫ヨリ続テ進撃六日町辺ニ於テ戦争、賊兵ヲ討退ケ、直ニ長岡城ヘ討入候処、賊兵敗走致候ニ付、同所ヘ宿陣仕候、此日於長岡城下テハ弊藩兵隊手負左之通ニ御座候
一番小隊
傷 白井友次郎 吉富二郎
二番小隊
傷 藤井孫四郎 立花林平
一、八月二日見附宿ヘ移陣仕候処、賊残兵モ悉ク当朝致退散候趣ニ付、即日同所発足、相進候処、凡二里外月岡ト申処ニ、賊兵二三百相残居候間、夕八時頃ヨリ川ヲ隔相戦フ、賊ハ川向ナル高地ニ拠リ碽撃ス、味方ハ纔ナル胸壁ヲ楯トシテ大ニ戦タリ、賊失防禦ノ術候哉、其夜半一里外退去ス、此日弊藩傷左ノ通御座候
傷 時田少輔家来 杉村良平
但此者儀用向有之、兵隊外彼地ヘ差越候処、於現地二番小隊ヘ組込、及戦争候儀ニ御座候
右ノ外味方死傷モ有之趣ニ候得共、姓名未詳翌日早旦三条ト申地ヘ大斥候ヲ差出候ノ処、賊徒近方ニ相見不申候ニ付、残置候器械等、分捕モ数多有之候由、翌四日早天、又々大斥候ヲ差出候処、賊兵保内ト申地ニ、砲台ヲ設ケ固守仕候間、直ニ進撃、容易ニ砲台ヲ乗取賊ノ屯所加茂ヘ打向、追撃シテ大ニ得勝利申候、此日薩州死傷数多有之候由、其他者未詳只今ニテハ賊兵加茂ノ一里計山手ニ屯集仕居候由、右ハ北越出先ノ者ヨリ申越候間、不取敢其侭御届奉申上候、猶相違ノ儀モ御座候得ハ、取調ノ上追テ可奉申上候、以上
八月二十五日
毛利宗五郎内
時田少輔

一、五月十一日於越後国榎嶺戦争ノ節
一番小隊
死 無敵幸之進
一、同日於妙見口同断
小隊
傷 園川半之允 久永重介
蒲田織平 吉島常吉
権兵衛
一、同十四日於榎嶺同断
死 三番小隊 井上三郎
一、同十九日於長岡同断
死 四番小隊 坂井栄太郎
右先般御届申上落シ候分
一、六月二日於越後国今町戦争ノ節
傷 小隊 精一郎
一、同二十二日於亀貝村同断
死 小隊 佐久間友槌
一、同日於半蔵金同断
死 小隊 畠中孫助 下田小太郎
河田原太郎
傷 吉津貞吉
右七月七日死
一、同日於赤田山同断
死 小隊 阿川五郎
一、同二十八日於与板口同断
傷 隊長 江良和一
一、七月二十四日於長岡城下同断
死 一番小隊 藤井直衛 大崎源吾
傷 中山四郎 北村忠蔵
死 大砲隊 原新平
傷 佐々木熊二郎
一、同二十五日ヨリ同二十八日迄ノ間、味方ハ妙見、賊ハ十日町ニ砲台ヲ設ケ、昼夜互ニ砲撃仕候
上原二九郎
右五月十三日於榎嶺傷御届申上置候処、七月四日死
右之段北越出先ノ者ヨリ遂注進候間、其侭不取敢御届申上候、猶委細ノ儀ハ取調、追テ可奉申上候、以上
八月二十五日
毛利宗五郎内
時田少輔