ブログ

行在所日誌・慶応4年7号

〈御親征行幸中〉行在所日誌 第七号
慶応四戊辰年閏四月六日

【大坂城内ニ於テ繰練天覧ノ事】
閏四月四日、城内江
行幸可被為在之処、雨天ニ付御延引、被仰出候事
同五日卯ノ刻御出輦、城内ヘ
行幸被為在、各藩ノ兵隊、大砲小銃之繰練天覧被為遊、相済ミ供奉之面々ヘ、乗馬ヲ被仰付、午ノ半刻、還幸被為在候事

【豊太閤社壇造営仰出サル】
閏四月六日神祇局並大坂裁判所江御沙汰之写
有功ヲ顕シ、有罪ヲ罰ス、経国之大綱、况ヤ国家ニ大勲労有之候者表シテ顕スコト無之節ハ、何ヲ以テ天下ヲ勧励可被遊哉、豊臣太閤側微ニ起リ、一臂ヲ攘テ天下之難ヲ定メ、上古
列聖之御偉業ヲ継述シ奉リ
皇威ヲ海外ニ宣ヘ、数百年之後、猶彼ヲシテ寒心セシム、其国家ニ大勲労アル、今古ニ超越スル者ト可申、抑、武臣国家ニ功アル、皆廟食其労ニ酬ユ、当時
朝廷既ニ神号ヲ追謚セラレ候処、不幸ニシテ天其家ニ祚セス、一朝傾覆シ源家康継テ出、子孫相受ケ、其宗祠之宏壮前古無比、豊太閤之大勲ヲ以テ、却テ晦没ニ委シ、其鬼殆ント餒ントスルニ及候段深
歎思食候折柄、今般
朝憲復故、万機一新之際、如此之廃典挙サルヘカラス、加之宇内各国、相雄飛スルノ時ニ当リ、豊太閤其人ノ如キ、英智雄略ノ人ヲ被為得度、被思召、依之新ニ祠宇ヲ造為シ、其大勲偉烈ヲ表顕シ、万世不朽ニ被為垂度、被仰出候、列侯及士庶、豊太閤之恩義ヲ蒙リ候モノ不少、宜シク共ニ合力シ、旧徳ニ可報旨御沙汰候事
閏四月
別紙之通、被仰出候ニ付而ハ、大阪坂外近傍ニ於テ、相応ノ地ヲ撰ヒ、社壇造営被仰出候、且天下有志之者、御手伝致度儀申出候得者、御差許ニ相成候間、於裁判所、早々程能可取計様、被仰出候事
閏四月

【浪華病院御取建仰出サル】
同日同所江御沙汰之写
大政御一新之折柄、鰥寡孤独貧窮之者、自然療養不行届、天年之寿命ヲ保コト能ハスシテ、空ク致落命候者有之候テハ可憫事ト、深ク御垂憐被為遊、厚キ
御仁恵之思食ヲ以テ、今度於浪華、病院御取建ニ相成、窮民ニシテ疾病療養、不行届之者共御救助可被為在旨、被仰出候事
閏四月
追而病院取建之場所並医師人物制度規則等、早々取調可申出旨御沙汰候事

【大坂市中極老者御賑恤ノ事】
同日同所江御沙汰之写
兼テ被仰出候通、厚キ御賑恤之
思召ヲ以、今般大坂市中、極老之者江、別紙之通、御恵ミ可被為下置候旨、被仰出候事
但シ、兼テ被仰出候孝子、節婦等、尚早々取調可申出旨、更ニ御沙汰候事
閏四月
別紙
一、百歳以上 壱人ニ付給穀 三石
一、九十歳以上 同 二石
一、八十歳以上 同 一石
一、七十歳以上 同 五斗
右之通御恵ミ可被為下置候間、早々取斗可申旨御沙汰候事
閏四月
同日同所エ御沙汰之写
御仁恤之思召ヲ以
御親征御行在相成候上ハ、市中人民、其処ヲ不得モノ有之候而ハ元来之
聖慮ニモトリ、深ク
御顧念被為遊候、依而ハ
還幸之後、一層励精、人民安撫之政令、施行候様尽力可有之旨、被仰出候事
閏四月
同日軍防局江御沙汰之写
此度徳川慶喜降伏ニ及候処、残賊猶野心ヲ逞シ候趣、然ルニ摂海之義ハ、近畿枢要之土地、衆庶輻湊之都会ニ付、万一賊船衝突シ、人民危難之地ニ立至候而者、不容易次第ニ付、深ク歎思食候、依而此度
還幸被為在候後者、猶更防禦向、一際厳重ニ相備、非常之戒不懈人民安堵、各生業ヲ安シ候様、厚ク取締可致旨、更ニ被仰出候事
閏四月

江城日誌・慶応4年2号

江城日誌 第二号
慶応四戊辰年五月八日

五月六日
前橋少将
賊徒猶野心を逞し、王土を掠め、王民を苦しめ、処々出没、官軍に相抗し、未平定ニ不至候ニ付、上野全国鎮撫被仰付候間、民政之儀者勿論、藩々之向背をも篤と相察し、取締行届候様、尽力可有之旨、大総督宮御沙汰候事
五月 大総督府 参謀

徳川民部大輔
御用有之候間、急速帰国可有之、被仰出候事
五月

○薩藩池上四郎左衛門帰府言上之大略
賊徒等白川城ニ拠り益禍心を逞し候ニ付、去閏四月廿八日、漸奥州白坂駅迄着し、廿九日白川城攻撃之筈ニ御座候処、延引ニ而本月朔日未明より、三方江手配いたし、五番隊迄黒川村より原街道江繰出し候処、賊兵台場等築立致防禦候ニ付、直様進撃、諸所台場等追崩し、白川町口迄攻入、長州薩州、大垣三藩ニ而、賊兵を中ニ取込、頻りニ攻立候処、賊兵大ニ致狼狽候ニ付、過分打取申候、未首級等も相分不申候得共、大概五六百位者可有之奉存候、何分此度之儀者、十分之好都合ニ而、少も遺策無之、誠に愉快之事ニ御座候、尚委細之儀者本営方より御届可申上候、弊藩戦死手負左之通
二番隊 手負 飯々礼才蔵
即死 古渡七之丞
手負 市本彦十郎
川細金右衛門
町田金右衛門
山本吉蔵
前川田八郎
四番隊 手負 仁礼平兵衛
北郷万兵衛
神原吉兵衛
久留休左衛門
五番隊 即死 八地清八
手負 桑皮田角左衛門
川上源七郎
有川彦右衛門
郷田正之丞
香田嘉右衛門
土師庄之進
篠崎覚之丞
即死 河野助五郎
坂元仲蔵
手負 大河平源助
上村彦之丞
武立庄五郎
八地知庄左衛門
壱番大砲隊 即死 広瀬彦蔵
手負 奈良原長左衛門
亀沼源右衛門
淵辺八郎次
勝部謙助
桂宗十郎
二番大砲隊 即死 小野藤吉
手負 河上万助
伊藤権平
猿渡嘉左衛門
過川仁平太
四本十左衛門
有馬彦七
手負 町夫熊四郎
兵具隊 手負 中島尚四郎
即死 田中清左衛門
手負 大迫彦左衛門
八地知正治
池上四郎左衛門
臼砲打手 手負 土師孫市
外ニ 夫卒等略之

島団右衛門
軍監被仰付、下総野二州為監察被差遣候事
五月
和田藤之助
軍監被仰付、駿州沼津為監察被差遣候事
五月
中井範五郎
三雲為一郎
軍監被仰付、豆相二州為監察被差遣候条、申合尽力可有之候事
五月
大久保加賀守
江川太郎左衛門
先般残賊林昌之助以下脱走之者、其領内罷候節、不都合之儀も有之候趣相聞、如何之事ニ候、依之吃度御沙汰ニも可被及之処、於此度者其分ニ被差置、今般軍監中井範五郎、三雲為一郎、豆相両州為監察被差遣候条、諸事不行届無之様、精々尽力可有之之旨、御沙汰ニ候事
五月 監察使府 軍監

江城日誌・慶応4年3号

江城日誌 第三号
慶応四戊辰年五月十三日

五月八日
○肥前より御届之写
昨七日、弊藩先鋒人数、野州繰込兵隊之内士分二人痛所有之、行軍ニ相後れ、暮六ツ時頃、上野北大門町を、駕籠にて通行いたし候処、何者ニ哉八十人計仕掛参、無体ニ切掛候ニ付、不得止及抜合候得共、何分人少にて不及力、壱人ハ殺害ニ逢、壱人は深手負、同夜五ツ時半頃弊邸罷帰、右之段先鋒宿陣所江申通候処、一隊甚憤怒を生じ、堪兼居候ニ付、相手方之もの御召捕被下候哉、無左候はゞ此方一手を以、及返戦候勢ニ付、先以此段不取敢御届仕候以上
五月八日 肥前侍従内 吉村謙吉
掛紙
相手方始末之儀ハ、隊中恥辱ニ不成様、御所置被為在候間、其藩先鋒之儀ハ、早々可有行進事
○薩州より御届之写
兵士 有吉庄之丞
湯地治右衛門
有馬相八郎
右者斥候之者共ニ而御座候処、昨七日夕時分根岸辺ニおいて、彰義隊之者八九人ニ行逢候処、右三人を取巻、是非屯所江可連越段申聞候得共、相断候処、直様切掛、暫時相戦候由、一人ハ其場ニ而被切伏、敵両人打果、六人ニ手を負せたる由御座候得共、猶追々多人数馳集候付、無拠両人ハ切抜、駒込千駄木町観音堂前まで引取候由ニ候得共、皆深手を負候上、段々追重候付、不得止一人ハ切腹いたし、一人之者も割腹可致之処を、早鉄煙を以被打伏候段、探索方之者届申出候付、追而確証を得、委細可申上候得共、不取敢申上置候以上
五月八日 薩摩藩

五月十二日
○土州より御届之写
会藩并江戸脱走之兵、去月廿九日頃より大桑小百高畑高百辺江繰出し、今市の北毘沙門山ニ旗を建、夜分は所々ニ篝を焚、追々当駅ニ相迫り候ニ付、厳ニ備て相待居候処当月六日、賊終に毘沙門山、栄旧山等ニ兵を出し、従芹沼大谷川を渡り、朝五ツ時頃東の方杉林の中より発炮、追々宇津宮、壬生両街道より進来ニ付、不取敢三小隊を以当之、游軍二小隊両道ニ出助之、砲隊亦左之方より応之、且山上之賊よりも発砲候付、大砲三四発打掛候処、忽散乱仕候、然るに両道之戦勝敗未決、此日別ニ弊藩人数、従宇津宮二小隊計当駅到着之筈ニ付、夾撃可仕と存相待候得共、存外ニ遅刻ニ付、人数三十人計、間道より賊之背ニ出、不意ニ襲来砲撃仕候処、遂ニ敗走折柄宮城より之人数参会、賊兵八方へ散乱仕候ニ付、諸隊一里許追撃仕、七ツ時頃今市江引取申候、討取分取等ハ別紙ニ相認差出申候
五月 土州 板垣退助

橋本順助
宮地元兵衛
谷本忠一郎
右討死
小野早太
高橋喜佐次
上田庄蔵
三木壮之助
小松克馬
田辺豪次郎
佐藤順吉
小松駒之助
西楠太郎
猪石栄太郎
宮地小十郎
森岡団右衛門
江口亀太郎
中島栄太郎
右手負
死亡 馬取 京次
右者今五月六日戦争之砌、討死、手負、如斯御座候以上
五月七日 土州 板垣退助

一、仕付弾薬、三千六拾計
一、小銃、三拾五挺
一、大砲、壱門
一、タス、拾七
一、刀、九本
一、脇差、十二本
一、金、百両三朱
一、白米、一カマス
一、フランケツト、四枚
一、馬、一匹
一、木砲、一挺
一、生捕賊徒、一人
一、討取同、廿七人
但此外賊方江引取候手負、死人不相分、且麦畑、林間、溝中ニ斃居候者も可有之候得共、夫々取調相調不申候付、追而取調之上御達仕候
右者今五月六日、野州今市駅ニおゐて、戦争之節諸隊江討取、分捕等右之通ニ御座候以上

五月 土州 板垣退助
○五月六日於今市生捕候、右嚮導加藤林三郎白状之略
一、専ら今市を攻んとするは、今市ニ拠り諸道と向はんが為也
一、六日、東の方へ向ひし兵は、会兵并江戸兵、猟人等也
一、先達而日光より会藩江引取、新ニ軍議を定め、再ひ出張と云
一、兵糧、弾薬等は、不絶会の本国より送ると云
一、会の国老山川大内蔵、江戸兵の不振を憤り、会侯の内命を請出張すると云
一、白川口ニ兵を分つ後ハ、今市へ向ふ兵ハ凡千五百人計
一、第一大隊長会〈今見太郎 秋月登之助〉事、宇城より引取白川口ニ出る
一、軍奉行〈江戸〉大島某〈会〉織神某
一、大隊長、加藤平内
一、総督〈会〉田中蔵人〈江戸〉大島敬助
一、高徳ニ七聯隊出張、隊長ハ原平太夫
一、碇藤原辺、第三隊屯すと云
一、大隊司令は、羽織ニ銀の筋四ツ有之と云
一、軍監〈会〉磯貝某
一、砲隊差図役〈会〉布瀬七郎
一、第二大隊長、沼新次郎
一、今四月廿一日於今市被討取候内、小隊長、杉口精一郎、右嚮導平山弥三郎
一、五月六日於同所被討取候小隊長、中根量蔵、半隊長〈会〉岸武之助
右之通

江城日誌・慶応4年4号

江城日誌 第四号
慶応四戊辰年五月十五日

五月十四日
徳川亀之助
上野山内ニ有之候祖先之霊位、重器等、今日中取片付候様、大総督宮御沙汰候事
五月十四日
○高札并市中へ御触之写
過日以来脱走之輩、上野山内其外所々屯集屡官兵を暗殺し、或は官軍と偽り民財を掠奪し、益兇暴を逞する之条、実ニ国家之乱賊たり、以来右様之者ハ、見付次第速ニ可打取若万一密ニ扶助致し、或は隠し置候者於有之者、賊徒同罪たるべき者也
五月
今般徳川慶喜、恭順之実効を表するニより祖宗之功労を被
思食家名相続被仰出、城地禄高等之儀も追々御沙汰ニ相成、末々之者ニ至迄、各其所を得ざる者無之様、被遊度との
思食ニ被為在候処、豈図んや、旗下末々心得違之輩、至仁之
御趣意を拝戴し奉らざるのみならず、主人慶喜之素志ニ戻り、謹慎中之身を以、恣ニ脱走ニ及び所々屯集、官軍ニ相抗し、無辜之民財を掠奪し、兇暴至らざる所なく、万民塗炭之苦ニ陥らんとす、故ニ今般不得止之を誅伐せしむ、素より其害を除き、天下を泰山之安きニ置き、億兆之民をして、早く安堵之思ひをなさしめん為なれバ、猥ニ離散する事あるべからず、篤と
御趣意を体認し奉り、末々之者ニ至る迄、聊心得違無之、屹度安堵致し、各其生業を営み其分ニ安すべき者也
五月

徳川亀之助江
過日以来、旗下末々心得違之者
朝廷寛仁之
御趣意を不奉拝戴、主人慶喜恭順之意ニ背き、謹慎中之身を以脱走ニ及び、上野山内其外所々屯集、官軍ニ抗衡す、実ニ不可赦之国賊也、故ニ不被為得止、明十五日誅伐被仰出候、此段為心得可相達旨、大総督宮御沙汰候事
五月
松平下総守
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并芸州兵隊被差遺候間、万事申合領内取締向ハ勿論、厳ニ軍備を整へ、賊徒落行候者有之節ハ、速ニ可打取、万一不都合之儀於有之者、屹度御沙汰ニも可被及候間、精々不行届無之様尽力可有之旨、大総督宮御沙汰候事
五月
土井大炊頭
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并肥前兵隊被差遺候間以下前同文
五月
松平周防守
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之軍監并筑州兵隊被差遺候間以下前同文
五月
○近国之藩々江御達之写
過日以来以下前同文誅伐被仰出候、依之領内取締向ハ勿論以下前同文
○上野輪王寺宮江御送ニ相成候
御書之写
今度徳川慶喜、恭順之実効相立、家名相続之儀被仰出候ニ付、旗下之輩、愈以謹慎可在之処、心得違之徒恣ニ脱走、所々ニ屯集、人之意ニ相戻り候のみならず、屡官兵を暗殺し、民財を掠奪し、王化を妨候所業、実ニ不相済次第ニ付、速ニ誅伐ニ可及者勿論之儀ニ候得共、今日迄遷延ニ相成候者、畢竟宮御方ニハ、御懿親之儀故、於朝廷厚き
思召も被為在、於総督宮も深御配慮被遊、御使を以て御登城之儀、被仰入其後参謀をも被差遺候処、御面会も無之、猶又再応覚王、竜王両院をも被為召候得共更ニ出頭不致、此上ハ御救被成進候道も絶果、一方ならず御焦慮被遊候、乍去何分国家之乱賊、其侭被為差置候而ハ、万民塗炭之苦ニ陥り朝憲も更ニ不相立次第ニ付、誠ニ不被為得止誅伐被仰出候間、宮御方急速御立退ニ相成候様可申上旨、大総督宮御沙汰ニ候間、此段申上候、宜執達可有之候也
五月十四日
○各藩之兵隊江御沙汰之写
旗下末々脱走之輩、上野山内其外所々屯集屡官軍之兵士を暗殺し、無辜之民財を掠奪し、益暴虐を逞し、官軍ニ抗衡す、実ニ大罪不可赦之国賊也、最早
朝廷寛仁之道も絶果、断然誅伐被仰出候付而者勇闘激戦、奮て国賊を鏖殺し、億兆蒼生之塗炭を救ひ、速ニ平定之功を奏し、可奉安宸襟旨、御沙汰候事
五月

兼而御軍令にも被仰出候通、猥ニ民家を放火し、家財を掠める等、乱妨狼藉ケ間敷儀無之様、精々可相心得旨、尚改而被仰出候事
五月十四日

江城日誌・慶応4年8号

江城日誌 第八号
慶応四年戊辰五月十八日

五月十六日
御布告書之写
今度上野山内屯集之賊徒討伐之砌、輪王寺宮御立退ニ相成、行衛更ニ不相分候ニ付右御行衛相分り候ハゝ早々可申出旨、御沙汰候事
五月

○肥後、肥前、備前、筑前、筑後伊州、稲田之藩々御達之趣
昨十五日上野ニ而打洩し候残賊、掃除被仰付候条、指揮次第進撃可致候事
但今十六日四ツ時、筋違門内へ相揃、可致整列候事

○昨十五日上野ニ而打洩し候賊、掃除被仰付候条、諸藩兼而之持場吟味いたし、精々可致尽力旨、被仰出候事
但講武所へ可相揃事
広小路三枚橋辺
薩州 因州 肥後
本郷駒込根岸辺
備前 長州 佐土原 大村 肥前
道灌山谷中王子辺
芸州 伊州 筑後
浅草蔵前辺
筑前 尾州

五月十七日
○越後戦争略
一、閏四月十九日薩、長之兵、高田着陣、探索之敵情ニより直様戦略を定め、先達而以来荒井駅滞陣之尾州以下信州諸藩之兵ニ、薩長高田之兵相添、松山越千手辺へ出張、加州高田之兵ニ薩、長之兵相添、柏崎口青海川辺へ出張す
一、同月廿四日薩州一小隊、長州二小隊、松代一小隊、飯山一小隊、尾州一小隊、千手より千曲川を渡、十日町ニ押出す、廿五日暁、路を分て六日町に進入るに、賊一人も不見、昨日小出之方へ逃去候由也、夫より尾州兵を陸地より進め、薩長之兵、川船にて浦佐ニ至り、直様大斥候とし尾兵を橡原峠ニ進しむ、廿六日薩州半小隊、飯山一小隊、尾兵ニ合して、堀内ニ進む、廿七日暁八ツ時過、大雨を侵し、薩半小隊、長二小隊を以、浦佐より魚沼川を渡り、賊之斥候を追散し、小出島を攻撃す、賊駅口及川堤ニ仮炮台を設け、烈敷防戦、薩、長之兵両道より奇正互ニ進、佐梨川を渡り、市中ニ突入、激戦して、遂ニ小出島を破る、堀内之兵ハ、川向より四日市之賊ニ当り、薩長ニ応援す、賊悉く会津道六十里越に逃走す、乃ち四日市ニ飯山之兵、小出島、松代之兵を備、余ハ堀内ニ引揚固守す、此戦暁六ツ半時より一小時間余、薩、長討死九人手負二十人、尾州手負一人、姓名別具、賊之死傷ハ、余程多分有之様相見候
一、同月廿六日暁、尾州、松代、高田等之兵千手より千曲川に沿て進む、賊雷峠之険ニ拠り、山腹ニ砲台を設けて防禦す、官軍四ツ時前より七ツ半時頃迠攻撃、松代兵峰を踰候故、賊敗走、山上より大砲を発候得共官軍終ニ山上ニ押登、賊小千谷之方ニ至る賊既ニ長岡之方ニ走る由にて一人も無之、官軍代而陣屋ニ入、官軍死傷十許人、賊路傍ニ仆居候者一人、生捕四人、其外死傷多く相見候
一、同月廿七日薩州一小隊、長州二小隊、加州二小隊二炮門、富山二小隊、高田一手、前夜より申合、未明鯨波前、七八町迄押出候処、加州、高田等之兵、未来候故、援兵と定置候薩、長之兵を以、直ニ鯨波を攻撃す、賊駅口ニ邀戦ひ、終ニ不能支、人家を自焼して走る、薩長追撃して駅外ニ至る、加州、高田等之兵、追々来り加はる、賊柏崎之前、右手之山ニ依り、松林を楯とし、烈敷防戦す、山下ハ水田にて、是日大雨如傾、渓水暴漲、薩、長半隊を以勇進其山を奪ひ、続て万神堂を攻んとす、加州勢不続、且兵疲たるを以て、鯨波ニ引揚今日長州討死二人、手負七人、高田即死三人、手負八人、加州即死六人、手負廿人、富山手負四人、廿八日桑名、水戸之賊及歩兵等昨夜より柏崎を捨逃走候様子相聞候ニ付、官軍進で柏崎ニ入り、要地を右拠す、賊二三里之間に盤路し、斥候三四十人を出す、官軍撃て之を退く
右三所戦争之概略ニ御座候
五月
死傷姓名
閏四月廿六日雷峠戦
官軍死傷十許人、姓名未詳
高田討死壱人
成瀬道弥
同手負二人
荒木岡作
新田岩二郎
同月廿七日小出島戦
長州討死六人
杉山篤太郎
伊藤俊三
山田藤五郎
大本昇
吉武五郎
清水甚蔵
同手負九人
元森熊次郎
松村新三
飯田伊之助
貞永卯之助
橋本九兵衛
田村次之助
田中与之助
梶山鼎助
前田和吉
薩州討死六人
松崎勘衛
佐藤林蔵
長静吾
臼井道斉
野崎半左衛門
児玉清兵衛
同手負八人
有馬誠之丞
松崎祐斉
高崎泰助
児玉源之助
東次郎太
上村緑揃
和田軍吉
夫卒 直左衛門
尾州手負壱人、姓名未詳
同月廿七日鯨波戦
長州討死二人
増野矢之助
早川文造
同手負五人
生雲平六郎
福良忠三郎
林市太郎
藤川虎之進
剣山三郎
高田討死三人
今井新左衛門
今井与作
京田啓次郎
同手負八人
水野滝之助
田中金之助
山本源蔵
小出豊吉
秋山新吉
幸三郎
幸山七十吉
夫壱人
加州即死五人
水上徳二郎
武井弥惣右衛門
供田小三郎
滝猪之助
壱人姓名未詳
同手負二十二人
高畠猪太夫
西村与三郎
竹村伝次郎
松本市之丞
辻金左衛門
山崎啓之助
千秋覚左衛門
清水権太郎
中山市之丞
安宅常三郎
高桑十左衛門
浦田直次郎
村尾六之丞
西村要助
松山喜十郎
橋本一之進
高橋熊次郎
高橋新三郎
大町弥八郎
鍋沢和吉
大西清作
石黒勘太夫
富山手負四人
上村善六
黒田文之丞
牧砲二郎
坂井弥右衛門
以上

江城日誌・慶応4年9号

江城日誌 第九号
慶応四戊辰年五月廿一日

五月十七日
○奥羽追討之藩々江御感状之写
奥羽之賊徒猖獗、白川城之要地ニ盤居し、益兇暴を恣ニし、官軍ニ相抗し候折柄、去ル朔日奮戦を遂、寡兵を以、忽賊徒を掃攘し、遂ニ城地を乗取、大ニ賊胆を破り候条深感賞候、尚成功之次第速ニ可遂
奏聞候、此上弥抽忠誠、鞠躬尽力可有之候、依而感状如件
慶応四年戊辰五月 大総督
薩州藩 隊長中
長州藩 隊長中
大垣藩 隊長中
忍藩 隊長中
右各通

芸州藩
其藩急々甲府表辺出張被仰付候条、彼地ニ而、万端東海道副総督府之指揮ニ随ひ当府ニ而打洩し候残賊、速ニ掃除可被致旨、被仰出候事

此程御届申上置候東照宮木主、上野事件之節、精鋭隊之者持運、小石川富坂住居罷在候寺社奉行并酒井安房守宅江遷座致し置、日々精鋭隊ニ而警衛為仕置候処、此度田安門内、元田安屋敷内江遷座仕、尤途中之儀ハ、十二三人ニ而警固致候、此段御届申上候、以上
五月
後見 徳川亀之助
松平確堂

五月十八日
各藩江御達之趣
当府内潜伏之残賊、最早退散ニ及び候条、明十八日より各藩ニ而、私ニ襲撃一切被差留候、尤巡邏斥候之ものより、賊徒見付次第書付を以中軍ニ可申出候、臨機御指揮可有之旨被仰出候事
五月十八日

上野山内討伐之節、戦争相働候藩々兵隊、明十九日御覧可被遊旨、被仰出候条辰半刻大下馬前ニ可相揃旨、御沙汰候事
○薩州、長州へ御感状之写
今般上野山内屯集之賊徒追討之節、終日奮戦忽及掃撃候条、深感賞候、尚成功之次第速ニ可遂奏聞候、弥抽誠忠勉励可有之、仍感状如件
慶応四戊辰年五月 大総督
薩州 隊長中
長州 隊長中
右各通

大音竜太郎
柴山文平
右軍監被仰付、上野国為監察被差遣候事
五月

因州藩
右残賊為掃除武州忍表出張被仰出候事
但軍監一人付添之事
芸州藩
右武州忍表出張被仰付置候処、被免今般甲府表江出張被仰付候事

諸藩兵隊当分之間、見付内外之市街、私ニ他行堅く被差留候、尤隊用之儀ハ可為勝手、万一微行之もの於有之ハ、市中巡邏之兵隊より可届出候様被仰付候事
但諸藩兵隊之者、町家ニ屯集、或ハ止宿等一切被禁候事

五月廿日
薩州藩
長州藩
因州藩
佐土原藩
右当府内残賊潜伏之聞へも有之候付、市街巡邏取締可致、尤猥ニ捕縛打捨等被禁候条賊徒見当り次第、急度取糺し申出候ハヽ、御指揮可有之旨、御沙汰候事
但五十員より二千員迄、以下小人数被禁候事

水野下総守
過日以来賊徒所々屯集いたし、民財を掠奪し、官兵を暗殺し、其凶暴至ざる処なし、依而追討被仰付散乱候得共、尚残賊屯集掠奪も難計候間、両総領地并近辺共、精々取締向厳重可致旨、被仰出候事

大村藩
筑前藩
筑後藩
佐土原藩
右明廿一日早朝より、武州青梅迄出張被仰付候条藩々申合、鏖賊候様、尽力可致旨、被仰出候事
筑州藩
右明廿一日早朝より医者一人、兵隊一同、武州青梅辺迄出張被仰付候事
筑後藩
右同文

大総督宮
江戸鎮台被仰出候事
橋本少将
大原前侍従
西四辻大夫
江戸鎮台補被仰出候事
新田三郎
小笠原唯人
江藤新兵
土方大一郎
江戸鎮台判事被仰付候事
北島千太郎
西尾遠江介
横川源蔵
江戸鎮台判事加勢被仰付候事
岩倉大夫
東山道総督被免、奥羽征討、白川口総督被仰付候事
同八干丸
右副総督被仰付候事
穂波三位
大総督府参謀被仰付候事
但錦籏奉行被免候事
河田左久馬
渡辺清左衛門
吉村長兵衛
右同下参謀被仰付候事
右之通被仰出候、夫々相達候事

宇都宮藩へ
過日来度々戦争尽力有之、殊ニ居城焼失定而思諸器械之不足も可有之旨召、小銃百挺下賜り候事
五月

江城日誌・慶応4年10号

江城日誌 第十号
慶応四戊辰年五月廿五日

五月廿一日
堀田相模守
頃日総房辺へ残賊出没、民心を悩し候段、不容易儀ニ付、速ニ出兵、前橋藩申合、鏖賊候様尽力可致旨、被仰出候事
五月廿一日
○伊州、因州二藩へ御感状之写
今度上野山内屯集之賊徒追討之節、遂勇戦忽及掃賊候条感入候、尚成功之次第速可遂奏聞候、猶此上敵愾之士気不相馳、弥勉励尽力可有之、仍感状如件
慶応四年戊辰五月廿一日 大総督
因州藩 隊長中
伊州藩 隊長中
右各通

信濃松代 真田信濃守
甲府城代職被仰付候事
五月廿一日

水野出羽守
上野山内敗走之賊徒、所々屯集未至平定駿州之儀ハ、要衝之地面候条、甲府城代被免、速ニ帰邑被仰付、府中城ニ而領内口々警衛之儀、近隣諸藩申合、厳重可相守旨、御沙汰候事
五月廿一日
五月廿一日着、野州出勢之肥州藩より来状書抜
真岡陣屋代官山内源七郎、陽ニ恭順之姿を顕し候ニ付、格段寛大之
思召を以、旧ニ依而、代官勤被仰付置候処、其掛り之手附ニ而、先般大田原へ会津賊兵之嚮導等致し候儀、普衆人之所知、其上官軍へ護送する之名儀ニて、会賊へ米穀等内分差送り、不遠内党類をも相集候由ニ付、其侭ニいたし置候ハヾ、賊勢益可致増長候ニ付、今十四日四ツ半時、左之通為取計候儀ニ御座候
真岡陣屋代官 山内源七郎
手附 三沢昇四郎
平田義助
松野裁右衛門
江並善太郎
右者打果、代官山内源七郎一人丈獄門ニ相掛陣屋等焼捨、所之名主等呼出し、得と申諭し、人心安堵家業尚又致出精候様、申達たる儀ニ御座候、尤出張人数左之通
土州 三原兎弥太
其外兵隊凡二十人
肥前 重松善左衛門
其外兵隊凡四十人
右為可申上如斯御座候、以上
五月 肥前藩

五月廿四日
青梅辺出張之諸藩へ御沙汰之写
青梅辺賊徒、速ニ退散候段、報知之趣、就而者筑後藩一ト手残賊為掃除、先当分残し置、惣軍悉く早々可引揚候、尤為念別紙之通近辺へ不洩様、布告可致旨、御沙汰候事
五月
別紙
甲武両野州辺諸在々、折々残賊出没、民財を掠、家業を妨げ候段相聞へ候、向後右体浮浪之者往来之砌、最寄百姓共、竹鎗或ハ猟銃を以、勝手次第可打取、尤多人数手ニ余候節ハ、出先兵隊へ可届出、処置可致候事
五月

永井肥前守
一手
右明廿五日より、上野山内取締警衛被仰付候条、早朝より出張可致候事
但市街より拾ひ物、差出次第可受取事
駿河田中 本多紀伊守
其方家来別紙姓名之輦、賊徒ニ党与し、去十五日上野山内ニおゐて敵対候段、重々不届之至ニ候、依之早々召取、何分之御所置可伺出旨、御沙汰候事
五月廿四日
小林助右衛門
其他六人
太田備中守
前同文
秋山七兵衛
其他二十人
松平右近将監
前同文
熊谷左織
其他九十三人

江城日誌・慶応4年6号

江城日誌 第六号
慶応四戊辰年五月十七日

五月十六日
○肥後より御届之写
当藩隊湯島より黒門江進撃候様被仰付候間、湯島より不忍池端黒門前へ進撃、夫より分隊仕、一隊ハ上野南手下谷より山内へ乗入、一隊は上野北より進入仕候、此段御届仕候
五月
深手 士分 高山秋蔵
同 歩之者 千田四郎右衛門
薄手 足軽 高野庄蔵
右昨日戦争之節、手疵迄、外小者ニ至迄、死傷無御座候以上
五月
○肥前より御届之写
昨十五日上野賊徒御誅伐ニ付、戦争之次第且戦死等左之通御座候、此段御届仕候
一、大炮二門
右者富山屋鋪へ相備、同所より上野黒門口台場并堂柵松藪之内等へ相備居候賊徒且弁天島へ相掛り参候賊徒之儀ハ、小銃を以打払候
一、小銃隊
右ハ最前御割付之通、本郷辺より攻入、だんご坂辺にて苦戦候得共、同所之儀長州其外兵士込合候ニ付、手を分二十人程、黒門口より山内へ薩州其外一同乗入候
討死 宮崎代助
中地藤太
手負 高岸文八
同 夫一人
以上
五月十六日 肥前侍従内 吉村謙助
○長州より御届之写
戦死之部 嚮導 佐藤左武郎
同 生瀬清見
久山寿太
池永小五郎
原房之助
藤井靖六
深手陣営ニ而死 内山久之進
深手之部 掠木直人
田中平九郎
永井房蔵
大庭佳蔵
佐藤辰三郎
右過ル十五日、戦争出人数、戦死、手負、前書之通ニ御座候、以上
五月 長州藩
○筑後より御届之写
一、昨十五日攻口之儀、千駄木坂下ニ而、長州勢苦戦之体ニ御座候間、横合より応援之心得ニ而、発炮仕候
一、根津権現之北ニ而、森際より賊小銃打出候ニ付、発炮仕候処、深樹之内へ入、何れ江歟退散仕候
一、右同日攻口之儀、被仰渡之通、富山屋敷より四ツ半頃迄放煙仕居候処、表面防戦堅固ニ付、敵之真横より打立候様、御使番より御差図御座候付、茅町池之端へ転陣仕形勢見計打込申候、尤小銃も兼而銘々手当仕罷在候ニ付、手隙より連発仕候
一、一昨十五日、金座警衛弊藩人数、千住迄巡邏仕候処、残賊煙鎗之隊伍相備、凡三十人計突出、弊藩之巡邏見掛、発炮仕候ニ付此方よりモ発炮仕候ニ付、賊退散仕候
一、一昨十六日、護国寺へ出兵仕候様、御沙汰御座候得共、金座へ繰出置候兵隊之内、直ニ出兵仕候付、少々及遅刻候処、最早残兵無之由ニ而、諸兵隊孰も引揚申候、右期ニ後れ候儀残念之余、同所へ踏込、吟味仕候内、前町人家へ罷在候賊、勤仕并寄合加藤下総守潜匿仕候付、主従討留申候
一、右両日戦争戦死手負左之通
手負 土田清摩隊 桑原文司
討死 上田兵次郎隊 肥部金三郎
右之通御達申上候以上
五月十七日 筑後 有馬蔵人
○大村より御届之写
上野屯集之賊、為討手大下馬江相揃、五字出陣、水道橋より本郷通、加州邸へ繰入半隊ハ根津惣門より突戦、半隊ハ水戸邸へ出、だんご坂手前、伏兵之賊と戦争、暫して地形悪敷ニ付、根津権現堂へ引揚小隊相会し、間もなく同所門前寺院へ、屯集之賊と相戦、夫より谷中、千駄木町、だんご坂辺ニおゐて始終戦争、追々相鎮、上野黒門山内等相敗、其手へ進候藩々、既ニ引揚候趣相聞候付、諸藩申合、六字頃巡邏相勤、引取候事
一、手負左之通
深手負 半隊長 宮原俊一郎
同 兵士 伊達守之助
同 同 池田小市
薄手負 同 根岸貞平
右之通御座候以上
五月 大村 渡辺清左衛門
○備前より御届之写
討死 半大隊司令官 大田万治廿一歳
同 銃隊 伊原儀左衛門廿五歳
同 同 内藤恵三郎廿五歳
同 同 尾関久五郎四十二歳
疵三ケ所 大砲隊司令官 三上留吉
内股二ケ所内一ケ所為搏貫疵
外〈陰嚢一ケ所為摶貫疵 羽織四ケ所〉
右小銃疵
同九ケ所 銃隊 妹尾卯太郎
内〈頭上一ケ所 右ノ手二ケ所〉
右〈左ノ手一ケ所 刀疵〉
〈陰嚢一ケ所 左右ノ股四ケ所〉
右鎗疵
同一ケ所 同 松田松三郎
左ノ手浅疵
同一ケ所 同 片山言一
右ノ手浅疵
同一ケ所 同 山本弥太郎
左鬢浅疵
右三名共小銃疵
右者上野おゐて戦争之節、討死并手負之者共御座候、此段御届申上候以上
五月 備前侍従内 薄田兵右衛門
○佐土原より御届之写
上野ニ而戦争之節
能勢惣之進
右之通御座候以上
五月 佐土原藩
紀藩兵士 亀井卯吉
右十五日戦争之節討死仕候
島本亀右衛門
右同断之節手負申候
山崎熊八
右同断之節、何れニ而討死仕候哉相知不申、色々探索仕候得共、未相分不申候
右之通御座候以上
五月 紀藩隊長 和佐類之助

以下橋本本になく原本に表記
(匡郭外)
五月十六日之記事未余りありて尽しかたきにより猶第七号に続出す

江城日誌・慶応4年12号

江城日誌 第十二号
慶応四戊辰年五月廿五日

五月廿五日
水野出羽守
本多紀伊守
滝脇丹後守
今般徳川亀之助、駿府城主ニ被仰付候間兼而用意可有之旨、御沙汰候事
五月
右各通

五月廿六日
北陸道総督府より之来状書抜
抑於北越小千谷長岡道、去ル十日ヨリ攻撃、薩、長両藩、加州、高田、信州、尾州等進撃、賊軍強勢ニ而、苦戦打続候得共、去ル十九日、長州勢千曲川打越乗入、引続諸藩進撃ニ而、同日巳刻後長岡城町在共焼亡仕候、残賊之儀も、廿日朝迄ニ尽く散乱いたし、八十里越と云奥州地へ之間道へ引栃尾と云所へ相集候様相聞候、追々追撃之手配いたし居申候、此度之戦、官軍之死傷不少賊之死傷ハ又倍々有之趣、近来之大戦ニ御座候、長岡落城ニ付、追々右城下江操込居申候、先右迄不取敢御注進申上候巳上
五月廿二日

薩藩より之届書
去ル朔日、白川城攻落し候節、取討之賊兵死骸、追々取調相成候処、都合六百八十二人ニ相及候段、彼表出張之同藩ヨリ申参候間此段御届申上候、以上
五月廿六日
薩摩藩

五月廿七日
軍監木呂子善兵衛、越後表為監察、急速出張被仰付、薩州、長州以下戦争之藩々へ下賜候御感状持参、今廿七日出立之事
○薩州へ下賜候御感状之写
会津其外之賊徒共、北越所々之要地ニ盤踞し、兇暴猖獗、以て官軍ニ抵抗する之折柄屡遂勇戦、殊ニ去ル十日より、十九日ニ至り、連日之苦戦、頻りニ賊徒を掃撃し、遂ニ長岡城を乗取候段、深感賞候、成功之次第ハ速ニ可遂
奏聞猶此上一際抽忠勇、勉励尽力可有之、仍て感状如件
五月
○長州へ同断
会津其外之賊徒共、北越所々之要地ニ盤踞し、兇暴猖獗、以て官軍ニ抵抗する之折柄屡遂勇戦、殊ニ去ル十日より、連日之苦戦頻りニ賊徒を掃撃し、遂ニ十九日千曲川を打越先登し、長岡城を乗取候段、深く感賞候、成功之次第ハ、速ニ可遂
奏聞猶此上一際抽忠勇、勉励尽力可有之、仍て感状如件
五月
右各通
徳川江御沙汰之写
一、徳川亀之助方ニ而扶持いたし候分相除、朝臣ニ相願候もの共、姓名格式等相認可差出候事
五月

一、町奉行組与力同心之輩、自今鎮台府附被召出、禄高扶持米等是迄之通被下置候事
五月

品川侍従
今川侍従
前田侍従
同源十郎
六角主税
名代弟 六角由太郎
右自今朝臣ニ被仰出候事
五月

市政裁判所より伺之写
今般市政裁判所被建置候ニ付而ハ、向後於市中乱妨之者有之候節ハ、士と雖とも、御作法通り、裁判所手先之者を以、取締候心得ニ御座候、此段奉伺候以上
五月
掛紙
可為伺之通事

五月廿八日
武州飯能出張之筑後藩ヨリ御届之写
去ル廿三日、賊徒飯能中山江屯集、其外最寄村々ニ罷在候趣ニ付、藩々申合、筑前藩一同押寄、討入候得共、賊徒逃去候ニ付、同寺焼払、飯能村へ押寄候処、賊徒森陰、民家抔より砲発致し候ニ付、分隊仕、藩々一同打払申候、此段御届申上候
五月廿七日

江城日誌・慶応4年13号

江城日誌 第十三号
慶応四戊辰年五月三十日

五月廿九日
小田原出張軍監より文通写
然者去ル廿七日午刻大磯駅迄着陣、夕方加賀守家老岩瀬大江之進、年寄蜂屋重太夫、留子居郡権之介、三ケ条問罪御答として罷出、謝罪之書面差出候得共、期限延引ニ相成候上、一ツとして条理相建候儀無之、曖昧之事而已ニ而、不憚朝威次第、厳敷叱付、御答不分明之儀有之ニ於てハ、速に居城を屠り、加賀守始家来共不残、可致誅戮旨、御沙汰ニ候間、直ニ進撃可致間、早速罷帰り、防禦之手当可致様申渡候処、大ニ恐縮仕、何分ニも謝罪之実功相立候ニ付、寛大之御沙汰を蒙り度、只管歎願仕候得共、強弁無益、速ニ立去り候様申聞追放申候、従是先馬入ニ長藩、中原村ニハ備州藩小隊を残し置、伊州、備州両藩より、一小隊宛、酒匂川岸へ、為斥候隊進軍致し候処、川役人共打寄、仮橋為掛居候最中ニ而、大ニ都合宜敷、早々進軍致し候ニ付、諸隊不残進軍、直ニ城下ニ入申候、備前藩ハ、酒匂川上飯泉と申所へ廻り、夫より渡り、同城下ニ入申候、然処大久保重役共、精服ニ而出向、哀訴仕暫時打入見合呉候様、段々及嘆願候ニ付攻撃見合、入城仕候処、加賀守ハ菩提寺へ引取、謹慎罷在候段申聞候ニ付、直様参上可致旨申渡、彼是仕居候内罷出候ニ付、三ケ条及糾問候処、一々奉恐入、全く不明にして奸臣ニ委任仕置、今日ニ至候段重く奉恐入候、此上ハ如何様ニ被仰付候共、聊以申上訳更ニ無御座、深悔悟仕、謝罪之実功相立挙家出兵仕、先刻より賊兵を追撃為致置候ニ付、何卒寛大之御処置被仰付度旨、再三歎願仕候ニ付、先ツ攻撃相止、同人ハ菩提寺ニ而謹慎、居城請取弾薬、器械為差出申候、且同人兵隊之者共ハ、先刻より箱根口へ出張致し居候ニ付為点検各藩一小隊ツヽ、尾行進軍、午中刻より大久保兵隊戦争相始、五字二点迄砲戦致し居候得共、勝敗不相分、同隊手負即死追々有之候ニ付、四藩申合、一時ニ進軍、四点之中ニ、賊兵大敗、山崎村迄追撃致し候処、日暮ニ及び候ニ付、惣軍をまとめ、大久保兵隊を番兵ニ残し、長、因両藩兵隊、風祭村ニ屯集、備、伊両藩ハ小田原迄凱陣仕候、手負打死別紙之通御座候間此旨問罪督府江可然御達被仰上可被下候、且昨日之所ハ因藩より之別紙ニ相譲り申候、尚委細ハ、使口頭ニ托し候間、御聞取可被下候
一、右之次第ニ而、出兵致し候事故、機械取集、甚手間取申候、依之今日は大久保兵隊不残引上、器機相揃候覚悟ニ御座候間運送船早々御廻し可被下候
一、謝罪実功相建候得共、家老年寄斬罪当然之儀ニ付、明日申渡候心得ニ御座候、首級ハ如何可仕哉、此段相伺候
一、件々相済候上、函嶺ニ兵隊相残し候哉、且軍監附属之兵隊相残し不申而ハ不相成儀と奉存候、此辺も相伺度候
一、市民撫育之儀ハ、加賀守家来共、乍慎相勤、旧蔽を去り、鎮撫之実功相立候様申付候
右之段御報知申上度、如斯ニ御座候
五月廿八日
小田原出張因藩より文通書抜
去ル廿七日、進軍之次第廿六日残賊追討之都合ニ候処、兎角大久保藩兵気甚鈍く、全前日之戦争ニ恐縮仕候様子ニ見請候得共、実行成丈相建させ申度存寄ニ而、種々説得候処、追々相進ミ、漸四字ニ至り、箱根宿へ着、賊兵ハ九字頃ニ右箱根迄引揚、兵糧等相遣ひ、三島宿あたみ之方へ落去仕候由ニ相聞申候、始終兵気之不進故、跡々ニ相廻り、実ニ残念之至ニ候、尚又其より右三島あたみ之両道へ分隊為致繰出し候処、残賊之内、林昌之助一手と相見候者、箱根宿外れ山上ニ、三十人計、大砲一門、小銃一挺宛相携、休息致し居候様子ニ而、右小田原藩へ向、砲発仕候処、散々馳帰り候ニ付、尚又跡より追建、押而山上へ為進候処、人数之内、兼而強壮之者と被存候者、両三輩も抜刀、真先江相進ミ候処、跡より追々相進候者も有之、生捕両人、及打取六人、所持之器械等者、不残分捕相成申候、其後も大島と申処、三島道之由、賊徒一小隊計屯集之由ニ付、直様夕方繰出し置申候、尤あたみ路江も同様之事ニ候、右分捕之内、少々手掛り之書面も有之候ニ付、直様小田原表江備藩同断罷帰申候
五月廿八日
因藩 足立勘四郎
別紙
手負 長藩 松岡梅太郎
因藩 井上静夫
梶浦清蔵
佐々木永之丞
大久保家より差出候届書写

薄手 家老 渡辺了叟
同格 吉野大炊介
番頭 山本主計介
深手 足軽頭 松下舎人
小与頭 小川小右衛門
討死 銃士 石川鎌治
片桐左仲
鈴木久太郎
深手 奥平兵庫
飯野数衛
牧野半吾
薄手 村田吉之介
片桐久太郎
岡島峰衛
山下江並
里見粂之丞
大西藤四郎
坂部弥一郎
河合健三郎
小早川丹造
大木錠四郎
村山徳三郎
討死 徒銃隊 高橋藤太郎
右者昨廿六日午中刻より之戦闘ニ而、打死手負等如此御座候以上
五月 大久保加賀守家来 郡権之助