江城日誌・慶応4年13号

江城日誌 第十三号
慶応四戊辰年五月三十日

五月廿九日
小田原出張軍監より文通写
然者去ル廿七日午刻大磯駅迄着陣、夕方加賀守家老岩瀬大江之進、年寄蜂屋重太夫、留子居郡権之介、三ケ条問罪御答として罷出、謝罪之書面差出候得共、期限延引ニ相成候上、一ツとして条理相建候儀無之、曖昧之事而已ニ而、不憚朝威次第、厳敷叱付、御答不分明之儀有之ニ於てハ、速に居城を屠り、加賀守始家来共不残、可致誅戮旨、御沙汰ニ候間、直ニ進撃可致間、早速罷帰り、防禦之手当可致様申渡候処、大ニ恐縮仕、何分ニも謝罪之実功相立候ニ付、寛大之御沙汰を蒙り度、只管歎願仕候得共、強弁無益、速ニ立去り候様申聞追放申候、従是先馬入ニ長藩、中原村ニハ備州藩小隊を残し置、伊州、備州両藩より、一小隊宛、酒匂川岸へ、為斥候隊進軍致し候処、川役人共打寄、仮橋為掛居候最中ニ而、大ニ都合宜敷、早々進軍致し候ニ付、諸隊不残進軍、直ニ城下ニ入申候、備前藩ハ、酒匂川上飯泉と申所へ廻り、夫より渡り、同城下ニ入申候、然処大久保重役共、精服ニ而出向、哀訴仕暫時打入見合呉候様、段々及嘆願候ニ付攻撃見合、入城仕候処、加賀守ハ菩提寺へ引取、謹慎罷在候段申聞候ニ付、直様参上可致旨申渡、彼是仕居候内罷出候ニ付、三ケ条及糾問候処、一々奉恐入、全く不明にして奸臣ニ委任仕置、今日ニ至候段重く奉恐入候、此上ハ如何様ニ被仰付候共、聊以申上訳更ニ無御座、深悔悟仕、謝罪之実功相立挙家出兵仕、先刻より賊兵を追撃為致置候ニ付、何卒寛大之御処置被仰付度旨、再三歎願仕候ニ付、先ツ攻撃相止、同人ハ菩提寺ニ而謹慎、居城請取弾薬、器械為差出申候、且同人兵隊之者共ハ、先刻より箱根口へ出張致し居候ニ付為点検各藩一小隊ツヽ、尾行進軍、午中刻より大久保兵隊戦争相始、五字二点迄砲戦致し居候得共、勝敗不相分、同隊手負即死追々有之候ニ付、四藩申合、一時ニ進軍、四点之中ニ、賊兵大敗、山崎村迄追撃致し候処、日暮ニ及び候ニ付、惣軍をまとめ、大久保兵隊を番兵ニ残し、長、因両藩兵隊、風祭村ニ屯集、備、伊両藩ハ小田原迄凱陣仕候、手負打死別紙之通御座候間此旨問罪督府江可然御達被仰上可被下候、且昨日之所ハ因藩より之別紙ニ相譲り申候、尚委細ハ、使口頭ニ托し候間、御聞取可被下候
一、右之次第ニ而、出兵致し候事故、機械取集、甚手間取申候、依之今日は大久保兵隊不残引上、器機相揃候覚悟ニ御座候間運送船早々御廻し可被下候
一、謝罪実功相建候得共、家老年寄斬罪当然之儀ニ付、明日申渡候心得ニ御座候、首級ハ如何可仕哉、此段相伺候
一、件々相済候上、函嶺ニ兵隊相残し候哉、且軍監附属之兵隊相残し不申而ハ不相成儀と奉存候、此辺も相伺度候
一、市民撫育之儀ハ、加賀守家来共、乍慎相勤、旧蔽を去り、鎮撫之実功相立候様申付候
右之段御報知申上度、如斯ニ御座候
五月廿八日
小田原出張因藩より文通書抜
去ル廿七日、進軍之次第廿六日残賊追討之都合ニ候処、兎角大久保藩兵気甚鈍く、全前日之戦争ニ恐縮仕候様子ニ見請候得共、実行成丈相建させ申度存寄ニ而、種々説得候処、追々相進ミ、漸四字ニ至り、箱根宿へ着、賊兵ハ九字頃ニ右箱根迄引揚、兵糧等相遣ひ、三島宿あたみ之方へ落去仕候由ニ相聞申候、始終兵気之不進故、跡々ニ相廻り、実ニ残念之至ニ候、尚又其より右三島あたみ之両道へ分隊為致繰出し候処、残賊之内、林昌之助一手と相見候者、箱根宿外れ山上ニ、三十人計、大砲一門、小銃一挺宛相携、休息致し居候様子ニ而、右小田原藩へ向、砲発仕候処、散々馳帰り候ニ付、尚又跡より追建、押而山上へ為進候処、人数之内、兼而強壮之者と被存候者、両三輩も抜刀、真先江相進ミ候処、跡より追々相進候者も有之、生捕両人、及打取六人、所持之器械等者、不残分捕相成申候、其後も大島と申処、三島道之由、賊徒一小隊計屯集之由ニ付、直様夕方繰出し置申候、尤あたみ路江も同様之事ニ候、右分捕之内、少々手掛り之書面も有之候ニ付、直様小田原表江備藩同断罷帰申候
五月廿八日
因藩 足立勘四郎
別紙
手負 長藩 松岡梅太郎
因藩 井上静夫
梶浦清蔵
佐々木永之丞
大久保家より差出候届書写

薄手 家老 渡辺了叟
同格 吉野大炊介
番頭 山本主計介
深手 足軽頭 松下舎人
小与頭 小川小右衛門
討死 銃士 石川鎌治
片桐左仲
鈴木久太郎
深手 奥平兵庫
飯野数衛
牧野半吾
薄手 村田吉之介
片桐久太郎
岡島峰衛
山下江並
里見粂之丞
大西藤四郎
坂部弥一郎
河合健三郎
小早川丹造
大木錠四郎
村山徳三郎
討死 徒銃隊 高橋藤太郎
右者昨廿六日午中刻より之戦闘ニ而、打死手負等如此御座候以上
五月 大久保加賀守家来 郡権之助