太政官日誌・慶応4年1号

太政官日誌 第一
慶応四年戊辰二月

【醍醐大納言、東久世前少将、宇和島少将、大阪ニ於テ各国公使ト応接ノ始末】
二月十四日午ノ半刻ヨリ、申ノ刻マテニ、大坂西本願寺ニ於テ醍醐大納言殿、東久世前少将殿、宇和島少将殿、各国公使ト応接ノ始末、左ノ如シ
但外国事務掛及ビ諸藩家老列座
一、東久世殿発話、我日本政体王政復古帝自ラ政権ヲ握シ、外国ノ交際モ、一切朝廷ニテ曳請、裁判可致旨意ハ、過日兵庫ニ於テ布告セシ如ク、相違アルコトナシ、此節外国事務局ヲ建立シ、交易通商一切ノ諸事件、悉ク外国事務官ノ裁決ニアルヲ以テ、今日改メテ朝廷守護ノ列藩ト共ニ各国公使ニ会同シ、此盟約ヲ定ム、自後普ク日本人民ト、外国人民トノ交際厚ク、誠実ヲ尽シ、互ニ疑惑ナキヲ以テ主意トナサン、故ニ大小ノ事件、外国ニ関係スルノ務ハ、外国事務局ノ専任ナルヲ以テ、我等ニ就テ帝ニ建言スルヲ要セヨ
各国公使曰、先般兵庫ニテ布告アリシ其証明白ニシテ、今日改メテ列藩会議帝普ク政令ヲ下シ、両国人民ノ為メ、広ク信睦ヲ求メ、互ニ誠実ヲ旨トナスハ、我各国ニ於テモ、兼々渇望セシ処ニシテ感悦之至ニ堪ス、自今 朝廷帝ヲ以テ日本ノ主府ト仰キ、万事其政令ヲ奉セントス
一、亦日、此度万国ト我カ帝ト条約ヲ改メシ上ハ、各国公使ニ帝自ラ封面シ、盟約ヲ立ン、故ニ不日上京アルヘキ旨、各国公使ニ可申入帝ノ命ヲ奉シ候
公使曰、恐入候、談合ノ上、明後日否可申上
一、亦曰、当今戦争ノ後ハ、京摂及ヒ諸所ニ、鎮撫ノ師ヲ出シ、過半其政令行ハレ、既ニ各国ノ諸侯ヲシテ、徳川慶喜征討ノ師、京ヲ発セシ上ハ、不日ニ其成功アルヘキハ勿論ナリ、自ラ横浜、箱館、外国人在住ノ場所ハ朝廷ノ官吏ヨリ、人民安堵ノ令ヲ下スヘシ則慶喜ヲ征討スル事実明白ノ罪状、書面ヲ布告スヘキナリ
公使曰、慶喜ヲ討伐ノ師既ニ京師ヲ発セシ上ハ、関東ノ形勢安心ナリカタシ、若早ク帝ニ拝謁スル能ハズンハ、速ニ浪華ヲ去り、横浜ニアル人民ノ為メニ、彼地ヲ鎮静センコトヲ欲ス
一、亦日、明日中ニハ上京ノ日限申来ルヘク、夫マテ滞坂、其上進退セラルヘシ
公使曰、帝ニ謁スル期限ノ日数ヲ確定シ、以テ此事ヲ約セン
一、亦曰、今日必相分ルヘシト雖、弥確定スルハ明十五日ト定ムヘシ
然ラハ明後十六日十字ノ朝、米国公使館ニ於テ再会シ、各般ノ諸事件ヲ約定セン
右之通ニテ相済、申ノ刻、各聞公使退出セリ
【各国公使参朝被仰付】
先般外国御交際之儀
叡慮之旨被仰出候ニ付而者、万国普通之次第ヲ以、各国公使等御取扱被為在候、然ル処此度御親征被仰出、不日御出輦被為遊候ニ付而者、御余日モ無之御事ニ付、各国公使急ニ参朝被仰付候ニ付、此段可相達被仰出候事
【太政官の責任】
外国御応接之儀者、上代崇神仲衷、御両朝之頃より年を逐而盛に成来り遠迩之各国、帰化貢献有之、其後唐国とは常ニ使節相往来、或ハ居留し、其交際も亦自ら親敷候、此時に当り、船艦之利未ダ開けす故ニ三韓四近と唐国而巳、西洋各国之事者暫差置、印度地方尚明確ならす候、然るニ近代ニ至り而者、万民所知之如く船艦之利、航海之術、其妙を窮め、万里之波涛比隣之如く相往来し、一時幕府之失措トハ乍申皇国之政府に於て誓約有之候事ハ時之得失に因テ其条目者可被改候得共、其大体に至り候而者、妄に不可動事、万国普通之公法ニして、今更於朝廷是を変革せられ候時者、却而信義を海外各国ニ失ハセられ、実以不容易大事ニ付、不被為得止、於幕府相定置候条約を以、御和親御取結に相成候、既ニ先般御布令被為在候上者皇国固有之御国体と万国之公法とを御斟酌御採用ニ相成候者、是亦不被為得止御事ニ候仍而越前宰相以下建白之旨趣ニ基き、広く百官諸藩之公議に依り、古今之得失と万国交際之宜を折衷せられ、今般外国公使入京参朝被仰付候、元来膺懲之拳ハ万古不朽之公道にして、縦令和親を講するとも、其曲直ニ依而、各国不得止之師相起り候其例シ不少、付而者、攻守之覚悟、勿論之事に候得共、和親之事ハ於先朝既ニ開港被差許候ニ付皇国と各国との和親、爰に相始り居候処、其節者幕府江御委任之儀ニ付、諸事交際之儀、於幕府取扱来り候、然る処此度王政一新万機従朝廷被仰出候ニ付而者、各国交際之儀、直ニ於朝廷御取扱ニ可相成者元より之御事ニ候、今や御初政之御時、総而之事件者、全く総裁始当職之責ニ有之候、何分某等不肖之身を以て、大任を負荷し、非常多難之時に逢候上は、深く恐惧思慮を加ヘ、天下之公論を以て、及奏聞、今般之事件御決定被為在候、且国内未タ定らす、海外万国交際之大事有之候得共、普天率浜、協心戮力、共ニ王事ニ勤労し、万国交際を始、万機悉く既往将来を不論、無忌憚詳論極諌有之度、只急務とする処者、時勢ニ応し、活眼を開き、従前之弊習を脱し聖徳を万国に光耀し、天下を富岳之安に置き列聖在天之神霊を可奉慰、上下挙而此趣意を可奉謹承候事
太政宮代三職
二月十七日