慶応4年19号

太政官日誌第十九
慶応四年戊辰夏五月

【羽州清川ノ戦】
長州藩届書写
奥羽鎮撫使へ為御随従、弊藩ヨリ差出候兵隊之内、副御総督沢三位殿、仙台ヨリ羽州へ御発向ノ砌、御従兵トシテ被召連候処、新荘辺ニテ、荘内賊兵跋扈、官軍ヲ相抗候ニ付、薩州勢ト合併、討手トシテ被差出、四月廿四日早天、賊城ヲ距ルコト五里、清川ト申処ニ於テ、関門ヲ隔ルコト三四丁、川ヲ夾ンテ及戦争候処、賊兵凡千人許、関門砲台ニ相備候二十余門ノ大砲ヲ打出シ、官軍ハ両藩ノ兵僅ニ百五六十人、臼礟二門、其他小銃ノミニテ、頗苦戦ニ及候得共、敢死ノ兵、奮戦、遂ニ進テ川原山ニ押寄候処、賊兵挫折シ、砲台ヲ棄テ、杉林ニ引退キ、砲銃弾丸雨ノ如シト雖モ官軍不撓、進テ川ヲ渉リ、隊ヲ四方ニ分チ、遂ニ陣屋ヲ陥レ、官軍勝利ニ相成候由、其節弊藩死傷別紙ノ通ニ御座候、此段出先ヨリ遂注進候ニ付、不取敢御届申上候、以上
五月六日
長門宰相内 寺内暢三

討死 竹内藤槌
吉松赤助
河ニ陥リ死体不知 松本茂太郎
同 内田百合熊
深手 山本市之進
伊藤太一
黒瀬初熊
薄手 藤井雅多七
藤村禄平
安村梅太郎
河東増之進
右前書之通御座候、以上
五月八日
長州

【越後鯨波ノ戦】
加州藩届書写
前月廿日御届申上置候通、越中領境へ出張人数五小隊、砲隊共越後路へ繰出シ、猶又四小隊同様追々高田へ相向候処、右人数之内、五小隊、砲四門、鉢崎へ出張、青海村等手配方参謀より申談候ニ付、去廿三日鉢崎着陣、其後惣軍配相定繰進候処、廿六日夜、長藩隊長ヨリ賊徒鯨波へ屯集、官車へ相抗候ニ付、翌廿七日、人数繰出候様、弊藩軍監土田宗之助へ申聞候、依之隊長水上喜八郎、高畠猪太夫、杉本美和介等諸勢発向、鯨波へ道程一丁計リノ処ニテ及発砲、賊徒ヨリモ応発戦争中、薩長藩手ニテ鯨波焼打候処、賊徒四五丁許引退官軍惣勢不透相進、頻ニ及攻撃候、然処、賊徒左之山手続松原ノ切所へ潜伏、大小砲打出候付、弊藩堀丈之助、宮崎久兵衛隊打進、右山根小高所ヨリ、小銃厳シク打立候処、賊徒切所ヲ捨、山越ニ敗走致シ候ニ付、右久兵衛隊押登リ、水上喜八郎除ハ浜手へ相廻リ、大砲打立、薩長高田勢ニモ奮発致攻撃候由、先陣先ヨリ告越候、尚巨細ノ儀ハ追テ取調へ、御届可申上候得共、先此段不取敢申上置候様申付越候、前件之趣ニ付、尚応援出兵之儀、参謀役申聞候付、直様二小隊同所へ繰出、且重臣前田土佐守附属ノ人数共、先達而来越中領境為取締出張罷在、此段御届申上候、以上
五月六日
加賀宰相中将内
里見亥三郎

【薩長両津越後戦争概略】
一、閏四月十九日、薩長之兵高田着陣、探索ノ敵情ニヨリ、直様戦略ヲ定メ、先達以来荒井駅滞陣ノ尾州以下信州諸藩ノ兵ニ、薩長高相ノ兵相添、松山越千手辺ヨリ出張、加州高田之兵ニ薩長ノ兵相添、柏崎口青海川辺へ出張ス
一、同月廿四日薩州一小隊、長州二小隊、松代一小隊、飯山一小隊、尾州一小隊、千手ヨリ千曲川ヲ渡リ十日町ニ押出ス、廿五日暁路ヲ分テ六日町ニ進入ルニ賊一人モ不見、昨日小出ノ方へ逃去候由ナリ、夫ヨリ尾兵ヲ陸路ヨリ進メ、薩長ノ兵ハ川舟ニテ浦佐ニ至リ直様大斥候旁尾兵ヲ橡原峠ニ進マシム廿六日薩州半小隊、飯山一小隊、尾兵ニ合シテ堀内ニ進ム、廿七日暁八ツ時過、大雨ヲ侵シ、薩半小隊、長二小隊ヲ以テ、浦佐ヨリ魚沼川ヲ渡リ、賊ノ斥候ヲ追散シ、直ニ小出島ヲ攻撃ス、賊駅口及ヒ川堤ニ仮砲台ヲ設ケ、烈シク防戦、薩長之兵両道ヨリ奇正互ニ進ミ、佐梨川ヲ渡リ、市中ニ突入シ、激戦シテ遂ニ小出島ヲ破ル、堀内ノ兵ハ、川向ヨリ四日市ノ賊ニ当リ、薩長ニ応援ス、賊悉ク会津道六十里越ニ走ル、乃テ四日市ニ飯山之兵、小出島ニ松代ノ兵ヲ備へ、余ハ堀内ニ引揚固守ス、此戦暁六ツ半時ヨリ一小時間余ナリ、薩長討死九人、手負二十人、尾州手負一人、姓名別ニ具ス賊ノ死傷ハ余程多分有之様相見候
一、同廿六日暁、尾州、松代、松本、高田等ノ兵千手ヨリ小千谷ニ進ム、賊雪峠ノ険ニ拠リ、山腹ニ砲台ヲ設ケテ防禦ス、官軍四ツ時前ヨリ七ツ半頃マテ攻撃、松代ノ兵峰ヲ踰候故、賊敗走、山上ヨリ大砲ヲ発シ候得共、官軍終ニ山上ニ押登リ、賊小千谷ノ方ニ走ル、此時夜五ツ時也、廿七日暁、小千谷ニ至ル、賊既ニ長岡ニ走候候由ニテ一人モ無之、官軍代ツテ陣屋ニ入ル、官軍死傷十人許、姓名未詳、賊路傍ニ仆居候者一人、生捕四人、其外死傷多ク相見へ候
一、同廿七日、薩州一小隊、長州ニ小隊、加州二小隊二砲門、高田一手、前夜ヨリ申合未明鯨波前七八丁迄押出シ候処、加州、高田ノ兵未来候故、援兵ト定置候薩長ノ兵ヲ以、直ニ鯨波ヲ攻撃ス、賊駅口ニ激戦ヒ、終ニ不能支、人家ヲ自焼シテ走ル、薩長追撃シテ鯨波駅外ニ至ル、高田、加州ノ兵追々来リ加ハル、賊柏崎ノ前右手ノ山ニ依リ松林ヲ楯トシ、烈シク防戦、山下ハ水田ニテ、是日大雨如傾、渓水暴漲、薩長半隊ヲ以テ勇進、其山ヲ奪ヒ、直ニ万神堂ヲ攻ントス、加州勢継カス、且兵疲ルヽヲ以テ鯨波ニ引揚候、今日長州討死二人、手負七人高田討死三人、手負八人、加州討死六人、手負廿四人、姓名別ニ記
一、同廿八日、桑名、水戸之賊及ヒ歩兵等、昨夜ヨリ柏崎ヲ捨テ逃去候様子相聞候ニ付、官軍進テ柏崎ニ入、要地ヲ占拠ス、賊一二里外ニ磐踞シ、斥候三四十人ヲ出ス、官軍挙テ之ヲ退ク
右之処戦争之大概ニ御座候、以上
戊辰五月朔日
薩長先鋒

官軍死傷姓名
閏四月廿六日雪峠戦
死傷十許人、姓名未詳
同廿七日小出島戦
薩州討死六人
松崎勘衛 佐藤林蔵
臼井道斎 児玉清兵衛
長静吾 野崎半左衛門
同手負八人
有馬誠之丞 松崎祐斎
高崎泰助 児玉源之助
東次郎太 上村緑樹
和田軍太 夫卒 直左衛門
長州討死六人
杉山徳太郎 伊藤俊三
山田藤五郎 大本昇
吉武五郎 清水甚蔵
同手負九人
元森熊次郎 松村新蔵
飯田伊之助 貞永卯之助
橋本九兵衛 田村治之助
田中与兵衛 梶山鼎助
前田和吉
尾州手負一人、姓名未詳
同日鯨波戦
長州討死二人
増野矢之助 早川文蔵
同手負七人
林市太郎 剣山三郎治
福良忠三郎 生雲平六郎
藤川寅之進 桂富三郎
吉城要三
高田討死三人
今井新左衛門 今井与作
京田啓次郎
同手負八人
水野滝之助 田中金之助
山本源蔵 小出豊吉
秋山新吉 幸山七十郎
幸三郎 夫一人
加州討死六人
水上徳二郎 武井弥三右衛門
供田小三郎 滝猪之助
竹村伝二郎 松本市之丞
同手負廿四人
高畠猪太夫 西村与三郎
辻金左衛門 山崎啓之助
千秋覚左衛門 清水権太郎
中山市之丞 安宅常三郎
高桑十左衛門 浦田直二郎
村尾六之丞 西村要助
松山喜十郎 橋本一之進
高橋熊二郎 高橋新二郎
大町弥八郎 鍋沢和吉
上林善六 大西清作
石黒勘太夫 黒田金之丞
牧砲二郎 坂井弥右衛門
以上
戊辰五月朔日
薩長先鋒
別紙両通、北越出先ヨリ遂注進候ニ付、不取敢其侭差出、御届申上候、以上
五月七日
薩摩少将内
新納嘉藤二
内田仲之助
長門宰相内 寺内暢三

【越後雪峠ノ戦】
尾州藩届書写
閏四月廿二日、弊藩人数越後国太平村ニ宿陣仕候処、同国魚沼郡千手宿辺、賊勢屯集ノ趣相聞、監軍岩村精一郎ヨリ、為斥候人数差出候様申聞候ニ付、弊藩高橋民部一隊、藤長之兵隊ニ組合攻撃仕、飯田、松代ヨリモ一隊宛右千手宿迄繰出、弊藩先鋒総括千賀与八郎儀モ、翌廿三日同宿迄相進ミ滞陣、同廿六日暁同宿ヲ発シ、四ツ半時全軍直人村へ着陣、即刻筑摩川左淵通路へ斥候差出、発砲為致候処賊徒ヨリモ致砲発候ニ付、高田之兵ニ謀合セ右兵ハ山上ヨリ、弊藩人数ハ大砲隊並銃隊ヲ以坦途ヨリ進ミ苦戦仕候処、与八郎自ラ途中ニ遺却有之候旌旗ヲ持チ、叱咤シテ前頭ニ進ミ候ニ付、山上ヨリモ相進ミ、夕七ツ半時頃マテ戦争仕候処、賊徒敗走、雪峠陣屋焼払遁去仕候ニ付、官軍池ケ原マテ進撃、同処ニ滞陣仕候、最初諸隊奮戦之節ハ、松本勢川向へ相進、松代勢ハ弊藩後陣ニ相備、山上ヨリモ高田勢、弊藩人数ト合シ砲戦仕候、弊藩人数山上へ相登、刻苦奮戦、坦途ヨリ向ヒ候兵ト挟ミ討ニ仕リ、終ニ賊徒敗走ニ及ヒ申候
右之趣、先鋒千賀与八郎遂注進候ニ付、御総督府へハ成瀬隼人正出張先ヨリ申上候間、此段申上候様大納言ヨリ申付越候ニ付、不取敢御届申上候
五月八日
尾張大納言内
尾崎将曹
別紙戦争ニ付、弊藩手負之者、左之通ニ御座候

浅手 千賀与八郎隊 寺尾定吉
同 藤村庄太郎付属大砲方 西川鐐次郎
深手 久野長一隊 根岸金次郎
夫之者二人
賊徒死人手負等有之趣ニ御座候得共、猶吟味之上、追而御届申上候事
五月九日
尾崎将曹

【野州野口駅ノ戦】
大垣藩届書
東山道先鋒へ、弊藩ヨリ差出置候人数、野州宇都宮へ出進罷在候内、去月十三日、薩州一小隊、弊藩一小隊、為斥候出進候処、同十四日、野口駅ニ賊兵ニ二百人余屯集之趣ニ付、進撃及炮発候処、賊兵終ニ敗走、依之上阿野沢村迄尾撃仕リ、賊徒七人討取申候、尤当手ニ討死、手負等無御座旨、急便ヲ以申越候間、一小戦之儀ニハ御座候得共、此段御届申上候
以上
五月八日
戸田釆女正家来
壮合猪之介
柴崎秀左衛門

【羽州蔵増川岸ノ戦】
館林藩届書写
羽州村上郡ニ但馬守分領有之候ニ付、勝山村ト申処へ陣屋取建置、郡奉行始夫々取扱向之役人、兼テ差遣置候処、先般出兵之儀ニ付被仰出之旨モ御座候ニ付、素々陣屋ノ事故、多分之人数モ無之候得共、御差図次第有合之人数繰出之儀、但馬守ヨリ兼而申付置候儀モ有之候処、今般御鎮撫使様御発向ニテ、御差図之儀モ御座候ニ付、有合ノ人数繰出候処、去月四日蔵増川岸ニテ戦争之節、大砲 附ノ者、別紙之通討死手負有之候旨、在所館林表迄申来候由ニテ、猶今便申来候間、此段不取敢御届申上候、以上
五月八日
秋元但馬守家来
高山藤内
一、討死 但玉疵 大砲隊 梶塚勇之進
一、深手 但股打抜 同 小沢鋒次郎
一、即死 但額打抜 大砲隊附下部 清六
一、深手 但刀疵数ヶ所 同 鶴吉
一、同 但鎗疵数ヶ所 同 孫八
右之通御座候、以上
五日八日