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江城日誌・慶応4年前編

江城日誌前編

四月廿一日
今巳半刻大総督宮増上寺內真乗院御出馬城內江御転陣之事
御転陣後諸総督参謀等参集之事

四月廿二日 大総督宮より諸道参謀諸隊長へ御口上書之写

今般賊徒追討として海陸軍を総て東下し各戦闘勲労有り昨日当城へ転陣いたし候者全諸道総督を始参謀各藩之協力勉励に寄る処なり
実に今日迠尽力之趣ハ委曲追々可逐奏聞候
乍併未だ全成功にも不至且府下恭順を唱へ候得共人心居合不相付中々安意ノ出来候訳に無之者衆皆所知也猶此上各心を一にし勉励して速に逐成功一日も早く可奉安宸襟諸道総督を始參謀各藩之隊長士卒に至迠我不肖朦昧を輔け共に努力して天朝之御為に尽忠可有之候当城へ入候上者早速万民鎮撫安堵之大号令を可発ハ勿論也其綱目ハ
如何して可然哉各見込無隔意為聞可申且諸道手配之計策も同断見込可申出委曲承度候事

四月廿三日御軍議に付諸道総督参謀隊長
等登城隊長より差出候書付之写

御城内持場所々御究被仰付遊軍於有之者四方応接仕候樣被仰付度候事
軍監并斥候役被為置度候事
水道御取調被仰付水源へ御人数御指出取締被仰付度候事

兵狼米并野菜等日積を以諸隊へ御渡被仰付其手〱にて炊候様被仰付度候事
但炊道具人数に応じ夫々御渡被仰付度候事
押借押買いたし候もの共於有之者早々其筋へ申出候樣被仰付度候事
四月

四月廿四日田安中納言へ達書之写
国財之儀ハ元来政権へ附属いたし候もの之処去冬徳川慶喜より大政返上に相成候付ては今般金銀銭製局現在有物共朝廷に御引上に相成候間此旨役々へ可相達旨御沙汰候事

四月

平川和太郎より届書之写
去十四日十五日より賊徒の形情切迫に相成候に付十六日夜小山宿より兵を進め候処敵大勢にて苦戦尽力いたし其夜賊徒一里程引退翌十七日新田宿迠押行候処敵ハ小山駅へ押来候に付総軍径に向ひ戦争に及び候処何分賊徒大勢に付尽力相戦候得共勝算無御座候間兵を纏め宇都宮へ引退申候結城へ向ひ候人数も屡々の戦争にて十七日ハ結城より小山駅之途中にて戦争に及ひ是又難戦にて引揚十八日先下舘より来り候賊兵を支へんと及出兵候処翌十九日賊兵弥加り候間遂に支兼一ト先引退き応援之兵を待ち再事を成んと自焼して夕刻宇都宮を引払ひ古河迠引退き弾丸手当手負人労士之処置いたし候上明日ハ再宇都宮へ発向之積りに御座候此段御届申上候以上
四月
再啓討死手負等別紙差上申候猶諸藩ハ取調之上跡より可申上候以上

四月十七日小山駅にて戦争之節
討死 彦根藩 小泉弥一右衛門
手負 同隊 九人
討死 渡辺九郎右衛門隊三人
手負 同隊 三人
討死 大番隊長 青木貞兵衛
同 同隊 四人
手負 同隊 二人

同十九日宇都宮戦争之節
手負 小泉弥一右衛門隊二人
討死 渡辺九郎右衛門隊一人
手負 同隊三人
討死 佐野小銃隊一人
手負 同隊一人
同十六日十七日十九日戦争之節
討死手負 須坂藩 二十三四人
间 岩村田藩 二十人計り
手負 中軍 二人
討死 壬生藩 一人
同 笠間藩 四人
以上

四月廿七日有馬兵庫頭家来より届書之写

四月廿一日壬生城より官軍御出張に付御先手に相進候処翌廿二日曉於野州安塚村戦争に相成申候其節手負討死等左之通
討死 士分 原田留三郎
同 寺村好太郎
同 足軽 鈴木角之丞
同 熊倉元吉
深手 士分 広瀬長次郎
浅手 西村要蔵
深手 長多勘蔵
同 林崎九右衛門
同 久保鶴吉
浅手 大竹作弥
同 渡部佐太郎
右之通御座候以上
四月
有馬兵庫頭家来
辻元收蔵

四月廿九日笠間藩より届書之写
当月八日東山道御総督御軍監より野州宇都宮藩為御使者日光辺不容易形勢に付藩力相応之人数早々差出候様以書村御達有之同月十二日越中守人数宇都宮へ差出候処同月十五日隊長之者御呼出有之野州古河駅へ浮浪のもの屯集に付人数差向候樣依御達翌十六日御官軍彦根藩壬生藩并弊藩古河表へ出張仕候処跡より以御使番総州結城表へ浮浪多人数屯集罷在候に付人数相廻し候様御差図有之依而小山駅より結城之方へ凡十町余り罷越候途中に於て浮浪徒の方大砲一声相響夫より杉森或ハ畑中より大小砲一度に打出暫時及戦争候処則別紙之通戦死手負のものも有之難及力戦結城宇都宮の方へ人数引揚候処猶又雀之宮宿へ差出候様御差図に付御軍監一同繰出十七日暁石橋宿より結城小山の方へ差向候様又々御差図に付相進候処引取東裏にて又々戦争相成是又半時余も相戦候得共追々人数も相疲候に付御軍監に御届之上笠間表へ帰陣仕侯事に御座候以上
戦死手負名前
討死 番頭 川崎忠兵衛
討死 目付 藤江右膳
同 戦士 中村庄三郎
同 大砲方 秋元金吾
同 戦士 川崎保蔵
同 大砲方 川俣善七郎
浅手 物頭 喜多右門
同 大砲方 加藤益三
同 医師 原松栄
同 戦士 堀勇輔
深手 大砲方 村尾源介
右之通御座候以上
四月

閏四月二日田安中納言へ御沙汰之写
昨今之時勢に付格別苦慮尽力之事件深感思食候尚此上見込之儀者無忌憚申出万端
可抽誠忠旨大総督宮御沙汰候事
閏四月 大総督府 参謀

真田信濃守より届書之写
兼而御届申上候通先月廿五日当国飯山表に屯集之賊徒共安田村渡船場辺において戦争之節討取并私人数手負打死左之通
討取三大
但安田渡船場に於て小統にて水中へ打落し申候
右之外討留并為手負候賊徒有之候得共川を隔候戦争故即時賊徒共取片付候に付員数相分不申候
鉄砲薄手負 士分大砲方 清水一郎左衛門
同 足軽物頭金児友太郎組 中島熊次郎
同 小沼長兵衛
右之通御座候尤分取物召取人等有之由に御座候疾にも敗走之賊徒為追捕越後口諸所へ人数分配差出候に付隔地に相成聢と相分り兼候間追而取調可申上此段御届申上候以上
閏四月二日
真田信濃守

閏四月八日筑前藩より届書之写

昨七日申刻頃より船橋之方にて頻りに砲声相聞候に付軍列相整押掛り候処賊兵より大砲備へ砲発致し候に付此方よりも大砲打掛申候処賊兵山中へ引取候由佐土原藩より申越候に付弊藩も右山中へ討入らんと談し居候内不意に横合又後より頻りに賊兵発砲いたし是が為に味方人数不覚を取大頭竹中与右衛門も何方引上ケ候哉行方不相分候に付精々苦戦仕候得共大砲備ひ漸く両三人差残り候事故一ト先引取申候右に付急々弊藩之内人数御差向被下度奉願候以上
閏四月
筑前藩 宋甚四郎

閏四月十二日薩藩より届書之写

閏四月七日暁四字頃上総国八幡宿より戦争相始申候処無間賊兵逃出し五井宿辺并近隣之村々へ屯集仕候賊兵も悉く散乱仕即時より急撃の追打に罷成大概十二時頃姉ケ崎宿迄追詰申候処右之所にて賊兵礟台を築立暫時ハ踏止り接戦に及び申候処是以難なく両所の台場も攻破り姉ケ崎宿も十町位者過行き追撃仕候得共皆賊兵ハ東西に逃去候夫故官軍ハ総而姉ケ崎宿へ引纏ひ宿陣仕候尤賊兵之死骸大凡二百位と申事に御座候私共隊之手負人数左之通
深手 入江直次郎
同 原田長左衛門
薄手 益満新七
同 満尾正左衛門
同 川上四郎次
深手 夫卒 権太郎
右之通戦争形行御届奉申上候以上
閏四月
薩藩 飯牟礼喜之助

閏四月十二日堀田相模守へ御沙汰之写

其方へ一応被預置候松平豊前家来従事のもの共今般改而大河内刑部太輔へ被預置候条被引渡於豊前ハ是迠之通其方へ被預置候間厳確守衛可有之事
閏四月 
東海道 副総督

閏四月十五日堀田相模守へ達書之写
今般阿部駿河守始家来謹慎被仰付陣屋并領地器械等被召上追而御処置被仰付候迄一応
其方へ被預置候間厳重取締守衛可有之事
但市在取締且公事等承届可然樣処置可有之候重大之事件におゐてハ伺書差図之上処置
可有之事

閏四月
東海道 副総督

閏四月廿四日水野出羽守へ達書之写

林昌之助始家来共其他遊擊隊人数二百人余持筒共に何分御沙太有之迄之內其許へ被預置
候旨大総督宫御沙汰候事

閏四月
大総督府 参謀

同日未刻過大監察使三条大納言殿同附属万里小路弁殿御入城之事

同日未半刻過より酉刻前迠大監察使始諸道総督下参謀会合御軍議之事

江城日誌・慶応4年15号

江城日誌 第十五号
慶応四戊辰年五月

五月三十日
○奥州出張長藩より届書之写
一、五月廿五日之戦状
前日より近辺賊兵屯集の由報知有之、地理研究巡邏旁三藩申合、二十人計宛、兵隊差出し、根田通り大田川ニ至り、敵兵百計屯集いたし居候ニ付、暫時ニ撃破り、村中焼払帰営す、三番隊は別に鹿島口より出、本沼口ニ向ふ、同所より五六町手前、叢樹の中ニ、敵兵五六十許潜伏いたし、不意ニ左右より撃出す、我兵直ちニ散開、当戦二時斗、敵兵追々繰出し、味方勿論巡邏之儀ニ付、二十人余而已にて突入、村中之賊を追払、村内賊屯集いたし居候民家焼払、鎗其外少々之武器分取帰営仕候、其節弊藩戦死一人、手負一人而已にて、賊兵手負死人十五六人ハ可有之、現ニ残し置候死骸五ツ御座候以上
戦死 北野武熊
手負 岡八十吉
一、同廿六日之戦状
五字三点頃、棚倉道、湯本道両道より賊兵襲来、此頃弊藩棚倉道、鹿島道両道を守る二番隊ハ棚倉口を守り、三番隊ハ鹿島口を守る、二番隊直様押出し棚倉口ニ戦ふ、同刻鹿島口へも敵兵二手ニ分れ襲来、三番隊是に当る、奥州道、金正寺道、原街道白坂へも両道より襲来る、八道共悉激戦、砲声地を轟し、万雷の急撃するが如し、此時棚倉口へも賊二タ手に分れ、一は本道より来り、一ハ大沼脇より来る、賊大砲三門を大沼脇ニ出し烈しく砲撃、我兵左手より大砲隊を目掛ケ、盛ニ進撃、薩二番隊、応援として右より出づ、賊支へ兼、大砲三門を置て走る、又進で小銃隊ニ当り激戦、終ニ一字三点頃賊兵遁走る、三番隊ハ、同刻より鹿島口の賊ニ当り、盛ニ奮戦、賊二大隊余来り、味方僅八九十人、衆寡不敵、余程苦戦ニ相成、二番隊ニ援兵を乞、此時二番隊も小勢を以大勢を引受、随分苦戦中の事故、差出す兵員無之、雖然実ニ苦戦ニ而、援兵を乞候事故、大炮隊を出し是を助く、十二字頃戦最烈しく、我兵最苦戦、此時幸ニ大雨降落、我兵本込銃ニ而、賊ハ口込、其外火縄銃抔の事故、銃多くは発せす我兵勢を得、盛ニ突入、賊兵追々浮足ニ相成、三字頃二番隊よりも少々兵具差出し、終ニ五字頃悉賊兵追払候、此時両道共、賊死人手負多人数可有之、弊藩即死一人、手負四人而已ニ御座候
即死 村田鹿之助
手負 草刈孫市
同 佐子九郎兵衛
同 吉井栄作
同 宮五郎
手負 夫卒 栄助
一、同廿七日之戦状
七字一点頃、棚倉口、鹿島口両道共賊兵襲来、二番隊ハ棚倉口ニ而当戦、三番隊ハ鹿島口ニ出、賊兵ニ当る、此時賊兵一大隊計二タ手ニ分れ襲来、土平一小隊余為応援来り戦ふ、十二字二三点頃賊兵を追払ふ、此日賊死人、手負等少々可有之、現ニ残し置候死骸三ツ、棚倉口へも一大隊計

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江城日誌15 明治文庫画像使用

襲来候得共暫時ニ追払候弊藩手負死人等無之候此日金正寺口一字頃より八字項迠頗る激戦薩土大垣当之
一同廿八日之戦状
六字四点頃棚倉鹿島両道共賊兵襲来此日棚倉口最烈しく前々日より連日之戦にて少々疲れ居本隊繰出すこと少く遅し斥候隊是に当
り頗る苦戦無間本隊操出し十一字二三点頃賊兵悉く追払ひ進で新合度村を焼賊死骸五ツを残し置き走る我兵帰営す一字頃又々敵兵

襲来暫時斥候隊を以て当之本隊操出し暫く戦ひ終ニ追払四字頃帰営す八字頃又々賊兵襲来本隊繰出し暫時ニ追払此日一昼夜にて棚倉口三戦いたし随分激戦鹿島口へも三度襲
来本隊三度繰出し戦争す棚倉口ニて比すれバ大ニ軽し
一忍藩二小隊弊藩兵隊同行初戦岩井以来幣藩人数同樣每戦出張戦争致し候
一同廿九日
夜十字頂斥候隊見張所へ賊兵少々突来り手

5お

負二人有之
手頁
矢野助七
佐々木正三郎
同晦日
夜中鹿島口見張所先へ少々賊兵来り篝火の番兵を襲ふ即時ニ追払ふ
六月朔日

前夜篝火の番兵を襲ひしを慍り三番隊二十人巡邏として根田村迠至る正ニ進んで泉田ニ至んとす賊往還左右ニ炮台を築き備へ居候

5う

斥候の者一両人を遣し候処賊小勢の様相見候故二十人申合せ進で炮台前ニ至り戦ふ賊不計大勢来り四方より迫る我兵頗る苦戦勿論
巡邏の事故正ニ引取んとする時薩土大垣の兵隊少々宛来り合せ又々替り合ひ戦候得
共賊兵大勢之事故引揚帰営仕候此日賊死人多分ニ有るべく弊藩死人一人手負二人ニ御座候
手負
山県省三
福島一松

6お

松田清蔵
右器械掛りの者故遅刻戦地ニ
出候処本隊と行違ひ決メ戦死
仕候哉今以帰営不仕候
手負 夫卒一人

一六月十二日之戦状
三字三点項棚倉口に当り一声の号炮を発す

勿論未明の事故斥候差出候処敵兵弥襲来の由報知す直様本隊繰り出す此項鹿島口ハ薩藩多勢の事故彼藩ニ譲り弊藩棚倉口一道を

6う

守る戦頗る烈しく須更ニして鹿島口奥州口金正寺口湯木口原口白坂合せて七道より賊大挙襲来棚倉口へハ賊二大隊余三手ニ分れ一ハ山上より一ハ本道一ハ大沼脇より来る
我兵忍潘申合せ五六手と分れ或ハ渓間或ハ
樵道或ハ本道或ハ叢樹の中を潜り一ハ前より炮撃し一ハ背面より炮撃す賊周章狼狽大炮
一門小銃十五六挺死骸八ツ手負一人を残し
置き敗走す我兵頻りニ勝たと呼び進で大炮
小銃を分取り手負一人を斬首し無疵の一賊

7お

を擒とし益進ミ戦ふ賊遁走恰も蜘子の散乱するが如し十二字四点凱陣す
手負 溝部千吉
右先月廿五日より今十二日迠之戦状御届上候
長藩
楢崎頼三
口羽兵部
梨羽戈吉
原田良八

太政官日誌・明治元年166号

太政官日誌第百六十六
明治紀元戊辰冬十二月

【久保田新田藩戦記二】十二月八日久保田新田藩届書写〈其二〉
【○】戦争概略
去十一日未明叛賊之姦人長浜村南入口ヘ放火致候ニ付急即使番ヲ以火ヲ為打消候様諸陣ヘ相通シ候処其内賊之兵隊山手ヘ侵来長浜村ヘ発砲致候附テハ兼テ持場相定置候浜手番兵所迄進出防戦可仕ト手配仕候中諸陣ハ北ノ方山手ヘ繰上ニテ防戦ノ模様ニ付弊藩手モ引繾北ノ方浜手ヘ一丁余引揚申候番兵差出置候処ヘモ賊徒等侵来発砲致掛候ニ付番兵ノ銃手一先防禦致居候得共長浜村ニテ砲声烈敷候間兎ニ角引揚夫々ヨリ惣人数相纏白虎隊佐藤全蔵斎藤栄吉手ヲ以第一ノ先鋒ト致長浜村入口浜手ノ台材木積置有之候傍ニ相進メ其場ヲ小楯ニ砲戦為致候第二玄武隊宅間又一手ヲ以白虎隊備候下ニ備ヘ浜手ヘ侵来候賊ヲ遮リ砲戦為致第三朱雀隊沢田澄篠原良太手旗本ニ備置大砲一門ハ旗本ヨリ左ノ小山ニ備散弾破裂弾等長浜村ヨリ山手ヘ掛リ十分発砲為致候此時今宮大学槍隊并銃隊ハ弊藩旗本之左ノ方浜手相備荒川手岡手ハ左ノ方山手ヘ備ヘ肥州家人数ハ荒川岡谷両手ノ後口ニ備ヘ候辰ノ中刻過ニ到朱雀隊ヲ以白虎玄武両隊ノ応援トシテ其中間ニ進メ候此時沢田澄手負候叛賊等兎角浜手ヘノミ烈敷発砲仕附テ弊藩手ハ小勢ヲ以早朝ヨリノ苦戦ニ付肥州家山手ノ備ヨリ応援ノ新兵二小隊ヲ請ヒ受来候処如何ノ相違ニ候哉新兵多分ハ旗本ヨリ左ノ方山手ヘ被参弊藩方ヘハ一両輩被参候而已ニ御座候乍去未ノ刻頃ニ到朱雀玄武両隊合テ浜台ヘ繰登三隊合テ一段ノ勇気ヲ振起烈舗砲戦仕候依之賊ノ兵勢浮足ニ相見ヘ候処今宮大学手モ槍銃両隊進来奮戦ノ由ニ相見ヘ候其内賊等愈以浮足ニ付鼓角吹撃鯨波ヲ揚尚又白虎一隊朱雀隊大学手ト合テ浜手右ノ方ヘ進出玄武一隊浜台押トシテ差置観音林ニハ潜伏ノ残兵モ可有之哉ニ付朱雀半隊ヲ以探之発砲為致夫ヨリ直ニ為追打諸陣進出候ニ付弊藩人数モ浜手持場番兵小屋先迄相進一先番兵所ニテ休息夫ヨリ監軍ノ御沙汰モ有之候ニ付羽根川近辺残兵探之致発砲羽根川村ヘ繰込今宮荒川諸陣ト此所ニテ一宿巡邏番兵所々ヘ差出置翌十二日長浜村迄繰引仕候
討死
〈玄武隊中〉安田良之進
深手
〈玄武隊帰陣後死〉西原友吉
〈朱雀隊司令士〉沢田澄
手負
〈白虎隊中〉近藤文之助
〈朱雀隊中〉紋蔵
打留左之通
一人〈玄武隊中〉川井四郎
同〈同〉朝比奈勝弥
同〈以下白虎隊中〉奥倉孫介
同 柿沼市三郎
同 辻朋三郎
同 川瀬弥兵衛
同 八田釟之助
同 武藤金平
同 武藤銀之助
其余大小砲ニテ賊徒打留不少哉ニ存候得共今暁放火ノ余煙絶ヘ不申依之其員数分明ニ認兼候内賊等手配引取申候
分捕左之通
脇差 一腰
舶来胴乱 一掛
佐藤全蔵分捕之
太刀〈粟田口忠綱ノ作〉一本
懐中嚢 一包〈内ニ本庄出兵手扣帳有之書面一通櫛一枚印形一ツ錦守袋一ツ右ノ外雑具有之候〉
合印ノ布 一本〈長四尺余羽松藩毛呂太郎太夫ト認有之〉
木綿胴巻〈金廿両入〉一ツ
石田六蔵分捕之
長脇差 一本
中間平吉分捕之
大砲込矢洗桶 一ツ〈賊主ノ紋付有之〉
大砲方中間滝蔵分捕之
右ノ通御座候以上
九月〈秋田分藩隊長〉大田原租助
九月十九日総督府ヨリ御上使ヲ以被仰渡左ノ通
佐竹播磨守
ヒストル 一挺
引続苦戦尽力致追々寒冷ニモ押移別テ困苦ノ儀被思召乍些少為御褒美ヒストル一挺被下之候尚勉励奮戦可遂成功候事
辰九月
総督府 御印
去九月廿日長浜出陣浜手行軍松ケ碑駅ニ着陣直ニ種々探索候処松ケ碑駅ヨリ南之方黒川村西方寺之残賊潜伏致候由ニ付弊藩手ヨリ検者渡侗太郎ヘ白虎隊一隊相添岡谷手ヨリ一小隊差出西方寺ヘ参四方取囲候上本堂ヘ推入候処医生或ハ手負人等而已罷在屈強ノ兵卒等ハ一人モ居不申候乍去是以賊徒ニ候得ハトテ医生四人召捕手負病者二人ハ駕篭ニ乗セ何レモ新屋駅迄差送申候
召捕姓名左ノ通
亀田藩 四倉良順〈篠原米吉八田釟之助〉召捕之
同 石川良貞〈木呂子繁三〉召捕之
同 三浦立庵〈斎藤栄吉〉召捕之
〈医生門人〉玄意〈同人〉召捕之
同 三浦弥作〈佐藤全蔵〉探出之
津軽〈成田求馬手藤哉村勘兵衛〉同人探出之
於同寺分捕左ノ通
鉄拵脇差〈黒引肌赤二本筋〉一本
銅拵脇差 一本
赤銅拵大小刀〈木綿引肌〉一腰
鉄拵大小刀〈黒皮引肌赤二本引〉一腰
赤銅拵大刀〈青貝鞘〉一本
蝋色鞘赤銅拵脇差 同
背負袋品々入 一ツ
夜具 一包
紙包夜具 一包
薬篭 三箱
小包 三ツ
風呂舗包 三ツ
明荷 一対
柳箇李〈内太平記評判入有之〉
右之通御座候以上
松ケ碑ニテ大砲方分捕左之通
大砲〈亀田ノ紋付〉〈但車台付〉一挺
百目筒〈但車台付〉一挺
百目弾薬〈但合薬入有之〉一箱
五百目弾薬〈但胴乱火縄等入〉一筥
大砲込矢洗桶 一具
弾薬筥〈庄賊之紋付〉一ツ
右之通御座候以上
九月〈秋田分藩隊長〉大田原租助
先般御沙汰御座候弊藩出兵戦争概略別紙之通申越候尤於東京テモ御届申上候得共此段御届申上候以上
十二月八日〈佐竹播磨守公用人〉山崎将蔵

太政官日誌・明治元年178号

太政官日誌第百七十八
明治紀元戊辰冬十二月

〔内題 太政官日誌第百七十八 大尾〕

岩国藩届書写追録
八月二日出雲崎ヨリ島崎ヘ進軍
同三日島崎ヨリ地蔵堂ヘ進ム夕刻ヨリ見付ヘ進軍七日迠守兵
同八日見付ヨリ五泉ヘ進軍
同九日丸山口大蛇道ヘ進軍夜中嶮路ヲ凌キ山腹迠進入斥候ヲ以賊情相探候中不図賊之間者ニ出合打合兵士一人手負仕候
同十一日宗藩振武隊高田藩弊藩二小隊宝珠山之向ヒ山上山下賊ヘ交戦三手ニ分レ嶮岨ノ樹木ヲ伐開キ夕七時ヨリ砲撃賊ノ斥候追散シ頻ニ致進撃候所深谷切岸等大難所進歩不相成翌夕刻迠砲戦引上申候
同十四日午刻過同所新発田藩持場ヘ賊襲来砲戦獘藩ヨリモ谷間ヨリ窺候賊ヲ臼砲ニテ打退ケ申候
同十七日賊徒退散之報知御座候付宝珠山ヨリ間道峰尾伝ヒ石間村エ進軍
同廿一日岩屋ヘ進撃川向ヒ砥石山賊ヘ対戦弊藩二番小隊川口ヘ進軍
同廿二日三番小隊五十島ヘ進軍
同廿五日砥石山賊退散ニ付直ニ三月沢口通矢沢三番越進撃引続キ未明津川ヘ進入分捕別紙之通御座候
同廿七日二番小隊九島村ヘ守兵
同廿八日津川ヨリ本道進軍之二ノ手一大砲ヘ三番小隊合併進撃車峠ニテ暫守備賊引去候付直ニ野尻野沢ヲ経間道石坂ヘ進入椿村守備仕候川向柳津円蔵寺ニ賊屯集舟無之渡リ方不相成ニ付宗藩各藩獘藩等地形見合夫々持場相守及銃戦候
同日二番小隊八田ヘ進軍翌廿九日白坂晦日野尻ト順々進軍
九月朔日晩景柴崎口ヘ進軍翌二日朝芸藩ト交代道目村ヘ進軍中町竜泉寺ニ賊屯集付宗藩干城隊松代藩獘藩半隊宛ニ分レ山野両手ヨリ押寄銃戦仕候半時許ニシテ台場二ヲ乗取追撃小細木村ヘ集会及晩景真ケ沢村ヘ引揚同所滞陣
同十一日熊倉村ニ賊屯集ニ付越藩松代藩獘藩二番小隊等先鋒松代一小隊ハ応援ニテ小洗小胃通ヨリ進撃賊狼狽逃去候付続テ及追撃候処不図賊多勢ニテ三方ヨリ進来或ハ後ロ口エ廻リ小洗村放火致シ味方甚苦戦相成繰引ニ仕小洗ヨリ四五町先キ野中ニテ蹈止リ相防候中御親兵干城隊等援兵罷越及砲戦候処暮過賊引去候付翌十二日暁天迠此所相守夫ヨリ小洗村ヘ引揚申候討死手負別紙之通御座候
十月六日椿村ヨリ宗藩奇兵隊振武隊両小隊獘藩三番小隊等大牧ヨリ川ヲ渡シ柳津口進撃賊引取申候
同八日出戸田沢ヘ進軍宗藩振武隊新発田藩獘藩三番小隊其所々々守兵
同十二日為斥候一分隊高久川辺迠差出帰路宮ノ下ニテ賊ノ伏兵ト砲戦兵士一人討死仕候
同十三日新屋敷村ヘ進軍守兵
十八日賊徒高田ヲ根拠トシテ雀林米沢境辺ニ台場ヲ築居候付一方ハ坂瀬川中ノ山冑等ヨリ打下シ本道ヨリハ振武隊越藩獘藩等先鋒二ノ手三ノ手者各隊御軍配ニテ坂瀬川口ノ始戦ヲ相図横合ヨリ進撃賊徒境野砲台ヨリ及砲戦候処一散ニ追散シ高田迠一時ニ乗入諸所焼失ニ紛レ賊狼狽日光海道ヘ逃去申候付此処ヘ滞陣仕候此時手負別紙之通御座候此段御届仕候以上
十一月十一日
岩国 安田小民部
福原範輔

死傷
八月十日夜於大蛇道
手負
三番小隊 井原伝兵衛
人夫 又蔵
九月二日於真ケ沢
戦死 二番小隊 岡本鉄之進
同十一日於熊倉
戦死 二番小隊司令士 隠岐小源太
同日於同所
揚取後死 二番小隊 志谷権五兵衛
手負
二番小隊 市岡隼太
同 斎藤半三郎
同十二日於宮ノ下
戦死 三番小隊 小川浅木
同十八日於境野 揚取後死
三番小隊 菊重小太郎
川戸祐太郎
分捕
和砲 十五挺
帯金 十六把
四斤実弾 十六発
散弾 四包
六斤実弾 百六十発
火薬 五箱
右之通北越於出先御届仕候段申越候間此段御届奉申上候以上
十月
吉川駿河守内 玉乃東平

八月十日巳刻福知山藩敝藩兵隊村上口佐々木村ヘ進軍ノ処賊兵川向ヒ渡守ト申所ヘ砲台ヲ築キ相固居候付砲撃ニ及ヒ未ノ刻迠打合候内敝藩ヨリ大砲打懸其虚ニ乗シ川ヲ渡リ遂ニ台場ヲ乗取リ賊兵散乱平林ト申所迠追打申ノ刻惣勢佐々木ヘ引揚申候分捕左之通
大砲 二門
弾薬 十一箱
同十一日未明佐々木村発陣村上城下ヘ押寄候処敵城自焼退散仕候浜手ヨリ越前勢先鋒福知山藩獘藩ハ佐々木村押之事ニ候得者越前ヘ相頼置直様惣勢同所ヘ引揚申候此段不取敢御届申上候以上
八月
岩国 栗原主計
桂郁太郎
薩藩福知山藩村上藩獘藩三小隊去廿六日午刻中継村発陣小俣村手前迠進軍之所賊兵村中ヨリ発砲致シ候付村上勢獘藩人数村中ヘ攻寄ノ所賊兵散乱致シ候付夫ヨリ進撃小名部峠ヘ砲台ヲ築キ厳重相固居候ニ付諸隊間道手配及砲戦候処何分要害堅固ニテ難崩苦戦ノ内申刻過賊兵右ノ山嶺ヘ打廻不意ニ打出居候処場所悪敷難相支候ニ付不得止其場ヲ引揚小俣村ヘ相備候内夜ニ入地理不案内依而小俣峠迠操引同所台場ヲ相固候処賊兵小俣村民家ヘ放火致シ引退申候右戦争中兵隊岡平槌手負横道初太郎浅手ヲ負申候此段不取敢御届申上候以上
八月
岩国 栗原主計
桂郁太郎
去ル十一日進撃御達相成御軍配之通進軍半里余ニシテ川ヲ伝山越ニテ雷村ヘ相向之所嶮岨之山ニテ樹木又ハ葛ヲ伝ヒ大嶮ヲ凌キ四半時漸雷村山上ニ至賊情相窺候所賊徒少々相見候故土州長官ヘ申談弊藩半小隊雷村山上ヨリ土州一小隊弊藩半小隊山下ヨリ進撃ノ手配ニテ相分候所険阻ニシテ山ノ央ヘ下リ候内最早雷村山上ニ相向候半小隊山上ヨリ銃発ノ処賊徒散々逃去候然共大嶮ニシテ兵士難下正奇兵同様道条探索之内日暮ニ相成弾薬兵糧等不続無拠引揚申候乍併土州ヨリ四五人獘藩ヨリ両人草々下込候人数雷村ヘ相進候処最早賊之台場薩長兵乗取ニ相成申候右戦争ノ始末不取敢御届申上候以上
九月
岩国 桂郁太郎
薩藩福知山藩新発田藩村上藩獘藩各一小隊去ル十二日未明中継村発陣小俣村川向迠進軍之処賊兵山中ヨリ発砲致シ候付諸隊山嶺間道等エ手配致シ弊藩隊橋ヲ渡リ小俣村ヘ進撃山上ヘ相登リ候覚悟ニ御座候処賊兵山上ヘ手配致シ頻ニ発砲ニ及ヒ候付無拠杉林ヨリ打合候内日暮ニ相成諸藩繰引遂ニ小俣峠迠引揚同所相固申候此段不取敢御届申上候以上
九月
岩国 粟原主計
去ル十六日朝賊兵関川陣所ヘ襲来ニ付予相固候関川西ノ山嶺ヘ兵隊操出シ候処賊兵本道ニテ相戦候故山上ヨリ賊ノ側面ヘ大小砲打掛候内午刻頃賊兵後ロノ山上ニ出小銃打懸候故其賊ト相戦候処土州ヨリ一分隊繰上相戦夕景本道ノ賊兵相退候得共山上之賊不退日暮後ハ少々打合候夜半後ヨリ賊相退申候右戦争之次第御届申上候以上
死傷
即死
横田東作
御親兵之内ヨリ当時敝藩附属 中井梅右衛門
深手
横道初太郎
右之通ニ御座候以上
九月
岩国 桂郁太郎
去ル廿日水藩土藩獘藩関川西ノ山岸相固居候処賊徒二三丁許リ向ノ峰ヘ砲台ヲ築キ樹木稠密之内ヨリ日夜発砲致シ候故賊徒追掛樹木伐払置候ハヽ防守ノ都合宜敷様ニ見込候ニ付三藩ヨリ一分隊宛繰出進撃ノ申談仕獘藩兵隊正面ノ嶺ヘ進ミ砲発水戸兵隊引続砲発其虚ニ乗シ土州人数山際潜行賊ノ台場ヘ突込ミ隊長一人兵卒二人打倒シ賊徒周章敗走致シ候正面ヨリ打向候人数モ引続賊ノ台場ヘ乗込候所賊四五町位モ相退候得共又々山上ヨリ砲発仕候然処台場等得ト見合候得者難守地勢殊ニ間道多御座候故予申談之通樹木伐払台場ヲ毀チ陣屋ヲ焼払夕七ツ時頃固メ台場迠人数引揚仕候此段御届申上候以上
九月
岩国 桂郁太郎
右之通北越於出先御届仕候段申越候間此段御届奉申上候以上
十月
吉川駿河守内 玉乃東平

【維所日誌巻二終】

太政官日誌・明治元年177号

太政官日誌第百七十七
明治紀元戊辰冬十二月

【佐土原藩戦記三】
十二月廿七日佐土原藩届書写 第三
七月十三日奥州盤城平落城後同所ニ滞陣罷在候弊藩兵隊三春城攻撃之命ヲ受同廿四日諸藩一同進発同夜合戸ヘ宿陣同廿五日上一萱宿陣候処賊徒仁井町ヘ屯集逆戦之勢相聞候ニ付同六日暁一字進軍上三坂ニテ薩州備前柳川大村之兵ニ相会直ニ仁井町ヘ馳向候処町之手前ニ賊徒砲台ヲ築キ発砲候ニ付弊藩砲隊ハ諸藩ト共ニ本道ヲ進銃隊ハ右山手間道ヨリ賊ノ背後ヲ衝大小砲烈舗発射イタシ候処賊兵四散遁逃致シ候付直ニ広瀬通ヘ進撃残賊所々険要ニ拠リ防戦候得共悉追崩シ十三里余尾撃シ此夜大越村ニ宿陣然処三春藩既ニ帰順ニ付同廿七日薩兵ト合併三春城下ヘ繰込申候
一同廿八日二本松城攻撃之先鋒ヲ蒙リ昼十二字発軍本宮ヘ宿陣同廿九日朝五字発軍薩兵ト併合相進候処賊徒大壇ト申所ニ関門ヲ設砲台ヲ築厳ク防戦致候ニ付弊藩一小隊ヲ二ツニ分チ一手ハ大砲相加ヘ薩兵ニ合シ正面ニ当リ一手ハ左山手間道ヨリ相進正面之戦酣ナルヲ候ヒ賊之中腹ヲ横撃候処賊兵散乱我兵勢ニ乗シ直ニ二本松城下迠攻付薩兵ト共ニ城之向背ヨリ突入候処賊徒狼狽城ヲ焚テ逃亡須臾ニシテ煙焔天ニ漲一城尽ク灰燼トナル此夜城下ニ宿陣弊藩死傷左之通

戦兵 新名勘右衛門
夫卒 次郎
同後死 正吉

甚袈裟
一八月十九日会津城攻撃之命ヲ受同廿日朝八字二本松発軍同廿七日石筵之手前ニテ総軍三手ニ分レ一手ハ薩州大垣左ニ廻リ一手ハ土州長州右ニ廻リ今一手ハ薩長土并弊藩本道ヨリ相進候処賊徒一ツ之高丘ニ砲台ヲ設頻ニ発砲候ニ付暫時ニ討払坂ヲ攀尾撃スルコト十余町ニシテ賊又砲台ニ据リ厳舗防戦候故弊藩砲隊ハ薩州砲隊ト共ニ正面ニ当リ銃隊ハ諸隊ト共ニ左右ニ分布砲銃交発黄丘ヲ蔽各藩一同死力ヲ竭シ奮撃イタシ候処賊徒大ニ敗走我兵勝ニ乗シ直ニボナイ峠ノ絶頂迠追撃候処只砲台ノミ有之賊徒一人モ不見遁逃且日モ暮ニ及候故一同峠ニ露宿夜半大雨将士戎衣皆霑フ同廿二日朝六字整隊直ニ猪苗代ヘ討入候賊又自ラ城ヲ焼テ逃亡因テ薩兵ト共ニ戸之口ノ川向ニ宿陣此夜又大雨兵皆浴雨同廿三日払暁発軍三日町口ヨリ進テ直ニ会城ニ薄リ砲戦最中背後滝沢口ヘ賊兵突出候ニ付即一分隊并大砲一門引分応戦候処大垣兵モ来会相共ニ攻撃遂ニ追払其夜ハ城下ニ対陣同廿四日朝兵ヲ転シ大町口ヨリ進撃風ニ乗シ火ヲ放城下士屋舗不残焼払日暮又令ヲ受兵ヲ天寧寺口ニ転シ同廿五日暁兼テ郊外ニ潜伏致シ候賊兵ト相見得味方之陣後ヨリ襲来戦酣ニシテ城中之賊モ突出候得共容易打払申候同廿六日昼十二字薩兵之応援トシテ天寧寺山ヘ馳向候処既ニ一戦相了リ居候ニ付入リ更リ斥候一分隊本隊ヲ離レ真先ニ相進山之頂ニ登ントスル処ニ山之後背ヨリ賊徒二三百人先ツ絶頂ニ登リ烈舗発砲弾丸雨注斥候兵必死ヲ期シ相戦候内本隊馳着咄喊奮撃候処賊兵紛乱山ヲ下テ逃走時日既ニ暮ニ及候故追駆ヲ禁シ薩兵ト共ニ山嶺ニ宿陣此夜又大雨同廿七日令ヲ受融通寺口ヘ転陣備前兵ニ代リ相備夜半賊兵突出候ニ付砲手ニテ応戦其近ツクヲ候ヒ預メ伏置シ銃手斉シク起リ発射致候処賊兵一ト支モナク敗走同廿八日朝賊又突出我兵砲銃斉ク発射煙中ヨリ喊声ヲ発シ奮撃候処賊兵紛乱再城中ヘ逃入此戦討取不尠同夜又天寧寺山上ニ転陣同廿九日山上ヨリ大砲ヲ以城中ヲ狙撃同日再融通寺口ヘ転陣同晦日賊兵突出撃走之自是後連日賊ト対塁九月八日ニ至ツテ始テ令ヲ受甲賀町口ヘ転陣賊兵屢突出スト雖悉ク討払其後日夜攻撃砲声不断同十六日朝六字転シテ不明口ヘ打向候処賊再三突出候得共何レモ容易討払申候尤弊藩死傷左之通
一八月廿三日会津戦争之節

戦兵 伊集院貞之助
大久保源之助
夫卒 万吉

谷山琢磨
夫卒 力蔵
一同月廿六日右同所戦争之節

上村源兵衛
有馬弥左衝門
一九月十七日会津城外青木村屯集之賊徒追討之命ヲ奉朝六字東海北陸両道ヨリ相進候弊藩兵隊合併進発天寧寺口ニ而薩兵ニ出会シ軍配一決先薩兵ヲ城下ニ配布シ城兵之援路ヲ絶弊藩大砲二門ヲ本道ニ備銃隊ヲ左右ニ配シ薩兵一手左ノ之山手ヲ押シ一斉ニ相進候処小村之中ヨリ一群之賊徒現レ出頻ニ発砲候ニ付追崩跡ヲ慕テ相進候処賊徒忽本道ノ両傍并左ノ山手其外所々ヨリ興リ起烈舗砲発味方モ又是ニ応大小砲交発射左右翼互ニ救応畑ノ中ヨリ叱咤奪撃致候処賊兵大敗惣軍勝ニ乗追撃賊屡取テ返シ防戦スト雖悉ク討破青木村ヨリ南ニ指シ三里余尾撃候処賊兵尽ク遁走致候ニ付再青木村ヘ引揚賊城咽喉要地ヲ占ム同十八日十二字頃弊藩持場ヘ賊兵突出候故預メ備置シ銃手一斉発射候処忽城内ヘ逃入此後賊不再出右之戦弊藩死傷左之通
一九月十七日青木村戦争ノ節

軍監 三雲為一郎

戦兵後死 郡司伊織
半隊長 河野周之進
戦兵 横山武兵衛
別紙二通戦争次第兵隊引揚申出候ニ付御届申上候以上
十二月廿七日 島津淡路守内 上井仲太夫

【京師非常警備被免ノ事】
十二月廿八日御沙汰書写
徳川中納言
非常之節伏見口ヘ援兵繰出候様被仰付置候処今度被免候事

松平能登守
内藤丹波守
鞍馬口同文

水野大炊頭
秋月長門守
長坂口同文

京極下総守
久松隠岐守
鳥羽口同文

安藤飛弾守
平野内蔵助
粟田口同文

毛利左京亮
丹波口同文

〇【在邑諸侯年賀ノ事】
諸侯ヘ
正月十五日在邑諸侯之向以重臣於御仮建年賀可申上事
但重臣詰合無之向ハ重臣ニ次候者差出不苦事
〇【徴士年賀ノ事】
一徴士年賀之節三等官以上有位ハ衣冠無位ハ直垂四等五等官都テ直垂之事
一六等官以下正月二日麻上下着用弁事ヘ御祝詞可申上事
一徴士供連之儀三等官以上若党二人麻上下着長柄傘持一人小者一人四等五等官右ニ准シ可申尤人数減省候テモ不苦事
一六等官以下従者二人或ハ一人ニテモ不苦候事
一年始三ケ日休日之事

〇【謹慎中ノ日下部西村入京ニ付藤堂家ヘ御沙汰ノ事】
藤堂和泉守
松平越中家来日下部仁右衛門西村清助謹慎ヲ不憚入京致候ニ付其藩并尾州藩共先般御沙汰之次第有之候処右両人之者ハ尾州藩ヘ分預被仰付候中ニテ全其藩ヘ関係無之趣尾州ヨリ申立有之処右ハ春来両藩分預被仰付候儀ニ候得共其節分預之名前一々明細達無之ニ付右等行違候事ニ有之候間先般御沙汰之趣御取消ニ相成候ニ付此旨可相心得候事

〇【徳川中納言賜暇ノ事】
徳川中納言
春来上京久々在勤苦労ニ被思召候今般国政改革ニ付帰国願之趣被聞召届御暇ヲ賜候間尚兼テ被仰出候叡旨ヲ厚奉体認旧弊一新藩屏之職ヲ不忝様可致旨御沙汰候事

〇【加藤遠江守賜暇ノ事】
加藤遠江守
先般御東幸被仰出候節家政向改革中之処速ニ上京奉願供奉段々精勤之条御満足ニ被思召候今般還幸ニ付テハ帰邑願之通被聞召届御暇ヲ賜候間尚帰邑之上ハ兼テ被仰出候叡旨奉体認益以藩屏之職ヲ尽候様可致旨御沙汰候事

〇【拝借ノ官金不及返上事】
会計官
春来御用多端ニ付在官之輩拝借之官金不及返上候事
但右之外中条三輪等拝借金モ不及返上候事従明年ハ官金拝借之儀ハ不被聞届候無拠輩ハ其情実篤ト取糾之上可申出事
右之通被仰付候間於其官取調之上夫々可相達候事

〇【藤井軍監ヘ御沙汰ノ事】
遊撃将軍監 藤井六平
征討ニ付軍監トシテ出張遠路跋渉日夜攻撃到処功ヲ奏シ〈云々〉〈第百卅一十一月二日芸州兵隊ヘ御沙汰書同文〉

【高鍋兵士死去ノ事】
同月廿九日高鍋藩届書写
兵士 綾部末五郎
右八月廿八日越後口雷村戦争之節手負仕候旨御届仕置候処当月七日柏崎病院ニテ死去仕候段此度上京ノ者ヨリ申出候ニ付此段御届申上候以上
十二月廿九日 秋月長門守家来 田村増吉

太政官日誌・明治元年176号

太政官日誌第百七十六
明治紀元戊辰冬十二月

【佐土原藩戦記二】
十二月廿七日佐土原藩届書写 第二
九月十五日長州薩州佐土原〈越後口ヨリ進軍ノ兵〉会津領青木村新屋村井手村辺屯集之賊徒掃撃被仰付候付即刻進軍三藩申合斥候差出候処遥ニ賊ト覚敷者見請候付旗ヲ以合図致侯得共応答不致其侭逃去候付追掛及砲撃賊蹈止リ共ニ砲戦烈敷処忽賊之伏兵大ニ起リ手強攻来極テ難儀候得共各藩気力烈敷戦闘ス賊兵引色相見得候間弥以烈敷攻撃之処長兵俄ニ引揚味方孤軍ト相成時既ニ五字ニ及今朝九字頃ヨリ之戦ニテ人労レ弾薬乏敷相成候付不得已青木村ヘ引揚候処城中之賊後ヨリ襲来味方敵ヲ三方ニ請極テ危ク既ニ難支相見へ候処天寧寺固場ヨリ砲隊援来烈敷打立候付賊兵散乱城中ニ引入其余四方ニ散走此日之戦敵之死傷点検ニ不遑弊藩之死傷左之通

長官 新納八郎二
監軍 検本源吾
監軍 鶴田力之進
分隊長 籾木勇太郎
戦兵 池田数之進
植村善右衛門
瀬戸口権太郎
立山源太郎
厚地熊太郎
大町五兵衛
佐藤平左衛門
間世田助市
原友次郎
谷山弥平次
児玉直蔵
工藤和田右衛門
鶴田力之進陪従 千太郎
夫卒 鉄蔵

隊長 藤井隼人
戦兵 高山権左衛門
郡山善左ヱ門
柳田権之助
堤宗次郎
神崎伝兵衛
小野新蔵
森源太郎
図師惣兵衛
岩本吉太郎
河野伊兵衛
市来五郎兵衛陪従 士蔵
宇宿代吉家来 林清吉 後死
同月十七日右邨々賊徒為追討各藩進軍薩兵山之手ヨリ佐土原別隊〈此藩平潟口ヨリ進軍ノ兵〉山下ヨリ当隊〈即越後口ヨリ進軍ノ兵〉広場土州米沢長州三藩之兵新屋井出村ヨリ進撃賊諸所エ屯集各藩手ヲ分チ攻撃賊敗走惣軍追撃之処既ニ日没ニ及不得已青木村迠引揚此日之戦死傷左之通

戦兵 長友彦右衛門
検本政次郎

夫卒吉蔵
幸之助
九月十五日羽州久保田領堺村上淀川中淀川辺ヘ仙台庄内之賊徒二百人余屯集致候段久保田藩探索方ヨリ申出候趣ニ付薩藩一分隊久保田藩二百人程獘藩一小隊ニテ十四日ヨリ進撃之筈御座候得共猶又久保田藩士諸所間道迠委細ニ探索有之候処賊凡千八百人位峰吉川ヨリ上淀川迠之間所々要地ヘ屯集之様子ニ付諸藩応援之兵隊出軍次第進撃之賊ニ一決仕居候処十五日午ノ刻頃俄ニ砲声相聞候付早速斥候差出候得者賊徒二百間内外之処ヘ襲来致候付薩并各藩申合直ニ手配仕候尤新庄藩三小隊程出軍相成則本道筋ヘ薩藩一分隊久保田藩一小隊同大砲一門右脇ヘ獘藩一分隊同谷川ヲ越シ少シ高山之間道ヘ久保田藩一小隊獘藩一分隊本道左脇ヘ弊藩半小隊久保田藩一小隊其次ヘ新庄藩三小隊程何レモ撒兵ニ相備各藩一度ニ閧ヲ揚砲発致候処賊又諸方エ兵ヲ配リ高松林或者岡之上ヨリ発砲尤谷越之戦殊ニ賊之方地形高ク随分要地ニ付官軍急ニ進撃之場所モ無之土手木陰等ニ楯ヲ取少モ無透間砲撃致候処猶又因州大砲二門并小銃二十人程為応援出軍ニ付各隊弥手強致砲撃候処日暮前ニ及賊徒共左之方十四五町隔深谷之間道ヲ越シ官軍之後百間内外之所ヘ出前後ヨリ致砲発官軍左右ニ相開キ砲撃イタシ候折柄長州一小隊為応援駆付終ニ切戦ニ相成賊敗シテ上淀川迠逃去夜ニ入十一字頃戦ヲ止申候此日各藩ニテ討取候賊三十人余相見エ其外山中或ハ薮中ニテ討死手負之賊数多可有御座候得共打続進撃ニ付委細相分不申候弊藩之死傷左之通

戦兵 黒木七左衛門
成合岩右衛門
上山卿作

間世田金次郎 後死
夫卒 糸右衛門
袈裟兵衛
卯吉
分捕
小銃 拾四挺
刀 二本
同月十五日羽州久保田領堺村戦争夜十一字頃戦ヲ止翌十六日六字ヨリ進撃ニ相定各藩申談則右間道エ新庄藩兵隊相備置本道ヘ因州大砲一門小銃隊五十人程小倉藩一小隊弊藩一小隊進撃杉森又者薮中等諸所ヘ砲発相探候得共賊一発モ応砲不致候付直ニ上淀川迠進撃致候処左山手ヘ間道有之趣ニテ小倉藩半小隊手配ニ相成本道ヘ因州藩大砲一門小銃五拾人程右脇ヘ小倉藩半小隊左脇ヘ獘藩一小隊何レモ撒兵ニ相備小谷川向岸山峠半途二百間内外之処杉林エ煙相立賊屯集兼テ待受候場所ト相見得候付大砲二三発并小銃打込候処賊ヨリモ直ニ応砲致高岡或者薮中等ヘ兵ヲ配リ致砲発候ニ付官軍ニモ木陰又ハ積藁等ニ楯ヲ取頻ニ砲撃イタシ候折柄兼テ応援之兵隊薩藩一小隊并筑州一小隊程馳来候付猶又一入英気ヲ増シ一同閧ヲ揚手強砲撃致終ニ数刻ヲ移シ夜半ニ及賊砲声薄ク追々引退候様子ニモ相見ヘ候共何分夜中之事故夜明ヲ相待候処暁天ニ岸吉川郷夫二人陣所ヘ駆参昨夜半過ヨリ賊徒尽ク岸吉川ヲ逃通候趣申出候付直ニ各隊ヨリ斥候差出候処郷夫共申出候通相違無之候付早速進撃ニ及ヒ候得共遠フニ逃去一支モ不致散々之体ニテ各々国境迠退申候此日之戦弊藩死傷左之通

戦兵 長友市郎

関屋善兵衛
別紙四通其時々御届申上置候得共倉卒中之事ニテ行違之廉モ難計御座候ニ付更テ御届申上候以上
十二月廿七日 島津淡路守内 上井仲太夫
五月十五日上野屯集之賊徒御誅鋤被仰出候付弊藩兵隊当朝三字大下馬ヘ整列四字過本郷加州邸ヘ繰込砲隊一手者直ニ賊巣上野山内ヘ放発銃手一手者長州兵隊根津辺ニテ戦争相始候由ニテ砲声相聞候付為応援馳向長兵ト入交リ砲戦賊兵追払尚根津大門通ヘ推出シ戦争之内砲隊モ肥備両藩砲隊エ加州邸砲撃場相譲リ根津門前ヘ大砲引下シ一手ト成大砲小銃ニテ激戦移時賊大キニ沮ミ候得共商家ヨリ火起リ煙焔空ニ漲次第ニ延焼炎熱難堪不得已水戸邸山下ニ転シ林中潜伏之賊徒及探索九字過谷中団子坂ヘ向長州大村両藩ト併合進テ賊之砲台ヲ乗取尚残賊ト戦争中伊州備州筑州并尾州磅礴隊追々来会賊徒遂ニ散走因而各藩共ニ団子坂ニ引纏喫糧中賊兵再突出候付各藩一同奮撃立所ニ討払谷中天王寺迠追詰賊徒屯集ノ梵宇尽ク焼払再団子坂迠引揚居候処黒門口之寄手既ニ山内エ打入賊徒勦夷諸藩兵引揚之注進有之六字頃戦地引揚七字過帰営仕候弊藩死左之通

半隊長 能勢惣之進
同月十六日武蔵国青山辺斥候之節

戦兵 青木徳左衛門
同月廿日豆相監軍附属箱根出張之節

御牧重太郎
同月廿一日武蔵国青梅辺ヘ賊徒屯集之趣ニ而追討被仰付即日弊藩一小隊大砲一門繰出シ田無村ニ一宿賊徒屯集之地巨細探索致候処全飯野ヘ屯集之由ニ付翌廿二日扇町谷迠進軍各藩軍配談判ニ及備前藩大村藩并弊藩者野田ヨリ正面ヘ明廿三日暁二字発軍之約定ニ候処賊陣ト入間川ヲ隔候得者万一敵ニ先ンゼラレテハ合戦難儀ナリト諸藩ヘ断置刻限前十二字頃繰出シ右川ヲ推渡笹井村ニ係リ候処ニ而不図賊兵出会何レ之藩ト問候ニ付小隊長谷山藤之丞藩名相答候処短銃ヲ以推向候得共不発其侭打掛リ候ニ付藤之丞抜打イタシ為手負候賊等薮中ニ潜伏シ砲発致候ニ付弊藩之兵隊ハ川面ニ伏セ大小砲頻ニ打立候処賊徒支兼隊伍紛乱遂退散致候時ニ天未曙伏兵難測暫時見合六字頃進軍村々潜伏之賊ヲ追払大村藩ト共ニ賊之巣穴能仁寺ヘ推寄弊藩一分隊真先ニ乗入火ヲ放鯨波ヲ揚兼而約定之喇叭ヲ以諸藩ヘ先登ヲ告智観寺并近辺之商家ヘモ火ヲ放チ残賊ヲ追払夫ヨリ進準ノ路ヲ帰陣之処賊兵再路ヲ遮リ発砲候ニ付弊藩応戦暫時ニシテ賊徒散乱遁逃致候於是飯野畠中ニ各藩兵隊相纏賊之逃路探索致候得共形蹤不相分候ニ付昼一字頃扇町谷ヘ帰陣此日弊藩死傷左之通

隊長 谷山藤之丞 後死
戦兵 斎藤儀兵衛

太政官日誌・明治元年175号

太政官日誌第百七十五
明治紀元戊辰冬十二月

【佐土原藩戦記一】
十二月廿七日佐土原藩届書写〈第一〉
四月廿三日下総国流山辺ヘ屯集之賊徒入府之企ニテ千住筋ヘ押出候聞得有之候間備前藩申合速ニ出兵致シ差止候様大総督府ヨリ被仰渡候ニ付両藩申談即日千住ヘ出張之処此地無別条松戸口ヨリ入府之聞得有之候間廿四日未明ヨリ新宿之方ヘ転陣果テ一群松戸ヘ留リ居候ニ付田安鎮撫使須本備前弊藩応接方一同談判之処賊無異儀献兵器降伏シ事落着仕候此徒備前藩ニテ檻護仕候然ル処亦一群榎戸口間道ヨリ千住ヘ掛リ入府ノ由相聞得候依之弊藩兵隊千住ノ方ヘ操廻シ候処賊既ニ千住宿ニ入糧食ヲ遣ヒ居候得共戦地不便成故千住川ヲ渡リ小塚原ノ方ヘ引揚要地ニ手配致シ置応接方三浦十郎町田吉之進両人田安鎮撫使同伴千住ヘ差越賊之隊長呼出シ糾問仕候処只管恭順ノ旨趣申立候ニ付先ツ兵器ヲ献シ恭順之実ヲ可証ト申諭候得共群徒不服時刻遷延ニ付弊藩応接方緊敷談判致シ遂ニ兵器ヲ相請取賊徒姓名人別相改事相定候其中薩兵一小隊為応援馳付両藩ニテ賊徒檻護取締仕置兵器ハ大総督府ヘ差出候同廿五日薩兵隊引揚申候同廿六日大総督府ヨリノ御下知ニテ賊徒田安ノ手ヘ引渡事済ニ相成申候然処下総国木更津【編集曰上総の誤】屯集之賊徒追々押出候由依之須本藩ヘ為応援八幡ヘ出張被仰渡候間備前伊賀弊藩兵隊同所ヘ可相会旨大総督府ヨリ御下知ニ付後四月朔日松戸ヘ転陣八幡ニテ須本藩応援之処謝罪入府ノ儀歎訴致候ト雖兵器之儀ハ徳川ヨリ相渡候品ニモ無之銘々自物ニ候間差出候事不相成由申募穏便ニ事可済ノ勢ニ無御座候依之三藩申談決戦之致用意且今一応三藩ニテ応接可仕哉ノ旨大総督府ヘ相窺候処田安須本両藩ヘ猶亦説得ノ儀被命翌二日及応接候得共賊徒承伏之体無之候間此上ハ三藩ニテ取詰可致談判乍然最早破裂ト相見得候ニ付八幡口備前貝塚村伊賀行徳口筑前鎌ケ谷弊藩四方ヨリ船橋宿賊徒宿陣ヘ仕寄セ応接事不成時ハ八幡備前陣ニテ砲声ヲ発シ夫ヲ相図ニ総軍攻掛リ可申手筈相定同二日夕弊藩ニ者鎌ケ谷村迄進軍同三日未明三藩応接方八幡備前陣ヘ集会ノ処賊不意ニ襲来砲発戦争相始伊賀陣同断之由右戦争之砲声ヲ弊藩ニテハ合図ノ砲声ト相心得疾速鎌ケ谷ヲ出兵候処小村ハツレニ一群ノ賊徒手配リ致居候間会釈モナク押掛砲発賊ヨリモ砲発互ニ砲戦烈敷味方臼砲無透間打込砲丸破裂賊兵数多殺傷賊是ニ狼狽四散小村ノ中ヘ逃入候ニ付無透間追詰候処賊兵落失セ一人モ不見候間是ニテ暫時息ヲ次キ斥候ヲ出探索之処金杉村大畑中ニ賊兵七八百人計諸所撒兵台場設候由致注進候ニ付疾速繰出味方麦畑ノ中ニ撒兵ヲ敷キ大砲小砲打出互ニ砲戦烈舗候処味方寡兵敵ハ衆多敵ヨリ来ル弾丸無透間味方頗難儀ニ及ヒ各必死ヲ極メ麦畑之中ニ出没シ透ヲ計リ砲発致シ凌居候処賊兵百計後ヘ廻リ引包ントノ計策ト相見候間急ニ隊ヲ分チ烈敷打立候処賊引退此間大砲臼砲烈敷打出惣軍鬨之声ヲ発シ押掛候処賊足並乱狼狽之体相見得候故味方気ヲ得麦畑之中ヨリ蹈込々々砲発遂ニ追崩シ賊兵散乱村中ニテ三人ヲ打斃シ賊気奪ハレ村中ニ不保得散々ニ敗走ス味方此戦殊ニ苦戦ニテ大ニ疲レ候間暫時気ヲ養ヒ賊ノ捨置タル兵糧滋菓ヲ奪ヒ銘々飲食居候処斥候馳来賊兵船橋ヘ屯ス手配リ最中ナリト注進ス此時味方敵之十分一ニ不足寡兵殊更今朝ヨリ両度之戦ニ気力労レ外ニ応援モナク旁危地ニ蹈入候トハ存候得共眼前之賊兵見遁ヘキニ非ス各必死ヲ誓ヒ敵ノ備未定ヲ可討ト揉ニ揉テ馳セ船橋ヘ押掛リ兵ヲ三ツニ分ケ正面之大道ヨリ大砲ヲ進メ銃隊一手者山手ニ廻シ一手ハ海手ヨリ寄先大砲ヲ発シ小銃ヲ交ヘ無透間打立候処賊ヨリモ烈敷打出シ互ニ大道ニテセリ合候中左右ノ寄兵一時ニ砲発無二無三ニ攻立候処賊軍大ニ乱器械要具ヲ捨大ニ敗北ス雖然残兵町家ニ潜伏宿中所々ニ出没砲発致シ戦止ヘキニ非ス味方寡兵殊ニ労武者ニテ盛返サレテハ勇々舗大事ト心得忽船橋ヘ火ヲ放焼立候処此日風烈宿中一時ニ燃上リ賊忍得ス所々ヨリ逃候得共矢頃之分討留長駆ヲ禁シ兵ヲ引揚浜手ニ屯シ休息致居候処薩兵二小隊為援兵馳来リ其以前筑藩ヨリ船橋手前ニテ残兵ト接戦及難儀候由ニテ援兵ヲ乞来候故一分隊遣候得共不及戦引揚申候此日之戦以寡当衆候故敵ハ打捨ニ致シ首級ヲ揚分散致間舗旨堅ク誓約仕候故敵之死亡点検ニ不遑候得共凡百人余モ可有之ト察シ申候弊藩討死手負左条ニ相記候此夜船橋ヘ宿陣猶残賊可追討旨薩之援軍申合同四日捨見川ヘ進軍同五日佐倉ヘ進軍此処ニテ探索之処木更津ヨリ真里谷之方ヘ賊軍本陣ヲ構ヘ候由就テ者残徒此所ニ潜居候哉ト相量リ同六日千葉宿ヘ進軍然処三日之戦争大総督府ヘ相聞得速ニ御追討可有之トノ事ニテ副総督御出陣ノ趣注進有之薩長先鋒トシテ出軍大村藩野州ヨリ会軍薩遊撃隊為応援会軍賊之消息探索之処八幡辺迠押出シ五井川之要害ヲ取防戦手配致シ候由相聞得諸手分配相定リ同七日暁八幡ノ方ヘ兵ヲ進メ各攻口ヨリ押掛候処賊ノ斥候薩遊撃隊ヘ砲発互ニ砲発相始リ諸手総掛リニテ砲戦遂ニ五井川ヲ奪ヒ姉ケ崎迄追撃陣屋ヲ乗取賊大ニ敗走弊藩ニハ五井川之川上ヨリ横合ニ押掛リ砲戦姉ケ崎近辺村中ニ賊兵ノ内六人追詰二人生捕一人自殺外三人森陰ヘ逃去リ行得見失ヒ候自殺ノ一人ハ撤兵隊長ノ者ノ由生捕ノ者申出候此戦弊藩手負後条ニ相記候同八日木更津ヘ薩長伊賀大村弊藩真里谷ヘ備前伊賀ノ分隊差向候得共賊一人モ不見皆陸地亦ハ海路ヨリ落失候由相聞得近辺潜伏之模様無之一先鎮静之様子ニ付同十日ヨリ諸藩兵隊追々引揚候旨申談副総督御陣ヘ御届申上同十一日弊藩兵隊一応江戸迄引揚申候両日之戦争死傷左之通

戦兵 蓑毛次右衛門
夫卒 巳之助
常吉

戦兵 白坂政兵衛
同月七日姉ケ崎戦争之節

戦兵 長友徳次郎
六月十七日兵隊常陸国平潟ヘ上陸賊徒不戦テ走陸奥国関田村迠追詰十一字頃ヨリ砲戦賊敗走三字頃平潟ヘ引揚
一同廿四日植田川ヲ隔テ砲戦各藩兵隊植田村迠追撃賊散乱
一同廿八日未明柳川兵弊藩兵新田坂迄押詰賊山上ニ分布互ニ砲戦賊能防弊藩兵左之山堤之道ヲ廻リ山上ヘ攀登リ敵之背後ヲ突キ砲台五ケ所ヲ奪賊敗走依之柳藩ト一手ニ成新田村迄追撃此戦苦戦死傷左之通

戦兵 酒匂浅之進

半隊長 冨田源右衛門
戦兵 恒吉兵衛
戦兵 松浦清助
一同廿九日柳川藩平潟ヘ為守衛引揚因是備前藩ト相備未明三坂口ヘ押詰賊此要地ヲ守二藩之兵撃走之賊保湯長谷備前攻大手弊藩撃搦手賊敗走此戦傷左之通

戦兵 上村惣太郎
一同日一字頃湯長谷ヨリ平城ヘ進撃賊兵防於堀坂砲戦味方一手ハ本道ヨリ進一手山ノ手ヨリ撃賊走味方踊躍平城ニ迫ル既ニ城門迠押詰候得共及深夜働不自由不得己兵ヲ引揚湯長谷ヘ宿陣此戦傷左之通

半隊長 桑原新五兵衛
戦兵 弓削与兵衛
一七月十三日今暁第二字頃備前兵隊弊藩兵隊共ニ湯長谷ヨリ平城ニ進両藩合併ニテ左ノ山手ヨリ攻撃賊設砲台防ク今朝霧深ク昼后雨甚シ山坂険阻之戦尤苦戦十字頃城下迄押詰諸藩ノ兵皆会シ四囲強攻撃賊不能防薩備幷弊藩之兵期シ必死ヲ越堀高土居ヘ攀登リ既ニ伐入ラントス此時日既ニ没不得已引揚諸兵城下ヘ会ス参謀衆ヨリ各藩元之陣々ヘ一応兵ヲ引揚ヘキ旨達シ有之候ト雖薩備大村弊藩相議是迄ニ取詰タルヲ一旦弛メ候テハ容易ニ落城致間敷仮令夜ニ入共不可止トテ尽死力攻撃因藩柳藩モ是ニ同シ一斉ニ発砲攻撃賊兵大ニ沮ム初更ノ頃ニ及城中忽火起リ所々ヘ転火賊敗走城落ツ此戦頗苦戦死傷左之通

戦兵 牧野田六左衛門
児玉源次郎
壱岐栄蔵
夫卒 新吉
同 嘉十

後死 図師恒右衛門
高橋軍右衛門
種子田市郎
小牟田武士郎
細山田藤蔵
新田坂ニテ分捕
乗馬 一匹
施条砲 一挺
ボウト 一挺
臼砲 一挺
平城ニテ分捕
大砲 一挺

太政官日誌・明治元年174号

太政官日誌第百七十四
明治紀元戊辰冬十二月

【府県図寸法ノ事】
十二月廿四日御沙汰書写
府県ヘ
先般府県管轄之地図差出候様相達候処府県限リニテハ聢ト難取調儀モ可有之依テ各藩領地飛領地共一図最寄府藩県示合早々取調差出候様相達候間其旨相心得夫々示合取調候様御沙汰候事
但大凡一里一寸之見図リヲ以テ云々相達候得共小図ニテハ不分明之儀モ有之候間一里三寸之割ヲ以図取可致事
〇【鍋島少将賜暇ノ事】
鍋島少将
春来横浜表出張野州鎮撫ヨリ差続滞京職務鞅掌苦労之至大義ニ被思食候今般国政改正之儀ニ付無余義願之趣被聞食届日数五十日御暇下賜候条帰国之上藩政ヲ一新イタシ日限之通早々上京奉職勉励可有之旨御沙汰候事
〇【立后参賀ノ事】
在京諸侯
来廿八日女御入内即日立后被為在候ニ付未刻参賀可有之事
但献物之儀ハ追而可申達事
〇【御留守御警衛ノ三家ヘ御沙汰ノ事】
各通
毛利宰相中将
鍋島少将
井伊中将
東幸御留守中京師御警衛諸取締向一入尽力太儀ニ被思食候今般還幸被為在候ニ付右御警衛被免候旨御沙汰候事
〇【大坂府徒刑場取建ノ事】
池田侍従
其藩往年天保山警衛ニ付人数屯集場所旧幕府ヨリ受取有之候川崎村陣屋地今般大坂府徒刑場ニ取建候様被仰出候間右場所早々大坂府ヘ引渡可申旨御沙汰候事
〇【市野内匠吟味ノ事】
徳川三位中将
其藩当時家来並遠州長上郡市野村市野内匠儀先達而遠州浜松表出張会計官出役之者ヨリ相達預置候処今度駿州府中藩ヘ吟味御任セニ相成候間内匠外二人共早々彼藩ヘ引渡可申旨御沙汰候事

徳川新三位中将
其藩領内遠州長上郡市野村住居市野内匠儀ニ付三河県幷尾州ヨリモ彼是届出候処当秋天竜川御普請御用会計官出役之者ヨリ名古屋藩ヘ預ケ其他連累之者井上河内守ヘ預置候処更ニ其藩ヘ御任セニ相成候間両藩ヨリ受取夫々遂吟味候上行政官ヘ可申出旨御沙汰候事
〇【五島表監察使ノ事】
渡辺昇
五島表ヘ監察使被仰付候事
但至急可令発向事

宮脇小源太
五島表ヘ監察副使被仰付候事
但至急云々
〇【林参謀ヘ下賜ノ事】
林玖十郎
久々大総督参謀トシテ出張遠地奔走不一方尽力之段太義ニ被思食候今般徴士参謀被免条為勤労之賞此品賜リ候事
〇【江州蒲生郡百姓強訴ニ付市橋松井両家ヘ御沙汰】
市橋下総守
春来其方ヘ取締被仰付置候家来共ヘ江州蒲生郡之内松井周防守領地先般復領被仰付候節村々百姓共沸騰強訴ニ及ヒ候段甚不相済事ニ候仮令民心不居合ニ候共説論ノ致シ方モ可有之処却而慫慂周旋愚民ヲ煽動セシメ其形跡頗私心ニ相渉候条甚以不埒ニ有之尚関係之者モ不少趣ニ付屹度厳重御糾問可相成之処其方儀兼々勤王之実効モ有之殊ニ其後ハ村々平穏之趣ニ相聞且松井周防守ヨリ段々願之次第モ有之候ニ付出格之思食ヲ以別紙姓名之外連累之者ハ其方ヘ御任相成候条相当之処置可取計旨御沙汰候事

市橋下総守家来 前田三右衛門
右謹慎

同家来 吉田岡右衛門
右禁錮

同家来 飯島利兵衛
右禁錮

同家来 飯田忠三郎
右護慎

松井周防守
江州蒲生郡村々百姓共之内其方領地先般復領被仰付候節右村々百姓共沸騰強訴之段甚不相済事ニ候仮令奸計之者有之候共其方平日示方之不行届ヨリ起リ候事ニ付屹度被仰付方モ可有之処自今一新旧弊革除之申立モ有之候ニ付以格別之思食今般之儀ハ不被及御沙汰候間向後政治ニ心ヲ尽シ衆庶悦伏候様厚ク心懸可申旨御沙汰候事
但右強訴首謀之者御宥恕願之趣尤ニ付其方ヘ御渡ニ相成候間夫々処置可致事
十二月

【女御入内立后恐悦ノ事】
同日御布告書写
来ル廿八日女御入内即日立后被仰出候ニ付当日巳刻五等官以上徴士参朝恐悦可申上事
但大宮女御ヘモ恐悦可申上候衣体之儀ハ三等官以上徴士衣冠直垂可為勝手四等五等官之徴士直垂用意無之輩ハ麻上下不苦候事
〇【御車寄敷石ノ辺猥ニ徘徊スベカラザル事】
宮堂上諸侯家来之者共御車寄敷石之辺猥ニ徘徊致シ候趣甚不敬之事ニ候向後其主人ヨリ心得違無之様屹度可申付事
十二月

【浜松藩従軍記】
同月浜松藩届書写
慶応四戊辰年正月賊徒為御追討東海道御先鋒御総督橋本少将殿副御総督柳原侍従殿京地御出陣同二月廿三日遠州荒井駅ヘ御着陣御中軍伊州藩相勤弊藩儀者兼而出兵被仰付之依而両卿御後備相勤候様同日被命之翌廿四日隊長伏谷又左衛門兵隊ヲ率ヒ領境ニ奉出迎御後備勤之同廿八日駿州府中駅ヘ御着御滞陣三月六日甲州表賊徒襲来之報知有之弊藩至急出張追討候様被命之翌七日兵隊駿府ヲ発シ甲州ニ趣ク同十二日甲府着陣之処頃日因土藩等同国勝沼ニ於テ賊ト一小戦賊敗散ニ付同十四日退軍同十六日沼津駅ヘ着両卿同所御在陣ニ付滞在前之如ク御後備勤之甲府進入ニ付在所浜松表ヨリ増加之人数甲州南部駅迠相進ミ前隊退軍ニ付後隊同駅ヨリ退キ沼津表ニテ合隊ト成ル同十八日副御総督卿甲州表御発向ニ付弊藩御中軍被命之翌十九日御出陣同廿三日甲府御着御滞陣同廿五日東京ヘ御進発被命之翌廿六日御発旗四月朔日東京芝久留米邸ヘ御宿陣翌二日池上本門寺ヘ御移陣御総督卿先ニ東海道御進軍同寺御滞陣同四日両卿為勅使東京城ヘ被為入御総督卿供奉伊州藩副御総督卿供奉弊藩士八名
津川織女
佐藤猪之助
高野助之丞
滝田喜三郎
井上於菟吉
小林平之進
近藤錠蔵
三崎釥次郎
同十一日東京城無滞御請取済同十三日両卿東京城御点検同廿二日御総督卿ヨリ大隊旗赤地菊之御紋御渡相成候同日於東京城又左衛門大御総督宮拝謁被命之同廿四日伊州藩橋本殿御中軍被免弊藩一手ヘ両卿御警衛被命之同廿六日両卿外桜田彦根邸ヘ御転陣橋本卿御警衛肥後藩ヘ被命之同廿九日弊藩柳原殿御中軍前々之通相勤之同卿総房ヘ御進発被命之閏四月四日東京御発シ同五日武州市川村同六日船橋村頃日之戦地御巡覧同七日下総佐倉表ヘ御着陣御滞在同九日同所御発シ同十二日上総大多喜城主大河内豊前依朝命佐倉藩ヘ御預ケ地等副御総督御中軍弊藩兵隊ヲ以無異条請取之即刻御巡見御在城同廿日一先御凱旋被命之同城三州吉田藩ヘ御引渡東京ニ御馬ヲ被還同廿二日彦根邸ヘ御着同廿七日猶又同卿甲州為鎮撫御発向被仰出之五月朔日御出馬同六日御着御在陣然処頃日来総房之脱徒沼津屯集謹慎之者共再脱函嶺ヘ登リ猖獗之聞有之同廿四日弊藩兵隊之内三小隊迅速出張誅伐候様被命之又左衛門兵隊ヲ引率シ翌廿五日甲府ヲ発シ箱根ニ趣ク在府之兵隊御中軍是迠之通同廿七日沼津表ヘ着軍議之上翌廿八日諸藩ト斉ク函嶺ヘ進軍之処賊先ニ散乱依而一日在陣同晦日退軍六月四日着甲同廿六日甲国四隣平定ニ付兵隊半減帰陣被命之二小隊余同廿八日凱旋ス同十一月十一日甲斐府知事滋野井侍従殿御着柳原殿御交代ニ付御上京浜松表迠供奉被命同十三日甲府ヲ発シ同表迠御警衛相勤メ夫ヨリ兵隊之内廿余人監察一人差副同卿御随従申付其余休兵仕申候右之次第又左衛門帰陣之上申聞候旨在所浜松表ヨリ申越候ニ付此段御届奉申上候以上
十二月廿七日
井上河内守公用人 荻田圭吉

太政官日誌・明治元年173号

〓二か所 地図記号 関所・城郭

太政官日誌第百七十三
明治紀元戊辰冬十二月

【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
十二月廿一日御沙汰書写
各通
島津少将兵隊
黒田宰相兵隊
吉川駿河守兵隊
久々遠路跋渉攻撃奏功云々
但春来云々〈以下第百卅三号薩州兵隊ヘ御沙汰書同文〉
〇秋月長門守兵隊
征討出張遠路跋渉日夜攻撃云々〈同上〉
〇同前兵隊
征討出張遠路跋渉其労不少候云々
〈第百卅五福知山兵隊ヘ御沙汰書同文〉
〇摂津丸軍艦乗組中
征討ニ付軍艦ニテ海路遠渉日夜攻撃云々
但春来云々〈以下第百卅三薩州兵隊ヘ御沙汰書同文〉
〇【稲波丹波官位被止ノ事】
内舎人 稲波丹波
其方儀官人之身分トシテ私ニ他国ヘ出剰御紋付之品相用ヒ加之武田兵庫領地丹波弓削村之士民ヲ惑乱セシメ候始末重々不届ニ付官位被止候事
〇【諸侯山陵参拝ノ事】
在京諸侯来廿三日山陵参拝之節供連之儀兼而之御趣意相心得成丈ケ軽装ニ致シ混雑無之様別而兵隊引率之儀ハ可為無用旨被仰出候事
〇【御着輦ニ付議定一列拝迎ノ事】
各通
毛利宰相中将
池田中将
明廿二日御着輦ニ付卯半刻参朝議定一列拝迎可有之旨被仰出候事
〇【兵藤八右衛門護送ノ事】
加藤能登守
松平越中家来兵藤八右衛門春来其藩ヘ御預之処此度桑名ニ於テ謹慎罷在候様被仰付候ニ付同所ヘ護送名古屋藩ヘ引渡可申事

徳川三位中将
松平越中家来兵藤八右衛門春来加藤能登守ヘ御預之処此度桑名ニ於テ謹慎罷在候様被仰付候ニ付兼テ取締罷在候者同様取扱可有之候事
【御着輦ニ付大宮御所ヘ恐悦ノ事】
同日御布告写
明廿二日御着輦ニ付為御迎参朝幷大宮御所エ恐悦申上候儀ハ可為五等官以上事
但卯半刻参朝衣体之儀ハ三等官以上徴士衣冠直垂可為勝手四等五等官之徴士直垂用意無之輩ハ麻上下不苦候事
〇【在京諸侯奉迎ノ事】
在京諸侯
明廿二日御着輦ニ付巳ノ刻奉迎候旨達置候処卯ノ半刻可罷出事
〇【大津駅御出輦ノ事】
明廿二日寅刻大津駅御出輦被遊候間為心得申達候事
〇【孝明天皇三周御忌辰ノ事】
今般御制度復古之折柄第一御追孝之思食ニテ来ル廿五日先帝三周御忌辰神祗式ヲ以テ於朝中御祭奠同日山陵御参拝被仰出候事

従来泉山ニ於テ御法会之節参拝之宮堂上ヲ始末々迠御斎被下候得共向後ハ不被下候間参拝之面々末々ニ至ル迠其旨可相心得候事
但本文之次第ニ付各弁当之用意可有之事

廿三日朝山陵勅使宮大臣三位以上堂上諸侯参拝昼後四位以下堂上諸侯参拝
廿四日朝山陵勅使大宮御参拝昼後女房参拝薙髪参拝
廿五日卯刻於南殿御祭奠山陵行幸
廿六日朝三等官以上徴士参拝廿三日不参之堂上諸侯参拝昼後黒御所参拝

【蜂須賀中納言賜暇ノ事】
同月廿三日御沙汰書写
蜂須賀中納言
無余儀情実有之帰国之儀夏以来段々願ニ付既ニ於東京御暇賜候処御都合ニ依リ還幸供奉被仰付苦労ニ被思食候今日無滞御帰輦候間勝手発途候様更ニ御沙汰候事
〇【浅野隊ヘ御沙汰ノ事】
浅野少将兵隊
征討出張遠路跋渉日夜攻撃到処功ヲ奏云々
但春来云々〈以下前同〉
〇【座光寺家禄高不取調ノ事】
座光寺盈太郎
当春父右京名代トシテ上京之節家禄高不取調之儀御届申上其方家ニ取リ重大之事件等閑ニ相心得如何之事ニ付御咎之科モ可有之処此度ハ不被及其儀自分謹慎被免候間向後粗忽之儀無之様可致旨御沙汰候事
【富興行禁制ノ事】
同日御布告写
富興行之儀ハ兼而御禁制ニ有之処近年諸国ニ於テ金銭融通ヲ名トシ或ハ社寺再建等ニ托シ興行致候向モ有之趣元来澆季之弊風僥倖之利ヲ以テ民心ヲ誘惑スルヨリ自然農工商共其職業ヲ惰リ往々之カ為ニ家産ヲ破候者モ不少哉ニ相聞ヘ以ノ外之事ニ候斯御一新之折柄右様之所業殊ニ御趣意ニ相戻リ候儀ニ付更ニ厳禁被仰出候事

【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
同廿四日御沙汰書写
池田中将兵隊
征討出張遠路跋渉其労不少候不取敢為被慰軍労酒肴被下候事
〇各通
毛利宰相中将 兵隊創傷之者
山内少将 兵隊創傷之者
征討出張遠路跋渉日夜攻撃遂被創傷今般凱至之段別而艱労之事ニ候不取敢為被慰病情此品被下候猶精々療養可相加候事

毛利宰相中将 兵隊
征討出張遠路跋渉日夜攻撃到ル処功ヲ奏シ今般凱至之段其勲労不少候不取敢為被慰軍労酒肴被下候事
但春来兵事ニ付云々〈第百三十三十一月四日薩州兵隊ヘ御沙汰書同文>
〇【女御入内立后ノ事】
来ル廿八日巳刻女御入内即日立后被仰出候事
但当日重服者参朝可憚事

宮堂上ヘ
来廿八日女御入内ニ付当日禁中大宮中宮等ヘ参賀可致事
一当日重服者僧尼参内可憚事
一当日浅黄袴着用之輩薄色袴着用之事
一自今中宮ヘ参入之輩衣冠之事
但当時不在其限候事
一献物之儀ハ可為先例之通事

在京諸侯
女御入内ニ付為恐悦参朝之儀ハ追テ被仰出候事

在京諸侯
御着輦ニ付廿八日恐悦可申上旨相達置候処女御入内ニ付来廿七日恐悦可申上候事
〇【稲波内舎人官位被止ノ事】
稲波内舎人
父御咎ニ付被止官位候事
〇【孝明天皇御祭奠ノ事】
明廿五日於南殿御祭奠被為在候間寅半刻五官知事副知事参朝可有之候也
追テ衣冠単之事
〇【御留守御警衛ノ三家ヘ御沙汰ノ事】
池田中将
東京行幸御留守中桂御所御警衛被仰付候処今般還幸被為在候ニ付テハ御留守中之儀一入苦労ニ被思召候依テハ右御警衛被免候間此旨可相心得様御沙汰候事

前田多慶若
前同文〈大宮御所〉

島津淡路守
前同文〈女御御方〉

〇【諸藩領図作製ノ事】
諸侯ヘ
今般府県ヘ別紙之通地図明細ニ取調差出候様相達候処府県限ニテハ聢ト難取調儀モ有之ニ付藩々領地一図飛領地共色分ニシテ早々取調可差出候事
但府県ヘモ兼テ相達置候間最寄府県示合遺漏無之様可取調候尤御領幷他領入交無之藩々ハ差出ニ不及候事
別紙
一国図 一枚
但一里三寸ノ見積ヲ以テ図取可致事
御領之村々 朱色
宮堂上領之村々 薄色
諸侯領之村々 白
中下太夫上士領之村々 青
社寺領之村々 回 黄
府県 □
〈城下〉村々 〇【楕円】
宿駅 ◎【楕円】
関門 〓
社寺 〇
古城跡 〓
山 青
海湖沼川 浅黄
郡分 黒筋
往来 朱筋
右之通国図美濃紙裏打ニ認夫々色分合紋ヲ以分明取調早々可差出候事

太政官日誌・明治元年170号

太政官日誌第百七十
明治紀元戊辰冬十二月

【京都御還幸奉迎ノ事】
十二月十五日御布告書写
今般一先還幸被仰出当月八日東京御発輦来ル廿二日御着輦被為在候ニ付即日辰ノ刻為御迎参朝并大宮御所ヘモ恐悦可申上候事
但御迎并参朝ノ節衣体之儀ハ衣冠無位之輩ハ直垂著用可有之事

来ル廿二日御着輦ニ付為御迎即日辰ノ刻五官知事粟田口ヘ可罷出候事
但知事差支之節ハ副知事又ハ判事ニテモ可罷出候事

同日御沙汰書写
在京諸侯
今般一先還幸被仰出当月八日東京御発輦来ル廿二日御着輦被為在候ニ付即日巳ノ刻鷹司家ヘ参集四ツ足門外ニテ奉迎還幸被為済候エハ退散可有之翌廿三日為恐悦参朝并大宮御所ヘモ恐悦可申上候事
但御迎并参朝之節衣体之儀ハ衣冠無位之輦ハ直垂著用可有之猶又恐悦申上候節所労之輩ハ重臣名代不苦候事

〇【水野内藤両家来東京禁足ノ事】
各通
水野和泉守
内藤藤翁
右於東京謹慎被仰付候ニ付家来在京之者屋舗内ニテ禁足可致旨申付候事
十二月

【鍋島隊ヘ御沙汰ノ事】
同月十七日御沙汰書写
鍋島少将兵隊
久々遠路跋渉攻撃奏功既ニ東京ニ於テ〈云々〉
但春末〈云々〉〈第百三十三号薩州兵隊ヘ御沙汰書同文〉

〇【島津少将ヘ御沙汰ノ事】
島津少将
不日還幸被為在候ニ付テハ帰国之儀殊ニ難被及御沙汰処国政急速所置方ニ付無拠願之趣被聞食届御暇下賜候然ル処東北漸平定ニ及ヒ候エ共残賊未タ殲滅ニモ不至殊更綱紀御維持之前途深御依頼被為遊候儀ニ付国許政治行届候上ハ早々上京皇室ヲ可奉輔翼旨御沙汰候事
十二月

【駿遠三収納ノ事】
同月十八日御沙汰書写
中下大夫上士ヘ
駿遠参ニ於テ領知有之輦ヘ先達而申達候件々之中当年収納之儀ハ是迄之領主取収可申旨相達置候処御模様替ニ相成当年収納代地ニテ取収不相調輩ハ東京会計官ニ於テ米金ノ内ヲ以相渡可申間此旨可相心得事

〇【出征諸隊ヘ御沙汰ノ事】
各通
細川中将兵隊
鍋島少将兵隊
久々遠路跋渉攻撃奏功〈云々〉〈前同文〉
但春来〈云々〉

各通
黒田宰相兵隊
毛利宰相中将兵隊
九条左大臣守衛トシテ出張遠路跋渉攻撃奏功云々〈前同文〉
但春来云々

九条左大臣下参謀
征討ニ付下参謀トシテ出張遠路跋渉云々〈前同文〉
但春来云々

九条左大臣附属
久々遠路跋渉攻撃奏功云々〈前同文〉
但春来云々

〇【三遠両州徳川三位領知ノ事】
三河県
三遠両州之内モ今般徳川三位中将ヘ領知下賜候間当年租税ヨリ同人ヘ収納致シ候様被仰付候ニ付此段相達候事

青山左京大夫
其方領知高之内遠江国ニ於テ高一万二百四十石余之処今般徳川新三位中将ヘ被為下置候ニ付右上地被仰付為代地別紙之通丹波但馬両国之内ニテ下賜候事
但遠江国旧知高地所村々急ニ取調可申出事
別紙 代地
高一万二百四十石
丹波国 桑田郡
船井郡
天田郡
河鹿郡
但馬国 朝来郡
右郡々村差之儀ハ追而相達可申事


松平能登守
前同文高五千二百七十石余
別紙 代地
高五千二百八十石余
美濃国 土岐郡
右村差之儀ハ云々〈前同文〉

内藤丹波守
前同文高四千三百二十石余
別紙 代地
高四千三百石余
美濃国 勝北郡
右村差之儀ハ云々〈前同文〉
十二月

【忠魂慰祭遺族扶助ノ事】
同日御布告書写
大政御一新ニ付天下之衆庶其所ヲ得各其志ヲ遂候様覆載至仁之御趣意ニ付鰥寡孤独窮民等ニ至ル迠追々御賑恤之道モ相立候処戊午以来国事ニ周旋シ皇室ニ勤労候者却而姦吏ノ為ニ非命之死ヲ遂ケ其妻子等飢寒ニ苦ミ且幸ニ存命候モ脱籍流離候族モ有之哉ニ相聞ヘ実ニ不憫之事ニ候依之今般京都府ニ於テ夫々取調死亡之忠魂ヲ慰祭シ妻子救助等執リ行ヒ候ニ付テハ府藩県共其管轄中右等之者有之候ハヽ篤ト取調祭祀救助等行届洽ク御仁沢ニ浴シ候様可取計旨御沙汰候事

〇【押買取締ノ事】
宮堂上府藩県及社寺之家来小者等且雇仲間鳶体之者之内間々商戸之店ニ於テ高価之品ヲ纔ノ代銭ヲ以押買致シ又煮売屋等ニテ飲食之上代料不相払立去候者モ有之哉ニ相聞ヘ候ニ付向後右等之振舞致シ候者ハ直チニ召捕候間家来末々ニ至ル迠決而心得違無之様兼而示シ置可申旨被仰出候事
但心得違之者召捕候節若逃去候ハヽ仮令主家門内タリトモ付入穿鑿可致間何方ニ匿居候共速ニ引渡可申事

〇【百姓持ノ地ト町人持ノ地】
拝領地并社寺等除地之外村々之地面ハ素ヨリ都而百姓持之地タルヘシ然ル上ハ身分違ノ面々ニテ買取候節ハ必名代差出シ村内之諸役無支為相勤可申事
一右同断町分之地面ハ向後都而町人名前之券状タルヘシ然ル上ハ身分違ヒノ面々ニテ買取候節ハ必名代差出シ町内之諸役無支相勤サセ可申事
右之通相心得候様被仰出候事
十二月

【奥州雀林高田附近ノ戦】
同日堀貞次郎届書写
兼而奥州ヘ出張罷在候敝藩人数二小隊佐加瀬川台場守衛村中巡邏等相勤罷在九月十七日朝雀林村ヘ斥候差遣候処賊方ヨリモ斥候差出不図山上ニテ行逢及戦争其段致注進候間台場人数等モ相増終日及戦争候夜ニ入候テハ賊発炮モ不致雀林村ヘ引揚候様子ニ御座候其節手負左之通
手負
長野為太郎隊押伍士分水野鎰之丞事 岡村鎰之丞
翌十八日会議所ヨリ御達ニテ前同所ヨリ先鋒賊陣高田駅之根拠ヲ目当ニテ致進撃候様敝藩長野為太郎隊須坂一小隊為応援長藩一小隊被仰付朝六時ヨリ進撃右山ノ手ヨリ雀林村米沢村之賊追撃寺崎村台場乗取夫ヨリ高田駅ヘ進撃同駅入口台場ニテ暫及砲戦終ニ賊軍致敗走候陣屋一番乗取申候尤其節討死手負左之通
討死
長野為太郎隊銃卒 中沢郡蔵
手負
右同断 白川永次郎
同日未之刻過高田駅ヨリ日光海道ヘ長藩二小隊越前一小隊松代一小隊高田一小隊敝藩一小隊長藩大砲二門致進撃候様会議所ヨリ御達ニテ出兵兎津村迠進撃仕候得共賊不居合夫ヨリ永井野村ヘ引揚宿陣仕候同日分捕之品左之通
小銃 五挺
胴乱 一ツ
刀 二本
脇指 一本
鞘巻 一本
陣笠 四蓋
胴当 一ツ
右之通越後御総督府ヘ御届申上候趣在所表ヨリ申越候此段御届申上候以上
十二月十八日 堀貞次郎公用人 槙政右衛門